「7月18日(トラフズク) グラフレックスに210ミリをつけて、カラマツ林に入る。林を出はずれるあたりで、トラフズクのシルエットを見る。林の中を追いまわし、3枚撮る。林の地上で、2個のノネズミのペリットと拾う。トラフズクが吐き捨てたものにちがいない。どこで狩りをするのだろう。牧草畑かもしれない。もし、小枝を立てておけば、その上にとまらないだろうか。今夜も、川岸にエゾセンニュウのさえずりがきこえる。」 周はじめ『鳥と森と草原』(1960年 法政大学出版局)p.81“撮影ノートより”
根室原野を想いつつ、そこに周はじめをおいて撮影ノートの順を追うと、一人と一羽の撮影の駆け引きが読めてくる。
私がバードウォッチング始めた昔は、今日とは違って、トラフズクが見られるなんて思ってもいなかった。あの頃の私の憧れの鳥が周はじめのカメラに捉えられていた。それを選んでみた。
この写真も前回同様、『現代日本写真全集 第8巻動物作品集』(1958年 創元社)に未発表として収録されている。同じ場面の他の2枚の写真は『鳥と森と草原』でご覧になった方もあろう。
撮影データ:グラフレックス テッサー210mm F4.5・ネオパンSS・絞りf11・1/50秒・Y1フィルター ミクロフアイン
消息が知れないままに50年ほどがたった。BIRDER誌に掲載されたノゴマの記事の著者が、吉田元とある。その人が昔の周はじめだと教えられた。躊躇しながらかけた電話の向こうに、懐かしいお声があった。私のことを覚えていてくださって、半世紀もの空白を埋めるボルテージがお互い一気にあがった。いきなり35分もの長電話。
直後に大病を患われ、それから亡くなるまでの1年たらず、吉田元との短かすぎる得難いおつきあいがあった。
名前を変えたわけを尋ねても「周はじめは死んだ。あんなヤツは知らん。」 1回ならずお聞きしたが、とりつくしまがない。幸子夫人や親交の深かった写真家秋山忠右先生でさえご存知なかったのである。写真の作風に関連がありはしまいかとの私の詮索は、答えが得られないままとなった。
吉田元が逝って数ヶ月たってからのことだった。『私・吉田 元は平成十七年四月二十五日 くたばりました』に始まる辞世の手紙が届いた。故人からの便り、鳥肌立つような感慨深いもので溢れていた。そんな美学を秘めた吉田元にニヤリと涙した。私ごときに計り知れる人物ではない。
没後に2冊の写真集、『神々の残映』『北回帰線の北』(2006年 冬青社)が出版された。前者が沖縄の八重山で1963年に、後者がその続編ともいうべきもので1988年から2001年にかけて撮影されている。
私は、生前お宅に伺った際にそれらを拝見していた。ビニール袋から出された2冊は、出版を想定したプロトタイプとして、写真も文章もレイアウトも総て手づくりで出来上がっていたものだ。
最も驚かされたのは、貼られた一枚一枚のモノクロ写真だった。そこには吉田元の思想が具現化されていた。目を奪われた。鳥を被写体にしたものは数葉しかないが、生態写真の域を超えていた。思想あっての作品に芸術性が宿る。単なる生態写真にとどまっていない。
根室原野を1957年に去って1963年の間に、“周はじめの写真”になにが起きたのであろうか。いや、“吉田元の写真”がどこから登場したのだ? 私には嬉しいショックであった。
疑問は再燃した。
最果ての原野で周はじめが撮った野鳥の生態写真と端麗につづる文章こそ、下村兼史のそれと同じく、周はじめの真骨頂と私はうけとめていた。ところが、2冊の写真集に代表される“吉田元の写真”がいつの頃からか存在していた。この見事なまでの写真表現の転機は、やはり周はじめから吉田元への葛藤あってのものではなかったのか。
それには答えず、幸子夫人は未出版の別の手づくり写真集をとり出してみせてくれた。吉田元ご自身からも見せていただいたことはあったが、その時は50年ぶりの再会で興奮し、私の記憶からすっ飛んでしまっていたものである。
表紙には、急勾配の三角屋根の小屋がなにごともなげにポツンと建っている原野の風景写真。タイトルは『原野 1953‐1977』。
目をむいた。“吉田元の写真”がすでにそこにあったのだ。その時代こそ周はじめのカラスの時代だったのではなかったのか・・・。
これでそれまでの私の推測はひっくり返ってしまった。“吉田元の写真”は根室原野の初めから脈々と流れていたのだ。むしろ、“周はじめの写真”こそが、映像作家吉田元の歩んだ道の迂回路のような産物であったとみねばなるまい。
周はじめが野鳥の生態写真を撮るきっかけは、下村兼史をサポートしていた鳥学博士内田清之助を仲介して下村兼史に会ったときだった。「あなたも鳥の写真を撮ってみたらーー」の一言。リコー80mm F3.5のレンズをつけた質流れのリコーフレックスを小遣いためて買った。1951年、生まれて初めて撮った多摩川のコアジサシのプリントを下村兼史にみせたところ、「ホォ! これはいい」と言われ、“ポオッとなった”ことに始まる。
大先達の下村兼史と下村兼史のモノクロ写真に傾注していた周はじめが、野鳥の生態写真に熱中したのは当然すぎる。生態写真が鳥学の進歩に貢献できると考え、そのよき理解者であった内田清之助は、野鳥の写真が絵画などの芸術の素材を提供することには理解を示したが、生態写真そのものの芸術性を指向してはいなかった。学者らしくあくまでも科学的な写真である。下村兼史と内田清之助の影響を受けながら、周はじめはまず自然にあるがままの野鳥の生態写真を撮り始めたのは、自然の流れとみねばなるまい。
疑問は疑問として残る。周はじめの生態写真時代に、芸術味あふれる“吉田元の写真”魂はどうして爆発していなかったのであろうか。
古くからの、そして短いおつきあいであったが、どうも周はじめにしてやられ、吉田元に映像作家魂をみせつけられて、はじめて私は目が覚めたようだ。何といおうと、周はじめも吉田元も私の中でかけがえのない存在なのである。
最後の最後ですが、敬称は省かせていただきました。えらそうに済みません。