今月の一枚 らくがき帳 会社概要 ご提供 ・ 貸し出し サンプル写真 ビーパ ショップ リンク
原野をいくタンチョウ
撮影◆塚本洋三
1960年3月
北海道阿寒町

 新年正月。タンチョウの出番である。
 一時は絶滅したかと思われたタンチョウ。1924年に釧路地方の鶴居村ツルハシナイ湿原で10数羽の生息が確認され、地元の農家の方々に始まった積年の保護活動のお陰で、今日では北海道東部で1000羽を超えた。
 越冬期の給餌場にタンチョウを訪ねると、必ず群れが見られる。東京にいて、北海道のどこへ行けばタンチョウに出会えるものかと思案したのは、昔の話。
 私が大学生であった50年ほど前、タンチョウが天然記念物に指定されている釧路は山崎定次郎さんという方のお宅を目当てにとにかく訪ねてみた。事情をお話して一晩泊めていただいた翌朝、やっと会えた6羽のタンチョウ。忘れがたいはそのひとときと山崎さんのご親切。
 リトレック一眼レフカメラにテッサー210mmの望遠レンズでは、タンチョウはファインダーに小さな6つの白点でしかない。それが返って人里近く野生にあるタンチョウの姿をとどめ、その時の感激を今に呼びさます一枚となっている。

タンチョウ写真のあれこれ

 野鳥で一番カメラに納まった種といえば、タンチョウをおいて他にはあるまい。
 昔、はるばる東京から訪ねた山崎さん宅付近はすっかり様変わりして、1977年に阿寒町タンチョウ観察センターが、1996年に阿寒国際ツルセンターが開館し、賑わう鶴見客とともにカメラマンが望遠レンズの砲列をしく。
 かつて野鳥生態写真も撮る高野伸二さんが東京から観察センターを訪ねた時、横一列になってタンチョウを狙うカメラマンの混雑ぶりにビックリ。ツルが羽ばたきでもしようものなら一斉にバシャバシャバシャバシャとシャッターが切られる音に、二度ビックリ。すっかり写真を撮る意欲が失せたという。タンチョウとの対話もなしにただシャッターを押しまくって、どこに生態写真を撮る醍醐味があるというのか。とうとうご自身はカメラをリュックから取りだすことなく帰京されたと伺った。
 プロならどんな状況であれ、売れる写真を撮ってくるのがプロだ、というご意見もあろう。プロはプロでも高野さんは、撮影対象の野鳥の気持ちを思い計ると同時に、ご自身が撮影を楽しむ心も大切にした人である。

 今月の一枚に選んだタンチョウは、古いネガケースを探し当ててみて、我ながら驚いた。初めて見るあこがれのタンチョウなのに、なんとこの1枚しかシャッターを切っていなかったのである。
 ロールフィルム1本6x7cmで10枚撮りということもあって、ムダにフィルムを使えない気分ではあった。それだけに、ここぞと狙うシャッターチャンスにかける1回1回のシャッターの重みは、デジカメでバシャバシャ湯水のごとく撮りまくる今の撮り方とは比較にならないものがあった。
 あの時は、鶴たちの動きを読みながら先回りしてまず構図を決め、“こっちへ来い、そうだ、ゆっくりこっちへおいで、かたまらないで一列に歩いて”とファインダーを覗きながら心の中で祈りつづけ、“よし、ここだっ”と同時に人差し指がシャッターボタンを押していたのだった。
 時代とメカの違い、ワンチャンスに1枚か数百枚か、どちらがいい悪いではないが、野外で野鳥を撮る楽しみは高野さんに負けずに味わってきたと思う私は、古き時代の野鳥の撮り方をいずれ書き残しておくのもよかろうかと思っている。

 古いタンチョウの写真で思い出すのは、1935年11月にロンドンは大英博物館で開かれた国際自然写真展覧会(カントリー・ライフ社主催)。日本から出品された55点の中に、島田謹介のタンチョウ親子3羽が佇んでいる今見ればなんでもなく思える写真と、今はなき原生釧路湿原が写された、それまで知られていた唯一の営巣地環境の2点がある。
 古本屋でたまにみつかるが、日本鳥学会編纂「日本鳥類生態写真図集」(巣林書房 1935年)に掲載されたこの2点をみると、当時の撮影事情からしてご苦労がしのばれ胸が熱くなるのを覚える。

 時代は変わってもタンチョウは写し続けられ、プロアマを問わず、恐らくどの種よりも多くの写真集が出版されているのではあるまいか。
 古いところでは岩松健夫の「丹頂鶴」(雪華社 1966年)。1955年10月に釧路は大楽毛の牧場をかける親子3頭の馬を追うように低く飛ぶタンチョウ4羽の写真は、北海道らしい風景として私の記憶に刻みこまれている一枚。

 被写体としては申し分のない優雅なタンチョウだけに、美しさばかりでなく深く対象に迫る写真を期待したい、と思うだけで楽しく夢はふくらむのである。夢を壊すような撮影マナーに反した写真はお断りであるが。

BPA
“シャトツ”に浮かぶ、湖岸一線の白鳥
1960年以前に撮影?
福島県猪苗代湖
写真凸版寄贈◆増田直也
この写真情報をご存知の方、ご一報を
 同じ写真がBIRDER誌2007年11月号のARCHIVESのページに載っている。呼びかけた期待に反し、撮影者や掲載誌とかの情報は今のところどこからも反応がない。一幅の絵のような画像を再度ここに紹介させていただく。

 この写真のモトはなにかというと、用途不明の“木っ端”にあった。勤務先の倉庫の大掃除で廃棄処分される寸前に、なんだか分からないがそのまま捨てるには惜しいと増田直也さんが拾い上げたてしまっておいたもの。数10年ぶりに思い出して見れば、どうも写真に関係するものらしいとバード・フォト・アーカイブスにご寄贈くださった。
 古道具風の厚板(80 x 168 x 23mm)に糊づけされた約0.5mm厚の銅版の表面に、ネガに相当する像が浮いて見える。どうも一列の白点は白鳥のようだ。ままよと銅板から強引にデジタル化して得られたプリントは、ご覧のとおり。

