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2012 Dec. BPAフォトグラファーズ ティータイム近辻宏帰さん

 今年の野鳥界のヒットは、なんといっても佐渡でトキ8羽が38年振りに巣立ち、68羽の放鳥トキに負けずに現在無事に育っていることであろう。このニュースを誰よりも感慨深く受けとめているのは、極楽浄土の近辻宏帰さん (1943−2009) をおいて他にはおるまい。母校の早稲田大学生物同好会のメンバーやバードウオッチャー仲間では「近さん」で知られる、前トキ保護センター長である。
 近さんは、このサイトにも何回かご登場いただいている。それらにリンクしながら近さんの思い出話に師走のひとときを過ごし、バード・フォト・アーカイブス(BPA) に近辻ご夫妻から提供された2枚のトキの写真をご覧いただきたい。

 まずは近さんが無類に好きだった酒の話から。三度の飯よりも・・・というから、私など足元にも及ばない。ご本人に言わせれば「逃げられないんだなぁ」と。なに、構わぬ。極楽で飲酒制限なんて聞いたことがない。トキの雛の成長を楽しみに、彼の地で天下御免の杯を重ねてください。→「らくがき帖」2006.4.1. タイガの雫

 お酒で思い出すのが、拙著『東京湾にガンがいた頃』(文一総合出版 2006年)の出版記念パーティに、近さんが駆け参じてくれたときのこと。福引きが始まって、100人を越す参加者の中にあってまんまとウイスキーのボトルを引き当てたのが、近さんだった。う〜ん、酒好きもここまできてるか、と妙に感心したのであった。

ボトルを手にご機嫌な近さん
撮影 ◆ 待鳥暁子
2007年3月3日
東京都新宿区

 トキが最初に放鳥された2008年9月25日、近さんは秋篠宮殿下のサポート役であった。→「今月の1枚」2008 Sept.期する瞬間 に載っている写真で、殿下のすぐ左に近さんのお顔がみえる。
 その時近さんは長靴をはいていたハズである。古くて泥がついているので、せめて洗った方がよいと思うがいかがかと、夫を気遣う道子夫人から放鳥の前日になって連絡があった。即答し難い感じだったが、フィールドの近さんらしくてそのままでよいのではないかと思って、その旨近さんに折り返し電話したように思う。そんな私の勝手な考えでよかったのか気になってはいたが、久々に見る写真では長靴が見えない。私はちょっとホッとしたものである。
 長靴の汚れどころでなく忘れられないのは、大病が癒えてややしての放鳥が無事に終わった後の、テレビインタビューでの近さんの爽やかなお顔!

 BPAとしてお世話になったのは、特製Tシャツを作った時。近さんがモデルの写真をデザインに使わせていただいた。→BPA SHOP Tシャツ。 2005年6月のこと。肖像権の話のついでに、もしや近さんが捨てそうなトキの写真があったらBPAにご提供願いたい旨、遠慮がちにお願いしてみた。
 半年ほど経った。大切そうにしっかり梱包された郵便物が届いた。中には「貴重な写真ですので貴重なお方に心をこめて・・・」とのメモ書きと共に、トキの絵葉書が2枚。
 ん? 写真には違いないが、それがなんとモノクロの絵葉書であったのだ。何十年昔のものだろうか。珍しいものを見る心地だった。さっそくBPA設立以来初の、絵葉書写真のスキャニングをしたのである。
 コンピューターの画面にスキャンした画像を拡大してみて、唸った。絵葉書写真の画像一面に小さな小さな無数の白点が散らばっていたのだ。近さんの思い入れのある写真は、飛ぶトキと山並みとの雰囲気といい構図といい、私もすっかり気にいっていた。それだけに、見られる作品にするには、満点の星空のような白点をなんとかしなくちゃ。その一念だけだった。
 スポッティングを始める前に、写真を撮ったときの辺りの雰囲気やシャッターを押した時のお気持ちなどを電話で近さんにインタビューした。それを頭にいれながら、コンピューターの画面を眺め、マウスをクリックし続いた。集中力を要する地獄の作業。仕上がるまでに15時間ほどかかった。
 その当時の私のウデでは最も満足のいくものができたと他画自賛?したのが、ご覧の写真である。すでに発表されているが、ここにも載せさせていただく。

トキ7羽、塒に帰る
撮影 ◆ 近辻宏帰
1971年10月下旬
新潟県佐渡郡新穂村(現佐渡市)

 翌2006年正月3日に、出来上がったプリントと共に件の絵葉書を近さんご夫妻に返送した。書き無精の近さんから、思いもかけない反応があった。件名が「初荷、届きました」のメールには「静かなる格闘技、塚本兄のワザに感服!・(略)・酷宝(注:変換ミスではありません)『トキ7羽ネグラに帰るの図』は、アーカイブス洋三マイスターの手により33年ぶりに復刻されました。“そこに私がいた”トキの棲む小佐渡の奥深さ、遠景、中景、近景の山なみのトーン、いいですねぇ。ホオジロが、チチチと鳴いたりして・・・。ありがとうございました。」
 道子夫人から、近さんが喜んでいるのがまた嬉しいというメールが続いた。なによりのことだった。へこたれずに作業を終えてよかったと改めて思った。私にとっても思い出の1枚である。

トキ、巣立った2羽
撮影 ◆ 近辻宏帰
撮影年月不詳
新潟県佐渡島

 この写真は、近さんからご提供いただいたモノクロ絵葉書2枚の内のもう1枚である。幼鳥2羽が巣立ったときの写真であるが、データをよく覚えていないという。こんな稀なるチャンスを写真にしているのに、困った人だ。近さんからはここに載せた2点がバード・フォト・アーカイブスのデータベースにあって、これ以上増えることがないのは切なく無念である。
 それ以上に無念なのが、センター長を定年退任後、トキと共に生きた近さんだけにしかできないトキ保護の活動を本に纏めることなく、あの世へ飛び去っていってしまったことだ。→「らくがき帖」2009.5.25. 続タイガの雫
 
あれからもう3年半も過ぎたのか。近さんがトキの保護に人生賭けたお陰があって、今76羽ものトキたちが自然界で舞っているのである。安心できるのはまだ先の話だろうけど、すでに近さんは眼を細めて一杯!というところでしょうね。
 近さんは先刻お察しのことだろうけど、野生トキのモニターとしてトキたちを見守っている一人が、道子夫人。側に近さんがいなくとも、目が近さんにそっくりなトキを見ていると、いつも近さんが側にいる感じで幸せに過ごせるそうですよ。“朱鷺力”とでも言うのでしょうか。トキの夫婦はお互いに羽づくろいしたりしてほんとに仲睦まじいそうですが、離ればなれの近さんご夫妻もちっとも負けていないのには嬉しくなって、頑張っている道子夫人に心からの拍手を送りたい気持ちでいます。
 近さんが逝き、二人お揃いで拙宅を訪ねてきてくれる約束は夢と消えましたが、トキをめぐっては新しい夢が拓けていくと思います。でも、今年8羽も巣立ったからといって、野外で未確認となった放鳥個体が結構いたり、遺伝子の多様性を確保したりするので放鳥をやめるわけにはいかないそうだし、ネオニコチノイドという水溶性の農薬の撒布がトキに影響しないのか(しないわけないと思うので)とても心配で、まったく油断できない状況だと道子夫人が伝えてくれたのです。トキの将来は、まだまだ人間の方が踏ん張っていかねばならない厳しい見通しのようです。
 野外でポピュレーションが確保されトキが自立できるのは、これからが勝負。近さんもしっかり見守っていてくださいよ。とはいえ、まずは今年巣立った8羽の無事を祈念して、そっちで近さんとこっちとで、また乾杯!といきましょうか。

2012 Dec. 幻の自然写真集

 思っても見なかったことが起きた。2000年に出版された写真集を12年間も気づかずにいたとは。「THE NATURE OF JAPAN 2000」のことである。私のような方が意外に多いのではないでしょうか?
 私がこの本の存在を知ったのは、一般財団法人自然環境研究センターの小林 光さんとふとした立ち話からであった。そんなものが世の中に隠れていたことに内心驚かされた。お話から魅力的な写真集とは察知できたが急ぐこともあるまいと、「その内によろしく」が重なり、“オオカミ爺さん”と呼ばれても仕方ないあたりまで来てしまった。やおら先日小林さんをお訪ねし、幻の写真集にご対面となった次第である。
 写真集をズルリとめくりながら、二つタマゲタのである。一つには、大きさと重さである。タイトルが金文字の布製豪華製本は、むべなるかな。まず手にとろうとして、待ってくれ、私の腰が気になるほどの重さ2.9kg。縦横26.5×37.0cm、厚さ3.5cm。ちょっと膝に置いてウイスキーグラス片手に楽しむなどは、とてもムリ。テーブルに見開きで置いて立ち上がって見ると、視野にほどよくページの写真がみてとれるのであった。
 二つ目は、312ページもあるどのページにも、う〜ん、目を奪われる傑作自然写真が連続する。全国から1年かけてアマとプロとを問わず写真家を発掘し最高の作品を集め選んだという「この1枚」、出品者によっては「この数枚」のカラー写真が楽しめるのである。そのほとんどがページ一杯に、これでもかと迫る。ため息がでた。
 並みの写真集ではない写真集を紹介してくださった小林さんに、まず感謝いたしたい。

 分厚い本ながら、文字情報は高円宮親王殿下の序文を含めて数ページしかない。その中から出版関連の興味をひくあたりをご紹介すると、出版の発起人かつ編集委員は、田中光常、中村宏治、前田 晃、小原 怜、三村 淳の五氏。選ばれた写真家は116名(出品者リストでは115名)。編集委員の“苦悩”として、「写真家の個性と作品を最大限に尊重しようと取り組みましたが、一冊の本としての統一性も重視する必要から・・・割愛させていただいた作品も数多くあります」と編集後記にある。集めた傑作写真の氷山の一角だけがこの本に載っていると思うと、写真集の重みがさらにずっしりと感じられる。
 発行はザ・ネイチャー・オブ・ジャパン 2000 事務局。2年がかりで出版にこぎつけたという。アートディレクターは三村 淳氏。この人あってのこの写真集といった感じで、圧倒的である。その一語が、まさにこの写真集のすべてを代表している。
 出版の目的は「20世紀最後の年である2000年を機に、美しい日本の自然を写真で残し、新しい世紀に生きる人々に伝える」ということにある。編集委員を代表した田中光常の表現では、「スポーツにオリンピックがあるように・・・、写真界、殊に自然界の森羅万象を被写体とした最高傑作の結集によるプロ・アマ写真家たちの祭典もあってしかるべきもの」との考えが根底にあり、「最高傑作の写真を一堂に参集せしめることに努力を払った」という。
 ユニークな点は、写真家主体による資金調達、作品募集、選別、編集装丁などで発刊にこぎつけたこと。スタートから出版まで、関係者の筋の通った精魂が込められているのである。
 最高の写真を再現出来る印刷技術をもつと判断された文化堂印刷株式会社が、新たに開発された技術で印刷を担当。通常の印刷では175線のところを画素情報量で16倍の700線というきめ細かな印刷だそうだ。加えて、印刷過程でAD三村氏の目が常に光る。制作に当たっては、環境庁はじめ企業等の協力があった。

 非売品で何部刷られたのかは知る由もないが、これでは手に入れたくとも古本市場でも見つかるまい。たとえ見つかっても福沢諭吉が何枚か財布から消えていくのは想像に難くない。手元に置いてじっくり楽しみたい望みは高嶺の花と、はなっから諦めたのだった。
 それだけに、希有なこの写真集を小林さんのはからいで一室で一人集中して見入ることができたのは、とても有難かった。竹田津 実、和田正宏、星野道夫、松井 繁、前田真三、佐藤照雄、林田恒夫、嶋田 忠、桜井淳史・・・。お名前を存じている写真家の見覚えのある写真でも異なるカットが選ばれていたりして興奮を覚える。ややして、写真は北海道から南へ順に配列されていることに気付く。存知ない写真家の傑作作品の多さにも驚かされる。
 主役は、四季おりおりの鳥、獣、昆虫、爬虫類、風景、花、植物、山岳、気象、魚、水棲生物、プランクトンなどなど。多彩な顔ぶれは自然写真集に相応しく、質量ともに他の同類の写真集の追従を許さないと思う。
 最後のページを見終わってふっと我に返ると、あふれ出そうな満足感と、ある種の羨望と、心地よい疲労感に、しばし椅子に座り込んでしまった。気力も体力も必要とする、いや、必要を強いられる写真集である。恐れ入った。

 心ゆくまで写真の鑑賞ができることを主眼とした編集には、我が意を得たりである。目次など、鑑賞には無用と思えるものは省いてある。ページ毎の、そしてページを通してのレイアウトには、計り知れないエネルギーとセンスと経験とがうかがい知れ、一見何気ないがすがすがしい配慮がいきとどいている。キャプションやノンブルなど鑑賞の妨げにならないようにとの気配りとともに、装丁全体に簡素にして品格が感じられるのである。
 ひとこと言わせていただけるなら、編集事情があってのこととは推察できるが、私には撮影データの内、撮影年月が載っていなかったのがまず残念であったこと。そして、出品者リストは別紙にあるが、写真家の簡単なプロファイルに加えて、撮影者による短い解説や写真への思い入れの一言が別刷りの小冊子としてやはり欲しかったこと。
 それだけでも編集の労は要るし結構なページ数となるであろうが、全体から見れば知れていて、私にとっては知りたいことではある。そう固執するのは、これほどの写真集にその手の情報が加わると、撮影者と写し撮られた被写体と1枚の作品との間がある種の“空気感”で充たされ、“行間を読む”楽しさがさらに写真鑑賞に加わるに違いないと考えるからである。
 なんと言おうと、スゴイ自然写真集があったものだ。

蛇足:奇跡が起きた。
 もしや件の写真集が手に入らないものかと、帰宅したその夜に、ネット音痴の私がなにを血迷ったか、そのネットで自ら古書検索してみる気になった。そして、我が目を疑った。クリック一発、「THE NATURE OF JAPAN 2000」をヒットしたのである。なにかの間違いでは?・・・。
 さらに、目をむいた。モニターの古書情報に出たのは、何冊か買い占めて知人にくばりたいほどのタダ同然の値段だったこと。ホントウだろうか、誤植だろうか・・・。こりゃ同じタイトルのニセモノかも知れないとマジ思った。アテもなく探し当てた興奮がおさまらないままに、1冊しかないその“ニセモノ”を、かごに入れたものか躊躇したほど。
 2日後の朝に宅配便が届いた。ホンモノだった。驚きと歓びをどう表現したものか。小林 光さん、お陰さまです。重ねて有難うございます。

BPA
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2012 Nov. BPAフォトグラファーズ ティータイム細谷賢明さん

 私がまだ日本野鳥の会に在籍のころ、鳥取県支部の支部長さんをしておられ、なにかとお世話になったのが細谷賢明さん。初対面でも安心感を与えてくれた人間のスケールの大きな、長身、温厚な野鳥ファン。県鳥のオシドリの調査を長い間続けられ、報告書をいただいたりもしたのが、かれこれ20年ほど昔のことになる。
 そのころお宅の近くを車で通り過ぎたことがあった。ご自宅近くまではヒバリも棲む平地で、ようよう山間地へとつながる辺りの自然豊かなところにお住まいであった。ホトトギスやサンコウチョウなども居ながらにして聞かれるという景色を羨ましく眺めたのを覚えている。
 どうしてモノクロ写真の話になったのか記憶がないのだが、バード・フォト・アーカイブスを2004年に立ち上げたその翌年のこと。農村での細谷さんの奥さんやお子さん等が野良仕事をしているようなものでも良かったら古いのがあるのでと、ネガを捜し出して送ってくださった。すぐ後で紹介する懐かしの農村風景である。
 2010年の年賀ハガキが手元に残されている。お年を召されたためその年以降は欠礼されるという挨拶文の隣に、野鳥観察は継続していますとの手書きがあった。近くの湖山池には20年前から1羽だけだが毎冬オオワシが飛来し、すばらしい勇姿を楽しんでいる、とも。
 にわかに懐かしくなって、ご高齢を半ば気にしつつ、この原稿を書く前にお電話してみた。お元気なお声があった。87歳になられたという。物覚えが悪くなって、と当たり前のことを言われたが、免許証があって秋まで車に乗っていたとは。若いものにもう乗るなと言われた、と。即座に私は若いものに賛同しますよ、止めてくれてよかったです、と笑った。今は、電動のセニアカーに乗っているが、歩くよりちょっと早いくらいで・・・と不服そうなお声。それくらいお元気ならと、安心もした。
 最近は庭に来る鳥を見るくらいで、鳴き声はわかるが、名前がでてこなくて・・・と。耳に楽しければ、名前なんかどうでもいいこと。私がご無沙汰している内に一人増えたひ孫さんを含めて、四世代8人の賑やかなご家族での毎日というのはなによりのことであった。
 モノクロ写真がご縁で思わぬ旧交を温めることができ、ご機嫌で細谷さんのご提供くださった画像をアップする準備を始めた。農作業の総てが一家をあげての手作業や牛力頼みの時代であった頃のノスタルジックな農村生活を、とくとご覧いただきたい。そんな時代があったのだ・・・と。

●稲を収穫した後に作られていた大麦を鎌で刈り取っていた1960年頃(その後大麦はまったく作らなくなった)。当時は教員を辞めて百姓を始めても、その方が経済的に有利だった。

