■2013 Dec.■ BPAフォトグラファーズ ティータイム:望月英夫さん
長距離の航海で望月英夫さんほど海鳥を見ているバードウオッチャーを、私は知らない。海と空と波間に海鳥を追っているうちに、地球を2.88周したことになったというのだから、ハンパではない。今となっては現実離れなエピソードを含め、私の聞き及んだところをちょっとご紹介したい。
海に惹きつけられたのは
大井川の広大な水辺や河口の向こうに見える青い海が小さい頃の望月さんの胸に印象づけられたというのが、そもそものようだ。長じて、運命の羅針盤が海を指していたとしか言いようがないことに。まず、進学先で水産系と林学系へ願書を出したところ、水産の発表が先であったのが海へ向かう直接の道を拓いたのだった。さらに就職先で、ちょっとしたハプニングが。はじめ岩手県を予定したものの、伊豆諸島の大島に在職していた人が岩手へ、代わって望月さんが大島へ赴任することになってしまったというのだ。
以来、半世紀ほどすっかり大島の住人である。今年(2013年)10月16日の台風26号の豪雨による惨事は免れたとメールで知って、ホッとしたのであった。
初めての外洋
陸の見えない外海へ初めて出たのは、1962年大学へ入っての夏休み。東京芝浦の日の出桟橋から釧路へ向かう貨客船、三井船舶の大雪山丸に乗船したときだ。視野の広い舳先へは出られたし、4000トンに近い大型船で巡航速度が約14ノットと早くなかったので、鳥を見るには好都合。その時が、望月さんの海鳥ウオッチングの序曲といった北海道への航海であった。
仙台沖で初めて見たクロアシアホウドリとコアホウドリの大きさとゆったりした飛び方に感激したという。2種のアホウドリに胸躍らせたときの私の興奮もきっと同じようだったのだろうなと、望月さんのそれに重ねて昔を思いやる。
漁船のトイレ
望月さんが初めて漁船に乗ったのは1964年、40トンほどの近海カツオ船だった。神津島の西側で釣り台に腰掛けながら、船尾を追うようについてくるオオミズナギドリにレンズを向けてチャッターチャンスを待っていた。一段低いところが目に入って、そこが隠れて撮るのにちょうど都合がよさそうだったので、席を移す。案の定、そこから初めて海鳥らしい写真が撮れたゾと一人ほくそ笑んでいた。
ふと気がつくと、その隠れ場には下に穴がある。トイレだった。
夜トイレでデッキにでたときは、特に注意をしなければならない。海に落ちたら誰も気づかず、オシマイなのである。漁船に乗せてもらうのには、「何があろうと一切ご迷惑はお掛けしません」と一札入れるのが決まりのようなものだったので、自分で気をつける他なかった。
危なければトイレまでいかなくてもデッキから用を足してよいよと、船員に言われた。有り難く真に受けたら、別の船員に怒られた。
いずれも、その昔ならではの現実であったのだ。
卒論でマリアナ諸島近海へ
1965年、東京水産大学(現 東京海洋大学)で卒論のテーマに選んだのが「カツオに付く海鳥」。40年以上も昔のこととて所属学科の増殖科では受け入れてもらえず、漁業科漁場学教室に落ち着いた。卒論の正式なタイトルは知らないが、どうも海鳥見たさ故のテーマ選びだったに違いないと私は今でもそう思って、内心拍手している。
卒論のデータ収集では、カツオ漁船、第5甚生丸にお世話になった。約190トン、全長約42メートル。船は大きいし、太平洋のマリアナ諸島行きで航海が2-3週間ほどと長く、データ取りには絶好だった。この船と特に漁労長に海の万事を示し教えてもらい、望月さんは海の鳥男に育っていったのだ。
航海で出会った海鳥たちとともに忘れられないのが、1965年10月、台風29号によるアグリガン大海難。死者1名、行方不明者208名。最大の海難事故と言ってよく、その時、船は漁場より北にいて難を逃れたのだそうだ。自分が乗っている船が沈没するなどとは日頃から思ってもいないそうだが、帰宅して初めて海難のニュースを聞いて、ぞっとした。やはり海は常に死と紙一重なのを実感させられたと望月さんは述懐する。
船上が異常な空気に包まれる緊迫の操業中に、海鳥や魚群のデータを採り記録の写真を撮ったりが、望月さんの最もなすべきこと。だが、いつも海鳥が楽しめてよかったというわけではない。漁労も手伝う。人知れぬ苦労も重ねたようだ。
船縁での一本釣りはとにかく、釣れたカツオを魚倉へ納めるのを手伝う。大モノならば一尾、小さければ二尾を丈夫な尾の付け根を握り、本職の漁師の列に入って手渡しで運ぶ。それを日が暮れてもやっていたときには握力が無くなり、腕が自由に動かずに歯磨きができなかったそうだ。双眼鏡を持つ、シャッターを押すなどの腕の動きは押して知るべしだった。
海鳥のフィールドガイド
船に乗って外洋まで探鳥に行こうなどとは恐らく並みのバードウオッチャー誰もが考えもしなかった当時、海鳥の図鑑はW.B.Alexanderの“Birds of the Ocean”(G.P.Putnam’s Sons, N.Y.)があるだけであった。東京水産大学の動物学教室の蔵書に1冊あったが、貸し出しは出来なかった。望月さんは昼休みに見たり書き写しさせて貰っていたという。
この図鑑の初版は1928年。長い間絶版になっていたが、当時この手の図鑑がないので世界の学者や海鳥ファンの要望を受けて増補改訂され、第2版が出た。私が今でも折に触れ本棚から取り出して海鳥ウオッチングの昔を偲ぶのが、1963年の第2版。望月さんも後にその版を入手され、同じ図鑑で海鳥を学んだとは、なんとなく嬉しい限り。
この本の存在を私に教えてくれたのが、私の大学時代からの鳥仲間、「案山子になったクマゲラ」を撮った杉崎一雄さん。同じ東京水産大学で望月さんの5年先輩にあたる。ついでながら、先月ご紹介した菅野雄義さんも水産仲間で、杉崎さんとは同学年だったのだ。
Alexander世代という海鳥ウオッチャーの仲間意識みたいなものがある。海鳥識別の先駆けを自負するというか、海鳥図鑑が豊富に揃う今日では海鳥ウオッチャーの化石群と目されるのか、とにかくアノAlexanderの海鳥図鑑に至って、望月さんは懐かしさの総てを私に思い起こしてくれたのだった。
BPAに海鳥の写真登場
バード・フォト・アーカイブス(BPA)との関わりは、唐突であった。2006年9月1日のこと、望月さんから、いきなりキャビネ版写真6枚が郵送されてきたのだ。私のアメリカ留学で中断していたかつての時々の交流が、それから復活したのだった。簡潔な手紙には、「モノクロは20才台のものでお役に立てるかどうか、海鳥を同封してみました。」とある。
見れば、写された鳥の種類からいっても、写真の見応えからしても、唸ってしまうものばかり。BPAのデータベースには外洋の海鳥の写真は当時無かったので、一も二もなくご提供をお願いしたのだった。数枚をここにご紹介させていただく。
アカオネッタイチョウ!
撮影 ◆望月英夫
1965年9月1日
太平洋北マリアナ諸島ウラカス島の北(北緯22°40’ 東経143°55’)
カツオ漁の操業前に船の先端部(やりだし)に出ていたら目の前に現れた 感激の一瞬をMinolta SR-1 Auto Tere Rokkor-QF 200mm で捉えた
第五甚生丸でのカツオ一本釣り
撮影 ◆望月英夫
1965年9月1日
太平洋北マリアナ諸島(北緯19°50’東経145°20’)
ボースン(甲板長)の表情が操業の心意気を総て語る 船の先端部がやりだしと呼ばれ 力のある人の釣り場となるのだ 魚群探知機などなかった時代は魚群を探すのに漁労長は海鳥の動きを知ることが欠かせなかった
ハシボソミズナギドリ
撮影 ◆望月英夫
1984年5月25日
東京都大島波浮港沖
波からの風を受けて波間を“ナギるように”帆翔するミズナギドリの仲間の普通種ハシボソミズナギドリである 一見同じように見えるハイイロミズナギドリとの識別には 私は泣かされている。
アホウドリの若鳥
撮影 ◆望月英夫
1963年4月14-20日在島中の撮影
東京都鳥島
地上では歩き方もぎこちなく思える 撮影当時の鳥島は鳥の数が少なかったのか ハチジョウススキの間からアホウドリが現れるといった感じだったと聞く
アホウドリの降下飛翔
撮影 ◆望月英夫
1963年4月14-20日在島中の撮影
東京都鳥島
ひとたび空の鳥となると 壮大な飛翔姿に目を見張らされる 写真は繁殖地ならではの地上めざして降りてくるアホウドリ
半生の記録を本にしては?
1962年に貨客船大雪山丸での釧路航路で始まった望月さんの航海歴は、1963年の凌風丸での鳥島、1983年の海鷹丸での2万マイル103日の航海、果てはガラパゴス、南極などを含め、2005年には航海距離6万マイルを超えたそうだ。船に乗りたいのに乗っていない私からみれば、羨ましいとかいう範疇を遙かに超え、私の夢見る世界が望月さんの現実だったのだ。
その間に撮った海鳥が何種になったのかお聞きしていないが、インド洋でのシロハラグンカンドリ3羽のダイナミックな画像は、ちょっと見せていただいた写真の中でも私の目に焼き付いている。他にも傑作があるに違いないと睨んでいる。
そんな希有な経験を持つ海鳥ウオッチャー望月さんのこと、ここは一つ、望月さんご自身に自らの航海&海鳥ウオッチングの記録、そして地球規模の海への想いなどを著して欲しいものだ。そう願うのは私一人ではないはずである。
突然ですが、望月さん、いかがでしょう?! 大島で海を眺めながら、半生を振り返る。悪くないと思うけど・・・。
●●2013 Dec.●● 年の瀬 宝くじから写真展まで
師走だ。人生の夢をジャンボ宝くじに託さねばならぬ。当然、億狙いである! 当たらないとは分かっている。買わなければ当たらないと自分に言い聞かせ、長蛇に夢を買う順番を待つのが例年のこと。今度こそは当てて、バード・フォト・アーカイブス (BPA) の写真展開催の夢を実現させよう! 内心、「むっ、はかない望みかぁ。」 実は、くじ運のまったくない私。同時にもう一つ言えることは、人生諦めてはいけない、なのだ。さて?
銀座で長蛇のできる有名な宝くじ売り場がある。そのほど近く三越日本橋本店で、これまた年末ならではの「2013年報道写真展」(東京写真記者協会主催 12月14−24日)が開かれていた。
混まない写真展開催初日に
丁度近場でのマスコミ写真関係の重鎮の小宴に参加させていただいたお陰で、宴後の報道写真展への俄ツアーに私もついていったのだ。
T社の写真部現役の方の解説付きという豪華な鑑賞のひととき。興奮状態で会場を一巡した。新聞などではどんな秀作でもサイズの限られる写真が、ガツンと伸ばされて眼前に迫る。しかも年間に報道された中で選りすぐられた写真ばかりがズラリ。
看板写真としてまず目を引いたのが、世界遺産となった富士山の正月元旦の御来光空撮(静岡新聞社)。希望の初日の出。逆光の稜線に雪煙が舞い上がる。壮大なスケールだ。胸のすく思いで眺め入る。あの場面もあった、そうだ、あの時は・・・と、過ぎようとする一年が傑作写真とともに駆け抜ける。
展示写真いちいちの感想を書いていては年が明けてしまう。まとめて一言、まさに「歓声と感動が伝わる、一瞬の真実」の連続であったのだ。展示の総点数約250点。
“紅一点”のモノクロ写真 発見
カラー写真ばかりである、当然。ところが、あったのである。モノクロ写真が!
企画写真で、「認知症とわたしたち ともに暮らす」(朝日新聞社・川村直子)と題した5枚組である。BPAの「今月の1枚」では白と黒の微妙なグレデーションがままならないのだが、展示されたモノクロ写真では高齢化社会にあって認知症と暮らす家族の葛藤が、絶妙なグレデーションで率直に“色濃く”表現されている。
魅せられた。作品は企画部門賞に選ばれていた。カラーばかりの中にあってモノクロが選ばれ、ちょっとした事件のような心地よい衝撃を受けたのだった。
ふと、企画部門賞は近年全盛のカラーではなく、どうしてモノクロ写真? 狙った主題である認知症の実情が観るものにもっとも訴える表現ができるのは、カラーよりモノクロであろうとの判断だった、と聞く。
カメラを構えた時、どうしたら意図する狙いが一番活かされるのかと考えるのは当然のこと。被写体を前に、構図、光線、動き、ボケ具合、流れ・・・瞬時に思考と感性とを働かそうとはする。しかし、カラーで撮るべきかモノクロかの“撮る以前の勝負”を私は放棄していた。時代が提供するメカの成り行きまかせの撮り方を反省させられたのだった。
今のデジカメなら、通常カラーで撮って(撮れて)当然と思ってしまう。そんなカラー写真族の中に、“撮る以前の勝負”に配慮する向きが増えてきたら、モノクロ写真のモノクロ写真たる味わいが見直される日が意外に早く来るかも知れない。私が気づいていないだけで、今日の高水準の光学技術をもってしてもそのカラー表現のレベルに飽きたらない“お目覚めモノクロ族”増殖の足跡が、もう聞こえてきているのであろうか。
モノクロファンとしては、意をちょっぴり強くするような報道写真展での一作品であった。
目の前に2014年
余命を意識できるのは、年寄りの特権?である。その資格ありと自らを認知した私は、やるべきことやりたいことにどんどん挑戦していかなければ、後がなくなる。予知し得ない人生のゴールへ向けて挑戦し続けることこそが長生きの妙薬と心得て、野鳥・自然・人に係わるモノクロ写真を追い、暮れも正月もないような気分ではある。ま、三が日くらいは呑んで食べ、寝てはジャンボ宝くじが当たる痛快な夢でも見たいものだ。
どうぞ皆さま、健康で充実の夢多き新春をお迎えください!
■2013 Nov.■ BPAフォトグラファーズ ティータイム:菅野雄義さん
私の手元で2枚の写真がみつかった。8年前の2005年9月のこと。裏面に「P. by T. Sugano」と「菅野氏撮影」とあり、「1959−60 荒崎」と書かれている。
2枚とも、野鳥の識別や生態写真家として聞こえた高野伸二さんと私の撮影姿や鶴の越冬地、鹿児島県荒崎の往時を背景に伝える写真である。これは一つバード・フォト・アーカイブス(BPA)に登録しておきたい。撮影者を確認してご提供のお願いをしなければ・・・。
「スガノ」氏は どこに
現場で私は当然「スガノ」氏にお会いしているハズであるが、その後の親交が途絶えて40年余年が経っていた。今ではBPAで保管されている高野さんの野鳥ノートに、同行者の名前は記されていない。まったくアテにならない私の記憶をたどると、確か私の古くからの鳥友、杉崎一雄さんの友達だったような・・・。
「その年に荒崎に行ったかどうかわかりませんが、大学時代の旧友で菅野雄義(すがの・たかよし)の可能性があります。」と連絡先とともに杉崎さんからの返事が返ってきた。うまくいく時はうまくいくもので、数日の内に連絡のとれたのがお尋ね人ご本人であった。
ネガは見つかるかわからないが、私の手元の2枚の手札プリントでよければご自由に、という有り難いお話。長いブランクを写真のご縁が一挙に埋めてくれたのだった。
雲のようなお付き合い
菅野さんとの出会いは、流れる雲の如くである。どこか東京近辺のフィールドでなんとなく一緒になって鳥を見ていたり、かと思うと遠く鹿児島県荒崎の田んぼで予期せず再会し、そこで当たり前のように挨拶をかわしたりしたのだった。控えめな方で、静かな探鳥のひとときを時々のフィールドで共に過ごしただけなのである。
今回も手紙と電話とメールだけで、お目にかかることもなくBPAの一件が落着。記憶にある半世紀も前の菅野さんの若き丸顔は、年をとることなく今もそのまま私の脳裏に残っている。
写真はといえば、頂いたに違いない2枚を知るのみで、どんな写真を他に撮る方なのか存じ上げないでいる。
そんなわけで、BPAのデータベースに収納されている2点のみを、その写真にまつわるあれこれと共に、ご紹介させていただく。
あの日あの時 T
撮影 ◆菅野雄義
1960年1月1日
鹿児島県荒崎
実は、この「あの日あの時 T」はすでに「今月の1枚」2008年(June)に掲載されている。そこに「荒崎――半世紀前・後・これから」と題して、写真の背景にある当時の荒崎の様子が書かれている。今思うと、あの頃、荒崎の自然はあくまでも自然っぽく、誰一人いない広大な田んぼでの気ままなバードウオッチングは、夢のようであった。よろしければリンク先へ飛んでいただきたい。
あの日あの時 U
撮影 ◆菅野雄義
1960年1月1日
鹿児島県荒崎
こちらの写真は初登場である。その背景にも、圃場整備されコンクリートの排水溝や農道が縦横に走る現在の荒崎からは想像し難い、昔ながらの田んぼや畦が写されている。
左の高野さんは、アサヒペンタックスにタクマ−500mmのレンズをつけてヘラサギを撮影中。傍らに風呂敷をかぶせてあるものには説明が要る。中が見えない塊は、もう一つのカメラ、コンゴー300mmをつけたグラフレックスなのだ。
これら2台のカメラとレンズの重量は、それぞれハンパではない。軽量化の進んだ今のデジカメからみれば、1台でも考えてしまう重さである。因みに、グラフレックス本体だけで3.8kgほど。その皮ケースも頑丈だとはいえ、夜行列車の席がとれなかった時、高野夫人が腰掛けにしたというシロモノ。かの野鳥生態写真の祖、下村兼史が1920-30年代に使っていたのと同じ機種で、それを現役で使っていたのは高野さんが最後のお一人だと思っている。“グラ”で撮影中の「あの日あの時 T」を改めてご覧いただきたい。
撮影現場へ向かう自家用車もない頃に、よりによってヘビー級2台をものともせずに交互に使い撮影する高野さん。生態写真撮影の根性もハンパではなかったことを伝え得る貴重な写真なのだ。
右の私が覗いているフィールドスコープは、バードウオッチングに活用されたものとしてはその走りの最旧式の興和のプロミナー。木製のねじ止め式の三脚がミソである。因みに、二人がはいている太腿までの半ナガは、鶴の監視員をされていた又野末春さんからお借りしたもの。湿潤な土地柄、小川を渉ったり田んぼを歩いたりにも大変重宝した。
写真TとU、菅野さんは撮るべくして撮っていたのだと察するが、2枚ともに”知らずば語って差し上げやしょう〜”的な生態写真撮影と探鳥の歴史の断片が写し込まれている。今となっては二度と撮れないモノクロ写真なのだ。
ソデグロヅルを最初に識別したのは誰?
今回の主役、菅野さんとの荒崎での出会いのタイミングを、私は改めて聞いておきたかった。そのタイミングにこそ、日本のフィールドで初確認された鶴を誰が最初に識別したのかが絡んでいたのだから。
ことの顛末はというと、その年(1959年)の12月27日に、私は又野さんから「1羽見なれぬ鶴が渡来中」とのハガキを受け取り、「見なれぬ鶴」とは捨て置けぬと高野さんと即決し、大晦日には荒崎に急行していた。菅野さんはそんな鶴がいるとも知らずに単独で荒崎へ。私たちより確か2-3日早く着いて「見なれぬ鶴」を先に見ていたとのこと。
マナヅルの家族とともに「見なれぬ鶴」が飛んだとたん、「ソデグロヅルだっ!」 高野さんが叫んだ。その瞬間に、私になにが起きたかはどこかに書いた覚えがあるので省くとして、とにかく、生きたソデグロヅルが日本の野外で識別されたのは、その時がバードウオッチング史上初めてのこと。私は、最初に識別したのは高野さんだと拙著にそう書いてしまっていた。が、もしや、先に見ていた菅野さんが先に識別していたら?・・・
訂正はしなくて済んだ。菅野さんが私たちより先に件の鶴を見ていたものの、私たちに合流してはじめて高野さんから世紀の珍鶴との説明を受け、それと知って歓喜したということがはっきりしたのであった。
その後当の菅野さんは、ソデグロヅルや私たちと別れ、また一人鳥を探しに荒崎を後にしたのだった。
思わぬ私の発見を 菅野さんに
原稿を書きつつ写真をみては荒崎に想いをはせている内に、「む?!」 かすかな記憶が蘇った。「私もあの時菅野さんの写真を撮っていたのではなかったっけ?」
見つかったのである。引き伸ばした覚えもない 6×7のネガが。何10年も昔のモノクロネガなどおよそ見つからないのが相場だが、ネガの詰まった洋服箱から見つけ出せたとは、我ながら驚いた。周辺が銀鏡で劣化したネガを、さっそくスキャニングしてみた。コンピューターの画面の中央に、菅野さんと今は極楽で探鳥する高野さん、お二人の姿。遠景に荒崎田んぼと西干拓とを境する松の一列。 これはひとつ飛び入りさせていただこう。
あの日あの時 (番外)
撮影 ◆塚本洋三
1960年1月1日
鹿児島県荒崎
声をかけあってバードウオッチングをしたことはないのに、どこかで探鳥の楽しみを共にしていた菅野さん。そんな鳥仲間がいるのも、また佳き哉。
菅野さん、改めて写真のご提供ありがとうございます。写真Vには、いきなりホームページでご覧になられ、驚かれたかと思います。またどこかフィールドでお会いするのでしょう。他にBPA向きの写真があれば、それもよろしく!
後記
BPAフォトグラファーズ ティータイムに月々誰をご登場願うのかに、なんの決まりはない。掲載される写真も私の気ままな選択なのである。
今回はというと、The Photo で「クマゲラ案山子」の原稿を書いていて、ふと杉崎一雄さんに消息の橋渡しをしていただいた菅野さんのことが連想され、「そうだ、ティータイムだ」と思い立ったのであった。それに、「クマゲラ案山子」が撮られた1959年夏のその年の暮れに荒崎で菅野さんに出会っていたということも、なにかのご縁と感じた次第。
そんなわけですので、ティータイムにご登場をご希望の方は、自薦他薦してくださるよう、また”ご予約済み”の方はしばしお待ちくださるよう、そのあたりよろしくお願いいただければと思います。
●●2013 Nov.●● ホームページに 心せよ
今年の4月から9月まで、このページで連載が延々と続いた。1930年代初めに撮られたと思われるトキの胃内容物の写真が山階鳥類研究所で見つかり、“その撮影者は誰か”を突き止めるまでの経緯が詳細に書かれたものだ。1回分がまた異常に長い。 いつもはほとんど反響が聞こえてこないのに、今回の連載だけは違っていた。
嘆く人 楽しむ人
「よくもあんな長〜いの書くよね。」
(読んでくれたのかどうか定かではないが、褒めてくれたとも苦情ともとれる微妙な一言。)
「アノ連載、(続く)ってあるけど、まだ続くの? 長過ぎるよ。読むのタイへン・・・。」
(感謝しつつも、大変な思いまでして読んでくれなくてもいいのだけどな〜と、内心思ったりして。)
「読みましたよ、塚本さん。」
(まるで叱られているかのような気分にさせられた。同じ言い方ながら「・・・次回を早くアップしてくださいよ。楽しみにしてますから。」と数人から気をよくするコメントも。)
九州から電話もあった。
「撮影者のナゾ解きが、読んでてワクワクさせられたです。これは、倉本 聰に売り込んで映画化してもらったらええですよ、塚本さん。」
(突飛なアイディアに面食らったが、なんとなくニヤリ。)
読む側への配慮を
長文騒ぎのお陰で、得難い忠告もいただけた。
「ホームページと本では、違うのですよ。わかります、塚本さん。」
(えっ?! わかんない・・・。2006年の暮れにこのホームページを立ち上げて以来、そんなこと気にしたこともないからなぁ。
なにしろ「ファイル名に日本語は使えませんよ」と注意されたほどの基礎知識以下の“知識”で始めたサイトであるから、気にしようにも気が回らないまま7年が経ってしまっていた。)
「サイトの文章は、ページをめくって1章を読むような本の感覚ではなくて、ネットなんですから要領よく簡潔に。縦読みじゃないから、サイトでは横組みの文章として読み易いようにしましょう。見出し、行変え、段落、フォント、余白部分などに気を使って、一目眺めて内容がざっと掴めるような、読みやすく読みたくなるようなページ構成にしなくてはいけませんよ!」
(なるほどねぇ! いけませんよってったって、でも私は、私の書きたいことや伝えたいことを目一杯書きたいし、そうしてきたし、読みたい人が読んでくれればよいと思ってページを作っているんで・・・。そう言われてみれば、読む側に配慮したことなんて、ないなぁ。)
「それじゃ、ダメですよ。せっかくのホームページなんですから、できるだけ多くの人に見て読んでもらうように工夫しなくちゃ。」
(う〜むむ。)
めざせ 見易いページづくり
7年の眠りから目が覚めた。よし、ホームページの最低限の改善をしてみよう!