 どこで誰がいつ? 船上から? 機材は? 雲をつかむような興味が湧く。探索開始。
 背景の山容から、山好きがみれば一発だ。山が割れれば海岸だか湖も芋づるとなる。心当たりの山男は?・・・。その前に白鳥からと、まずプリントを山階鳥類研究所に持ち込んだ。予感的中。
 標識室の佐藤文男さんがこれではと取り出した写真は、猪苗代湖の中田浜から撮影された磐梯山。湖岸の黒々とした森までそれらしく見える。とすると野口記念館のある猪苗代湖の北岸らしい。そこは天然記念物の白鳥渡来地として最初に指定されたところ。飛ぶ白鳥はオオハクチョウか。現在は猪苗代湖全域が指定されているが、オオハクチョウは南岸の崎川浜(さっかはま)で主に冬を過ごしている。明快な説明に、感激、感謝。
 昔の撮影で北岸を飛ぶ白鳥は、それなりに歴史的な価値のある写真となるようだ。

 寄贈された“木っ端”は大小11個。お宝と思われるトキやコウノトリの“銅板ネガ”も。人物ものをよくみると、外人さんの雰囲気はどこかで覚えがある。果たして、その写真が「野鳥」誌通巻202号(1960年)の口絵に載っていた。私の記憶も捨てたものではない。東京で1960年に開催された第12回国際鳥類保護会議のものだった。
 予期せず同時に身元が割れたのは、同じ口絵に掲載された絶滅寸前のトキの写真。小佐渡の黒滝で育つ3羽の雛が後藤政彦氏によって撮影されたもの。奇しくも“木っ端”の銅板に浮かぶトキとまったく同じであった。
 キャプションには「(無事3羽とも巣立ったことは)近頃の大快報で、国際鳥類保護会議代表一行と共に北海道旅行中の山階博士へ東京から即時報告、外国代表一行にも喜んでもらえたのは幸であった」とある。
 大胆に推定して、時を同じくして拾われたすべての“木っ端”銅板がその頃に同じような印刷目的に作製されたとすると、猪苗代湖の白鳥は1959−60年の冬以前に撮影されたものではなかろうか?・・・
 誰が撮影されたのかは推測しようがない。

 “木っ端”の正体は、東京飯田橋の印刷博物館で学芸員の川井昌太郎さんと中西保仁さんの解説によって明らかになった。1960年代後半から70年代まで現役だった印刷技術として凸版印刷に使われたもので、写真部分用なので写真凸版(通称シャトツ)と呼ばれる。銅板に感光性の幕がはってあり、銅板のままだと薄くて組み版のとき高さがあわないので、まわりの活字との高さをあわせるために木片で「ゲタをはかせた」そうだ。これがインクの染みた”古道具”であったわけだ。シロウト目には、ゲタの裏に貼られた紙が気になったが、これにも機能があって、紙の厚さで微妙に高さを調整したという。つまらないところに妙に感心しつつ、印刷博物館の存在と学芸員のご指導を有難く思った。

 寄贈された“シャトツ”は、バード・フォト・アーカイブスで大事に保管させていただくとして、撮影者が判明し今回の「シャトツ事件」の発端となった増田さんを交えて撮影談義に花を咲かせたい夢は、捨てきれないでいる。

BPA
25年前の南硫黄島
撮影◆塚本洋三
1982年6月11日
マリンたかさい(231トン)より

 近年、海鳥ウォッチングクルーズなどで南硫黄島を眺めた人にはすぐに見分けのつく独特の島影である。今も25年前も、なんら変わらなく思える島影。
 太平洋上に巨大な三角おにぎりが腰を据えてしまったような、数10mから100−200mの断崖絶壁が島の周囲のほとんどを囲む。そこは他の陸地と史上一度も陸続きになったことのない「海洋島」。絶海の孤島と呼ぶに相応しいこの島に辿り着いた生きものの独自の進化や生態系は“世界遺産”なのだ。常には山頂部が濃い霧に覆われ、雲霧帯の樹林からはキングコングが現れるような想像をかきたてられる。人間はほとんど立ち寄ったことがない。海鳥の楽園、原生自然の島。

南硫黄島の継続的な学術調査を

 小笠原諸島のさらに南に火山列島がある。3島から成り、北から北硫黄島、中硫黄島(日米激戦の硫黄島のこと)と続き、最南の南硫黄島は台湾と同じくらいの緯度にあたる。周囲約7.5km、標高916m。円錐型の島全域が、1975年に原生自然環境保全地域に指定された。

 真水のない島、南硫黄島と人間との関わりは、ほとんどないままに現在に至っている。1543年といわれる発見以来、上陸したとか上陸できなかったという記録は、数えるほどしかない。
 人間が島に漂着したのは1886年3月に遡る。漂流した帆船「松尾(王?)丸」の乗組員6人は、餓死するよりも命拾いの可能性を選択して島を去った。乗客3人は決意してそのまま島に残留し、3年後の1989年8月に漁船「新栄丸」に“およそ人間とは思われない姿”で救出されている。
 初登頂は1936年3月、「海幸丸」で来島の植物学者が上陸、植物の調査をして山頂に達した記録がある。以来、測点標識の設置などのため数回の上陸があっただけ、まったくの無人島。
 1981年6月、日本シダの会の8人が2日間上陸し、最高到達点は130m。
 翌1982年6月、環境庁の南硫黄島原生自然環境保全地域学術調査隊18人が上陸し、11日間の滞在中に全員が46年振りの登頂に成功した。私もその一人だった。
 四半世紀がたった。今年(2007年)6月、東京都と首都大学東京の学術調査隊23人が11日間島に滞在し、1982年と同じルートを辿って三度目の登頂に成功した。

 1982年の調査隊に鳥類班として参加した私は、数少ない登頂経験者として今回の調査をできるだけサポートする責任を感じていた。出発前と後とのK隊員との情報交換は、それぞれ3,4時間にも及んだ。飲み食いしながら南硫黄島一色の話に終始し完全に盛り上がったのである。
 今回、山頂部でのセグロミズナギドリのコロニーの新発見は、鳥類関係者には特記すべきことである。何故1982年に発見できなかったのか、私自身には合点のいかないところではあるが。
 一番驚かされたのは、海上から見た目には25年後の今も変わらないようにみえる三角おにぎり島が、実は上陸してみてその原生自然が変わってしまったようなのだ。人為の影響がまず無い島で自然環境はそれほど変わりようがないとの先入観はあったが、私の経験と今回K隊員から聞く話とでは、どうも食い違ってしまうのだ。互いに納得するようになるまで、何度同じことを話し確かめあったことか。
 特にコル上部の豊かな林相が貧弱になったようで、また島周辺の崩落がどうにもひどかったようである。1982年調査隊が安全に快適に過ごしたキャンプサイトは、ひどく荒れてしまって使えなかったという。今回は、崩落が少ないと思われる断崖に“守られ”波打ち寄せる礫と巨岩の巾狭い海岸部で、落石とかぶる波の両方を心配しながら不安のキャンプ生活を余儀なくされたという。なんでそんな危険そうな場所を選んだのかと聞けば、そこが一番安全と判断したとのこと。
 25年前、私のテントの入り口すぐ近くにアカオネッタイチョウが抱卵していた。島南端の南崎に設営されたベースキャンプが「王様のキャンプ場」なら、同じ海岸少し西寄りの今回は、ヘルメット常時着用のさしずめ「地獄のキャンプ場」といった感じを受けた。ただでさえ大変な孤島で今回の厳しい状況下のキャンプ生活とフィールド調査は、想像するに余りあった。調査結果もさることながら、全員無事でなによりであった。
 いかに海岸部の環境が変化したかは、1982年にベースキャンプに建ててきた「南硫黄島原生自然環境保全地域 環境庁」の丸太の標識が、崩落で無くなってしまったという一例で伺えよう。標識は、その下部を隊員が積み上げた岩でがっちり支え、孤島でまさかと目を疑ったコンクリート(?)を流しこんで固められたものである。まずは誰も来ないのに、沖を通る船から見えるほどのやけに立派なものを環境庁は建てたものだと恐らく隊員の誰もが思い、誰もがそのデキ具合に満足感を覚えたのだった。それが、25年後には跡形もなかったとは!

