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北国の森に棲むカラフトフクロウ
撮影 アル・メイリィ
1971-72年頃の冬
ミシガン州 USA

あこがれのカラフトフクロウ

 日本のフィールドガイドには載っていないカラフトフクロウ。でも、フクロウファンなら一度は見てみたいフクロウである。
 カラフトフクロウと言われれば樺太(からふと)だけに棲んでいそうな印象を受けるが、そんなことはない。どうしてそういう和名になったのだ? もっとカッコいい名前がふさわしいと思うのに。
 樺太以外では、ざっと言って北半球北部の森林に広く分布する大型のフクロウで、見るのはそれほど難しくなさそう?・・・と思いたい。だが、日本から漠然と訪ねてもそうは簡単に姿をみせまい。私がバードウォッチングツアーで樺太を駆け抜けた時には、ご本家なのにその影すらも拝めなかった。森の奥深くにひっそりと・・・などと勝手に想像をふくらませると、それだけ神秘なフクロウに思えて“憧れ度”はつのるばかり。

 「ヨウゾウ、トロントの東にカラフトフクロウが出たぞ。見に行くなら詳しい行き方を教えるよ。ちょっと長いドライブになるけど。」 アメリカはミシガン州アナーバーに滞在中、地元野鳥の会で知り合ったアル・メイリィが声をかけてくれた。行くも行かぬもない。
 もらったA4の紙には、方向音痴の私でも間違えないほど詳細な図面。目的地は、ハイウエイ401からカントリーロードへ入った斜線部分の森だ。ここで多く見られているが、道路際の杭にとまっていることもある、とのメモ書き。そして矢印が1本、“We saw it here”。そこへ行けば見られるのが当然のように思えた。胸が高鳴った。
 1972年3月4日、午前1時45分に小雪のアナーバーをスタート。途中レストエリアで小一時間の仮眠を車中でとり、平均時速90km、550kmのドライブ。雪の原に針葉樹の森が点在するアウル・カントリーに着いたのは、8時45分。
 来たぜ、たった1羽の鳥を求めて。あまり人怖じしないハズのカラフトフクロウが、いまにも目の前だ・・・。

 一目でも見たいカラフトフクロウは、デカイ頭と胴周りが同じくらいだから、直立して止まっていると太い棒杭のように見える、ハズだ。フィールドでは“斑紋だらけの灰色の棒っ杭”を探すことになる。その格好だけでも惚れてしまうが、図鑑や写真で見ると、フクロウにしては黄色の、小さな眼がいい。その眼を中心に同心円の細い縞の班紋をデザインした顔がまたいいとくる。極めつけは、黄色の嘴の下の、ちっちゃな蝶ネクタイのような小黒班。姿形からだけでも魅力あふれるフクロウなのだ。是非フィールドで相対してみたい。

 アルがくれた地図の“斜線部分の森”の端を行く。寒気が全身を包む。なに、カラフトフクロウが待っているのだ、気にしない・・・。しかし、寒いぞ。
 ゆっくり歩を進める。うん? 私の重みでは足が雪にもぐりこまない。そのハズだ、表面が凍っている。やたらと滑りやすい。あっと足をとられると、緩やかな斜面が平らになるところまで、灰色の雪空を視野に亀の子状態で数10mも滑らされていく。足元へ注意を集中すると、フクロウを見つけ損なうのでは。フクロウを気にすると、スッテン、ツルルーーー。氷の雪面との格闘が、1日中続いた。
 その日、憧れのカラフトフクロウは憧れのままに終った。

 後で知ったのだが、アウル・カントリーがすっかり凍りついていたのは、私が訪ねた2−3日前に寒波が襲来したためだった。アノ凍った雪面ではネズミもでてこなくて、カラフトフクロウはきっと餌を求めてどこかに移動してしまったのだろう。

 あれから35年余りが過ぎた。あの時が長年のアメリカ滞在中で唯一カラフトフクロウの見られるチャンスだった。残念だったなと、代わりにアルがくれた六つ切大のプリントが、今も手元にある。時経てアルとの交信は途絶えたが、アルと私はこのカラフトフクロウの1枚で繋がっているのだ。

BPA

白鳥の飛ぶ故郷
撮影 ローゼ・レッサー
1970年代前後〜
新潟県水原町

ローゼ・レッサーさん撮影の写真は 今いずこ
 バード・フォト・アーカイブスへ提供いただける写真やネガ(オリジナルはデジタル化の後で返却されます)の中には、撮影データのまったく無いものが時に見受けられる。貴重な標本にラベルがついていないようなもので、そのような写真にはほとほと泣かされる。ゼロのデータを探り当てる当て処もない旅は、空しいことが多くともまた驚きの出会いもある。

