写真は1961年の作である。果たしてカルティエ=ブレッソンは、ジャコメッティの素描画「歩く男」を意識していたものかどうか?
素描画は、ジャコメッティのジャコメッティたる“歩く”ブロンズ像のいくつもの作品の原点かとみなされている。その素描画こそ、企画展で私を釘づけにしたものなのだ。ナナフシ(やせっぽちな、脚も体も針金のような昆虫)を立てに置いたような、よく見れば右に人が歩いているような、リトクレヨンで描かれた「歩く男」。それは、制作年不詳とある。
考えるに、カルティエ=ブレッソンは、ジャコメッティ本人とそのジャコメッティが創ったブロンズ像を同じ重みの被写体として捉え、存在の本質をそれぞれの被写体で追求し、かつ関連づけてみる。そして「“見えないもの”を見えるままに」レンズを通して印画紙に創出してみよう。そんなカルティエ=ブレッソンなりの深遠な意図があったのではないだろうか。
存在そのものを「見えないもの」と捉えるか、「見えるもの」ととるか。本質への根源的な視点は、カルティエ=ブレッソンとジャコメッティでは異なるように私には思える。真摯な探究は二人の共通点だ。では、「見えないもの」あるいは「見えるもの」を「見えるままに表わす」とは? この不到達の命題に、カルティエ=ブレッソンは、同じ芸術でも彫刻に代わる写真を手段として勝負する無言の挑戦状をジャコメッティに突きつけたのではないのか。
さらに推測を遊ばせれば、その写真作品をジャコメッティに示し、「どうだっ」と言いたかったかどうかは別にして、ジャコメッティの生涯のテーマ「見えるものを見えるままに表わす」の達成度をジャコメッティ自身が確認できるよう、その手段を写真が担えることを示唆する含みがカルティエ=ブレッソンにあったのではあるまいか。
「歩く男」絡みの、巨匠と巨匠の洞察が激しく交錯する作品中の作品。一枚のデッサンと、それを意識して構図したに違いない一枚のモノクロ写真に思いを致して、私は言い知れぬ緊張感にしびれたのだった。
なにごとによらず、ホンモノに接するは至福だ。私は心地よい興奮を覚え、神奈川県立近代美術館を出た。中空に、東京都内ではすっかり見られなくなったトビが1羽、ゆっくりと輪を描く。その軌跡を凝視して、なにか哲学しなければいけないような気分だった。
帰り着いたわが家に、カミさんが大切にしているジャコメッティのデッサンが待っていた。私とて長年眺めてはいたものだ。その日、ジャコメッティに傾倒した私、「いくらサインが無いからといって、もちょっと上等の額にいれたらどうかなぁ。」 それにはカミさんも、二つ返事。(塚本洋三記)