●子供たちはこんな格好で農作業の済むまでを過ごしていた。おやつといえば、蒸したサツマイモくらい。

一連の写真の解説は、主に撮影者に拠る。
データはいずれも:
撮影◆細谷賢明 
1960年頃 
鳥取県気高郡(現在の鳥取市気高町)
●脱穀した後の藁(わら)の束は、投げる人と受け取る人との阿吽の呼吸で田んぼに積みあげておかれ、牛の飼料や畑作などにムダなく利用された。
●地方の生活に華を添える巡業での若き日の若乃花。昭和30年代の山陰巡業でのスナップ。場所は当時の鳥取県鹿野町。

●山奥の田んぼまで脱穀機を担っていく老婆。稲や麦の籾(もみ)を落とすのも、人力で車輪を回転させる足踏脱穀機であった。

●猫の手も借りたいほど忙しい6月。中学生もお母さんと一緒に田植え仕事。小中学校では1週間の農繁休業があって、農作業を手伝っていた。

●写真の子供はまだ小学生でもなく手伝いもできないが、野良仕事はみんながするものとの考えがこうして自然に身についていった。

●部落の道の脇には、刈った大麦が掛けられ乾燥されていた。年端もいかない女の子が幼子をおんぶして行く。

●力仕事が難しくなった80代のお爺さんは、稲の苗取りの仕事に精を出す。

●田押車(たおしぐるま)を押して苗の間の雑草を拭き取る仕事が続く。除草剤などは全く使わない。

●トラクターのような大型機械類がなかった時代。たいがいの農家には牛が飼育されていて、老人とともに田の耕運という大仕事に当たっていた。

2012 Nov. 先月のインタビューの続き

 「酒を呑む娘(こ)は心(しん)から可愛い」と聞いたことがある。酒の好きな私はすぐにうなずいてしまう。女性と呑んでいると場が和むのは確か。待ってください、人にもよりますよね。「酒と女はほどほどに」とも耳にします。そうです、ほどほどの効用は活用すべきでしょう。
 そんな理屈を胸に、東京は浜町の中華料理屋「鳳蘭」(Tel:03-3667-2958)で開かれる月例のバードウオッチャーの呑み喰いおしゃべりの会に勇んで出掛けてみた。吉水由紀さんとご一緒できたら、呑んで楽しく一仕事しようという下心。
 実は、先月の「BPAフォトグラファーズ ティータイム」でイボタガの写真とともにご紹介したばかりの魅力あふれる彼女。ところが、「彼女は蛾ばかりでなく鳥を撮るのも上手です!」との常連さんからの情報がバード・フォト・アーカイブス(BPA)へ寄せられた。それはタイヘン。イボタガの名場面に気をとられて、鳥の写真情報を伺うのをトンと忘れていたのである。その埋め合わせをしようとの、再度の突撃インタビューを試みた次第。
 酔ってしまう前に、イボタガ画像に関してBPAとの覚書の肝心な署名捺印からお願いした。
 「あ、ハンコ忘れてきちゃった〜。」
 「サインに○で充分ですよ。」
 「じゃ、拇印ならいいっか?」
 「そりゃ勿論ですけど、なんでもいいですよ、わかれば。」間髪を入れず
 「ボインでもいいのかしら?!」と胸を張った。
 ドキッとするようなことを言っておいて、くったくなく笑い飛ばす。シラフでこのスタートでは先が思いやられたが、その後はアルコールの効用というか、かなり順調に取材が進んだ。

 バードウオッチャー誰しも鳥にのめり込むきっかけがある。それが彼女にとっては、公園で出会ったコゲラだった。12−3年前のこと。コゲラは一心不乱に穴を穿っていた。手の届きそうな距離でみていたのに、逃げもしない。1時間くらい一人で見ていた。後頭部に赤い小班があるとか無いとかの雌雄の識別はどうでもよかった。コゲラの懸命に生きるひたむきな姿に惹かれたのだ。
 鳥を始めた一時期は、ほとんど毎週珍鳥を求めて全国バードウオッチングにでかけた。というか、鳳蘭での月例飲み会を始めた世話役トップの奥村隆司さんたちといつもご一緒してもらった。まったくお陰さまでと、鳥仲間への感謝の気持ちを忘れない。
 コゲラの前に連れて行ってもらったタカやカモウオッチングには、よくわからなかったのでさほど興味がわかなかったという。それが、今ではタカの仲間が一番お好きとのこと。なにがそうさせたのかと思ったら、和歌山県日ノ御碕の草原で寝転んでいたとき、人がいるなんて気がつかなかったのか、1羽がビューンと身体スレスレに通過していった。その時、一瞬の空気を感じたスゴサ。鳥はチゴハヤブサだったが、心を打たれたのは、識別よりも1羽のタカの気配(殺気!?)そのものだった。
 「カア」でも「ガァ」でも聞けばカラスで、ハシブトガラスとハシボソガラスの声の違いなんかは諸先輩も分からなかった時代を生きた私にとっては、フィールドで識別点をみつけるのがバードウオッチングを楽しむ最高の方法だった。トシくって丸くなったか、近代的な識別術についていけなくなったせいか、彼女のような楽しみ方を是とするようになった私。話が合った。心の琴線に響く感性豊かなバードウオッチングを率先している彼女に、乾杯〜!
 撮った写真の中でお気に入りのが見てみたいと本番切り出したら、「どこにあるかな・・・」と戸惑いのご様子。どうも撮り過ぎてどこに見つかるのか、なにを選んだらよいのか分からないということらしい。フィルムと違って画像が急増してしまい、選ぶのも大変な“デジカメ地獄”に陥ったのかと、お気の毒な気もした。
 ご本人から“私の選んだこの1枚”の答えが聞かれない内に、仲間の酒量が上がってきたその場は共同インタビューのような有様にまで盛り上がってしまった。
 「吉水さんは、構図がウマイんですよっ。」隣のテーブルから声がかかる。
 「天賦の才能ってのか、普通に撮ってるようで“絵になる写真”を撮るんですわ。」誰かが後を引き取る。そんな写真は私も心していることで聞き捨てならぬ刺激的なお言葉と思うそばから、また合いの手が入る。
 「ボクが『オナガ、オナガ』って言ってるそばから、『あ、オナガね』って400mm でもうパパッとシャッター切ってるんだから! 見つけたボクがシャッター押す前に・・・。」
 完全に乗り遅れているのは、その場でどうも私一人みたいな気がした。

 皆さんから話を取り戻してみれば、話題はいつのまにか彼女のペースに。イモムシやケムシが一番楽しい、正面から見ると面白い、シャクトリなんかとても可愛い、リンゴドクガは美しい、みんな蛾や蝶に変身するのがスゴイ・・・。機関銃のようにイモムシ、ケムシ、蛾や蝶を語る。大きな目がさらに大きくなって輝いていた。酔った上での話とも思われない。どうも私が想像している以上にイモムシ・ファンなのだと改めて覚った。
 聞きながら私はグラスを傾ける他にやることがなくなっていた。「食べものがわからないので、食草も勉強しなくちゃ。」まだ話している。エネルギッシュで前向きな姿勢には感服した。
 いろいろお聞きしているのをひっくるめると、彼女は外で“遊ぶ”のがお好きだということに尽きるようである。鳥やイモムシだけではない。ダイビングで魚もだいぶ覚えたが、結婚のお相手となったダイビング仲間と知り合ったのも自然がなせる技。どうりで自然はこたえられないほどお好きなのだと言われる彼女に、しっかり納得がいったのだった。
 私が質問を重ねる前に、話はムササビに移っていた。観察会で行った先は東京都心にほど近い高尾山。案内役の話では、高速道路の排気ガスや夜は車の騒音がムササビに影響あるという。「これから先、ムササビはどうなるのかなって思っちゃう」と言って、イモムシ笑顔が心配顔になる。
 鳥も虫も獣もみんな生きて繋がっている。人間もその一部。人間にとって便利なのはいいけど、生きもの全体をみて人間も我慢することが必要だと思う。みんなで関心を持たないとそうはならない。関心を持つことが第一。できることは協力していきたい、と。
 自然の中で遊べるためには、関心をもって自然を守っていかねばならないと考える彼女に、その通りだと大声援を送りたかった。送るどころか、酔いが覚めてしまうほどのマジメ顔を覗き見ると、私も自然をみつめ、遊び、かつ守っていけと、逆に彼女に無言のハッパをかけられたに等しかった。
 予定していた鳥とカメラの話は霞んでしまったが、それよりもっと良い話となったあたりでお開きとなった。吉水さん、楽しいお酒で素敵なお話、またどうぞよろしく〜。
BPA
BPA

2012 Oct. BPAフォトグラファーズ ティータイム吉水由紀さん

 今月は誰を選ぼうかとバード・フォト・アーカイブス(BPA)のデータベースを繰っていたら、目に飛び込んできてつい「これだっ」と思ってしまったのが、吉水由紀さんが撮られた2枚。題して「蛾に好かれた男と女」。いや、イボタガが主役であるから、「蛾人間を有頂天にさせたイボタガ」の方が適切か。
イボタガに好かれて(?)
超ハッピーな石川 勉さん

目に入れても痛くないほど()
蛾ファンの久保田眞理さん

バードウオッチャーながら・・・
吉水由紀
2012年4月29日
長野県安曇野市

 主役のイボタガは、モクセイ科のイボタノキ(やネズミモチなど)を食草としているのでその名がつけられたそうだ。脇役に写真のインパクトを喰われた感は否めないものの、ご覧の通り地味ながら美しい魅力的な蛾である。風格さえ感じられる。
 蓼(たで)食う虫も好き好きではあるが、蛾に言い寄られて(?)これほど嬉しそうにしている人を、私は知らない。石川さんの写真は、イボタガ見たさの石川さんにとっては願ったり、イボタガの方から手にとまってくれてのツーショット。フィールドで見られるチャンスが少なくなったと言われるイボタガであるが、一匹の蛾でこんな顔になれるものかと写真を見ている方まで心和んでしまう。
 久保田さんの場合も、蛾の方からメガネの間に入り込んできたという。恐れ入りました。イボタガを目に入れても痛くない(?)とは、久保田さんならではのこと。できればその時のイボタガの心境も聞いてみたいものである。あいにく、触覚の形からみて雌と思われるのだが。
 二つの決定的瞬間をすかさずレンズに捉えた今月の主役、吉水由紀さん。お見事の一語に尽きる。
 今月のフォトグラファーズ ティータイムは、脱線ばかり。ご紹介する吉水さんご自身を実は私はよく存じていないし、写真はというとモノクロではなく、今年撮影されたものでアーカイブスな写真という範疇でもなく、主役はこのページに初顔の蛾(別にモンクはまったく無いのですが)。おまけに、BPAコレクションの狙いの一つである「自然と共に」のカテゴリーにぴったり適った写真であることは確かなのであるが、BPAでこのようなカラー写真が登録されていることが自業自得ながら周知されてしまったのである(それは結構なのでありますが)。
 BPAに数少ないこの手の写真を好運にもゲットしたのは、東京は中央区の浜町公園と道一つ隔てた中華料理店、鳳蘭 (Tel:03-3667-2958) でのこと。因みに、蛾男の石川勉さんはそのオーナーシェフ。ご本人に言わせれば「な〜に、中華やのオヤジだよ。」 ヤスウマのメニューなのが、なにより嬉しい。生態写真もよくする『東京湾の渡り鳥』(晶文社 1993年)を著したほどの根っこからのバードウオッチャーながら、生きものへの興味は幅広い。
 その鳳蘭では、毎月中旬ころに、関西のバードウオッチャー奥村隆司さんが上京される折に呼びかけ人となって、聞きつけたバードウオッチャーがてんでに集まり、呑み喰い鳥談のひとときを気楽に過ごす会が開かれる。鳳蘭は、我が家からは歩いていける距離で、私も準々常連くらいには月例会に参加して鳥仲間と楽しく呑んでいる次第。
 会では参加者の数人から野鳥の、多くは珍鳥の自慢の写真が酒の肴によく一同に披露される。2,3ヶ月前のその席上、やや遠慮がちに回覧されて見せられたのが、ご覧いただいている写真である。撮ったのは誰かと捜すまでもなく、「え〜っ 貴女が撮ったの〜?!」と直ちに吉水さんを見直したのである。
 実はそれまで月例会で時々顔を合わせ一緒に飲んでいただけで、吉水さんのカメラ手腕はとんと知らなかったのである。この写真に一目惚れした私は、即その場でBPAへのご提供をお願いし快諾していただいたのであった。これほど野生の生きものと楽しそうに文字通り触れあっている写真を見過ごす手はなかったのである。
 吉水さんが蛾に興味をもったのは、昨年の夏、長野県で蛾をみている知る人ぞ知る人を訪ねる蛾ウオッチングのグループに参加してから。蝶には以前から興味があったが、蛾はむしろニガ手で触るのもイヤ。でも蛾もキレイなんでレンズを向けるようになった、と遠慮がちに笑う。なん10メガバイトかのメディアに納められた画像をちょっと拝見して、たまげたのである。撮られていたのは、総て、蛾。ナントカ蛾、カントカ蛾、その幼虫。蛾ばかり・・・。
 バードウオッチャー歴と同じくらいの7−8年に近いカメラ歴。最初に使い始めたビデオカメラを水に落としてフィルムカメラに代え、すぐデジカメが出始めてデジカメに代え、今はキャノンEOS 7Dをご愛用。件のイボタガはキャノン100mmマクロレンズで撮った。呑んでいただけでは分からなかったことが、イボタガのお陰で俄取材して分かってきたのである。
 感心するのはまだ早かった。バッグから取り出して見せてくれたのが、魚眼レンズ。面食らった。タダ者ではない・・・。話には聞くが、魚眼を持って使っているバードウオッチャーを私は知らない。これで昆虫を狙うと面白い写真が撮れそう、と涼しい顔で屈託なく実に楽しそう。こりゃ見習わなくてはいけないと、写真撮影に対する前向きの意欲にすっかり感心させられてしまったのである。
 吉水さん、蛾に限らず素敵な写真をまた見せてください!

2012 Oct. JR総武線鉄橋で一休み (II)

 その日 (2012年6月29日) は、アオサギのマネをしたわけでもないのだろうが、同じ総武線鉄橋のアーチにウミネコが1羽止まっていた。港町の屋根などにカモメ類が群れて休んでいるのをよく見かけるので、鉄橋に止まってもなんの不思議もないのである。だが、我が家のベランダから数多くみられるカモメ類が鉄橋にとまったのを意識して見るのは、実は私はその日が初めてだったと思う。
 この界隈でウミネコは、以前は夏場には見られなかった。夏も少数が見られるようになったのは、ここほんの数年のことである。去年(2011年)には東京都上野不忍池畔のビルの上の方で一群が騒いでいるのを見上げて、「こりゃ。もしかしたら繁殖してるかも? でも、ビルの屋上ではね。」と思ったものだ。その6月に樋口広芳東大教授(当時)が2〜30ペアの繁殖を確認され、「へぇ〜、やっぱりやってたんだ。」と納得した。
 不忍池から一っ飛びの距離にある我が家前の隅田川でも、数羽がほとんど毎日見られるようになってきたところをみると、ウミネコは確実に“都心の鳥”になりつつあるようだ。
 総武線鉄橋をこれもお休み処とするウミネコが増えてくるかも知れないと、先への楽しみも増してくる。鉄橋の上のウミネコを見ても正直それほど楽しそうでもないが、狙うは“大都会の野鳥シリーズ”としてカメラを向ける楽しみである。さて、私の目の黒いうちに実現するかどうか・・・

 同じカモメの仲間でも、日本より北で繁殖して冬を日本で過ごすユリカモメは、我が家からも当然冬の間しかみられない。このユリカモメ、かつては同じJR総武線鉄橋がお休み処になっていた。
 私が知る限り1964年までは、神田川が流れ込む隅田川の両国橋から鉄橋あたりの水面が彼等の主な採餌場であった。数百羽の群れが朝の採餌を終えると、鉄橋の下流側に架かっていている4本の太いケーブルに止まって休むのである。当時、国鉄の省線電車(現JR)が音をたてて通過するときは、ケーブル上のユリカモメは騒がしく鳴き合いながら一斉に飛び立って一つ大きく輪を描き、電車が通過するあたりでまた元に戻ることを繰り返していた。鉄橋のアーチに止まっていればよいのに、と思ったものだが、彼等は懲りずに不安定なケーブルに固執していた。
 太陽が西から昇らない限りこの“ケーブルユリカモメ”はいつも逆光で、白い鳥に撮れることはなかった。わざわざ“ケーブルユリカモメ”を撮影にこられた野鳥生態写真家 高野伸二さんをご案内した時、そのあたりを嘆いておられた。あげく「ねぇ、洋ちゃん、ちょっとだけでいいから太陽こっちから昇らせてもらえないかね!」いたずらっぽく見開いた目のあの笑顔を懐かしく思い出す。
 私が25年ほど前にこの地へ移り住んだ頃には、ユリカモメやセグロカモメ、ウミネコなどの群れは別の採餌場へも遠出するらしく、かつてのように大きな群れがベランダから見られることはなくなっていた。気がついたら、4本のケーブルもいつのまにか撤去されていた。
 採餌場へ通う習性が変わったユリカモメは、どうももっと上流へ出稼ぎにいっているようだが、確かめたことはない。夕方、下流へと帰る多くの群れは、鉄橋のはるか上空を過ぎていってしまうのである。