 原生自然とはなんなのだろう? これほどまでに人手の加わっていない環境でも移り変っていく。25年間隔の調査では把握しきれない自然環境の変化を思い知らされた今回の調査結果の一端であった。
 調査間隔には議論の余地があろうが、環境省たるもの、例えば10年に1度はきっちり予算化された総合学術調査を実施できないものであろうか。すべきである。
 今日、ほとんどの自然が人為の影響を受け、自然本来の姿が消え、自然環境を基準とする判断材料を人間は失いつつある。そんな中で、日本の原生自然の生態系やその変化を知るてがかりとなる貴重な南硫黄島を継続調査することには、人間の未来を左右しかねないほどの計り知れない価値が在る。人間の上陸さえが最小限にとどめられるべき原生自然の南硫黄島ではあるが、1982年と2007年で今後に比較し得る調査結果がやっと蓄積され始めた。必要最小限の学術調査が、原生自然環境保全地域を指定した環境省の音頭で定期的に継続されて然るべきと考える。

 文献や知り得た調査結果の断片を基に間違った記述がここにあれば私の責任であるが、今回の調査で感じた基本的に大事な継続調査の視点はそれほど外れていないと思う。
 最後にお願いだ、南硫黄島よ、人間にも環境省にももっと知恵と判断能力を授けてはくれまいか。

BPA
トラフズク
撮影◆周はじめ
1957年7月中旬
北海道根室原野

 「7月18日(トラフズク) グラフレックスに210ミリをつけて、カラマツ林に入る。林を出はずれるあたりで、トラフズクのシルエットを見る。林の中を追いまわし、3枚撮る。林の地上で、2個のノネズミのペリットと拾う。トラフズクが吐き捨てたものにちがいない。どこで狩りをするのだろう。牧草畑かもしれない。もし、小枝を立てておけば、その上にとまらないだろうか。今夜も、川岸にエゾセンニュウのさえずりがきこえる。」 周はじめ『鳥と森と草原』(1960年 法政大学出版局)p.81“撮影ノートより”

 根室原野を想いつつ、そこに周はじめをおいて撮影ノートの順を追うと、一人と一羽の撮影の駆け引きが読めてくる。
 私がバードウォッチング始めた昔は、今日とは違って、トラフズクが見られるなんて思ってもいなかった。あの頃の私の憧れの鳥が周はじめのカメラに捉えられていた。それを選んでみた。
 この写真も前回同様、『現代日本写真全集 第8巻動物作品集』(1958年 創元社)に未発表として収録されている。同じ場面の他の2枚の写真は『鳥と森と草原』でご覧になった方もあろう。

 撮影データ:グラフレックス テッサー210mm F4.5・ネオパンSS・絞りf11・1/50秒・Y1フィルター ミクロフアイン

周はじめと吉田元はじめと私II

 消息が知れないままに50年ほどがたった。BIRDER誌に掲載されたノゴマの記事の著者が、吉田元とある。その人が昔の周はじめだと教えられた。躊躇しながらかけた電話の向こうに、懐かしいお声があった。私のことを覚えていてくださって、半世紀もの空白を埋めるボルテージがお互い一気にあがった。いきなり35分もの長電話。
 直後に大病を患われ、それから亡くなるまでの1年たらず、吉田元との短かすぎる得難いおつきあいがあった。

 名前を変えたわけを尋ねても「周はじめは死んだ。あんなヤツは知らん。」 1回ならずお聞きしたが、とりつくしまがない。幸子夫人や親交の深かった写真家秋山忠右先生でさえご存知なかったのである。写真の作風に関連がありはしまいかとの私の詮索は、答えが得られないままとなった。
 吉田元が逝って数ヶ月たってからのことだった。『私・吉田 元は平成十七年四月二十五日 くたばりました』に始まる辞世の手紙が届いた。故人からの便り、鳥肌立つような感慨深いもので溢れていた。そんな美学を秘めた吉田元にニヤリと涙した。私ごときに計り知れる人物ではない。

 没後に2冊の写真集、『神々の残映』『北回帰線の北』(2006年 冬青社)が出版された。前者が沖縄の八重山で1963年に、後者がその続編ともいうべきもので1988年から2001年にかけて撮影されている。
 私は、生前お宅に伺った際にそれらを拝見していた。ビニール袋から出された2冊は、出版を想定したプロトタイプとして、写真も文章もレイアウトも総て手づくりで出来上がっていたものだ。
 最も驚かされたのは、貼られた一枚一枚のモノクロ写真だった。そこには吉田元の思想が具現化されていた。目を奪われた。鳥を被写体にしたものは数葉しかないが、生態写真の域を超えていた。思想あっての作品に芸術性が宿る。単なる生態写真にとどまっていない。
 根室原野を1957年に去って1963年の間に、“周はじめの写真”になにが起きたのであろうか。いや、“吉田元の写真”がどこから登場したのだ? 私には嬉しいショックであった。

