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2010 / 2009 / 2008 / 2007 / 2006
2010 JULY
田中徳太郎(1909−1989)撮影の写真を追う

埼玉県美園村小学校を訪れた国際鳥類保護会議(ICBP)の各国代表と挨拶するD・リプレイ会長
(写真凸版からデジタル化)
撮影 田中徳太郎
写真凸版(“シャトツ”)提供
増田直也
1960年5月29日
埼玉県美園村

 「今月の1枚」は、もともとは1954年から埼玉県野田の鷺山でサギの生態写真を撮っていた田中徳太郎が撮影した写真である。そうと撮影者が特定できたのは、たまたま「野鳥」誌通巻202号(1960年)の口絵にこの写真が載っていたのを、私が記憶していたからだ。
 その写真といえば、鳥の分野では日本で初めての大きな国際会議――第12回国際鳥類保護会議(ICBP=現在のバードライフ インターナショナル)――が1960年に東京で開かれた時のこと。エクスカーションの参加者一行が野田の鷺山を見学した際、県知事招待のパーティが開かれ、そのとき地元で活躍していた田中徳太郎が撮影した1枚なのだ。
 一方、増田直也さん(リトルターン・プロジェクト代表)が、約0.5mm厚ほどの薄い銅版の表面にこの写真とまったく同じイメージが浮いて見える“古道具”を所有されていた。その銅版は、どうみても古道具の一部としか思えない厚い木っ端(135×94×23mm)に糊付けされたもの。後に印刷博物館で教えてもらったことだが、銅版には感光性の幕がはってあってネガに相当する像が浮いてみえ、写真凸版(通称シャトツ)と呼ばれかつて凸版印刷に使われたものだそうだ。増田さんからバード・フォト・アーカイブスに寄贈をうけたシャトツを、ままよとネガ扱いで強引にスキャニングしてデジタル化したのが、ここに載せた1枚である。

 田中徳太郎は、1949年に国鉄を退職して浦和市(現さいたま市)で写真材料店を開き、1954年から10kmほど郊外の野田の鷺山へ自転車で通い、サギの生態写真を撮り始めた。写真集や写真展を通じて “サギの田中徳太郎”で知られ、 作品は海外でも美術館などで永久コレクションに選定された。1985年には、浦和市のシラサギ記念博物館に150点の作品が展示された。1989年没。サギの写真一筋の半生だった。