隅田川総武線鉄橋のユリカモメ
撮影 塚本洋三
1957年3月15日
東京都台東区

BPA

2012 Sept. BPAフォトグラファーズ ティータイム真柳 元さん (II)

 写真を撮る楽しみ方は、人それぞれ。ほとんどの場合は、撮る相手が目の前にいるからレンズを向ける。ゲンちゃんは、自宅の窓辺の給餌台にオナガが来てくれるのを、1968年12月から最初のシャッターが切れた1970年6月まで、1年半も待ったのである。
 お好きに、と言ってしまえばそれまでだが、その体験こそが、1回のシャッターを押す瞬間のときめき、1枚のプリントができた喜び、一生忘れ得ない思い出にとつながっていく。ゲンちゃん流オナガ撮影記に興味を感じられる方は、「今月の1枚」2010 JUNE をご一読いただきたい。
 野鳥撮影駆け出しの頃のゲンちゃんのように、古典的なカメラでの撮影では、機材を使いこなす工夫が撮影のひとつの楽しみでもある。やっているご本人に言わせれば、苦心惨たんする中に楽しみ在り、というのが正直な感慨。
 近年の全自動のデジカメに対し、その昔のカメラは全手動といってよい。カメラを操作する際の失敗は常につきまとう。経験でかなりカバーできる失敗ではあるものの、“ついやってしまう”ことが多かったのである。
 ゲンちゃんが使っていた二眼レフカメラで言えば、シャッタースピードと絞りは天を仰いで光を読み勘と経験で決めるので、露出不足や露出過度は当然と受け流す。距離を読み誤ったり、ピント合わせに慣れないと、ピンボケは仕方ない。巻き上げていないのに或いは巻き上げたと思って同じフィルムで2度シャッターを切ってしまった時やフィルムの巻き上げが充分でなかったり巻き過ぎたりした時の、二重撮りやかぶりは後の祭り。手振れは常に注意が肝要。たまにやらかす空撮りは、やってしまってから気がつくので始末が悪く、諦めるしかない、などなど。かつて写真撮影はカメラを持てる人の特殊技術で、失敗はその人の特権?だったのである。
 さて、ゲンちゃんはというと・・・

トキに興奮、そして嗚呼 世紀の二重撮り
撮影 真柳 元
1972年12月21日
新潟県佐渡島片野尾
リコーフレックスIV  f80mm F3.5 ネオパンSSS

 トキ8羽。これが1972年当時、野生のトキの総て。フィールドスコープの方向のはるかの田んぼで餌を採っていたその一群が、採餌を終え、写真の右方向へ飛んで移動した。使い慣れた二眼レフのシャッターを切る。全群がフィルムに捉えられた! 興奮の極。その直後、デジカメではあり得ないことだが、二眼レフなら起きても不思議はない悲劇が、そんな時に限って起きてしまった。二重撮りしていたのだ。
 リコーフレックスではフィルムの巻き上げノブを手動で回し、カメラ後部の親指の先ほどの赤窓に出るフィルム番号を肉眼で確かめなければならない。トキ8羽の移動を目の前にして、あまりに慌てていた。肝心のフィルムが、巻き上げ不足で次の一コマと丁度半分で重なっていたとは。お釈迦様ならぬゲンちゃんを責めてもムリなこと。
 ところが、出来上がったネガを諦めきれずによくよく見ると、二重写しになっていない部分の、写真中央からやや上、右手の丘をバックに、トキ全群が写っているではないか! 砂粒のような白点一つ一つが(撮った人にしか分からなくとも)言われてみればトキなのだ、野生のトキっ。
 アノ時の1回のシャッターの興奮と、二重撮りと気付いた落胆と、実はかぶらないネガ部分に写っていた8っの白点が醸し出す歓喜の思い出は、40年経った今もまったく色褪せることがない。昨日起きたが如く興奮して語るゲンちゃんなのである。
 かくも小さな被写体が、これほど大きな満足感をもたらす野鳥写真の楽しさを、ゲンちゃんは身に沁みて感じていた。デジカメとは次元の違う味わい、これぞ古典的な野鳥写真術の楽しさというものであろう。

 古典派ゲンちゃんが近代派デジカメにのめり込んだのは、「親父、これを試してみたら?」とご子息が貸してくれたのがきっかけ。2007年のこと。これならばとご自身のを買い求めたが、ここでもゲンちゃんのこだわりがあった。あくまでポケットに入るコンパクトデジカメが大前提だった。その中でズームの効くものとして選んだものを現在も使っている。何故か機種名を知らされていないので、敢えて私も聞いていない。
 小さいが故に、南アルプスなどの山岳行でも携行するし、スーツのポケットに入れて海外出張へも持っていくようになった。それでも鳥見が第一で、たとえカンムリツクシガモが目の前に現れても二の次の写真撮りが第一になることはないという。流石ゲンちゃんである。
 「モノクロ写真を撮りたくなるときは時々ありますね」というゲンちゃんのコンパクトデジカメの感想は、携帯性と簡便性に尽きるそうだ。デイカメ一眼には多分手を出さないというのも、うなずける。

カオジロダルマエナガ
撮影 真柳 元
2010年8月7日
崇明島、上海

 海外出張中の週末、ゴルフにいく邦人が多い中で、上海のウォッチャーに1日案内してもらった時のお土産写真。最初にカオジロダルマエナガを見たのは、撮影日の13:30だったが、暑かったためか殆ど姿を見ず、夕方少し涼しくなって再訪し17:50に優しい夕べの光線の中で撮影できたもの。

ライチョウ
撮影 真柳 元
2011年8月10日
南アルプス烏帽子岳

 比較的クローズアップのライチョウも、撮るには撮れた。アップでは、被写体周辺や背景に在るものをどう画面構成に活かそうかとか、構図をどう決めるかなどをあまり気にしないですむ。その代わりに、被写体のちょっとした動き(ポーズ)や表情(心理状態)を魅力的に写し撮らねばならない。それは難しく、しばしば手に余る。むしろ風景写真的に撮るようにして狙った1枚が、ゲンちゃんのお気に入りとのこと。
 確かに、鳥の棲む環境をも“絵になる”よう写し込むには、ドアップ撮影とは違ったセンスが要る。いくら見ても飽きのこない写真を撮るのは、ドアップであれ引いた構図であれ、魅力的な挑戦ではある。

 野鳥生態写真に少しでもアーカイブス的な雰囲気が読めれば、バード・フォト・アーカイブスとしてはまったく言うことはないのである。鳥中心のアップ写真でアーカイブスの視点を写し込むのは、難しい。というか、かなりムリではないのか。とは承知しているが、ゲンちゃん、二の次でもなんでもいいから、できればアーカイブスな感じが漂う写真をも狙ってみてください。

2012 Sept. 日本鳥学会100周年を迎えての雑記

 日本鳥学会が今年100周年を迎えました。その歴史の半分余を傍らから眺めてきた私には、それがいかにスゴイことかがよく分かります。私が入会した1953年には、総会が開かれても東京渋谷南平台にあった山階鳥類研究所の会議室で数十人が集まる程度でした。鳥界の重鎮が前列に陣取り、後はなんとなく顔見知りといった会員たちでした。
 較べるまでもなく、100周年記念大会と銘打った今年2012年度大会は、去る9月14日から17日まで東京大学本郷キャンパスで開かれ、16日に開かれた総会会場は安田講堂だったのです。会員は1300名に迫る数が会務報告されました。単に会に在籍してきただけの私には、顔見知りどころではない数であることは言うまでもありません。
 活気ある特に若手中堅の会員層が、鳥学者、アマチュアを問わず今日の学会を支え、さらなる発展に繋がっていくことを思うと、実に頼もしい感じを受けたのでした。2年後の2014年に立教大学キャンパスで開催が予定される国際鳥学会(IOC)大会も、日本から世界への飛躍の舞台として成功裡に終えることができると確信できるエネルギーを、今大会で肌で感じることができたのは、なんとも頼もしく素晴らしいことでした。
 大会3日目は100周年記念行事が終日開かれ、記念式典、海外からの来賓による記念講演会、英語を主に進行された記念シンポジュウムがあり、締めくくりの懇親会には300名ほどの参加者で大賑わいでした。そこで、全国から来られた参加者の中で何名かと旧交を温めることができたのが、私にとってはなによりのことでした。

 私の覚書として100周年記念関連出版物を列記しておきます。日本鳥学の歴史と記録を概観するのに、大変参考になります。
●日本鳥学会 『日本鳥学会100年の歴史』
日本鳥学会誌61巻特別号 2012年6月
●日本鳥学会 『日本鳥類目録 改訂第7版
2012年9月
●井田徹治 『鳥学の100年 鳥に魅せられた人々』2012年9月 平凡社

 100周年記念展示としては次ぎの2つです。後者は12月初めまで開催中です。
●日本鳥学会の百年 於東京大学総合研究博物館 2012年8月17日〜9月21日 (共催:東京大学総合研究博物館、日本鳥学会、山階鳥類研究所)
鳥類の多様性――日本の鳥類研究の歴史と成果 於国立科学博物館 2012年10月6日〜12月9日 (主催:国立科学博物館 後援:日本鳥学会、山階鳥類研究所 協力:我孫子市鳥の博物館 他)

 味気ない出版・展示の羅列お知らせに眠気を誘われるといけないので、国立科学博物館の「鳥類の多様性」展示に関してエキサイティングな話題を一つだけ書きます。 
 世界で3点しかないカンムリツクシガモの標本の内、♂♀の2点が、実に30年振りに12月9日まで展示されています! このカモは、1917年に黒田長禮博士により新種と記載されたもので、2点が山階鳥類研究所に、他の1点♀がコペンハーゲン博物館に収蔵されているだけです。すでに絶滅したと考えられています。
 私は、たまたま山階鳥類研究所で鍵のかかった空のケースを覗いた数日後に、そのケースの主であるホンモノの剥製が東京大学総合研究博物館で展示されているのを観てきました。以前にも観たことはあるのですが、今回眺めてみて、特に♂の美しさに改めて驚嘆いたしました。感動モノです。
 余計なお世話ですが、まだご覧になっていない方には一見をお薦めしたい気持ちでおります。今回の科博での展示を逃すと、次回の公開には私でしたらアノ世から眺めることになるでしょう。

 ここに載せたカンムリツクシガモ(左が♂)の写真は、1960年に日本で鳥関係最初の大型国際会議として東京で開かれた第12回国際鳥類保護会議(ICBP)の参加者に、当時の黒田長久日本鳥学会会頭より参加者に記念品として贈呈されたものです。
 今となっては所蔵されている方は極く少ない「お宝」かと思います。昔の新浜グループの仲間の一人岡田泰明さんが、封筒入り完全セットを半世紀余にわたり大切に私蔵されていました。今年になって山階鳥類研究所に資料として寄贈され、その際にこの写真を撮らせていただきました。岡田さん、有り難うございます。当然ですが、ホンモノは剥製ながらもっともっと輝いています。

 ところで、2012 Sept.「BPAフォトグラファーズ ティータイム」で真柳元さんが「たとえカンムリツクシガモが目の前に現れても・・・」と述べていますが、ゲンちゃんの根性が上記の珍種の説明でお分かりいただけたかと思います。

BPA
BPA
BPA
BPA

2012 Aug. BPAフォトグラファーズ ティータイム真柳 元さん (I)

 古くからの鳥仲間である。バードウオッチングで皆が「ゲンちゃん、ゲンちゃん」と呼んでいるので、見ず知らずだった私までがいつの間にか「ゲンちゃん」と。他人にそう呼ばせてしまう不思議な魅力のある方なのだ。
 そのゲンちゃんが野鳥の写真を撮っていると知ったのだが、標準レンズで撮れるハズもない野生の鳥を撮ろうとなにやら苦心したとのこと。そこがかつての私とダブルので、“今に見ていろオレだって組”の仲間として親しみを感じていた。

学生時代のゲンちゃん、北海道を行く
1974年8月18日
北海道士幌線(1987年に廃線となった)

スズメの来訪
撮影 真柳 元
1969年3月20日
武蔵野市吉祥寺東町
キャノネット f45mm F1.9 ネオパンSS 絞オート

 昔の木造の家には、スズメがどこからか部屋に入り込んでくることがあった。マンション生活では考えられないこと。思わぬ珍客の来訪にドキドキしながらレンズを向けるには、まず自分が落ち着かねばならない。そしてスズメを落ち着かせ、1−2枚のチャッターを切らせてもらってから、戸外へと誘導する。結構スリルのある撮影体験なのだ。
 そんな体験や撮影データを克明に書き残しプリントを添えたノートが積もり積もって、世界に1冊のゲンちゃんの「自画自賛写真集」となる。

キジバト
撮影 真柳 元
1974年9月
武蔵野市西久保
ニコマートEL  f105mm F4.0 Plus-X

 野鳥少年の前は天文少年だったゲンちゃんが、望遠鏡で月や惑星が撮れるなら鳥も撮れるに違いないと、挑戦してみた。このあたりの想像力と実行力がモノをいう。高校時代にアルバイトして買った天体望遠鏡(130mm反射式)を、今日のデジスコ方式でニコマートに覗かせたはいいが、カメラのレンズが望遠鏡の接眼レンズより大きいので、周辺からの光を避けるのに苦心惨たん。ゲンちゃんならではの、思い出の1枚。
 狙ったキジバトを撮ってはみたが、後が続かなかったのは、16kgと架台を入れて2mを超える望遠鏡の重さと大きさ。機動力に欠けるとかいうレベルではなく、自宅の2階に据え置くしかなかった。となると狙うはキジバトかスズメしかいない・・・。

カルガモの親子
撮影 ◆ 真柳 元
1970年6月8日
東京都杉並区善福寺下池
リコーフレックスIV  f80mm F3.5 ネオパンSSS  F16  1/50

 当時浪人の身で、月曜の午後から野鳥を撮りに出掛けるのは気がひけたものだが、この日、近くの池で7羽の雛をつれたカルガモに遭遇。
 ファインダーの親子にルーペでピントを合わせるのに夢中なときは、その一点にしか目がいかないから、「すごく大きく撮れてる、これは傑作になるぞ!」と錯覚できる。標準レンズで野鳥を撮る撮影冥利に尽きるとは、錯覚しているその瞬間のこと。これこそ経験した人でなければわかるまい。オートでピントが合ってシャッター押せば撮れるデジカメでは味わえないこの(懐かしき)妙味!
 この1枚は、目的のカルガモ親子は“意に反して”小さくしか写っていないが、40余年昔の善福寺下池の環境が見てとれるというアーカイブスなプラスアルファーが、今にして巧まざる収穫ともなっている。


 ゲンチャンと私とで違っているのは、野鳥への接し方である。 “ゲンちゃんの鳥見”には、こだわりがある。鳥は“見る”のが基本で、初めて見る種は“必ずスケッチする”こと。“必ず撮影する”というのは二の次なのである。
 かつて関西に榎本佳樹(1873−1945)という達人がおられた。『野の鳥の思い出』(日新書院、1942年)や『野鳥便覧』(日本野鳥の会大阪支部、上巻:1938年、下巻:1941年)などは、いまでも知る人ぞ知る垂涎の的。その榎本さんは、人の一生は短い、その短い間に鳥を見る機会はさらに短いと考え、電車に乗る時もいつも双眼鏡を胸にかけて窓の外を観ていた、と聞く。
 ちょっと大袈裟な表現をすれば、真柳ゲンちゃんは関東の今榎本である。仕事だろうと海外出張だろうと双眼鏡をカバンに持ち歩き、時間があればバードウオッチングを楽しんでいる。鳥見スタイルは、車での移動を極力避けて、フィールドをひたすらひたすら歩くのである。マメにとった記録は、「ついでの鳥見」と題してメールで送られてくる。恐れ入る。

 榎本佳樹と違っているのは、ゲンちゃんは双眼鏡にプラスしてカメラをも持っていること。二の次のカメラ履歴はというと、学生の頃リコーフレックス80mm F3.5で鳥写真への挑戦が始まり、いろいろあって後ついには1974年頃にニコマートELに300mm F4.5やレフ500mm F8へと昇格?させた。
 機材は充実させたが、ひたすら歩くバードウオッチングに重い機材はこたえる。結局カメラは家に置いていくという皮肉な結果に。望遠レンズ時代の写真には見るべきものがないとご謙遜。確かにカメラは二の次なのだ。なにがなんでも鳥を撮る近年の野鳥撮影猛者には理解し難いところだが、野鳥撮影を楽しむのは人後に落ちないと、ご本人結構そう思っている。

ナキウサギ
撮影 真柳 元
1974年8月18日
北海道天狗岳山頂(1876m)
ニコマートEL f300mm F4.5 Tri-X オート

2012 Aug. JR総武線鉄橋で一休み (I)

 我が家はマンションの9階である。ベランダから隅田川を見下ろせるので、東から南方向への視界はすこぶる良い。スカイツリーを左手に見て、対岸を首都高6号向島線にそって下流に目を移すと、震災記念堂、両国国技館、JR総武線鉄橋、両国橋、その下流の両国JCTをランドマークに、180度見事なコンクリートの壁と都会騒音。緑といえば、国技館の隣の旧安田邸公園の樹木が僅かに塀から覗いているだけ。隅田川の水面がなかったら、人造環境のそれこそ息苦しくなりそうな眺めである。その大川を上流へ下流へと移動する水鳥たち、カワウ、サギやカモメの仲間、カルガモなどが時折見られるのが、私にとって気持ちの安らぐひとときなのである。