 疑問は再燃した。
 最果ての原野で周はじめが撮った野鳥の生態写真と端麗につづる文章こそ、下村兼史のそれと同じく、周はじめの真骨頂と私はうけとめていた。ところが、2冊の写真集に代表される“吉田元の写真”がいつの頃からか存在していた。この見事なまでの写真表現の転機は、やはり周はじめから吉田元への葛藤あってのものではなかったのか。
 それには答えず、幸子夫人は未出版の別の手づくり写真集をとり出してみせてくれた。吉田元ご自身からも見せていただいたことはあったが、その時は50年ぶりの再会で興奮し、私の記憶からすっ飛んでしまっていたものである。
 表紙には、急勾配の三角屋根の小屋がなにごともなげにポツンと建っている原野の風景写真。タイトルは『原野 1953‐1977』。
 目をむいた。“吉田元の写真”がすでにそこにあったのだ。その時代こそ周はじめのカラスの時代だったのではなかったのか・・・。
 これでそれまでの私の推測はひっくり返ってしまった。“吉田元の写真”は根室原野の初めから脈々と流れていたのだ。むしろ、“周はじめの写真”こそが、映像作家吉田元の歩んだ道の迂回路のような産物であったとみねばなるまい。

 周はじめが野鳥の生態写真を撮るきっかけは、下村兼史をサポートしていた鳥学博士内田清之助を仲介して下村兼史に会ったときだった。「あなたも鳥の写真を撮ってみたらーー」の一言。リコー80mm F3.5のレンズをつけた質流れのリコーフレックスを小遣いためて買った。1951年、生まれて初めて撮った多摩川のコアジサシのプリントを下村兼史にみせたところ、「ホォ! これはいい」と言われ、“ポオッとなった”ことに始まる。
 大先達の下村兼史と下村兼史のモノクロ写真に傾注していた周はじめが、野鳥の生態写真に熱中したのは当然すぎる。生態写真が鳥学の進歩に貢献できると考え、そのよき理解者であった内田清之助は、野鳥の写真が絵画などの芸術の素材を提供することには理解を示したが、生態写真そのものの芸術性を指向してはいなかった。学者らしくあくまでも科学的な写真である。下村兼史と内田清之助の影響を受けながら、周はじめはまず自然にあるがままの野鳥の生態写真を撮り始めたのは、自然の流れとみねばなるまい。
 疑問は疑問として残る。周はじめの生態写真時代に、芸術味あふれる“吉田元の写真”魂はどうして爆発していなかったのであろうか。

 古くからの、そして短いおつきあいであったが、どうも周はじめにしてやられ、吉田元に映像作家魂をみせつけられて、はじめて私は目が覚めたようだ。何といおうと、周はじめも吉田元も私の中でかけがえのない存在なのである。
 最後の最後ですが、敬称は省かせていただきました。えらそうに済みません。

BPA

ハシブトガラスの春
撮影◆周はじめ
1950年代前半
北海道根室原野西別

 「まだ所々に冬枯れの残る静かな森の中で、カラス夫婦の愛の交歓がつづく。おたがい相寄り、あまやいだ声で鳴き交わしながら、枝をつついたり、羽毛を掻きむしったり・・・、この一見、奇妙にみえる行動も、じつは愛の結合へと導かれる野のものの儀式なのだ。」 周はじめ『カラスの四季』p.33より

 後にこの写真は、『現代日本写真全集 第8巻 動物作品集』(1958年 創元社)に田中徳太郎のしらさぎと共に収録されている。動物写真といえば犬、ネコ、家畜、動物園の動物などであって、自然の中で撮られた鳥の写真がいわゆる動物写真のジャンルで“通じる写真”として野鳥生態写真史上に画期的なことであった。
 撮影データ:オートグラフレックス手札型・ダルメヤール180mm F6.3・乾板パンF・絞りf 8・1/75秒・D-76

周はじめと吉田元(はじめ)と私

北海道は西別原野
 そこには原始の自然があった。開拓者のアシは馬か荷馬車。歩くならヒグマを覚悟し、野鳥の撮影にはライフル銃が手放せない。牧場でのランプ暮らし。本州以南では繁殖しない北国の野鳥たちが歌っていた。

周はじめ
 1953年4月、日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史と鳥類学者内田清之助博士に見送られ、汽車で上野駅を後にした。私が中学生で、ホームグランドとなる東京湾奥のバードウォッチングのメッカ千葉県新浜を初めて訪れた年。中央大学を卒業した周はじめは、最果ての根室原野に向かっていた。

カラス
 ある吹雪の去った朝、閃いた。カラスのことを書いてみよう。原野の生活にも欠かせない身近な友。野鳥をカメラにおさめる「カメラハンター」は日本中でほんの一握りであった当時、同じ種を年間とおしてカメラで追い、文につづる。それはユニークな発想であった。

 周はじめの思いは『カラスの四季』(1956年 法政大学出版局)で形となる。野鳥観察撮影紀行で名作と目される下村兼史の『北の鳥南の鳥』(1936年 三省堂)を意識していたのであろうか。周はじめは後にふり返る。「よほど物珍しかったのか驚くほど多くの書評がよせられた。写真はちっとも褒められなかったが、文章の方は少しばかり評判がよかった。」
 その“ちっとも褒められなかった”写真が、カラスの周はじめとサギの田中徳太郎との一人一種の生態写真展となって話題となる。出版に先立つ1955年、東京小西六フォトギャラリーだったと記憶している。周はじめを私にめぐり合わせてくれた写真展だ。
 周はじめはたくましいフィールドマンかとの印象ははずれ、小柄で哲学系の雰囲気を醸した遠慮勝ちに気さくな人だった。
 展示された一枚、ねぐら入りを前に屋根に集うハシブトガラスが、いまだに私の記憶に残る。画面を斜めに二分する空の白と小屋のシルエットとの境に列をなすハシブトガラスの群れ。単純な構成と構図ながら、捨てがたい味。飽きがこないのだ。私の一存で、その一枚はBIRDER 2007年9月号(文一総合出版)のARCHIVES のページに紹介されている。
 足かけ3年間の原野生活の体験は、写真と文章による一連の著述に遺されている。『カラスの四季』をかわきりに『滅びゆく野鳥』(1957年 法政大学出版局)、『原野の四季』(1958年 理論社)、『鳥と森と草原』(1960年 法政大学出版局)、『牧場の四季』(1961年 理論社)、『牧人小屋だより』(1962年 新潮社)、『草の中の伝説』(1971年 法政大学出版局)と続く。
 特に1950−60年代のバードウォッチャーには、周はじめの軌跡は野生への憧れの代名詞の感があった。稼業を捨て、東京から北海道に移り住む若者が一人だけではなかったことからも、周はじめの著述は意図せずとも他人の人生航路を変えてしまうほどの影響力があったのだ。そして現在も、知る人ぞ知る周はじめである。
 私のファイルに、1956年5月12日の記憶を呼びさます大学ノートが残っている。そこにサインした7名のなかに周はじめがいた。下村兼史のお宅に集ったときのものだ。その時の記念写真が、周はじめとともに私が写っている唯一のものである。
 こうした集りに周はじめの顔があるのは、生物を専門に撮るプロの写真家が日本にも誕生し、そうしたジャンルの写真が確立することを夢みてその旗振り役になれればと思った周はじめの、ささやかな行動の一つだったのであろうか。
 第2回目の会合はついに開かれずじまいのまま、次の出会いは、1957年5月、愛鳥週間で野鳥写真展が東京で開かれたとき。前代未聞の写真展であった。当時は誰が野鳥の写真を撮っているのか、どのくらいの作品が集まるものかなどの情報がなかった。知っている者が互いに名をあげ、主催の日本野鳥の会から出品用写真の照会のあった人は、全国で33名。「野鳥」誌の口絵などで知るそうそうたるお名前の中に、周はじめは当然、なぜか私の名前があったのだ。会場の飾付けに夜遅くまで手伝った数名のなかに、周はじめの姿もあった。
 そこでなにを会話したか、その後どんなことが起きたのか、とんと覚えていない。大学を卒業してミシガン大学へ留学した私には、周はじめは遠い存在となり消息も知れなくなってしまった。

