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2011 Dec. カミさんのティータイム
Photo : Y. Tsukamoto

2011 Dec. 堀内讃位の写真資料“追っかけ”クロニクル(1)

 『写真記録 日本伝統狩猟法』(株式会社出版科学総合研究所 1984)という知る人ぞ知る大著がある。宮内省保存の猟と民間伝承の猟の猟法を、ライカのレンズを通して撮られた写真に語らせている。見応えのある量と資料性に富んだモノクロ写真に唸らされるのは、本を手にした人は皆同じであろう。その昔、私も一目惚れだった。撮った人は堀内讃位(ほりうち さんみ)、1903−1948。
 掲載された写真のネガやプリントは、果たしてどこかに現存しているものなのか? 保存状態は? 誰が保管しているのだろう? 余計なお世話だが、お宝級の文化遺産の行方をバード・フォト・アーカイブスとしては確かめたい。 なんのヒントすらないままに、雲を掴むような追っかけが始まった。まずはご遺族の情報が得られないものか。でも、どこから手をつけたらよいものやら・・・。
 数ある追っかけ対象の生態写真家の中で堀内讃位を選ぶきっかけは、たまたま話題にしてそんな気がしてきたからである。それが、このDay By Day のページ、2010 Sept. 田中徳太郎の次は、堀内讃位に記されている。今回は、ふとしたことが次ぎに繋がる巡り合わせを綴った、堀内讃位写真資料の追っかけの記録である。

2010年3月13日
 追っかけレースのスタートラインにはついたものの、為す術がない。そんな最中、普段からバード・フォト・アーカイブスにはなにかとご配慮いただいている得難い存在の、山階鳥類研究所の平岡考さんからメールが届いた。胸が鳴った。
 “茨城県博で渡り鳥展見ました。カモ猟の展示に堀内讃位の写真が4点ほど使ってあり、よくわかりませんが、どうも印刷物からの利用ではなさそうな感じです。”
 展示された写真がネガから引き伸ばされたものであることを看破した平岡さんの眼識が、ゴールのみえない追っかけのスタートとなった。果たして、渡り鳥展のパンフレットの謝辞の名前の中に“堀内智實”の四文字。ご遺族に違いない?!

2010年6月24日
 再び、平岡さんからのメール。県博の学芸員に問い合わせてくれたが、“堀内智實”の連絡先を訊くと、個人情報の壁に突き当たっていかんともし難い。だが、柏市役所の教育委員会経由でご遺族とコンタクトしたこと、コンタクトした相手は展覧会の謝辞に出ている方との、有力な手がかりとなる2点を聞き出してくれた。さしあたってのターゲット:柏市の教委を探れ!

2010年8月12日
 岡村正章さんからの深夜のメール。2008年に私が作成したDVD『日本でいちばん鳥を聴いた男 蒲谷鶴彦さんがいく』(このホームページの「BPA SHOP」参照)がご縁で知りあい、作曲/効果音制作が本業ながら鳥の世界にもどっぷり。世に隠された情報を嗅ぎだす驚異的な能力を発揮し、下村兼史をはじめ私の追っかけをも支援してくださっている方からだ。
 “「巣鴨の鴨料理屋(1987.02)」というサイトに載っているのは、「たぶん間違いなく息子さん(?)の出したお店だと思われます。どうやらこちらも残念ながら1999年に・・・」”
 堀内讃位が銀座に鴨料理屋「さんみや」を開店したのが、私の生まれたと同じ1939年。柳田国男、山階芳麿、鷹司信輔などそうそうたる顔ぶれが集って日本野鳥の会の五周年に記念座談会が開かれたところ。年経て、巣鴨に同じ鴨料理の「さんみや」が登場。なにやらご縁というか関係がありそうで、これは情報源になるのでは!といっとき期待が高まった。だが、1999年末に閉店していた・・・。

2010年8月12日
 同日、早朝の岡村メール。“長男の堀内正智(まさとも)氏が東京巣鴨のとげ抜き地蔵近くに鴨料理屋・・・、『全集 日本野鳥記1(講談社)』の後書き解説にその記述を発見した”と。
 展覧会の謝辞にある“堀内智實(ともみ)“との関係は? 件の本のあとがきを書かれたのが、二女の堀内位智子(みちこ)さん。残された写真記録を上梓した立役者である。
 詳細がわからないながら、いく人かのご遺族のお名前が浮かんできた。さらなる情報が欲しい・・・

2010年8月26日
 叶わぬ時の神頼みとしてコトあるごとにお世話願っている野鳥研究家、松田道生さんのブロク。その8月26日、“塚本さんの次の指令は「堀内讃位の遺族を探せ」”で終わっているのを読まれて興味をもった平岡さんから、松田さん宛てとcc私宛てのメールが届く。
 余談であるが、平岡さんから6月にアドバイスされ、ターゲットの柏市教育委員会に探りをいれる私の役目は、実は、私のフットワークが重く、この2ヶ月ほど怠っていた。そればかりか、柏市役所なら山階鳥類研究所の往復にいつでも立ち寄れると思っていたが、年寄りの悲しさ、いつの間にか柏市が一つ駅隣りの松戸市との覚え込み違いをしていたとは。松戸市教委で尋ねてみても・・・である。後に追っかけ仲間に私の覚え込み違いのミスを指摘され、まったく面目なかったことを付けくわえておかねばなるまい。
 さて、私に代わって平岡さんが得てくれた柏市教委の聞き込み情報が、メールの核心であった。それは、“いやうち(柏市教委)は、(展覧会で)カモ猟の猟具の実物は貸したが写真のことは知りません”というツレナイもの。さても茨城県博の学芸員が提供してくれた重要と思えた柏市教委情報が宙に浮いてしまった・・・。なにかウラがあるのだろうか?
 ご遺族にとっては写真資料に関しての面倒なアクセスがあって、あるいは不愉快なことがあったりして、それで消息がぼかされているのかとさえ、平岡さんは考えてしまったくらいである。それが平岡さんのまったくの憶測であるとはいえ、ない話でもなさそうに思えてくる。そうなら、ご遺族との接触はさらに難しくなりそうな。近づいてきたかにみえたご遺族の所在が遙かに遠いものになってしまったように感じられ、ひどく落ち込んでしまった。