よく見るとアオサギのいる風景
撮影 塚本洋三
2012年6月29日
東京都台東区隅田川総武線鉄橋

 去る6月3日のこと。見なれたJR総武線の鉄橋上に、どこかそぐわない雰囲気があるのを感じた。双眼鏡を持ち出して確かめると、はたして鉄橋のアーチの上に1羽のアオサギ。ゆっくり羽づくろいしているところだった。「とうとうこんなことになったか・・・」遠来の?客を歓迎しつつ、つぶやいた。
 半世紀ほども昔なら、都会に住む私にとってアオサギはそう簡単に出会える鳥ではなかった。一番近くて期待できたのは、学生時代にホームグランドにしていた千葉県新浜であった。電車とバスで1時間半ほどかけ、そこまでわざわざ出向かなければならなかったのだ。それとて行けば必ず見つかるわけではなかったのである。
 高校生のころ、北海道は釧路市近郊にある大楽毛(おたのしげ)原野にアオサギのコロニーがあるのを知り、アオサギのいる雄大な景色を想像して北国に憧れたことがあった。また青森県の猿賀神社(現平川市)の境内で繁殖するカワウとアオサギ(他のサギ類も?)は1935年に国の天然記念物に指定されていた(消滅して1984年指定解除された)のを教わり、「アオサギってエライ鳥なんだなぁ」と思ったりしたことがあったのである。
 今どきのバードウオッチャーにとってアオサギなんて“なんでもない普通の鳥”なのであろう。かつての私は、フィールドで1羽でも見られれば、おおいに喜んだものである。恐らく全国的に増えてきているのであろうが、オールドタイマーには、コンクリートジャングルでアオサギが普通に見られることなど想像もできなかったのである。
 そんなわけで、我が家のベランダから隅田川を上流へと飛ぶアオサギを初めてみた時は、何年も前のことだったが、「お! ありゃアオサギだっ!」と声をあげながらベランダへ飛び出して見たほど。数年前から川の上空を行き来するのがたまに見られるようになり、去年の秋口あたりから今年は、「アオサギだよ。出るねぇ」と、それほど珍しくはなくなってきた。いつも1羽で悠然と飛んでいく。
 そうこうしている内に、初めて総武線鉄橋の上をお休み処にしたアオサギを見たのである。

 次ぎに鉄橋で休んでいるアオサギをみたのは、6月29日。この時は2羽であった。記録写真でも撮っておこうと、恐らく前世紀半ば以前に製造されたであろうグラフレックスカメラを引っ張り出し新調の400mmレンズをやっとの思いで取りつけた時には、残念、1羽になっていた。10枚撮りフィルムで最後に残っていた1枚のシャッターを押して、撮影終了。
 急いでフィルム交換しようとしたら、しばらく使っていなかったもので、なんと、フィルムケースの裏蓋の開け方が簡単なメカなのにどうしても分からない。なんという愚かなことであった(後日、中古カメラ屋へ駆け込んでオヤジに教わってきたので、もう大丈夫)。
 それならばと、続いて引出から取り出した70−300mmのズームレンズのついたデジカメ一眼、オリンパスE-3でバチバチ撮ってみた。かなり距離があり、ドアップなどにはとても撮れないことは最初っからわかっていて、そこは年の功(?) “都会のアオサギ”を意図し、ド小さなアオサギをねらったのである。
 この構図でアオサギの生態写真だ!と言えるかどうかは微妙であるが、私はニヤリとしたくなる。ただ、アオサギと船と鉄橋を渡るJRの三者が同時に画面に納めるつもりであったが、そのチャンス到来の前に、アオサギはそっけなく飛び立っていってしまった。因みに、画面右上の赤っぽい線が両国橋である。

 私には、都心でアオサギを見るのはむしろ奇異に感じられるが、これも時代の流れというものか。ものは考えよう、鉄橋のアーチにアオサギが何10羽も列をなして休んでくれるようになったら、それはそれで“絵になる”と、そんなシャッターが押せる日を密かに夢みてはいる。

BPA
BPA

2012 July  BPAフォトグラファーズ ティータイム磯村公明さん

 持つべきものは友である。磯村公明さんとは慶応幼稚舎の同級生だった。1952年の卒業以来はじめて会ったのが、50年以上も経った同窓会でのこと。彼のお陰で夢にさえみなかった写真が、バード・フォト・アーカイブスへ舞い込むことになったのである。
 磯村さんは定年退職後に北海道の美瑛に奥さんと移住し、広大な自然に恵まれた悠々自適の生活をしているという。私が小学生の6年の生物部で1人で鳥をやっていたのを覚えていてくれ、美瑛のベランダのフィーダーに来る鳥をいろいろと話してくれた。難しい鳥の質問をして私を困らせたりもした。
 カメラも楽しんでいるという話題に乗って、私は退職後の2004年に有限会社バード・フォト・アーカイブスを立ち上げ、野鳥、自然、人をキーワードにした古いモノクロ写真の収集管理継承を目指として現役で奮闘していることを話した。「そんなことして儲かるの?」そら来た。耳にタコができるような質問には、「だから、“奮闘中”なんだよ。使命感とやり甲斐で生きてるようなもんだぁ。他人さまがやってない仕事だから、その内ガッポと儲ける道が拓けるというものさ・・・」
 磯村さんの反応がった。「鳥じゃないけど、1910年に日本で初めて試験飛行に成功した会式1号という飛行機の写真ならあるよ、見るかい?」後にその写真がバード・フォト・アーカイブスに登録されることになるのだが、その後の顛末は、この「今月の1枚」のページ、「2009 May 」に載っている。
 話はそれるが、その時の写真に対する一つの反応が、ホームページをみた方から届いた。「 BPAのサイトの今月の日本飛行機の写真、感動です。こんな写真を無料でサイトで見られてしまうなんて、なんて贅沢だと思いました(笑)」
 ここでは、その写真とは別カットの、しかし半世紀を超えて磯村さんとのご縁をとりもつきっかけとなった同じ飛行機を、“無料で“ご覧いただきたい。

飛行中の会式1号
写真提供 ◆ 磯村公明
撮影者不詳
1910年代初め
 なんでこんな凧みたいな飛行機が飛べたのか。凧みたいだから飛べたのだ、とも言えそうだ。そんな話では飛行機の姿が想像できない。まさに百聞は一見。100年ほど昔のこと、写真が残されていて初めて当時飛んだことに納得がいくというものだ。
 「2009 May」のページに飛ぶのが面倒な方のために、会式1号の興味ある資料を「航空情報臨時増刊 回想の日本陸軍機」(酣燈社 1962年)よりここに再録しておきたい: 乗員2、発動機ノーム空冷回転式50hp、全幅11m、全長11m、全高3.9m、翼面積41?、自重450kg、総重量550kg、速度72km/h、航続3時間、価格3,080円(発動機、人件費をのぞいて)。
原野を翔るオオワシ
撮影 ◆ 磯村公明
2004年4月1日
北海道クッチャロ湖畔

 最古に属する日本の飛行機の写真から一足飛びにデジカメ写真となるが、磯村さんは結構写真好きでもあることがわかった。カメラはキャノンのKiss Digitalから今ではソニー一眼α700に、レンズはズームを含めてミノルタ時代からの使い慣れたものを有効活用。メールのやりとりをするうちに、頼みもしなかったのに鳥などの画像を添付してくれるようになった。同じ鳥でもさすが北海道ならではの地の利を活かした写真に、中には目を見張るものがあるのだ。
 バード・フォト・アーカイブスはモノクロ写真が専門ではなかったのかと、そうなのですが、時にカラーが舞い込むのです。私が気に入った磯村さんの写真を2,3ご紹介させていただきます。

コハクチョウたちと人
撮影◆磯村公明
2004年4月2日
北海道クッチャロ湖

オナガガモたちと人
撮影◆磯村公明
2008年3月22日
北海道旭川市氷山新川

とびきりの美瑛の夕焼け
撮影◆磯村公明
2009年9月30日
北海道美瑛

 この夕焼け空は、磯村さんご夫妻の住む美瑛の名物の一つ。1年に一度あるかないかのとりわけ美しい夕焼けが撮れ、どうもご自慢の1枚のようなのです。採り上げないと友情にヒビが入るといけない(?) ので、お付き合いいただきたい。思い起こせば、モノクロ時代がカラーに取って代わるころのカラースライドショーは、十中八九までが夕焼けのシーンでThe Endという印象があったものです。というわけでした。

2012 July 
写真を撮る楽しみ

 お手製の長〜い蛇腹(左)の手応えをファインダーで確かめながら野鳥を狙うのは、また格別。135mm望遠レンズで少しでも野鳥に近づいて撮りたい時などに、頭巾(右)は相手に人間と思わせないで警戒させない有効手段(?)。
 1回のシャッターとともにフィールドでの思い出が心のネガに“焼きつけられ”、後々まで写真を撮った時の楽しさが増幅される。

 「おっ!!」
 寝起きで読売新聞(2012年7月22日付)を繰っていて、カラーに混じる1枚のモノクロ写真が目に飛び込んできた。モノクロ写真ファンとしては、なにごとかと目をむいた。「無心」と題された子供の顔写真が、審査委員特別賞とある。
 俄に興味をもって紙面をみると、一点のみの特別賞は「2012全日本読売写真クラブ展」に2,000点を超える応募作品の中から選ばれた上位優秀作品7点の内の一つであった。モノクロ写真の応募がどのくらいの割合を占めていたのかは知る由もないが、カラー全盛の時代に、モノクロでよくも応募したり。それを審査委員がよくぞ受けて立ったものである。私には嬉しいことであった。

 「モノクロフィルムで応募してくれるということは、手間がかかる。一手間かけてくれるところがありがたい」と特別賞の寸評にあった。手間をかける。この一語に思うところがあった。手間にもいろいろあろうが、手間ヒマをかけるのは、一つ写真に限らず、なにかを成し遂げるのにそれ自体が基本的な楽しみなのではあるまいか。なんでも便利な世の中になって、手間をかけずとも結構な結果が得られる時代となってみれば、わざわざ手間をかけるのは、時間はかかる、工夫が必要、苦労は伴う、面倒ではある、時に金もかかる。ラクに目的が叶うというのに、ああ、バカくさい、ことではあるのだ。
 本当にバカくさいことなのであろうか?
 便利さを求めるあまり、便利になってみればそれが反って不便に感じることに気付く人が世の中しだいに増えてきているのは、日常の会話でも気付くようになった。デジカメ、然り。購入したてでもスイッチをONにしてシャッターをきれば、ピントが良く、かなりの程度の美しいカラー写真が誰にでもラクに撮れてしまう。デジカメしか知らない人には、そんな便利さは当たり前で、便利とも思わないのであろうか。わざわざ手間のかかるカメラやフィルムで写真を撮るこたぁないのである。もっとも、そういう若い世代には「え? フィルムってな〜に?」という時代なのだが。
 フィルムカメラを扱ったことのある人でも、確かにデジカメは便利。私もそ思っている。だが、メカを使いこなしきれないで自画自賛の傑作すら撮れないでいることは認めても、どうも便利過ぎて出来た画像になにかモノ足らないものを感じる。そればかりではない。肝心の写真を撮る楽しみをもっと味わいたいという願いが増すのだ。私と同じ思いのカメラファンは少なくないと睨んでいる。
 そうこうする内に、今度はミラーレスカメラが登場した。「なんだ、それ〜」とつい声を出してしまった。デジタル一眼レフカメラよりも小型、軽量ながらレンズ交換が可能で、より手軽に野鳥の写真が撮れるとある。野鳥写真ファンなら、なんでもいいから手に入れてみたくなる便利な最新鋭機らしい。かくして、またまた便利のトリコになり、野鳥撮影を楽しめるにしても企業の提供する光学機器の“進歩”にもてあそばれることにならなければよいが・・・。
 そんな余計なお世話をいちいち垂れていると、時の進歩や便利さについていけない人、時代遅れの高齢者、メカにヨワイ人、ヘソ曲がりなどと使い古されたレッテルを貼られる。いいではないか。写真を撮るプロセスをも楽しもうと言っているのだから。そういう人が増えて、身のまわりに増えつつある生活の“便利さ”の在りようを、ちょっと見直す機運がでてくるのは悪くはない。いや、必要である。
 写真を撮るということは、読売紙面の総評に立木義浩氏が述べているように、「森羅万象に影響を受けて触発されるもの」であると。なるほど。触発されたのと同時にある“撮る楽しみ”を、“便利さ”で失う手はないのである。ほどほどの“不便さ”は、むしろ有難い存在となってきているというわけだ。
 デジカメでもフィルムカメラでもよい。写真を撮る楽しさとはなにか、自分自身の答えをかみしめてみれば、構図にしろ表現力にしろ、なんでも一段レベルの高い写真が撮れるようになるのではあるまいか。ちょっと考えがアマイかぁ・・・。
 などと思いながら、先ほども、デジカメには手を触れずに、古いフィルムカメラの方を引出から取りだして、撫でてみるのである。

干潟でカメラ、ただ今奮闘中 撮影 ◆ 塚本洋三 1957年11月3日 千葉県新浜

BPA
BPA

2012 June  BPAフォトグラファーズ ティータイム笹川昭雄さん

自宅前の原っぱでヤンマ採りのあきおくん(8歳)
撮影 ◆ 長原 玄
1936年9月
大阪府豊中市

■なぜか笹川さんの四つ切野鳥写真の束から出てきた、幼いころの1枚。私にも覚えのある懐かしい雰囲気のアーカイブスな一コマ。自然を相手の体験を今の都会の子供たちに味わってもらうのは、もはや夢。とは思いたくない・・・。

 思えば狐につままれたような話ではある。
 私が中学生のときに日本野鳥の会へ入会してすぐの、室内例会でのこと。ご年配の参加者の中にいて所在のない私に、慶大の学帽をかぶった方が気さくに声をかけてくださった。笹川昭雄さんだった。そのとき以来、鳥仲間として60年近いお付き合いになる。それなのに、笹川さんがカメラを構えてしかも野鳥の写真を撮る姿を、今現在まで一度だって見たことがないのである。
 笹川さんは、写真を撮ることに興味があるどころか、カメラにはまったく無縁な人であり、なにごとも豪快に笑い飛ばしてしまう鳥大好き先輩だと思っていた。日本の野鳥生態写真の先達、彼の下村兼史の遠縁にあたると聞けばなおさらのこと、どうして鳥の生態写真に傾倒しなかったのかと不思議な感じさえ抱いていた。
 2004年にバード・フォト・アーカイブスをスタートさせて数年経ったころだった。鳥声録音で日本の第一人者の蒲谷鶴彦さんが撮られたフクロウの幼鳥の写真が、結婚祝いに蒲谷さんから笹川さんに贈られたことを嗅ぎつけた私。そのお宝級の写真見たさに、さっそく笹川さんに連絡をとってみた。
 「ついでにボクの写真も見るかい?」
 咄嗟の意味不明な一言に面食らった。なにを今さら、笹川さんご自身の人間生態写真なら、長い間に私が撮ったのが手元にいい加減たまっている・・・。
 「え? なんの写真?」
 「なにって、ボクのよ」
 お互いがボケたかと感じるような短いやりとりの後に、私にとっては寝耳に水の笹川さんの“秘密”を少なからぬ驚きをもって知ったのであった。アサヒペンタックスにタクマー500mmをつけ、笹川さん自ら撮られたという野鳥の写真が存在することはなんとか納得できても、カメラを構えたフィールドの笹川さんの姿は想像し難い。いまだにお狐さまが私から離れないままでいる。

 かくして拝見することになった“笹川さんが撮った”写真。無造作に平箱に納まっていた数十枚の四つ切のモノクロ写真は、自慢の代表作と思われた。一見して、「良く撮れてますね」と本気で褒めるにはほど遠いものに感じられた。ところがである。笹川無手勝流、天衣無縫に表現された野鳥写真というか、多くはあわや駄作と紙一重の力作で、それが他に類を見ない迫力と不思議な魅力に感じられたのだった。これには正直たまげた。
 すぐに思い出したのは、昔手に入れた“The People’s Birds”(Scribner’s 1972) という写真集である。NBCニューズの著名なプロデューサーであるRobert Northshieldが撮った野鳥写真。無茶苦茶な構図で、ピンボケなどは超越したような、私ならおよそボツにするポーズの野鳥の写真が、数多く堂々と写真集に載っている。だが、なぜかそんな“スゴイ写真”に、「参ったぁ〜」と魅せられてしまうのである。あまりの写真表現に度肝を抜かれ、高価であったがその写真集を買ってしまったのであった。
 私にはマネすら出来ない類のNorthshieldの生態写真といえば生態写真。それを彷彿とさせる、いささかシロウトっぽさは否めない写真はあるものの、笹川さんが撮られたNorthshield張りの生態写真。古びてきた無光沢の四つ切プリントを前に、私は少なからず爽快なショックを受けたのである。
 四つ切をスキャニングしたデジタル画像が私のウデでどのようなデキになるのか心許なかったが、そんなことを気にしてどうなる笹川さんの写真ではない。野鳥が中心に写されていて時代性や地方色が写し込まれていないのはバード・フォト・アーカイブスの視点からは残念だが、なにしろ魅力たっぷりな写真である。そのような野鳥写真として、すぐにバード・フォト・アーカイブスへのご提供をお願いした。ご快諾いただいたのである。

田んぼにいるオオハクチョウ
撮影 ◆ 笹川昭雄
撮影年月日不詳
新潟県瓢湖周辺

■警戒気味のなんでもないオオハクチョウを写しているが、背景の雪の山と相俟って、油絵のようなクドイ感じの、一味違った力強い写真になっている。なかなかである。マネができそうもない写真の雰囲気に、「ご免なさい。」と、つい呟いてしまった。