BPA
カツオドリらしからぬカツオドリ
撮影◆塚本洋三
1982年6月
東京都南硫黄島
 この鳥はカツオドリである。都会に生活していてはまず見る機会のない外洋の鳥。小笠原諸島などの繁殖地へいけば普通にみられるが。
 黒褐色で腹と翼下面の白いツートーン。私のモデルになってくれたこの鳥は、白色部をみせずにカツオドリらしからぬ怪鳥のごとき力強さを表現してくれた。暑さの吹き飛ぶ思いがしたもので、選んでみた。
 1982年、東京から南へ1300kmの南硫黄島での撮影。島の周囲が断崖絶壁の無人島は、原生自然環境保全地域に指定されている。環境庁の調査に参加した時、実は暑さにうだりながら撮ったものである。
 そして今年、四半世紀ぶりに東京都主催の調査隊が南硫黄島へ。6月17日から27日の間、23 名の調査員が現地を調査した。その調査結果の詳細が心待たれる。はたしてどんな変化があったのか、なかったのか。

続 モノクロ写真を捨てるな、カラー写真もだ

 いよいよ夏だ。
 夏らしい写真はないものかと探してみたら、おやっと思う一枚が目に飛び込んだ。25年前に現像があがってきた時、変なカツオドリで、「なんだ、こんな写真・・・」と一瞥しただけの一枚。即決ボツと思ったのを今でも覚えている。
 時経て見ると、写っているものに変わりはないのに、「お、面白いんじゃ?」 何を面白いとするかの感じ方、写真の見方が変わってきたらしい。さっそくカラースライドから(私だってカラー写真を撮っていた頃があったのだ)気の済むモノクロ変換し作品にしてみた。

 くどいようだが、ネガや写真は捨ててはいけない。撮ったときはボツと思っていたカツオドリの写真を年経て気にいることになった経験者としては、それだけの理由でも「捨てなくてよかった・・・」が本心。
 捨ててしまえば、はい、それまで。もう二度と撮れないのだ。今全盛のカラー写真とて同じこと。現在撮る写真が、未来にアーカイブス写真となるのだし、つまらん写真と思ったら今なら急ぎ撮りなおすことも可能なのだ。

 モノクロ写真でもカラー写真でも、まず捨ててはいけない。捨ててしまおうかと思ったら、バード・フォト・アーカイブスにコンタクトしてみることだ(info@bird-photo.co.jp;Tel&Fax:03-3866-6763)。

BPA

海女
撮影◆細谷賢明
1960年頃
鳥取市夏泊地区

 私たち都会に住むものも、かつてはより自然に接して生活していた。そんなことは恐らくあまり意識されていなかったのであろうが。
 自然が姿を消して自然に接する機会が少なくなった今日、そして自然に接しようとする意識が薄らいでしまったかに思える今日、人間が育つのに、何か大切なものが欠けていくのではあるまいか。
 失いつつある大切なもの、それを、一枚のモノクロ写真から呼びさまされることができるかもしれない。歴史、記録、情報などを視覚的に伝えるモノクロ写真は、未来への人間らしい生活をおくるための「味の素」みたいなものなのだ。

モノクロ写真を捨てるな

 カラー写真全盛の時代だというのに、モノクロ写真なんてぇ・・・とお考えの向きは、モノクロ写真に秘められた「カラーの世界」を楽しむ“余裕”を経験されているのであろうか? モノクロにしかない魅力の世界に惹かれるのは、多分に写真をやる人の感性の問題なのだろう。それはさておき、カラー写真の先輩として、モノクロ写真は写真史の一時代を築いた。モノクロ写真にしか残されていない画像があることは、誰もが否定しえない。時が過ぎ、今となっては二度と撮りなおしのきかないものだ。

 整理しようとしたアルバムにある一枚に、「過去」が写し込まれている。美しい山河であったり、その自然を破壊する人であったり、自然を守ろうとする人であったり、自然とともに生きる人の生活であったり、ともに生きる野性の生きものであったり、科学技術の進歩を捉えたものであったり。
 それらを現代によみがえらせ視覚的な資料として純粋に鑑賞の対象として将来に引き継がれるとき、モノクロ写真は変身する。一枚の画像から得られる情報は、文字による記載情報とは違う情報量と質と感慨で迫ってくるのだ。

 モノクロ写真をみつけたら、まず捨ててはいけない。変色していようと破れ折れていようと、構わない。カビだらけのネガでもよい。捨ててしまっては、総てが過去のものとなる。捨てる前に、バード・フォト・アーカイブスにコンタクトしてみることだ。買い取ってくれるとかギャラなど期待してはいけない。代わりに、消え行くモノクロ写真をライブリーして活用し、次の世代への引き継ぐ真摯な態度で接しられよう。話はそこから始まる。
 モノクロ写真を捨てなさんな。バード・フォト・アーカイブスが待っているから。