2010年8月27日
 折り返して松田さんから平岡さん宛てとcc私宛ての返信メール。平岡さんと同じく、堀内讃位の件の本が鷹匠のサイトで話題になっているのを意外に思っていたとのこと。私が驚いたのは、松田さんも岡村さんの見つけた“巣鴨の鴨料理屋(1987.02)”のサイトを見ていたことがわかったこと。そればかりでなく、そのサイトのコミーという会社は、カーブミラーを作っている駒込では知っている人は知っているほどの会社だというのだ。なにか頼りになりそうか?
 「さんみや」のあった巣鴨とは隣街の駒込に松田さんが引っ越してきたのが、1984年。その同じ年に『写真記録 日本伝統狩猟法』が出版されている。話題のサイトは1987年付け。「さんみや」閉店が1999年。
 松田さんが、岡村さんや私のように酒大好き人間であったなら、きっとご近所の「さんみや」へ一杯やりにさっそくかけつけ、ご亭主から父堀内讃位の情報をしこたま手に入れていただろうに。松田さんの下戸を怨みたくもなる気がしたものだ。
 松田さんのもう一つのアイディアは、出版社の総合科学出版研究所の関係者から辿れないかというもの。その出版社は、例の本を出版後に消滅していて、その関係者を探るくらいなら、堀内讃位のご遺族捜しにエネルギーをさいた方がよかろうということになった。
 浮上したいくつかの情報が繋がりそうで繋がっていかない展開に、気分は浮かないまま・・・。

2010年夏ごろ
 恐らく岡村さんと私とでビールで喉を冷やし、アタマも冷やして追っかけの策戦会議をしていたときに出たアイディアだったと思う。内容ははっきり覚えている。松田情報の巣鴨にあるコミーという会社の社長さんは、“今も、(呼び出されて「さんみや」に言ったこともある)その客との縁は続いている”とサイトで綴っている。1987年のこととはいえ、それなら常連客だったらしい社長さんに会って話を聞くか、社長さんの付き合い客を紹介してもらって、ご亭主から酒の肴に聞いたかもしれない堀内ご遺族のことをあるいは聞き出せるかもしれない???
 残念ながら、私にはこんな奇想天外な発想はでてこない。暗いトンネルの先にポッと見えたような気がする明かりだけが頼りのアイディアだが、「気の長〜い話しよ、長生きするぜぃ」と一笑に付すにはもったいないほどのグッドアイディアに思えた。
 真に受けた私はさっそく社長さんの連絡先を当たり、アポがとれるばかりの段取りとなって・・・安心したわけではないが、他事にかまけて実現しないままに時は過ぎた。

2010年9月24日
 私はこの月のバード・フォト・アーカイブスのホームページに追っかけ記事を載せ、松田さんもご自身のブロクに“堀内讃位を探せ”を書いて応援してくれた。どちらの読者からもなんの反応もなし・・・。

2011年8月10日
 山階鳥類研究所での昼食事の雑談で、私は思ってもみなかった情報を得ることになる。どこだか特定できないが、どこかの恐らくしかるべき団体が堀内讃位の写真資料を多分そっくり保管しているのではないだろうか?! そう推定するに値する情報だった。私はそれまでの堀内讃位の追っかけが急に気抜けしたものになったと思ったのと同時に、堀内讃位の写真資料が無事にどこかに保管されていることに限りない喜びと安堵を感じたのである。
 かくして私は、堀内讃位の追っかけに終止符が打たれたと思ったものだ。実は、その後にさらに思ってもみなかったことが山階鳥類研究所を軸に展開したのである。

2011年12月30日夜半
 突然ですが、気がつくまでもなく年の瀬がすぐ目の前。山階での“思ってもみなかった展開”を書き続けると、年が明けてしまう。続きは後半に譲ろうと、たった今賢くも踏ん切りをつけたところである。

 来年もバード・フォト・アーカイブスは踏ん張って進んでいきます。堀内讃位に続く気の遠くなるような追っかけもしぶとくやっていきます。モノクロ写真のご提供も引き続きよろしくお願いいたします。
 なにより、皆さま、どうぞ佳き新春をお迎えくださいますように!(塚本洋三記)

カミさんのティータイムのカミさんから

どうぞ
皆さま
お元気で!

和江
BPA
BPA
2011 Nov. カミさんのティータイム
       今月もお休みをいただきます
Photo : Y. Tsukamoto
2011 Nov.  百瀬淳子さんとのご縁

 百瀬さんとは何十年か昔から(財)日本野鳥の会や講演会でお目にかかっていながら、私にはやや遠い眩しい存在で、親しくお付き合いいただける機会はなく年が過ぎていた。私がミシガン大学へ留学したブランクが一層疎遠となった一因かと思っている。
 ミシガンにいてカナダに遠出した時、私は忘れ得ない経験をした。深閑たる針葉樹林の奥から人気のないキャンプ地に突然聞こえてきた“笑い声”。人の声ではない。魂を洗われるような幽艶なる声音に、感動の身震いを覚えるほど。ハシグロアビの“囀り”だったのだ。これですっかりアビ・ファンになった私である。年季の入った百瀬さんとは比較にならない俄かアビ・ファンではあるが、この経験で百瀬さんとの間に一つ共通の土俵ができたと思っている。
 突然の再会が数ヶ月前に実現した。東京は下町のとあるバードウオッチャーの月例呑み喰い鳥談義の集いで、たまたま席を同じくしたのである。
 日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史(1903-1967)が話題となった。なんと下村の名著『北の鳥南の鳥』にでてくる北千島はパラムシル島のアビが、百瀬さんの“アビ原点”であることを知った。仰天したものである。百瀬さんのアビ羅針盤は常に北千島を指しているとは!
 どこか下村を横取りされたような気さえした。下村は私のモノクロ写真の原点であり、憧れの人なのだ。パラムシル島のアビの写真は、小さいながら忘れることはない。しかし、はるか昔に同じ著書を読み写真をみて感動した百瀬さんと私とが数十年の時を経て嬉しく繋がり、「乾杯〜!」 下村兼史という二つ目の強い共通の土俵ができた。アルコールのメートルが一気に上がったのも、下村とアビと百瀬さんとのご縁であったからに他ならなかった。
 つい2週間ほど前の同じ飲み会で、津田塾大学名誉教授のご主人にご挨拶する機会にめぐまれた。私にとっては、これまた懐かしくも嬉しい邂逅であった。
 お二人とも北欧文化協会の役員をされておられ、百瀬淳子さんは北欧のアビに留まらず、協会の事務全般にも追われててんてこ舞いの多忙の日々。にもかかわらず、この度2冊目のアビ鳥本を出版された。『アビ鳥を知ってますか――人と鳥の文化動物学』福村出版(ISBN978-4-571-51005-2)である。
 アビ類に興味を抱くバードウオッチャーは当然としても、一般の人に広く読まれ、アビ類と人間との深い絆に気づいてアビ類の保護に少しでも理解協力される人が増えることを私も願っている。(塚本洋三記)