まずはソフトの刷新から。とっくにサポートが切れて不安を抱えているゴーライブ(GL)の代わりに、ドリームウイーバー(DW)というホームページのソフトが次期候補に浮上した。明らかに難解そうなこのソフト。PC音痴の私にはとても理解不可能に思え、早くも逃げ出したくなる気持ちだった。が、後がない。薦められるままに、というか、たじろぎつつ断腸の覚悟を決めた。
ソフトの指南&サイトのアドバイス役は美貌の主である。気分良く!と思いきや、敬老の精神などあらばこそ、そのお顔からは想像すらできなかった厳しい特訓を受けることになろうとは。耐えて、新しいソフトの習得にサイト改善の夢を託し、70の手習いよろしく悪戦苦闘のDWな日々が続く。
見え隠れする成果
心ある読者は、「The Photo 今月の1枚」と「Day By Dayらくがき帖」とで、ページのデザインがすでに見易くなってきたことにお気づきではあるまいか。これまで無視してきた余白を作る一方、余分な空白を削除できるようになった。レイアウトが落ち着いてきたと思っている。
存在すら知らなかったファイアーフォックスやクロームと呼ばれるブラウザーでも、毎月の更新をチェックし始めた。デザイン構成がより優れたサイトをより多くの人に見ていただこうというささやかな配慮。皆さんの目にこの成果は直接見えないが、言わせていただければ新技術導入である。
あちこち途切れていたリンクも、修復されているハズ。来年初めにアップする目次のリンクは、もう少し使いやすく工夫してみよう。
文章は簡潔に
肝心の文章はというと、心して書くつもりにはなっている。物議をかもした連載のような長文は、もうないであろう。
私だって、連載全文で1年分のページを優に超える原稿を書くのは、タイへンだったからである。実は、1枚の写真を誰が撮ったのかというどうでもよいように思えた課題に取り組んでみたら、私自身が心躍るような意外な展開や経験をしたのであった。これは一つその経緯を“前例のないほどの克明な文書”で記録しておこう、と思い立ってしまったのである。
克明に書かれた短かい文書の存在を、私は知らない。長文を掲載するそんな勝手ができるのは、バード・フォト・アーカイブスのホームページをおいて他にない。犠牲になったのが、苦情やむなき読者の皆さんだった。面白く最後まで読んでくださった読者がおられたことも記憶しておきたい。
「言い訳がましいことはいい加減にして、文章は簡潔に!」耳元で厳しい声が聞こえた気がした。これ以上書くのは、マズイ。だが、もう一言――
心新たに
先日、小学校の同窓会の集いで、昔の仲間がポツリと私に語った。「君のホームページ、見たよ。ひさびさに心が温まったような気がしたな〜。」長文ではなく、モノクロ写真を見てのことであろうが、嬉しい一言であった。
見ても読んでも、私たちが忘れかけている何か大切なものが伝わるような、そんな内容でデザインにも心したホームページを作っていきたいと考えている。引き続きバード・フォト・アーカイブスのホームページもご贔屓にしていただければ、望外です。
■2013 Oct.■ BPAフォトグラファーズ ティータイム:藤村 仁さん
藤村仁(ふじむら・ひとし)さんと誘い合ってバードウオッチングをした記憶はとんとない。昔から鳥の業界でお互いにそれとなく知ってはいた。しかし、これといったお付き合いもない。それでいて、周囲の鳥仲間が“ジンさん、ジンさん”と呼んでいたので、私もたまに顔をあわせた際には、そう呼んでいた。さして親しくもしていなかった私がそう呼んでも構わないであろう雰囲気が、ジンさんにはいつも漂っていた。
そんなジンさんと飲み会の帰り道、たまたま最寄り駅まで一緒だった。ジンさんが写真を撮るともわかっていなかったのに、立ち上げて間もないバード・フォト・アーカイブス(BPA) のPRをしたのだ。予期せぬ反応があった。「趣旨はわかったけど、ボクの写真でよければ今度送るよ。」
この手の安請け合いには、まま失望させられる(しまい込んだモノクロを探し出すだけでもメンドウなのは、誰よりも私が承知しているのだが)、ジンさんはちがっていた。数日後には小包が郵送されてきたのである。ジンさんとはそういう人なのだと、そのとき初めてジンさんの気心がしみじみと感じられたのであった。
拝見したネガには撮影データが揃っていないのがあって残念ではあったが、BPAの観点からはまさにお宝級の写真が多くあって、私をすっかり喜ばせた。
2006年5月の日比谷公会堂での「全国野鳥保護のつどい」のオープニングの映像には、ジンさんのBPA登録画像をも使わせていただいた。その時のDVD をもって報告を兼ねてお見舞いに伺ったときだった。ジンさんの画像は20数秒のものだったが、ノートパソコンの画像を食い入るように眺めてくれた。やっぱり見ていただいてよかったと、いまだに忘れられないその時のジンさんの顔が思い浮かぶ。
ジンさんのBPAコレクションの特徴は、野鳥だけに限らず、視野を広く自然環境の変化や事件?事故、はてはSLにまでレンズを向けたものが含まれていることである。中でも1960年代の千葉県新浜の写真がその多くを占めている。私のホームグラウンドでもあったので懐かしさも手伝い、我が意を得たりの新浜の写真を主にご紹介したい。
トウネンの獲物?
撮影 ◆ 藤村 仁
1968年以前の撮影
撮影地不詳
トウネンが食餌にするには手強い相手に違いない 真剣にユーモラスなシャッターではある 一瞬後に2匹の役者になにが起きたかは 観るものの想像に任される 1968年野生動物コンクール入選作品だそうだ(どんなコンクールだったのか いまだに情報を探し当てていない)
採餌中のアカエリヒレアシシギ
撮影 ◆ 藤村 仁
1967年9月10日
千葉県一の宮
輪舞するように一つ水面をくるくる泳ぎ回って渦とともに餌を巻き上がらせて啄んでいるとおもわれるアカエリヒレアシシギ。カメラの存在を意識していないような2羽の日常を 観る者に素直に伝えてくれる
干潟での調査を終えて
撮影 ◆ 藤村 仁
1967年5月3日?
千葉県新浜
現在の市川市行徳野鳥観察舎付近の堤防から浦安方面を臨む 埋立の始まる以前の広大な干潟に潮が浅くあげてきたところ 堤防近くがドロドロの深みで 足もとの危険に気をくばらなければならない 先に堤防に辿り着いた者の顔には 思わず安堵の笑みが浮かぶ場面である
(上) 映画“新浜青春物語”の一カット いや 採集してきた底生生物の調査中です! (下) ほら ピンセットで検体を選り分けているのです
撮影 ◆ 藤村 仁
撮影データが不明であるが 恐らく千葉県新浜の江戸川放水路の土手での撮影と思われる
開発が進み 変貌する新浜の内陸湿地
撮影 ◆ 藤村 仁
1967年8月27日
千葉県新浜
写真の右半分はかつての丸浜養魚場で 格好の探鳥スポットだった 篠竹に遮られた水面は 撮影地点の堤防からは見えなかった 左方向には、蓮田、田んぼ、葦原、小川、池、畑など一望のモザイクが はるか浦安まで拡がっていた そんな“故郷”の開発も急速に進行中で 夏というのに寒々しい荒れた内陸湿地の光景を写したもの
これぞ珍鳥 ハリモモチュウシャク
撮影 ◆ 藤村 仁
1968年9月29日−10月12日
千葉県新浜
アラスカのユーコン川河口付近で繁殖することが知られているが 日本では極めて稀に記録があるのみ シャクシギの仲間なのになぜか和名に「シギ」とはつかないその珍鳥が 新浜の埋立地に2週間滞在した間に 数多く撮影された 藤村さんの写真もその時の得難い貴重な1枚
明日はどうなるかも知らず採餌に余念のないハマシギの群れ
撮影 ◆ 藤村 仁
1968年2月12日
千葉県新浜
旧江戸川河口近くの弁天池 忍び寄る開発 数年後には消滅する採餌場と知ってはいまいが ハマシギは今を生きるしかない 藤村さんのカメラ視線が 人と自然との共存の有り様を考えさせる
野鳥の生態写真を撮るカメラマンの中では、ジャーナリスティックな視点をも含めて得難い写真を撮っていたジンさん。そのジンさんを、思ってもみなかったことが襲った。フィールドでの調査中に倒れたのだ。ジンさんは、車椅子での長いリハビリ生活を余儀なくされたのである。
リハビリ先の病院を3ヶ月毎に転々とさせられている内にジンさんの消息も途絶えがちになり、気になりしつつもついつい疎遠になってしまっていた。今年の7月にお亡くなりになっていたことを3ヶ月ほども知らずにいたとは、お世話になっておきながら、まったく済まないどころではなかった。
まことに申し訳なくも、訃報があったという一片の事実だけの情報しかなく、為す術もなく我が家の仏壇に手を合わせた。塚本家の佛軍団は懐が広く、どなたでも受け入れてくださると以前から私が勝手に決めているので、藤村さんの時もひと言の紹介を加えて躊躇なく仏壇に向かいご冥福を念じたのであった。
ジンさんとの長いようで短いお付き合いの日々が頭の中でグルグルするのを感じながら、今ここにホームページ碑を書き綴るに際し、改めて合掌。
BPAとの覚書は、お見舞いの際にサインと捺印をしていただく状況ではなかったように思えたので、そのつど持ち帰ってきて、それきりとなっている。BPAで唯一発効しないままのジンさんとの覚書は、しかしジンさんの登録画像が次世代に引き継がれ活用される証として、BPAで確とファイル保存されている。
ジンさん、ここに書き残すことが捺印の代わりと心得て、登録画像のことは心配しないでいてください。ジンさんがいなくなってしまったのは悔しいけど、いろいろとほんとに有難うございました。
●●2013 Oct.●● 旅立たれた方々のご冥福を
トキの胃内容物写真に関する異常に長い連載が、4月から続いて本ページを毎月独占してきた。お陰で、バード・フォト・アーカイブス(BPA) 関連のなにかにをお伝えしたり、私のらくがき帖をひもとく機会がなくなっていた。
その間、異常気象と自然災害が続いた。猛烈に暑い夏が長く続いたり、昔はなかった竜巻が起きたり、強烈な風雨をともなった台風が通過したり、度重なる豪雨に心配は福島原発の汚染水の処理にまで及んだり、地震もあった。自然関連だけでもまったく大変な年である。
そんな時こそ明るい夢を見たいものだが、このところ見る夢は夢でも悪夢である。これほど短期間にかくも訃報がつづいたのは、私の人生で経験がない。
BPAでお世話になって故人となられた方には、この場を借りて心からのご冥福をお念じ申し上げます。
河田謙二さん
先月のBPAフォトグラファーズ ティータイムにご登場いただいたばかりの、河田謙二さん。ホームページをご覧くださった兵庫の知人が、河田さんは2-3年前に亡くなられたとご連絡くださり、愕然とした。そうとも知らずにふと掲載を思いついて原稿をしたためたのは、河田さんがシビレを切らしてあの世からサインを送ってこられたものかと・・・。
河田さん宛てに用意したお礼とご報告を兼ねてのホームページのプリントアウトをご遺族にお送りさせていただき、ご仏前にお供えしてくださるようお願いした。なんとも切ない思いで。
笠野英明さん
7月のティータイムの笠野英明さん。ご提供いただいた写真をホームページに掲載したご報告を差し上げたのに、ご返事がなかった。ご壮健そうな方でさして気にもしていなかったところに届いたのは、訃報であった。
昨2012年の秋に千葉県浦安郷土博物館での私の講演でパワーポイントに笠野さんの写真を使わせていただいたところ、ご夫妻で遠路かけつけてご覧くださった。それが最後となってしまった。
すでにお送りしてあったホームページ掲載のプリントアウトは、奥さまが枕辺で読んで聞かせたところ、「ウン、ウンとうなずいていたので、きっとわかったのでしょう」とは、9月24日のお通夜での奥さまのお話だった。せめてものこととは思っても、辛い現実でしかなかった。
高田 勝さん
さらに寝耳に水の訃報は、9月21日。根室はフィールドイン風露荘の主、野鳥・自然界全国区の知る人ぞ知る高田 勝さん。
高田さんも、私のカミさん同様、晩年肺気腫だった。たっぷり空気が吸いたいと苦しむカミさんの姿に身近で接していた私には、高田さんの苦しみも想像以上に実感できた。もう苦しまないで済むんだよと、訃報にもどこかホッとさせられるいささかの余地があったのは正直なところである。
懐かしく思い出すのは、風露荘にお邪魔したある深夜。例によって二人で呑んでいてご機嫌の高田さんが、どうでもいい話題で私のカミさんと電話で言い合っていた。互いに譲らず、アノ“高田節”の高田さんが最後はどうやらタジタジとなっていた。受話器を置いた後、「なんだ、塚本さんの奥さん、ケシカラン」とかブツブツ口にしながら、まんざらでもない笑みを浮かべた表情は、高田さんそのものであった。そんなお顔になんど接したことか。
今ごろは、あの世で思い切り肺一杯に空気を吸い込みながら、双眼鏡だ、カメラはどこだと元気にやっているであろう。BPAのことだけでも教わりたいことや伝えたいことが山ほどあったのに、しかし、なんだって早く逝ってしまった。ケシカランのは、高田の"大将"の方だよ。しょうがない、そっちで待っててくれ。
藤村 仁さん
訃報が続く最中、ふと耳に入ったのが、藤村 仁さんのお名前。今年の7月に亡くなっておられたとは・・・。「えっ、藤村ジンさんが?!」であったのだ。知らなかったとはいえ、藤村さん、ほんとにごめんなさい。
生前に見ていただきたかったのだが、藤村さんが撮ったセイタカシギの画像を、気合いをいれて仕上げてみた。結構私が気にいったように出来上がった。これを10月の「今月の1枚」に、残りの数点をBay By Day の「BPAフォトグラファーズ ティータイム」で紹介し、せめてもの手向けとさせていただきたい。なんか切ない気持ちはとてもぬぐい去れないのですが、私のできるせめてものことですので、高いところから眺めてください。
塚本は“おくりびと”の手先?
モノクロ写真をもっぱらの対象としてデータベースの充実を続けるBPAとしては、モノクロ写真を多く撮りだめているご高齢の方にお世話になることがしばしばある。高齢者がいずれは旅立たねばならないのは、エコロジカルな宿命。ネガや写真の提供者の中に亡くなる方がでてくることへの覚悟は避けられないのが、私の宿命。とは分かっていても・・・。
「塚本さんがモノクロ話をもってくると、先は短いと覚悟しなくちゃねぇ」と微笑み冗談での話がときに飛び出す。たまたまのこととして無い話ではないのであるが、冗談ではない。
私は“おくりびと(納棺師)”の使い走りをするのでもなく、モノクロ写真の提供者をあの世へ送りだす役を担ってもいないのです、念のため。バード・フォト・アーカイブスの最も大切な役回りは、ご提供いただいた写真資料を、この世で次の世代へと引き継いでいくことです。
モノクロ写真とその提供者の余命との微妙な接点に私が関わっていることがいささかも気にならないと言えば、それは嘘になります。私とて見え隠れする己の余命を我が人生の視野にいれつつ、モノクロ写真と対峙している今日この頃。
提供してくださる方と受け手との“難しい年ごろ”とモノクロ写真とのこのあたり、ついでにひとこと述べさせていただきました。軽〜くご理解いただきたものと願っております。
■2013 Sept.■ BPAフォトグラファーズ ティータイム: 河田謙二さん
2005年10月10日に大阪の奥村隆司さんから耳よりな情報を頂いた。前日の和歌山御坊の日の岬でのバードウオッチングで、姫路から来られた河田さんという方が古い8ミリとスライドをお持ちとのこと。短いメールは「8ミリは使えるのですか? BPA の趣旨を手紙かTEL で知らせてください」と結ばれていた。
BPA に登録された奥村さんの写真は1枚もないのですが、BPA を立ち上げて以来なにかとご支援してくださっている。奥村さんのような方がおられるのは、BPAが活動を続けていくのにほんとに心強く有り難いことで、河田さんの場合も例外ではなかった。
一も二もなく連絡をとり、夕方7時前にメールを受け取って9時には河田謙二さんとお話することができた。初めてのことなのに、見ればわかるであろうカラースライドの代表的な1枚1枚をこんなものだけどと種類から撮影環境などご丁寧に説明してくださり、電話口で恐縮しっぱなし。扱いが私としては覚束ない8ミリも含めて、とにかくまず送ってくださることになった。請求されたらせっかくの話はご破算になると心配したギャラは、「結構ですよ」と一安心のお言葉。さあ〜、一気に盛り上がって、結果とお礼を奥村さんにメールしたのだった。
ところが送られてこない。1日1日、鶴の首の私。19日になってようやく届いたのを拝見して驚かされた。すぐには届かなかったわけである。カラースライド18枚、カラープリント2枚、8ミリ1巻に加えて、それぞれの撮影データがきちんと書かれたA4紙が2枚付け加えられていたのだ。さらに、撮影場所がピンポイントで記入された姫路市南部の地図2葉。頭が下がった。
提供される多くの写真に撮影データが揃っていなくてしばしば泣かされる私であるが、その点河田さんは完璧であった。そればかりではない。撮影レポートに目を通して一番ビックリさせられたのは、撮影場所が現在どう変わってしまったかの情報が書き込まれていた!!のである。環境変化を視覚的に伝える際にこの類の情報は重要だが、とかく疎かになってしまうことが多い。BPAの趣旨を見抜かれた河田さんのご配慮には、感謝してもしきれるものではなかった。
河田さんは、「人工物を避けて野鳥をアップに写すことが多く、BPAの趣旨に添う写真はあまりありません」としながらも、そんなことはありません、キャプションのコメント1行だけでBPAとしては我が意を得たりですし、河田さんの環境への意識が察知できようというものです。
背景に姫路城のあるご当所画像に始まって、野外でお目にかかることの少ないキガシラセキレイ、シベリアオオハシシギ、クロヅルを含め、数点を次にご紹介させていただきます。残念ながら、カラーがかなり変色していて、BPA登録用画像には原画保存のためそのままスキャニングしたものと、退色補正してさらに埃を除去しキズを修正したものとを作成したが、次にお目にかけるのはその後者の画像です。
川原に群れるユリカモメ
撮影 ◆ 河田謙二
1973年11月5日
姫路市市川兼田
地元の自然保護団体の申し入れにより保存されている川原 今は(2005年当時)鳥の大群は見られない 山陽新幹線の向こうに"白鷺城"
蓮田で採餌するキガシラセキレイ
撮影 ◆ 河田謙二
1972年4月18日
姫路市大津区勘兵衛町
姫路市の南西部 勘兵衛新田での撮影 今は宅地となっている
蓮田のシベリアオオハシシギ
撮影 ◆ 河田謙二
1973年5月11日
姫路市中島
姫路市を南北に流れる市川の河口部での撮影 一部に公園を含む工業用地となった
田圃にいるクロヅル
撮影 ◆ 河田謙二
1977年12月
兵庫県社町
ここには工場が建設された 背景に盛り土が迫る
キイロハタオリドリの営巣環境
撮影 ◆ 河田謙二
1972年7月18日
姫路市白浜
写真左奥の水面が塩田跡 長い間観察していると塩田跡地で思わない鳥が繁殖したりするが ここも宅地となった
アトリの大群
撮影 ◆ 河田謙二
1974年3月10日
岡山市興除?
アトリの越冬地の田圃も宅地化が進んでいた
大塩塩田跡のダイサギの群れとアオサギ(中央の1羽)
撮影 ◆ 河田謙二
1975年8月31日
姫路市大塩町
写真手前にチドリやシギの姿も見られるが 多くの水鳥の生息地であった塩田跡地は賢明女子学院短大の敷地となった
河田さんから送られてきた8ミリに関しては、ご自身のメモに「写真化がむずかしいかもしれません」とあったが、今改めてそのメモを見ると、欄外に私の一言、「はい、ギブアップ!」 8ミリ画像の1コマはいかにも小さく、画質も厳しい上に、これを静止画像に再現できる技術を残念ながら私は持ち合わせていない。諦めざるを得なかったのである。
私が重視したい姫路市の昔の棲息環境が8ミリフィルムの方に多く残され、イワミセキレイや干潟の2000羽のシギなども映像として記録されているそうである。“逃がした魚は大きい”の感は否めない。思い出すだけで無念である。河田さん、申し訳ありませんでした。
なお、8ミリ映画の映写機すら過去のものになって、現役で動くのを探すのもままならないと耳にします。過去の野鳥や環境など貴重な記録が後世に残されないのも辛いことです。技術的に大変なご苦労をされ費用もかけ、8ミリ画像をDVDメディアで再現された方がおられます。コンピューターにツヨイ方にはそういう手もあるということで、この場で最後に付け加えさせていただきます。
●●2013 Sept.●● トキの胃内容物写真の真の撮影者は?・・・ (終章)
限りなく不可能に思える可能性
――現実と夢想の狭間での撮影者の特定――
まじめに:最後に笑う者が最もよく笑う?
80年も前に撮られたと思われるトキの胃内容物写真の撮影者を特定する調査で見事な大逆転負けを喰らった私塚本は、まったく面目なく、かつ“撮影者は下村兼史説”を諦めるにはなんとも忍びがたかった。2013 Aprilから前回までの連載で誰もが納得する“撮影者は石澤慈鳥”との結論が得られた後も、実はそれまで共に調査してきた山階鳥類研究所自然誌研究室長の鶴見みや古さんにも内緒で、私は独自にさらなる検証を試みたのである。アタマを遊ばせた結果、ホントのようなウソとしか思えない真の結論を得た。今さらながらではあるが次に概要を述べ、心ある方々の参考と笑いのネタにしていただければ幸いである。本稿はいずれの鳥類学雑誌にも受理されなかったため、ここに掲載させていただく。
なお、ご覧の“スクープ画像”は、下村兼史のご長女山本友乃さんのご厚意によるものである。私の考察が信じられない方々のために、歴史的な貴重な資料として敢えて公表させていただけることになった。ご承諾くださった山本さんに心から感謝申し上げたい。
塚本の結論に祝杯をあげる下村兼史 左がお付き合いする石澤慈鳥
シャッターを切った人 ◆ 不詳
1930年代前半(推測)
撮影場所:東京銀座?