イカル
撮影 ◆ 笹川昭雄
1960年代後半
山中湖畔

■タダのドアップ・ドシャープな美しい鳥の写真はデジカメ時代に見飽きるほどあるが、このイカルはタダモノではない。イカルでこんな人間くさい表情が撮れるものかと、ドアップ写真にゲップがでそうな私がすっかり溜飲を下げた1枚。

雪中2羽のタンチョウの図
撮影 ◆ 笹川昭雄
撮影年月日不詳
北海道阿寒町

■「なんだよ、コレ。タンチョウの写真なら他に誰かの良いのがいくらでもあるじゃん」と思いながら、見ている内になんとも“不可解な面白味”が写真から滲みでているのに気付いた。はたして撮影者は、そのあたりを承知でシャッターを切っていたのであろうか。と、我ながら当を得た疑問にぶつかった。

オオハクチョウの飛翔
撮影 ◆ 笹川昭雄
撮影年月日不詳
新潟県瓢湖

■“飛びもの”が、1回押すごとのシャッターの“偶然の産物”であった時代に、「よくぞ撮ったり!」の1枚。鳥と樹をド真ん中にもってきた構図には、脱帽。表紙を飾ったというのも頷けるが、「どの雑誌だったか覚えてないよ、ゥアッハッハ〜。」

巣にいる2羽のノスリの雛
撮影 ◆ 笹川昭雄
1969年7月?
富士山麓須走

■「生態写真にしてはちょっと・・・」と尻込みしたくなるが、ハイライトが雛にあたって2羽のポーズが決まり、大きな巣の暗色部が雛の成長を支える暗示に富んでいるかのようだ。こちらを見る雛の様子といい、いろいろと想像してみたくなる捨てがたい1枚である。

 笹川さんには驚かされたことがまだある。
 慶大の経済学部を卒業していながら、世間で間々みられるように親父さんの後を継がず、周囲からは困った顔をされながら結局は好きな道へと進んで山階鳥類研究所に勤められた笹川さん。長年のバードウオッチングや研究所での経験を活かして、退職した年の1995年に破天荒な『日本の野鳥 羽根図鑑』を世界文化社から上梓されたのである。続く3冊とも羽根、羽根、羽根。
 実物の羽根をみながら精緻に絵筆をふるう。笹川さんのどこにそんな絵の具をこなす才能が・・・? 私はまったく計り知ることができないでいた。画かれた頁を一見すれば分かるが、それは大変なもの。ふっと息をかければハラリと羽根が頁から飛び出しそうな細密画なのである。
 1枚書くのにどれほどの根気と時間が要るものか、想像しただけでも気が遠くなる。小さな羽根は1頁に10枚以上載っていたりする。そんな頁で本一冊ができている。昨年出版の「決定版」には、日本の野鳥300種の羽根が収録された。16年の成果に、ため息と賞賛。
 人間年を重ねるのは仕方のないことだが、絵筆をふるって前向きな気持ちで精進される笹川さんに接していると、老化はかなり遅らせることができるという気になれる。私がアメリカ留学中に手に入れたと分かった重い500mmに代わって300mmのレンズを実は今も持っているそうで、ライフワークの羽根画きのかたわら、まだ写真も撮る気でおられるようだ。手強い。どのみち今日まで笹川さんのカメラを構える姿は拝見していないので、生涯見ないで終わるのも一興かという気になっている。
 笹川さんが撮られた写真は、バード・フォト・アーカイブスによって次世代へと継がれていく。羽根だけで纏められた先駆的な著作は、不滅である。「そんなことはどうだっていいんだよ、ガハハハハッ。」と笑い飛ばされそうだが、老いてなおますますの笹川さんのご活躍を心から念じている。

2012 June トキは見たいが、気になる将来

 『トキのひな全8羽巣立ち』! 6月21日の読売新新聞夕刊の見出しに、胸が高鳴った。今年(2012年) 野生で36年振りに孵化した雛が、揃って佐渡の空を舞っているとは。
 トキ野生復帰プロジェクトは、春夏秋冬の1年サイクルを一単位とする自然を相手とする。一歩一歩とは、まさに一年一年を意味する。絶滅したトキを人間の力で野生に復帰させるのには、5年10年の保護の尺度でじっくり構え、成果をあせらずに取り組んでいかねばと思っていた私。それが早くも野外での営巣から巣立ちにまで漕ぎつけた。関係者の喜びと緊張感はいかばかりかと想像する。
 巣立った雛や保護活動を推進するさらなる環境整備は、人知で想定し難い自然界の読みと、コンセンサスが取りやすいとは限らない人間社会にあって、これからが勝負どころであろう。
 などと東京にいてノホホンとしている我が身を、歯がゆいとも有難いとも感じながら、トキを想う。

 一バードウオッチャーとして野生のトキを一目見たいと願っていたのは、もう半世紀以上も昔のこと。1952年、野生のトキがまだ24羽いた頃。
 「佐渡へ行きさえすれば、まだきっと見られるぞ。貴重なライフバードが1種かせげるのだ。今行かねばチャンスはなくなるかも。行くべきだ。」と何度思ったことか。「自分一人ならトキを見に行ったって、繁殖の邪魔にはならないだろう。一生に一度なんだからいいじゃないか」と行くべきを正当化しようとした。
 一方で、私のような“トキ見たい人間”がこぞって佐渡でトキを捜しまくったとしたら、トキには有り難迷惑以外のなにものでもなかろう。と、殊勝にも考えていた。
 葛藤したが、トキは、保護の観点から“見てはいけない鳥”というグループに勝手に決めたのだった。以来、トキは幻の鳥、佐渡は遠い島になっている。

 現在佐渡には1950年代当初を上回る数のトキが野外で自活している。今なら、万人監視のもと、ほどよい距離を保てばさほどトキに迷惑な影響を与えなくとも見られそうだ。チャンス到来に思える。
 佐渡の鳥友からも、一度来てみたらと再三のお声がかかる。家を空けられないからとの理由はあったが、今では東京から日帰りできるようになったと教えてくれた。なんと。かつては物理的にも遠い島が、トキを想って浮き足立つ距離になってしまっていた。
 その一方、私の考え方にも変化が起きていた。60年ほど昔、保護のためとはいえトキを見に行かないと決めたのは、中学生の痩せ我慢もあった。この目で野生のトキを見たいという気持ちは、実は年をとった今も変わらない。しかし、今度は以前とは異なる理由が頭を過ぎる。ここはよっく考えてみる必要がある。かなりマジなのだ。
 1981年に佐渡で最後まで残っていた5羽が捕獲され、40億年ともいわれる地球の歴史でついに野生絶滅という状態になった日本のトキ。現在佐渡の自然に棲むトキは、人間の手をかりて自然復帰しつつある。絶滅前のトキとは何かが違ってきてはいないのか。その担い手の人間が、さらに私にはひっかかる。人間が介入したからこそ可能となった絶滅種の野外復帰は喜ぶべきことなのだが、その流れの暗示するところを熟考せずにそのまま受入れてよいものなのか? 「なにを今さら?!」ではあるが・・・。
 まだ言いたい。今私がトキを見に行くということは、生命と人間との関わりという広い枠で考えると、例えば体外受精や延命措置を同時に私が認めなければならないことになるのだ。子供が授からない夫婦の幸せのために、高度に進歩する医療技術で尊い人命を長らえさせるために、などという狭い視野で現状を捉え、そこで個人的なそして社会的に価値判断を誤ることになれば、「想定外だった」とはそれこそ言っていられないほどの問題を将来の人間社会で引き起こすことになりはしまいか?
 近未来SFを先取りしたならばの例え、人間の手で復活しシベリアのタイガを闊歩するマンモスの群れをも想像しながら、一度絶滅した種の再生、そして人間一つの生命の誕生と終末。そこに介在する人間とは、そも何様なのだろう??

 どうやらトキは私にとって“生涯見なくてもよい鳥”であるとともに、将来の人間社会が直面する問題提起のきっかけとなる象徴的な鳥になってきた。

BPA
BPA

2012 May  BPAフォトグラファーズ ティータイム神田秀順さん

 今回ご登場いただくのは、上野の東叡山寛永寺にある19の別院の一つ、護国院の住職をされていた頃から塚本家としてお世話になっている、神田秀順さん。12年前の丁度2000年に寛永寺のご住職になられたお方です。私には近づきがたいお立場におられますが、優しさと安心を感じさせる希有なお人柄に惹かれ、厚かましくもお話できる機会があればと願っていたのでした。
 ほとんど信心深くない私は、護国院での法会でたまに、そして以前は拙宅でのお盆の読経の際にお目にかかるだけでした。2009年10月のこと、法事の打ち合わせに護国院へ伺った際に、ついでにバード・フォト・アーカイブスのことをお話しすることができました。由緒あるお寺のこと、正直なところは、なにかモノクロ写真が在るのではとの下心でお訊きしてみたのでした。
 果たして、「古い写真で両大師橋が写っているのがどこかにあるはずですが、ご覧になりますか」と。こんなものでよろしかったらと捜し出してくださった写真を拝見すれば、実にアーカイブスな魅力あふれる一枚。誰が撮ったのかはわからないそうです。バード・フォト・アーカイブスが重点的に収集、管理、活用させていただく“自然もの”ではなくとも躊躇せずにお願いしてしまったのが、ここに再現するその一枚です。
 ご住職にご提供いただけたことがまた嬉しく、この写真はバード・フォト・アーカイブスでは異色のお宝ものとなっています。

落成祝賀の両大師橋
写真提供 ◆ 神田秀順
撮影者不詳
1928年頃?
東京都台東区
 両大師橋は、JR上野駅からすぐ北側に見える橋で、川に架かっているのではなく、山手線、京浜東北線、上越線、高崎線、常磐線などの数多くの線路を跨いでいます。数十年来、拙宅から護国院へ車で向かうときにはいつもこの橋を渡っているのですが、1枚の写真のお陰で初めて名前を知った次第でした。
 橋のすぐ西側にある寛永寺輪王殿に慈眼大師天海と慈惠大師良源のお二人を祀ってある両大師堂(両大師山門には、写真に見るように、天海が開山したことから「開山堂」とある)があって、恐らくそこから橋の名が由来したとのこと。
 私にとっては、せめていつ頃撮られた写真か知りたいものと独り言のようにご住職に尋ねてみたのでした。予期せぬことにご住職は、現在両大師橋を管理している東京都の台東区第六建設事務所橋梁事務係に後日わざわざ問いあわせてお手紙をくださったのです。橋の管理は昭和45年(1970年)に旧国鉄より引き継がれたので、それ以前のことは明確ではないものの、多分昭和3年(1928年)頃に完成したものではないかとのことでした。
 デジタル化された画像をパソコンのモニターで拡大すると、橋の西側(写真の左下寄り)に日の丸の立つ白い柱には、なんと「祝開通 両大師橋落成祝賀協賛会」とはっきり読めるのです。この写真は、恐らく開通時の1928年頃に撮られたものとみてよいのではないでしょうか。
 ご住職のご指摘で気がついたのですが、なるほど写真には北側(橋向こう左手)と南側からの両方向からの長い坂道で橋にとりつけた様子が写されています。現在は北側からだけのアプローチとなっています。
 これだけの年代モノの写真だけに、祝賀の人々の様子、背景の町並み、右手遠く浅草寺のあたりかと、拡大してみて映し出されているものに興味は尽きません。跨ぐ線路の数はさすが両大師橋と妙なところで感心してみていると、SLが気になってくるのです。
 バードウオッチャーの中には“鉄分の濃い人”(鉄道マニア)が結構おられるようで、バード・フォト・アーカイブスでもなにかとお世話になっている百武充さんもそのお一人。写真を見ていただくと、たちまちの解説がいただけました。“鉄分に欠ける”私でも興味を惹かれるので、気合いの入ったコメントに感謝しつつ、一部を引用させていただきます:
 「遠くの大型の2台は当時最新鋭のC51型と思いますが、日本の機関車製造技術がこのC51によってようやく国際水準に達したと評価される名機でした。
 (後日のメールで)「ネットで『両大師橋;落成』と入れて検索しましたら、昭和8年2月19日とあるのを見つけました。もし昭和8(1933)年であれば、写真に写っているC51は第一線機ではあってももはや最新鋭機とは言えません。昭和早々(1928〜30)に製造されたより大型のC53が東海道線に配備され、特急・急行列車を中心に働いていた時期になります。
 「手前の小型機はB6と総称されていた3形式の内、2120型か2500型です。外部形態からの識別はほとんど不可能です。どちらか!
 「一番手前右側に電車の屋根だけが見えていますが、この時代の電車は保存されているものがほとんどなく、まったく知識がありません。二重屋根で前照灯がまだ屋根の上でなく、正面窓の上の妻の部分についていた時代ですね。貴重品です。
 「右手の廃車は古い客車で多分作業員の詰め所かなんかに使われていたのでしょう。国鉄はよくこんなことやってましたから。
 この写真のどこにそんな鉄道物語が潜んでいるものかと怪しむほど。ご住職ご提供の一枚は、SL一つとってもやはりただものではなかったのでした。

 私事ですが、あの世へ逝ってしまったカミさんに関連して、寛永寺ご住職のことで最後にもう一筆加えさせていただきます。
 カミさんの葬儀一切を執り行ってくださったのは、神田秀順さんの後を継がれた現在の護国院ご住職、神田隆順さんです。カミさんの四十九日の法要では、私の耳目を疑うハプニングが起きました。護国院の本堂で読経が始まると、背後からの読経が重なるのではありませんか。思ってもみなかったことに、なんと寛永寺ご住職その人が座しておられたのです。最後に仏前でお焼香してくださいました。
 ご住職の佇まいに、私はつい涙してしまったほど。カミさんはもちろん、あの世の両親も同じ想いであったに違いありません。感動をくださったのは、一枚の写真ばかりではなかったのでした。
 神田両ご住職には心からの感謝が尽きることはありません。そして、どこまでも厚かましく、是非また貴重なモノクロ写真もよろしくお願いいただけたらと思っております。

2012 May カミさん逝く:土に還る

  「和江っ?!」声をかけた。心なしかちょっと揺れがはっきりしたような?・・・ 確かに揺れている!(こりゃ、和江が揺らしてるんだね、きっと。“いるよ〜”って。そうに違いない・・・。そうだよ。)どこから送っている合図なのか、何を言いたいのかは読めないが、そう思いたかった。
 カミさんは幽霊や心霊現象、霊感とかに興味があった。私はダメ。それでも霊の存在を否定するわけではなく、肯定もしかねている。この世にそんななにかが存在してもよいとは思っている。それを、カミさんは揺らす花で私に感知させてくれたのだ。
 どこかへ行ってしまったと思っていたカミさんは、“一緒に”私といる。それも結構身近に。思い過ごしと思っても、悪い気はしない。寂しいよりも、なんだか心持ち温かな感じさえしている。

 「花揺らし事件」を二三の弔問客に話してみた。反応はさまざま。(どうせ信用しないだろう。そうだ、動画に撮ってみようか。)ふと思い立ってしまった。(いや、よそうか。)無粋である。なにより、シャッターを押したとたん、揺らさなくなったりしたら・・・。それとも、揺れているところを確認して撮ったのに、再生してみたら動いていなかったりして・・・。どちらも“心霊動画”なら、いかにも起こりそうなことに思われた。かなり迷ったが、好奇心が勝った。
 デジカメで撮って再生した同じ花は、モニター上でも微妙に揺れていた。
 まんまと動画撮りに成功した私の心境は、実は複雑だった。これぞ証拠の一端として、霊にもご関心の深い藤原英司先生(「シートン動物記」の全訳、ライオンの「エルザ」シリーズなどの翻訳や動物・自然関連の著述で知られる)にご覧いただかなくては。霊を“生け捕る器具”にまでマジメに興味を示される先生のこと、びっくりされるのを想像し、ちょっと得意に感じたのである。
 一方で、カミさんと“二人だけの語らい”のひとときに、やらずもがなの動画撮り、そして束の間でも結果に満足したことをも悔やんだのだった。
 この世の人間はとかく科学的客観的な証拠とかを追求するあまり、肝心なことが疎かになる。(オイちゃんも気迷いしたんだよ、和江、ゴメン。大切なのは、動画に写っていない“心”だよな。)
 ヘソを曲げたのか、それから2−3日、カミさんは花を揺らしてくれなかった。ちょっと気になっていたが、六七日のお経をあげ、そのまま静かに話かけていたら、(・・・!)そっと揺らして合図してくれた。他愛なくも、どこかひどく嬉しかったのである。

 骨壺と揺れる花とを話し相手にしてきた日々が過ぎ、否応なしに四十九日を迎えた。結婚披露パーティをした思い出の同じ上野の山の、護国院本堂で位牌が入魂され、その近くの墓所で納骨が執り行われた。
 墓の前に立って手を合わせる足元の平らな石が、骨蔵の蓋となっている。墓に着いた時には、その石が石屋さん二人の手によってすでに起こされていた。腰をかがめば大人一人は入れるほどの骨蔵は、久々に5月の薫風に満たされ、先祖代々の霊を和ませているようであった。
 カミさんの骨は、石屋さんの手で逆さにされた骨壺から骨蔵の底へ散り、墓底からひろがる地球の大地へと旅立っていった。
 無言で見守る中、作業は静かに淡々と進められた。石蓋が元に戻された。読経がはじまる。(これで和江の骨もどっかオイちゃんの見えないところへいってしまった。位牌だけが残るんだよな。なんともな〜・・・)散骨は逝くものとの最後の別れであり、その場である墓はこの世とあの世を繋ぐ証なのだと、人生のいまごろになって初めて実感したのである。
 生きとし生けるもの、いつかは死ぬ。すべては移り変わり永遠に変わらないものなぞ存在しないのだという一つの真実が、『般若心経』に説かれている(ようだ)。言外に「いつか諦めねばならぬ時がくる。諦めよ」と諭されているように私にはとれた。そんな理屈を今は素直に受けられる気がして、カミさんのあの世への旅立ちを驚くほどサッパリとした思いで見送れたのである。
 骨を土に還すアイディアを取り込んだ塚本家の今の墓は、親父が設計したものだ。(親父、なかなかやるなぁ!) 納骨で石蓋が開けられるたびにそう思ってきた。その骨蔵にカミさんが入る日をこんなに早く迎えようとは。親父とカミさんとは、この世で顔を会わせたことがない。(お袋から紹介してもらって、親父さん、そちらで和江をよろしく〜。)