 アビ鳥を語る情熱で百瀬淳子さんに勝る人は他にはいないのではないだろうか。
 1966-68年と1988-89年の二度にわたってフィンランドに滞在した時、日本でいうなら大型の海鳥、アビに出会って魅了されたという。以来、アビ類とは離れられない間柄に。北欧はもとより北米やシベリアのアビ類の繁殖地にまで足を運び、果ては北極圏を船旅し、野生のアビ類を楽しみ、伝承を求め歩き、また保護の状況を視察してまわられた。日本では、特に瀬戸内海の伝統の「アビ漁」の調査とその存続に尽力された。
 単なるアビ類ウオッチャーではない。アビ類と民族との生活、文化、信仰、環境などとの関わりを追求してやむことを知らないのだ。百瀬さんの想いは、1995年に上梓された『アビ鳥と人の文化誌――失われた共生』(信山社)に著されている。 
BPA
BPA
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2011 Oct.  甘いものは甘く

2011 Oct. カミさんのティータイム
       今月はお休みをいただきます
Photo : Y. Tsukamoto
 甘いものには人後に落ちない私(辛党でもあるが)。甘〜い話はゴメンという向きには、中を飛ばしても最後の1行だけはお読みいただければと思います。

 「創業百二十年の伝統の味を守り・・・」などと老舗の声を聞く。ところが不思議なもので、伝統の味が現代人の“今風の味”に合わなくなるということが、なきにしも非ず。時代とともに人の味の好みが変わるのは否めない。
 今の世でいえば“甘さ控え目”が顔をきかせてきている。世の要求があるから、控えないと商売にならない。甘さ控え目商品が店頭を占拠することになる。練り菓子、最中、ういろう、きんつば、水ようかん、大福・・・ みんなウス甘な味。甘味から他の食品にまで甘さ控え目が浸透していく。
 ウス甘時代といっても、老舗は老舗の味で通して欲しいのだが、ふと気がついたら、私の大好きなようかんが甘味を控えてしまっていた。絶妙な厚みを感じさせる、ったりとした甘味の極致のような甘さ加減だったが、薄っぺらな味に変っていたのだ。
 某老舗本店ご質問承りに電話してみた。素材を厳選し味は変えていませんとのこと。それでは私の味覚に衰えが生じたのか? 味覚もトシをとるとはアタマでは認める一方で、実は己の甘味感覚にはまだ密かに自信を感じている。件のようかんが贈答品ででも手に入ったら、もう一度甘味度を確かめて勝負してみたい。
 浅草は仲見せ通りの横町にある甘味処の粟ぜんざいは、私のお薦めである。甘いものはかくあるべしみたいな、極上の甘味。食べていて甘さに辟易しそうであるが、食べ終わった後の満足感は他の追従をゆるさない。しばらく足を運んでいないが、店の主人はまさか甘さ控え目などとしゃらっくさいことは言っていまい。甘さ控え目族を仰天させるようなアノ甘さを売りにし続けて欲しいものだ。

 甘いものはやはり甘くなくてはいけない。甘さを控えてはいけないもものまで控えてしまっては、まったくいただけない。いつの間にか、いただけない世の中になってきてはいまいか。
 味はどのみち好みの問題である。百人百味であろう。恋の甘さなら甘いほどよいと万人が一致するであろうが、甘味で真の甘さとはなにか四の五の言っても始まるまい。
 それでもこの世の中、人それぞれが期待するような甘味が楽しめる、味にも巾のある毎日であって欲しい。どれをとっても甘さ控え目では、私たちの生活は知らず知らずのうちに味気ないものになっていくに違いない。
 甘味ひとつに限らず、私たち生身の生きものの五感が悲鳴をあげそうな便利過ぎる“便利さ”、身のまわりから姿を消しつつある自然などを例にあげるまでもなく、次第次第に生活環境の質が劣化するような傾向には心していきたいものだ。(塚本洋三記)

BPA
2011 Sept. カミさんのティータイム

2011 Sept.  台風15号首都直撃の最中に

 非常に強い台風15号が21日午後浜松市付近に上陸した。リアルタイムのテレビ報道をみている内に、15号はあれよあれよと関東に迫ってきた。東京を直撃した最中に、予測し得る危険を回避すべきか無謀に思えても決行するか、新婚夫婦が一つの決断を迫られていた。報道こそされなかったが、あまり例のない記録としてここに書き残しておきたい。

 暴風雨の荒れ狂う中、誰が引越などするものか。する気にもなれない。私が唖然としたのは、翌22日の朝、日ごろから大変お世話になっているOさんからのメールを読んだときだ。午前中から5時間かけてトラック2台に梱包済みの荷物を積み終わったのが、運悪くもヘチマもなく想定通りの15号首都圏直撃どんぴしゃり!のタイミング。
 台風の通過を待つしかないだろうと思えたのであったならそうするのかと思いきや、怖いもの知らずというか果敢な行動というか、なんとそのまま都心から千葉県M市への引越をやってのけたという。理由はどうあれ、その決断!
 台風とともに仲良く?北に向かう。江戸川を越える際などあまりの強風にあわやトラック横転ではと運転手がなんども肝を冷やしながら、引越先に到着。家のすぐ近くの径50cm超の桜の大木がぼっきり折れるほどの暴風雨の中、ずぶ濡れの業者4人が走り回って荷物を運び入れる。ちょっとした「地獄絵図」だったそうだ。ここ一番、プロの仕事のお陰もあって、奇跡的に引っ越しが無事完了!