写真提供:山本友乃/BPA
事実
1.石澤慈鳥は1925−1960年、下村兼史は1930−1939年の間、同じ林野庁鳥獣調査室に勤務していた。
2. 石澤と下村は『観察手引原色野鳥図』(三省堂)を、上巻1935年、下巻1937年に共著で出版した。校閲は、同室で二人の上司、内田清之助農学博士。
3. 「終戦後も下村さんはよく(石澤の家がある)荻窪に来られました。」石澤のご長女桶舎富士子さんの証言(2012年8月27日付けのメール)
想像の産物:可能性の再現
1933年(6月以降の或日)、胃内容物を調べ終った石澤 ――
「よう、下村、こないだの佐渡のトキ、胃内容調べたんで写真撮るけど、来ないかい?」
「ほう、なに食ってたのかな。お邪魔してみるか。」
自宅勤務の多かった石澤の家にやって来た下村、検体を見て――
「おお、きれいに列べたな。相変わらず石澤さんらしいなぁ。」
カメラをセットし終わった石澤に――
「どうだい、オレにシャッター押させろよ。」
「別に、いいだろ。」
バチャッ。
撮れた乾板を現像出しに、石澤は西荻窪のマツバ写真館へいつものように自転車を走らせた。
法的な解釈
著作権法では、他人のカメラでも、撮った画像の著作権はシャッターを切った人に帰属する。
結論
トキ胃内容物の撮影者は下村兼史であった。
付記
後日、「ほら、下村、君がシャッター押した写真、うまく撮れてたよ。バード・フォト・アーカイブスのホームページでも紹介してくれるそうだ。裏に胃内容物のメモ書いといたからな。」
1933年後半の或日の午後、西荻窪のマツバ写真館で引き伸ばされ押印されたプリントの1枚が、下村兼史の依頼で石澤慈鳥から佐渡のトキ保護研究者佐藤春雄先生に送られ、他の1枚が石澤から下村の手に渡った。
著作権が誰に帰属するのかを知っていた下村は、プリント裏面に ”Preserv Print” のゴム印を押したまでである。2005年に塚本が山階鳥類研究所で出会ったプリントこそが、その1枚だったのである 。
[ ラスト・スマイル ☆ ]
■2013 Aug.■ BPAフォトグラファーズ ティータイム:増田直也さん
増田直也さんは、2001年に誕生したNPO法人リトルターン・プロジェクトで先頭切って活躍されている野鳥保護活動家である。リトルターンとはLittle Tern、コアジサシのこと。レッドリストの絶滅危惧U類。河原や砂浜などが開発され営巣環境を失ったコアジサシに繁殖場を提供しようと、東京都森ヶ崎にある水再生センターのなんと屋上に営巣地を造成提供し、巣立ちゆく雛たちやその先を、本来の自然棲息環境の保全をも視野に見守っている。世界でもユニークなこの屋上人造営巣地でのコアジサシ保護活動はhttp://www.littletern.net でたっぷりご覧いただきただくとしてーー
当の増田さんは、もともと私と同じに野鳥や自然の保護普及を進める保護団体で仕事されていた。同業他団体の仲。顔見知りではあったものの、深いお付き合いには至っていないままに長〜い時が過ぎ、ある日、まったく突然に電話をくださったのだ。バード・フォト・アーカイブス(BPA)を立ち上げて3年後の2007年4月のこと。
「“薄い銅板の表面がヘンなネガみたいで、板切れがついているもの”が手元にいくつかあるんだけど。それが鳥や人物が写っているみたいなので・・・。」電話での説明では想像しようにもさっぱり見当もつかない。だが、私の好奇心を呼び起こすに十分だった。なんでも半世紀も昔に勤務していた団体の倉庫の掃除をしていて捨てられるところを、面白そうなので拾ってとっておいたものだそうだ。
数日後に、なるほど“銅版・ネガらしき・板切れ”の三題噺のような“民俗古道具”11点が郵送されてきた。すっかり興奮したのである。ハガキ大からマッチ箱大くらいのまちまちの大きさの“ネガ”には、確かに鳥も人物も浮かび上がって見える。これは立派な写真関連の“なにか”に違いない。
増田直也さんから寄贈された不可解な“銅板ネガ”のいくつか
古道具風の木板(約23mm厚)に糊づけされた銅板(約0.5mm厚)の表面に ネガに相当する像が浮いて見える 一体なんなのだろう?
電話での会話が弾んだ。 「増田さん、こりゃ私は見たこともないけど、どうもお宝だと思いますよ。なんなのか調べてみますけど。白鳥らしきが飛んでいるのなんか、すごく魅力的な写真みたいだし、なんか興奮しちゃって、全部BPAとして大切に保管させていただきますからね。」
「塚本さんなら興味あるかと思って連絡したんで、何十年も寝ていたものがいま歩き出していることに、ある種の感銘を受けていますよ。BPAに寄贈したんで、どのように活用していただいてもかまいません。」
増田さんのお陰で、チャンスの少ない野次馬根性と新鮮な興味が湧いたのだった。
さっそく東京都文京区の印刷博物館へ。学芸員に教えていただいたところでは、1970年代までの比較的短い期間の印刷技術で凸版印刷に使われ、私が持参したものは写真部分用なので写真凸版(通称シャトツ)と呼ばれるもの。組み版のとき周りの活字と高さを合わせるために、木片で“ゲタをはかせる”のだそうだ。銅板の表面に感光性の幕がはってあり、屈折現象で網点の大きさを変え印刷用の“ネガ”にするようなのだが、このあたりになると私の理解不足で受け売りもままならなくなるので省略。
とにかく銅板にはネガ相当の、いかにもネガを見るようなイメージが浮かんでいるので、そこは無知のなせる技、ままよとゲタ付きのままスキャニングしてデジタル画像を作ってみたのである。なにもわざわざぁ、とお考えになる向きもおられようが、一興までのお目汚しに・・・。
写真凸版より作成されたデジタル画像 (1) :
鷺山の埼玉県美園村小学校で挨拶する国際鳥類保護会議リプレイ会長
撮影 ◆ 田中徳太郎
1960年5月29日
埼玉県美園村
写真凸版寄贈 ◆ 増田直也
写っている外人さんの雰囲気とか何点かはどこか見覚えのあるような画像である。お宝探しが始まった。
いつもほとんどアテにならない私の記憶が、今回は的中した! シャトツにある人物5点の内の4点が、予想通り日本野鳥の会の『野鳥』1960年 7・8月号(通巻202号)の口絵にまったく同じ写真で載っていたのである。当時、鳥関係では日本初の大型国際会議、第12回国際鳥類保護会議 (ICBP:現バードライフ インターナショナル) が東京で開催された際の記録写真であったのだ。
さらに驚いたことに、とても“身元判明”は難しかろうと思った6点の鳥の写っているシャトツの内の2点が、同じ口絵に載っていたとは。
さっそく増田さんにご注進し、“新発見”を改めて喜び合ったのである。
『野鳥』1960年 7・8月号の口絵2例(上/下)
今回の写真凸版は果たしてこの口絵の印刷に使われたものなのであろうか??
写真凸版より作成されたデジタル画像 (2) : 佐渡で1960月6月4日に巣立った三羽のトキ
撮影 ◆ 後藤政彦
1960年
新潟県小佐渡黒滝
写真凸版寄贈 ◆ 増田直也
トキの保護研究者佐藤春雄さんも同時に酷似した写真を撮っておられるが キャプションには後藤さん撮影のものと明記されているので 写真凸版も後藤さんのネガに拠るものと想定している
さてもこれらのシャトツであるが、撮影データなどの“身元”が分かったものも含めて取り扱いの法的な解釈をBPAとしてはどうしたものか、戸惑ってはいる。恐らくシャトツとして明記して判明したデータと共に紹介する分には問題ないであろうとの考えで、ご覧いただく次第である。学芸員のアドバイスとしては、不明な撮影情報を追跡するためにも、“シャトツ画像”を善意で発表することには問題なかろうとのことであった。悪意はまったく無いと自己判断しているので このあたりよろしくご了解いただきたい。
増田さんご自身が撮られた写真は実はBPAのデータベースには登録されていないが、シャトツという古風で魅力的な“銅板ネガ”を寄贈くださったお陰でデータベースに“花を添える”ことができたばかりでなく、BPAとしては異例のコレクションとして私の自慢の種になっている。欲を言えば「皇太子御夫妻のシャトツがあったならなぁ。」
ついでながらせめて文字記録として残しておきたいのは、モノが動画なので残念ながらここでの紹介は叶わないが、増田さんからはDVDをも寄贈いただいている。増田さんご自身撮影の8ミリフィルムをビデオに、さらにDVDに落としたもの。そのアーカイブスな内容に一言触れておきたい。
それは、現在の東京港野鳥公園が造成された際の「大井埋立地施工前、施工時の環境」の1975年から1979年ころまでのカラー記録映像と、1980年8月16ー17日に実施された館山市城山サギのコロニーでの有害鳥駆除と称された「サギ殺戮の記録」カラー映像である。どちらも画質が落ちてしまっているのが残念ではあるが、現場が映像で残されているのは増田さんのこれだけと思われるだけに、BPAとしては貴重な参考資料として大切に保管して後世に残し継いでいきたい。
BPAではいろいろな形でのアーカイブス級の写真関連資料にも関心をもっているが、中でも入手し難い写真資料を、増田さん、有り難うございました。
●●2013 Aug.●● トキの胃内容物写真の撮影者を追え (V)
文献調査での解けない謎
トキに関連する石澤慈鳥と下村兼史の文献調査は、“謎解き”の最初から静かに地道に続けられていた。特に石澤の文献は私にはほとんど馴染みがなかったので、引用文献を含めて片っ端から調べていた。といっても文献探索のここでも、多くの方々のご支援は欠かせなかった。中でも小林重三研究家であり鳥類の文献全般にも詳しい園部環境企画の園部浩一郎さんには、なにかとご無理をお願いしていた。お目当ては、石澤自身によるトキの胃内容物に関する学術文献である。これがなかなか見つからないのである。
載っていそうな文献で1933年以降の数年を私も当たってみた。日本鳥学会の『鳥』、農林省の『鳥獣彙報』、『鳥獣集報』、『鳥獣報告集』、『鳥獣調査報告』。果ては恥も外聞もなく鳥の研究者に誰彼となく訊いてみた。何故だろう、それらしい情報のかけらも得られていないのだ。
フクロウやカワラヒワなど普通にみられる種類の胃内容物の報告例があるのに、ただでさえ珍鳥トキの、しかも野生状態の胃内容物という極めて稀な例が、学術誌に報告されない理由はまずないと思われるのに・・・。なんらかの理由でトキの胃内容物を発表してはマズイ状況があったのであろうかとさえ、疑ってしまいたいほど。どうにもナゾめいてきた。
その感をさらに深くしたのは、黒田長久博士の書かれた石澤慈鳥の誌碑(『鳥』18:422-424 )に目を通した時であった。業績の一つに鳥類の食性資料の総まとめが挙げられているが、ライチョウ、ホトトギス、タカ類、キツツキ類は発表されたものとして例示されているものの、当然言及されてしかるべきと思われるトキに関してはなにも述べられていない。トキの胃内容物同定は、筆者(黒田)が「総まとめ」として挙げる筋ではないと考えてのことなのかとも思い巡らしてはみた。私にはなんとも不可解なことのように思えたのだった。
石澤自身の著したトキの胃内容物の学術的な報告がみつからない限り、そこから期待される胃内容物写真の撮影者に関する情報も、皆目手に入る目途がたたなかったのである。 あるべきハズの文献はどこに埋もれているのだろう?・・・。
川合千晶さん→亀谷辰朗さん→園部浩一郎さんの資料探索“金星”リレー
それまでにはなかった類の意外な情報が、思わないところからもたらされた。8月28日(2012年)、またしても川合千晶さんからである。筆跡鑑定の一件から今回の謎解きにすっかり関心をもたれたようで、関連の情報をネット検索でなにかと見つけ出してはメールしてくださっていた。当初は想像すらつかなかったすばらしい助っ人である。
今回の川合さんからの情報はといえば、「2011−09−18−御浦風物誌」というサイト。そこに「同氏(石沢慈鳥)が調査した、佐渡のトキの消化管内から得られた内容物の図版を見せていただいたことがあるが、シャープゲンゴロウモドキ(!)の2個体がある(キャプションには“ガムシ”とある由)には驚いた。当時の“豊かさ”は、今や想像すら出来ない。」と載っているというのだ。詳細が文面から読み取れないが、撮影者の特定にどこか関連していきそうな気配ではある・・・。さっそく教えられたサイトを覗いてみたが、私にはどうにも消化不良を起こしてしまいそうな理解しにくい内容なのだ。
どうなってんだろ?・・・。図版とは? ガムシがシャープゲンゴロウムシ?どのキャプション?・・・。またまた新たな情報追跡が始まったかという興奮を覚えながらも、内心では「ありゃ〜、また追跡かぁ」といった心境だったことはよく覚えている。この時点では情報探索の中心軸が、撮影者の特定から胃内容物の同定へとブレできたようだが、何はともあれこれは調べてみなければなるまい。
とにかく誰かがガムシをシャープゲンゴウモドキと同定したに違いない。そのことを書いた文献か何か分からないものだろうかと山階鳥類研究所自然誌研究室で鶴見さんと話し合っていた。運の向くときにはとことん運がついてまわる。たまたま居合わせて私たちの話を小耳にはさんだのが、同じ室の亀谷辰朗さん。亀谷さんは、生物全般に博識であるばかりでなく、亀谷さんの脳の構造は人間離れしているというか、人間コンピューターとしか言いようのないほどの文献データが詰まっているのは、先刻私も知っていた。それでもまさかとビックリさせられた。
何事でもないかのように、亀谷さんはいつものごとく呟くような低音で即答したのである。
「その記事は『月刊むし』に載っていますよ。その号、確か家にあると思うから、探してみて今度持ってきておきましょう。」 身近にこの幸運。いや、得難い人との願ったりもない展開。山階鳥類研究所の蔵書にはないだけに、それはそれは有り難いことだった。
数日後に手にできた“金星”『月刊むし』no.370 Dec.2001のp.4に「トキの餌になっていた佐渡のシャープゲンゴロウモドキ」と題した短報が載っていた。「これだ、これっ!!」 知る人ぞ知る大野正男さんの記事。石沢慈鳥の“ガムシ”との同定は誤りで、「写真が鮮明であるため、少なくとも♀の方はシャープゲンゴロウモドキと明確に同定できる」と。今日絶滅の危険度がかなり高いとみられるシャープゲンゴロウモドキが1930年代のトキの餌となっていたことが、件の写真が撮られてから約70年を経て分かったことになる。
アノ1枚の写真が、鳥学の側面から野生トキの胃内容物の稀な記録であるばかりでなく、昆虫の分野でも関心事であることが判明し、写真の学術的な重要性が改めて浮き彫りになったのであった。
ところで私たち写真の撮影者を追跡する立ち場では、問題は大野さんが同定に使われたという写真である。なるほど川合さんがご注進してくださった通り、大野さんの短報にその写真が1937年に発刊された月刊誌『子供の科学』23巻6号に発表されている!という記述があった。これは期待したいところだ。シャープゲンゴロウモドキであるという新情報それ自体にも驚かされたが、その新発見につながった写真が載っているに違いない雑誌が浮上した。「これはもしかして?!・・・。」
ネット検索のニガ手な私は、安易に今度は園部さんに依頼したものである。「1937年に出た子ども向けの雑誌らしいんだけど、23巻6号の『子供の科学』って探してコピーしてもらえないかな? 石澤が『野鳥はどんなものを食べているか』を書いているようなんで、そのところをね。」
明らかに文献調査で探している学術論文ではないが、調べてみないわけにはいかない。とはいえ、実はなぜか私はなんとなく気乗り薄だった。そんなこともあって、園部さんからの連絡がしばらく途絶えていたのも、さして気にしていなかったのである。
9月19日(2012年)になってメールが届いて、ビックリというか唖然とした。大金星に輝くメールだったのである。文献情報を教えてくださった川合さんにさっそくお礼を兼ねpdfを添えて連絡したご返事には『(アノ雑誌を)みつけた人は、すごいです。』と。他人を頼って情報を知りたがっただけの私に言わせれば、そもそもの情報を検索し的確に判断して教えてくださった川合さんは、すごいです!
大阪で発見された1937年6月号の『子供の科学』: 撮影者が明記されている(頁の右上)初めての文献
見開き(pp.46-47)に石澤独特の胃内容物の写真表現が見てとれる:右頁上よりライチョウ、 ホトトギス、アオバヅク 左頁上よりフクロウ、カッコウ、お馴染みとなったトキの胃内容物
資料提供:園部浩一郎
国立国会図書館でならすぐに見つかるであろうと、ついでの時にでもよろしくと軽〜く園部さんにお願いしたのではあったが、しばらく連絡がなかったわけである。国立国会図書館ではみつからなくて、お仕事に忙殺される傍ら全国の図書館をチェックして、やっと探し出したというのだ。
届いたメールは淡々と書かれていた。『「子供の科学」のバックナンバーは、大阪府立中央図書館にありました。関連ページをpdfで添付します。「撮影並に説明 石澤慈鳥」となっています。コピーは次回、山階に持参します。以上、よろしくお願い致します。』
一読した私は目をむいた。「なにぃ、“撮影並に説明 石澤慈鳥”だぁ〜?!」添付のpdfをみたら、確かに! ついに発見である。石澤自身が、“撮影したのはオレだ”と明記しているのを!!“ミッション・マツバ西荻窪”の西村さんの言葉を借りれば、まさにこれまた金星、“世紀の大発見”だったのである。
折り返しての私のお礼メールには『(撮影者が)活字になっている最初の大発見です! オニの首に相当しますので、バッチリ引用させていただきます。と同時に、これで私の“下村兼史撮影説”は桶舎証言と併せて完全に私の大黒星が決定しました★ また訂正文を書かねばなりません(ため息〜)』
結び:トキの胃内容物(1933年採取)の写真撮影者は 石澤慈鳥だっ!
下村洋史さん、山本友乃さん、そして桶舎富士子さんによるメモ書きの筆跡の確認が重要な決めての核となり、撮影者は石澤慈鳥と判断して間違いなかろう。私が疑問に感じていたゴム印などいくつかの点もクリアーされた。ダメ押しに探していた撮影者が確認できる文献も発見できた。私の思い込みも反省させられた。”石澤慈鳥撮影”で誰もが異存のない結論が、ついについに得られたと考えている。謎解きトンネルの出口は、ひときわ眩しく感じられたのだった。
拙文にお付き合いくださった読者の皆さんも、お疲れさまでした。有難うございます!
大いなる訂正
結果がこうまで私の完敗で終わると、ため息も自分で嘘っぽく感じられるほど。参ったな、まったく。
さっそく訂正しなければならないことがあるのだ。
訂正:『鳥との共存をめざして』 p.262の件のキャプション“下村兼史”は石澤慈鳥の誤り
2011年の12月に上梓された日本鳥類保護連盟編『鳥との共存をめざして』(中央法規)の第五章の執筆を担当されたのが、新潟大学本間航介准教授である。あたかも先生が間違えられたやに思えてしまうのであるが、正確な情報を提供できなかった私がミスの元凶である。
本間先生から執筆中に写真について問い合わせがあった際には、撮影者は当時特定されていなかった。とはいえ、私の頭の中では下村兼史撮影の想いがあり、他にも誤った判断が重なって、その時は確定的な情報となって本間先生に提供してしまったのだった。大変なご迷惑をお掛けした本間先生や関係者に、ここでも慎んでお詫びし訂正させていただきたいのである。
最後に
謎が氷解してみれば、思い出されるのが山岸 哲先生のアドバイス、「次号の『山階鳥類学雑誌』に調べた結果を発表なさい。」である。
私にはとてもムリかと思われたのに、なんとか頑張れば次号の原稿締切に間に合うかもしれない・・・。そうとなったら新年早々から原稿に追われるのはゴメンと、年の瀬を返上してコンピューターに向かい猛然とキーを叩いたのであった。明けて2013年の仕事始め、鶴見さんと額を合わせての原稿の最終協議が続き、そして編集委員とのやりとり。そうはしながらも、原稿の主な内容が1枚の写真に関する撮影者の特定では、鳥学雑誌に受理されるものかどうか内心いささかの心配は隠せなかった。
受理されたのである! 今回ここに書いている連載のウラ話的な気安さはないが、同じストーリー内容で硬い表現の報告文をご一読されたい向きには:塚本洋三・鶴見みや古 2013. トキの胃内容物(佐渡1933年採取)の写真撮影者の特定および関連する二・三の知見. 山階鳥類学雑誌44:107-112をご参照いただければと思う。
「謝辞」を読み返し今さらの如く驚かされた。1枚の古い写真をめぐり、またトキ幼鳥検体の所在確認を含め、かくも多くの方々のご指導ご支援をいただいたとは!
実のところ、そもそも山岸 哲先生からの「撮影者は下村兼史か石澤慈鳥なのかっ?」とのなにげなくも難解と思えたご質問がなければ、石澤慈鳥との結論も、人々との出会いも、謎解きのドラマも、この連載も、なにもかもなかったこと。お陰さまでこの間いろいろなことを経験し学ばせていただいた。叱咤激励してくださった先生には改めて心から感謝申しあげたい。
山岸先生に、報告文が掲載されたことのお礼のメールを差し上げたところ、さっそくご返事がいただけた。ズバリ一行:「新しい事実が判明するということはワクワクすることです。」(まったく〜!)人間誰しも、目的をもって生きることの大切さをも示唆する学者の奥深い一言と感じたのでした。山岸先生、重ねて有難うございました!
付記:
今現在の謎解きの解けざる課題としては:
(1)石澤慈鳥本人が著したトキの胃内容物に関する学術的な文献がまだ見つかっていないこと。それ自体、私にはさらなる謎のように思えてならない。
(2)警視庁鑑識課のお邪魔ムシにこそならなかったとはいえ、下村兼史資料のモノクロプリント裏面に押された“マツバ西荻窪”以外のゴム印にどのような意味があるのか、気になるところではあること。
(3)トキの胃内容物の液浸標本と撮影された乾板の所在が、不明のままであること。桶舎さんのお話にもあるように、これは不明のままかも知れないと、内心ほとんど諦めていることではあるが・・・。
予告: えっ、この連載は今月で終わらない?