 田中徳太郎が生涯で何枚ぐらいの写真を撮ったのかはとにかく、おそらく膨大な量のネガやプリントは、現在どこに存在しているのだろうか? バード・フォト・アーカイブスとしては、それをなんとしても確かめたい生態写真家の一人である。
 いよいよその気になっての田中徳太郎の追跡は、なんのアテもないところから始まった。一括して写真を保存管理する“田中徳太郎写真事務所”なるものが現にあるものだろうかとまず想像したのだ。想像は想像で終わった。ネット検索がニガ手の私には、とっかかる術もない。
 2008年2月、困ったときのMさん頼りでメールを送ったところ、田中の情報源になるであろうシラサギ記念自然史博物館をヒットしたが、なぜか閉館になっていた、と。お忙しいのにMさんは、ご親切にさらにもろもろの追跡チェックをしてくれた。果ては「今のクイーンズ伊勢丹のところの写真館の田中さんでしょ?」という某ネットのかなりローカルな書き込みまで探り当てた。が、ここから先へ情報がつながらない。
 諦めきれない私は、北浦和のクイーンズ伊勢丹のあたりをウロウロ当てもなく徘徊してみたが、こうした情報探索能力に欠ける私には、かつての田中写真館らしきなんらの手がかりをも嗅ぎつけることなく、徒労に終わった。
 その内にウルトラE情報が、頼みのMさんから届いた。田中徳太郎にあこがれて動物カメラマンとなり親交のあったUさんに訊いてみようという。これはイケルと心待ちの返事は、「いつしか連絡も途絶え、ご遺族の方とも縁が切れてしまいました」とのこと。万事窮す。
 2008年10月、鳥ゼミの帰途、地下鉄内でのR大のU先生との立ち話で、行方不明の田中徳太郎の写真原板や閉館してしまったシラサギ自然史博物館など“私の窮状”をボヤいたとき。なんと! 確かその博物館にいた昆虫生態学者の同い年のSさんをご存知だという。
 2008年11月、紹介されたS先生に、かつて特別天然記念物に指定されていたが今はサギ1羽いないまったく静かな野田の鷺山をご案内していただき、そして田中徳太郎の写真原板の行方について具体的なお話を伺うことが出来た。
 なんでも当時作製されていたサギの絵はがきが売り切れ、2順目を準備しようということになったとき、博物館 (?) の事務員が、田中徳太郎の息子さんがいなかったので妹さんにお会いしたところ、その妹さんがネガを全部お持ちだった。しかし、保存状態はかなり悪かった、という。瞬間、とにかくネガの存在が明らかになった!と飛び上がりたいほどの気持ちも束の間、その後どうなったかを追跡できる書類もなにも残されていない・・・。妹さんの安否さえ不明とのこと。
 万事窮したかと思ったら、その妹さんが、みのもんたの「おもいッきりテレビ」の「きょうは何の日」のコーナーで、田中徳太郎の命日にあたる日に出演されたという。S先生がご存知の、田中徳太郎へ辿りつける最後の手がかりだった。
 「きょうは何の日」の番組制作担当氏から探れば、或いは妹さんの連絡先が?・・・。気の遠くなるような話だが、確かに2000年11月13日に「シラサギの写真家・田中徳太郎が亡くなった日」の番組があったことまでは突き止めた。が、そこまで。妹さん情報は得られていない。いや、さすがの私も10年昔の当時を知る番組ディレクターを捜し出せるものかと躊躇したのだ。妹さんのお名前すらも知れないまま追跡はそこで頓挫し、今日に至っている。
 どなたか、田中徳太郎の写真・原板の存在あるいはご遺族の情報をお持ちの方は、バード・フォト・アーカイブスまでどうぞご一報いただければと念じている。
 ひとつ、S先生の確実な写真情報が救いだった。浦和学院高校に田中徳太郎のオリジナル写真が額装のまま残されている! ご紹介していただいてK先生に電話でご挨拶したのが、2009年4月。お互いの都合やら新型インフルエンザで学級閉鎖やらで、同校にK先生を訪ねようやく田中徳太郎の作品にお目にかかれたのは、今月(2010年7月)になってからのことだった。(訪問記は、今月の「Day By Day」のページをご参照ください。)

 田中徳太郎を例に引くまでもなく、日本の生態写真家のモノクロ写真・原板の所在を明らかにする追跡作業は、なかなか手強いことを身をもって実感している。ちょっとした情報、わずかな手がかりをもとに追跡していくエネルギーを、バード・フォト・アーカイブスは常に持ち続けていかねばならないと、自身に言い聞かせている。
 一方、ネット情報社会のこと、思わない情報が突然見知らない方から得られないとも限らないという期待もしている。皆さんのご協力をも切にお願いいたす次第です。
 ついでながら、野鳥・自然・人にかかわるモノクロ写真そのものをお持ちの方、持っている方をご存知の方、モノクロ写真資料が忘れ去られる前にバード・フォト・アーカイブスにご一報を是非お願いいたします。