 バード・フォト・アーカイブスの画像登録番号RL001−012。ローゼ・レッサー (Rose Lesser 1908−2002) さんの KODAKとFUJICHROME-RD 6x9 cmのカラーポジ12枚だ。撮影データはゼロに近い。
 撮影者がわかっているのは、ご提供くださった重原美智子さんにローゼさんご自身からプレゼントされたからだ。オリジナルポジを譲ってしまうとは、まず聞かない話。なんでもご近所で英会話を教える外人さんがいたので訪ねたら、もう弟子はとらないと断られ、それでいて趣味を聞かれて「鳥が好き」と答えると、急に「来週から来なさい」と。1994年、ローゼさん86才の時のこと。この奇妙な出会いがなかったら、重原さんも私もこのカラ―ポジに巡り会わなかったのである。
 拝見すると、写っているのは総て白鳥。オオハクチョウと識別できるのもある。その背景には見覚えがあった。あの山並み、湖畔の桜並木、餌をまく吉川さんらしきが胸にさげる餌籠。私が中学生の1954年に訪ねた瓢湖の記憶である。撮影場所は、ローゼさんから重原さんが聞いていたものとも一致し、あっさり瓢湖と判明した。
 撮影年月日は?――。写っている吉川さんが吉川重三郎さんなら、日本で初めて白鳥の給餌に成功した1954年から亡くなった1959年までの撮影。2代目の吉川繁男さんなら、1960年以降の撮影と絞り込めるのだが。
 画像が登録されてから3年間が過ぎていた。

[今月の2枚目]
白鳥に餌をまく吉川繁男さん
撮影 ローゼ・レッサー
1970年代前後〜
新潟県水原町

 去る11月8−9日に新潟県瓢湖へ連チャンで日帰りする人生珍しい記録をつくった。初日に撮影をほぼ終え、2日目に、淡い期待を抱いていたことが実現した。アポなし突然のお電話にもかかわらず、瓢湖の白鳥を守る会の関川央会長にお目にかかれたのである。懇切丁寧に応じてくださった取材の最後に、私はローズ・レッサーさんの写真を持ち出した。地元の方なら吉川父子を識別できるだろうかと、ワラをも掴む思いで望みをプリントに託したのである。
 「ローゼ・レッサーさんの?・・・」「え? まさかローズ・レッサーさんをご存じ?・・・」 プリントを間にして互いの驚きがぶつかった。なんと、ローゼ・レッサーさんは瓢湖に白鳥を訪ねて人間と野生の白鳥との交流に感動し、瓢湖白鳥を守る会の発起人のお一人だったとは。亡くなるまで顧問をされ、何度か瓢湖を訪ねてきていたのだ。会報『白鳥』第1号に1971年3月の発会式で記念講演されるローゼさんの姿があった。すると現在バード・フォト・アーカイブスに登録されているポジは、1970年代前後から20世紀末の間で撮影されたものと特定されたのである。
 データの追跡には根気と時間と時に“閃き”が必要である。それに、幸運も。かくしてローゼ・レッサーさんの最低限の写真データは揃えることができた。この場を借りて、重原美智子さんと関川央会長に“データゼロを探る旅”がかなり成功したお礼を申し上げます。

 とはいえローゼ・レッサーさんの遺された他のネガ、さらにプリントやアルバムの追跡は始まったばかり、というかアテもなく途方に暮れていたずらに年を過ごしている。
 ローゼさんは、1908年にベルリンで生まれ、来日が1929年。京都大学で地質植物学の高橋健二さんと結婚され、1955年に日本の子供たちと海外とで相互理解と友好を深めるために非営利団体 More Joy会を設立している。1930年代に北海道や樺太にも行き、たくさんの写真を撮っておられた。重原さんはその古いアルバムをローゼさんから見せてもらって感動されたという。私にはその古いモノクロ写真が捨てられずにどこかに実在していて欲しいと願うばかりである。あわよくばバード・フォト・アーカイブスにと、まだ見ぬモノクロ写真にさらなる夢を追っている。
 ローゼさんの写真やアルバムの多くは、恐らく教え子に譲られ散逸してしまったようである。お心当たりのある方は、是非ご連絡いただきたい。

BPA
渡り鳥に想いを託して
撮影 ◆ 真 柳  元
1974年9月28日
千葉県木更津市
“ホトトギス ホトトギスとて 明けにけり”

 干潟について書こうとすれば、切りがないほど。あれを書きたい、これも書かねば、と「干潟」が頭のなかをかけめぐる。ところが真柳さんが青春時代に撮った写真を前にしていざ書こうとすると、欲張るだけでちっとも文が進まない。この写真、どうも“なにか”を秘めているようだ。
 なんどもキーボードを前にして一字も書けないうちに、「今月」の最後の日となった。これはマズイ・・・。窮余の名案? そうだ、ここはアノ俳句、ホトトギスが詠まれた心境で押しとおすしかあるまい。

 一言二言だけ。千葉県小櫃川河口干潟は、今も40年ほど前のこの写真とほとんど同じ砂質干潟の佇まいで在る。東京湾に残された唯一広大な自然干潟は、私たちの貴重な共有財産と強調してもしきれない。
 写真の干潟をゆったり眺めていただきたい。そして、実際に潮風にあたりながら小櫃川河口干潟を散策するのが、干潟を「味わう」最高の方法であるのは言うまでもない。因みに、日本野鳥の会千葉県支部では偶数月の第1日曜日に小櫃川河口で探鳥会を開いている(http://www.chibawbsj.com/)。

BPA

期する瞬間
撮影
2008年9月25日
佐渡市新穂正明寺

 「今月の1枚」はトキをおいて他にはあるまい。日本の空を27年振りに飛んだ。人間が絶滅へと追いやり、同じ人間が再びトキよ飛べと復活の手をさしのべる。
 2008年9月25日
 秋篠宮殿下の1羽がまず、続いて紀子さまの1羽が飛び立つ。
 午前10時35分。
 さらに8羽が佐渡の曇り空へと消えていく。
 1歳から3歳の、雄5羽と雌5羽。10羽の先陣が私たちの希望を運ぶ。
 ここまで来たのだ。
 トキの身になっての保護施策が優先されることを望みたい。