BPA

影から33年後の初公表 自然樹洞のシマフクロウ
撮影◆高野伸二
1974年4月16日
北海道東部

                撮影マナーの代償

 誰しもカメラを持てばよい写真を撮りたいと願う。バードウォッチャーなら相手は野鳥だ。「ここぞっ!」のシャッターチャンスにかける一瞬の快楽、その味を覚え、自称傑作の一枚でもできようものなら、もう病みつきとなる。
 傑作をモノしたいと思うあまり、カメラが「キチガイに刃物」となる、と気づくことがある。本人がそれと気づけばよいが、うすうすわかっていながらフィールドマナーを守らないのは、もう始末が悪い。野鳥カメラ人口が増えるにつれて、そんな輩も増えてくるのは残念である。現実は、どうも残念がってもいられないほど凄まじいようだ。
 フィールドマナーは、時代時代の自然の姿や野鳥と人との関わり、倫理観や価値観で変わる。とはいえ、カメラを持って野鳥と相対する時、撮りたい一心が思考とか判断とかをマヒさせる。カメラを向けられた野鳥への迷惑や窮状に思いをいたす心の余裕は失せ、もう一枚撮りたいという撮影欲がたいてい勝つ。あげく、オレだけが撮れればいい・・・。
 一つの生命ある野鳥に対しての思いやりどころか、同じフィールドにいるカメラマンに対してさえ、マナーの気持ちが及ばなくなる。野鳥をカメラの前におびき寄せようとミールウォームをばらまいて平然としている。「オレがまいた餌にくる鳥を勝手に撮るな。」耳を疑うような台詞が飛び出す。「その位ならまだいい方ですよぉ。」現場を知るカメラマンがつぶやく。もっと悪い方となると、文字にはばかるほど。想像を絶する。いくら言を尽くしても、世の中マナーを守らない人はいる。いやな人間。寂しい現実。さて、どうする。
 私はKTさんを知っていた。その昔、垂涎の的135mmレンズをお借りして野鳥を撮らせてもらったことがあった。何年もの間お付き合いが途切れて、その後に耳にした噂は信じ難いものだった。自らのマナー違反を自ら裁いたのか、今どうしておられるのか消息を絶っている。彼のマナー違反を仲間が社会が裁いたのか、彼の作品はまったく見ることができなくなっていた。
 反野鳥道的、反人道的とも思える野鳥撮影法を行う「猛者」の作品がいかに良く見えようとも、いずれ省みられなくなる。相手にしないことだ。フィールドマナー違反の写真には、厳しく対処するほかあるまい。

撮影責任を語る一枚の写真

 その昔、自然の樹洞で抱卵するシマフクロウが撮影されていた。撮ったのは高野伸二さん。一昔前のバードウォッチャーなら、一度は高野さんの著したフィールドガイドにお世話になったであろう。今でも愛用している向きも少なくあるまい。徹底したナチュラリスト、多才多芸の高野さんは、野鳥やクモの生態写真でも知られている。
 当時のバードウォッチャーと野鳥カメラ人口といえば、今とは比較にならない。望遠レンズをもっているカメラマンは数え上げられるほど。それでも、シマフクロウの保護を思う高野さんの考えは慎重にして徹底していた。
 写真が誘発剤となって、一目見たさのバードウォッチャーが一人また数人と数を増すことは考えられる。写真を撮りたいと思う人が、撮影地の公表で訪ねて行かないとも限らない。北海道だけに棲み、日本で最大級のフクロウのその数は少ない。森林は開発され、巣をつくる巨木がなくなってきた。そこに人間の繁殖期の撹乱がシマフクロウのさらなる減少に追い討ちをかけることを、十分に予想していた。撮れたシマフクロウの写真が、その保護に悪影響を与えてしまってはいけない。
 まっさきに保護を考え写真の公表は控えると、撮影に立ち会った地元は風露荘の主、高田勝さんと高野ツヤ子夫人にその場で約束した。代わりに、撮れているハズの「おシマさん」の写真は、誕生日を数日後に控えたツヤ子夫人に心の映像としてまたとないプレゼントとなった。
 自慢したい作品を公表できない高野さんの胸のうちは察するに余りある。「ねぇ、こんな袋が野鳥の会事務所前のエレベーターホールに落ちていたら、どうする?」眼鏡の奥の目が笑っているが、マジメ顔。私はカバンの中から半ば顔をだした袋をのぞき見して、仰天した。
 「これ、高野さんの?」見たこともない、自然樹洞で抱卵するシマフクロウの写真。密かにカバンに持ち歩いていたものだった。
 「こんな写真拾われたら、誰が撮ったんだ、どうしたんだと、事務所は大騒ぎになるだろうね。」いかにもそんなことをしてもみたいといったご様子。せめて誰かに見てもらいたくてウズウズしておられたに違いない。
 シマフクロウを守るために約束は破られることなく、高野さんは1984年にあの世へ旅立たれた。
 撮影後33年がたった。あの大木は、撮影から4−5年たってくずれ、現在は跡形もないとのこと。高野さんが逝って23年目。バード・フォト・アーカイブスに寄贈されていたモノクロ写真を、撮影場所は伏せて公表する同意を高田さんとツヤ子夫人から得た。あの世で満足げな笑みをうかべ頷いておられるに違いない。と同時に、近年の眉をひそめたくなる撮影マナーの向上に少しでも役に立てられればと願っておられるのだ。
 高野さんの特に希少種の写真に対する心遣いは、かくの如く徹底していた。

BPA
日本の鳥声録音の夜明け
録音する蒲谷鶴彦
(右)・芳比古さん兄弟
1953年7月27日
撮影◆塚本洋三
長野県南軽井沢地蔵が原
鳥声録音への期待

 日本の野鳥の声の録音は、1951年、蒲谷鶴彦・芳比古さん兄弟が電源コードにつながれたAC100ボルト駆動の録音機を手造りして始められた。蒲谷さんの人生は鳥声録音の歴史そのものであった。
 ハンディな録音機材が手軽に手にはいり、性能も往時とはケタはずれに改良された今日、単に楽しみで野鳥の声を録音する人が増えてきた。ノウハウ本も出版された(例えば、松田道生著「野鳥を録る」東洋館出版社 ISBN4-491-02035-3)。鳥声を科学することでは、それ自体が独自の研究分野であり、かつ他の鳥類専門領域に刺激を与え新たな視点での調査研究へと道を拓いていくのだ。
 NPO法人バードリサーチ(http://www.bird-research.jp)と熊本大学では、調査され難い夜鳴く鳥をターゲットに、録音により鳴き声の自動認識・自動記録装置の開発実用化を目指している。3月4〜5日に開かれた研究集会では、全国から調査研究者が参加した。
 野外実習で録られた音声の波形をコンピューターで解析し、自動分析で鳴いている鳥の種を認識させる調査手法の確立を目指している。斬新な試み。全国一斉のモニタリングのスタートが楽しみというものだ。
 録音人口の底辺がひろがってくる。蒲谷さんに続く録音の若手プロが活躍している。鳥声録音の調査研究への応用にも限界はない。その前途に期待する大なるものがある。

