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2015 DEC.
海・太陽・地球 & 見えない存在
撮影 ◆ 山本友乃
1956年7月26日
津軽海峡青函連絡船より

COP21で合意 地球の未来に一条の光

「今月の1枚」は、山本友乃さんが北海道へ渡る青函連絡船上から撮った津軽海峡に沈む夕日である。60年ほど昔のこと。それからの間なんの変哲もないこの景観は、今日も一見少しの変わりもない夕景として私たちを迎える。
  実は、変わってしまっているものがある。それは写真には写っていない。人の目には見えない。見えなくとも無視し得ないもの、地球温暖化の影響である。

  人為により大気へ排出された見えない温室効果ガスのもたらす影響が、地球上の自然にそして総ての人々に及んでいる。周知の通り。問題解決には、国際協力が必要不可欠である。言うまでもない。先にパリで開催されたCOP21(気候変動パリ締約国会議)が進展するのかどうかが、注目された。

  COP21での全人類への朗報は、2015年師走も半ばになって各国にもたらされた。京都議定書以来18年ぶりに、2020年からの新たな枠組みとなる国際条約「パリ協定」とCOP決定が、全会一致の合意に達したのだ。合意内容はマスコミ報道などを参照いただきたい。ここでは、内容と同じく重要と考える合意の事実そのものの意義に触れておきたい。

思えば希有な国際規模の全会一致

合意がいかに難産であったのかは、合意に達した瞬間の会議の参加者が示した歓喜安堵のテレビ報道をみて読みとれた。歴史的な結果を産むべき採択に立ち会った議長国フランスのオランド大統領は、「世界は新しい歴史の一ページを作った」と称えたとの報道がある。各国代表がよくぞ長丁場の「ギリギリの交渉」を続けに続けた成果であった。
  難航してもなんとか合意に達しようとの会議参加者の強い思いは、裏を返せばそれほど温暖化問題が深刻以上に深刻との認識と解決の策を見出し得なかった際への共有する危機感とがあったに他ならないと考える。
  “条約加盟の196カ国・地域が合意したという事実”は、地球と人類の未来に一縷のしかし力強い希望が繋がったと見てよい。それほどのものを内包しているのだ。

COP21の隠された効果

今日ほど国際社会の協働連携作業が欠かせない時代は、かつてないのではあるまいか。多岐にわたる複数の重要な局面に直面している。地震・津波・異常気象、海洋ゴミ投棄、テロ対策、サイバー攻撃、貧困・教育、核軍縮・・・ 互いに問題意識を見据えながらも各国の利害や思惑が絡み合い、成果への進展が思うにまかせず、国際協調は厳しい状況にある。
  こうした多国間や全世界的な問題で、関係各国・地域が外交交渉や諸会議で合意に至らないもどかしさは否めない。もしもCOP21までが不成功に終わったとしたら、国際協調の進展という観点から、地球と人類の将来は糸の切れた凧のようになり、お先真っ暗とまで言わないにしても、かなり悲観的な見方をせざるを得ないところであったろう。
  会議後の各国の温暖化対策の現実的な実施が重要であることは言を俟たないが、その枠組みを全会一致で合意できたという事実は、他の国際的難題の解決へ向けて関係者への精神的な拠となると思われる。
  1984年以来、15カ国が協働し運用しているISS(国際宇宙ステーション)の例も現にある。多難な数年の協議を経てTPPは成果をみた。希望はある。希望を持って地球と人類の将来を展望しなければならない。ISSやTPPよりもさらに多くの国・地域が参加してのCOP21の合意は、国際間の難題に立ち向かう関係者の希望への根源的精神的な礎になるものとしても評価したい。

自然あっての人間の安寧

さらに思いをいたせば、COP21の成果は、地球上の自然と人間の関係を改めて見つめ直す好機とすべきではないか。
  人間は地球上の自然に生かされているとは、地球創世からの真実である。あまりに当たり前過ぎてその認識が忘れ去られているとしたら、COP21までの経緯に思いをいたし、改めて己の胸をド突いてみたらよかろう。
  人間が自然界の一員として生きていくために、なにをなすべきか、なにをしてはならないのか、地球規模で考え、各国が、率先して日本が「自然と共に生きられる社会」を築き直す、そのチャンスと捉えるべきだ。

  地球と人類の未来を少しでも明るいものにしていく不断不屈の努力が報われることを、COP21がその合意成果の裡で教えてくれている。そして、自然あってこその私たちの意味ありの生活がある。地球の平和をめざすために、その認識を遅ればせながら肝に銘じておきたい。

2015 NOV.
「干潟に潮が来た状態」
撮影 ◆ 下村兼史
1940年前後(推定)
千葉県新浜
写真資料提供:山階鳥類研究所


下村兼史の写真資料を追う

先々月(2015 SEPT.)では、同じ千葉県新浜の広大な干潟を紹介した。その干潟に潮が満ちて、堤防から沖を見やる一面の遠浅の海となった景観が、「今月の1枚」である。先月の干潮時の干潟と今月の満潮時の海とで“或日の干潟”の日周変化のピークを写真でご覧いただいた。
  写真は、山階鳥類研究所が所蔵する下村兼史写真資料の大型ネガ(ID番号AVSK_NM_1193)を、時経て劣化しているままデジタル化したものである。
  下村著の「千葉県新浜御猟場付近の雁と鴨」(野鳥7(2):86)と題された文中に載ったこの写真のキャプションには、「干潟に潮が来た状態。小舟の後方に夥しい鴨群が見える」とある。写真からはみでた広大な浅瀬にも鴨群が帯をなして続いていると想像すると、「夥しい」往時の鴨の越冬状況が彷彿とされる。
  第7巻第2号は1940年に発刊され、写真はそれ以前の撮影ということになる。

下村写真作品リスト作成の夢

下村兼史の写真資料といえば、「今月の1枚」で時々に紹介してきたのを含めてその生涯の作品の大部分が山階鳥類研究所に収蔵されていると思われる。バード・フォト・アーカイブス(BPA)も、山階にはないオリジナルプリント1点を含めて数百点所蔵している。他にどこかに存在しているかもしれない資料の情報収集を、できるだけ進めたいと願っている。
  実は、2018年秋に開催が予定される下村兼史生誕115周年写真展に先立って、写真・資料集を兼ねた“図録”の出版を想定している。資金面も含めて近々出版の決断をしなければならないが、その“図録”にはなんとか下村兼史写真の全貌がわかる資料を含めたい。そのためにも、山階鳥研とBPA以外の資料の存在をご存知の方は、是非BPAまでご協力ご一報いただければ誠に有り難いのである。
  この際、眠っている未発見資料が見つかればと、虫の良いことを願っている。