 無事完了でまったくよかったと言う他はない。メールを読む私の方がよほど度肝を抜かれた。荷物の山を搬出、運送、搬入する引越現場を想像してみただけで、現実離れしている。台風直撃下での引越決行は、危険と紙一重だったに違いない。それを乗り切ったのは衝撃的な事実ながら、無事に終わったとなれば痛快感すら覚えた。各地にあれほどの被害をもたらした台風15号を相手にして一泡ふかせてくれたOさんの決断に、いつのまにか喝采!を送っていた。
 写真もよくするOさんである。もしやと思ったが、さすがに「地獄絵図」は撮っていなかったのが心残りではある。

 台風一過の秋晴れの下、Oさんの新たな人生が共に嵐と闘った新妻のK子さんとスタートした。自ら厄除け?を果たしたのだから、お二人の人生に台風が直撃するような“荒れごと”などあり得まい。いつまでもお幸せに!(塚本洋三記)

我が家にも
ちっぽけな
海がきた

せつない・・・

(塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto
BPA
BPA
2011 Aug. カミさんのティータイムああ 独占生中継 隅田川花火大会
魂こもった 今年は必見
こんもりと重い悲しみが
胸をおおい
どーんとなった火の音で
涙 流れる

大震災のおかげで ひと月のびた花火
打ちあがった

花火見物のやかた船は 歌も踊りもなく
高速道路は車も恒例の侵入禁止
ギャルどもも
いつもより静か
おじさんおばさんは
心おだやかに
ひたれた

花火の音はよーく聞こえたが
花火はTV画面で、、、
なのだ 
隣に高いビルが
建った、、、

ああ
違う次元ながら
悲しい

  (塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto

2011 Aug.  スカイツリーの一番乗りは?

 『ジャックと豆の木』が天に向かってどこまで伸びていったのかは知らないが、東京の下町に建つスカイツリーは天を突いて634mという輝かしい記録を平成に打ち立てた。
 大川の対岸、我が家のベランダからも眺めるにことかかない。わざわざ行ってまでして展望台に上る気がしないのは、東京にいて先輩格の東京タワーにも上ったことのない私の遠慮という愚にもつかない想いからなのか。毎日見えてしまうと、地元意識にも似たある親しみが感じられるから不思議である。
 関係者ならずとも気になるのが天気であろう。スカイツリーが高さを増すにつれて初めてわかったのであるが、雨雲が意外に低く流れていく。「ありゃ〜 今日展望台を訪れたなら、ハズレくじだな。」 そんな日に遠くから訪れてみた方にはひとしおお気の毒だが、天を恨むしかあるまい。展望台一番乗りを目指す人には、入場の予約が運良くとれてもお天気はさらなる運試しとなる。

 一番乗りといえば、残暑お見舞い代わりにメールに添付した夜景のスカイツリーに反応して、旧知の鳥友YOさんから思わぬメールが舞い込んだ。スカイツリーの天辺に一番乗りでとまる鳥はなんだろうかに興味がある、と。スカイツリーの天辺に鳥が? いくら翼があるとはいえ、あんなところに止まろうとする鳥がいるものだろうか。考え及ばなかったので面食らった。いや、人間と同じに鳥にも酔狂なヤツはいるに違いない。こりゃ面白い、気をつけてみるとしよう。
 YOさんの予想では、最有力候補はハシブトガラス、続いてドバト、スズメ、ハヤブサ、チョウゲンボウあたり。隅田川が近くだから、ユリカモメなどのカモメ類やカワウも“一番乗りを狙っている”かも・・・。
 さて。スカイツリーは、高尾山の標高599mよりちょっと高い。麓のケーブルの駅辺りから山頂近くの稜線を飛ぶカラスなら、それと確認できそうだ、というあたりが、スカイツリートップの鳥を見分けるといった感覚なのか。実際ベランダから10倍の双眼鏡でスカイツリーを見てみると、カラスならなんとか識別できそうだ? スズメとなると小さすぎるのでは、と言う前に、私がスズメかドバトだったら、近くのビル伝いに行けるわけじゃなし、単独でそびえるスカイツリーの天辺に、なにもわざわざ〜、である。
 ハヤブサやオオタカならとまりそうだが、天辺よりも途中の階の鉄骨枠にとまりそうだ。獲物のドバトを狙うなら、いくら視界がきくからといって天辺で待ち構えることはあるまい。ハヤブサが巣を構える場所としては最適か。あるいはチョウゲンボウの巣が何カ所もスカイツリーに出現(!)なんて、それこそまさか〜、であろうが?
 いずれにせよ、私の結論は、生活の場としてスカイツリーの天辺に止まる鳥はまずいないのではなかろうか。どんな鳥が一番乗りするか目撃したいというバードウオッチャーがいることを感知した鳥がいて、「ここはいっちょオレが飛んでって止まってみせようかな」という目立ちたがり屋がでてくるのを待つしかあるまい。
 そんな鳥、というか超酔狂な個体が面白がって一番乗りすることを期待したい。ここはYOさんに続いて、恐らくハシブトガラスが本命か。楽しみにスカイツリーウオッチングを続けるとしよう。(塚本洋三記)

BPA
BPA
2011 July カミさんのティータイムMy birthday 
Photo : Y. Tsukamoto

12個のヘアーウイッグ
横にならべて
さあ 今日はどれをかぶろうか
どの人生をいただこうか

こども時代
月ぎめのクラス誕生会は
夏休みだったからね
7,8月はなかったよ
見はなされてたんだね

いつの日からか
誕生日は毎月くると決めていた
1×12のおめでとうbirthday
愛すべき かつらで
人生かえよう

(塚本和江記)

2011 July  千葉大学でのハプニング

 予期せぬ素晴らしい経験ができた。千葉大松戸キャンパスでのこと。そこで、今年4月28日、あるプロジェクト実習が始まっていた。7月17日までの10週間コース。正式名称は、「2011年度 前期 千葉大学大学院 園芸学研究科 緑地環境学コース 環境造園学プロジェクト実習」。そこに私がほんのちょっとだけ係わらせていただいたのであった。

