ご報告を兼ねてやっぱり多少の言い訳をさせてください。BPAにご提供いただいたのは、藤岡さんが1960年代に撮ったほとんど総ての35mmネガですので、まずその量の多さに圧倒されていたのです。加えて4冊の大型アルバムの写真と見比べて、もしネガがみあたらなかったら写真からスキャニングしようと、この整理にも結構腰が引けていました。
BPAを設立した時には、提供してくださる方ご自身がコレゾというネガを選んでご提供いただくことを前提としていましたので、ごっそりお預かりした中から私が選別してBPAに登録するということに費やす時間と作業量は、実は想定していませんでした。実際にはそれがこれまで数例あり、藤岡さんもそのお一人です。結果を出すまでのぼうだいな時間と費やすエネルギーを考えただけで正直シンドイ思いもし、作業をつい先送りにしてしまっていたのです。ご提供いただけてほんとは嬉しい悲鳴なのですが、ぜいたく言ってごめんなさい。
幸い、つい2週間ほど前にこうした整理を任せられる方に出会い、ようやくネガと写真を年代順に並べて比較できるまでの整理をしてくれました。それですっかり作業の態勢が整い、猛然とスキャニングを始めた次第です。
作業はもう大きく遅れることなく進められると思います。進めます。というか、積年の私の怠慢を払拭するかのように毎日奮闘していますので、これから何ヶ月も遅れるということはありません。もうご休心ください。現在1961年から1963年までが完了し、1964年に入っています。
「オイちゃ〜ん(私の家での呼び名)、早く逝きたいの〜。苦しむの、もういい。」
「バカッ 苦しくたって死ぬまでは生きてるんだから、生きてる間はオイちゃんが一緒にいるからね。安心してな。」
苦しまぎれのこんな会話を、この1年ほどで何度カミさんと交わしたことか。
30年近くもカミさんを苦しめた呼吸器系の病は、悪くなりこそすれ良くはならないことがわかっていた。カミさん自身、今年の櫻はみられないと予知していて、認めたくはない覚悟を昨秋から二人ともうすうす受け止めていた。それだけに、想定されることを率直に話合っていた。
いわゆる延命処置をしないこと、回復の見込みが少ない場合には苦痛を伴う処置は行わず、薬物療法を含む苦痛軽減の処置をお願いする文書を担当医師に手渡したのは、去年の11月末だった。
今年3月に入って、またしてもの緊急入院。肺の機能がガタガタのところに入院中に肺炎になり、そうなったらイチコロだよねと話合っていた通り、あっという間にカミさんはあの世へ。私は一人この世に残されたのである。
最期となる3日前、カミさんの苦しさは傍で看ていても辛そうになった。「モルヒネ頼もうかしら?」我慢の限界を告げるカミさんの一言だった。「・・・う〜ん、ね。」意味不明な返事しか私にはなかった。最期が近いのを二人とも感じていた。その時、カミさんの生命が切れるのは私たちの決断次第となっていた。
「人生の一大決心だよね。」「うん、まったく。」重い空気がベッドサイドを支配した。カミさんはその時もう心に決めていたにちがいない。
と、「オイちゃん、私、自分の人生終わらせていい?」(そんなことオレに聞くかよ。“どうぞ〜”なんて言えるかっ。)覚悟はしていたハズであったが、瀬戸際もギリギリというのに決断即答はし難く、またモゴモゴと意味不明なことが私の口をついた。
沈黙。時の流れが止まったかのような。
(あっ?)と思ったときには、カミさんはナースコールのボタンを押していた。(強ぇ〜。自分で決めたぁ・・・。)半ば呆れ、半ばある感動すら覚え、瞬時に私も覚悟した。入ってきた看護師に告げるのは私の出番だと感じた。
「先ほど先生とお話し済ませてあるのですが、モルヒネお願いします。かなり苦しそうなんで、これ以上は・・・」唐突な申し出に動揺した風で突っ立つ看護師に、はっきりと同じことを繰り返した。連れ添った25年間で最後の別れの序奏だった。
ちょっとの沈黙。
「ありがとう。」カミさんの私へのひとこと。夫婦協同でなければなし得ないようなことをしてしまったのだった。
モルヒネの点滴作業をカミさんも私も黙って凝視していた。なにを考えていたのかは覚えがない。カミさんの最期が近いという思いだけが頭にあった。手を握っているほかには、なにもしてあげられなかった。
「先生、どれくらいで眠れるのですか?」ドキッとするようなことをカミさんが静かに訊いた。
「これは眠らせるモルヒネではなく、苦痛をやわらげるためのものです。」