私も歩けば 虫の良い話に当たる

つい先月、下村兼史の甥にあたる藤村和男さん(故人)のご長男和久さんのお宅を訪ねた時であった。遺され>たご厳父の写真を拝見している内に、まったく予期せず下村のオリジナルプリントを1枚見つけたのである。
  キャビネ大のその1枚とは、まさに「今月の1枚」の小舟を漕ぐ人と帯をなす鴨の群。左隅に K.SHIMOMURA のエンボス。裏面には、野鳥誌のキャプションとまったく同じ「干潟に潮が来た状態。小舟の後方に夥しい鴨群が見える」との恐らく下村自身の鉛筆書き。
  このお宝写真がそのまま眠っていては下村の野鳥生態写真資料の損失とばかり、バード・フォト・アーカイブスに即ご寄贈いただいたのである。プリントそのものも得難いのであるが、下村写真作品リストに載る恐らく僅か一行であっても貴重な一行として文献に掲載され、共に後世に引き継がれていくことになる。
  和久さんのご厚意に、この場を借りて心から感謝申し上げたい

究極のプリント探し

思わないプリントの発見に気をよくして、これからも私は歩き続ける。狙うは、この10余年間アテなく探しているが、いまだ影すらもみつかっていない究極の下村プリント。
  それは、1922年に下村が初めて撮った野鳥の写真、原板第一号カワセミのオリジナルプリントである。原板そのものは、撮影から75年後に山階鳥研で発見されている。プリントは、どこにも見つかっていない。
  下村は、その著「カメラ野鳥記」p.225 に書き残している。「辛うじて私の手に残ったのはそれ等の原板(第一号と第六〇一号)から得た僅かなプリントが今はあるばかりだ。」と。
  どこかに「僅かなプリント」が眠っているハズだ。1枚でも発見されないものだろうか・・・。願わくば、2018年の下村兼史写真展に展示できるように!

(公財)山階鳥類研究所は、2018年秋に都内で下村兼史の写真展を主催します。
写真展および同研究所の下村兼史写真資料の利用についてのご質問 お問い合せは、
写真展実行委員会事務局および同研究所の下村写真資料提供窓口となっている
(有)バード・フォト・アーカイブスへ直接ご連絡ください。
〒111-0052 東京都台東区柳橋 2-1-9-901 (有)バード・フォト・アーカイブス内
tel & fax:03-3866-6763
mail:info@bird-photo.co.jp(@を半角に直して送信してください)
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2015 OCT.
秋空
撮影 ◆ 藤岡宥三
1963年9月
東京都新宿区

空を見上げれば ♪

秋の空は、心なしか寂しくまた美しい。
  意識して空を見上げたことが最近あるだろうか? 己に問うてみて、ハッとする。天気を気にして雲行きを読もうとする以外、空を見るという単純な行為を近年とんと忘れていた。

  「今月の1枚」は、なんでもないような空の写真である。実は、野鳥を主として自然モノを広く扱おうとしているバード・フォト・アーカイブスのコレクションで、空を主題にした極少数派の1枚なのだ。藤岡宥三さんの目が、レンズを通して半世紀以上も昔の都内の秋空を捉えていた。その空が、忘れていたものを思い起こしてくれたのである。

  高層ビルの谷間から見える空はいかにもサマにならないが、さりとて頭上一杯の大空があっても、見ようとして見なければ、昔も今も空はなにも語りかけてこない。

空を見上げる

ゆったりと移りゆく秋雲。雲一つない青空。時々の表情をみせる空を眺めるひととき。一心な気分になっている己に気づいて、我にかえる。
  空が見えていても、意識しなければ見ていなかったのと同じ。意識してみると、心に青空がひろがる。

  都会でのストレス多い生活にあって意識して見やる空は、気分転換以上に一服の精神安定剤となるに違いない。空を見るためのマニュアルは? ネットのどこにそんな情報がみつかるの?などと、ヤボなことは言うまい。一人で空と対話して、ボンヤリひとときを過ごしてみればよいだけである。

ハイテクな空?

先日、オリンピックイヤーまでには私たちの生活がかくも変わっていくだろうと、デジタル化した目新しいハイテク生活がテレビで紹介されていた。ハイテクに名を借りた子供だましの手品のような“生活の向上”が、「便利だ、便利だ」と押しつけられるのはご免をこうむりたい。新技術革新への試行錯誤から、誰もが望む真に生活を豊かにするものが登場してくるのであろうから、その傾向を否定する気はない。
  ひとこと言いたいのは、人間はハイテクのみで生活するに非ず。人間は自然のなかで生かされ生きている。自然の子としての人間の心の豊かさを培っていく努力が、ハイテク生活の向上と同じように社会の動きとなっていかなければならない、ということなのだ。
  人間の心の安寧や情緒の涵養とのバランスがとれたハイテク生活の進歩であって欲しい。

土壌からノーベル賞 空からも・・・

空を見上げて頭の中を空にする。それでは確かに儲からない。GNPになにも貢献しない。しかし、空を見るという人間一人の単純な行為の中に、長い目でみて世界中の人々の心を豊かにする妙薬が潜んでいるように思えてならない。
  ハイテク技術にまかせて今日の社会生活が物的な進歩進歩で突き進むと、心ある人間が近未来にはダメになってしまわないのか。
  自然が根源的に内包する”自然力”や人間の深層を科学する”脳心理工学”の最新知識などを駆使し、人間が人間らしく生きていける”妙薬”の開発で財をなさんものと起業家をめざす御仁たちはおられないものか。

2015 SEPT.
広大な干潟で秋の渡りに夢中
撮影 ◆ 岡田泰明
1957年9月15日
千葉県新浜

シギチドリが楽しめた干潟は 今 そして未来

暑い最中の8月から始まっているシギやチドリの秋の渡りが、まだ続く。シギチドリファンにとっては、干潟や水の残る田んぼなどに思いをはせて気持ちの落ち着かない季節なのだ。
  「今月の1枚」は、そんなわくわくの舞台の一つであった千葉県の、バードウオッチャーには新浜(シンハマ)と呼ばれた地域。江戸川河口と江戸川放水路河口の中間ほどに位置する干潟のド真ん中で、シギチドリを楽しんでいるバードウオッチャーである。
  二人は写真左手方向の浦安から堤防を下りて放水路河口方面へ気ままに干潟を歩いてきたところで、岡田泰明さんのカメラに納まった。写真右端の堤防の向こうに、丸浜養魚場の森がちっぽけに見える。森はさらに右へ、養魚場に隣接する宮内庁新浜御猟場へと続く。

話にならないほど広大な干潟

注目したいのは干潟の広さだ。
  バードウオッチャーは、いつもは背景を横切る堤防を歩くのだが、干潮時干潟に分散して餌をとるシギやチドリを探そうと、ずいぶん沖へでてきてしまっている。やたらに広い干潟だと写真からみてとれよう。
  ところが、写真の堤防沿いに左に目を転じると遠く江戸川河口まで、右を見ればはるか江戸川放水路河口の向こうさらにはるか三番瀬から船橋千葉方面へ、ふり返ればしかとは見極めにくいほど遠くの汀線まで、大潮が引いてあらわれた東京湾奥一望の干潟、干潟、干潟なのである。
  潮満ち来れば、オゴ採りのおかみさんたちが堤防へと帰路を急ぎ、シギチドリたちも上げ潮に追われるように鳴いて移動する。干潟はみるみる遠浅の海に一変する。1日で目にするこの刻々の変化は、天下の絶景に比すると言いたいのだ。

  この広漠たる圧倒的な干潟の広さ、静けさ、生きものたちの躍動を、文字で伝える術はあるのであろうか。そこに身を置いた者だけが実感できることは確かだ。干潟が存在していればの話ではある。

映画「或日の干潟」で見られれば良い?