 いいヤツだった。私にはすてき以上にすてきな生涯の伴侶だった。そして、長引く介護でバード・フォト・アーカイブスの仕事を邪魔しないようにと私を気遣い、さっさと逝ってしまった。往生際は、わが妻ながらお見事。オイちゃんもヘコたれてはいられない。
 「じゃ〜、な。和江、いつまでも・・・。ありがとう!」 合掌      (塚本洋三記)

 カミさんの葬儀後は外回りの雑務に追われ、独り身の寂しさを感じることも少なく昼間は忙しく過ぎていった。
 夜ともなると、そうもいかない。狭いわが家にいつもの声がしない。呼んでも返事がない。グチやモンク垂れを聞いてくれる相手がいないのだ。枕辺に置かれたガラス製の呼びベルが鳴らない。どこか空気が腑抜けていた。
 ( ったく、和江はどこへ行っちゃったんだよ〜・・・ 仕方ないよな。でも、なぁ・・・) つい、グチっぽい独り言がでる。
 ローソクを灯し線香をあげる。カミさんの骨は骨壺に入って目の前に在る。そこまでは確かなこと。だが、いるハズのカミさんの存在は、この世の人間として不可解不可思議なものに感じられた。死後の世界がイメージできないので、カミさんが今どこに“いる”のかを知る手がかりがありゃしないのだ。
 黙想。
 なにげなく骨壺の傍らの花束に目を移した時だった。 (・・・ン? 花の一枝が・・・揺れてる?)鳥肌立った。目を凝らした。ブブレリュムと呼ばれるそうだが、その草花の1部だけ(写真の赤丸部分)が微妙に揺れているのだ! 確かに。
 線香の煙は一条まっすぐに上がっている。部屋の空気はまったく動いていない。よし風が抜けていたなら、同じ花瓶のすぐ隣の花も同じように揺れるのが道理というもの。
BPA
BPA

伸びをするアカエリヒレアシシギ:
会社の文化祭で写真展に出品してみたが、代わりに賞を受け取っておいたと笑う同僚の知らせで
初めて一等をとったことがわかった思い出の1枚
撮影 ◆ 藤岡宥三
1966年9月29-30日
千葉県上総一の宮

藤 岡 宥 三 様(続)

 一つご了承いただきたいのですが、がっぽりお預かりしたネガの内から私が独断でBPAの登録用のネガを選べるということでは、心配なことも良いこともあるということです。心配なことは、藤岡さんがコレゾと選んで欲しい1枚を私が見過ごしスキャニングしない可能性があること。ネガ選びの基準が藤岡さんと私とで温度差があるのは仕方ないことと思っています。でも、藤岡さんが傑作と選んだネガを私が見逃したら、それこそ悲劇ですからね。どのネガをスキャニングするかは結構緊張ものです。ミスったら、どうぞご寛容にお願いいたします。
 逆の場合は良いことでして、藤岡さんが見向きもしないネガを私がこれは是非!と判断してスキャニングする場合も多々あると思います。またトリミングや“伸ばし加減”でより見栄えがする写真もでてくるハズです。「へ〜、こんなの撮っていたんだ」と思っていだける藤岡さんの傑作、これは伸ばしたのを見てのお楽しみにしていてください。
 撮ったときにはちっとも面白くないと思って見向きもしなかったネガとか、最後の1コマだからムダ撮りしたなんでもない風景などが、4-50年も経った今では撮ることのできない貴重な環境写真ということも間々あるということです。こんなのは、BPAとしては優先的に登録したい写真で、藤岡さんのネガの中にもいくつも見つけてホクホクしています。

今は昔――

(上) 尾瀬の湿原をいく:
木道もまだ十分整備されていない頃
撮影 藤岡宥三
1964年5月29-31?日
尾瀬ヶ原


(右) 宮内庁新浜御猟場に面した湿地風景:
現在は住宅が建ち並び南新浜小学校があるあたり
撮影 藤岡宥三
1962年9月27-30日
千葉県新浜

2012 Apr. BPAフォトグラファーズ ティータイム藤岡宥三さん (II)

 我が意を得たりということでは、普通種のスズメ、カラス、トビ、ツバメなんかで面白いなぁと感じるネガがみつかっていることです。つい嬉しくなってしまいます。かと思うと、昔の兵庫県での絶滅前のコウノトリとか、千葉県新浜のオオハシシギとか、茨城県九十九里浜のヒメウズラシギとか、ドキッとさせられる珍鳥のネガがネガケースから現れてワクワクさせられます。珍鳥そのもののドアップの写真はBPAの主旨からいえばランクは下がるのですが、昔ご一緒に新浜なんかでバードウオッチングしたのを思い出すにつけ、珍鳥派を自認していた私は、ついネガをみて引き込まれてしまいます。このあたりは私の好きなようにさせてください。

自宅の庭で:雪降る中でスズメたち
撮影 藤岡宥三
1963年2?月
東京都目白

旅先での一コマ:雪の漁港に休むトビの群れ
撮影 藤岡宥三
1964年2月11日
岩手県宮古

 というわけで、現在お預かりしているネガの8割ほどのスキャニングが終わったところですが、早くホームページで発表させていただきたくウズウズしています。まだ覚書も交わしてしませんが、勝手な思いを実現させたいものと一人力んでいます。ほんとに久々のメールで恐縮ですが、そのあたりなにとぞご了承いただければと、よろしくお願いいたす次第です。

 ではスキャンイングを続けます。完了のご連絡を少しでも早くお届けできるよう頑張ります。

絶滅する以前の、田んぼで採餌するコウノトリ
撮影 藤岡宥三
1962年3月13日
兵庫県豊岡

2012年3月21日
BPA塚 本 洋 三

2012 Apr. カミさん逝く:指輪の“生還”

 「オイちゃん、私、死ぬの怖いぃ―。」生前、カミさんは思いついたように口にして3回ほど私に訴えたことがあった。
 「あったり前じゃないか。死ぬときは一人だし、誰だってどこかわからんとこへ行くんだから、コワイに決まっているじゃないか!」
 怖さを肯定する私の返事に意表を突かれたかたちで、妙にカミさんは説得させられていた。
 言った手前、私とてカミさんが死後どこへいってしまうのかは気になる。ローソクを灯し死んでしまったカミさんの傍らで、十何年振りかでとりだした古い寝袋に入って通夜の段取りがつくまでの三晩、ゴロ寝した時だった。
 「和江、オイ、いまどこあたりにいるんだい?」まさに独り言。
 「・・・なんだって返事しないんだよ〜、和江」呼んでも答えないのが不思議なくらい、生きているような安らかな横顔を何度か半身を起こして覗き見た。
 どこに行こうと、ま、いいか、みたいな気になって、怖さはそっちのけにして、死後の世界でなんとかやっていくのだろうとの無責任な答えをだしたものだ。

 ところがどうだ、生身のカミさんが、当然ながら焼き場で骨ばかりとなってしまった。これが我が愛する和江かと頭が空っぽのまま、ただ凝視するばかりであった。
 と、釘など不燃の金物を取り除いていた係員が、骨の中から小さな丸いものをみつけ取り出してみせた。カミさんの結婚指輪だ。溶けずにそのままこの世に“生還”したのである! 死後の怖さを気にしているどころではなくなった。
 珍しいことだそうだ。私は手にとって不思議なものを見るように眺め、プラチナの表面がちょっとざらついたのを指先に感じながら、こりゃ一体どういう意味なのかを考えようとした。
 唐突のことで考えはまとまらず、私が預かるなら四十九日までにそうと決め、納骨の時指輪を取り返すことができることを係員に確かめて、一端骨壺に納めたのだった。
 後で知ったことだが、指輪の存在に気づいた周りの誰彼は、私がそのまま指輪をとっておくものとばかり思っていたそうである。「そうかなぁ、コトの意味が読めなかったんで・・・。和江のものだから、和江があの世へ持っていくのが当然だという考えしか浮かばなかったもんでね。」

 それから数日たった朝のこと、眠れぬ床の中で、指輪の“生還”した意味がふと閃いた。「だよな。そうだ、そうだったんだよね。」自らの答えにおおいに納得した。和江が最後の最後に言いたくとも言えなかった“ありがとう”を指輪に託して私に伝えようとしたんだ。それ以外にあり得ない、と。夫の欲目?!で勝手な解釈がついたからには、指輪は私がこの世で持っているべきだと決めたのだった。カミさんのお守りは納棺の時にいれといたので、指輪がなくてもコワイあの世も大丈夫なハズだ。
 念のため、たまたまお話できた上野寛永寺のご住職にお訊きした。茨城県の羽黒山大聖寺のご住職にも電話で同じことをお伝えした。お二人ともに、そういうことは存知ないとのことで、お守りにされてはとのお言葉をいただいた。一も二もなく私は満足したのだった。
 ところが、「和江さんは、あの世ですてきな男性に巡り会えるよう指輪を残して逝ったんでしょ?」と妹。「いや、洋三さんがこの世で浮気をしないようにだ!」との穿った別の解釈も飛び出すことにもなった。さらには「高価な指輪まで焼いてしまう気前のよい人はこの世にそうはいないだろうから、“生還”する例はどのみちかなり少ないんじゃないの〜」という冷静な御仁もおられた。どれをもって納得するかは勝手なのだが、私の気持ちに揺るぎはなかった。
 「和江、オイちゃんからもほんとにありがと!」     (塚本洋三記)

BPA
BPA

2012 Mar. BPAフォトグラファーズ ティータイム藤岡宥三さん (I)

“自写像” 朝靄の中で:コアジサシやシロチドリのコロニーで共に一夜を明かした
撮影 藤岡宥三
1963年7月19日
千葉県船橋

藤 岡 宥 三 様

 大変ご無沙汰いたし・・・、と言えるにはあまりにもご無沙汰してしまいました。その後お変わりなくご活躍のことは、たま〜に高野ツヤ子さんから伺っております。野鳥の写真は引き続き撮っているのでしょうか? バードウオッチングは? 私の方は相変わらずです。70を過ぎて余命をちらっと気にしながらもやるべきことやりたいことが山ほどあり、カミさんの介護にも追われ、フィールドへ出る時間がないのが玉にキズですが、元気一杯の毎日です。

カワセミを狙った合間の
ワンポイント:ハスの花
撮影 ◆ 藤岡宥三
1963年7月22日
東京都明治神宮

 まずはお詫びから。バード・フォト・アーカイブス(BPA)の写真受入記録をみて改めてびっくりですが、ネガやアルバムをそっくり拙宅まで届けてくださったのが2005年2月20日でした。いかにご連絡をサボっていたか、お詫びしようにも言葉がありません。多少の言い訳はあっても、我ながらなんとも絶句です。ほんとに申し訳なく、ひたすらお許しいただくのみです。

この時代ならではの撮影チャンス:
孵化間近の卵を抱くコアジサシと給餌をうける雛
撮影 藤岡宥三
1961年7月16日
千葉県船橋

 ご報告を兼ねてやっぱり多少の言い訳をさせてください。BPAにご提供いただいたのは、藤岡さんが1960年代に撮ったほとんど総ての35mmネガですので、まずその量の多さに圧倒されていたのです。加えて4冊の大型アルバムの写真と見比べて、もしネガがみあたらなかったら写真からスキャニングしようと、この整理にも結構腰が引けていました。
 BPAを設立した時には、提供してくださる方ご自身がコレゾというネガを選んでご提供いただくことを前提としていましたので、ごっそりお預かりした中から私が選別してBPAに登録するということに費やす時間と作業量は、実は想定していませんでした。実際にはそれがこれまで数例あり、藤岡さんもそのお一人です。結果を出すまでのぼうだいな時間と費やすエネルギーを考えただけで正直シンドイ思いもし、作業をつい先送りにしてしまっていたのです。ご提供いただけてほんとは嬉しい悲鳴なのですが、ぜいたく言ってごめんなさい。
 幸い、つい2週間ほど前にこうした整理を任せられる方に出会い、ようやくネガと写真を年代順に並べて比較できるまでの整理をしてくれました。それですっかり作業の態勢が整い、猛然とスキャニングを始めた次第です。
 作業はもう大きく遅れることなく進められると思います。進めます。というか、積年の私の怠慢を払拭するかのように毎日奮闘していますので、これから何ヶ月も遅れるということはありません。もうご休心ください。現在1961年から1963年までが完了し、1964年に入っています。

シギチドリファンならずともワクワクする眺め:
潮の引くのを待つ最前列にダイゼン、キョウジョシギなど
その後の濃い一列はチュウシャクシギなどの中型シギ
後方の干潟で採餌するハマシギなど 
背景は「今月の
1枚」MAR.に写っている干潟続きで、遙か新浜御猟場沖あたりを望む
撮影 藤岡宥三
1963年5月12日
千葉県新浜 江戸川放水路河口

(2012年3月21日 BPA塚本洋三)・・続く

 実は、藤岡さんの写真は以前にほとんど拝見していなくて、どんな写真を撮るのかわからなかったのですが、ネガを拝見している内に私の好みの写真が多いことにすっかり気をよくして楽しく作業しています。1960年代の古き良き新浜でも、広大な干潟に集まるシギ・チドリの群れや画面一杯に写されたカニなど、私も撮っておけばよかったと今にして思うネガに出会うと、スキャニングしてすぐに発表できるように画像を仕上げてしまうほどです。それでまた次のスキャニング作業が実は遅れるのですが・・・。

タゲリの群飛:同じ時に撮ったさらに大きい群が「野鳥」誌(通巻214)の口絵を飾った
撮影 藤岡宥三
1962年3月12日
兵庫県豊岡

2012 Mar. カミさん逝く:死の選択

 「オイちゃ〜ん(私の家での呼び名)、早く逝きたいの〜。苦しむの、もういい。」
 「バカッ 苦しくたって死ぬまでは生きてるんだから、生きてる間はオイちゃんが一緒にいるからね。安心してな。」
 苦しまぎれのこんな会話を、この1年ほどで何度カミさんと交わしたことか。

 30年近くもカミさんを苦しめた呼吸器系の病は、悪くなりこそすれ良くはならないことがわかっていた。カミさん自身、今年の櫻はみられないと予知していて、認めたくはない覚悟を昨秋から二人ともうすうす受け止めていた。それだけに、想定されることを率直に話合っていた。
 いわゆる延命処置をしないこと、回復の見込みが少ない場合には苦痛を伴う処置は行わず、薬物療法を含む苦痛軽減の処置をお願いする文書を担当医師に手渡したのは、去年の11月末だった。
 今年3月に入って、またしてもの緊急入院。肺の機能がガタガタのところに入院中に肺炎になり、そうなったらイチコロだよねと話合っていた通り、あっという間にカミさんはあの世へ。私は一人この世に残されたのである。

 最期となる3日前、カミさんの苦しさは傍で看ていても辛そうになった。「モルヒネ頼もうかしら?」我慢の限界を告げるカミさんの一言だった。「・・・う〜ん、ね。」意味不明な返事しか私にはなかった。最期が近いのを二人とも感じていた。その時、カミさんの生命が切れるのは私たちの決断次第となっていた。
 「人生の一大決心だよね。」「うん、まったく。」重い空気がベッドサイドを支配した。カミさんはその時もう心に決めていたにちがいない。
 と、「オイちゃん、私、自分の人生終わらせていい?」(そんなことオレに聞くかよ。“どうぞ〜”なんて言えるかっ。)覚悟はしていたハズであったが、瀬戸際もギリギリというのに決断即答はし難く、またモゴモゴと意味不明なことが私の口をついた。
 沈黙。時の流れが止まったかのような。
 (あっ?)と思ったときには、カミさんはナースコールのボタンを押していた。(強ぇ〜。自分で決めたぁ・・・。)半ば呆れ、半ばある感動すら覚え、瞬時に私も覚悟した。入ってきた看護師に告げるのは私の出番だと感じた。
 「先ほど先生とお話し済ませてあるのですが、モルヒネお願いします。かなり苦しそうなんで、これ以上は・・・」唐突な申し出に動揺した風で突っ立つ看護師に、はっきりと同じことを繰り返した。連れ添った25年間で最後の別れの序奏だった。
 ちょっとの沈黙。
 「ありがとう。」カミさんの私へのひとこと。夫婦協同でなければなし得ないようなことをしてしまったのだった。
 モルヒネの点滴作業をカミさんも私も黙って凝視していた。なにを考えていたのかは覚えがない。カミさんの最期が近いという思いだけが頭にあった。手を握っているほかには、なにもしてあげられなかった。
 「先生、どれくらいで眠れるのですか?」ドキッとするようなことをカミさんが静かに訊いた。
 「これは眠らせるモルヒネではなく、苦痛をやわらげるためのものです。」
 「えっ、そうなんで・・すかぁ?・・・」予想外の返事に、カミさんも私もあっけにとられた。まだ死なないのだ! 重苦しい空気が一変、あまりのことに笑うしかなかった。二人して、モルヒネと聞けばすぐ眠れてあの世へ直行とばかり思っていたのだ。
 「私たちって、バカよね〜」心なしか声が弾んだカミさん。