 バード・フォト・アーカイブスへ送られた高野凱夫さんのカラー写真“この1枚”を、ご無理をおしてここに掲載させていただく。心から感謝したい。
 写真右から、秋篠宮、同妃両殿下。斉藤鉄夫環境大臣、崔天凱駐日中国大使夫妻、新潟県知事泉田裕彦、佐渡市長高野宏一郎の各氏。さらに長年トキの保護に尽力されている地元関係者、子どもたち。左端に秋篠宮殿下のサポート役で近辻宏帰さん(前トキ保護センター長)のお顔がみえる。

そして、トキよ再び――夢の実現へ

トキ7羽、ねぐらに帰る
撮影 ◆ 近 辻 宏 帰
1971年10月下旬
新潟県佐渡郡新穂村(現・佐渡市)

BIRDER 20(11) Nov.2006 より
 『晩秋の小佐渡。トキ保護センターの裏手は夕暮れどきの清水平で、もしやのチャンスを待つ。羽ばたく音が聞こえたよな、そのとたん、視野に“ふっと出てきた”7羽のトキが、鞍部を越えつぎつぎと滑空に移る、その瞬間。
 トキたちは、日によって餌場をかえ、別の帰路をとってしまったりする。地元にいても貴重なチャンス。トキ保護センターに赴任して4年目、1人占めの7羽が画像に残された。佐渡のトキは、1952年には24羽、その20年後に12羽に減り、さらに31年後の2003年に絶滅。センターでは中国産トキの増殖に成功し、佐渡の山へトキを自然復帰させる希望の日がようやく視野に入ってきた。』 

トキ保護の新たな一歩
BPA

飛び立つカラス
撮影◆西崎敏男
1978年2月
北海道濤沸湖畔

カラスの傑作写真

 カラスは私たちの身近な鳥なのに、なぜか見ごたえある写真が少ない。カラス&写真ファンとしては、どうにも残念な思いをしつづけている。

 それは、カラスに問題があるのか生態写真マンの責任なのか。
 カラスはご存知真っ黒である。あのつぶらな瞳が愛らしく写しだされるのはカメラマンの腕の見せ所であるが、すべからく黒く写るのをカラスのせいにはできない。
 モデルが悪いと写真にならないとの思いこみで、カラスは敬遠されてしまうのか? それならカラスは生態写真のモデルとして常に失格なのである。それはあるまい。
 なるほど、篠山紀信が不美人をモデルにした写真なんて私は知らない。前田真三がドブ川の風景写真をモノしたなんて、見たこともないのである。“醜に内在する美”を追求するのはまた別のセンスが要るとして、美しきものを対象に撮る方が、撮って安心できる心理も働く。スズメかキビタキかどちらかをモデルに撮影するとなれば、色彩豊かなだけで写真栄えしそうなキビタキを選ぶのが人情、とは承知しているが(因みに私はスズメちゃんのファンでもある)。
 カラスが醜であるとはいっていない。一見真っ黒な容姿故に被写体として敬遠されているなら、それは違うといいたい。妖艶なまでに微妙に変化する「濡れ羽色」は、カラスは黒い鳥という印象からすれば困惑するような美しさを秘めている。写ったのが真っ黒では「絵にならない」というなら、その真っ黒を活かした耳目を驚かす写真があってもよかろう。
 2種のカラス、ハシブトガラスもハシボソガラスも人間と生活圏が接近しているので、シャッターチャンスは少なくない。カラスの傑作生態写真がでにくいのは、どうも写真を撮る側の怠慢からではなかろうか。

 今月は、バード・フォト・アーカイブスに提供された数少ないカラスの写真の中から一枚を選んだ。こうなると、ハシブトガラスでもハシボソガラスでもどうでもよい。種名を超えている。30年も前に、凍てつく濤沸湖畔で撮られた西崎敏男さんの作品。ニコンF2にニッコールレフレックス1000mm(F11)のレンズ。フィルムはコダクロームII(ASA25)である。
 35mmのフレーム一杯のこだわった構図。飛び立ちのワンチャンスにかけたカラスの力強さとユーモラスなフォルム。氷のとけた水溜りから飛び立つとき蹴散らした水しぶき。嘴のハイライトから種類を詮索するのも楽しい。

 アーカイブスなカラスといえば、55年ほど前に根室の西別原野で撮られたハシブトガラスをまず思い出す。周はじめの『カラスの四季』(1956年、法政大学出版局)に載った春夏秋冬のカラスの写真。カラスが主役に選ばれたユニークな写真とエッセイである。
 この『The Photo 今月の一枚』を繰っていくと『周はじめと吉田元(はじめ)と私 (I)』に、『ハシブトガラスの春』と題した一枚が紹介されている。

 他に私のお気に入りとして記憶にのこるのは、財団法人山階鳥類研究所の創設者、山階芳麿博士が北海道東部の海岸で撮られたハシブトガラス。海岸でバケツのゴミを捨てる小母さんとまわりに群れるカラスが、両者の生活の一面として構成された何気ない作品。1943年の『野鳥』誌、通巻113号の口絵を飾っている。