2010 JUNE
給餌台に来たオナガ
撮影 ◆ 真柳 元
1970年6月27日
武蔵野市吉祥寺
“こんな時代があった”のだ
生態写真撮影の愉しみ
 フィルムカメラ時代のこと。野鳥を撮ろうと試みるとき、デジタルカメラとはまた大いに異なる困難や愉しみが経験できた。撮影機材が今日とは比較にならないほどプリミティブであるが故に、撮影のための自然条件や社会事情が今日とはケタはずれに過酷とも思えるが故に、結果の写真を見ただけでは窺えない野鳥撮影のドラマがあった。そうした条件や状況を乗り越えて撮られた生態写真や昔語りを継承することも、バード・フォト・アーカイブスの活動の守備範囲と考えている。
 経験は記録に残さないと風化する。古典的な野鳥生態写真撮影法の資料ともなるよう、フィルムカメラ時代に困難や愉しみを味わった先人の経験を再現が可能な内に出来るだけ記録に留め、適宜ご紹介していきたい。
 今回は、真柳 元さんのオナガ撮影の手記を掲載させていただく。なお、(括弧内)は、塚本の補足&コメントである。

撮影機材
リコーフレックスIV (二眼レフで野鳥を撮りたい。この無謀なる?意気込み! 一筋縄では撮れないことを知る者の、工夫と苦心と愉しみのスタートである)
レンズ 80mm F3.5 (つまり標準レンズ。望遠レンズが買えたとしても、この手のカメラには装着できない。)
フィルム ブローニー6x6の12枚撮り (1枚もムダにはできないと、シャッターチャンスに神経を集中させる。1回毎のシャッターの重みを感じる。二重撮りは悔しいミスの一つで、なんとしても避けたい。12回シャッターを切ったら、ロールフィルムを交換しなければならない)
ネオパンSSS (当時としては高感度のASA200。動きの速い相手や手振れを考慮して、少しでも早いシャッターを切りたいところから、感度の高いフイルムが選ばれた)

撮る相手がいなくては話にならない
 
窓辺に餌台を設置したのは1968年12月、オナガが初めて餌台に来たのが1970年6月17日(1年半も待っていた!)、撮影日の10日前のことです。1羽の若鳥でした。成鳥が初めて来たのは6月23日、撮影日の4日前でした。

いよいよ撮影チャンスか?
 
この時は天下御免の浪人生でした。平日は予備校に通い、週末は徹夜です。撮影日は土曜日の徹夜明けです。日の出が最も早い季節ですが、曇天の為でしょうか、スズメが動き出したのはやや遅めでした。
 この日の蒲谷さんの「朝の小鳥」(文化放送の毎朝に、鳥声録音家蒲谷鶴彦さんによる小鳥の声を流す番組。1953-2006年の間、14,000回以上続いた長寿番組)は日光のコマドリ。そろそろ問題集を閉じようかという時、待望のオナガ成鳥が餌台にやってきました。すぐ飛び立ちましたが、5分後には成鳥と若鳥とが再訪。

フィルムの確認
 
カメラ後ろの赤窓(フィルムを何枚使ったかの数字が表示される直径1cmほどの、フィルム感光除けの赤い小窓)を見ると、12枚中9枚残っています。カメラにはさんだ撮影メモを見て、現在セットされている4枚目が未撮影分であることを確認。この確認を怠ると二重露出で泣くことになります。

撮影状況はというと
 
餌台はある程度の大きさがあるので手前と奥とではピント合せが必要です。固定据付糸シャッター(三脚にカメラを固定し、鳥が決まって来るところを予想してピントを合わせておき、離れたところから紐を引っ張ってシャッターを切る。一引き必殺[必撮]の古典的撮影法)は断念。カーテンの陰からカメラを構えて撮る方法を試みました。
 二眼レフのつらいところは、撮影時には撮影者の頭がカメラより前に出てしまうところです(上から覗き込むようにピントを合わせる二眼レフの宿命)。レンズだけをカーテンから出し、撮影者を隠すとなると一工夫。洗濯バサミでレンズだけの隙間を作りますが、ファインダーを覗き込む通常の姿勢ですと、頭に押されてカーテンがレンズにかかってしまいます。結局、手を一杯に伸ばす姿勢となりました。
 ファインダーからは遠くなってしまいますので、きっちりとしたピント合せは困難です。絞り込みたいところですし、こんな時のためにSSSを常用していたのですが、この曇天ですと、一番遅い1/25秒でも、F8がぎりぎりでしょうか(このシャッタースピードで、しかも手持ちで、動きの速い野鳥が止まると思っていたのですね)。