 長年お世話になっている鳥友のSさんから紹介されたということで、プロジェクト担当の三島由樹先生から5月に入って連絡をいただいた。「新しい海辺」プロジェクトの対象地域が、なんと私が中学から大学を卒業するまでバードウオッチングに現を抜かしていた旧江戸川と江戸川放水路とに挟まれた一帯、私のホームグラウンドの中心部だったのである。「新しい海辺はどうあるべきか」に学生がどう“答”をだすのか、すぐにプロジェクトに興味を感じたのは事実であった。
 先生の用件は、7月17日に学生チームが成果を発表する最終講評会があり、講評者の一人になってくれまいかとのこと。腰がひけた。専門外だからと断るには惜しい学生たちの発表内容への魅力が、結局は勝ってしまったのだが。
 ついでに半世紀も前に私が撮った対象地域における干潟環境の今と昔の写真をご覧いただいた時、三島先生はスタジオ作業中の学生にそれを見せて欲しいと誘ってくださった。彼等が生まれる以前の干潟の雰囲気を掴んでもらうにはまたとない資料というわけである。その3日後には急遽編集しなおしたパワーポイントを用意しスタジオに学生たちを訪ねたのであった。

 私がトントン拍子に千葉大に“進んだ”のは、なにより私が三島先生の熱意と“教育手法”とに惚れたからであった。学習というのは、10週間の現場実習とスタジオワークを含めて、正直そこまでやるのかという内容。履修する学生にも覚悟がいると思われるが、そんな学習を準備推進する三島先生を中心とした教授陣も並の心構えではないと感じた。先生ご自身、東京大学大学院環境デザイン研究室の後期博士課程で多忙を極める。千葉大では非常勤のお立場である。
 「そうまで打ち込まれるモティべーションはなんなのですか?」不躾にお訊きした。
 「自由にやってよろしいといわれたので、それなら徹底的にボクがやりたいようにやってしまえ、と思いましてね。学生にとって創造力への刺激と経験になれば、と。千葉大の内部教授陣のサポートやティーチングアシスタントもいますから。」
 「ペイしないでしょ? そんなにまで莫大な時間とエネルギーを使って・・・」愚問だった。
 三島先生の意図されるプロジェクト学習は、私には、昔ミシガン大学でちょっと聞きかじって日本で実践されたらすばらしいのになぁと羨望の念を禁じ得なかった “教育手法”のように受け取れたのだ。

 実習の概要、構成などと、葛藤する学生たちの各週ごとの生々しいプロジェクト経過報告、7月17日の最終講評会の活況、豊富な画像とともにその詳細が魅力的に紹介されているブログ:
 http://www.yoshikimishima.com/CUblog/ 
 これが日本の千葉大で今年前期に起きたことの全記録である。ちょっとご覧になっていただきたい。

 ブログを覗いていただければ、以下の感想は蛇足である。
 参加学生自身の、チームの、チームとチームとの、そして教授・外部講師陣との10週間のスタジオ内外での切磋琢磨は、ちょっと覗き見しただけのよそ者の私でも感動ものであった。
 学生は、夜も昼もこの学習にハンパでない努力をつぎ込んだことは疑う余地がない。前期にこれ一つだけ履修すればよいというわけではないというのに。
 キツかった。ドロップアウトしようかと思った。と、最終講評会終了後のエネルギー(鬱憤?!)を爆発させた打ち上げパーティで、学生の口からそう聞いた。
 勉強が嫌いで何度もやめようかと思ったという女子学生もついてきた。自ら「我が強くて」という環境造園学専攻のその学生は、チームワークを通じて人の話が聞けるようになったと話してくれた。コミュニケーションの大切さ、表現手法を体得したのだ。
 5チームの32名に脱落者は出なかった。10週間を通して通常の講義からでは得られない、学生たちの成長にとって大切な“なにか”が併せて培われたことは想像に難くない。それがたった2単位なのだ。担当の三島先生同様、学生たちにとってもこれまた「割りがあわないね!」とつい私は言ってしまった。

 こんな活気溢れる実習があちこちの大学で実現されたら、日本の将来がもっともっと期待できるものになるに違いない。それが私の実感と、夢だった。(塚本洋三記)

BPA
BPA
2011 June カミさんのティータイムサンダルはいて

2011 June  グラフレックス 2号機 現る

 2011 FEB. の“The Photo 今月の1枚”をご覧いただけたでしょうか。シャッター幕のないカメラ、グラフレックスでの撮影にひとまずの結果を得て、自己満足した私。
 ところでこのフォーカルプレーン シャッターというか、無いシャッター幕を取り付ける修理がきくものなのだろうか? 欲を出したものである。昨年末に浅草のクラシックカメラ専門店に持ち込んでみた。以下は、ほとんどのカメラというカメラを直してしまう職人気質のご主人とのやりとりである。

 「ちょっとカメラ持ってきたんですが、このカメラ、修理可能でしょうか? シャッター幕なんですけど・・・」
 我が“グラ”を、仕事の手を休めずに一瞥したご主人は、
 「スゴイのがきたな。 ・・・。」
 「いくらぐらいかかって、日数どのくらいであがるとか・・・。」 期待と不安で恐る恐る訊いてみた。意外な返事がご主人の口をついた。
 「修理代がバカッ高くつくから、新しいの買っちゃった方がいいんじゃないの。第一、このシャッター、前に修理したことあるけど、もう一回直す気しないなぁ・・・ (先に来店して話し込んでいた傍の常連風の客に)大変なんだよ、フンドシみたいに、このシャッター幕、こ〜んなに長いのがはいっててぇ・・・」
 「買うたって、こんなカメラどこにも売ってないでしょが?」
 “こんなカメラ”に目をくれたご主人。
 「コレRBでしょ。確かよく似たのが2階にあったと思うよ。」
 折良く顔をだしたおかみさんに声をかける。「階段上がったとこにRBあったろ? RB・・・」
 半信半疑の私の前に、なんとRBオートグラフレックスが登場したのでした。思ってもみなかった展開。夢のような出会い。
 「5年前にシャッター直して中古カメラ展示即売会に出したら、だ〜れも見向きもしなくてね。重くてかさばって運ぶのもタイヘンだから次ぎの年はイヤになって、それからは二階にしまいっぱなしだったよ、コレ。」
 我が“グラ”と並べてみると、フラッシュがきくように右側面が加工してある他は、なるほど良く似ている。“GRAFLEX”の文字とシャッタースピード表の位置が違うくらいで、状態は見た目にかなり良い。
 「シャッターはオレが直したから、こうだったかな、大丈夫、動きますよ。」と自らレバーを動かしてみせる。
 「高速も動くけど、400(分の1秒)以上は同じようなもんかな。」
 「400動けば十分ですよ」
 あり得ないことが突然おきた興奮に、気持ちがやや動転していたと思うが、これを私が買わずしてどうなるというのだ。
 「柳橋だからまたすぐ来るけど、誰か先に買う人が現れたら電話くださいよ!」
 「だ〜れも買いやしないよ」
 ところが名刺を置いてくるのを忘れ、気が気でない。お金を用意してすぐさまトンボ返り。1万円近くオマケしてくれて、7万円。掘り出しもんでしょうね。
 こうして“だ〜れも買わないカメラ”は、私に買われたのでした。
 「頑張って使ってみてくれとしか、言いようがないなぁ。」ご主人の声に見送られ、狭い店を後にした。
 路地続きの浅草寺、浅草神社、お稲荷さんにお参りし、RBオートグラフレックス2号機を抱きかかえるように帰宅したのだった。