 カラスファンとしては、唸ってつい見惚れてしまうようなカラスの写真がバード・フォト・アーカイブスに続々と登録されることを願っている。私も我がアパートの台所の小窓から隣のビルで鳴くカラスを狙ってはいるが、相手は確かにただ黒い。いや、なんとも難しい・・・。

BPA
カツオドリの親子
撮影◆高野伸二
1974年7月14日
東京都小笠原諸島媒島

暑中お見舞い申しあげます

伊豆諸島、小笠原諸島、硫黄列島、鹿児島県草垣島、南部琉球等の島々で繁殖し、その周辺海域で見られるカツオドリ。洋上生活者とて巣作りは島に戻ってする他ないが、その時期の南国の太陽は容赦なく照り付ける。親鳥も雛も暑さにうだる。そんな情景を写真で眺めているなら、不思議に涼を覚えるではないか。

写真は、今から34年前の撮影である。今年鳥島からアホウドリの移送保護策戦で名の知られるようになった小笠原諸島の聟(むこ)島から遠くない媒(なこうど)島で、野鳥生態写真家としても著名な高野伸二さんによって撮られた一枚。

繁殖海域に行けば普通に見られる海鳥であるが、本州からは遠い島のこととて人為的な影響はあるまいと安心していると、そうもいかない。昨今の人間による地球環境への干渉がカツオドリにも及んできている。すでに母島では、野ネコにやられてカツオドリは繁殖しなくなってしまった・・・。

BPA
あの日あの時
撮影◆菅野雄義
1960年1月1日
鹿児島県荒崎

 白い塊だけに、17羽の一群は広い田んぼや干拓地を見渡すとわりに簡単にみつかった。これほどの群れが定期的に越冬するところは、当時では他に情報がなかった。荒崎のヘラサギとて、行ってみて初めてわかったことなのだ。ナベヅルとマナヅルという2種類ものツルが見られたうえに、この貴重なヘラサギまで楽しめるのは勿体無い気がしたものである。

人っ気なし。見渡す限りバードウォッチャーは私たちの他に誰もいない。景色の一部になりきった地元の人がたまに望見されるくらい。東京からわざわざ鶴を見にきたのかと驚かれた。なに気兼ねすることなくそこら中を歩きまわれたのだった。
 1959年12月31日、バードウォッチング史上初めて生きたソデグロヅルが日本の野外で、ここ荒崎で高野さんによって識別された。そんなとんでもないことが起きていても、荒崎は人っ気なく静かな冬が過ぎた。珍鳥の出現がもしも近年のことであったなら、その冬の荒崎は全国からのバードウォッチャーでごった返していたであろう。
 当時の情報源といえば、前年の1958年に初めて荒崎を訪ねて知り合ったツル保護監視員の又野末春さんから届いた1枚のハガキであったのだ。翌1960年にソデグロヅルが再渡来したときは情報の流れが早くなり、そのときは電報であった。今日では瞬時にしてネット情報が全国をかけめぐり、1種でも多く鳥を見たいバードウォッチャーが浮き足立つこと、ご存知のとおり。

鶴っ気もない。訪ねた荒崎田んぼをいくら見渡しても鶴の影もない。「そンなぁ・・・」なのである。鶴見客の壁の向うに、いやでもツルの大群が見えてしまう今日の状況からすれば、ウソのような話である。
 それもそのはず、1959年の暮れに訪ねたときは、ドロドロの西干拓の塒に夕方もどってきたナベヅルは、合計して約320羽。荒崎田んぼのあちこちに昼間も家族でまた数家族で散らばっているマナヅル総てカウントして44羽。それにソデグロヅルの幼鳥が1羽。
 昨冬の記録(出水市のサイトによる)をみると、ナベヅル10,975羽、マナヅル1,059羽、クロヅル3羽、カナダヅル2羽の合計12,039羽。万羽鶴の壮観。今昔の違いに驚かされる。
 因みに、近年は鶴見の観光客が渡来期間中あとをたたず、鶴のいる田んぼには人間は立ち入り禁止であるから、昔のようにどこでも歩いてバードウォッチングするのは夢のまた夢。

松並木は? 日本の野鳥生態写真の祖、下村兼二が1920年代に撮った荒崎のツルの写真の背景でみなれた一列の松並木。1866年に完工された荒崎干拓地の潮止め堤防に、明治年間になって植林された。その松林を構図するだけで、ツルの写真は一幅の絵となる。ファインダーを覗いては下村写真にあやかろうと、私は常に松林を意識していた。その松林は、1970年ころにマツクイムシの被害にあって全滅したという。いかにも惜しまれる。
 環境の変化は他にも誰彼のおかまいなしに起きる。私が訪れた頃は、荒崎田んぼの畦は草で覆われ、小川あり、葦原あり、どことなく湿潤な雰囲気で、水田までもが周辺の環境にとけこんで自然っぽく感じられた。見るからに水鳥の宝庫、いかにも野鳥の天国といった感じが、どこを歩いてもしたのである。
 大規模な圃場整備事業が荒崎田んぼを一変させた。一枚一枚の大きな田が整然と区画をつくり、コンクリートの排水溝や農道。人間の目にはムダのない水田環境、野鳥たちにしてみれば “人工的な美味しくない”棲みかとなった。加えて周辺の開発が進み、宅地が増え、それだけかつての松林のある荒崎が懐かしい。