 追悼 蒲谷鶴彦さんのことども

 「ボクが死んだら、どこかに録音にでも行っているとでも思っていてほしい。」生前、そんな話だった。思ってみたところで、蒲谷鶴彦さんはもう録音の旅から帰ってはこられないのだ。
 野鳥の声の録音では日本での草分けとして並ぶもののいない蒲谷さん。鳥声録音の歴史を築き、生涯日本でもっとも鳥の声を聴いた蒲谷さん。今年1月15日、逝った。享年80才。

 50余年も前になる。私が中学生で日本野鳥の会へ入会した1953年、軽井沢星野温泉の医局で静養されていた中西悟堂会長が、蒲谷さんも録音にこられるからと誘ってくださった。蒲谷さんご兄弟に、南軽井沢は地蔵が原へ草原の鳥の録音にくっついていったのである。
 早朝、腹も減っていた。私のお腹が鳴った。録音に集中していた蒲谷さんのお顔がひきしまったような気がした。しまった、腹の虫までテープにおさまったに違いない・・・。
 こうして始まった蒲谷さんとのお付き合いは、深くというよりは浅く長くであった。野鳥の声でわからないことが起きると、蒲谷先生頼りだったのである。
 いつも温和な蒲谷さんも、こと録音にかけてはフィールドマナーも音を録る姿勢も録れた音の解釈も、それは厳しいものであった。驚かされたのは、リップシンクロと言うそうであるが、聞こえてくる囀りと鳴いている鳥の嘴の動きとが一致するのを確認して初めてその種の声として記録する。これは簡単そうで、フィールドでは実に大変なこと。研究データとなる科学的な声の記録をそこまで徹底されていた、とは今更のごとく驚かされるのだ。
 著作物も半端でない。日本各地はもとより海外77ヶ国以上で録音し、その成果は、日本最初の鳥声レコード、「野鳥の声」(ビクターレコード 1954-55)の音源に始まって近年のCD-ROMまで、ゆうに100点を越す。最初のSP盤レコードは、ドキドキして聞いたあの時を懐かしく思い出す。
 文化放送の「朝の小鳥」は14,000回を越えた。一人で収録構成した番組としては、恐らく日本記録であろう長寿番組である。あいにく早朝での番組のこと、寝坊の私にはほとんど縁がなかったのである。蒲谷さんには申し訳ない気がして、聞いているようなナマ返事でとうとう終わってしまった。
 昨年の晩夏の頃。拙著に登場する蒲谷さんをご紹介すべく、電話でミニインタビューをしたときだった。どんな鳥がまだ録れていないかお聞きしたところ「う〜ん、まだいくつかあるけど。コブハクチョウは鳴かないもの。ああいう鳥は困るよね。」思えばこの時が最後のお声であった。義母が逝って2時間後に届いた訃報は、二重のショック。年が明けてお目にかかれると楽しみにしていたのに。
 生前、偲ぶ会もお別れの会もイヤと言われたというお気持ちを無視するわけにもいかない。かといって、なにかそんな会でもしないことには、気持ちのもっていきようがない。頭をひねって蒲谷さんも喜んでくださるに違いない名称「天国の蒲谷鶴彦さんと野鳥の声を聞く会」が、3月17日に都内のアルカディア市ヶ谷で盛大に和やかに開かれた。心に残る会となった。

 誰もが思う。蒲谷さんの遺された鳥声録音の文化遺産は不滅である、と。

BPA

写真で見つかったクロツラヘラサギの雛
1970年代初め
写真所蔵◆鄭鐘烈
北朝鮮平安北道大甘島 

 かつては朝鮮半島のどこで繁殖しているのかも日本で情報がなかったクロツラヘラサギ。北朝鮮動物研究所の朴宇日副所長(当時)から朝鮮大学校の鄭鐘烈教授に託された1枚の写真が、日本の保護関係者の目にとまる。左隅に、巣にいる雛の姿があった。これが国際保護活動のきっかけとなった。
 日朝国交正常化交渉が始まる前の1987年、東京での「日朝渡り鳥シンポジウム」で北朝鮮のクロツラヘラサギについての報告があった。アジアの厳しい政治情勢を乗りこえて、1996年に北京で開かれた「クロツラヘラサギ保護ワークショップ」につながる。中国、台湾、香港、北朝鮮、韓国、日本、ベトナムの全生息域の代表が参加し、国際協力による保護策がねられた。
 クロツラヘラサギは、絶滅の一歩手前から、2006年冬の世界一斉調査で1,681羽にまで回復した。すべてはこの1枚の未発表写真から始まったのだ。

渡り鳥保護の国際協力活動への参加

 渡り鳥は、人間の決めた国境など知るよしもない。どの一国に籍をおくでなし、まさに未来的な「地球の住人」という考えのシンボルのような存在である。
 いくつもの国を旅する鳥たちの保護は、一国が努力しても成果はあがらない。繁殖地、渡りの中継地、越冬地の渡りルート上の国々が協力してこそ、保護の実があがる。とは、周知のとおり。それには、私たち個々人の草の根ボランティア活動から、NPOの国際活動、渡り鳥保護条約などによる国レベルの施策まで、いろいろとやるべきことが進まねばならない。ましてや地球温暖化の影響など地球未来的な視野にたって野鳥の保護活動をする時代とはなった。
 国際協力活動が、私たちにお出でおいでをしている。

 国際協力というと、個人としてはどこか遠いところの話のようだが、案外身近に参画できる機会があったりする。例えばNPO法人バードライフ・アジアのホームページ(http://www.birdlife-asia.org)を覗いてみるとよい。クロツラヘラサギは、「野鳥」誌2月号(日本野鳥の会 http://www.wbsj.org)で特集されている。ネットを見れば限りのないほど。野次馬根性でもよい、前向きな関心でもよい、気持ちの持ちようでやりがいのあるボランティア活動の機会がひらけてくるに違いない。

 かつては幻の鳥、クロツラヘラサギ。国際政治情勢が不安定なアジアの国・地域で国境を越えた保護協力が実り、日本でも現在、限られてはいるが九州と沖縄の一部に朝鮮半島から渡ってきて冬を越している。ひょっこり東京湾岸などでみられたりもする。毎冬の世界一斉調査に観察データを提供するのもよい。それをきっかけに国際協力活動に関心の道が拓けたりもする。臆せず国際人の輪(和)を楽しむことだ。
 クロツラヘラサギのみならず、アジアの渡り鳥保護活動は数十年前の関係者のお互いの顔を知ることにはじまり、活動のネットワークをつくり、近年具体的な国際保護プロジェクトが展開されているのは、ご同慶の至りである。
 やるべきことは山積している。国際保護活動を支援し参画して、結果的にアジアの平和に多少とも貢献できるとは素晴らしいことではないか。

BPA

ガラス乾板に浮かぶヨシゴイ
 
1931年?に恐らく松山資郎によって撮影されたものと思われる。バード・フォト・アーカイブスに寄贈された古いネガ群の中に発見された。
 このようなガラスに感光剤を塗った乾板、可燃性ネガフィルム、鶏卵紙に焼き付けられたプリントなどを発掘し保存・継承していかなければ、私たちの歴史的な財産がまた一つ失われることになる。

モノクロ写真の保存はバラ色?