 テーブルの端に置かれた2台の“グラ”に目を細め、一人ビールで乾杯〜♪ 
 さて、カメラとも思えないこんな大きな物体が、狭い部屋に2つ、どうしよ・・・ 
                                 (塚本洋三記)

Photo : Y. Tsukamoto

サンダルはいて
家出した
幼稚園のころ

サンダルはいて行ったら
退学になった
高校生のころ

サンダルばきで
うなぎのセールにいった
このあいだ

なのに
わたしはもう
どこへも行けない
サンダルつっかけて

   (塚本和江記)

BPA
BPA
BPA
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2011 May カミさんのティータイムバカラのちくわ切り

ひとさまに申し上げるのも照れくさいが
といいながら書いてしまうのだが
先日私どもの銀婚記念日に
バカラの一輪ざしを買った
なんとも美しく
重い
そのうえわずかな愛嬌も
だって斜めに 
ちくわのように
すっぱり切れてる、っ。

4回5回となぜながら
自分の人生を振り返える
やっぱり
どこか自分の人生
ちくわ切りに似ているのか
結局どこをみても同じなのかも。

 (塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto
2011 May  節電・節電・節電・・・行動し続けよう
 福島第一原子力発電所の人災に端を発した電力供給減事情で、世の中はかつて無いほどの節電ムードである。暑い夏を涼しく過ごしたい、停電抜きの明るい生活であって欲しい。と誰しも願い節電を心がける。その背景に、厳しい生活を日々余儀なくされている東日本大震災の被災者の皆さんへの思いが強く重なる。
 停電は人の生命をも危険にさらすことになる。我が家でも、電気が通じなくなったらカミさんの在宅酸素の供給が断たれ、携帯酸素ボンベの手持ち4本が切れたらそれが死への道連れになりかねない。節電はまさに“命がけ”でもある。
 人間、己の生活や生命、損得に係わるとなると、普段はそんなこと面倒だぁムリだぁと思っていることが、節電でもなんでもやれるものである。やれば出来るとわかって苦笑する。そして気付くのが、電力のお陰でいままであまりに野放図に明るい毎日を当たり前に過ごしてきたということ。家でも外でも。なんだ、そんなに明るくなくてもそれほど不便を感じることなくやっていけるじゃないか!

 節電だぁ〜となると、業界もマスコミも政府も行政も皆こぞって節電を呼びかけ、社会が一気に節電へと走る。不要な電気はこまめに切れ、冷房の設定温度は28度に、クールビズだ、LED電気だ、冷蔵庫の温度は一段下げよ・・・。言われたこと、細かいことを、さらに工夫を重ねてコツコツと進めるのは、日本人の得手。個人個人が日々できる節電をどんどん進めていこう。
 己の節電努力で、使い放題だった電力消費量を減らすことに多少とも貢献できる。それが停電を回避することに繋がる。そこに快感すら覚える。それを誰もが実感しているのではあるまいか。結構なことではある。

 課題は、来年、再来年、5年後、数十年後の私たちの“節電度”にある。そのころ、節電なんて必要なくなっていたとしたら、私たちはいつの間にか電気使い放題のムダな生活に戻ってはいまいか? 今日の節電ブームと言える社会現象が一過性では、日本人の心が泣く。
 節電ブームは結構だが、すぐに下火になってしまっては意味がない。節電意識とそれに基づく行動は、ゴールなきマラソンレースである。節電メンタリティをしっかり子孫の代まで受け継いでいかねばならない。その意義を、意識してしっかり胸に刻みたい。節電に協力しているのだと意識しなくとも、日々の行動で節電が身についているレベルへ持って行き、それを持続させていきたいものである。(塚本洋三記)

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2011 Apr. カミさんのティータイム: 閑話休題
 春眠暁を覚えず、カミさん原稿の締め切りを守れず・・・

2011 Apr.  生命の力

 生きとし生けるものの中では、特に植物の生命の強さには驚かされることがしばしばあります。樹齢1000年を超える杉の巨木とか聞くと、一つの生命を宿したそんな木が存在するだけでスゴイ!と思ってしまいます。
 最近、そのスゴイことに続けてでっくわしました。

 3・11東日本の大地震・巨大津波で、岩手県陸前高田市の白砂青松の景勝「高田松原」が、一変してがれきの原に変貌しました。7万本ほどの松が津波で流され、その報道写真が目に焼きついて離れません。信じ難い胸の痛む光景。そこに、もう1枚の写真。それは、どこまでも続くがれきの平坦地に、ポツンと生き残った1本のアカマツの姿でした。凄惨な光景に、勇気と希望が輝くのを見てとれるような松。
 まっすぐに天を突く松1本は、これまた信じ難い、しかし奇跡が感じられるような現実。津波被害の異次元のような空間にあって動じず屹立する松を見て、胸を打たれない人はいないと思います。
 「オレを見ろ」と言わんばかりの松に、「どうして生き残れたんだろう」と素朴な疑問が湧きます。その松の木の言い知れないスゴサに、限りない畏敬の念が交錯するのを覚えます。
 地震や津波の惨状は映像で何度見てもモノ凄いのですが、1本だけ生き残る松のスゴサはとても人間がどうこう言えるものではありません。自然に宿された生命の「底力」を見るものに伝えて余りあります。