トキ胃内容物撮影者の特定をめぐって、石澤慈鳥や下村兼史さえも恐らくビックリしたという”予想外のさらなる展開”が、この連載の<終章>として来月に予定されています。
■2013 July■ BPAフォトグラファーズ ティータイム:笠野英明さん
東京湾奥 半世紀前の風景 1
撮影 ◆ 笠野英明
1960年代初め
千葉県新浜
遠浅の海に潮が満ちてくる 残っている干潟にはシロチドリとカモメ類の小群 なんでもない日常の景色だったが埋め立てられ 高層ビルなどで今では撮影地点から 海が見えない
「塚本さんが喜びそうな新浜(千葉県)の昔の写真をもっている」というバードウオッチャーに紹介されるよりも先に、その方のアルバムを拝見することになったのが、2007年3月。拙著『東京湾にガンがいた頃』(文一総合出版 2006年)の出版記念パーティーが開かれた席上でのことであった。ホビーズワールドの吉成才丈さんが見せてくださったのだが、「おおっ! 新浜だぁ・・・」と思ったものの、ゆっくり拝見する間もなかった。「吉成さんがお忘れになっても、私は忘れずに後で必ずご連絡させてもらいますからね」とその時はそれで終わったのだった。
あれから5年もたった去年(2012年)8月のこと。新浜の昔を講演するのでパワーポイント用の画像を集めることになり、チャンス到来と吉成さんにメールを送ってみた。覚えていてくださるかと気持ちやや頼りなく感じていたのだが、嬉しやたちどころにご返事がいただけ、アルバムの方をご紹介してくださることに。
今回の主人公、笠野英明さん。初対面なのに、CDに格納された秘蔵の画像と件のアルバムをお持ちくださったのだった。バード・フォト・アーカイブス(BPA)に画像をご提供くださるとのお考えがあってのこととは容易に推察できたが、行き違いがあってはと、例によってBPA活動の趣旨や画像活用の条件など一通り説明させていただいた。が、そんなことはどうでもよいようなご様子。それが私の緊張をとっとと和らげてくれたのだった。
それというのも、笠野さんとは全国バードウオッチングの旅をして四半世紀に及ぶお付き合いという吉成さんが、寸暇をさいて同席してくださったお陰であった。日本野鳥の会東京支部(当時)の遠出探鳥会で初めて出会った笠野さんは、望遠レンズなど見かけないその当時、大きなレンズを付けて撮影していたそうだ。聞けば、アサヒペンタックスS2 にコムラー300mmだったとのこと。
1949年5−7月に都心の中野区宝仙寺境内で発見されたアカモズや チゴモズの営巣地点
資料提供:笠野英明
現在の環六山手通り(右隅南北に走る緑の線)と五日市街道(下端東西)の交差 点近くで 笠野さんは かつてアカモズ(黄色四角)やチゴモズ(青色三角)を繁殖 期に観察していた アカモズの雛が2地点で巣立っていった 繁華街となった今 では およそ想像を絶する記録
当の笠野さんはいろいろとお話されたいご様子で、写真の話になったり、鳥の話になったり。
お話をお聞きすればするほど、ビックリさせられた。今日では想像も及ばない都心での貴重な探鳥記録を話してくださったのだ。例えば、都心でサンショウクイやコサメビタキ、アカモズなどが繁殖していたこと。荻窪にはオギ原があり、草地の小鳥たちで賑わっていたこと。もっとびっくりしたのは、笠野さんのお祖母さんの子どもの頃には、神田川にカワウソがいたという話をお祖母さんから聞かれたということなど。
写真の話に戻れば、ご自身撮られた画像を使ってボランティアで講演巡りをされておられ、そのための何本かのプログラムができているそうだ。講演に使われる画像をBPAでいかように使っても構わないという寛容さなのであった。感激だった。
問題は、モトの画像にカビがはえ、ご自身ソフト上でできるだけ“キレイにした”と言われる。齢80歳を過ぎてフォトショップを使い画像処理されているとは、心から恐れ入ったのだった。ただ、BPAにもコダワリがある。BPAの観点からは“カビも味の内”ということもあるので、できればスキャニングをする間だけモト画像をお借り出来ないものだろうか? 答は残念なことに、カビたネガはそっくり処分してしまって残っていないとのこと。
では、伸ばしたプリントをスキャニングした方がカビカビ修正画像よりキレイな画像が得られはしまいか? ところが、アルバムに残されたプリントは手札大の限られた数のものだけで、揃ってはいないとのこと。
「う〜む、惜しいことになった・・・。私にできることは最大限試みて、できるだけ良い画像をつくってみましょう」と生意気なことをいうハメになったのである。以下に、今日では撮影し得ない貴重な画像を数点ご紹介したい。
東京湾奥 半世紀前の風景 2
撮影 ◆ 笠野英明
1960年代初め
千葉県新浜
はるか沖に海苔ヒビの列 遠浅の海 潮引けば広大な干潟 数多の水鳥の大群 東京湾奥の原風景であった 撮影地点には 現在は浦安市役所が建っているが この写真を見ないとその昔が想像すら出来ない
半世紀前の浦安風景 (上/下)
撮影 ◆ 笠野英明
1960年代初め
千葉県新浜
わずか半世紀ほど前の浦安の静かな佇まい 現在は浦安市へと“進歩発展”している 写真に見る故郷のようなイメージは 若い世代では記憶にも残されてはいないのであろう
コモモジロのいる風景
撮影 ◆ 笠野英明
1960年代初め
千葉県新浜
近くの宮内庁御猟場に鷺の大きなコロニーがあって シラサキなどは新浜のいたるところで 見られた 亜種チュウダイサギは当時コモモジロと呼ばれた 広い蓮田をバックの懐かしい 情景が写真から蘇る
往時話題のオオバンの親子
撮影 ◆ 笠野英明
1960年代初め
千葉県新浜
現在の市川市野鳥観察舎のあるあたりが 1950年代は人気もない丸浜養魚場であった 当時はオオバンが見たい!と 訪ねて探したものだ 写真に撮るのは夢だったころの話である やがて繁殖が確認され 数がどんどん増えていった
大巌寺のカワウのコロニー (上/下)
撮影 ◆ 笠野英明
1961年4月23日
千葉県大巌寺
かつて天然記念物に指定されカワウの集団繁殖地として知られた千葉県の大巌寺 巣を中心に撮った生態写真は目にするが 笠野さんのこの写真は 山門とコロニーから 繁殖環境が読みとれる数少ない1枚であろう
●●2013 July●● トキの胃内容物写真の撮影者を追え (IV)
筆跡の確認(3) 桶舎富士子さん
8月28日(2012年) 石澤慈鳥のご長女桶舎富士子(オケシャ フジコ)さんからの待望の返信メールが、取り次いでくださった川合千晶さんから転送されてきた。一読して胸が躍った。これ以上のことは期待することもないほどの内容。謎が氷解していったのだ!
まったく美しいばかりの内容なので、ご本人には一方的にご了解を得てそっくり転記させていただきたい――
『お尋ねの筆跡は確かに父の手書きです。「マツバ西荻窪」はマツバ写真館の(印)でしょう。父は当時ドイツ製の写真機を使っていましたが、フィルムではなく、乾板でした。当時写真屋と言えば、記念写真や証明写真を撮る所という感じで、乾板の現像焼き付けを上手にやってくれるところは西荻窪のマツバぐらいで、父は荻窪の自宅から自転車でよく通っていました。 父は当時農林省で、野鳥の食性を調べており、胃袋とその内容物をアルコール漬けにした瓶は自宅の庭の倉庫にも満載でした。
「八・五・三十一」は昭和8年5月31日のことでしょう。私の生まれた翌年ですが、終戦後も下村さんはよく荻窪に来られました。父の残した文献(山形県立博物館、石澤コレクション)の中に、何か記録があるかもしれませんが、私には全く分かりません。が、胃袋の解剖と内容物の撮影は父に依るものと思います。 桶舎富士子』
一挙に解明された謎
「うう〜む、そうだったか・・・。」
桶舎メールの明解さには一言の反論の余地もない。私の“下村兼史撮影説”の思惑は、完全に消し飛ばされてしまったのだ。一抹の無念な気持ちが薄らぐのにちょっと時間を要したのは白状するが、落ち着いてからはむしろサバサバした気分になってきた。
主要な点を整理して、これまでの経緯をクールに振り返ってみよう。
A.『お尋ねの筆跡は確かに父の手書きです。』
撮影者とされていた下村兼史と石澤慈鳥の両家のご遺族によって、筆跡は石澤慈鳥のものと確認された。と分かってみれば、うなずかれるのはメモ書きの最後の部分である。「(前段の胃内容同定メモを略)各1/3位のみ写しました」の“写しました”という表現は、撮影者ならではのものと解釈できよう。そうと私は気づいてはいたが、筆跡が下村ではなく石澤となれば“石澤が撮影した”と示唆しているのも同然であろう。そして桶舎さんは「胃袋の解剖と内容物の撮影は父に依るものと思います」とメールを結ぶ。“決まった”のである。
振り返って残念に思うのは、初めてプリントをみたアノ時に私は下村の写真表現にしてはどこか違和感を覚えたのだが、そのままにしてしまったことである。石澤の鳥類の食性研究に付される胃内容物の写真は、被写体がきちんとならべられて独特の趣きが感じられる。そのような写真は、私でも数例記憶にあった。ハズなのであるが、私がアメリカへ行った1962年以降は見ていなかったのだ。それから40数年経ったアノ時、遠くの方で記憶が私を呼んでいたものの、どうしても思い出せなかったのである。思い出していれば、石澤が撮影したのでは?と文献で写真の「らしさ」を見比べ、「やっぱり石澤の撮影だろうね」と思ったに違いなかったのである。後の祭りではある。
B.
『「マツバ西荻窪」はマツバ写真館の(印)でしょう。』
恐れ入りました。西村さんが執念で辿りついた“マツバ写真館”を事もなげに言及しておられる。西村ミッションとしては完璧に成果をあげたが、ミッション完了時には私たちが知りたい“荻窪の石澤”と“西荻窪のマツバ”がまだ点と点であった。「父は荻窪の自宅から(西荻窪のマツバへ)自転車でよく通っていました」と当時がまるで目に思い浮かぶような桶舎さんの表現で、初めて線となって結ばれた。ここに至って桶舎証言と相俟って西村ミッションの大金星がさらに輝きを増したのであった。
にしても、山階鳥類研究所の下村兼史資料に在る4201枚のモノクロプリントの中で、たった1つ押されていた“マツバ西荻窪”の小さなゴム印に、当初抱いた疑問からは予想もつかなかった“謎解き”の醍醐味が秘められていたとは!
C.『「八・五・三十一」は昭和8年5月31日のことでしょう。』
問題はその年月日が何を意味するかであった。アノ時プリントを裏返してみたとたん、数少ない撮影データがメモ書きにあったのを私は胃内容物の撮影日と思い込んだ、その思い込みこそを私が大いに反省しなければならないのである。いまでも思い出せる。思い込んだだけでなく“完璧なる撮影データ”の存在に興奮すらしていたので、視野を広げて判断することができなくなっていたに違いなかった。以後、私はずっとその思い込みに引きずられてきたのである。
冷静であったなら、下村が巣にいるトキの写真を1933年5月31日に撮ったからといって、それと同じ日に胃内容物の写真が撮れるわけがないと気づいたハズである。下村が巣にいる2羽のトキを撮ろうとして1羽が巣から落ち、落ちた雛が死んだことは文献に記述されている(例えば、山階芳麿・中西悟堂(監修) 1983. トキ 黄昏に消えた飛翔の詩. 教育社 p.37, 61)。しかし、死んだその日の内に手回しよく胃を解剖して撮影し、胃内容物を調べるために資料として持ち帰る準備をするのは、巣があった場所が沢を登った奥深い密林であるという現場をちょっと想像してみれば、そのようなことが現実にできる状況にはなかったことが容易に理解されよう。
メモ書きの「八・五・三十一」は、巣にいるトキの撮影日と同じであるが故に私が胃内容物写真の撮影日と早飲み込みしただけで、胃内容物を撮影した日でもない。年月日は、被写体となった検体が採取されたトキそのものの採集日とみるのが一番落ち着きどころを得た解釈ではないだろうか。同じ日に新潟県佐土郡新穂村で下村によって採集されたトキ幼鳥の仮剥製の所在が後日確認され、そのラベル情報からも頷かれるのである。
D.『アルコール漬けにした瓶』
アルコール漬けに関しては、桶舎さんから後日ご丁寧な訂正のメールがあった。『我が家にあった胃袋の内容物はホルマリン漬けでした』と。慈鳥が各地の灯台に依頼して送られてくる渡り鳥研究用の斃死鳥は、アルコール漬けだったとのこと。
因みに、今日を平和に生きる私たちには、それが現実とは想像もつかないことなので、その部分の桶舎メールも引用させていただく:『(猛毒のホルマリン漬けの)保管には、空襲で木造の倉庫が爆撃されることも念頭に置いて、警戒していました。実際我が家の庭は、倉庫に出入りする父をめがけて、機銃掃射に遭っています。』
山形県博での「石澤慈鳥と鳥類」企画展
撮影 ◆ 塚本洋三
2013年4月25日 山形県山形市 謎解きのご縁で山階鳥研の所員と共に 石澤コレクションに直接触れてきた
E.『父の残した文献(山形県立博物館、石澤コレクション)の中に、何か記録があるかもしれませんが、私には全く分かりません。』
筆跡鑑定のお礼のメールに始まってそれならばと続けた私の不躾なさらなる質問に対し、桶舎さんは「石澤慈鳥と鳥類」企画展の開催期間中に山形市まで出掛けられた際、山形県立博物館でトキ胃内容物の液浸標本と乾板、そして未発見の文献の所在を確かめてくだるとのこと。頭の下がる思いで結果を期待した。 残念ながらどれも見つからなかったのである。1962年の転居の際に液浸標本も乾板もかなり破棄したようなご記憶だそうなので、1933年トキ胃内容物に関する原資料は、或いはすでにこの世に存在していないのかも知れない・・・。
桶舎富士子さん。プリント裏面のメモ書きにある「八・五・三十一(昭和8年5月31日)」は、お生まれになった翌年のこと。メールでのご返事にも驚かされたが、その簡にして要を得た内容の明解なること、感謝してもしきれるものではなかった。なんとステキな方なのだろう。山岸先生ご託宣の通り報告文が首尾良く“次号に掲載される”ことにでもなったら、別刷を差し上げることとを理由に一目お目にかかってなによりお礼を申し上げ、お人柄の一端に直接ふれてみたい。早くもそんな気持ちさえしたのであった。
さてーー
プリント裏面の押印“Preserv Print”の新事実
今にして思えば、下村兼史資料の整理保存作業をしている際にもう少し注意を払ってプリント裏面の押印をチェックしていれば・・・。作業途中で何千枚あるのか分からないプリントの押印の意味を詳しく調べる時間的な余裕はなかったという言い訳はあるにしても、である。 作業現場で出来たことは、押印の有無をコンピューターに入力し、プリント裏面もデジタル撮影して画像記録に残すことだけであった。押印を精査することは余計な手間であって、写真資料の整理保存作業の目的にはなかったのである。
それでも作業中、ゴム印の中でも“版権所有 下村兼史”の押印を目にするに及んで、これが押されているのだから、押印は何であれ“下村兼史撮影のプリントだ”と証明しているようなものだと思い込んでしまったのである。
問題の押印(Preserv Print)とメモ書きのあるプリント裏面の例(右上)と 在りし日のアホウドリの群れと巣にいる雛を写したプリント表面
撮影 ◆ 山階芳麿1930年2月15日 東京都鳥島 写真資料提供:山階鳥類研究所
「あれ〜?!」後になって気づいたこと。なんと明らかに下村撮影ではないプリントに“Preserv Print”が押印されていたのである。例えば、私にでも下村の撮影ではないと判別できるアホウドリのプリント(ID番号:AVSK_OT_0376)の裏面には、押印とともに「山階侯爵撮影の鳥島のアハウドリ」のメモがある。別の例では、半世紀以上も見て私が知っている清棲幸保撮影のアオジのプリント(AVSK_OT_0057)に、同じ押印と「アオジ(清棲氏写真)」のメモ書きがある。
明らかに下村以外の撮影者によって撮られたプリント裏面にも同様の押印があることが判明して、私の“押印があるのは下村兼史撮影のプリントだ”説はいとも簡単に覆ってしまったのだった・・・。(続く)
付記: 「まぁだ続くのかい?! 塚本さんの文章は長すぎて、本を読むんじゃないのだから、ホームページを読む人のこと考えて長さや読み易いスタイルに配慮して欲しいんだよなぁ。」ごもっともなご忠告を複数人からいただいた。こんなどうでもよい内容をかくも細々と書いた稀な前例になるのかとず〜っと思いながら、今となっては書き終えるより他ないというのが、私の正直な気持ち。勝手ながら、結構必死なのです。
この連載も、筆跡の確認やゴム印の疑問氷解など核心部分がようやく明らかになってきました。残る文献調査の結果をまって、次回、トキの胃内容物の撮影者が完璧に特定され、完了の予定です。
興味と気力のある方は、次回までお付き合いいただければ幸いです。
■2013 June■ BPAフォトグラファーズ ティータイム:BPA塚本洋三です (II)
前回のイワツバメ絡みの話を続けると、昔の国鉄浅川駅(現JR高尾駅)で撮った60年ほど昔のイワツバメのネガを探していた時、セピアに変色した1枚の写真が出てきた。
熊の湯温泉の佇まいにご注目 左側が玄関 [今の熊の湯を知る人には、古き佳き昔の“熊”の写真をご覧いただきたくて]
林間学校の記念写真で慶応幼稚舎(小学校)6年生のK組O組全生徒が写っている さらにどうでもよいことだが懐かしさのあまりルーペで捜してみたら 前から3列目の中央近くにいるのが私らしい
1952年
長野県志賀高原
長野県志賀高原熊の湯は、当時、確か長野電鉄終点の湯田中駅から夏場ではバスで丸池までは行けて(冬場は雪の状況次第で上林(カンバヤシ)当たりでバスを降ろされてしまって後は、丸池を経由して)歩いてはるばる熊の湯へ辿り着いたと記憶している。そのころの熊の湯は、渓流と呼ぶにはいかにも小さな流れに沿ってご覧の通りの長屋のような古い木造二階建て山小屋風旅館であったのだ。
二階の窓を開けて顔を出すと、軒下の手の届くようなところにビッシリとイワツバメの巣が数珠つなぎになっていたのである。鳴きあって飛び交う群れと盛んに巣に出入りする姿は子供心に壮観であり、都会育ちの私には野鳥の巣が間近に見られて夢中になったのであった。生物部の部活でクラスでただ一人野鳥に取り組んでいた頃である。
巣から出るイワツバメ
撮影 ◆ 塚本洋三
1953年7年12日
長野県蓼科高原
1953年、普通部(中学生)2年の林間学校では長野県蓼科高原の新湯温泉へ行った。その時のイワツバメの写真。親父のローライフレックス4×4を持ち出して撮ったもの。ネガケースには、撮影データとしてシャッター1/25秒、絞f.4と鉛筆書きされていた。
二羽のイワツバメ
撮影 ◆ 塚本洋三
1957年6月9日
北海道阿寒湖畔
1957年には、高校3年の修学旅行でもイワツバメを撮っていた。別に特にイワツバメをご贔屓にしていたわけではないが、私に撮れるのがいずれも軒下のイワツバメくらいだったのであろう。北海道阿寒湖畔の大東館に泊まった時のイワツバメである。ネガケースには「タクマー135mm、シャッター1/50秒、絞り開放、小雨」とのメモ書きが残されている。フィルムはネオパンSS。望遠レンズは当然誰かから借りたものに違いない。
望遠レンズのお陰で当時の私としては、ピントはさておき、鳥が大きく撮れているところがミソである。とわざわざ書くのも、ネガに写し出されたゴマ粒か米粒のようなピントの合っていない“鳥”をルーペで見ては、鳥が“大きく撮れる”ことに憧れていた頃であったからだ。
これらイワツバメの写真には、バード・フォト・アーカイブスのルーツが見え隠れする私の青少年時代の記録なのだ。イワツバメと私の昔に共に思いを致していただけたなら幸いである。
さて、カメラに熱を入れ始めた中年生の頃は、東京上野動物園へよく出掛けては親父のカメラを持ち出しては動物たちの写真を撮っていた。そしてカメラに取り憑かれる決定的なことが中学生1年の時に起きてしまったのである。
動物園では「アフリカ動物歓迎写真コンクール」なるものが催され、なにを思ったのか私は『紳士』と題したフンボルトペンギンの写真を応募したのである。なんとそれが、「小中学生の部1等」に選ばれたとは!
『動物と動物園』に載った1等入賞のフンボルトペンギン(上)
賞状とカップとで記念写真に納まった中1の私
1952年
この“事件”がなければ、その翌1953年2月に日本野鳥の会に入会して以後、“野鳥生態写真”が撮りたいと執念にも近い情熱で、種類も分からないピンボケの米粒のような野鳥のモノクロ写真を撮り続けることはなかったかと思うのである。
因みに、私の鳥ネガ第1号は、忘れもしない1953年5月に富士山麓須走で撮ったコサメビタキだと思っている。日本野鳥の会に入会して4月の高尾山に続く5月の須走の遠出探鳥会で、名前さえ知らなかったコサメビタキを撮ったとは驚きだったのである。
デジカメでバシャバシャ撮るのと違って、その時切った1回のシャッターの感覚とドキドキ感は今でもよく覚えている。コサメビタキが撮れたと思って撮った写真を今見ると、我ながらニガ笑いである。どこが「野鳥生態写真なの?」と疑って不思議ではない、単に巣のある宿の中庭の風景なのである。ファインダーで覗いた時は、頭の中には親鳥が抱卵するコサメビタキの傑作写真が確かにできていたハズだった・・・。
その後も撮り続けて、よく懲りなかったものと我ながら感心する。「今にみていろ、オレだって・・・」と、諸先輩の写真を食い入るように眺め、次のシャッターへの期待に熱をあげていたのである。
モノクロフィルムに取って代わるカラーフィルムが登場しても、高値であるのと、勘で決めるいい加減な露出たのめロクな色彩の写真も私には撮れなかったことが幸いして(?)、モノクロ写真の方がよほど私の感性に合った味わい深い写真という意識が染み込んだものと思う。
長じてデジカメ・カラー全盛時代になり、モノクロ写真文化が埋没してはいけないと思い立ったのも、諦めずに撮り続けたモノクロ写真への憧憬にも似た想いがあってのことであろう。「野鳥」「自然」それらに関わる「人」を三つのキーワードに、忘れ去られる前にそれらのモノクロ写真をライブラリーし後世に引き継いでいこうと、ほとんど衝動的に、日本野鳥の会退任後の2004年に有限会社バード・フォト・アーカイブスを設立したのであった。
時間はあるが金はない21世紀の初め、一人で法人設立の事務手続きをした怖いモノ知らずの奮闘記はまた別の機会に書くとしよう。
●●2013 June●● トキの胃内容物写真の撮影者を追え (III)
被写体がトキの胃内容物という”生態写真”の撮影者を特定するのに、プリント裏面の手書きのメモを筆跡鑑定する調査が、前回から進行している。ご遺族はご遺族でも、願ってもない石澤慈鳥のご長女の鑑定が得られそうな状況となって、結果を心待ちしているところである。その一方で、もう一つの判断材料となるかもしれないプリント裏面に押された2つのゴム印の追跡もしなければなるまい。
すでにご紹介した下村洋史さんからの筆跡確認のメールに、「・・・昆虫研究かでもある 西荻窪在住だった石原慈鳥氏のものだとおもいます。」とあった。石澤慈鳥の筆跡という私にとってはまったく思ってもみなかった結果に愕然として読み過ごしてしまっていたが、フト思い出したメールのもう一字が、「西荻窪在住だった」の“西荻窪”。
ミッション:“マツバ西荻窪を探れ” 「・・・これは、そうだっ! もしかしてアノもう一つのゴム印“マツバ西荻窪”と関係してきそうな?・・・ そうかも知れないかも??」単に“西荻窪”が一致するという以上に、私の第六感が何かをささやいていたのだった。
東京都杉並区に西荻窪がある。その西荻窪に、“マツバ” ?・・・。なんだかわからないけど、調べてもらおう。西荻窪の近くにお住みで、杉並区の自然や歴史に詳しい西村眞一さんがいるではないか。日本野鳥の会東京の幹事さんをしておられ、野鳥の古本マニアでもあるが、杉並の古地図も収集しているハズ。いつも私が困った時にはSOSを出す西村さん。こと地元の探索用件なのだから、何か見つけ出してくれるかも知れない。
まったくいい加減というか無責任な判断で目をつけた西村さんに、これまた雲を掴むようなお願いをしたものだ。「なんだかわかんないのだけど、西荻窪にカタカナで“マツバ”というものに関連するものがあるかもしれないんで、捜してみてくれない〜? 1930年代初めの頃のことだと思うんだけど。もしや、なにか写真と関係することがわかれば、万万歳なんですが、ねぇ。」
押印“マツバ西荻窪”から 果たしてなにか分かるのか???