新浜の干潟こそは、1940年製作の下村兼史の名作といわれる「或日の干潟」の主なロケ地であったと推測される。その頃はまだ群れで越冬していたサカツラガンやマガンが、多くの干潟の生きものたちとともにこの映画に登場する。
  「或日の干潟」そのままの干潟は、1960年代初めまでは「今月の1枚」に見るように、まだその昔と同じ干潟だったのである。60年代中ごろから埋め立てが始まり、干潟は急速に変貌して湾岸高速道路やJR京葉線などが帯となり、高層ビル群や住宅街となっていった。

  埋立地に育った子供たちやディズニーランドを訪ねる人たちは、その場がかつては干潟であったと知る人は、いたにしても一握ではあるまいか。干潟なんて、映画や写真に記録されているのがみられればそれで良いと、干潟を知らない人々は思っているのであろうか。それで良いわけがないと気づくこともなく・・・。

人間の知恵のみせどころ

人間は、良くも悪くもホンモノの自然を直接体験して情緒を培っていく動物なのだと思う。干潟は「今月の1枚」の主役として自然環境の一例に過ぎない。干潟然り、自然に遊んで五感で感じとれるものは、どんなに優れたテレビの自然番組をいくら見ても得られないのだ。自然の息吹から隔てられて成長し生活するうちに、ひとつに情緒不安定な人間が増え、そうなった社会で私たちの生活がどうなるのかは、胸に手をあてて考えるまでもあるまい。

  消滅してはじめて自然の存在価値を思い知らされることになっては、すでに遅い。目先の利益や環境保全を考慮しない経済発展を進めるばかりに、判断や意志決定の視野が狭められ将来への知恵が回りかねた過去の痛い教訓がある。私たちは先人の負の経験をも学びながら、先への道を選択し歩んでいかねばならない。
  自然と共存できる社会をどうつくっていくのか。この難題に取り組めるくらいの知恵は、まだ私たちに残されていると信じたい。

2015 AUG.
ジュウイチの托卵シーン
監督 ◆ 下村兼史
カメラ ◆ 佐野時雄
1942年6月13日
富士山麓須走
写真資料提供:山階鳥類研究所


下村兼史の映画「慈悲心鳥」

ジュウイチがコルリの巣にどのように托卵するのかを映像により日本で初めて記録されたのが、16分の短編映画「慈悲心鳥」(1942年 理研科学映画)。監督は、知る人ぞ知る日本の野鳥生態写真の草分け、下村兼史(1903−1967)。
  1940年から富士山麓須走にロケして繁殖期の3ヶ年、フィールドでの執念ともいえる観察撮影の苦心は、下村自身の著「カメラ野鳥記」(1952年 誠文堂新光社)のpp.1-48 「慈悲心鳥の謎」で余すところなく語られている。映画撮影の舞台裏が垣間見えると共に、下村の鋭い感性による須走の自然と野鳥たちの描写が清々しい。

托卵瞬間の映像記録

「今月の1枚」は、山階鳥類研究所が所蔵する映画ネガから、托卵のシーンを組んで紹介したものである(山階下村兼史資料ID:AVSK_MM_0019)。コルリの巣に飛来した托卵直前のジュウイチの♀(左上)。首を下げて前こごみになり、腰を巣におしつけて力んだあたりで産卵したに違いなく(右上)、産み落とされた自分の卵の代わりにコルリの1卵をくわえ(左下)、ジュウイチはすぐに飛び去っていった。10秒足らずの短いできごとであった。
  ジュウイチと入れ違うようにコルリの巣をみた下村は、「思わずまだベタベタとねばっている温い青い卵をふるえる手先きで、つまんでいた」(「カメラ野鳥記」p.46)。繁殖期の3シーズンをかけて托卵現場を探し求め待ち続けてついに巡り会えた瞬間の下村の心境は、察するに余りある。

山階鳥研所蔵の「慈悲心鳥」資料

下村の生涯20本を超える映画作品の内、1本として完全なものが山階鳥研には保存されていない。しかし、資料として断片的に切り残された極短いフィルムが数点ある。中に、映画「慈悲心鳥」に使われたカットが存在する。編集されていない1分43秒の長さ。托卵シーンを含めた同映画のハイライト部分をつないでいる。白飛びの部分があったりするが、まさに貴重な資料フィルムなのである。
  今に残されたこの短いフィルムには、下村監督のジュウイチの托卵謎解きへの積年の想いが託されているかのようである。

2018年の下村兼史写真展にて

「慈悲心鳥」の資料映像は、2018年秋に予定される山階鳥研主催の下村兼史の写真展で展示公開される予定である。ツツドリの雛に給餌するセンダイムシクイなど托卵関連の写真も多数展示されます。ご期待ください。

  資料映像を観るよりも、幻の名作とも称されるこの映画そのものが鑑賞できるにこしたことはないのであるが、現在フィルムの所在が知られているのは、35mm1本と16mm2本を所蔵している東京国立近代美術館フィルムセンターのみである。写真展を契機に、この映画を鑑賞できる機会が得られるよう努力を続けているところです。

(公財)山階鳥類研究所は、2018年秋に都内で下村兼史の写真展を主催します。
写真展および同研究所の下村兼史写真資料の利用についてのご質問 お問い合せは、
写真展実行委員会事務局および同研究所の下村写真資料提供窓口となっている
(有)バード・フォト・アーカイブスへ直接ご連絡ください。
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2015 JULY
新種の巨大海洋生物か?
監督 ◆ 下村兼史
カメラ ◆ 佐野時雄・古谷正吉
写真提供:山本友乃/BPA
1941年
東京都御蔵島

被写体の謎を解く

なにが写されているのであろうか、「今月の1枚」には?
  2012年にバード・フォト・アーカイブスに寄贈されてから3年間、データベースで眺める度に、キャビネ大のこのプリントの被写体は悩みの種であった。
  通常、なにを撮ったのかさえ不明な写真、撮影意図や写真的な価値などが見いだせない場合などには、間間ボツとの判断をせざるを得ない。日本のドキュメンタリー科学文化映画でもその名が知られた下村兼史がわざわざ引き伸ばして残しているのであるから、それなりに意味のある写真なのであろう。と、ボツにするわけにもいかない。

  枠が白く巾広に残されているプリントは、下村製作映画から起こされたスチル写真であろうと、他の同様なプリントから察していた。このプリントも下村映画の一シーンのハズである。まず分かるのは、ここまでなのだ。