 話のスケールはまったく異なるのですが、もう一つのスゴサは我が家のベランダに在りました。余震にびくびくする10日ほど前、いくつかの鉢植えに水をやっていて、いつもは気にもかけなかった鉢にふと目がいきました。
 「う?! そんなハズはない・・・」
 20cmほどの細い枝が枯れてこの冬中小さな鉢に突き刺さっていた、その枯れたとばかり思っていた枝に、緑の葉が確かに芽吹いていたのです。
 その「枯れ枝」といえば、1年ほど前、山階鳥類研究所の近くでロウバイの花にレンズを向けていたら、ご近所の方が声をかけてくれた時のこと。数年育てれば花を咲かせ、臥せがちのカミさんの目を和ますことにもなろうかと、ご親切を受けて小さなロウバイの苗木をこれまた小さな鉢ごといただいてきたのでした。
 ところが、どう手をつくしても枯らしてしまいました。幸い、捨てずに鉢ごとそのままベランダに置いてあったのです。隣の鉢にかけたおこぼれの水が、「枯れ木」を甦らせたにちがいありません。
 その生命力!

 人は困難に直面して心の拠りどころを必要とします。それが神さまや仏さまであってもよいのでしょう。人智を超越した生命の神秘を宿す木一本であってもよいのだと思いました。塩害で松枯れが心配されるということではありますが、奇跡のアカマツは生き続けるのです。樹齢約200年の生命力が被災者の多くの人々に生きる心の支えとなって、天に伸び続けて欲しいです。我が家の「枯れ木」に、香しい黄色のロウバイの花が咲く日が、きっと来るに違いありません。
 生命の力には恐れ入りました。いずれ果てるとは知りながら、皆生きていくのです。(塚本洋三記)
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2011 Mar. カミさんのティータイム大震災
高い高い つなみが目の前に押し寄せた

そうして
いとしい人の 湯飲みと
めぐりあった
両手でぬくもりを探してる

そんな映像にであった
わたしは あまりのことに
腰がぬけた

政府はなにをやってるんだっ!

被災地の方々に深く頭をさげる

 (塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto
2011 Mar.  凄い自然の力  対する非力な人知

 3・11。マグニチュード9.0の大地震につづく巨大な大津波。東日本大震災(旧称:東北関東大震災)の惨状、犠牲者や行方不明者、被災者の多くの方々を思うにつけ、そしてテレビ報道を見続けるにつけ、厳しい現実に傷む胸の安らむことのない日々。
 無念にも亡くなられた方々のご冥福を心から念じるばかりです。バード・フォト・アーカイブスにご協力いただいている方々も被災地におられます。被災者の皆さまには“希望と不屈”の一灯を胸に、一日も早く明日への元気を取り戻し復興へ向けて前進できることを心から願ってやみません。

 皆さまそれぞれにそれぞれの地震を体験されたことと思います。
 私は、東京の下町は自宅で地震に遭遇しました。人生およそ“死の恐怖”に直面したことのない私にとって、今回の地震は正直いかんともし難い怖い思いをしました。
 最初の揺れで、「ぅお〜、デカイぞぉ!」と近くのカミさんに怒鳴り、火の元をチェックしたのがやっと。本棚2つと食器棚の倒れるのを狭い部屋の中央で目の当たりにして、ヤバイ、ヤバイと言うだけ。なんらなす術のない私。仏壇から飛び出す位牌が目に入っても、揺れに立ち向えない無力な自分に恐怖感と情けなさとが交錯し、ただただ立ちすくんだまま。頭を過ぎったのは、身障者のカミさんと携帯酸素ボンベ2本を背負って9階から階段を避難するのはムリだぁということだった。

 カミさんは、結果的に狭いわが家で一番安全な場所とわかったソファに腰かけて、地震がくる前から見ていたテレビを見続けていたのでした。なんとも冷静だなと、その姿に救われた思いがしたのを覚えています。そのテレビは、倒れた本棚の直撃で画面がちょっと傾いてお辞儀したまま。機能的には問題ないことに妙に感心しながら、津波の脅威に目は釘付け。
 本棚と仕事机から放り出された本や資料やらと、でん繰りかえった食器棚から飛び出してほぼ全滅した食器のガラスの破片とが、床一面に飛び散った。リビングの半分と台所にかけては、足の踏み場もないとはこのこと。ガラス破片を拾い集めるまでの2日半は、部屋で靴をはいたままでの掃除作業でした。
 普段から好きでなかった地震に、さらに敏感になった私。3週間経った今でも、立ち上がっただけで頭がふらっとしたような気が余震のように感じて、ギクッとしてしまう有様。これは精神衛生上よろしくない。3・11を私なりに体験したのだから、もう怖いものなしと自分に言い聞かせてはいるのですが。
 容赦のない余震は今日も続く。福島第一原子力発電所の不安は去らない。

 今回の大震災は、1000年に1度のこととも言われる。まさに自然の猛威であった。だが“自然の猛威”と考えること自体、自然の認識がズレてしまっていた己に気づく。
 自然に言わせてみれば、猛威でもなんでもない。地球誕生以来の営みを“当たり前”にしているに過ぎない。その当たり前である今回の巨大津波を、津波対策の国際的なシンボルと目された高さ10mもの防潮堤を技術の粋を結集して築いても、防げなかった。“自然は人知を超える”という認識が、科学技術に信をおくあまり、いつのまにか不感症になっていた。「想定を超えた規模だった」とは、大きな自然災害の度に聞かれ耳新しいことではなくなっていたのに、また今回の大災害である。
 人間は自然の一部であり、自然に生かされているという“当たり前”を、そして人知と科学技術の力をもってしても自然を凌駕することはできないのだということを、改めて身に沁みた教訓とすべきではないだろうか。
 安全・安心を科学技術の進歩で買えると思い込み、自然への畏敬・畏怖の念は死語として忘れてしまっていた感は否めない。その認識が根底にあって初めて人間は謙虚に自然に接し、自然の“猛威”を科学技術の力で軽減し得る最善の策に挑戦し続けることになるのではないだろうか。(塚本洋三記)