資料提供:山階鳥類研究所
???ですが 捜してみて〜
コトの顛末を詳しく書いたメールを改めて西村さんに送ったのが、8月16日だった。その時の私のアタマの混乱振りが窺えるので、そのメールを次に転記させていただく:
『はしょらずにもう一度ご説明いたします。
問題のゴム印は、プリント(山階の下村写真資料ID:AVSK_PM_1198)の裏の右隅に小さくある「マツバ西荻窪」です。「マツバ」と「西荻窪」が、上下2段になっている小さなゴム印です。
実は、“マツバ西荻窪”がなにを意味するものやら、まったく手がかりがありません! 1930年代の西荻窪の古地図に“マツバ西荻窪”が写真館として載っていたとしたら・・・ まさかでしょうが・・・ 実はそのあたりが知りたいのです!
胃内容物のプリントが、ちょっとシロウト離れしたような雰囲気のデキ具合に私には見えることから、もしや、もしやです、“マツバ西荻窪”がプリントを作製した???写真館の名前ではなかろうか???と。私のまったくの当てずっぽうですよ。
ところで、西荻窪なら、下村兼史のご長男の洋史氏からのメールでは、石澤慈鳥が在住していたところ。西荻と石澤の関連がなきにしも??? あれば“マツバ”もどこかで関わってくるかも???
胃内容物の検体は、下村が1933年に佐渡で撮った巣にいる2羽のトキの内の1羽が落ちて死んだものから採取、撮影されたことが濃厚です(現在、東京に持ち帰られたというその1羽の剥製の所在を追跡中です)。
石澤でメモ書きの鑑定が正解なら、メモ書きにある胃内容物を石澤が同定した可能性が高くなりそうです。
石澤が撮影に立ち会った可能性もメモから推測され得ます(私の独断による単なる「可能性の推測」です)。
とすると(推測の上にさらなる可能性を上乗せして想像すると)ーー
石澤が写真館(マツバ???)に撮影を依頼した???
石澤自身が撮った???
誰かが撮影した???が、そのプリントを(石澤が???)写真館に依頼した???
或いはマツバとは関係なく、プリントは誰かが作製した??? (だとすると“マツバ西荻窪”は???)
下村兼史が撮ったのではなく、山階の下村写真資料に在ったプリントは、下村が(石澤から???)譲り受けただけのもの???
以上、すべてまったく私の推測が推測を産んだだけの独り言に等しいです。
写真の撮影者も、いつ(多分1933年)、どこで撮られたものかも、ゴム印が何かも、今のところ何もはっきりしていません。
西村さんには、どうぞ真っ白なお気持ちで“マツバ西荻窪”が何を意味するのかを推し量って、なにかを発見していただければ有難いのです。
西村さんの思惑とはちょっとズレたかもしれませんが、“マツバ西荻窪”がいくつかの???を解くきっかけになりはしないかと期待してしまいます。
なにとぞご賢察ご協力のほど、よろしくお願いいたします。』
西村報告(1) さらに探索中
8月19日 『私の方は、我が家にある昭和11年(1936年)発行の杉並区の古地図から西荻窪のマツバを探しました、残念ながら見当たりませんでした。さらに、探索中です。』
西村報告(2) マツバDPE 発見!
8月21日 『ついに、西荻窪のマツバの所在地を発見しました。
本日初めて国会図書館に行ってきました。 国会図書館4階の地図室にて、昭和37年(1962年)、40年(1965年)の『杉並区の住宅地図』(住宅協会)にて、西荻窪駅周辺を探索しました。
すると、両方の地図ともに、西荻窪北口に、「マツバ D.P.E」の記載がありました。この「マツバ D.P.E」がお探しの「西荻窪 マツバ」ではないかと、推測されます。
ただし残念ながら、現在の住宅地図には存在していませんが、所在場所は特定できますので、23日に川合さん宅を訪問後、お時間ありましたら、 私が、「マツバ D.P.E」の跡地を案内できます。
以上、世紀の大発見!?を報告いたします。』
あんな雲を掴むようなミッションでは当分なにも結果は得られまいと思っていたところが、早くも“世紀の大発見”とは!
“マツバ D.P.E”! “マツバ”が私の推察通り写真と直接に関連したことを示しそうな事実が見えてきた。一歩大きく前進ではある。「しかし・・・同じ西荻窪とはいえ、この“マツバ D.P.E”が果たして“マツバ西荻窪”なのか?・・・。“マツバ”なんてそうは無いだろうから、もしかしてなにか期待できそうな?・・・」
マツバ写真館”が載っていた1933年発行の『大日本職業別明細図・杉並区』(個人蔵)
資料提供:西村眞一
西村報告(3) ついにマツバ写真館 !
8月22日 『今日は、東京都立中央図書館に出向き、「西荻窪 マツバ」を、探索してきました。昭和29年(1954年)作図、昭和34年(1959年)修正の『火災保険特殊地図』(都市整図社)より、西荻窪駅北口に、「マツバ写真館」を探し当てました。ビンゴです(笑) 昨日に引き続き、今日も世紀の大発見です!?』
国会図書館には収蔵されていないという地図を、都立中央図書館で見つけてきたとは! しかも“マツバ写真館”!! 迅速にしてすごい発見であった。
しかし、西村さんは満足していなかった。探し当てたマツバ写真館は1950年代での現実であって、私が探している1930年代の“マツバ写真館”は同じ看板の別モノかも?という有難いご配慮なのであった。ミッションは続行!
西村さんの行動力や探索心にはこれまでですでに脱帽であるが、本業のお仕事は大丈夫なのだろうかと、心配になってきた。
西荻窪と荻窪 そして石澤慈鳥
ついについに、西村さんのお陰で1950年代に西荻窪にマツバ写真館が存在したとこまでは、予想もできなかったほどの急ピッチで突き止められた。西村さんならやってくれるのではとミッション遂行に白羽の矢をたてた私の判断も、満更ではない。しかも、私の第六感も捨てたもんではなさそうな雰囲気になってきた。
8月23日にお邪魔した川合千晶さんに西村大発見をご報告したところ、さらに意外な事実をナゾ解きに加えることになった。
そもそも私が西村さんに “ミッション・マツバ西荻窪”をお願いしたのは、下村洋史さんからのメールに「西荻窪在住だった石原(澤)慈鳥氏」とあったこととプリント裏面のゴム印の“マツバ西荻窪”とがなにか関連がありはしまいかと、閃いたからであった。
宛先は”上荻窪”:下村兼史から石澤慈鳥宛てのハガキ
資料提供:川合千晶
興味深い点は (A)番地がなくともハガキは届いていた (B)"兼二"、"健夫"と以前の名がそのまま使われている (C)下村は弘前丸で霧の中エトロフ島に着き エトピリカ ウミスズメ等の影を認めている (D)消印は根室7.7.17(1942年) (E)トナカイの絵葉書は船室備え付けのものと思われる
ところが川合さんのお話では、石澤は杉並区になる前の住所が東京市外井荻町上荻窪433で、お住まいはずっと“上荻窪”だったという。「ええ〜っ、それじゃ下村洋史さんが記憶違いかなんかで、西荻窪は間違えだったんだぁ。」この間違いが、私の“閃き”に繋がったとは! 間違えてくれなければ、ミッションはそもそも浮上しなかったのだ。
さても貴重な間違え! ナゾ解きのアヤ、物事がうまく回転するときには、間違いも味方するものだ。なんだか面白くなってきた・・・。
しかし、そうとなると、石澤が住んでおられた最寄りの荻窪駅から、西荻窪駅は1駅隣りであるから、それまでうっすらと希望的に想定していた石澤とマツバ写真館との関連が遠のいていくような・・・。西村さんは笑い飛ばした。「昔の人は現像にもっていくのに1駅くらい歩いちゃうよ。」
けだし、“荻窪の石澤”と“西荻窪のマツバ”は、依然として点と点であった。点と点が線で繋がる日が近づいているなど、その時は知る由もなかったのである。
マツバ写真館の跡地を訪ねてみたら
“オケシャさん”とは石澤慈鳥のご長女桶舎富士子さんのことであったが、筆跡鑑定をよろしく取り次いでいただけるよう重々お願いして川合さん宅を辞したのだった。父親の筆跡を確認するのに、ご長女をおいて他にはいまい。なんだかすでに大仕事をしでかしたような気分であった。すっかりゴキゲンな帰路、西村さんと私は酔狂なアイディアで一致した。「ここまで来たら、いっそマツバ写真館が在った場所をみてこようじゃないか。」
マツバ写真館跡地の今現在の景色(左上) 突撃インタビューする西村さん
2012年8月23日
東京都西荻窪
現在は西荻窪駅北口から数分のバス通り沿いの商店街、桃井第三小学校のすぐ裏手。そこへ行ってみたからといって、なんてことはないのはわかっていた。好奇心と、その時点でのある種の達成感というか先への明るい見通しが立ってきて、そのことが二人の足取りを軽くさせていた。
「ほら、塚本さん、あのあたりですよ。あのソフトバンクの看板のあたり。」西村さんの頭の中には、マツバ写真館を示す古地図が見えていたに違いない。嬉しそうに声がうわずっていた。私は別の思いだった。(西村さんにはご苦労をおかけしてしまったなぁ。昔の所在がわかったからといって、撮影者の特定に結びつく情報はまだなんも得られたわけじゃないんだ・・・。)
他にやることもないので、跡地にしてもどうしようもない写真をデジカメっていたら、西村さんは路上の見知らぬお年寄りにさっさと突撃インタビューをしていた。こちら側の歩道に面したそのタバコ屋のご主人は、予想外のことを話してくれたのである。
「マツバ写真館? ああ、戦前からありましたよ。あのあたり・・・」指さした道路の向こう側は、西村さんがその直前に予想したその場所ズバリであったのだ。しかも、しかも、戦前に在ったことが証言されたのである!
なんでも写真館の主はハーレイ ダビッドソンに乗っていて、それは軍に没収されてしまったそうだ。勝手に想像してみるに、アノ時代にハーレイのオートバイを乗り回し、恐らく当時は少なかったであろう写真館を開業し、「マツバDPE」から察しられるように現像・焼き付け・引き伸ばしもやり、ましてや看板にカタカナ名をつけたり、やはりマツバのご主人はタダ者ではなかったような雰囲気が感じられたのだった。いろいろと話をしてみたくなるような魅力ある人物像を思い描いてみたのである。
撮影者特定のナゾ解き途中の寄り道、ほんの息抜きといったつもりだったのに、マツバ写真館が戦前から在ったという思わぬプラス情報が得られた。その時の西村さんと私の鼻息が荒かったのはムリもなかったのだった。実は、件のプリント撮影者の顔は、まだ濃い霧の中というのに・・・。
西村報告(4)確認:1933年にはマツバ写真館が開業していた!
9月30日 「本日午前、杉並区立郷土博物館分館1階の『杉並にたくさん工場があった頃』展で、戦前の杉並区の地図が展示してありました。昭和8年(1933年)9月25日、東京交通社発行の『大日本職業別明細図・杉並区』です。西荻窪駅の北側に、“マツバ写真館”の記載があります。この地図によって、“マツバ写真館”が戦前も営業していたことが、確定しました。ただ、“マツバ写真館”が、いつから営業を始めたかは、不明です。」
ついに、執念の追跡で西村さんは1933年、おそらく胃内容物の写真が撮られたと思われるその年には、西荻窪駅の北側でマツバ写真館が開業していたことを突き止めたのである。タバコ屋のご主人のウラがとれたのであった。「いや〜スゴイよ! よくそこまでやったぁ!!!」
ミッション完了 大金星をもって、1ヶ月半近くにも及んだ西村さんのミッションはこれにて完了となった。スタート時の私のいい加減なミッション指示が、かくも見事な結論をもって終わることになろうとは! 西村さん、ほんとに有難う!!
さても待たれるのは、桶舎さんからの筆跡の確認結果である。
一方、文献調査ではトキ関連の文献をしらみつぶしに当たり、これぞと覚しき引用文献をも片っ端から調べている。しかし、石澤慈鳥自らが著したトキ胃内容物に関する文献はまだ見つかっていない。見つかれば、撮影者特定に直接関わる情報が得られるかと思えるのに・・・。このあたりの苛立ちというか戸惑いが日を追って強まっていくのを私は感じていた。はたして“謎解き”はどうなるものかと、私自身先はまったく見えていなかった。(続く)
■2013 May■ BPAフォトグラファーズ ティータイム:BPA塚本洋三です (I)
年に限られた数のフォトグラファーしか登場しないこのページに、モノクロ写真をご提供してくださる方々をさしおいて私塚本が自ら登場する不躾をお許し頂きたい。The Photo の笠野英明さんの写真で“浅川駅のイワツバメ”や写された梁の木目などを眺めていたら、昔のことが脳裏にまざまざと蘇ってきて飛び入りとなった次第である。思えば、その頃にバード・フォト・アーカイブスの原点があったのかと、そのあたりも書き留めておきたい。
昔のこととは、1954年。小中学生の頃から撮りためたネガの箱を久々に引っ張り出して探してみたら、案の定、中学3年の時に浅川駅で写したネガが出てきたのだ。いい加減な露出のネガであるが、カビもなければ酸っぱい臭いもなく、なにもしてないのに保存状態はまずまずかと、さっそくスキャニングしてみた。
イワツバメが作った巣に出入りするスズメ
撮影 ◆ 塚本洋三
1954年5月5日
東京都下国鉄浅川駅(現JR高尾駅)
イワツバメの巣を見あげていたらスズメが顔を出し、バードウオッチャーの駆け出しのころとて、びっくり。“変わったスズメ”が“大発見”のように思えたものだ。これを撮らねばと、カメラは4×4のベビーローライ12枚撮りで、望遠レンズがつくハズもない二眼レフの標準レンズ。それでもいっぱしに生態写真を撮る気で、警戒しながら借家の巣から顔を出すスズメを待ってワクワクしてシャッターを切ったのであった。なかなか合わないピントを合わせるのでファインダーの中心部分しか凝視していなかった私には、その時の思惑では、スズメはもっともっと大きく写っているハズだったのだ。
そんな総てが懐かしい思い出として蘇ったので、59年後の今日、取材を兼ねて同じ駅舎を訪ねてみた。現在は東京駅からJR中央線快速の終点、高尾駅である。
旧国鉄時代の浅川駅は、日本野鳥の会東京支部(現日本野鳥の会東京)の高尾山探鳥会の集合場所で、私が初めて参加したのが入会して間もない1953年4月であった。神社のような佇まいの静かな浅川駅北口、あたり一面のイワツバメの声、飛び交う群れが戻ってくる軒下の隣り合わせのいくつもの巣。探鳥会のスタート地点でのこうした浅川駅北口の印象はいまだに新鮮なままでの再訪であった。
降り立ったやや殺風景なホームの印象は昔のままに、北口駅舎は売店などが入って一変し人で賑わっていた。さて改札を出た玄関先が太い木組みの懐かしさそのままの建物であったのにはホッとするものを感じた。のも束の間、イワツバメで賑やかだった駅舎の周辺は静まりかえっていて、“変わったスズメ”にまた会えるかとかの感傷にひたるどころではなかったのだ。壊されかかった(営巣中とも思えないような)巣が1つと梁にこびりついた巣型の土跡のいくつかがあっただけである。昔と同じハズはないとは予想していたものの、すっかり気抜けしたのだった。
"変わったスズメ"のいた59年後の駅舎の軒下
撮影 ◆ 塚本洋三
2013年5月24日
東京都JR高尾駅
1961年に浅川駅が高尾駅と改称されていて、馴染みの無さがさらなる寂しさを誘った。と感じるのは、私だけではあるまい。1967年には京王線高尾山口駅が開業し、探鳥会の集合場所も高尾山に近い方の駅に移ったのだそうだ。私の知らない内に、昔の浅川駅も今の高尾駅もバードウオッチャーにとっては過去のものになってしまっていた。
何10年振りかの高尾駅は、懐かしさよりも寂しさがもっぱら支配的であった。
と、呟くような声が中空から落ちてきて、飛び交う5,6羽のイワツバメをみつけた。懐かしい声を聞いてから姿を見つけるまでの数秒の間が、イワツバメとの出会いを楽しむ私の一番好きな時間帯。イワツバメを見つける醍醐味は、その数秒に凝縮される。暗い心にパッと日が差し込んだような気分になれた。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、イワツバメはどうも駅舎とは関係ない風で、しばらく飛び回り姿が見えなくなった。
高尾駅の駅員さんに尋ねてみたら、高尾駅では3年前頃からイワツバメはいなくなったとのことであった。利用客からの糞の苦情も原因しているような。1950年代にはなかった巣の直下の糞除けの板が残されているので、巣を落とす以前の糞除けの努力はしていたものと思われるのに。いかほどの苦言だったのかは計り知れないが、格式ある駅舎にイワツバメのいない“沈黙の春”は、昔を知る者にとってなんとももの悲しい切なさであった。
イワツバメがいなくなった(?)JR高尾駅北口(上)と 京王線高尾山口駅
撮影 ◆ 塚本洋三
2013年5月24日
せっかく来たついでにJR高尾駅から1駅先の京王線高尾山口駅へ足を運んでみた。以前話に聞いて期待していたイワツバメの飛び交う群れは見られず、ホーム下のコンクリート橋梁もコロニーとは呼べない古巣?が一つ見えただけであった。こんなハズではなかった。尋ねた時間帯がよくなかったのであろうか?・・・。空を眺めながら、行楽客の流れに逆らうようにしばらく駅周辺をウロウロしてしまった。
因みに、高尾山口駅の高架下でのコロニーで利用中の巣のカウント記録が、清水徹男著『高尾山野鳥観察史 75年の記録と思い出』(けやき出版 2012年)のp.213 に載っている。2008年に61巣、以降順に2009年85巣、52巣、34巣で、昨2012年は今世紀になってダントツ最低の17巣とある。果たして、毎年と同じ調査方法で、今年はいくつの巣が報告されるであろうか。
高尾山口駅開業とともに高架下を新たな営巣場所に選んだイワツバメに何か起きているのであろうか。高尾駅にイワツバメがいなくなったこととなにか関係するのであろうか? 思いついて久々に訪れた高尾駅ではあったが、休眠中の70−300mmレンズのデジカメ一眼をこれまたひさびさに持ち出してあわよくば笠野英明さんの追写をしようと密かに期待したのに、バッグから取り出すこともなく、お相手になるハズだったイワツバメの心配をすることになろうとは、まったく予想外なことになってしまったのだった。(続く)
●●2013 May●● トキの胃内容物写真の撮影者を追え (II)
トキの胃内容物を被写体とした貴重な写真が1枚、山階鳥類研究所に収蔵されている。今回の連載のそもそものきっかけとなったのは、そのキャビネ版プリント(下村兼史資料ID番号AVSK_PM_1198)の撮影者が、文献によって違っているからである。下村兼史(1903−1967)撮影と記載のあるのが、古くは1978年、佐藤春雄著『はばたけ朱鷺』(研成社)のp.211に、新しくは2011年、日本鳥類保護連盟編『鳥との共存をめざして』(中央法規)のp.262に。一方、石澤慈鳥(1899−1967)とあるのが、とても古くて1937年、内田清之助著『脊椎動物大系 鳥類(三省堂)のp.67なのである。私は、いささかの疑問は感じつつも“下村兼史撮影説”に内心大きく傾いていた。
撮影者は下村兼史なのか、石澤慈鳥なのか?