謎の生物に迫る

被写体は何に見えるであろうか? 波間に浮かぶ巨大生物・・・。海の大蛇が上半身を浮かして鎌首を曲げた瞬間のような・・・。データベースにはひとまず「クジラ??」と入力してある。もちろん雰囲気はクジラではない。「?」が2つ付けられたところに、悩みの深さが察せられよう。

  下村兼史映画作品リストを作成するために、東京国立近代美術館フィルムセンターの図書館を訪ねた時であった。1941年の作品「嶋」(理研科学映画)に関する資料などは無いだろうと思いつつ念のため訊いたところ、なんと司書のお一人が見つけだしてくれたのである。「理研科学映画月報」というA4版4ページ。その一面に載っていた「嶋」関連の写真7枚の内の1枚が、なんとなんと件の「巨大生物」だった。察していた通り、映画の一コマであったのだ。

  舞台は伊豆七島の御蔵島。断崖に囲まれた島の生活資源に乏しい人々の生活をドキュメントしている。島で繁殖するオオミズナギドリは、島民の食料などに貴重な存在であり、島では鳥と人とが歴史的に共存している。下村の映画第4作目にして、自然が舞台であるが「人間」を撮っていることでも注目される作品。

判読し難いキャプション

肝心の「巨大生物」の写真に付されたキャプションが、右から読むべく読もうとしても読めない。なにしろ70年以上も昔に印刷されたもので、紙はへたり切って薄茶色に変色したわら半紙。写真手前の白波の中に、よりによって白抜きの印刷文字。このキャプションでは「巨大生物」の正体は謎のままとなってしまう。
  司書にルーペをお借りしたが、読めない字は読めない。司書がトライしたがやはり読めない。
  私は完全に諦めて別の映画作品に当たっていた時、耳元で読めましたとの司書の声。資料に対する司書のプロ根性に半ば呆れ、そうまでしてくれたことにそれこそ感謝一杯だった。確かに解読できたのである

「巨大生物」判明

キャプションは「彼はふだんの事の様に汽船迄泳いで渡った」と読めた。
  大海蛇の鎌首かと疑われたのは、泳ぐ御蔵島の青年。赤紙(招集令状)が届いて、沖止まりの汽船に乗って東京へ着かないと出征に間に合わない。大荒れの海に艀(はしけ)は出せない。島民が心配顔で見つめる中、意を決して荒海へ飛び込んだ青年が怒濤を泳いで汽船にたどり着く感動のラストシーンの一コマだったのだ。

  寄せる大波の影が大蛇の胴となり、その鎌首部分が人には見えないが実は泳ぐ青年。モノクロ写真であることもあって、トーンが一体となって巨大海獣のように見えたことが、被写体の謎を深めたのであった。
  わかってみればなんということもないが、被写体を特定するのにこれほど手間取った下村兼史の写真も珍しい。

付記:

●「嶋」は、御蔵島の風土と島民の生活をドキュメントした映画であるが、当時の戦意昂揚に役立つ文化映画として、また当局のその旨の認定を受けて一般公開が許されるために、下村兼史監督は前作品までとは異質と思われるラストシーンをとって付け加えざるを得なかったと推察された。もともと自由を愛し自然を愛した下村兼史の心境はいかばかりだったかと思いはかった一文がある(小山誠治 1973. 下村兼史の思い出. FCフィルムセンター 12. 東京国立近代美術館フィルムセンター, 東京. p.15); 谷川義雄 1978. 日本の科学映画史. ユニ通信社, 東京. pp.46-47)。

  ●「嶋」は、文部大臣賞受賞。昭和16年度日本映画雑誌協会映画賞日本文化映画ベスト・テン第2位となった(田中純一郎 1979. 日本教育映画発達史. 臥牛社, 東京. p.150; 映画旬報 1942年3月1日号, no.40. 映画出版社, 東京. pp.4-5)。

  ●私が本文で参考とした国立フィルムセンター図書館所蔵の「理研科学映画月報」には、発行所が理研科学映画株式会社である以外の書誌情報は載っていない。
  阿部 彰 1994.下村兼史論――内に情熱を秘めた「案山子」――大阪大学人間科学部 人間科学部紀要20:1-22.の[参考文献]6に拠れば、同月報は1942年8月号となっている。

  ●国立フィルムセンターの2006年時点での所蔵フィルムデータベース(未発表)には、「嶋」はリストされていない。最近になって同センターがフィルムを入手したらしい情報を耳にした。数ヶ月後のデータベース更新作業完了による新情報での確認と、いずれ映画そのものを鑑賞できる機会があることを期待している。

2015 JUNE
雨中に佇むアメリカササゴイ
撮影 ◆ 塚本洋三
1975年8月30日
アメリカ ミシガン州

悪天候下でも撮る気で

カメラを持つ誰しも経験することである。天気が荒れている時には、写真を撮ろうという気持ちが殺がれ勝ちであることを。まず愛用のカメラ機材を気遣わなければならない。外に出るという、いつにない気力の一押しも要る。それを乗りこえてフィールドへ向かうと、同じホームグラウンドでも一味違う舞台での被写体にでっくわすことがある。これぞ荒天の恵み。狙っていた或いは思ってもみなかったシャッターチャンスが待ち受けているかも、なのである。

雨は雨でも大雨だっ

今月は、時節柄、雨の中で撮られた写真を掲載すべくバード・フォト・アーカイブスのデータベースを捜してみた。見あたらない。その昔は、雨の日に写真を撮るということはまず頭になかったから、案外無いのも頷ける。
  そう思ってふり返ると、私の乏しい経験でも然り。だが、忘れようにも忘れられない写真が、1枚だけある。ミシガン大学にいた頃、ある日すごい雨が降った。めったにない写真向きの降りっぷりである。なんだかこれはチャンス!と、ハイウエイを30分ほど北へ飛ばし、ホームグラウンドにしていたケンシントン パークへ。

被写体はどうした?

駐車場からの自然遊歩道を池畔にでれば、いつもはたいがい何か写せる鳥たちが待っている。その日は人っ子一人いないのは有りがたかったが、いるハズのカナダガンの姿もなかった。鳥が見つかったとしても、さてカメラを向ける頃には肝心の雨が小降りになってガッカリするのがお決まりのこと。経験的に承知はしている。その日に限って雨はじゃんじゃん降っていた。舞台は整っているのに、肝心の鳥がまったく見あたらなかったのだ。
  雨音ばかりが、あたりの静けさを増幅していた。気分も湿って帰ろうかと、ふと目に飛び込んだのが対岸の枯れ枝に身動きもしないで止まっているサギの一種、アメリカササゴイ (Green Heron) であった。