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2011 Feb.カミさんのティータイムうめ

じっと見つめていたら
うめが笑った

少しこわいけれど
おへそのまわりに
楊枝でさした
舌の血で
刺青をさそう

おへそがうめになった
このままじっと待てば
うめぼしになるだろう

腹のうえの
うめ 一輪

 (塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto
2011 Feb.  GRAFLEX パロディ
 もう見つかるまいと諦めかけていたR.B. オート グラフレックス カメラを、旧年11月にアメリカから手に入れた(2010 Nov.参照)。日本での野鳥生態写真の草分け、あの下村兼史が1920−30年代に使っていたカメラに限りなく近いと思われるもの。つい浮かれて、ネットオークションの品定め用に載っていた写真の、パロディを試みた。
 3.5kgをズシリと感じ、抱えるようにカメラを構える。両肘をたたんで、右の親指と人差し指でピントを合わせる。ファインダーに被写体がおぼろげに浮かぶ。左手の親指の腹がシャッターにかかる。生憎、シャッター幕がなくて作動しないのだが・・・。
 誕生日祝いにプレゼントしてくれたはいいが、気恥ずかしくて極たまにしかかぶらないフィールドハットが、思わないところで役に立つ。冠婚葬祭以外にはもう10年ほども縁がなくなったネクタイまで引っ張り出して締めた。
 こんなでどうだろ?!
 「バカバカしくてぇ」と、こんなことにはふだん相手にしてくれないカミさんが、デジカメで撮ってくれた。結構満足している。
(塚本洋三記)
Photo : Kazue Tsukamoto
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2011 Jan.カミさんのティータイムうさぎ

おいおい うさぎ
そんなにあせってどこへ行く?

ハイウェイをつっぱしり
プリウスなんかもぬきさって
人間の文化なんかをも
後ろ脚でけりながら

ただのいっぴきで
そ 天国までかっ

 (塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto
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2011 Jan. ウサギならぬゴイサギ&デジカメ談義

 デジカメを楽しみたいという気持ちはあるそばから、ついモンクを言いたくなる。カメラといえばデジカメしか知らないデジカメ族には、「爺さん、なに言ってるの〜」と言うのが聞こえるのは承知しつつ、である。
 帰宅し、コンピューターのモニターで撮ったばかりの画像を見て、ビックリした。旧年手に入れた恐らく1910年代もののオートグラフレックスの試し撮りのついでに、それならとデジカメで何枚か撮ったと思っていた。指に力がはいって2枚連写を2回したのは覚えている。残りは、ファインダーのゴイサギ君のスローな動きと構図を確かめながら1回ずつシャッターを切ったのに、79枚も撮っていたとは! 昔の私でいえば、12枚撮りのロールフィルム6本分以上に当たる。一度に6本も持ち歩くのは、北海道とかの遠征探鳥行に限られたものだ。
 ロールフィルムと違い、枚数を気にせずいくらでもシャッターが切れる。これがデジカメの落とし穴?に違いない。 “決定的瞬間”などはどこへやら、バシャバシャ、バシャバシャ、ついシャッターを切る。いつのまにか、連写連写だ。撮ってさえおけば、“決定的瞬間”は撮ったいずれかの画像に後で見つかるだろうといった感覚になる。ここ一発のシャッターチャンスを楽しむ写真撮影の醍醐味を抹殺してしまうデジカメ、恐るべし。
 自業自得であるが、不要な画像を選んでゴミ箱に捨てる作業がまたなんとも・・・。ほとんど変わらない何枚もの画像に優劣をつけ、劣った画像を内心惜しみながら捨てていく作業が、なんとも緊張感を欠いて退屈。とうとう眠くなって昼寝を余儀なくされた。
 それなりに“決定的瞬間”であるべき画像の選別作業で生き残った何枚かのゴイサギを眺め、自画自賛でしばしほくそ笑む。が、待てよ。このレベルならデジカメで誰にでも撮れるのではないか? のっぴきならない自問自答に、デジカメの恐ろしさ、いや、つまらなさに気がつく味気なさ。
 そうなのです。デジカメなら、スイッチをONにしてシャッターボタンを押せば、私のゴイサギのような“静かもの”は誰にでも撮れる。う? よくよく見ると、デジカメ特有のヒリヒリするようなド・ピントには撮れていないゴイサギではあるが、それとて“ドングリの背比べ画像”だと気づいたら、面白くもなんともないではないか。
 言いたかったのは、写真を撮るのは私ではなく、デジカメが撮ってくれたのである、といった乾いた感想。
 簡単・便利な点は素晴らしいが、シャッターを押す瞬間のスリルもなく、誰にでも撮れ、撮れた画像に面白味も満足感も少なく、ましてや何年かたって見た画像に、手応えあったシャッターの感触や撮影時の有り難さも充実感も感じられないなら、デジカメ撮影の真の楽しさとはなんなのだろうか?

 私の写友に関西のMさんがいる。年賀状代わりに送られてきた1枚は、こちらに向かって飛んでくるカワセミ。もう1枚が、飛び立つ瞬間の止まり場を蹴ったアノ小さな脚まで捉えられたカワセミだった。まさに“離れ技”の画像は、私を唖然とさせた。同じデジカメなのである。
 そのMさんからマトを得た答えをいただいた。「塚本さん、もっともっと撮っていくうちに、デジカメはデジカメの良さ、難しさ、楽しさがわかってくると思いますよ。デジカメの奥は深いです」と。デジカメ大先輩の言は重い。
 う〜ん、Mさんみたいな画像が撮れるまでは、デジカメのモンクを言ってはイカンのだなあと、撮れたばかりのゴイサギ君を前に、以前に思ったことを再度思い返す新年の私でした。
 本年もお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。(塚本洋三記)

新年おめでとうございます。
 卯年三が日をのんびりと過ごし、4日には、上野動物公園を久々に訪れた。旧年何ヶ月も放っておいたデジカメをバッグのまま掴んで連れていった。場所が場所なだけに、人擦れしたゴイサギが目につく。すっかり忘れている諸々の設定をチェックすることなく取り出したカメラで、スイッチだけ入れいきなりの初撮り。デジカメならではの“飛びもの”は最初からあきらめ、ご覧のとおりの“静かもの”でゴイサギ君にお相手してもらった。
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