そんなことを気にする人など、私が2005年から山階鳥研で下村資料の整理保存作業をして以来、誰一人としていなかったのである。ところが酔狂な?人が現れた。2012年7月のこと。
真実は一つ
質問してこられた方は、誰あろうお膝元の山階鳥類研究所名誉所長 山岸 哲博士であった。環境省のトキ保護増殖専門家会議座長を務められ、新潟大学特任教授で朱鷺・自然再生学研究センター長(当時)。トキに関してアンテナを張りっぱなしの学者であるから、撮影者の違いにも関心を持たれたに違いない。80年も昔に撮られた写真のことだからと、大目に見過ごしてくださるどころではなかった。
「誤りは速やかに正されなければなりません。下村兼史か石澤慈鳥なのか、はっきりさせるのはあなた方の責任ですよ。次号の『山階鳥類学雑誌』に調べた結果を発表なさい。」同研究所自然誌研究室長の鶴見みや古さんと私に、迫ったのである。しかも、期限付きで。私は少なからず動揺した。調べてわかるものなのか? 山岸先生も私も生まれるよりずっと以前の出来事を・・・。
平和なひととき 山岸先生(左) と私
撮影 ◆ 待鳥暁子
2007年3月
東京 四ッ谷
他ならぬ山岸先生のご質問ではあったが、私は食い下がった。「先生、撮影者がたとえ特定できたにしても、そんな重箱の隅をつつくような調査結果を発表したところで・・・」(よし仮に次号に報告できるにしても、学術的な原稿を書くには時間がかかるし、その前にかなりの調査時間が必要だから、今から次号はどのみちムリな注文・・・)と頭で計算しながら、ま、ゴネたのである。
先生も引かない。「塚本さん、調べて発表なさい。真実は一つですよ。」(ぐへ〜 そりゃ そうだけどぉ・・・)内心つぶやいたものだ。“究極の真理”とも言える学者の一言には、逆らう術がない。止む無しとは観念したが、美味しそうな飴を持たされて投げ飛ばされたような気分だった。
闇にかすかな光が
この“謎解き”、一体どこから始めたらよいというのだ?! 当惑した。一つの真実へと導くローソクの光を得るにも、鶴見さんと私の手にある唯一の情報は、問題のプリント裏面に残された80年前のメモ書きと2つの押印でしかない。「そうだよな、それしかないよなぁ・・・。」ため息混じりにコンピューターに写る件のプリント裏面の画像を眺めていた。
睨んでいてナゾが解けるのか? 問題のプリント裏面の情報
資料提供:山階鳥類研究所
「おっ!」閃いた。「メモだっ、メモが鍵だ! メモは手書きだから、筆跡鑑定だっ!」重かった私の気持ちが、にわかに軽くなったように感じられた。それには?・・・。
「石澤慈鳥と下村兼史のご遺族を捜せ!」
「そうだ、“Preserv Print ”のゴム印が意味するものも調べてみねばなるまいな。誰がいつ、何の目的で押したもんか。」「ん? それが撮影者の特定に結びつくのかなぁ?」自問自答。とにかく調べてみないことには・・・。ヒントのかけらでも掴みたい一心だったのだ。
「どうせなら、ゴム印から押印された年代の鑑定ができないものかな? インクの成分や古さで年代が割り出されるのでは?! なにか撮影者への手がかりとなる情報が浮上するかも??・・・? 」それには?・・・。
「鑑識課だっ。警視庁鑑識課に誰か知り合いはいないかね?」自分で冗談が半分とは意識しつつも、ほとんど本気だった。
真に受けてくれる相棒がいるのは有難いことだ。鶴見さんが意外なことを口にした。「以前に誰か・・・いたな〜。SPの方だったけど。今、どこかしら?」「えっ?!」オーム返しに私は、「どこの部署でもいいから、その人、捜してみてぇ〜。鑑識課を紹介してもらえるかもしれない!」研究室での結構マジな会話だった。
なんとなく調査のとっかかりがほつれてきたような気分。
「もう1つのゴム印“マツバ西荻窪”も、調べてみれば撮影者の特定に繋がるなにかが読めてくるかも・・・な?」とは思ったが、これには手の打ちようがなかった。その時は、(次回で)思わない展開になるとも知らずに・・・。
当然ながら、トキに関連する石澤慈鳥と下村兼史の文献、特に1933年前後に何が起きていたのかを片っ端から調べる必要がある。特に石澤の文献は私はほとんど馴染みがなかったので、なおさらである。アテはないものの、出来る限りの聞き取り調査も心掛けなければなるまい。
こうして手にした頼りなさそうなローソクではあるが、ほのかな光が闇の先をぼんやり照らし始めたようだ。「よ〜しゃ、やってみるっきゃないな。」
筆跡の確認 (1) 下村洋史さん・山本友乃さん
撮影者のご遺族を捜せ! 名案ではあっても、すぐ連絡のとれるのは、ご厳父下村兼史氏の写真資料を山階鳥類研究所へご寄贈くださったご長男下村洋史さんと恵津子さんご夫妻であった。
下村洋史さんは、私の記憶に残る下村兼史とそっくりな方なのである。ハンサムでダンディー、寡黙にして温厚、酒豪、音楽のセンスに溢れ、クリスチャン。唯一惜しまれるのが、父親と同じ野鳥や生態写真の道を歩まれなかったことである。それでもグラスを傾けながら、父兼史のことを思い出されてはそのお話をしてくださり、私が下村兼史について読み聞きしたり講演したことをお伝えしたり、そんなひとときが私にとって実に至福のひとときなのである。
お相手が父親似の酒豪ということをつい忘れて呑み過ぎた私に、恵津子夫人から酒量制限を言い渡されたりも。そんな歯に衣着せぬお付き合いが、ご迷惑をお掛けしながらも爽やかなのである。しめた、筆跡鑑定を肴にまたお邪魔させていただき、一献・・・。
いや、それは楽しみではあるけれども、次の訪問を待ってもいられまい。急遽7月5日に「筆跡鑑定SOS」と題した画像添付のメールをお送りした。鑑定には時間がかかるかと、返事が待ち遠しい気持ちでいた。予想に反してすぐに返事がいただけた、ところをみると・・・、鑑定はムリだったのか・・・。
もどかしく開いたメールのその手短に書かれた内容に、意外や、ビックリした以上にビックリしたのである。なんとーー
『お尋ねの件ですが、友乃にも確認しましたが、昆虫研究かでもある 西荻窪在住だった石原慈鳥氏のものだとおもいます。』
当然“親父の筆跡です”あたりを期待していた私のアテが、まったくはずれた! 面目ないほどに見事にはずれたのだった。
メールにある「友乃」は妹さん、下村兼史のご長女のこと。山階鳥研で整理保存作業をしていた際に、下村兼史著『原色狩猟鳥獣図鑑』(狩猟界社 1965年)に載っている写真のキャプションが ”TOMO. SHIMOMURA” となっていた。さても “K. SHIMOMURA” (ケンジ・シモムラ)との関係を想像して記憶に留めておいた方が、後年わかってみれば ”TOMO” は友乃さん。その記憶がご縁で、2012年3月に初めて山本友乃さんにお目にかかることができた。なんとも嬉しい出会いであった。
下村友乃と下村兼史(中央の2人)
『北海道の大自然』ロケ先で撮影スタッフと
写真提供:山本友乃/BPA
1956/57年
北海道大学構内
数年前にみつけた『原色狩猟鳥獣図鑑』p.189の
"TOMO. SHIMOMURA"
サインは 父兼史の誕生日にお会いした際に
いただいた
以来、山本さんにもなにかと下村兼史のお話を伺ったり、資料を拝見してはバード・フォト・アーカイブスにご寄贈いただいたり、思ってもみなかった展開で時々のひとときを楽しく有難く過ごさせていただいているのである。
山本さんご自身かつてスクリプターをされていて、鹿児島県甑島や北海道へのロケに下村兼史監督に同行されている。そんな関係で並みの親子よりはるかに親父さんの筆跡を眺めた方であるだけに、心強い鑑定人だったのだ。
メールにある「石原慈鳥」は「石澤慈鳥」の単純ミスであろう。
さてもさても、アノ胃内容物写真を撮影したのは、石澤慈鳥であったのか・・・。下村洋史さんと山本友乃さんの筆跡確認の結果に、私はかなり参ってしまった。初めてプリントを手にして以来、まあ下村兼史の撮影だろうなと内心思い込んでいただけに、山岸先生に活を入れられたばかりの調査開始早々に、いきなり強烈なパンチを食らわされたのであった。
翌7月6日に、鶴見さんからのメール。「あら〜あら〜、です。こんなに早くわかるとは思いませんでした。確かに“謎解き”はこれからですが・・・(中略)来週に作戦会議をしましょうか。」
筆跡追跡調査の焦点は、下村家サイドから石澤家へと移ることになった。
筆跡の確認 (2) 川合千晶さん
石澤慈鳥の筆跡であろうとなれば、慈鳥のご遺族のどなたかから確証を得たい。だが、この広い世の中、どうやってご遺族を探しだせというのか?
とっかかりの術さえなく当惑するしかなかった私に、鶴見さんの作戦は当を得たものだった。「川合千晶さんなら、ご遺族をご存知かもしれませんよね。それに、1933年前後の日記や記録などが残っていないかお尋ねした方がよいかも・・・。」「なるほど〜っ。いいとこに思いつきましたね。それだっ。連絡先がわかれば、私、すぐアポとってみますから。鶴見さんからの紹介だってことで。」
川合千晶さんのご登場である。叔父さんが川合市郎氏で、氏の叔父さんが石澤慈鳥に当たると聞く。「う? すると川合千晶さんからみて石澤慈鳥は・・・。」こうした親族関係にとんと理解の乏しい私には、遠い親戚というよりも他人のように思われた。気が遠くなるほど縁の薄い親族でも、他にアテのない以上、それは心強いことには違いない。神は見捨てず、である(こういう時に急に神が現れ、感謝する私)。
その川合市郎氏が収集された鳥の剥製、巣や卵の標本を、氏の没後2009年に山階鳥類研究所へ寄贈いただいた際ご尽力くださったのが、川合千晶さん。その時の担当の1人が鶴見さんだったのである。その川合さんと杉並区善福寺での探鳥会で知り合って山階寄贈への道筋を拓いたのが、日本野鳥の会東京幹事の西村眞一さんと鳥類画家の谷口高司さん。その西村さんには、私が下村兼史の資料整理でも文献探索などで一方ならぬご協力をしていただいている。谷口さんとも旧知の仲。どうやら話が繋ってきたようだ。
因みに、寄贈された川合標本に興味関心のある方は、小林さやか・鶴見みや古 2011. 山階鳥類研究所の寄贈標本――川合市郎氏収集標本目録―― 山階鳥類学雑誌42:185-198 をご参照いただければと思う。
川合千晶さんのアポは、どこの馬の骨がわからない私よりも、念のため西村さんを通じて打診していただくことにした。私としては、石澤慈鳥の“虎の子ご遺族”にお会いできて、なんとしても筆跡の確認にこぎつけたかったのである。実に慎重になっていた私なのであった。
8月23日、川合さんはお手元にある資料を取り揃えて待っていてくださった。仕事を恐らくサボって、西村さんが飛び入りで現れたのも嬉しかったこと。お陰でご挨拶もそこそこに話がストレートに始められた。
石澤慈鳥の直筆例:
問題のプリント裏面の筆跡と共通する?
資料提供:川合千晶
さっそく、件のプリント裏面のコピーを一目ご覧になった川合さんは・・・、悩まれることなく静かに、「字に関しては分からないのです。」(むぐっ・・・。)私はため息をこらえた。
石澤慈鳥のご遺族という頭でお邪魔しただけに、初手から筆跡確認結果への期待感は高まっていたが、川合さんのひと言で一気にしぼんだのだった。しかし、それは無理もないことと、すぐに納得だった。私には親父の筆跡さえ鑑定できない自信がある。遠〜いご親戚筋では、期待する方が間違っていたのだ。
気を取り直した私の頭の中では、(なにか、なにか〜・・・ 筆跡同定の手がかりになるものはないだろうか?)ここは遠慮している場合ではない。「なにか石澤慈鳥の書き残したものとか、ありませんか? 手紙とか・・・。」「手紙は、出したものは(手元に)残らないし・・・」「そうだよ。それに届いた手紙は相手から来るんだから、石澤の筆跡じゃないよね。」「あ、そうだよな。」どうもレベルが低いような会話だが、真剣だったのだ。「原稿とかは?」「原稿は、ないです。・・・この(慈鳥の)顔写真の裏のは直筆ですが。」
そんなやりとりがあって、“ほそっ”と川合さんの、いや女神のひとことーー
「長女のところに聞けばわかるでしょうね。」「えっ? 長女? 石澤慈鳥のぉ?・・・! ご存命なんですか!」「私の父の従妹で、オケシャです。80歳を過ぎましたが、健在です。」
突然として幸運が転がり込んできた。願ってもない慈鳥のご長女の登場である。すぐお会いしたい気持ち。ご遺族をご存知かもの鶴見さんの作戦予測は正解だった。これで決まったのも同然。内心飛び上がりたいほどの興奮を感じた。
「そりゃ一番わかるでしょうね。お願いできますでしょうか?!」俄にふくらむ期待感で、胃内容物写真のプリントアウトを川合さんに託したのであった。
どんな結果が返ってくるのかは、神のみぞ知る・・・ (続く)
■2013 Apr.■ BPAフォトグラファーズ ティータイム:藤村和男さん(III)
藤村和男さんがアノ世へ旅立たれてしまったのだ。
先月のこのページで「(藤村さんが)楽しそうに話される昔話はまた格別。近々またお邪魔しなければなるまい」と結んで、それをアップした2、3日後にさっそくお電話したのだった。いつもと違って、電話口にはお孫さんのお声。
2月にインフルエンザから肺炎を患ったという。「ええ〜、そりゃマズイですよ〜」幸い肺炎は復活されたと。「そうですか! それはよかった、よかったぁ!」 でも体力が落ち、ここしばらく横になっておられるそうだ。「う〜〜〜む、そうですか・・・ ・・・。」話をするのは難しくても会えれば喜ぶでしょうとのこと。その週末の先約を済ませ、さっそくお伺いすることにした。
その電話の翌日の昼に、笹川昭雄さんから訃報が届いた。「亡くなった? え、なぁんで〜?!」すぐには事情が飲み込めずにトンチンカンな返事。まったく信じられないことだった。昨年末にお邪魔した時は、3時間以上もお元気にお話されていたのに・・・。安らかに眠るような最期だったそうで、せめてもといえばそうなのだが、そんなことよりそれどころではない気持ちだった。
用意しておいた手土産をもって伺うハズだったその日が、お通夜となってしまった。カミさんが逝った時は出なかった涙が、不覚にも・・・。享年92歳。
若き日の藤村和男さん
以前に伺った藤村さんのお話から
足元にあるのが撮影用のブラインドで
コチドリを撮った時の写真と推察される
雛を抱くコチドリ
撮影 ◆ 藤村和男
1959年5月8日
東京都多摩川原
お棺には、藤村さんの巾広い趣味を反映して思い出の品々が故人を囲み、それはあたかもお伽の国を見るよう。とても心温まるものが感じられた。どれも藤村さんの新たな旅立ちを元気づけていたに違いない。
半ばまで読み進んでいたというケインズ経済論争の近刊書も、続きが読めるよう配慮され傍に置かれていた。経済の論客は最期まで健在。齢90を過ぎても旺盛な藤村さんの知識欲と気力には改めて敬服させられた。
ふと、中に、「BPAフォトグラファーズ ティータイム:藤村和男さん」のプリントアウトが目に入った。お孫さんが気をきかせてくれたに違いない。感謝して、ちょっと心安らかな気分にもなれた。生前、手土産と一緒に私が用意した同じプリントの反応を直接伺うには遅かったし、勝手なことを書いていた時にはこんなことになろうとは夢にも思わなかっただけに、せめてもの手向けになったかと。
[ 兼史おじさんが撮った写真 ]
コアジサシの巣卵を撮影する藤村兄弟(右が兄 和男くん)
撮影 ◆ 下村兼史
1937年
神奈川県小田原市酒匂川原
写真資料提供:山階鳥類研究所
[ 和男くんが撮った写真 ]
新浜を行く兼史おじさん 右は弟の喜彦くん
撮影 ◆ 藤村和男
撮影年月日不詳
千葉県新浜
藤村さんにはほんとうにいろいろのことを教えていただいた。特に、野鳥の生態写真のこと、内外の生態写真家のこと、カメラやレンズのこと。いつも写真関連の話で時間切れとなり、思えば慶応義塾大学の馬術部で大障害を跳んだ馬上のお姿も写真をちょっと拝見したに過ぎなかった。
思い出すのは、私が高校生のころだったか、日本の野鳥生態写真の大先達、下村兼史のお宅へ連れていってくださった時。確か、「鳥類生態写真集 第1輯」(三省堂、1930年)に載っている“月夜に囀るオオヨシキリ”(第49図)の写真をどのようにして撮ったのかをお訊きしたときだったと思う。お酒好きのお二人は、当然一杯が二杯、二杯が・・・。その帰路、ドブに落ちた藤村さんを私が助けたと、後年田園調布のお宅を訪ねたとき藤村さんが懐かしそうに話された。それを聞いても私はまったく思い出せない。それほど酔っておられた藤村さんが覚えておられ、シラフだった私がどうして覚えていないのかと、二人それぞれの思いで大笑いになったのだった。
長じて私もアルコールの味を覚え、美味い酒はウマイなどと一端のことを言うようになったが、とうとう藤村さんと杯を交わす機会はなかった。焼酎がなによりお好きだった下村兼史を偲んでとか理由はいくらでもあったのだろうに・・・。そんなことまでもが、どこか心残りである。
藤村さんは兼史おじさんとは小さい頃からの長いお付き合いだっただけに、他では聞けない下村兼史の話を藤村さんから伺い、積もる質問を重ねてきた。下村兼史とフィールドで一緒に過ごされたというご経験は、下村兼史の作風に憧れる私には羨ましいことこの上なかった。まだまだお聞きしておきたかったことが山ほどあったのに、下村兼史の数少ない語り部が一人いなくなってしまった。
今ごろは彼の地で多趣味な日々を楽しみ悠々と過ごしておられるに違いない。お訪ねして又お話を聞かせていただこうにも・・・。どうしようもない想いをどこへぶつけたらよいのだろう。バード・フォト・アーカイブスのデータベースに藤村さんの貴重な画像が残されているのがせめてものことである。
長い間お世話になった限りない感謝の念とともに、ご冥福を心からお念じ申し上げます。 合掌
●●2013 Apr.●● トキの胃内容物写真の撮影者を追え (I)
魅力ある1枚の写真が、お隣のページ、The Photo 2013 APR.に載っている。写っているのはトキ幼鳥の胃内容物。鳥には違いない?が、どうして胃の内容物が?といぶかしく思われても、それは極めて例の少ない学術的に貴重な資料写真。貴重と考えられるだけに、写真の撮影者を特定することも大切な意味をもつことになる。とはいえ、鳥友曰く「80年も昔に誰がその写真を撮ったのかなんてぇ、調べて分かるもん? やめといた方がいいんじゃないの〜。」私もそう思わないでもなかったが・・・。
今月からの連載は、やめられなかった私の葛藤の記録である。
1枚のモノクロ写真との出会い
キャビネ版のこのプリントに私が出会ったのは、数年前の山階鳥類研究所。そこの書棚に、5つの段ボールに詰められた写真資料が置かれていた。野鳥を主とした生態写真の日本の先駆者下村兼史(1903−1967)の原版、プリント、カメラ、原稿など、生涯の写真関連資料であった。下村の没後ご遺族によって寄贈されたものである。戦禍や散逸を免れ、日本の野鳥生態写真史の黎明期を駆け抜けた大先達の写真資料がほとんどそっくり残されているのは、奇跡とも言える。その希有な写真資料の整理保存作業を現場責任者としてお手伝いさせていただいた。
映画監督時代の下村兼史
写真提供:山本友乃/BPA
下村兼史資料が詰まった段ボール5箱と
作業開始のプロジェクトチーフ平岡 考さん
撮影 ◆ 塚本洋三
2005年11月24日
千葉県我孫子 山階鳥類研究所
モノクロ写真に関する整理保存の主な作業といえば、段ボールから出した写真を見て主題、撮影者、撮影場所、撮影年月日などのデータが判断できればそれらをその場でコンピューターに入力し、資料にはID番号をつけ、中性紙の袋に入れてさらに中性紙の箱に納め、箱が一杯になると湿度温度管理されたドライキャビネットに収蔵する。この作業が延々と続いた。
寄贈された総てを「下村兼史資料」と呼んで整理していたが、中には下村以外の撮影者の写真も含まれていた。プリントの帰属とか著作権の意識が恐らくほとんど無かった時代を反映しているとも言えよう。下村撮影の写真と他のものとを区別して整理する必要があったのだ。
その判別には、写真の掲載された図書が私の記憶にあればそれに当たって撮影者が確認できた。ついでに関連データが載っていれば、落ち穂拾いしていった。中学生の頃から生態写真を眺め親しんだ私の経験がほとんど頼りであったから、撮影者の判別には油断がならなかったのである。
2005年度から始まって4年間続いた作業のどのあたりで件の1枚に出会ったのかは、覚えていない。4,201枚のモノクロ写真の中の“アノ1枚”を手にした時のことは、忘れられないのだ。
撮影者は下村兼史・・だ・・・?
胃内容物を被写体とした見慣れない写真が、紙袋から取りだした写真の束から現れた時は、いささか面食らったのである。「これでも“生態写真”なんだろね?・・・。」
さてどうしたものかとプリントをひっくり返してみた瞬間、シメタッ。他のプリントにはほとんど見ないメモが書きこまれているではないか。
トキの胃内容物プリントの裏面(下村兼史写真資料ID No.:AVSK_PM_1198)
資料提供:山階鳥類研究所
「おおっ!“トキ雛 佐渡島 八、五、三十一”。イタダキ〜!」
主題、撮影場所、撮影年月日の喉から手が出たいほどの撮影データがそっくり書かれていたのだ。こんな幸運はめったにない。“八”は昭和8年に違いない。1933年5月31日。これは下村兼史が日本で最初に撮った巣にいるトキの幼鳥を撮影した年月日に一致する! その事実だけで私はすっかり興奮してしまっていた。
オマケに“Preserv Print”の押印。
これは、 “版権所有 下村兼史”とか“PHOTO BY K.SHIMOMURA TOKYO, JAPAN”などと同じ下村のプリントの裏面に押されたゴム印の一つの例である。後にチェックしてみたら、4,201点のモノクロプリントの内、半数以上(54.1%)のプリントに数種類あるゴム印のいずれかまたは複数のものが押されていた。作業当時は押印を精査する余裕はなかったが、これぞ“下村の撮影したもの”であるとの解釈ができると思っていた。
撮影データとこの押印の2点は、この胃内容物写真が下村兼史撮影のプリントだと証明しているようなものだと、最初から思い込んだものである。
ただ、下村のプリントと断定するには気になる点があった。まず、プリント裏の右下端に在る“マツバ西荻窪”のもう一つの小さな押印である。4,201枚のモノクロ写真の中で、このプリントだけに限って押されている。東京都杉並区に西荻窪という地名はあるが、“マツバ”と併せて押印が何を意味するのか、考えても分かりそうもない。
「ま、なんだか押されていることもあるさ。」学究的な態度ではないのをうっすら意識しつつ、打つ手もないままにそう気楽に思ったのである。
小さなゴム印よりもさらに本気でひっかかったのが、醸し出された写真の雰囲気であった。「どうも下村兼史の写真らしくないんだな・・・。」それが私の主観ではいかんともし難いが、やはり気になった。「この作風、どこかで見たことあるような・・・。」遠い記憶が私を呼んでいた。だが、思い出せない・・・。
悩んで解決できることでもあるまい。“1933年5月31日”の確実なメモと“Preserv Print”の押印とが揃っていることへの私の思いが勝り、撮影者の同定は下村兼史に傾いた。
下村撮影かどうかも分からないプリントは原則として疑わしきは罰せず、下村兼史に割り当てたID番号で整理していたので、胃内容物写真にも罰せずを適応したのだった。
最終的にさらに下村が撮影者であろうと傾いたのは、他に心強い情報があったからだ。トキの保護研究で第一人者の佐渡の佐藤春雄先生の著書『はばたけ朱鷺』(研成社 1978年)のp.211に載っている同じ写真のキャプションが「石澤健夫さん調べ、下村兼二さん撮影(それぞれ慈鳥、兼史の以前の名前)」だったのである。私には安心材料以外のなにものでもなかった。
不可解とした点は棚に上げ、これにて一件落着な気分。作業の相棒、廣田美枝さんと共に次から次へと整理保存作業を続けていったのであった。
因みに、整理保存作業プロジェクトチームは、チーフの山階鳥類研究所の広報担当平岡 考さん、メンバーに画像保存の日本のトップランナー吉田 成東京工芸大学教授、同研究所自然誌研究室長鶴見みや古さん、現場で作業する廣田さんと私の総勢5人。そこに多くの方々のご支援ご協力があったお陰で、作業最終年度で、山階鳥類研究所のホームページに下村兼史のサイトhttp://www.yamashina.or.jp/hp/hyohon_tosho/shimomura_kenji/k_index.html を開設でき、下村兼史資料11 ,304点およびその後に新たに発見された資料678点を加えた作業結果(総点数11,982点)は、『山階鳥類学雑誌』の41:185−199,plates1−2 +CD および 43:222−241にそれぞれ報告されたのである。
以上で件のトキ胃内容物の写真の撮影者を特定する話は、すっかりケリがついたように思えた。
データベースの「撮影者」欄はーー
どっこい、判断すべきことが1件残っていた。作業結果に基づいた「下村兼史資料データベース」を作成する段になって、すっかり頭から消えていたアノ写真を改めてコンピューターの画像で眺め、入力情報の検討をしたのだ。
「う〜ん」作業現場での葛藤が蘇ってきた。一方で、撮影地や撮影年月日の確かな撮影データおよび下村のプリントを意味すると思われる“Preserv Print”の押印。他方で、“マツバ西荻窪”の未解決の疑問および下村らしからぬ写真表現への私の感じた違和感。問題は「撮影者」欄をどうしたものだろうか・・・。
推測の域はでないのであるが、撮影者は下村兼史であろうと私の頭の中ではほとんど傾いてはいたものの、依然疑問点は残ったままである。残る以上、断定はできない。頼りにした佐藤先生の記述に逆らっては申し訳ない気がしたが、私としてはいささか後ろ髪を引かれる思いで「撮影者」欄を空白に残したのだった。
「それで良かったのだ。フウ〜・・・。」今度こそ肩の荷が下りたのだった。
「掲載図書」欄への情報入力作業が続く先に
前述のデータベースの入力項目の一つに「掲載図書」がある。下村兼史の写真が載ってる書籍の書誌情報が入力してあるのだ。それにより、下村兼史資料にあるどの写真がどれとどの本や雑誌などの何ページに載っているかが一目瞭然・・・のハズであった。
実は、整理保存作業に必要なのでチェックした図書を片手間に拾い上げ、“下村兼史掲載図書データベース”として入力していただけなので、その欄は不完全なままであった。下村兼史資料の整理保存作業計画は完了したものの、それが私は気になっていた。「掲載図書」欄を可能な限り完全に近いものにしなければ、私は山階を去るわけにいくまい・・・。私自身の宿題としたのだった。幸い、山階鳥類研究所のご理解があって、今もまだ続けているのである。
運も味方にして下村写真が掲載されている本を見つけ出しては得られた情報を“掲載図書ベータベース”に入力していくこの部分の作業は、気が遠くなるようである。牛歩でも前進できているのは、どこに埋もれているかもわからない下村写真探索の私の目となってサポートしてくださっている方々のお陰なのである。
中でもお世話になっている方々は、鳥の古書となると目の色が変わる日本野鳥の会東京幹事の西村眞一さん、鳥類関連の文献に詳しい園部環境企画の園部浩一郎さん、野鳥や飛行機など細密ペン画を得意として古本にも目がない伴 義之さん。山階鳥類研究所にとっても私にとっても、大いなる助っ人なのである。
ゴールの定かでない作業を続けるある日、園部さんが示してくださった文献が、想像だに出来なかった一片の情報をもたらしたのである。幸運というべきか、悪夢なのか?