最初のシャッター
 
カーテンと格闘していたためか、オナガはなかなか餌台に戻ってくれません。やっと戻ってきたところで1 枚。ところが、動きに落着きがありません。
 1枚撮ったので、カメラ後ろの赤窓を見ながら、フィルムを巻き上げていきます。行き過ぎると戻りませんし、巻きが足りないと端が隣りのコマとかぶってしまいます。始めはぐいっと一巻きし、じわりじわりと赤窓に現れる次の数字を所定の位置まで巻いていきます(チャンスに連続してシャッターを切ろうなどとは、夢のまた夢)。

2度目のチャンス
 
今度は1/50秒 F5.6で再挑戦(1/25より倍も速いシャッタースピードなら、手持ちでも、動きの速い野鳥が止まると計算したのですね。それでも1/50秒、嗚呼)。絞り、シャッターをセットし直し、再びカーテンと格闘した後は、じいっと静止して待つこと25分。伸ばした腕がいい加減つらくなってきた頃、やっと戻ってきました(この忍耐! そして、鳥をファインダーに捉えた感動!)。
 腕を伸ばしたまま何とかピントを合わせ、一瞬の静止を狙って1枚。それでも、顔ではなく脚にピントがあってしまったようです。ちなみに最初の1枚はやはり顔が動いていました。

撮影終了、そして
 
寝る時間が少々遅くなってしまいました。一応本業は受験生ですので、一定の睡眠時間は確保しませんと。
 2枚目を撮った後で次のコマまでフィルムを巻き上げ(次のチャンスにすぐ撮影態勢に入れるように巻き上げておき、その旨メモするか記憶しておく。次の撮影前に巻き上げてもよいが、巻き忘れてシャッターを切ると二重取りとなり、前のコマ共々オジャンとなる)、撮影メモにデータを記入し(つい忘れがちだが、これが大切)今度はカーテンをぴったり閉めて。お休みなさい(真柳さんの夢の中では、オナガの傑作写真が“出来上がっている”ことは想像に難くない)。

 (こうして12枚を撮り終わって現像に出し、結果が判明するネガが上がってくるまで1週間ほど待たされる。「きっと傑作が撮れているハズだ!」と、この数日間は当事者の鼻息が荒く、最も心ときめいているのである。)

自己紹介
真柳 元(まやなぎ・げん)
毎日、双眼鏡を入れた鞄で通勤している鳥好きのサラリーマン。昭和43年からつけ始めたフィールドノートは現在60冊目。勤務の都合で転勤や出張が多く「ついでの鳥見」と言いながら何時の間にかライフリストはそろそろ900種とか。標準レンズから始めた鳥の写真も、500mm、1200mmを経て再び標準ズームレンズへ。釣りは鮒に始まって鮒に終わる謂いかも。中西悟堂先生や高野伸二先生の謦咳(けいがい)に接した最後の世代?である。

2010 MAY

ミズバショウ
撮影 藤巻裕蔵
1959年4月21日
北海道江別市野幌

COP10の先を見よう――撮影データの重み

 「今月の一枚」に植物が主役となって登場するのは、初めてのことかと思う。背景に時代や地域性が感じられるアーカイブ的に表現した樹木や草花を写し撮るのは、そうと意識しても撮り難い被写体なのか。野鳥などより作品例が少ないのである。
 今回のミズバショウも、先月尾瀬沼で撮ってきたばかりと言われれば、そうかとも思える。実は、半世紀以上も前の1959年に北海道で撮られたもの。欲を言えば、その時代の“匂い”が漂う画像であって欲しい。しかし、地球温暖化と結びつけてみると、背景より大切なのが撮影データなのである。特に、撮影年月日と撮影場所は欠かせない。ミズバショウにはその最低のデータが揃っている。