 だが、“命拾い”は長くは続かなかった。度々のモルヒネの点滴継続投与で眠っていることが長くなったカミさんは、すでに自分の意思を伝えることができない。2日目になっても、モルヒネは効いているのかねぇと疑えるほど苦しそうに私には思えた。こうなったら、カミさんが私に託したアレしかあるまい・・・。
 「もういいよ、ラクになりな。ね、和江。最後まで一緒だからね。いいね。」“考える人”状態で左手でずっと握っていたカミさんの右手に私の右手を重ねて話しかけた。肩とお腹と口で苦しそうに息を繰り返すカミさん。心なしかそれも間遠くなっていくような。
 今度こそ私一人の決断となった。カミさんの苦痛を肌で感じながら、もうこれ以上はイカンと直感したとたん、迷うことなくナースコールのボタンを押した。鎮静剤投与を告げたのだった。

 私の最後の決断に神や仏の存在はなかった。カミさんの生死を分ける最後の選択は私がやったのだ。鎮静剤の点滴投与は、私たちの意を汲んでくださった担当医のお陰であった。私が意を決したのも、1時間にたった1.0ミリグラムでも即効の鎮静剤の点滴投与も、神ならぬ人間がやったこと。ここは逃げてはいけないと自分に言い聞かせた。

 苦しさと高熱とから開放されたカミさんは、それはそれは穏やかな顔をしていた。「よかったね、和江。もう苦しまないよな。よかったんだよね。」返事はなくとも、カミさんの“ありがとう”しか私には聞こえなかった。

 葬儀後の雑用がようやく落ち着いてきた三・七日に近く、気になっていたある知人と奥さんを見舞にいった。某研究所でお世話になった方だが、まさか私のカミさんの方が先に逝くとは思ってもみなかっただけに、献身的に看護し続ける奥さんに、今回私の感じたことをお話して元気づけたかったのだった。
 その知人の発病や状況はカミさんのとは極端に違う。カミさんの場合は、長い患いで先行きがかなり読めていてカミさんも私も覚悟する余裕があり、想定し得ることに心構えでも物理的にでもそれなりに対処できた。死期もかなり予想でき、生死を選択する最後の余地が私たちの手に残されていた。辛くてもできるだけ楽しく一緒にいようと話合い、私たち二人の世界が自宅でも入院中でもあるように努めることができた。ラクと言えばラクだった。
 一方、病気知らずだった知人は突然の病に倒れ、術後一時はかなりよくなったかに思えたものの(恐らく医療ミスから)寝たきりとなっている。ずっと意志表示のないままに、今年になってから点滴の針も通らなくなってしまって、延命の手術。奥さんはご主人と一語も話合えることなしに、絶望もできず希望も頼りにならないまま、まったく先が読めない看護を1年半近くお一人でけなげに続けておられる。ご本人は、生命維持を至上とする近代医療に一日一日を生かされているのだ。お二人の気持ちになってみるまでもなく、ほんとに切ないほど辛い。
 私たちの方がうまくコトが運んだだけ奥さんには申し訳ない気がしているが、ここは率直な対話しかあるまいと考え、病室を離れた廊下の長椅子に腰掛けて奥さんに切々と率直に私の経験を、カミさんの最期をお伝えした。ご主人に代わって覚悟するときがきたら、その時の覚悟と判断が最善のこととご自身を信じて決断するように。そこには後悔の余地なんかないハズだから、そのことも信じて、と。
 余計なことには違いないが、それが私にできるせめてものことだった。控えめに頷かれた奥さんは、私の伝えたい言外の意味をも汲み取ってくださったに違いない。

 生きることと死んでいくこと。どちらも容易ではない。生死のはざまにいるご本人にとっても看護するご家族にとっても、安心とは? 人生のしあわせとは?
 途方もなく難解な課題ではあり、私よりもさらに深くより真剣に生死と闘っておられる方々には申し開きのできない私の言い分ではあるが、近代医学と医療技術が格段の進歩をとげ人命をより長らえさせることが可能になった今日、生命と死に対する新しい社会倫理が確立されるのを当てなく望むばかりである。それなくして、生かされている方も、生かそうとする方も、ラクにさせたいと望む方も、生きて元気になって欲しいと願う方も、みんな救われないではないか。
 私たちの身のまわりに在る“近代社会の不幸”に眼をつぶって過ぎるわけにはいかない今日となっているのだ。(塚本洋三記)

BPA
BPA
2012 Feb. BPAフォトグラファーズ ティータイム中野宗夫さん
 私が片時も離せなくなった眼鏡だが、いつの頃からか眼鏡店は、近くの日本橋はパリミキの本店に。そこでいつもお世話になっているのが眼鏡士の中野幹裕さんである。
 中野さんのお仕事振りは、こと眼鏡に関しては右の写真でお察しいただける通り。微妙なズレが生じた私の眼鏡を調整してくれているスナップで、この気合いの入れよう。気難しい私の眼鏡癖を承知していて、抜群のウデを発揮してくれる。パリミキ本店スタッフの中で、中野さんを私の専属と勝手に決める我がままを通している。
 中野さんは、ことカメラには極く縁の薄い方。そうと知ったのは、眼鏡調整を待つ間の雑談でのことだった。
 「ところが親父は私と違ってカメラ大好きでね。兄ともども息子はそろってまったくダメなんですが・・・。キャノンの35mm一眼かなんか使ってましたよ。親父は登山しては山の写真を撮ってきて、風呂場で現像液なんかもおいてよくやってましたよ。」
 風呂場を暗室代わりにして現像からご自分でやられたとは、半端ではない。よほど写真がお好きだったに違いない。
雲に見え隠れの頂きをめざして
撮影 ◆ 中野宗夫
1960年8月

 なるほど数冊のアルバムのほとんどが山岳写真で埋められていた。胸が鳴ったのは写真が魅力的なばかりではない。バード・フォト・アーカイブスの写真コレクションの中で、山が主題のものはなぜか登録されていなかったからである。野鳥・自然・それらをめぐる人が主な収集の対象になるとはいえ、自然を代表する山の写真がないのがいささか残念に思っていた私。中野宗夫さんの思いもかけない山岳写真が鏑矢となること間違いないと喜んだものだ。

 もしやの下心、実はと私はバード・フォト・アーカイブスに山の写真をご提供いただけないか話を持ち出してみた。
 「よろしいですよ。家で眠っているよりも少しでもお役に立つなら、親父も喜ぶでしょうから。今度アルバムを持ってきておきましょう。」
 願ってもない展開となった。ご厳父中野宗夫さんの写真との出会いは、眼鏡がご縁なのである。2008年10月のことだった。
白馬岳の大雪渓 撮影 ◆ 中野宗夫 1958年8月

 写真家白川義員の山岳写真には、私の知る限り人のかけらも登場しない。宇宙・自然の白川哲学が背後にあってのこと。自然の中でいかにも小なる人の存在を認めないかのような、宇宙を感じながら自然の壮大さをフィルムに創造せんとするあまり、人抜きの徹底ぶりには恐れ入るほかはない。かつて私は自然を撮るのに邪魔な存在だと人を画面から避けて撮っていたのであるが、それは単に人を邪魔者扱いにしただけのこと。バード・フォト・アーカイブスを始めてからは、深遠な哲学とはほど遠いが、人や人間の生活が写し込まれていたり、どこかにそんな“匂い”のする写真をも魅力を感じている。
 中野宗夫さんは、どんな思いでシャッターを切っていたのであろう・・・

 野鳥のドアップ写真と同じようなことが、山岳写真にもいえるのではないだろうか。50年前に撮られた槍ヶ岳や、背景が写し込まれていない50年昔のツバメの写真は、平成の今日撮っても写っているそのものは見た目に変わらない槍ヶ岳やツバメである。見る人が見れば、この槍は1960年代の槍ヶ岳だと判別できるものなのか・・・。そういう人にお話を伺いたいものだが、それはとにかく、写されているものから時代性、地方色、歴史性、“味のある写真”などの雰囲気の感じられる写真こそ、バード・フォト・アーカイブスが特に目をつけたい写真なのである。
 そんな視点で中野宗夫アルバムから選んで紹介したい代表が、次ぎの2点である。

終点しましま駅
撮影 中野宗夫
1960年8月

白馬岳八方尾根望遠
撮影 ◆ 中野宗夫
1965年1月

 アルバムがあるならネガもお宅のどこかに存在しているかも知れない。ネガからスキャニングしてコンピューターにとりこんだ画像の方が、プリントからのものより画質の良い場合がはるかに多い。厚かましく中野幹裕さんにお訊きしたところ、控え目な笑顔でご承知くださり、さっそくネガを捜し出してくださった。
 拝見すると、カメラ好きの親父さんは山ばかりでなく、旅先や普段からもいろいろの被写体にレンズを向けておられたことがわかった。中野さんのご了承を得て、個人的な写真以外の私が興味を惹かれる写真をも、素晴らしいことに総てバード・フォト・アーカイブスに登録させていただけたのである!

深大寺にて
撮影 ◆ 中野宗夫
1958年8月20日
東京都調布市
八丈富士と定期便
撮影 ◆ 中野宗夫
1966年10月
東京都八丈島
山間の宿
撮影 ◆ 中野宗夫
撮影データ不詳

2012 Feb. 石一つ

 小石が一つ、私の机のパソコンモニターの下に置いてある。パソコンに向かえば必ず視野にはいる。手の平に載るほどの一見なんの変哲もない石。その石が、千島列島の最も北端、かつ最も東端に位置するシュムス島(占守島)へと私の想いを誘う。

 1934年とその翌年の2度にわたって日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史が撮影に訪れた島が、北千島の主な3島のうち最大のパラムシル島。下村の名著といわれる『北の鳥南の鳥――観察と紀行』(三省堂 1936年)に、同島での繁殖期の野鳥や自然の魅力が写真とともに余すところなく綴られている。一読して、生涯に一度は訪れてみたい私の憬れの島となったのだ。そのパラムシル島の北に位置するのが、今回主役のシュムス島である。
 私の机の小石は、そのシュムス島で拾われてきたのだ。

 北方四島さえもが返還されていないのだが、北千島を訪れてみたい夢を私は諦めたことがない。下村兼史が上陸してから四半世紀以上もたつ今、最果ての北千島の自然が、下村が見たままに変わらずに私を迎えてくれるのであろうか? そうあって欲しい・・・ 
 まさか私より先に北千島へ上陸する人が目の前に現れようとは、それこそ夢にも思わなかった。とあるバードウオッチャーの集いで、「私、シュムス島へ上陸するのよ」と遠慮がちに告げられたのだ。「まっさか〜」とオウム返しして相手の方の顔をマジのぞき込んだ。その人、百瀬淳子さん。昨年『アビ鳥を知ってますか――人と鳥の文化動物学』(福村出版)を出版された。百瀬さんも下村ファン。私と同じに北千島憧れ症候群。
 千島列島クルーズのツアーに参加され、シュムス島へも立ち寄るという。そんなツアーがあったのだ。どうやら本当の話に違いないと覚悟したときの私の羨望は、なんとも表現しようがないものだった。「なんでもいいから、せめて写真撮ってきて見せてくださいよ!」

 ツアーには各国から110人ほどが参加し7月5日小樽をでて往復12日間。海域は濃霧で視界がさえぎられる日が多く、島の姿を見ることが少なかったそうだ。それは想定されることとて問題外。私には千島列島沿いを航海しているというだけでも十分に羨ましく思えたものだ。
 シュムス島へは7月12日(2011年)に上陸。その時の状況をしつこくお聞きしたが、百瀬さんの数行のメモがなにより切実に現場の状況を物語っていた。お許しを得てここに――
 “濃霧で沖からはシュムス島の姿は見えず。船を午前8時半出発、10分ほどでシュムス島着、総勢5人、海岸を歩き、それから陸のほうに入った。古びた廃屋のサウナ小屋あり。川がある。これがシュムスとの感慨が湧く。虫はいない、しかし鳥もいない。4人の足が速いので、追いつくのにたいへん。11時半帰途につく。”
 「これしか書くことがないほど、何もなかったのですよ」と百瀬さん。とんでもない。何にもないどころか、見せていただいた写真は、どれも茫漠たる北の島の景観そのもの。胸にキューーンとくる景色ばかりだった。冷たい風に揺れる海岸草原。ゆるりと蛇行する川。その先は霧にかすんで距離感を失うばかり。流木や昆布が打ち上げられた小石の海岸。ゾディアック(ゴムボート)で上陸した岸からそれほど遠くない海上は、一面の霧の中。
 写真を見る限り、少なくとも上陸地点周辺は開発とはほど遠く、廃屋以外に人の気配もないのに私は安堵感を覚えた。人っ子一人いない海岸には、確かに誰がみても興味を惹く人工的なものは何もなさそうにみえる。それこそ訪ねていった甲斐があるというもの。そういう景観に魅力を感じない御仁は、北国の島には行くべきではない。残りの100人ほどのツアー客は、高い金を払って何故シュムス島に上陸しなかったのか、私には理解できないのだった。いや、100人もがゾロゾロして時ならぬ騒ぎとならないだけ、百瀬さんは好運だったし、私もお気の毒なツアー客に感謝したい気持ちだった。
 「虫はいない、しかし鳥もいない」との百瀬さんの表現は、微笑みを誘うほどに簡潔にして図星かと思う。盛夏を過ぎた7月のシュムス島は、私が想像するに、恐らく肌寒い寂たる空間に孤独と静寂とが支配し、鳥どころではない。なるほど、百瀬さんの鳥リストには、オオヒバリ、シマセンニュウ、ハクセキレイの3種のみ。この時期のバードウオッチングではやむを得まいと私はあまり気にならなかった。
 限られた時間とはいえ、鳥よりもなによりも、百瀬さんはシュムス島の土を踏まれたのだ。それが最高である。東京にいる私には逆立ちしてもかなわない実に羨ましいことだった。そんな私に、百瀬さんはシュムス島の海岸で小石を一つ拾ってお土産に持ち帰ってくれたのだ。これにはまったく意表をつかれた私。「え、え〜っ」と言ったきり、嬉しさのあまり言葉がなかった。

 仕事の手を休め、私はときに小石と北千島を語る。小石は、いつか私がシュムス島やパラムシル島に下村兼史の足跡を辿ることができる日まで、私の背中を押し続けてくれるに違いない。

追記:「ボクもずっと前にパラムシル島に上陸したことあるよ」そんな大事件を淡々と口にしてくれたケシカラン輩が確かにいたなぁ・・・。いつも野鳥やバード・フォト・アーカイブス関連でお世話になっている野鳥研究家の松田道生さんである。松田さんのパラムシル島上陸 (2001年6月26日)の事実が羨ましいばっかりに、内心認めたくないような、私の中で忘れ去りたかった記憶が、百瀬さんの一件から甦ってきたのだった。その時の紀行文は松田さんのサイトでどうぞ:『千島・カムチャッカ紀行―近くて遠い鳥の楽園―http://homepage2.nifty.com/t-michikusa/kuril.htm

BPA

20Ja12 n.BPA フォトグラファズ ティータイム高野伸二さん

 一番手のご登場は“バード・フォト・アーカイブス”なんて耳にもしたことのないお方である。「モノクロ写真を遺していこうなんて、洋ちゃんらしいことを始めたなぁ」と眼鏡の奥で笑いながら天国から声援を送ってくれているに違いない、高野伸二さん(1926−1984)。
 その高野さんが生涯で撮った総てのモノクロのネガと多くのプリントが、高野ツヤ子夫人のご厚意でBPAの貴重なコレクションの一部となっている。BPA自慢の一つである。
 私が中学生だったころから30年以上もの長いお付き合いであったから、高野さんは私の成長を弟分として見ていてくれた。私は高野さんにくっついて特にシギ・チドリ、ワシ・タカ、ガン・カモ類の識別を学び、鳥に限らず兄貴分の“人間高野”の影響をも多く受けて青春時代を過ごせた。感謝の気持ちに途切れることがない。
 高野さんの写真については好き勝手が言えた。どんなカメラであれ、カメラを持って写真を撮っていたという点では、私の方が先輩だったのである。

カミさんから
BPAフォトグラファーへ

 2006年から連載の「カミさんのティータイム」が2011年末で終了しました。私のコラムより明らかに“隠れファン”の反応がよく、私は内心ひがむことが多かったのです。ともあれ、カミさんも楽しませていただきました。この場をかりて「心からありがとう!」を皆さんに伝えてほしいと申しております。
 引き継いで新年から登場のティータイムII。 題して、「BPAフォトグラファーズ ティータイム」。
 ご想像のとおり、バード・フォト・アーカイブス(BPA) に写真をご提供くださったり、なにかとお世話になった方々の中から、私が今回はこの人と勝手に選ばせていただきます。そして、その方とBPAとの出会い、これまで発表しきれていない写真のご紹介、エピソードなどを気軽に書かせていただこうというページです。
 ほとんど一方通行のコミュニケーションではあれ、このページにご登場いただく方を通じてバード・フォト・アーカイブスの活動・考え方や時代時代のカメラ・生態写真・バードウオッチング事情などをお楽しみいただければ望外です。
 カミさんに代わって毎回元気よくいきたいと思います。(塚本洋三記)