1枚でも撮れれば ♪

即アサヒペンタックスSPを構える。車を去る時にすでに三脚にとりつけ、ビニールをまいて防水したつもり。レンズはタクマ−300mm F4.5。雨足がフィルムに効果的に捉えられるかとの思いで、シャッタースピードは遅めの15分の1秒に設定。カメラぶれを心配して用意してきたレリーズを使う。二三回シャッターを押す内に、機材も私も総てが濡れネズミとなった。
  まつげの水をはらって覗くファインダーがどうも暗く感じられたので前にまわってみたら、フードがついているのにレンズ一面が大粒の水滴だった。ドキッとしたが、なにか面白い効果が期待できるかも知れないと、お構いなしにシャッターを続ける。全部で7,8枚撮ったあたりで、ササゴイが動かないならそれまでと早々に退散したのだった。イメージしたようなネガができそうだと、ふつふつとする期待感を覚えつつ。

生涯忘れない あの時

こうして撮ったのがご覧の「今月の1枚」。40年ほど経った今も、あの時の雨中の撮影は五感の記憶にも鮮明である。35mmのフレーム一杯の構図を決めたときの「しめたっ」な気持ち。いくら水辺の鳥とはいえ、どしゃ降りの雨をよけようともしないササゴイを不思議に思ったこと。雨足の激しさを、ファインダーの水面に躍る水しぶきで知ったとき。ズブ濡れ撮影中の薄ら寒さ。こんな天気になにも〜と思う一方で感じた、ささやかな満足感。
  雨だろうが吹雪だろうが撮影優先の過酷な使用に耐える ”アサペン” SP+タクマ−300への私の信頼と愛着が、一段と高まった撮影となったことでも、忘れがたい。

  悪天候下での生態写真撮影は、未知なる己の写真表現への挑戦である。

2015 MAY
ツツドリを掴んで翔るハヤブサ
撮影 ◆ 岡本久人
1978年頃
福岡県筑前沖ノ島

こだわりのワンチャンス必撮技

35年前のカレンダーが一部、未使用で“ミントコンディション”のまま私の手元に保存されている。こんなカレンダーは他に例がない。私のお宝の一つ、永久保存版である。
  A3版ほどの横長の隔月で登場するのが、いずれもハヤブサのモノクロ写真。日本野鳥の会から発売されたこの1980年カレンダーは猛禽類1種を扱って、生態写真を志す者の憧れを先取りしたのだ。異なるポーズのハヤブサに目を奪われる。
  「今月の1枚」は、そのカレンダーの表紙を飾った、ツツドリを捕らえて食事場の崖に向かうハヤブサである。

人生哲学と重なるハヤブサ

オートフォーカス、連写、自動露出などなかった当時の銀塩フィルムのカメラで、撮りたくても撮れない「今月の1枚」のような写真がどうして撮れたのかと私は疑う。答えは、岡本さんの人生の基本哲学にあった:人のやっていないことに挑戦する。
  ハヤブサは、岡本さんの非常に好きな鳥なのだ。若くしてご両親を亡くされた岡本さんは、入学から就職、結婚など人生の節目節目を総て一人で乗りこえてきた。“自分自身の力”こそが本当に必要なものだと身にしみている。それが、ハヤブサ的に生きたいという気持ちと実践に現れていた。
  そのハヤブサで、誰も撮ったことのない写真を撮る。ハヤブサのスピード感を表現しよう。撮影目標は決まった。となって、ハヤブサのいる撮影場所を探す、機材を工夫する、カメラ技術を磨く。すべてが他人を超えるための己へのチャレンジであった。

ハヤブサ撮影のプロセスをも楽しむ

当時フィールドで見る機会の少なかったハヤブサをたまたまみつけたのは、趣味の野鳥調査で北九州野鳥の会の仲間とでかけた筑前沖ノ島。島には宗像大社があり、女人禁制で島全体が御神体なのだ。海岸の崖で恐らく繁殖しているらしい。そこを撮影の舞台に選らんだ。
  次は、意図する写真を撮るのに適するポイントを決めなければならない。まず始めたのが、撮影相手のハヤブサの観察。日周行動を知るためだった。
  岩影からハヤブサはどのようなルートでいつごろ飛び出すか、また獲物をひっさげてどの飛行コースで帰ってくるのかを記録する。撮影候補地点での光線の具合やどのアングルが撮影に最適かを体得する。ハヤブサの繁殖の邪魔をしないよう注意して観察データを重ね、現場で想定撮影の試行錯誤を繰り返す。いくつかの撮影課題に、年を追って答えが見えてきた。
  頭に描く絵コンテの如くにハヤブサが撮れそうだと選らんだ撮影スポットに、ようやくブラインドを立てる日が来た。そのブラインドも、当時は誰も使っていなかった迷彩色の生地を見つけ出してきての手製だった。因みに、カメラケースもザックも、フィールドで使い勝手がよいように自分で設計した手作りだ。
  ハヤブサをファインダーに捉えて最初のシャッターが押せたのは、筑前沖ノ島へ通い出して3年目であった。

  道具にも工夫がいる。使った機材は800mmの望遠レンズをつけたニコンF2にフリー雲台つき三脚。銃の照準器にあたる四角の枠を工夫してレンズの先にとりつけるようにした。飛ぶハヤブサをまずその枠内に捉えるや、瞬時に目をファインダーに移して手動フォーカス、即シャッターが切れるようにするためだ。
  その時、生来抜群の動体視力に加えて鉄鋼メーカーのシステムエンジニアとして職場でさらに鍛えあげた高レベルの眼力がモノを言う。岡本さんには羽ばたきが見えるという。翼の動きを見極めてシャッターが切れるのだ。

撮るべく設計してきた瞬間

かくして、ツツドリを運ぶハヤブサが目前を過ぎるときに叫び声をあげるという絶好のチャンスに巡り会った。いや、獲物をひっさげて翔るハヤブサを数年前から予測して、ここまで周到な準備をしてきたお陰だ。鳴いてくれたのは運がよかっただけ。オレのせいではない。オレはその瞬間、シャッターを押しただけ。たったの1回。必撮だった。
  生態写真撮影の醍醐味は、“その瞬間”に凝縮されていた。「やったぁ〜!」な気分、高揚感、充実感、そして、やや遅れてやってくる満足感なのだ。
  「今月の1枚」は35mmネガの左側をわずかにトリミングしただけであるから、狭いファインダーに高速のハヤブサを追いながらピントを合わせつつ構図し、叫ぶ瞬間を的確に判断してシャッターを切るという、一連瞬時の早技は並みのものではないことが頷けよう。
  正直言うと、岡本さんの超人技に感服しつつも、ボケボケのオバケのようなハヤブサが撮れているネガもあるのを知る私は、岡本さんも百発百中の撮影の神さまではないのだと、人間岡本に一抹の安心感をも覚えるのであった。

BPAフォトグラファーズ ティータイム:岡本久人さん

こだわりの岡本さんらしいと言えば、持ち前の解析力と好奇心で、ハヤブサの飛行予測ルート、運ぶ獲物の大小によって異なる飛翔速度、その時の風向風力、カメラから被写体までの距離などの諸データから、ハヤブサが出現して飛び去る間の最適撮影条件をあれこれ計算しようとはした。
  実際の撮影では、最後はカンのようなものになったそうだ。