一枚の写真。私は荒崎の懐かしい想いをモノクロ写真で蘇らせ、それを人に伝える。写真は過去を語り、私たちの現在を読み直させ、とかく忘れられがちななにか大切なものをうったえかける。未来への宝だ。

追記:BIRDER誌2008年7月号p.15に「あの日あの頃」と題された懐かしいバードウォッチングの様子が紹介されている。

[ 今月の2枚目 ]
ヘラサギ 撮影◆塚本洋三 1960年1月1日 鹿児島県荒崎

  荒崎――半世紀前・後・これから

 今回の「The Photo 今月の一枚」は、国の特別天然記念物に指定されている鹿児島県の鶴の渡来地で、気ままに写真を撮っている東京からのバードウォッチャー2人である。ほぼ50年前のこと。
 右は、バードウォッチャーなら野鳥図鑑や生態写真集でお聞き及びであろう故高野伸二さん。愛用のコンゴー300mmをつけたグラフレックス。カメラ本体だけで3.8kgもするシロモノをひっさげる。
 左は私。長い望遠レンズはタクマー500mmであるが、高野さんのものである。歴代の野鳥生態写真の神様のお一人とはいえ二刀流というわけにはいかないので、私がその場でちゃっかりお借りしたもの。ただ、私のカメラにはマウントの規格が違って取り付けできない。その500mmレンズを私のカメラの標準レンズにただ押し付けて撮ろうというコンタンであった。レンズとレンズのすき間から光線がもれるのでは? 光軸は狂わないの? なんて些細なことを気にしては、この手の撮影はできない。狙う相手が相手の場合に、写真知識に乏しい私には精密光学器械がどうとか構ってられなかったのだ。

 写真から荒崎の昔と今とーー
あの時。2人が狙うのはその冬も越冬していた17羽ものヘラサギの一群。もう少し近づこう、と緊張して前へと踏み出す2人。ご飯のヘラのような嘴を背に託してノンビリ休んでいたヘラサギが起き出してこちらを見たり、2−3歩動いて位置をかえたりの個体がいるとみると、二人はその場で「凍る」。群れが落ちついたとなると、中腰でまた近づく。できればフィルムに白点であっても撮りたい気持が、一枚の写真にバレバレである。
 しかるべく「よしっ」の距離でシャッターが唸った。といっても、今のデジカメにくらべれば知れている。グラフレックスなら1回シャッターを押すごとにロールフィルムを手動で巻き上げ、6x6cmで12枚撮ったら1本オシマイ。その間ヘラサギが飛ばないよう祈りつつ、フィルム交換しなければならないからだ。

BPA
白鳥の声が聞こえる
撮影◆塚本洋三
1960年3月30日
北海道東部温根沼

野鳥の声を写す話

 野鳥の鳴き声が写真に撮れたとしたら・・・ どんな風に“見える”のか、いや“聞こえる”(?)ものだろうか。そんな思いを抱いたのは、大学生の頃、50年近くも昔のことである。

 1960年の春、鳥友と北海道東部は根室にほど近い落石へと旅立った。その頃東京から“最果ての地”北海道へバードウォッチングに行くバードウォッチャーは、日本野鳥の会東京支部の会員仲間にもほとんどいなかった。探鳥情報はゼロ。繁殖期ならいざ知らず、春なお浅い3月に訪ねるのは、未知の奥地を探検するような気分だったのである。
 大型のキスリングザックに探鳥道具はもちろん、旅の必需品いっさいがっさいを詰めこんで上野発の急行に乗る(当時これが一番速かった)。前の夏にたまたまお世話になった落石部落のお宅を“ベースキャンプ”にお借りした(つまり押しかけ居候、それが出来た佳き時代だった)。
 落石から雪道を徒歩で温根沼から風連湖へ抜けたときだった。クマゲラを初めて目撃し興奮して一休み。辺りの景色はどんなものかと、ダケカンバの木に登ってみた。視界が開け、一面の雪原となった温根沼が一望である。なんの変哲もない、しかし雄大な眺めがひろがっていた。頭がチーンとしそうな冷えた静けさ。
 と、はるかに白鳥の声がするではないか。この景色に思わぬ白鳥の声。ゴキゲンである。はじめは何気なく声が近づくのを待った。白鳥の一列が米粒ほどでも絵になるぞ。いつでもシャッターが切れるばかりに、待つ。断続的な声は確かに移動している。姿はまだ見えない。
 「お、そうだっ。」ピンとくるものがあった。次に鳴き声が聞こえたときにシャッターを切ったのだった。気分としては、ファインダーに見えるものを撮ったというより“白鳥の声が聞こえる景色”を意識して撮ったのだ。
 これが私の“声の生態写真”第1号であった。この一枚、私には写真の奥からあの時の白鳥の声が今もって聞こえてくるようである。白鳥の群れをついぞ見ることはなかった。
 その後この手の第2号はまだ“撮れて”いない。