 COP10開催が10月に迫ってきた。地球温暖化に関して、数年前のことではあるが、興味ある論文(Miller-Rushing, A.J. et al. 2006. Photographs and herbarium specimens as tools to document phenological changes in response to global warning.  American Journal of Botany. 93(11): 1667-1674.)を東大の樋口広芳教授に教えていただいた。植物の写真を使って読者に効果的に温暖化をアピールしている手法が、私の関心を引いたのである。主眼は、撮影データがいかに大事かということである。
 論文は、同じ場所で同じ被写体を撮影した歴史的な写真と近年の写真とを対比させ、同時に撮影データと気温変化のデータを示している。
 1例では、ボストンのアーノルド植物園で同じような状態で花を咲かせているモクセイ科のヒトツバタゴの仲間を、1926年6月20日と2003年5月7日に撮っている。2003年の方が77年前の1926年より約45日早く花を開かせていた。2月-5月の平均気温は、1926年の2.5℃から2003年の3.8℃に上昇したのだ。
 ドラマチックな変化が写真で見られる例は、マサチュウセッツ州のロウェル墓地で同じ5月30日の1868年と2005年にそれぞれ撮られた写真の対比である。墓石の位置関係から確認できる同じ広葉樹は、1868年には裸木であったのが、2005年には緑々と葉を茂らせてる。この137年間に、平均気温は1.9℃から4.7℃に変化している。
 難解な英文の論文を読むよりも、2枚1組の写真で地球温暖化によると思われる植物の生長の変わり様をまさに目の当たりにすることができる。百聞は一見にしかず、写真の視覚的な効果に改めて感じ入ったのであった。

 論文に掲載された写真を1868年や1926年に撮った人は、まさか写真がこのような形で役に立つとは思ってもみたなかったに違いない。撮影データが明記されている50年以上も前に撮られた今月のミズバショウも、100年後になにかの論文に登場するかも知れない。二度と撮り直しのきかない過去の写真を未来に繋ぐバード・フォト・アーカイブスの役割も、一つはそんな“夢みたいな現実”にあると考える。
 再度申しあげたい。科学論文に採用される場合には撮影データのない写真は論外であるが、どんな写真であれ、撮影データをきっちり記録しておく重要性を再認識したいものだ。
 因みに、今回掲載した1枚の他に、ミズバショウが咲いている環境を示す群落の写真が、撮影者によって同時にバード・フォト・アーカイブスに登録されている。撮影時における撮影者の“もう1枚撮る配慮”が、写真の活用される際の視覚的情報の巾を広げている点を指摘しておきたい。

2010 APR.
ツグミの空中戦
撮影 ◆ 藤村 仁
1968年2月10日
千葉県新浜

フィルムカメラ時代の“飛びもの”

 「今月の1枚」は、自動露出・オートフォーカス・手ぶれ防止・連写連写連写で機関銃の如くシャッターの押せるデジカメの時代に、フィルムカメラ時代の“飛びもの”を見ていただくのも、なにか“見えないものを見る”ご参考にはなろうかと、バード・フォト・アーカイブスのコレクションから選んでみた。