  岡本さんは、他の趣味でも徹底している。他人が一つ持てばよいような趣味を・・・昔は軍艦の模型に熱中して部屋中が模型だらけ。デジカメ時代に誰がやっても撮れる鳥を撮っても面白くないと、あれほど熱中していた生態写真のカメラはお蔵に。今では部屋が埋まるほどの貝殻のコレクションだそうだ。世界の貝殻に蘊蓄を傾けながら、私が興味を示そうとなかろうと、「貝ですよっ、貝! 塚本さん!」
  趣味一般、絵画、芸術、文明論など好きなものを語る時は、楽しさ嬉しさ一杯の笑顔の岡本さんなのである。

  生涯プロジェクトの目標としては、環境保全と経済の総合的な両立を可能にする日本の豊かな未来社会の実現。難題満載の現在の閉塞的な社会が新たな目標へと転換すべく、ストック型社会の提唱、その基盤となるエコエコ理論(エコノミー&エコロジー理論)の確立、コンピューターシミュレーションを駆使して将来的実現へ向けての社会システムの構築と実践と、九州国際大学を拠点に東奔西走している。ストック型社会を目標とする「思考の設計図」と「行動の設計図」とを時代の変化を読んで常に微修正し進化させながら、岡本さんは前進することをやめない。

  持ち前のバイタリティーとチャレンジ精神で、趣味でも仕事でも人のやらないレベルに人生挑戦し続いている男、岡本さん。それだけでも私には驚異である。教わることのみ多かりきで、マネしようにも超えようにも敵わない盟友なのだ。

  岡本さんが撮るハヤブサの現代バーションが見られないのは、残念である。振り返ると、35年ほど前の「今月の1枚」のハヤブサが、岡本さんという人物をまさに象徴しているかのように思えてくるのだった。

  因みに、岡本さんのハヤブサの写真は、野鳥1980年1月号(45(1):口絵)、D. Patcliffe のモノグラフ、THE PEREGRINE FALCON (2nd ed. 1993. T & A D Poyser, London) などで紹介されている。

2015 APR.
干潟で休むシギチドリの群
撮影 ◆ 下村兼史
1920年代後半
有明海筑後川河口(推測)
写真資料提供:山階鳥類研究所


ドローンと野鳥の保護

近ごろ「Drone (ドローン)」が話題を呼んでいる。
  ドローンは、主に軍事目的に利用される無人航空機を指していて、一般の私たちは縁遠い存在であった。簡単に無線操縦される小型無人機が市場に登場し、それらを加えた総称として使われ始めたが、今日では、複数の回転翼をもつ小型の無人ヘリコプターを指すことが多いようだ。
  そのドローンは、数百メートルから1qほど離れた場所から無線操縦できる。性能によって、操縦者から無線機が目視できなくとも操縦でき、夜間飛行も可能とのこと。遠隔操作で動画も撮影できるデジタルカメラや、自動飛行を可能にするGPS(全地球測位システム)をも搭載される。
  廉価でも入手できる操作簡便な空飛ぶハイテクが今回の話題の主役、「今月の1枚」は脇役である。

画期的な実用性と邪な利用への懸念

コンピューターと遠隔操作によって制御されるこのドローンは、画期的な活用法をもたらしてくれる勢いだ。ラジコンの趣味娯楽レベルを超え、人間が容易に近づけない地域や空間領域で、すでに実戦活動している。
  接近困難な地形での測量、放射線測定、橋桁やトンネル内の点検、被災地や危険地帯での状況把握、防犯防災対策、遭難救助や緊急医療現場、マスコミの取材や番組制作など、など。
  自然環境や野生生物の調査研究分野のみならず、各方面で新たな視点からのさらなるアイディアが実用化されることは疑いあるまい。ロボット工学のように、未来の夢の生活に貢献しそうな勢いが感じられる。
  しかし、なにごとにもプラスマイナスがあるように、ドローンにも社会のダークサイドでの邪な利用が多岐にわたるのではないかと憂慮される。コンピューターとウイルスのように、プラスの勢いがあれば、マイナスにも勢いが伴いがちである。ドローンが社会や私たちの生活に脅威となりかねない懸念は拭いされないと知るべきである。

飛行の安全性と落下の危険性

ドローンの安全飛行性能はどうかというと、風に弱いようだ。風速3メートルまでは安定飛行するが、それ以上になると風にあおられた機体を制御するため余計にバッテリーを消費し、墜落する危険が増すという実験結果がある。空中静止を容易にする技術が進んではいるそうだが、商用利用の際の墜落もすでに起きている。ましてや、使い手が遊び感覚で気軽に操作できることに起因する墜落も看過できない。
  気になる事故:2013年9月、集会に出席中のドイツのメルケル首相のそばに落下したドローン。2014年4月に名古屋市内の繁華街で夜間空撮中に墜落したドローン。同年5月、福岡県の小学校正門前の歩道に墜落したドローン。同年11月に神奈川県のマラソン大会で撮影中に落下したドローン。今年1月にアメリカのホワイトハウスの敷地内に墜落したドローン。
  幸いいずれも大事故大事件には至っていないようだが、当面はドローンが私たちの身の回りに落下してくる可能性を心配して空を仰ぐしか、身を防ぐ術がない。

急務な法的規制と操縦者の自己規制

ドローンが家電量販店などでおもちゃ感覚で手に入るようになったほどの日本の現状で、懸念される最たるものはドローンを飛ばす法的規制が無きに等しいのが現実である点である。
  半径約9km以内の空港周辺は現行航空法で飛行禁止だが、航空機の飛行ルートでは高さ150メートル以下、その他では250メートル以下でどこでも自由に飛ばせる。庭先やマンションのベランダから間近に飛ぶ“謎の飛行物体”を目撃するかもしれない。搭載されたレンズに覗かれているようで、プライバシーの侵害を心配する向きもいる。
  この稿を書き始めた矢先の4月22日、首相官邸の屋上に落下したドローンが発見され、東京が騒然となった。政府関係者がさすがに一早く規制に動いたのは、報道で知る通り。重要施設の上空で小型無人機の飛行を原則禁止する方針を固め、航空法も改正される運びである。一気に法規制へと動いているのは、なによりである。
  とはいえ、法案が施行されるまでの期間、そして法による運用ルールが整備された後でも、ドローン操作に操縦者の良識は欠かせまい。残念ながら、良識や良心、他人や自然への配慮などが通じない人間が、社会で後を絶たない。心してかかることが肝要だ。

「今月の1枚」にドローン!?