樹幹にあるヤマシロオニグモの卵嚢を撮る石澤慈鳥
撮影 ◆ 下村兼史(推測)
1935年頃
東京都井の頭公園
写真資料提供:山階鳥類研究所
なに〜、石澤慈鳥が撮影者?!
忘れもしないその文献、内田清之助著『脊椎動物大系 鳥類』(三省堂 1937年)であった。そのp.67に載っていたのが、件の写真。キャプションを見て唸った。「第94図 トキ雛一羽の胃内容物(イモリ12 カニ3 カヘル6 ガムシ5 ケラ1)(石澤健夫氏写真)」
「・・・ど、どうしてぇ〜?」私は少なからず動揺した。
石澤慈鳥(54歳)
1958年9月
写真提供:川合千晶
“健夫”は前述の通り“慈鳥”の以前の名前、同じ人物石澤慈鳥(1899−1967)である。林野庁鳥獣調査室に1925年から1960年の間勤務し、野鳥の生態や食性、巣と卵、灯台に衝突した落鳥からの渡りの研究、また一般向けの野鳥ガイドや虫好きが昂じた昆虫の生態図鑑の出版などで知られる鳥学者。下村兼史とは同じ調査室のよしみ、内田清之助が上司だったのである。
その内田の著書に部下の石澤の撮影と載っているのであるから、余計に唸ってしまったのだ。それでも、私は即座に納得する気にはなれなかった。『脊椎動物大系 鳥類』には下村の写真がダントツの223点も載っていて、中には明らかにキャプションが間違っているのも数例私にも指摘できた。
内心思ってしまったものだ。「もしかして、石澤健夫も誤って載ってしまっているかも知れない・・・。」下村兼史にとっても恩師と目して当然の内田清之助博士に、なんと神をも恐れぬ言い草か。
坊主憎けりゃのレベルでしかないのだが、私の屁理屈はとまらなかった。「キャプションは(石澤健夫氏“写真”)であって、石澤“撮影”とは書かれていないではないか。石澤が所有していた写真をそう書いて載せたともとれないでもないよなぁ?」イヤ、これは、まったくもって私の言い掛かりでしかない。同書に載っている下村撮影のキャプションにも「下村兼二氏“写真”」となっているのだから。それほどまでに私はひねくれてしまっていたのだった。下村兼史ファンという個人的な思い入れもあって、下村撮影であって欲しいとの気持ちのどこかが、私の判断をゆがんだものにしてしまったのに違いない。
確かにアノ胃内容物写真が下村撮影と断定できる100%の確証が私にあるわけではないが、私にはプリント裏に書かれた情報に基づく根拠がある。内田のキャプションを覆す術が私にはないが、石澤が撮影者であるという根拠は見いだせない。しかし、撮影者といわれれば撮影者だ。
予期せぬ展開にさんざ戸惑ったあげく、せいぜい冷静にシンプルな解決を思いついた。石澤とも下村とも確定できない状況では、データベースの「撮影者」欄は、それまで通り空白のままにしておく。そして、「備考」欄に“脊椎動物大系 鳥類 P.67 第94図では石澤健夫氏写真と記載されている”と入力する。
たいそうな判断をしたようにその時は思ったが、後から思い出してみるまでもなく、アタマが冷えていればごく常識的な判断でしかなかった。我ながら・・・であった。
「落ち着くべきところに落ち着いたかなぁ。」年来の撮影者の特定は決定打こそ出なかったが、これにて今度こそ一件落着であった。
ところがであるーー
撮影者は下村兼史か石澤慈鳥なのかっ
80年も前に撮られたと思われる胃内容物写真の撮影者が誰であろうと気にする人など一人としていないままに、平和な日々が昨2012年まで続いた。その年の夏頃から、鶴見みや古さんと私とで撮影者を特定する追跡調査を新たに始めるハメになろうとは。その時、どんでん返しの決着が私を待っているなど夢にも思わなかったのである。(続く)
■2013 Mar.■ BPAフォトグラファーズ ティータイム:藤村和男さん (II)
イソシギ
撮影 ◆ 藤村和男
1936年8月
神奈川県大磯海岸
中学生の時に、タロー・テナックスというカメラを海外旅行のお土産に親父さんからもらった。レンズはドグマー150mmがついていた。下村兼史おじさんが来訪されたときに、野鳥の写真をこれで撮るのはどうかと訊いてみた。「和男くん、これはいいでしょう。」大先達のお言葉に、期待感が湧く。
家の近くの大磯海岸で、イソシギがよく水際を歩いているのに気がついていた。「あれが撮れたらスゴイなぁ。」イソシギがよく通るところを辛抱強く眺めて見当をつけ、三脚にセットされたカメラのピントを通り道に合わせ、遠くから紐を引っ張ってシャッターを切る方法を試してみた。
狙ったあたりのカメラの前をイソシギが足早に通り過ぎようとするその時、海風に大きくたわんだ紐を力をこめて引っ張ってみた。手応えは感じられない。フィルムを巻き上げに戻ってカメラをみたら、とにかくシャッターは落ちていた。1回しか押せないシャッター。なにやら心細い感じと撮れたかも知れないという淡い期待を抱きながら、現像が上がるまでが待ち遠しい。ビギナーズラックとでも言おうか、撮れたらいいなぁという程度の無欲の勝利か、ご覧の通り、撮れたのである。14歳の時であった。
兼史おじさんにも、おじさんの写真仲間の清棲幸保博士にも褒められた。そればかりではない。清棲著の「日本鳥類大図鑑」第?巻(大日本雄弁会講談社 1952年)の写真番号524として載せてもらえた。
この紐で遠くからシャッターを切る撮影法は、兼史おじさん譲りであろう。池に張り出した枝にいつも決まって止まるカワセミに気がついて、この方法で下村兼史が初めて野鳥を撮ったのが1922年、原板第1号、カワセミであった。イソシギの写真もカワセミにも共通な点は、ピントを合わせたカメラの撮影範囲内で相手がうまくポーズしてくれる保証はないのである。シャッターが押せる以前に、根気よく相手の行動を観察しなければならない。運も味方につけないと。巣に戻ってくる親鳥を狙って試すのと違って、マグレに近い撮影法なのだ。
この撮影法では、野鳥を観察することから始まって工夫や駆け引きをしながら撮影のプロセスをも楽しもうとする人だけが、1枚のプリントを手にしたときに至福のひとときを味わえるというもの。
今日では、巣の前で待ち構えて撮るこの古典的な生態写真撮影術は、撮影モラルに反する。実はその昔、私も試みた経験があった。しかし、そこらを自由に飛び歩く鳥をこの方法で撮ろうとは思ったことすらなかった。藤村さんのイソシギと下村兼史のカワセミの写真を見るたびに、脱帽である。ちょっと大袈裟な表現をすれば、日本の野鳥生態写真史上でこの撮影法で成功した数少ない人の一人が藤村少年であり、ご覧のイソシギの写真なのである。
巣にいるハイタカの親と雛
撮影 ◆ 藤村和男
1942年6月13日
富士山麓須走
この写真も兼史おじさんに連れていってもらって、富士山麓須走で撮った。巣の近くに建てられた4mほどのやぐらの上にブラインドが作られ、そこに入れてもらったのだ。f4.5のB.L.テッサー105mm標準レンズをつけたグラフレックス名刺判を構え、親鳥が巣に帰ってくるのを待った。警戒心の強いタカ類のこと、簡単にはシャッターを押させてくれないだろうと思っていたら、驚くほど早く帰巣してくれ撮影できた。抱卵している時から撮影を続け、ハイタカがブラインドにすっかり慣れていた、これも兼史おじさんのお陰であった。
巣にいる親子を捉えたハイタカの写真としては、この時が日本で初めてのものと思われる。バード・フォト・アーカイブスのデータベースには、その時の画像2枚が収納されている。ここで紹介するのはその内の1枚である。この写真も前述の通称“清棲大図鑑”の第?巻、写真番号360に載せてもらえた。
この写真番号360は、ネガに見るように定番の横位置に伸ばしてある。私がプリントを作る段になって、1942年に撮影された件のネガを感慨深く眺めてみた。名刺判の中央に写っているハイタカの巣の周囲はゆとりがあって、いかようにもトリミングできる。私ならばと、想を練ることしばし。思い切って縦位置を選んで構図してみた。
そのプリントをご覧になった藤村さんは、「ほー、これも面白いですね。」 ホッとしたのと、してやったりの気持ちを、今もよく覚えている。藤村さんが兼史おじさんに褒められたときと同じように、私が手がけたプリントを藤村さんに喜んでいただけると、単純に嬉しいのであった。
ところでこのハイタカの巣にいる写真、下村兼史も当然撮っていたことは藤村さんのお話でわかっていた。発表された写真を私は長い間見たことがなかったので不思議に思っていたが、実は、古くは1955年の下村著『原色日本鳥類図鑑』(風間書房)に載っていた。載っているのを私が気づいていなかっただけだったのには、下村ファンとしては不甲斐ないことであった。
さらに、1960年の下村著『富士山――山をめぐる自然と人』(さ・え・ら 書房)が手に入り、開いてみて驚いた。「たまごをあたためるハイタカ」とキャプションのある見覚えのある巣の写真は、なんと私が縦位置に伸ばして内心得意に思っていたのと同じような構図だったのである。さすが下村兼史と改めて参ったのであった。いや、そうとも知らずに縦位置でトリミングした私もまんざらではないと思うべきか・・・。
イソシギの撮影から75年余り、ハイタカから70年ほどが経ち、齢90歳をとうに過ぎてさすがの藤村さんも近年カメラこそ手にされていない。かつてのカメラやレンズ、銃器、戦艦や戦闘機、内外の生態写真や写真家などに関しての記憶力はすこぶる健在で、楽しそうに話される昔話はまた格別。近々またお邪魔しなければなるまい。
満開を支えている幹がまた迫力。囲周が約5メートル、樹齢約400年(5−60年前でも樹齢400年だったそうで、今では四捨五入すれば500年)の老巨木。どっしり構えて私の目をしばし釘付けにした。
櫻の花の華やかな優しさと幹の逞しさ。私は、丁度1年前、お花見することなく逝ったカミさんのことを想っていた。私の押す車椅子から櫻を見上げ「今年も見られたね。あと何回見られるのかしら」と話していたその前の年。病の身で、櫻景色が醸し出す独特の風情と一年を生きてお花見に間に合ったという感慨とが、心の琴線に共鳴していた。櫻は病む人の生命力を勇気づける。特に退院してすぐに見られた櫻に、この世にある我が身のひとしおの歓びを一身に感じながら、まさに感無量だったカミさん。
県指定の天然記念物の巨木にレンズを向けながら、ふと思った。カミさんが、咲き垂れた小枝のどこかを揺らして私に相図してくれているかも知れない、と。というのも、自宅の仏壇前に活けた花に話しかけると、花が微妙に揺れ動き、あたかも私に応えてくれているかのようなのだ。同じ花瓶の別の花は微動だにしないのに、決まった花が風もないのに揺れる。揺らしているという感じで揺れるのは、カミさんがやっているのに違いないと私は感じている。他人からすれば“夫バカ”であろうが、そういう現象もあるだろうと私は自然のできごとのように受け入れているのだ。
弔問客の何人かはこの“揺れ”を目撃し、真顔で「やはり何かが在るんですね、ここらに」と。私は霊とかなにかがいてもよいと思っている。カミさんの姿は私には見えないし声も聞こえないけれど、話かけるとしばしの間があって揺らし始める。つい、嬉しくなってしまう。お陰で、アノ世のカミさんとコノ世の私はそんなに離れていないように感じられ、悲しいどころか心温まる日々なのである。
般若院の枝垂れ櫻のどこかをカミさんが揺らしたとしても、仏壇前の花と違って私にそうと感じて看破できる力があるとは残念ながら思えなかった。日夜バード・フォト・アーカイブスの仕事で忙しく過ごしている私には、枝垂れ桜のお花見だけでも思いもよらない命の洗濯であったが、カミさんへの想いにしばし心を遊ばせることができたのはなによりのことであった。お陰さまである。
満開とはいえ、今年も春風が吹いてアッという間の櫻吹雪となるのであろう。吉川英治著の『宮本武蔵』だったかなという程度の記憶ではあるが、その著に書かれていた気のする“咲きつつも なにやら花の寂しきは 散りなん後を想う心か”の心情が、前々年のお花見で言葉少なに観ていたカミさんと私のそれとに重なる。
コノ世でやり残したことに無念を感じつつも、病の苦しさから解き放たれアノ世で心ゆくまで櫻を楽しみ破天荒にすごしているに違いないカミさん。無常。それでよかったのだ。
合掌。
櫻の季節を迎えた。にわかに4〜5月頃の気候となって、東京の櫻は史上2番目に早く一気に花開いた。私にとっては、一人で観る櫻はまた格別である。
去る20日、茨城県の竜ヶ崎バードウオッチングクラブの探鳥会に参加しての帰り道、岸久司会長が案内してくださった竜ヶ崎市内は観佛寺般若院の枝垂れ櫻。それは見事の一語に尽きた。春の陽ざしの中、垂れた枝に咲き煙るようなやわらかな桜色は、あたかも櫻霞みであった。
■2013 Feb.■ BPAフォトグラファーズ ティータイム:藤村和男さん(I)
藤村和男さんとの出会いがいつ頃であったのか、定かではない。中学生の頃から、私はレンズ交換のできない親父の二眼レフカメラで野鳥を撮るのだと、ファインダーに写る米粒のような鳥を胸躍らせて追っかけていた。それを知った先輩の 笹川昭雄さんが、生態写真なら藤村さんをと紹介してくださったことは覚えている。
笹川さんご自身、日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史の遠い親戚筋にあたるが、藤村さんにとって下村兼史は「兼史おじさん」であった。下村ファンの私としては願ってもないこと。カメラやレンズ、下村兼史のこと、英米の生態写真のことなど、他では得難い話をいろいろとお聞きできた。あげくは、望遠レンズをお借りしたり、カメラを世話していただいたり。長いお付き合いとなっている。
和男少年、兼史おじさんと共に
撮影 ◆ 藤村喜彦
撮影年月日不詳
千葉県新浜
藤村さんは、兼史おじさんとは鳥とカメラを通じて小さい時からのお付き合いだそうだ。あるお葬式で鳥好き和男少年を知るご親戚が、わざわざ兼史おじさんの隣に席をとってくれたのがそもそもの始まり。中学生にして一緒にフィールドを歩き、大先達の撮影法を見よう見まねで覚え、就職されても余暇に写真を撮り続けた。その成果は、日本野鳥の会の昔の「野鳥」誌を繰ると表紙や口絵で見られる。
それだけの境遇に恵まれながら、兼史おじさんを追って生態写真家になろう!と思わなかったのは、私にしてみれば不思議であったが、流石と言うべきなのであろう。経済通の論客で、銀行マンとして生涯を通された。親父の会社を継がずに我がまま三昧鳥の世界を走ってきた私とは、人生航路を判断する格が違っていた。それでいて、鳥の世界はお好きのままで、90歳を超えた今でも双眼鏡を離すことはない。1948年の日本鳥学会誌「鳥」12(57): 57-62に発表された論文「アカコッコに就いて」は、当時学会に一石を投じ、奨学賞を受賞(1949年)されている。
コアジサシの飛翔を狙う藤村和男さん
撮影 ◆ 藤村喜彦
1937年夏
神奈川県小田原市酒匂川
抜群の記憶力で話される内容が、いつも興味深く私を刺激する。鳥は趣味のほんの一部であって、レンズやカメラに精通していることは勿論、銃器なども私はただ聞いてその博識に驚いているだけである。例えば、「下村兼史が1930年中ごろに北千島に持っていった鉄砲が写真に写って残っているけど、あれはクマ除けだったんですかね」と軽〜くお訊きしたところ、「そう、あの時のライフルはヒグマに対するもので、ウインチェスター、レバーアクションの94型6連の3030口径だったと思いますよ」とよどみなく細部の情報までが返ってきた。
世界大戦時の英米の軍艦や戦闘機にいたっては、入隊した海軍の教官が藤村さんの知識に驚いて代わりに教える立ち場になったほどとか。水彩画を楽しみ、歌を歌われる。とてもナミの人ではあり得ない。笹川さん同様、思えば素晴らしい先輩に恵まれたものである。
バード・フォト・アーカイブス(BPA)を立ち上げた2004年11月に、ご報告がてら田園調布のお宅にお邪魔し、ついでにというか当然の下心で藤村さんのモノクロ写真をご提供いただけないものか伺ってみた。有難いことに、BPAの趣旨に即ご賛同くださり、これが見つかったネガの総てと惜しげもなくモノクロネガをご提供くださったのである。
生態写真を生涯撮られてきたにしてはコマ数が少ないなと思ったが、考えるまでもなく、今日のデジカメの如くシャッターが切れたわけはない。ワンチャンス1回のシャッターしか押せない“修羅場を撮り抜いて”こられた方である。確かに、「野鳥」誌などを飾った見覚えのあるネガは総て数少ないネガケースに納まっていた。BPAのデータベースがにわかに充実した気分になれたのだった。
代表的な作品の中から、私一押しの一組のサカツラガンの写真をお聞きしたエピソードを交えてまずご紹介したい。
サカツラガンの一群 (A) 12枚撮りフィルムの11枚目
撮影 ◆ 藤村和男
1938年3月
千葉県新浜
兼史おじさんにくっついて新浜へロケハンに行った時のこと。沖へ出ていった一行を見送って一人陸に残っていると、サカツラガンの33羽の群れが飛んできた。そっちの田んぼに下りた。
新浜には、50〜100羽ほどのサカツラガンが1920年代から1940年代初めまで定期的に渡ってきていたのだ。私が新浜へバードウオッチングに通い始めた頃より、さらに15年ほど昔のこと。同じように越冬していた200〜300羽のマガンは、1960年代中ごろまで見られ、私も東京湾最後の群れを学生時代にカウントしていた。サカツラガンを新浜で見たいという果たさぬ夢を、いつも私は藤村さんの写真の中で追っている。
広い田んぼに人影はない。その日は望遠レンズのアドンをもっていって試していたが、ワケのわからないシャッターを切っていたのでアドンを諦め、手慣れたダルメヤーダロン230mmをグラフレックス名刺判につけ換え、手持ちでサカツラガンにだんだんと近づいた。一人で割と近づけた。
その時、12枚撮りフィルムパックには、その日最後の2枚しか残っていなかった。11枚目のシャッターは、田んぼに下りている一群だった。そして、12枚目の最後に残されたフィルムは、全群が飛び立った瞬間のシャッターだった。
どの程度が撮れたかもわからないままに、戻ってきた兼史おじさんたちと合流し、帰路、銀座の金城商会へ現像を頼みに立ち寄った。後日、現像が上がったのを見て初めて「これはいいのが撮れた!」
サカツラガンの一群 (B) 12枚撮りフィルムの12枚目、その日最後の1枚
撮影 ◆ 藤村和男
1938年3月
千葉県新浜
伸ばしたプリントを早く兼史おじさんに見せたかったが機会がなく、「野鳥」誌に載ったのが先だった。会えた時に、褒めてもらえた。さすがの下村兼史も、何枚もあるサカツラガンの写真の中で、藤村さんのこの2枚に迫る写真は限られているように思う。藤村さんの生態写真といえば、まずサカツラガンと言われる由縁である。
それにしてもデジカメの皆さん、想像なさってみてください。またとないチャンスに2回しかシャッターが押せないと分かっていたら、いつ、どんな場面でシャッターを押すタイミングを決断するでしょうか?
1本のフィルムが10枚とか12枚撮りには私も年来の経験があるが、カメラに入っているフィルムの最後の2枚で、相手が稀少なサカツラガン。思っただけで目眩がしそう。しかも2枚とも傑作となるシャッターが押せた藤村さんとは一体どういうカメラセンスの持ち主かと、こうして2枚の作品をならべて見てほとんど呆れるばかりである。
ワンチャンスに1回のシャッターを切って撮る。それは古いフィルムカメラでの宿命ではある。まさに必殺技で傑作が撮れた時、これほど痛快な生態写真撮影はあるまい。その醍醐味を極限で味わえた藤村さんは、撮影冥利に尽きる希有な生態写真家だと思っている。
遊びに伺ったときに、その時のことをお訊きしてみた。半世紀以上も昔のことながら、絶対に忘れ得ないアノ瞬間を得意になってお話されると思いきや、事もなげに「な〜に、ちょっと運がよかったのですよ。」
藤村和男さんとの出会いがいつ頃であったのか、定かではない。中学生の頃から、私はレンズ交換のできない親父の二眼レフカメラで野鳥を撮るのだと、ファインダーに写る米粒のような鳥を胸躍らせて追っかけていた。それを知った先輩の 笹川昭雄さんが、生態写真なら藤村さんをと紹介してくださったことは覚えている。
笹川さんご自身、日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史の遠い親戚筋にあたるが、藤村さんにとって下村兼史は「兼史おじさん」であった。下村ファンの私としては願ってもないこと。カメラやレンズ、下村兼史のこと、英米の生態写真のことなど、他では得難い話をいろいろとお聞きできた。あげくは、望遠レンズをお借りしたり、カメラを世話していただいたり。長いお付き合いとなっている。
和男少年、兼史おじさんと共に
撮影 ◆ 藤村喜彦
撮影年月日不詳
千葉県新浜
藤村さんは、兼史おじさんとは鳥とカメラを通じて小さい時からのお付き合いだそうだ。あるお葬式で鳥好き和男少年を知るご親戚が、わざわざ兼史おじさんの隣に席をとってくれたのがそもそもの始まり。中学生にして一緒にフィールドを歩き、大先達の撮影法を見よう見まねで覚え、就職されても余暇に写真を撮り続けた。その成果は、日本野鳥の会の昔の「野鳥」誌を繰ると表紙や口絵で見られる。
それだけの境遇に恵まれながら、兼史おじさんを追って生態写真家になろう!と思わなかったのは、私にしてみれば不思議であったが、流石と言うべきなのであろう。経済通の論客で、銀行マンとして生涯を通された。親父の会社を継がずに我がまま三昧鳥の世界を走ってきた私とは、人生航路を判断する格が違っていた。それでいて、鳥の世界はお好きのままで、90歳を超えた今でも双眼鏡を離すことはない。1948年の日本鳥学会誌「鳥」12(57): 57-62に発表された論文「アカコッコに就いて」は、当時学会に一石を投じ、奨学賞を受賞(1949年)されている。
コアジサシの飛翔を狙う藤村和男さん
撮影 ◆ 藤村喜彦
1937年夏
神奈川県小田原市酒匂川
抜群の記憶力で話される内容が、いつも興味深く私を刺激する。鳥は趣味のほんの一部であって、レンズやカメラに精通していることは勿論、銃器なども私はただ聞いてその博識に驚いているだけである。例えば、「下村兼史が1930年中ごろに北千島に持っていった鉄砲が写真に写って残っているけど、あれはクマ除けだったんですかね」と軽〜くお訊きしたところ、「そう、あの時のライフルはヒグマに対するもので、ウインチェスター、レバーアクションの94型6連の3030口径だったと思いますよ」とよどみなく細部の情報までが返ってきた。
世界大戦時の英米の軍艦や戦闘機にいたっては、入隊した海軍の教官が藤村さんの知識に驚いて代わりに教える立ち場になったほどとか。水彩画を楽しみ、歌を歌われる。とてもナミの人ではあり得ない。笹川さん同様、思えば素晴らしい先輩に恵まれたものである。
バード・フォト・アーカイブス(BPA)を立ち上げた2004年11月に、ご報告がてら田園調布のお宅にお邪魔し、ついでにというか当然の下心で藤村さんのモノクロ写真をご提供いただけないものか伺ってみた。有難いことに、BPAの趣旨に即ご賛同くださり、これが見つかったネガの総てと惜しげもなくモノクロネガをご提供くださったのである。
生態写真を生涯撮られてきたにしてはコマ数が少ないなと思ったが、考えるまでもなく、今日のデジカメの如くシャッターが切れたわけはない。ワンチャンス1回のシャッターしか押せない“修羅場を撮り抜いて”こられた方である。確かに、「野鳥」誌などを飾った見覚えのあるネガは総て数少ないネガケースに納まっていた。BPAのデータベースがにわかに充実した気分になれたのだった。
代表的な作品の中から、私一押しの一組のサカツラガンの写真をお聞きしたエピソードを交えてまずご紹介したい。
サカツラガンの一群 (A) 12枚撮りフィルムの11枚目
撮影 ◆ 藤村和男
1938年3月
千葉県新浜
兼史おじさんにくっついて新浜へロケハンに行った時のこと。沖へ出ていった一行を見送って一人陸に残っていると、サカツラガンの33羽の群れが飛んできた。そっちの田んぼに下りた。
新浜には、50〜100羽ほどのサカツラガンが1920年代から1940年代初めまで定期的に渡ってきていたのだ。私が新浜へバードウオッチングに通い始めた頃より、さらに15年ほど昔のこと。同じように越冬していた200〜300羽のマガンは、1960年代中ごろまで見られ、私も東京湾最後の群れを学生時代にカウントしていた。サカツラガンを新浜で見たいという果たさぬ夢を、いつも私は藤村さんの写真の中で追っている。
広い田んぼに人影はない。その日は望遠レンズのアドンをもっていって試していたが、ワケのわからないシャッターを切っていたのでアドンを諦め、手慣れたダルメヤーダロン230mmをグラフレックス名刺判につけ換え、手持ちでサカツラガンにだんだんと近づいた。一人で割と近づけた。
その時、12枚撮りフィルムパックには、その日最後の2枚しか残っていなかった。11枚目のシャッターは、田んぼに下りている一群だった。そして、12枚目の最後に残されたフィルムは、全群が飛び立った瞬間のシャッターだった。
どの程度が撮れたかもわからないままに、戻ってきた兼史おじさんたちと合流し、帰路、銀座の金城商会へ現像を頼みに立ち寄った。後日、現像が上がったのを見て初めて「これはいいのが撮れた!」
サカツラガンの一群 (B) 12枚撮りフィルムの12枚目、その日最後の1枚
撮影 ◆ 藤村和男
1938年3月
千葉県新浜
伸ばしたプリントを早く兼史おじさんに見せたかったが機会がなく、「野鳥」誌に載ったのが先だった。会えた時に、褒めてもらえた。さすがの下村兼史も、何枚もあるサカツラガンの写真の中で、藤村さんのこの2枚に迫る写真は限られているように思う。藤村さんの生態写真といえば、まずサカツラガンと言われる由縁である。
それにしてもデジカメの皆さん、想像なさってみてください。またとないチャンスに2回しかシャッターが押せないと分かっていたら、いつ、どんな場面でシャッターを押すタイミングを決断するでしょうか?