 デジカメ族から見れば、「なんだ、ブレててピントはあまいし、小さくしか撮れてなくてぇ・・・」というところであろうか。

 1960年代、野鳥をカメラハンティングする人口は現在とは比較にならないほど少なかった頃、飛んでいる鳥を狙うのには勇気を必要とした。それがちょっと大げさな表現なら、思い切りが要った。地上にいる鳥を撮るのに四苦八苦していたころとて、飛ぶ鳥なんぞは撮ってもロクなものにはならないという気持ちが支配的であったから。
 なかなかめぐりあわないシャッターチャンスが目の前にくると、相手を望遠レンズに捉えてピントを合わせるまでが、まず試練。ままよとシャッターを切っても、ブレないでピン良く撮れている可能性は、神頼み。ブレなくてピントもそこそこあっていると、露出不足とくる。ブレなくてピントまあまあ、露出OKの稀なる結果が得られたときには、ポースが悪い、構図がなってない。とは、カメラ経験の不足している私の場合であるが、まわりの仲間をみても状況はかなり似たり寄ったりと思われた。飛翔中の鳥撮は、手強さのトップレベルだった。

 「今月の1枚」は、35mmフィルムでトリミングは周辺部にほんの僅か。そこに小型の鳥を画面のいい位置に捉えている。よほど冷静でないと、画面中央へもってきてしまう。争う鳥のポーズ良し。周辺の環境を入れた(多分入れざるをえなかった・・・とは言え)描写よし。恐らくツグミの小競り合いは、たまたま通りがかりのチャンスだったに違いない。それを、この構図で1回のシャッターで決めていた。ネガスリーブに残されたのは、この1コマ(その日の最初の1枚)だけである。
 連写など夢のまた夢、そんな時代があったのだ。

  1枚のシャッターを切る瞬間の醍醐味とはどんなものかを考えさせられる作品といえよう。

2010 MAR.

孤独なナベコウ
撮影 ◆ 下村兼史
1928年1月16日〜24日(推測)
鹿児島県荒崎
資料提供:(財)山階鳥類研究所

下村兼史作品紹介:未発表のナベコウ

 日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史(1903−1967)が生涯に撮った1万点を超える「下村兼史資料」が、(財)山階鳥類研究所に希有なコレクションとして収蔵されている。今月は、その中からナベコウを紹介したい。
 ナベコウは、コウノトリの仲間である。雄は、光沢の鮮やかな黒と下面の白とのツートーンに、紅赤色の嘴と脚が鮮やか。今日でも日本での記録が少なく、私の憧れの鳥の一つ。下村は、鹿児島県荒崎の鶴の渡来地を最初に訪れた1927年に1羽を発見して以来1930年まで、何度か観察撮影の機会を得ている。

 『そこへまたヘラサギのあとを追うようにして、例のナベコウが現われた。遂にこの鳥は私から離れないのだ。現われると写さないわけにはゆかないような気がして、その都度写している。もういいかげん彼を写したフィルムが出来ているはずだ。
 ナベコウは藺草のくさむらの傍で眠り始めた。ヘラサギは彼方の水の畔で、淡い夕陽を浴びながら平べったい嘴で羽つくろいをしていたが、そのうちこれもまた、嘴を大事そうに背中の羽に埋めて眼をとじた。
 遮るものは何もない、この廣い枯草の原を、陽炎のゆらめくにまかせて、静寂の中に眠る二羽の白と黒の鳥、彼等が見る夢は果して白と黒の夢だろうか――。(1928.1.24)』(カメラ野鳥記. 1952. 誠文堂新光社. pp.141-142)