撮影データは残されていないが、「今月の1枚」は、日本の野鳥生態写真の先駆者下村兼史が若き頃の1920年代後半に撮影に通った、福岡県筑後川河口のシギチドリの群れと推測される。
  この写真を眺めながら想像を逞しくするに、シギチドリたちの静かな憩いの場に空撮目的でドローンが近づいていったとしたら・・・。ドローンから送られてくる飛び立つシギチドリたちの映像がリモコンに装着されたスマートフォンでモニターされ、それを見てほくそ笑む“撮影者”が堤防に立っていたとしたら・・・。
  今現在なら、想像するまでもなく本番でどこででも起こり得る状況ではないだろうか。

野鳥を守るドローンの規制策を

重ねて強調したい。効用のプラスマイナスを併せ持つドローンに、思い切った規制が欠かせない、と。
  渡り鳥の集団渡来地や希少種の棲息環境なども、政府の規制する“重要施設”と同等の概念と認められるべきである。政府は規制の緩いドローン先進国に自然環境を大切にする環境大国日本をアピールでき、国際的な評価もうなぎ登りとなろう。
  現実にそのような規制は日本で期待できそうにもない。それなら、自然の調査研究や保護活動にドローンを有効活用して自然保護側が規制をアピールする一方、例えば野鳥を空撮したいばかりにドローンを利用する思慮無きカメラハンターを閉め出す自己規制の策を、全国組織の自然保護団体などが率先して打ち出さねばなるまい。
  自撮り棒のような爆発的な人気がドローンにも起きるとは予想したくはないが、C砲やN砲などの高価な超望遠レンズをつけた高級一眼デジカメを持つカメラマンがフィールドで少なからず見かけられる今日、高価なドローンの操縦者までが増えて目立ち、ドローンが野鳥撮影の“通常装備”と見なされることになるのは看過し得ない。
  フィールドマナーに反すると知りつつ野鳥を空撮することへの誘惑を払拭できない一部の“ドロカメマン”(ドローンで空撮するカメラマン)が現れそうだとの予測が、当たらないことを念じてやまない。
  政府の規制を待たずに、自然環境や野生生物の保護のためのフィールドマナーの徹底を含めた独自の規制策を、一歩でも早期に仕掛けていきたいと願う所以である。


付記:
  「今月の1枚」であるが、左端に“ア109”と書き込まれている。下村兼史が撮った“ア”の付く番号の前後の原板に写された映像を較べてみると、いずれも有明海での撮影と思われ、「“有明海のア”で109番目の原板」と読み取れるのではないか。
  因みに、鶴などを撮った鹿児島県荒崎の原板には“アラ”の文字がある。

(公財)山階鳥類研究所は、2018年秋に都内で下村兼史の写真展を主催します。
写真展および同研究所の下村兼史写真資料の利用についてのご質問 お問い合せは、
写真展実行委員会事務局および同研究所の下村写真資料提供窓口となっている
(有)バード・フォト・アーカイブスへ直接ご連絡ください。
〒111-0052 東京都台東区柳橋 2-1-9-901 (有)バード・フォト・アーカイブス内
tel & fax:03-3866-6763
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2015 MAR.
忘れまじ・・・
撮影 ◆ 久保田義久
1962年9月
広島県広島市

プーチン大統領の核兵器準備発言

人間には、決して忘れてはならないものがある。その最たるものの一つを象徴的にとりあげたのが、「今月の1枚」。バード・フォト・アーカイブスとしては異色な画像であるが、久保田義久さんが遺していってくださった1枚である。
  原爆忘れまじ。忘れてなるものか。
  そして、久保田さんが写真の前景に“生けるもの”を写し込んだ意図を想う。

原子力利用に歯止めはかかる?

原子力の平和利用を否定し得ない今日、その利用は進む。ひとつに原子力発電。しかし、他方で核兵器・・・。平和や生活水準向上のために? 戦争の抑止力として? それが人類の進歩に貢献? 原子力利用のプラス効果を期待したい一方で、問題が直接目に見えないだけに、なし崩しに核の負の問題は増幅していく。
  こうして“進歩”していく人間社会の将来への潮流は、なんびとをもってしてもくい止めることができずに、時は過ぎゆく。

底知れない権力者の倫理観

そんな現実に“事件”が起きた。3月16日、ロシアのプーチン大統領は、去年のウクライナ南部のクリミア併合で、核兵器使用に向けた準備を指示していたことを明らかにした。テレビニュースでインタビューを受けるプーチン大統領に、俄には信じられなかった。核保有国の権力者が起こすかもしれない、起きてはいけないと祈りつつどこかで危惧していたことが、起きたのだ。
  人類の平和を絶対に忘れてはならない大国の為政者が、“忘れてはならないということすらも忘れて”よくぞ発言できたものである。時代錯誤の歴史観と精神性を持つ為政者が国際社会でハバをきかせている。そういう社会に私たちは生きているということをも、新たに肝に銘じなければならない。

原点 人間も自然に生かされている

核は地球上の自然にとっても脅威である。人間の生活そして人類の将来は自然に依存して成り立っているという認識が薄い為政者にとって、核問題と自然保護とを結びつけるのは考え難いのであろう。難題とて、今や人為の撹乱による自然環境への対処は人類の将来を左右するくらいのことを、せめて真剣に考えてもらわねば!
  自然界の生きとし生けるものは、こぞってプーチン発言を非難しているに違いない。ドリトル先生がその声を人間の言葉に翻訳してくれたなら、それをプーチンが、世の為政者が読みこなせると期待するのは、果たして・・・。チンパンジーがコンピューターのキーを思いのままに叩いてノーベル文学賞に匹敵する文芸作品を完成するといったこと以上に不可能に近いことであろう。
  となると、私たち心ある普通の人間は、さて、どうする?

2015 FEB.
先生に引率されてフィールド一面のカナダガンを楽しむ小学生たち
撮影 ◆ 塚本洋三
1972年11月24日
ジャック・マイナー バードサンクチュアリ カナダ オンタリオ州

カナダガンが舞う

「今月の1枚」に見るカナダガンの群れ休む広っぱには、その昔は1羽のガンもいなかった。
そこは、アメリカはデトロイトからカナダに入って40kmほど南下した、エリー湖畔にほど近いキングスビルという小さな田舎町。1865年生まれのジャック・マイナーがこの町に移住してきたのが、13歳の時だった。ハンターとして獲物をマーケットに持っていっては金を稼いだり、家族の食料にもしていた。
  ある日、銃を持つジャックには警戒して遠くから飛び立ってしまうカナダガンが、野良仕事をする男の近くで平気でいるのを目にした。どうもガンは人を区別できるようだ。それなら自分は敵ではないとガンにわからせることができるかも知れない。その時そう思ったのがきっかけで、ジャックは決心した。猟銃を捨てて野生のガンと友だちになるのだ、と。


ゼロから60,000羽へ

ジャック39歳の1904年、敷地内に池をつくって、野生のカナダガンが舞い降りてくるのを待った。池に模型のガンを浮かべて待った。4羽の羽を切ったカナダガンを手に入れ、池に放して待った。来る年も来る年も、春も秋も、野生のカナダガンの群れは池の上空を渡り過ぎるばかりであった。近所の人たちはジャックを変人扱いし、挨拶代わりにガンの声を真似て返し、侮蔑した。
  しかし、ついにジャックの願いが叶う時が来た。4年後の1908年、11羽のカナダガンの姿が池にあったのである。翌年は、32羽が冬を越し、その年の秋には350羽がジャックの池に舞い降りた。ジャックは自信を深め、ガンたちに信用してもらえたという実感を味わった。池を大きくし、敷地内には野鳥の好む実のなる木を植え、サンクチュアリとしての環境を整えていったのである。