 同じ北海道でついに“声態写真”と呼ぶにふさわしい一枚にであった。釧路に近い鶴居村の民宿泰都(現鶴居ノーザンビレッジ ホテルTAITO)に宿したとき、階段をあがった正面にタンチョウ2羽の巨大なカラー写真がいやでも眼に入った。「スッゲェー」目を見張った。
 眺めて2度たまげた。嘴を天に向けデュエットで高らかに鳴きかわす2羽のタンチョウだが、写真が鳴いていた。左の雄がコー! 間髪を入れず雌がクワッ、クワッ!と。そう今にも聞こえてきそうな。
 それというのも、ポッ、ポッ、ポッと3つのふわっと白い塊をカメラが写し撮っていたのだ。先に鳴いた雄の消えゆく息が1つ、続く雌の吐く息が2つ、凍てついた空気に浮かんでいた。
 参った。これはまさしく私が夢見た“声の生態写真”だ。タンチョウのカメラマンでも知られるご主人の和田正宏さんに脱帽したのだった。
 以来、このタンチョウの声を凌ぐ“声態写真”に私は出会っていない。

 “声の生態写真”では和田さんに叶うわけがない。闇夜に鳴くカラスの写真でも挑戦してみようかとヘソを曲げてみる。果たして?・・・

BPA

やがて海の王者に
撮影◆望月英夫
1963年4月中旬
東京都鳥島

 伊豆諸島鳥島から10羽のアホウドリの雛が小笠原諸島の聟島(むこじま)へ移送されたのは、今年(2008年)2月19日のこと。新天地で人工的に給餌され6kgほどに太った雛たちは巣立ち前の絶食状態にはいり、巣立ち準備の羽ばたき練習などしながらいいアンバイの4‐5kgほどにやせ、5月中下旬ころ自力で巣立って海洋での一人旅をはじめる。
 アホウドリの新たなコロニーを創ろうという人類初の試みは、鳥島からホップして聟島でステップする段階までこぎつけた。巣立ったふるさとに帰ってくるハズなので、聟島で育った雛も数年後には鳥島ではなく聟島に戻ってきて繁殖してくれるハズ。そのジャンプ段階をクリアーすれば、今回の新コロニー創設作戦は、アホウドリ保護史上の新記録を打ち立てることになる。

主役ではないけれど

 もっぱらアホウドリがニュースの焦点となっているが、北太平洋に棲む日本産のアホウドリの仲間には、他にコアホウドリとクロアシアホウドリがいる。アホウドリと違って、どちらも運がよければ定期船航路などでみられる。海上バードウォッチングの花形である。
 忘れてはいけない、このクロアシアホウドリが鳥島でも繁殖しているのだ。1967年に出版(刀江書院)された藤澤格著『アホウドリ』に、繁殖地燕崎の巣の分布図がある。絶壁下のザラ場斜面の上部、ハチジョウススキのはえている巣作り一等地をアホウドリが占め、巣の数21。斜面下部、雨のたびに泥流に脅かされる海寄りの二等地にクロアシアホウドリが巣をつくり、その数27。同じアホウドリ仲間が同じ崖の斜面で繁殖するのに、どういう力関係があるのか。仲良く一緒に、とはならない。
 この状態は今でも変わっていない。ただし、ハチジョウススキは姿を消し、一等地の“地価”は目減りしているようだ。それでも絶対数がはるかに少ないアホウドリが、より良い繁殖環境を独占しているのは、幸いではある。

 成長同士はすぐに区別がつくのであるが、ムクムクの雛となると識別に注意を要することがわかった。アホウドリの保護調査で鳥島へ毎年通う山階鳥類研究所のベテランでさえ、写真判定ではさらに慎重となる姿を傍でみていてつくづくそう思った。
 問題はここに紹介する雛の写真判定である。一番の特長とは、嘴の先がアホウドリでは何か別の爪のようなものをポッとつけたように見えること。と言われてその気で見たとて、本物を見たことのない私には判断できないほど微妙である。おまけに写真の雛はこちらを向いていて、嘴先端の特長が定かではない。仮にアホウドリとすると、4月中旬撮影の雛としては小さ過ぎるそうだ。巣のある雰囲気は、私の目にも二等地のようである。
 ままよと伊豆諸島は大島に住む撮影者の望月さんに尋ねたところ、45年前のこととて確信はもてないが、確か海岸に近かったように覚えているとのこと。安心材料として写真と同じような雛のカラースライドが見つかり、フレームに“クロアシ”と当時のメモ書きがあった。
 これらの状況判断から写真の雛は「やがて海の王者に」なるクロアシアホウドリと判定され、ここにお目見えとなったのだ。
 因みに、一等地でのアホウドリ親子の写真が、BIRDER誌 2008年5月号p.15に載っている。あわせてご一覧いただけたらと思う。

BPA

巣立ちを待つトキの雛
撮影◆引野 晃
1961年5月
佐渡市黒滝山

 トキのモノクロ写真も、「絶滅」しないうちにバード・フォト・アーカイブスとかしかるべき機関に登録していただきものと願っていた。写真がいつの間にか消えてしまっては、トキの過去を知るビジュアルな資料や、未来へ向けてのトキ保護の手がかりを失うことになる。トキの古い写真の散逸や自然消滅を佐渡の現場の状況から押して危惧される読売新聞社の一記者が仲介してくださり、私は佐渡市の引野晃さんと連絡がとれた。45点ほどのトキ関連の写真をバード・フォト・アーカイブスにご提供くださったのである。ほぼ半世紀前に撮られた1枚をさっそく紹介させていただく。
 因みにこの写真が撮られた黒滝山営巣地では、前年の1960年には一つの巣から3羽もの雛が無事巣立ちして鳥界のビッグニュースとなった。