 広い荒崎田んぼで珍鳥ナベコウがカメラの前に現れると、『写さないわけにはいかない気がして』とは、50余年のバードウオッチングで一度もナベコウを見たことのない私にとっては、なんとも贅沢な話。『もういいかげん彼を写したフィルムが出来ているはず』という下村が荒崎で撮ったと判別できるナベコウの写真は、山階鳥類研究所の「下村兼史資料」に13点の乾板(及び18点のプリント)が存在する。その内、小川の畔にいるナベコウの写真は、4点の乾板に残されている。その中でここに紹介する資料ID番号AVSK_DM_0805が、未発表の1枚である。
 同じ時に撮られたと思われる他の作品は、『鳥類生態写真集 第1輯』(1930. 三省堂)の第12図に収録されている。今回初めて発表される作品が第12図と同じトリミングで紹介されることを、下村兼史は望んでいるかもしれない。私は、異なる表現を試みたかった。数百羽が群れて冬を越すナベツルやマナヅルのいる同じ田んぼで、ナベコウは唯1羽でいた。その孤独な姿を、敢えてその背に広がりのある構図で表現したい。さらに、下村が意図した珍鳥を中心とするトリミングよりも、今日では整然と区画整理された田んぼが、往時はかくも自然の佇まいでそこにナベコウもいた事実を、作品に語ってもらいたい。背景の田んぼと西干拓との境の堤防に植えられた一列の松は、知る人ぞ知る荒崎そのものの景観である。これらの想いを、80余年前に撮られた下村作品として表現したかったのである。
 私の解釈した未発表作品を、天国におられる当の撮影者下村兼史が「自分の撮影意図とは違うけど、まあ」などと控えめな微笑みでみてくださることを、切に願っている。

(財)山階鳥類研究所の下村兼史資料の利用についてのご質問、お問い合せは、同研究所の下村資料提供窓口となっている(有)バード・フォト・アーカイブスへ直接ご連絡ください。
mail:info@bird-photo.co.jp(@を半角に直して送信してください)
URL:http://www.bird-photo.co.jp/4_rental.html#anchor-5502
tel&fax:03-3866-6763

2010 FEB.

雪降れば、気もそぞろ

地吹雪に耐えるマガモ
撮影 ◆ 塚本洋三
1975年4月3日
アメリカ・ミシガン州

 2月に入って東京にも夜から雪が降った。朝にはほとんど消えてしまっていたのは残念であった。
 雪は、そこに住む者には厄介なものであるが、雪国を訪れる者にとってこれほど美しく魅力的なものはない。雪の中で息づく野生の生きものをカメラ構えて探し歩くのは、自然の女神がおいでおいでをしているようで、つい我を忘れる。

 緯度がちょうど札幌あたりのアメリカはミシガン州のアナーバーにいたころ、北国の積雪はさぞやと思ったらそれほどでもなく、気温もマイナス20度になることはほとんどなかった。愛用のアサヒペンタックスSP のオイルを寒地仕様にしてこなくてもよかったかと思ったほどであった。風さえなければ、“暖かな冬”だった。とはいえ、雪にはこと欠かない。
 しんしんと降る雪をみると、私は心落ち着かなくなる。起き抜けの窓辺で、降っている雪が写真向きか、写真写りのよくない雪かを見極める。一つ一つの雪が目に見えるようにみっちり一面に落ちていると、フォトジェニックだ。また、風で飛ばされる雪が横殴りの線となって見えるとき、それはめったにない撮影チャンスだ。
 「ウオッ、たいへん!」。私好みの雪だと、にわかに“体調が悪く”なり、その日は欠勤の連絡を入れて精神状態を落ち着かせるべく外出すること、しばしばである。リスや小鳥たち、運がよければ鹿の小群がお目当てだった。悪天候に野生の生きものに巡り会えしかも写真に納まってくれる機会は、そうはないことを承知しつつ。
 そんな或日、天気がよいのに積もった粉雪が強風に飛ばされる地吹雪となった。欠勤しなくてはバチが当たりそうな、写真向きの雪景色。雪の日の天候は変わりやすい。おっとりカメラで飛び出した。
 ミシガン大学にほど近く、ヒューロン川という響きのよい名の小さな川に、おなじみのマガモの一群をみつけた。一つがいが雪の上で地吹雪に耐えているのが、目に入る。「これだ、絵になる!」と思ったとたん、タイヤが雪にとられ車は動かなくなった。車は後で掘り出せばよい。目の前のシャッターチャンスは一瞬だ。とっさの判断で車から出る。
 「ウエェ 寒っ。」Y2のイエローフィルターをつけたタクマー300mmのほどよい距離まで、にじり寄る。「マガモも寒いんだろうな。」逃げるより寒さにじっと耐える方が先だぁみたいに、動かない。地吹雪と被写体に恵まれた我を忘れるひととき。これはなにものにも代え難い。
 あれから何十年もたって引っ張りだした画像に、あのときの強烈な体験が甦る。フィルムは、35mmロールフィルムの36枚撮り、トライXを使っていた。シャッターを切ってはフィルムをいちいち巻き上げた。手袋を脱いでのフィルム交換の時の指先の寒さったらない。
 撮り終わってもマガモ夫妻は同じところで同じように耐えていた。「相手になってくれてサンキュー」と後ずさりして、さて、車を掘り出す時にミトンの中でかいた汗がまた凍って、気がついた時は指先が色も固さも蝋のようになっていた。軽い凍傷にかかったかと、帰路近くの大学病院で手当をうけた10本の指先は、こうしてキーをたたく今も、この時期うっすら膨らんで赤みを帯び、そのときを忘れようにも忘れられないのだ。包帯でぐるぐる巻きにされボクシングのグラブのようになった両手。ぎこちないギアチェンとハンドルさばきでワーゲンをあやしつつスリップしやすい雪道を帰ったときの恐怖も、ついでに思い出す。
 「なにもマガモを撮るくらいでそんな目にあわなくったって・・・。」友人に言われて、照れ隠しにニヤリとした。そのときの1枚は私のお気に入りの写真となったからだ。