  ジャックとカナダガンの物語は、ジャックが敬けんなキリスト教徒である点をも語らねばならない。ジャックの考えや行いは、神への深い信頼に根ざしていたといわれる。遠くエスキモーの人々にも神のメッセージが伝えられるようにと、ジャックがカナダガンにつけた足輪には聖書の一句が刻まれていた。撃たれたガンにつけられた足輪がきっかけで、キリストを信じる道が拓けることを願っていたのである。
  私がマンリーから譲り受けた足輪には“Have Faith in God”(神を信じなさい)とあった。それを記念の指輪代わりにしていたカミさんが、神に近づくことはなかったが・・・。


「その時」の雁の壮観

私が1970年前後に何度か訪ねた時は、約4万羽と聞く大群がすぐ近くで見られていつもドキドキさせられた。午後の給餌時間前ともなると、ガン見物目当てに近郷近在から車が集まってくる。田舎町を走る一本の街道脇に、斜めに駐車の列が長くできる。しかし、騒々しい雰囲気はまるでない。ガンたちもフィールドで休んでいて、ほとんど声を出さない。静寂なひととき。人もガンも、「その時」を待つ。
  中に、地区教育委員会のバスで校外授業として小学一年生の学童たちが、ガンと同じ空気を吸って地続きにガンと共にいるひとときを楽しんでいた。それは、「今月の1枚」に見るように、なにごともない風景ではある。
  「その時」が来た。
  2台のトラクターがフィールドの両方向から街道沿いに、車から降りて眺めている見物客からちょっと距離をとって、ゆっくりトウモロコシを巾広に撒いていく。次々に舞い立つカナダガン。たちまち羽音や鳴き声の喧噪。そして、立ちすくんで眺める人々の感嘆、感動の叫び。
  互いにぶつからんばかりに目の前を飛び立ったガンが、見上げるすぐ上空で高く低く二つの大きな渦を作って飛び回る。それまでの静寂を破ったそのひとときのカナダガンの自然な舞台を、どう表現して伝えたらよいのだろう。
  ひとしきりの空中乱舞の出番の後、ガンたちは次々と観客の目の前におり立って騒々しい食事時間となる。好きなだけガンと過ごした観客は、三々五々帰路につく。学童たちもスクールバスへ。「その時」の短いフィールド体験が、成長する学童たちの心の糧として生涯どれほどプラスとなっていったことであろうか。


サンクチュアリあればこそ

ジャック・マイナー バードサンクチュアリの設立は、ジャックが雁と友だちになると夢みて池を掘り始めた1904年となっている。1944年に他界した後は、息子のマンリーが保護区の維持管理に当たっていた。約1.6平方キロの広大なサンクチュアリを訪れる観光客は、毎年数万人。ジャック独自の哲学に基づいて、絵ハガキなど土産物を売ったりするようなガンを商売の対象にすることもなく、入場料もとらない。餌代や管理費は、1910年から始められたカナダやアメリカ各地での野鳥保護の講演であがる収益を充てた。閑静な田舎町で野生のガンや飼育も含めた池のカモなどが楽しめるだけで、いわゆる観光気分で行くとアテのはずれる観光名所なのである。
  ジャックは、1929年に長年にわたる野鳥保護活動で名誉あるアウトドア・ライフ・ゴールド・メダルが贈られ、また1943年にイギリス王室から勲功章を授与されている。
  ジャック・マイナーのサンクチュアリでは、日曜の「その時」は給餌が行われない。知らずにやってきたガンウオッチャーが目にするのは、小さな看板。「日曜日はお休みです。教会で会いましょう」。

  本来のカナダガンの棲息地ではなかったところに「人のお節介」でできあがったサンクチュアリの生態系への影響を検証する余地はあろう。だが、あの時から40数年経った今でも、私が体感した興奮と感動はまざまざと脳裏に甦る。
  「あの時」は、人間が生きていくのに不可欠ななにか大切なものを問答無用に心に培ってくれているに違いないと感じている。それは、金や科学の力、また人工物からも得られ難い、人間の精神を健全に保つ源泉になっていると思えるのである。

2015 JAN.
丹頂鶴慰霊祭
撮影 ◆ 佐藤照雄
1980年12月5日
北海道阿寒町タンチョウの里

自然への心情

バード・フォト・アーカイブスに写真を提供して下さる方々の中で、鳥のみを被写体とする傾向の強い方と、鳥や棲息する環境のみならず関連する興味あるできことを画像に残す方とがいる。「今月の1枚」の鶴の生態写真家佐藤照雄さんは、後者のお一人である。
  ご提供くださった一連の写真には、タンチョウを調査する学童たち、鶴見客やタンチョウ写真ファン、給餌人の活動など、タンチョウと人との係わりを巾広く記録してきたものが含まれている。「今月の1枚」、丹頂鶴慰霊祭(第3回)の一コマも、他に発表されたタンチョウの生態写真と相俟って、釧路地方のタンチョウをめぐる過去の丹頂物語を今に伝えている。
  フィルムに記録された慰霊祭の様子から「慰霊塔はこれまで死んだ多くのタンチョウの冥福を祈り、あわせて一般の人たちに保護を訴えよう」との思いで建立されたことが読める。
  慰霊碑は今日では阿寒国際ツルセンターの観察スペースへ移され、もっとタンチョウが増えるようにとのかつての願いが、今日の“もう大丈夫”というレベルになった判断を受けて、慰霊祭そのものは行われていないようである。


自然を大切にする原点

こと鶴に限らず命を失ったものへの慰霊の念、日々の生活で世話になる万物をも供養する心は、日本人の心情として脈々と私たちの心に宿ってきた。こうした思いがあればこそ、この世で生きるものへの慈しみや共に生きる喜びを覚え、自然と共に在る我を知ることになる。そこに感謝の念が芽生え、自然を大切にしたいとする願いが培われると考える。
  科学技術の進歩で突き進む今日の社会にあって、こうした心情はとかく忘れさられ、人と自然との距離が隔たる。人は自然に生かされているという当たり前の視点が欠けて、自然のしっぺ返しを喰らっては「想定外だった」と反省する。科学し技術レベルを磨くことと共に、心とのバランスをよくしていかねばなるまい。

  旧年2月24日、全国に呼びかけて土浦市の羽黒山大聖寺で鳥獣類等の供養祭が盛大に執りおこなわれた。快挙である。それが、私たちの生活とともに在るべき供養する心、自然を大切にする心そのものの実体験であり、廃れることなくむしろ一段と心温まる行事となって日本各地で育っていく先導役となっていくことを願う。それが、いつの世にも忘れてはならない自然を大切にすることの心情的な原点である、と考えるからである。

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