 2003年10月10日、日本産最後のトキ、キンが死んだ。その時は思い及ばなかったが、今年の秋にはトキを自然へ試験的に放鳥する段階にまできたとは感慨深い。長い葛藤の年月をへて佐渡トキ保護センターで中国産のトキが人工繁殖に成功し、3月18日現在95羽(内4羽は多摩動物公園)に増えた内の数羽が、期待を担っている。
 センターで生まれ育ったトキは、そこから新穂正明寺の野生復帰ステーションの繁殖ケージへ、さらに自然に近い環境の順化ケージへ移され、トキも関係者も放鳥の準備を整える。3月12日には、これまで順化ケージで過ごしていた5羽の放鳥候補第1陣に、新たに10羽の第2陣加わった。この15羽の中から10羽前後が選ばれ、半年ほど後に迫った秋に試験放鳥される段取りとなる。いよいよカウントダウン。

 東京にいて新聞などの表面的な情報だけでも、トキ保護や地元の関係者のご苦労は察するにあまりある。日本で絶滅して野外復帰した鳥では、コウノトリが先輩である。華々しい成功街道を進んでいるコウノトリに続けと、トキ関係者へのプレッシャーは相当のものがあるに違いない。トキはトキの道を行けばよいのであるが、そうもいかない人間様のご都合がある。
 例えば放鳥のセレモニー。コウノトリ放鳥の式典に負けずにと、それなりのものを開催しなければいけない、ものか。人間の立場よりもトキのことを第一に考えよと、マスコミこそが先導してくれればよいのだが・・・。式典で追われるように放鳥されるトキこそ、有難迷惑であるはずだ。
 トキ放鳥を成功に導く人間側の理論として、セレモニーによる一般への理解やPR効果は、放鳥後の成功にとって欠かせないもの。コウノトリの例に学んだご意見だ。一理あろう。それならトキにふさわしい式典が考えられてしかるべきだ。トキの羽は神事に使われたという。厳かにして格調の高いトキに相応しい放鳥式典こそ、知恵の出しどころである。オリンピック開会式を手がけるような超一流のディレクターに託するのも一案ではなかろうか。トキのためを願い関係者にも歓迎される式典に思い切った金の使い方ができる太っ腹の意志決定者(環境省の誰かか?)が委員会に諮って、放鳥前後の段取りを遅滞なく仕切ることを祈っている。

 私はトキを野外で見たことがない。見るチャンスはあった。1952年、トキはすでに24羽に減っていた。「今ならまだトキが見られる!」 バードウォッチャーになった中学生の私を駆け抜けた衝動だったが、佐渡へ足が向くことはなかった。数少なくなったトキを佐渡の山で探し求めてトキを驚かせてはよくない、と子供心にヤセ我慢したのである。以来、野生のトキは私が「見てはいけない鳥」になった。
 そのトキを、もしかすると私の目の黒いうちに野外で見られる日がくるかもしれない。なんとも複雑な心境で、この秋には野外に旅立つトキと私との出会いに思いをはせている。

 人間様の勝手でトキを絶滅に追いやり、そして今や自然復帰させようとしている。種の保護、さらに、破壊された自然の復元から環境再生へ。それは人間にしか成し得ないこと。試行錯誤を続けながらたゆまず取り組むべき課題、それをおろそかにはできない。

トキが自然復帰する日
BPA
溺れる(?)巨船
撮影◆高島義一
1972年11月29日
神奈川県川崎埠頭

ちょっとハズれた写真

 野鳥・自然・人をキーワードとして写しこまれたモノクロ写真のご提供をバード・フォト・アーカイブスから呼びかけてみると、「なんだか違うなぁ、でも面白そう・・・」といった魅力たっぷりの写真も登場する。今月ご紹介するのもその1枚だ。

 高島るみ子さん。くじ運にまったく無視される私にとって、世の中にはこんな幸運な方がおられると思い知らされた人。BIRDER誌(文一総合出版)の鳥クイズで、スワロフスキーのフィールドスコープを手にいれられたのだ。バードウォッチングは嫌いではないという夫君とスワロフスキーの銀座ショールームにお出かけのところに、たまたま私が居合わせたのが初対面であった。2年前の我孫子市でのジャパンバードフェスティバル(JBF)でお声をかけてくださり、モノクロ写真のご提供を口にされた。連絡先をお聞きしておけばよかったと悔やみつつ、1年が過ぎた。諦めていた。
 と、去年のJBFでバッタリお会いしたのである。約束をしていたわけでもなく、広い会場で通りすがりに目があったのだから、誰かのお引き合わせという他はない。「写真を・・・」と、控え目に切り出してくれて、アッと気がついた。
 ご提供のモノクロ写真は、亡きご厳父、高島義一さんが撮影されたものであった。写真を拝見したとき、「なんじゃろ、これ?」と心でつぶやいた1枚があった。自然ものとは直接関連なさそうであるが、いや、なんとも不思議な魅力を感じたのである。
 楽しみに MAMIYA C330で撮られた77x77mmの写真をスキャニングし、B5プリントを作ってしげしげ眺めた。巨大な船が溺れかけている。波をかぶる右手の堤防に激突? まさか・・・。 空中の楼閣の如き数本のクレーンが現実離れしてみえる。下部に舷側とおぼしきものが写されている。果たして汽船へ向かう救急ボートからの撮影だろうか。人影がまるでないのも不気味。空の雰囲気がただならない。どうにも“荒れた”光景だ。謎めく画像に、悦に入る私。
 撮影状況がどうだったのか皆目わからない、という。それだけに無限の想像がひろがる。1970年初めに撮られたのだから、戦時中の写真ではあり得ない。でも、どこか壮絶な気配。タイタニック号が船影に重なる。呆れるばかりにお粗末な我が最新鋭イージス艦も脳裏を過ぎる。沈没しそうでもなお威厳と使命感を保持しようとしているかのような動じることのない船体に、憧れにも似たものを感じさせる。これこそ高島さんが写し撮りたかったのであろうか。画像に海鳥のワンポイントがあったなら言うことは無いのだが。海上を飛ぶとしたら、小笠原諸島の聟島への移住保護作戦で今話題のアホウドリか、それよりクロアシアホウドリの方が似合っているようだな、このシーンには。
 そうこう思いを遊ばせているうちに、なんとなく写真の秘密が見えてきたような・・・。
 高島さんの写真は、そのほとんどが川崎埠頭付近で撮られたという。この船の消息をご存知の方がいたなら、いろいろお聞きしたいものだが。
 すぐにトリミングする癖のある私であるが、この写真ばかりはそれを許さなかった。真四角のまま伸ばし、小さな傷をスポッティングしただけの、ご覧の通りである。四の五の言わせない写真である。