1本のフィルムが10枚とか12枚撮りには私も年来の経験があるが、カメラに入っているフィルムの最後の2枚で、相手が稀少なサカツラガン。思っただけで目眩がしそう。しかも2枚とも傑作となるシャッターが押せた藤村さんとは一体どういうカメラセンスの持ち主かと、こうして2枚の作品をならべて見てほとんど呆れるばかりである。
ワンチャンスに1回のシャッターを切って撮る。それは古いフィルムカメラでの宿命ではある。まさに必殺技で傑作が撮れた時、これほど痛快な生態写真撮影はあるまい。その醍醐味を極限で味わえた藤村さんは、撮影冥利に尽きる希有な生態写真家だと思っている。
遊びに伺ったときに、その時のことをお訊きしてみた。半世紀以上も昔のことながら、絶対に忘れ得ないアノ瞬間を得意になってお話されると思いきや、事もなげに「な〜に、ちょっと運がよかったのですよ。」
●●2013 Feb.●● 「ダーウインが来た!」にBPA初登場
思わないことが起きるものである。バード・フォト・アーカイブス(BPA)の写真が、2月3日は夜7:30からのNHKテレビ「ダーウインが来た!」に“出演”することになった。
ディレクターさんは、1954年に私が撮った新潟県瓢湖の白鳥と人のいるモノクロ写真をリクエストされた。それなら直ぐに提供できるばかりに画像が出来上がっていたので、急な話でもお安いご用であった。
1954年というのは、その2月4日に瓢湖で野生の白鳥が人の与える餌を恐らく日本で初めて受け入れた歴史的な年。全国的にも白鳥の渡来数は多くない頃であった。番組の舞台が瓢湖とあって、瓢湖でも白鳥の数が数10羽と少なかった頃の二度とめぐってこない1954年の写真であるところが、BPAの強味である。
因みに、写っている人は、浅く雪の積もる湖畔に立つ日本野鳥の会会長の中西悟堂、加茂農林高校の成沢多美也、そして“瓢湖の白鳥の父”吉川十三郎の三氏。わざわざ白鳥を見に来る一般の人などは、一人もいなかった。
白鳥は、その写真を撮った3月7日に、オオハクチョウ30羽と当時まさか見られるとは期待さえもしていなかったコハクチョウ2羽の、32羽が総てであった。
番組はなんらかの“白鳥物語”であろうと勝手に想像していた。当日のテレビ番組を新聞で確かめてみて驚いた。「謎の覆面鳥! 人を襲うマスクに秘めた親の愛」。「なんじゃ、こりゃ〜?」思わずつぶやいてしまった。「番組変更になったのか。まずったぁ・・・」数人の方には知らせてしまっていた。どうしようもない。一人浮かぬ顔で番組を見とどけるしかなかった。
「謎の覆面鳥」とはオーストラリアを舞台のズグロトサカゲリのことだった。白鳥とはなんの関連もなく進む番組を、やや気落ちして見ていた。と、「突然ですが、ここでダーウインNEWSです・・・」 まったく突然に、「白鳥の湖 瓢湖」が登場した。「おおっ! これだぁ」一気に気合いが入ったのは言うまでもない。
カラー画面がモノクロになり「ン? やったぁ!」 画面右下に『1954年』『写真提供・バード・フォト・アーカイブス』とのテロップが! 咄嗟にテロップの見慣れた文字を目で追った。次の瞬間、知っているからそれとわかった画像をチラッと見やるコンマ何秒かで、またカラー画面へと変わってしまった。BPAのモノクロ写真は、往時白鳥が数少なかったことを視聴者に印象づけるべく、稲妻の如くテレビ画面を駆け抜けていったのだ。 その晩、電話とメールがいくつかあった。反応はといえば、モノクロの写真は気がついて見たけどテロップを見落としたという人、テロップがまず目について「へえぇ〜 BPAよ!」と驚いている間に画像をほとんど見損ねた人、写真は見てテロップは番組最後の協力者リストで横に流れるだろうと注意していたのにBPAが出てこなかったとモンクを言ってくる人、前の週の予告編ですでに見ていた人、ながら見していてまったく見損なった人、後から録画でバッチリ見たという人。
かくして1枚のBPA写真が瞬間登場したが、私が中学生の時に撮った写真と知ってか知らずか皆さん写真にはコメントせずに、テロップが出た出ないのプラスアルファを楽しんでくださったようだ。とにかく一時の盛り上がりではあったのだった。
因みに、事前に知らせなかった方からの「ダーウイン、見ましたよ〜 BPAでてましたね」の連絡はなく、さしもの人気番組でもあまりの瞬間芸?では気づくものも気づかれないで終わってしまうということがよく分かったのであった。
BPAとしては、再放送、国際放送、NHKオンデマンド・インターネット放送とかでこの番組がせいぜい大勢の人の目にとまり、BPAの“瞬間”画像をもしっかり見ていただけたらと願っています。
たったのこれだけで、お騒がせいたしました。
■2013 Jan.■ BPAフォトグラファーズ ティータイム: 桂 千恵子さん
旧年末、山階鳥類研究所からの帰路、まさかぁ・・・の訃報が携帯メールに飛び込んだ。鳥がとりもつ長いお付き合いだった桂 千恵子さんだった。その日、山階鳥研でトキについての文献を調べていて、桂さんが訳された本 [劉 蔭増『トキが生きていた! 国際保護鳥トキ再発見の物語』(ポプラ社 1992年)] をなにげなく手にしたのだ。トキがまだ中国でみつかっていなかった頃に、もしやどこかに生存していないものかと、旅の行く先々で桂さんが中国関係者に訊いてくれたことがあったなぁと、懐かしく思い出した。用もないのにその奥付をコピーして提げカバンに入れて帰宅の途についたのは、虫の知らせだったのか。そろそろ新年のご挨拶も兼ねてご無沙汰のメールを書かねばと思っていた矢先のことであった。
さらに、簡潔にして要を得た文をお書きになる。そして、俳号は済みません覚えていないのですが、俳句をも楽しまれた。ご自分のやられることを常にきちんと形にする桂さんは、ここでも『寒緋桜』と題した写真俳句集を出版され(新風舎 2005年)、またまた私を驚かせた。
頂いたハガキには「我が身の程知らずのことをしたのは、金婚記念、(掲載されている写真の撮影地でもあり、晩年奈良へ移り住むことになって)福岡との別れ、親しくしていただいた方への形見と三つの理由がありました。」とある。そして、後記は「美しいものへの憬れや感動する心は、幾つになっても失いたくないと思っています」と結んでいる。まったくその通りだと私も思いますよ。
桂さんは生涯のほとんどを福岡市博多で過ごされたので、私が九州での鳥の会合へ出向いたり、東京や中国での会議などでご一緒したりする以外は、ほとんど顔を合わせる機会はなかった。にもかかわらず、お会いするたびの印象は深く、いくつもの思い出がずっしりと心に残っている。
お母さんは若いころ美人番付に載るほどだったそうだが、「私はそれを残念ながら受け継がなかったの」と静かな笑顔で話されたことがあった。どうして、確かに“世間で言う美人”ではなかったと思うが、私に言わせれば美人より格上の実に魅力溢れる方だった。中年のご主婦、一見平凡なということで初対面のころは油断していたが、どうして、会議などで発言されると、要領よくはっきりとお考えを述べられる。学習を怠らない姿勢。いつも無言で範を示されているようで、そんな態度がまた桂さんの魅力を増幅させていた。
なにより驚かされたのは、44歳にして迷わず中国語を習い始めたことである。その理由が桂さんらしい。大戦中に焼け出されて戦後もご苦労されたらしいが、庭つきの家に落ち着いてからは、庭に来る野鳥を楽しみ始めたという。中にはお隣の国から渡ってくる鳥もいたので興味をもってみると、お国事情で保護の状況も違っている。互いに理解するには、まずは中国語を学ばねばならないと思いたった。
そこらまでは私にも出来ると思うが、桂さんはその後の実行が徹底していた。日本での約4倍に当たる中国で記録された2千余種の鳥の中国名をすべて覚え、専門用語もこなせる強みで、鳥学研究の交流の場でボランティア通訳をするところまで駆け上ったのだ。語学力のない私には、いつの間に?とその学力と成果に羨望以外のなにものでもなかった。お陰で桂さんと一緒に中国を訪れると、会議や峨眉山へのエクスカーションなどいつも大船に乗ったも同然だった。
マガモ(手前)とオカヨシガモ
撮影 ◆ 桂 千恵子
撮影現月日不詳
福岡県
案山子
撮影 ◆ 桂 千恵子
撮影現月日不詳
福岡県
オオガヤツリ
撮影 ◆ 桂 千恵子
撮影年月日不詳
福岡県
「塚本さんのお仕事に役立つならいつでもお使いください」(2007年5月21日付けメール)と、『寒緋桜』に掲載された写真の総てが収納されたCDを惜しげもなくバード・フォト・アーカイブスにご提供くださった。覚書を交わすのはそのうちにと言っていたのが5年以上も過ぎた今になってしまい、捺印して天国から返送お願いするようなことになるとは・・・。大切に活用させていただきますので、桂さん、ご安心していてください。
バード・フォト・アーカイブスを立ち上げた際、久々のご挨拶を兼ねてなにかご提供いただけるモノクロ写真がないかお訊きしてみた。手元にイワミセキレイのプリントしか残っていないというご返事。桂さんが初めて野鳥を撮ったのが1971年2月3日、庭に来る雪の日のメジロで、それから5ヶ月も経たない数本目のフィルムで、イワミセキレイを撮ったという。ビックリした。まさに“ビギナーズ ラック”だった。
イワミセキレイとは、日本ではめったに見られない憬れの鳥。セキレイの仲間は尾を腰から上下に振るが、イワミセキレイだけは左右に振るという変わり者。それを見たいものだが、私はいまだ鳥運が向いてこない。せめて写真でもと、一も二もなくお願いした。なんと近くの公園で繁殖したときの写真だという。それは記録モノである。「薄暗い森ですから今でもプロの腕と機材が必要だろうというのに、全くのおばさんの作でお許しください」と、5枚の手札版プリントが送られてきた。その内の1枚がここにご覧いただくものである。
巣があると思われる近くで一本足でうたうイワミセキレイ
撮影 ◆ 桂 千恵子
1971年6月29日
福岡県福岡市南公園
珍鳥イワミセキレイがしかも繁殖したという鳥界ビッグニュースの現場近くにお住まいだった桂さんに、撮影したときの状況をお訊ねしたことがある。返信の2005年6月25日付けのメールを、ナマの記録としてそのまま転載させていただく。
「南公園の近くにお住まいだった故安西美智代様からイワミセキレイがきていますよ、とお知らせをうけて一度いってみました。誰もいませんでしたが始めてみる鳥で(といっても何を見ても始めてだったころです)、尾を横に振りながらギー、ツッ、ツッ、ギー、ツッ、ツッと3拍子で鳴くのですぐこれだと分かりました。2,3日後カラーフィルムをいれた買いたてのカメラを持って行き、コゲラ、キビタキ、コサメビタキなどと一緒に1枚づつ撮ったのが、望遠の使い始めです。
カラーフィルムは高感度がなかったか、あっても高価だったのでしょう。その後しばらくはご無沙汰。新聞がイワミセキレイ発見と報じて安西さんは時の人となられましたが、かといってマスコミやウオッチャーがどっと押しかけることもなかったように思います。私が行った時はいつも一人でしたから。しばらくしてまた“巣立ったようですよ”とお電話いただきとんでいったのがモノクロの方、今度はASA(今ではISO?)400を入れて行きました。うすぐらい森だったので、少しでも感度のたかいものと思ったのです。
2mから3mくらいの樹間を飛び回るので3脚などあっても役に立たなかったでしょう。親が囀るときと雛らしき鳥は比較的にシャッターチャンスをあたえてくれました。小道に立って全身を見せたまま手持ちのカメラと手動のピントあわせですから、今思えば良い写真が撮れるはずないですよね。
囀りについてはその後何かで録音(南公園とは別の)を聞きました。それはギーツツ、ギーツツと2拍子だったので、アレ?と思いましたが変化もあるのでしょうか?
福岡の南公園も今は変わりました。木々は高くなり小道は整備されて道幅が広くなり、犬の散歩に来る人もままあります。」
尚、このイワミセキレイの営巣を1971年に日本で最初に発見した安西美智代さんの観察記録は、『野鳥』誌の1971年11月号、通巻302号pp.592-595に写真と共に高野伸二さんによって紹介されている。
生涯に望んでいたすべてを成し終えて逝かれる人は、いたにしても希有であろう。桂さんはそんな人にかなり近い稀なるお一人であったのではないかと信じている。半生にご苦労を重ね、中年になってから庭に来る野鳥の楽しみに目覚め、鳥学研究と野鳥保護の世界でなにか役に立てたらと常に前向きに学び、控えめでいつも裏方として静かに徹底して努力しておられた。私が日本野鳥の会で仕事をさせていただいた折々に、どれほどお世話になったか知れない。特に、英語よりも得意になった中国語で日中交流に着実な流れをつくって成果をあげられた。その機会があったことへの感謝の念を桂さんはよく口にされていたことも印象に残る。自然への桂さんの想いを、ご自身の言葉で締めくくりたい。
「大自然とは、それを人間の恣意に任せて扱ってよいものではなく、協調しつつ、大切に持続させて行くべき、大いなる神の創造物なのだから。」 合掌
●●2013 Jan.●● 見えないモノまでを“しっかり”見る
テレビニュースで最近耳につく政治家の言葉がある。「頑張ってしっかりご期待に応えたい。与野党とでしっかり議論すれば・・・。しっかり考えて対処したい。」なにかにつけ“しっかり”である。ある覚悟があってこの言葉を口にしているのだといった話し手の意気込みが感じられない。しっかりやるなんて当たり前のことではないのか。「おいおい、しっかり頼みますよ」と思わずお願いしたくなるのはこっちの方だ。
他人様へのモンクは簡単であるが、それではお前はしっかりしているのかと我が身に問うと、大きな“?”がつく。つい先日の新年会で、そう、新年会での話題だったのだが、「消費者教育推進法」なるものが去年8月に衆議院本会議で可決成立していたことを初めて知った。それほどであるから、しっかりニュースを見ているつもりでも、私のお里が知れてしまう。
その法律の内容を知りたい向きには法律やその解説などをご一読して正確な知識を得ていただきたいのだが、私流に誠に勝手に法律の精神を申せば、「私たち消費者たるもの、もっと学習し、消費する者の立場で商品の良し悪しとそれらを使用する影響にもさらに意を用い、安全安心な生活と社会をつくる取り組みに参加していこうじゃないか。」となる。
なんらかの“取り組み参加”が最も肝要の部分で、社会変革をめざす教育の重要な一翼を担うものと考えるのであるが、それを法律で「消費者の権利」と位置づけてくれている。消費者といえば私たち総てであるから、誰もの権利、誰もの関心事でなければならない。
おお! なんと大変そうに聞こえるが、知らなかった法律にビックリするまでもなく、私たち一人一人が身の回りの問題をしっかりと自分のものとして受けとめる気概が求められる時代なのだ。
まずは知らねばならない。それには必要な情報を得ることだ。ネットの時代、情報はコンピューターに向かえば簡単に手に入りそうだ。ところが、ココが知りたいという肝心の消費者情報は、そうもいかない。表だって見えない情報や正確なデータを探りあてるには、情報を出し渋る側の“論理”や社会の壁がありはしまいか? くじけてはいけないハードルである。
身の回りのことで知りたい情報として、食品の添加物、遺伝子操作の食品、農林業や家庭で使われる農薬や殺虫剤、放射線の影響などなど、健康の安心に関わる課題は、枚挙にいとまがない。私たちは油断のならない社会で毎日を過ごしているので、それだけ関心を持って自衛しなければならないのだ。厄介なことに、なんとなく問題がありそうだと感じても、この手のどれ一つとっても“相手が見えない”ことである。
手に入れ難い見えない相手に関する情報収集、専門家に頼らざるを得ない複雑な因果関係の究明、利益団体の圧力や現状にあわない法律の壁など、安全安心の社会へ向けて取り組む道は端っから険しい。
かといって、こうした課題が改善されずに年々続いていくのは、恐ろしいことなのです。なにがオソロシイかというと、私たちが日々食べたり飲んだり使ったり曝されたりしていることの影響が長期にわたると、一日一日では気がつかれない軽微なモノが私たちの身体にボディーブローのようにジンワリと効いてきて、人間の成長や健康にやがて影響を及ぼすことになりかねないからである。長期にゆったりと進行するモノを見破るには鈍感な人間さまの、知らぬが仏とも言っていられない、ここが勝負どころ。なんとかしなければ・・・。
平和に思える日本の社会で、身の回りは“難敵”に囲まれている。タイヘンでも私たち消費者ができることを僅かづつでも進めていかなければなるまい。
“なにかがオカシイ”と思われていた問題の一つは、将来を担う子供たちの発達障害であろう。学校などで最近多く聞かれるようになっている学習障害、ADHD(注意欠陥多動性障害)、自閉症など。この問題意識に、研究成果が追いついてきた。農薬が、原因の主要な一端であるとの研究報告が活字になり始めたのである。
発達障害は、農薬、特に近年JA全農でも推奨されて広く使われ、農水省の規制基準も欧州連合(EU)などにくらべて手ぬるい、ネオニコチノイド系農薬との関連が挙げられてきている。ネオニコチノイドは農薬としてよく効く一方で、人の脳神経への影響などを引き起こすことが国内外の研究で明らかになってきたのだ。
私の周りでも「ネオニコチノイド」の言葉自体がまだ知られていないようだが、なに、商品ラベルには名前を変えて家庭で使われる殺虫剤にもすでに多く使用されていると聞くから、オソロシイのである。
切れる子が増えて事件を起こしたり、ひきこもり人間が多くなったと言われる現在の社会だが、そもそもの原因がどこにあるのかも、なんとなく気になったりする。しかし、あれもこれも個人でというわけには、とてもいかない。私たちそれぞれに出来ることをスタートとしていきたい。そうして踏ん張っていく内に、仲間が仲間を呼び、問題解決を阻害している根っ子の部分や社会改変への道がみえてきたりするであろう、きっと。
私はというと、ネオニコチノイド系農薬なるものをもっと知らなければいけないと、改めて自分に言い聞かせている。というのも、「ネオニコ」は水溶性で野菜などの組織内部に入り込んでしまう。洗っても落ちないこの「ネオニコ」に、今朝食べた野菜サラダで“お目にかかっている”かもしれないと気づいたからだ。空恐ろしさがフッと実感されたのだった。(これが、私の言う“見えないモノを見る努力”のスタート、誰にでもできる単純なる1例だと受けとめていただきたい)。
新年も1ヶ月が過ぎようとしているが、新たな気持ちでしっかり肝に銘じたい。好むと好まざるとにかかわらず、出来ようが出来まいが、見えないモノまでをも見る努力をする意識が欠かせないのだ、と。見て「なんかアヤシイみたいだ」と気づくことが問題取り組みへのきっかけとなる。クドイのは承知で繰りかえしますが、私たち一人一人が意識し出来るところからまず学習し行動しなければならないのだ。
そして、消費者団体、生協などもそれぞれの立ち場で。身近な問題の多くは自然環境が関わってくる。言わずもがな。全国組織の自然環境保護団体もボヤボヤしてはいられまい。時代に即応して組織の体質拡充や活動方針の拡大をはかり、環境と人間をも守る活動をそれこそ“しっかり”と展開していって欲しい。
次世代の担い手の健康と精神を徐々に蝕む見えないモノが、こうしている今も身近にはびこっていると考えねばならない。
自然や環境問題にも関心を深めておられる江戸家猫八師匠や、夏鳥や蝶の激減を憂慮して「ネオニコ」問題を国際環境会議でもアピールしているバタフライ・ウオッチング協会代表の市田則孝さんを中心にした新年会で、消費者教育推進法やネオニコチノイド系農薬問題を聞かされ、私はただ目からウロコであった。私の若いころはバードウオッチングでもして楽しんでいればそれでよかった、などと無責任に懐かしがってもいられない。「ネオニコ」系環境問題のとっかかりとして、特定非営利(NPO)法人 ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議 Tel:03-5368-2735、 http://www.kokumin-kaigi.org を挙げておきたい。
|