 高野さんが初めてアサヒフレックスカメラに135mmの望遠レンズをつけて意気揚々と千葉県新浜の堤防に現れたのを、はっきり覚えている。1950年代半ば、探鳥会でも双眼鏡を持っていない人をみかけた頃。カメラはまだ貴重品で下げている人は稀であった。ましてや望遠レンズなんて「鳥を撮るのに要るものらしい」くらいの私の認識。後年の野鳥写真ブームで400mm や700mmとかのバズーカ砲のような超望遠レンズにくらべれば、はな垂れ小僧のような高野さんの135mmでも、スゴイものを眺めるようで羨ましかった。
 その135mm付きアサヒフレックスで撮られた手札サイズの写真が私のアルバムにある。新浜ではめったに見られなかったミサゴが、しかも飛翔中の写真。まずはじっと止まっている鳥が撮れればと願うのがその頃で、飛んでいる鳥を撮ろうものなら、結果はとにかく「お おっ!」ということになる。稀なチャンスをモノした高野さんは大得意。望遠レンズを持てない鳥仲間は、「よくぞ撮れたものだ、ミサゴってわかるじゃない。」と感心しきり。日本野鳥の会の『野鳥』誌 (通巻第182号 79頁) を飾ったのである。

アサヒフレックスを下げる高野伸二さん
撮影 塚本洋三
1955年11月20日
千葉県新浜

ミサゴ
撮影 ◆ 高野伸二
1955年10月12日
千葉県新浜

 後になって高野さんご自身、「なんだよ、こんなケチな写真・・・。ピントはアマイし、小さなミサゴ。あ〜イヤだイヤだぁ。載せなきゃよかったぁ。」その時の高野節が今でも耳に残る。野鳥生態写真史に一時代を築いた高野さんの生態写真歴にも、このような駆け出しのころがあったのである。

 高野さんはいつの間にかめきめき写真の腕をあげていった。カメラのオバケのような重くて大きなオートグラフレックスを確か鳥学者の蝋山朋雄さんから譲ってもらったあたり、1957年頃からのことだと思う。愛称“グラ”の固い革製の四角なカメラケースは椅子の代わりになったそうだ。夜行列車で席がとれなかった時、ツヤ子夫人が腰掛けて夜を過ごしたと聞いた。そんなスゴイしろもの、時代ものを、高野さんはすこぶる愛用していた。バシャッという独特のシャッター音がお気に入りでもあった。

グラフレックスを構える高野伸二さん
撮影 ◆塚本洋三
1957年夏
千葉県新浜
 日本の野鳥生態写真の先駆者、かの下村兼史 (1903−1967) が1920〜30年代に使っていたそのグラフレックスであるが、私が現役で使っている人をみたのは、高野さんが最初で最後である。コンゴー300mmの望遠レンズがついたその“グラ”で、6×6判に、少しでもアップで、よりピント良く、をめざした高野さん。高野流生態写真が開眼していった。
 想像を絶するのは、機械のように重いグラフレックスと、後に手に入れた同じく重い500mm望遠レンズつきのアサヒペンタックスの両方をかついで撮っていた頃があったことである。マイカーのない時代。重い三脚も含めて機材一式、どれほどの重量だったのだろう。

 年来撮りだめた写真は『野の鳥の四季 高野伸二写真集』(1974年12月 小学館)となって上梓された。高野さんは、アメリカに留学中の私にサイン入りでその本を送ってくださり、代わって私は翌1975年1月19日付けで12枚もの遠慮のない感想文を送り返したのであった。そのコピーが、久々に手にした写真集の中から出てきた。大学出たてでナマ意気なことを言っているのが可笑しいので拾ってみる。
 「釈迦に説法の愚を犯すなら、戦争報道写真で勇名をはせたロバート・キャパは、よい戦場写真が撮りたければもう一歩対象に肉迫することだ、というようなことを確か述懐したハズですが、高野さんの場合は、アップの鳥を撮ったら、もう一歩二歩退いてもう一度狙え、とお薦めしたいです。対象の鳥から一歩一歩退くのは、少しでも近づいて撮ろうと鳥と駆け引きしながらにじり寄りたい高野さんのお気持ちに反することで、多分実際にもかなり難しいことです。ファインダーに見える鳥は小さくなっていく、邪魔な枝や草やらが画面に入ってきて、背景もうるさくなる、アップならさほど気にしない構図が格段に決めにくくなる・・・ しかし、これらを克服した時、高野さんの写真にまた別の世界が開けるような気がします。」

トキワサンザシの実をくわえたツグミ
撮影 高野伸二
2月
東京都日野

 35年以上も昔に書いた手紙とはいえ、なんとムリな注文をつけたことか。写真集を開いて最初にドカッと目にはいる「トキワサンザシの実をくわえたツグミ」。見開き一杯である。どうも、この写真をドアップの代表として、それが私の想定した高野さんらしい写真ではないのでやり玉にあげたコメントに違いない。なにもそんなに大きく撮ることもあるまい・・・ 6×6判で左右トリミングなしがご覧の写真であるから、原板でのツグミがいかに大きいかがお分かりでしょう。(上下は、写真集に載っているのよりも、微妙な違いですが私の気の済むトリミングにしてしまっています。)画面一杯のツグミはそれはそれで見応えがありスゴイのですが、長いレンズを持てば誰にでも撮れそうな写真にも思えるのです。それより、主役の棲む周辺環境をも写し込んだ私好みの生態写真を高野さんに勝手に期待した私のアメリカからの言い草ではあった。
 私の願いは届かず高野さんの“別の世界”は開かれず終いであった。

 高野さんの時代は、撮影機材、フィールド事情、撮影状況など、どれをとっても生態写真を撮るのが近年とくらべて格段に難しかった。いきおい、“少しでもアップ”で“よりピントのよい”鳥の写真を撮ることを、生態写真としてまず目指したところであった。その思いが作品に滲み出た写真が、この写真集でも随所でみられる。そんな高野スタイルの写真が、どれほど多くの生態写真家の卵に夢と目標を示し与え、いかに多くの野鳥ファンを魅了させたことか。

 高野さんには“遊び心”がついてまわる。お人柄であり、余裕である。アマチュア精神にあふれた、自然と野鳥を知るプロの野鳥生態写真家(多面的な高野さんの才能の一面にしか過ぎないが)である。
 思い出されるのは、高野さんはフィールドで鳥と語りつつ、ご自身楽しんで写真を撮っていたことである。相手も安心するのか、高野さんの写真には羽毛をふっくらとさせ可愛らしさを表現した鳥の写真が多く見られる。「あの枝に止まるよ」とか言いながらじっと待つ高野さんの気持ちを察したかのように、ちゃんとあの枝に小鳥が来て止まってくれる。そんな時シャッターを切る、得意げで満足そうな高野さんをみると、まさかと思っていた私まで嬉しくなるのだった。
 写真集のno.145「枯れ草にとまる迷鳥のサバクヒタキ」は、そんな風に撮られたのではあるまいかと想像している。サバクビタキの優しい雰囲気といい、全体の色調や構図といい、同じアップでも一味違う私のお気に入りの1枚である。

枯れ草にとまる迷鳥のサバクヒタキ
撮影 ◆ 高野伸二
2月
東京都板橋

 そのカラー写真をここにご紹介しようとしたら、なんとエクタクロームのカラーポジが退色していて、私のウデでは高野さんがうなづいてくれるレベルまでにはいかんとも復元できない。途方にくれた。「そうだっ!」一案が閃いた。私の気の向くままBPA流にカラーをモノクロ変換してみたのだ。「どうです、高野さん、“モノクロ”写真も結構カラーに負けずに“味”があるでしょ?!」 この1枚、今の私のPC術では最高のデキと自画自賛している。写真集がお手元にある方は、カラー版と見比べてみてみるのも一興かとお薦めしたいくらいである。

 そういえば『野の鳥の四季』が総てカラーである点が、モノクロファンとしての私の贅沢な“文句”ではある。同じ思いの向きには、高野さんのモノクロネガの総てがBPAに保存されている点をお見逃しなく(実は、保存活用してくださる方を探している、カラーポジの総て7,235枚も現在BPAが管理している)。なにかの機会をみてはご紹介させていただきたい。高野さんの初期からの写真を知る資料としても、BPAの高野コレクションは身の引き締まるほど貴重であると考えている。
 それにしては、高野さんの写真はまだほんの一部しかBPAのデータベースに登録されていないのが現状。頑張って膨大なモノクロネガをスキャニングし続けねばなるまい。野鳥生態写真のジャンルでその礎を築いた先達の作品をBPAの仕事としてばっちり後世に遺し伝えていく心意気に変わりはない。
 「高野さん、見守っていてくださいよ〜。」

BPA
BPA

2012 Jan. 堀内讃位の写真資料“追っかけ”クロニクル(2)

2011年12月14日
 これ以上はあり得ないことが確実となったこの日。堀内智實さんご自身が件の大著に載った写真のネガとプリントの総てを山階にご持参、無償でご寄贈くださった。有難いご決断。山階を代表して島津理事長との間で覚書が交わされたのである。いや〜、日本の伝統狩猟の歴史がモノクロ写真の形でしっかりと将来に受け継がれるこの時に私も立ち会わさせていただけたとは! かくしていろいろとご縁のある展開が一つにまとまって、堀内讃位写真資料の整理、保存、活用の責任は山階が担うことになった。
 歓談中に理事長は意外なことを指摘された。「ボクの親爺がこの本の写真に出ていまして、ね。」 狩猟官を兼務されておられたご厳父のお姿が、『写真記録 日本伝統狩猟法』で拝見できようとは思ってもみなかった。
 秋口から2011年末への急転直下の展開は、ちょっとした鶴見さんの発言がきっかけで、それを受けてフットワーク軽く動いた今井さんのまったくのお陰であった。“ちょっとしたきっかけ”を見逃さずに追っかけること、これぞ追っかけ根性と私自身に言い聞かせたのであった。
 野鳥関連の写真資料で重要なことの一つが、これにて一件落着。これまでの諸々の私なりの追っかけの経緯を思い起こすと、夢のようです。長い年月追っかけにご協力くださった皆さま、ほんとうに有難うございました。

 さっそく前回 (2011 Dec.) の続きです。堀内讃位(ほりうち さんみ、1903−1948)の写真資料の存在を探る当てのない旅がどうなっていくのか・・・。
 堀内讃位の『写真記録 日本伝統狩猟法』(株式会社出版科学総合研究所 1984)という知る人ぞ知る大著に掲載されているモノクロ写真は、堀内自身ライカを駆使して撮ったもの。そのネガやプリントは、果たしてどこかに現存しているものなのであろうか? このお宝級の写真文化遺産の行方を、バード・フォト・アーカイブスとしては何としても確かめておきたい。
 一昨年以来、わずかの手がかりが得られてはお宝発見への希望が見え隠れしてきたが、昨年秋口になってちょっとした情報から思ってもみなかった展開があった。今回はそこに至るまでの追っかけ記録の後半である。

2011年8月10日
 新しい情報がなんら得られないままに1年近くが経っていた。山階鳥類研究所での昼食事の雑談で、私はボヤキ半分、いつも頭の片隅から離れない堀内讃位の写真資料の一件を話題に持ちだしてみた。自然誌研究室長の鶴見みや古さんが反応した。
 「堀内讃位の写真を保管できるかどうか以前に山階(鳥類研究所)にも確か打診があったんですよ。」
 「えっ? なにそれ〜!」
 1995年に保管先を複数当たっていたらしいのである。ということは、1984年出版当時には整理されていたハズのネガやプリントが、どこかに存在しているに違いないことになる。私は少なからず動揺し鶴見さんにコトの顛末を迫った。記憶をたどっての情報ほどもどかしいものはないが、すばらしいことに鶴見さんの個人的な業務ノートにきちんとメモが残されていた。山階では、どう保管する用意があるか文書で答えて欲しいという先方の要求に写真管理の検討を進めたが、ややして件の本の監修をされた松山資郎さんから、「山階ではなくなった。お手数をかけて済みません」との連絡が入って、それきりとなった・・・。
 こんなすれ違いの大事が山階で起きていたとは。私が悔やんでも仕方のないほど10年一昔以上のことではある。しかし、しかしである。どこだか特定できないが、どこかの恐らくしかるべき団体が堀内讃位の写真資料を多分そっくり保管しているのではないだろうか?! 鶴見メモからは、そう推定するのが妥当であった。
 私はそれまでの追っかけに急に気抜けしたものを感じたのと同時に、あの重要な写真資料が無事にどこかに保管されていることに限りない安堵と喜びを覚えたのである。
 このビッグニュースを私はそれまで「さんみや」を中心に追っかけに加わって支援してくださった平岡さん、岡村さん、松田さんにさっそくご注進に及んだのは言うまでもない。
 松山さんに選ばれた意中の管理者はどこの誰なのか、わずかに残された問題はいずれ解決されることだろう。かくして私は、堀内讃位の追っかけに終止符が打たれたと思ったものだ。

2011年10月12日
 堀内讃位の追っかけが私の中では過去のものとなって、心穏やかに下村兼史写真資料の関連作業を続けていたこの日、山階鳥研に二人の来訪者があった。現代社会に埋もれてしまいそうな人と野鳥との関わり合いを映像に記録する2年プロジェクトのチーム代表今井友樹さんと、澤幡正範さん。共同研究者としてチームに加わっている山階の佐藤文男さんが、プロジェクトではモノクロ写真が絡むので私も興味があろうかとお二人を紹介してくださった。
 用向きは、なんと件の『写真記録 日本伝統狩猟法』に載っている写真をプロジェクトで活用したいので堀内讃位のご遺族にコンタクトできないものか、という私にはビックリな話。これまでの私の追っかけ経験をお話し、手がかりはわからないが、今現在資料を管理していると思われる団体なりを探りあてるのが早道かもしれないと結んだ。
 同席の鶴見さんからは、「松戸市の博物館でも確か伝統狩猟の展示をおこなったことがあり、そこの学芸員さんがなにかご存知かもしれない。」と頼りにしたいようで内容がはっきり見えないアドバイス。それでも今井さんさんは淡々と、「松戸市立博なら知り合いがいるので聞いてみます。」後に振り返れば、このやりとりが総てだった。
 情報交換はなんとも頼りないものではあったが、プロジェクトチームの追っかけボートに私も乗せていただければとお願いすることは忘れなかった。思いもかけずに追っかけ再開となってしまった。

2011年10月20日
 電話が鳴った。思ってもみなかった情報を今井さんから報告していただけた。松戸市立博で得られた情報とは、展示した写真はご子息の堀内智實という方からネガをプリントしたものを提供してもらったこと。ネガはご遺族がそれぞれもっていて、その一部を智實さんが保管されていること。智實さんとは勤務先の某出版社を通して連絡したこと。頼りなさそうに思えた鶴見発言から一転して期待のもてる展開に、私は驚きを隠せなかった。ただ、ネガがご遺族の間で分割保持されているのは、なんとも先行き不安を感じさせられた。なんとあろうとそこまで心配している場合ではあるまい。
 さっそく今井さんは出版社に問い合わせたら、智實さんは退職されていた・・・。ここまできて、なんたることだっ。でも、落胆を拾ってくれる神さまがいた。ご親切な出版社の方が智實さんに電話をつないでくれるという。それを頼りに今は智實さんからの連絡待ちだけど、もしもお会いできるとなったら私も同席してもらえるかとの、一気に明るい見通しとなってその日の電話は終わった。

2011年10月21日
 ついにその時がきた。今井さんが電話で堀内智實さんと直にお話されたという。一番肝心のネガは、一式まとめて智實さんが所有されているとのこと。「やったぁ!」目眩がしそうだった。待ちに待った貴重な情報だった。ここまでくれば、もう大丈夫・・・ いや、追っかけのスタートからこの数日の一喜一憂を思えば、まだまだ何が起きるか・・・

2011年11月9日
 「さんみや」縁の地、巣鴨の駅近くの喫茶店で堀内智實さんは待っていてくださった。長い間探していた方と相対して、私は年甲斐もなくいささか興奮していた。失礼のないように緊張もしていた。穏やかな口調で話される堀内さんにホッとした気持ちで、積年の想いが私の口をついて出た。
 『写真記録 日本伝統狩猟法』に載っているネガと出版用に吉田武士さんが焼付けられたキャビネサイズのプリントは、総て金庫に大切に保管されているとのこと!
 ネガにお酢のような臭いはしないので、一番心配されたその手のネガの劣化は進行していないようだ!
 一番気になっていたことが確かめられて、言い知れぬ安堵感とともにバード・フォト・アーカイブスの追っかけは一気にゴールへ駆け込んだ。いろいろの方にお世話になったものの、最後は今井さんのお陰に他ならなかった。
 今井さんご希望の堀内讃位資料のプロジェクトでの活用を快諾してくださったばかりではない。堀内さんは堀内讃位写真資料一式の保管依頼先を考え始めておられたところで山階鳥類研究所が候補だという願ってもないお話が伺えた。そういうことであれば、山階の客員研究員の立ち場でできればのお願いをその場でしたのであった。正直を言えば、私は内心ひょっとしてそういうことになればよいがと、お目にかかれるとわかった数日間、誠にムシの良い夢を抱いていたのだった。その夢でしかなかったことが、実現に近づいてきそうとは!

2011年11月16日
 山階鳥研が資料一式の寄贈先として相応しいかどうか現場をご覧になりご判断していただくことで、堀内讃位さんが来所された。下村兼史写真資料の保存状況などもご説明し、次回のご訪問には金庫にある現物をお持ちいただける運びとなった!のである。

堀内讃位のネガ/プリントを前に歓談する(左から)堀内智實さん、鶴見室長、島津理事長
Photo : Y. Tsukamoto
BPA
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