 1枚の白と黒の画像に、いろいろな物語がうまれてくる。これだからモノクロ写真はやめられない。バード・フォト・アーカイブスの登録画像に厚みと味を加えてくれる「ちょっとハズれた写真」が登場するのを、これからも期待している。

BPA

“貌”― 争い
撮影◆西崎敏男
1977年3月
北海道涛沸湖

 越冬地で餌付けされ人怖じしない白鳥は、携帯電話のカメラにも納まる。そんな白鳥が相手だと、手軽に撮れるだけに気がゆるむのか、白鳥自身に緊迫感が薄らいでいるのか、白鳥の美しさに安心するのか、デジカメ族がバシャバシャ撮る割にはピカイチの傑作が意外と少ない気がしている。
 こだわりのカメラマンがいる。西崎敏男さん。東京から野性の白鳥を訪ねて春にはほど遠い北海道へ。白い鳥の“貌”、静と動をねらいに。カメラはニコンF2。レンズはニッコールレフレックス1000mm。その明るさ、なんとF11。絞りがないのでシャッターだけで露出をコントロールする。使うフィルムはコダクロームII、これが僅かASA25だ。35mm一杯に構図する。ワンチャンスにかける集中のシャッターはただならない。
 一徹な撮りざまと写真術を聞いて半ば飽きれ、半ば驚嘆した。作品に惚れた。今から30年も前の撮影だが、いつの時代にも欠かせないセンスが、輝く。
コハクチョウかオオハクチョウか

 野鳥やその生態写真のファンなら、鳥の写真とみるとその種名を知りたがるのではなかろうか。私にはその傾向が強かったので、そう思ってしまい勝ちかもしれないが。
 4‐50年前、カメラで野鳥の姿をとらえようとした者は、自嘲気味。「鳥の写真なんて、ほとんどは撮った人にしかわからないですよね。」と。ネガに米粒のようなピンの甘い鳥影が浮かびあがっても、他人がそれを見て何の鳥かわかるだなんて神業でもムリだった。やっきとなるのは、ご当人だけ。伸ばしたところで伸ばすほどにピントはボケる。とは承知していても、伸ばしてみてはガックリし、次のシャッターチャンスを期待して、を繰り返すのだ。
 デジカメやデジスコで撮られた鳥は、多くは画面に大きく撮られている。まつ毛の一本一本まで、飛んでいる鳥の風切羽根一枚一枚までピントがきている。そういう写真なら、ほとんど識別が可能というもの。旧フィルムカメラ人種からみれば、あるまじきことなのだ。
 今日、そんな写真が大勢を占めているので、何の鳥かわからない写真は生態写真とは言えないなどと考える。生態を写したのだからまず鳥の種がわからなければならない、という理屈。写真集や雑誌などをみてみると、なるほど、種が判別できない写真はほとんど無いではないか。
 でも待ってください。写真の楽しさから言えば、なにも種名がわからなくとも良いのではないでしょうか。種が確かではない鳥影ワンポイントの写真も味のあるもの。問題は、この味をどう表現できるかだ。
 これだけ生態写真人口が増えてきたのであるから、種名のわからない写真がもっと発表されてよいと思っていた。それが実現した。BIRDER誌(文一総合出版)の1月号には、写真をみただけではコハクチョウかオオハクチョウかわからない「生態写真」のグラビアが組まれている。BIRDER編集部の英断に拍手。といっても、協力したのがバード・フォト・アーカイブスの私では、他画(?)自賛というか、我田引水というか、ではあるのだが。本ホームページでは、撮影者の許可を得て、モノクロにしてご紹介する次第である。
 こんなの生態写真じゃないや、と思うのも結構。種名を超えてピンボケをも恐れない味のある写真を意図的にねらってみたら、撮影の楽しみは倍増すると思うのだけど。超ドピントの超華麗なる今日的なカラー写真がどうも好きになれない私としては、(自然な)カラーであれモノクロであれ、見ごたえのある「生態写真」に光が当てられて欲しいものと切に願っている。

BPA
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