「えっ、そうなんで・・すかぁ?・・・」予想外の返事に、カミさんも私もあっけにとられた。まだ死なないのだ! 重苦しい空気が一変、あまりのことに笑うしかなかった。二人して、モルヒネと聞けばすぐ眠れてあの世へ直行とばかり思っていたのだ。
「私たちって、バカよね〜」心なしか声が弾んだカミさん。
だが、“命拾い”は長くは続かなかった。度々のモルヒネの点滴継続投与で眠っていることが長くなったカミさんは、すでに自分の意思を伝えることができない。2日目になっても、モルヒネは効いているのかねぇと疑えるほど苦しそうに私には思えた。こうなったら、カミさんが私に託したアレしかあるまい・・・。
「もういいよ、ラクになりな。ね、和江。最後まで一緒だからね。いいね。」“考える人”状態で左手でずっと握っていたカミさんの右手に私の右手を重ねて話しかけた。肩とお腹と口で苦しそうに息を繰り返すカミさん。心なしかそれも間遠くなっていくような。
今度こそ私一人の決断となった。カミさんの苦痛を肌で感じながら、もうこれ以上はイカンと直感したとたん、迷うことなくナースコールのボタンを押した。鎮静剤投与を告げたのだった。
私の最後の決断に神や仏の存在はなかった。カミさんの生死を分ける最後の選択は私がやったのだ。鎮静剤の点滴投与は、私たちの意を汲んでくださった担当医のお陰であった。私が意を決したのも、1時間にたった1.0ミリグラムでも即効の鎮静剤の点滴投与も、神ならぬ人間がやったこと。ここは逃げてはいけないと自分に言い聞かせた。
苦しさと高熱とから開放されたカミさんは、それはそれは穏やかな顔をしていた。「よかったね、和江。もう苦しまないよな。よかったんだよね。」返事はなくとも、カミさんの“ありがとう”しか私には聞こえなかった。
葬儀後の雑用がようやく落ち着いてきた三・七日に近く、気になっていたある知人と奥さんを見舞にいった。某研究所でお世話になった方だが、まさか私のカミさんの方が先に逝くとは思ってもみなかっただけに、献身的に看護し続ける奥さんに、今回私の感じたことをお話して元気づけたかったのだった。
その知人の発病や状況はカミさんのとは極端に違う。カミさんの場合は、長い患いで先行きがかなり読めていてカミさんも私も覚悟する余裕があり、想定し得ることに心構えでも物理的にでもそれなりに対処できた。死期もかなり予想でき、生死を選択する最後の余地が私たちの手に残されていた。辛くてもできるだけ楽しく一緒にいようと話合い、私たち二人の世界が自宅でも入院中でもあるように努めることができた。ラクと言えばラクだった。
一方、病気知らずだった知人は突然の病に倒れ、術後一時はかなりよくなったかに思えたものの(恐らく医療ミスから)寝たきりとなっている。ずっと意志表示のないままに、今年になってから点滴の針も通らなくなってしまって、延命の手術。奥さんはご主人と一語も話合えることなしに、絶望もできず希望も頼りにならないまま、まったく先が読めない看護を1年半近くお一人でけなげに続けておられる。ご本人は、生命維持を至上とする近代医療に一日一日を生かされているのだ。お二人の気持ちになってみるまでもなく、ほんとに切ないほど辛い。
私たちの方がうまくコトが運んだだけ奥さんには申し訳ない気がしているが、ここは率直な対話しかあるまいと考え、病室を離れた廊下の長椅子に腰掛けて奥さんに切々と率直に私の経験を、カミさんの最期をお伝えした。ご主人に代わって覚悟するときがきたら、その時の覚悟と判断が最善のこととご自身を信じて決断するように。そこには後悔の余地なんかないハズだから、そのことも信じて、と。
余計なことには違いないが、それが私にできるせめてものことだった。控えめに頷かれた奥さんは、私の伝えたい言外の意味をも汲み取ってくださったに違いない。
生きることと死んでいくこと。どちらも容易ではない。生死のはざまにいるご本人にとっても看護するご家族にとっても、安心とは? 人生のしあわせとは?
途方もなく難解な課題ではあり、私よりもさらに深くより真剣に生死と闘っておられる方々には申し開きのできない私の言い分ではあるが、近代医学と医療技術が格段の進歩をとげ人命をより長らえさせることが可能になった今日、生命と死に対する新しい社会倫理が確立されるのを当てなく望むばかりである。それなくして、生かされている方も、生かそうとする方も、ラクにさせたいと望む方も、生きて元気になって欲しいと願う方も、みんな救われないではないか。
私たちの身のまわりに在る“近代社会の不幸”に眼をつぶって過ぎるわけにはいかない今日となっているのだ。(塚本洋三記)