 “雪中、野生動物の図”は、ミシガンでの私の胸躍るテーマ。多少常軌をはずしても、そうは巡り会えないシャッターチャンスには代えられないものがあったのだ。
 夢中になれるテーマがあるのはよいが、雪は東京ではねぇ・・・。

2010 JAN.
タンチョウの舞い
撮影 ◆ 佐藤照雄
1978年2月12日
北海道阿寒町
寅年に鶴

 長寿めでたい折りには、なにをおいても鶴と亀は欠かせない。正月も、鶴。日本人の心の風情。寅年といえども鶴である。しめ飾りに鶴をデザインしたものがあると聞く。然り。新年の床の間には、松上の鶴の一幅。元旦の新聞一面。鶴さえいれば万事めでたく収まった。
 めでたい鶴は、いずれも頭に赤を頂き、体が白く、“尾”が黒いタンチョウが選ばれる。かくして、「今月の1枚」の正月は、北海道は釧路の佐藤照雄さんからバード・フォト・アーカイブスにご提供いただいた雪野に舞うタンチョウでめでたいスタートとなった。

 ふと気づいたが、近年タンチョウの伝統の座が軽んじられてきてはいまいか。出番が少なくなったような。一昔前にくらべて、めでたい席でそれほど鶴、鶴という雰囲気が感じられない。私だけの思いであろうか。
 かつて千円札の表に夏目漱石、裏面にタンチョウがデザインされていた。タンチョウの生態写真家林田恒夫さんの写真から描かれたもの。その千円札は3年ほど前に姿を消した。とたんに、話題となった“タンチョウ千円札”の記憶も急速に薄らいでいく。
 悲しいかな、次々に新しいものが登場するマスコミの世の中で、ひとたび舞台から去ったものはさっさと忘れられる。私たちは去り行くものに鈍感というか無関心だ。構っていられない、構う必要もない。忘れるつもりはなくとも忘れられる。かくして、知らず知らずに生活の周辺が味気なくなっていく。なんとなくではあるが、タンチョウは“社会的な絶滅危惧種”になりつつあるような気がしてならない。

 幸い、野生のタンチョウは元気だ。一時は絶滅したと考えられたが、1924年に釧路湿原で10数羽が発見、保護された。現在は“千羽鶴”を超えるまでになり、北海道の原野でしたたかに棲息している。私たちの生活に登場するタンチョウも、私たちの心の故郷でいつまでもめでたく羽ばたいていて欲しいものだが。

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