 モノクロ写真は消滅の一途をたどるかに思える。どっこい、モノクロの静かな人気は、人気とはいささか誇張としても、モノクロの魅力をみなおし「モノクロ写真へ回帰する人」は増えるのである。そんな気がする。
 旧年、日経新聞(12月21日夕刊)で、モノクロでしか記録されていなかった時代の写真が、原板もろともいつのまにか消えていくのに歯止めをかける動きがあるのを知った。
 「日本写真保存センター」の設立計画である。すでにある写真専門の美術館などと違って、原板やネガを収集保存する意図がユニーク。文化庁などへの要請主体は、日本写真保存センター設立推進連盟。元文相の森山真弓氏が代表をつとめ、著名写真家、大手光学メーカーなどからなる強力軍団である。梅原猛も名をつらねる。事業費は7億5千5百万円を見込んでいるというからハンパでない。文化庁も、やる気充分のようだ。
 センターは、写真のデジタル化や外部からの利用要請に応えることも検討中とある。バード・フォト・アーカイブスが野鳥・自然・人絡みの分野で意図していることの、国レベルの事業だ。もろ手を挙げて賛成である。ところが事業の目的は、水害現場、大戦のつめ跡など戦後の社会を写し撮った記録性の高い作品。それも出版物などで発表されているものを優先するという。それはないだろう。
 待望の国家プロジェクトなのに、広範なモノクロ写真文化のなかで戦後の世相のみを対象にするという目的の設定範囲がいかにも狭い。また、未発表の作品発掘にこそ力を入れて欲しいものだ。
 せめて基本構想では、モノクロ写真の全視野を含める将来ビジョンを謳い、今回を第1期基本計画として戦後の世相写真をまずスタートさせ、段階的に守備範囲をひろげる方針であってほしい。全分野を網羅するには実現が難しい見通しなら、サテライト構想というかタコ足発想ではいかがか。
 現に、野鳥写真の関連では、財団法人山階鳥類研究所が遺族から贈られた日本の野鳥生態写真の草分け、下村兼史のほぼ全作品の乾板、ネガ、プリントなどの資料を整理、保存、活用するプロジェクトが、文部科学省の助成金で進めれられている。
 国のプロジェクトが同研究所と協力・支援連携できれば、相互利益がはかれ、利用者のニーズに応えやすい。同様に他の分野の学術文化団体などが参画し、全国のモノクロ写真情報を一元化してコンピューターで検索活用がはかれれば、これぞ国家レベルのプロジェクトにふさわしいというもの。
 モノクロ写真の保存や活用を意図する国や民間組織は同じ理念を共有すると考えられるのだから、民間組織の独自性を保ちつつ国家事業に参画協力し、事業費の限られる民間組織のプロジェクトを国が支援・総括する。広範なモノクロ写真文化が継承される。悪くはあるまい。
 「日本写真保存センター」の設立計画は、全国に潜在するモノクロ写真を繋ぐ枢軸として、モノクロ写真の全分野の夢を実現させる第一歩であって欲しい。

BPA
干潟にサカツラガンの一群
1936年頃
撮影◆藤村和男
千葉県新浜

 サカツラガンが、東京湾奥部に渡ってきて冬を越していた時代があった。群れは50羽から100羽前後。少なくとも1940年代初めまでは定期的に渡来していたと記録にある。1964年までは、マガンが毎冬200羽から300羽みられた。マガンの群れは、私の記憶にも新しい。
 現在、サカツラガンもマガンも、新浜にはその影すらない。
 ガンがいた頃、潮が引くと、広大な干潟が現れた。沖で江戸前のノリが作られていた。堤防から見えるはるか一線のノリヒビに、ベカ舟の列が向かう。時が静止したような佇まい。
 その干潟は埋め立てられ、現在“沖”に見えるのは建ちならぶ高層ビル。
 サカツラガンが撮影された干潟続きの西へ4kmほどの埋め立て地に、ディズニーランドができた。

 旧年、母校の慶応義塾普通部で中学1年生の生徒に話をする機会があった。「目路はるか教室」で講師役をつとめる先輩の一人に選ばれたのだ。「教室」は学校教育課程にはない、講師の生きざまを交えた自由な切り口で開かれる。受験勉強のない生徒にとって、魅力ある体験学習の時間だ。1年全生徒が10コースの中からこれぞと思う講座を選んで参加する。生徒たちが心待ちしていたのが、事前の講師への自己紹介文から読みとれた。
 初回の校外実習は、東京港野鳥公園での終日バードウォッチング。2回目の室内講座で私は、拙著「東京湾にガンがいた頃」(文一総合出版)(このHPの“BPA SHOP”をご参照ください)と同じ題のスライドを用意した。当日の朝、出掛けに急きょ「ディズニーランドが干潟だった頃」と、より端的に話しの見えるタイトルに変えて教室に臨んだ。
 訊けば果たして、25人の生徒全員がディズニーリゾートは楽しいところと、もろ手をあげた。パワーポイントが動きだす。1950年代の東京湾奥は新浜の今は懐かしい風景。そこに、生徒たちと同い年の私がバードウォッチングしている姿が映る。1960年代、高度経済成長の荒波がおしよせ、自然は一変する。貴重な干潟が埋め立てられてできたディズニーランドが、1983年に開園。
 このたった50年もたたないうちの環境の激変。生徒たちには思いもよらなかった。無理もないと言えば無理もない。生まれた時には、ディズニーランドはすでに開園していた。かつての自然を知る機会もないままに育ってきたのだ。
 感想文で確かめられたが、25人中、全員がバードウォッチングや自然に興味関心を深め、20人までが、人手による自然環境の激変に心動かされたのである。生徒たちの反応をみるかぎり、自然が私たちの生活に大切なのだと考える若者がいる。それは確かであった。

 若い層の自然回帰への芽が育つよう、環境破壊してきた世代は意識的に「環境教育」に努力していかねばならない。それが後の世代の「自然とともに生きられる社会」に直結し、私たちの責任なのだ。

干潟と東京ディズニーランド
BPA
Copyright, 2005- Bird Photo Archives All Rights Reserved.