『写真記録 日本伝統狩猟法』(株式会社出版科学総合研究所 1984)という知る人ぞ知る大著がある。宮内省保存の猟と民間伝承の猟の猟法を、ライカのレンズを通して撮られた写真に語らせている。見応えのある量と資料性に富んだモノクロ写真に唸らされるのは、本を手にした人は皆同じであろう。その昔、私も一目惚れだった。撮った人は堀内讃位(ほりうち さんみ)、1903−1948。
掲載された写真のネガやプリントは、果たしてどこかに現存しているものなのか? 保存状態は? 誰が保管しているのだろう? 余計なお世話だが、お宝級の文化遺産の行方をバード・フォト・アーカイブスとしては確かめたい。 なんのヒントすらないままに、雲を掴むような追っかけが始まった。まずはご遺族の情報が得られないものか。でも、どこから手をつけたらよいものやら・・・。
数ある追っかけ対象の生態写真家の中で堀内讃位を選ぶきっかけは、たまたま話題にしてそんな気がしてきたからである。それが、このDay By Day のページ、2010 Sept. 田中徳太郎の次は、堀内讃位に記されている。今回は、ふとしたことが次ぎに繋がる巡り合わせを綴った、堀内讃位写真資料の追っかけの記録である。
2010年3月13日
追っかけレースのスタートラインにはついたものの、為す術がない。そんな最中、普段からバード・フォト・アーカイブスにはなにかとご配慮いただいている得難い存在の、山階鳥類研究所の平岡考さんからメールが届いた。胸が鳴った。
“茨城県博で渡り鳥展見ました。カモ猟の展示に堀内讃位の写真が4点ほど使ってあり、よくわかりませんが、どうも印刷物からの利用ではなさそうな感じです。”
展示された写真がネガから引き伸ばされたものであることを看破した平岡さんの眼識が、ゴールのみえない追っかけのスタートとなった。果たして、渡り鳥展のパンフレットの謝辞の名前の中に“堀内智實”の四文字。ご遺族に違いない?!
2010年6月24日
再び、平岡さんからのメール。県博の学芸員に問い合わせてくれたが、“堀内智實”の連絡先を訊くと、個人情報の壁に突き当たっていかんともし難い。だが、柏市役所の教育委員会経由でご遺族とコンタクトしたこと、コンタクトした相手は展覧会の謝辞に出ている方との、有力な手がかりとなる2点を聞き出してくれた。さしあたってのターゲット:柏市の教委を探れ!
2010年8月12日
岡村正章さんからの深夜のメール。2008年に私が作成したDVD『日本でいちばん鳥を聴いた男 蒲谷鶴彦さんがいく』(このホームページの「BPA SHOP」参照)がご縁で知りあい、作曲/効果音制作が本業ながら鳥の世界にもどっぷり。世に隠された情報を嗅ぎだす驚異的な能力を発揮し、下村兼史をはじめ私の追っかけをも支援してくださっている方からだ。
“「巣鴨の鴨料理屋(1987.02)」というサイトに載っているのは、「たぶん間違いなく息子さん(?)の出したお店だと思われます。どうやらこちらも残念ながら1999年に・・・」”
堀内讃位が銀座に鴨料理屋「さんみや」を開店したのが、私の生まれたと同じ1939年。柳田国男、山階芳麿、鷹司信輔などそうそうたる顔ぶれが集って日本野鳥の会の五周年に記念座談会が開かれたところ。年経て、巣鴨に同じ鴨料理の「さんみや」が登場。なにやらご縁というか関係がありそうで、これは情報源になるのでは!といっとき期待が高まった。だが、1999年末に閉店していた・・・。
2010年8月12日
同日、早朝の岡村メール。“長男の堀内正智(まさとも)氏が東京巣鴨のとげ抜き地蔵近くに鴨料理屋・・・、『全集 日本野鳥記1(講談社)』の後書き解説にその記述を発見した”と。
展覧会の謝辞にある“堀内智實(ともみ)“との関係は? 件の本のあとがきを書かれたのが、二女の堀内位智子(みちこ)さん。残された写真記録を上梓した立役者である。
詳細がわからないながら、いく人かのご遺族のお名前が浮かんできた。さらなる情報が欲しい・・・
2010年8月26日
叶わぬ時の神頼みとしてコトあるごとにお世話願っている野鳥研究家、松田道生さんのブロク。その8月26日、“塚本さんの次の指令は「堀内讃位の遺族を探せ」”で終わっているのを読まれて興味をもった平岡さんから、松田さん宛てとcc私宛てのメールが届く。
余談であるが、平岡さんから6月にアドバイスされ、ターゲットの柏市教育委員会に探りをいれる私の役目は、実は、私のフットワークが重く、この2ヶ月ほど怠っていた。そればかりか、柏市役所なら山階鳥類研究所の往復にいつでも立ち寄れると思っていたが、年寄りの悲しさ、いつの間にか柏市が一つ駅隣りの松戸市との覚え込み違いをしていたとは。松戸市教委で尋ねてみても・・・である。後に追っかけ仲間に私の覚え込み違いのミスを指摘され、まったく面目なかったことを付けくわえておかねばなるまい。
さて、私に代わって平岡さんが得てくれた柏市教委の聞き込み情報が、メールの核心であった。それは、“いやうち(柏市教委)は、(展覧会で)カモ猟の猟具の実物は貸したが写真のことは知りません”というツレナイもの。さても茨城県博の学芸員が提供してくれた重要と思えた柏市教委情報が宙に浮いてしまった・・・。なにかウラがあるのだろうか?
ご遺族にとっては写真資料に関しての面倒なアクセスがあって、あるいは不愉快なことがあったりして、それで消息がぼかされているのかとさえ、平岡さんは考えてしまったくらいである。それが平岡さんのまったくの憶測であるとはいえ、ない話でもなさそうに思えてくる。そうなら、ご遺族との接触はさらに難しくなりそうな。近づいてきたかにみえたご遺族の所在が遙かに遠いものになってしまったように感じられ、ひどく落ち込んでしまった。
2010年8月27日
折り返して松田さんから平岡さん宛てとcc私宛ての返信メール。平岡さんと同じく、堀内讃位の件の本が鷹匠のサイトで話題になっているのを意外に思っていたとのこと。私が驚いたのは、松田さんも岡村さんの見つけた“巣鴨の鴨料理屋(1987.02)”のサイトを見ていたことがわかったこと。そればかりでなく、そのサイトのコミーという会社は、カーブミラーを作っている駒込では知っている人は知っているほどの会社だというのだ。なにか頼りになりそうか?
「さんみや」のあった巣鴨とは隣街の駒込に松田さんが引っ越してきたのが、1984年。その同じ年に『写真記録 日本伝統狩猟法』が出版されている。話題のサイトは1987年付け。「さんみや」閉店が1999年。
松田さんが、岡村さんや私のように酒大好き人間であったなら、きっとご近所の「さんみや」へ一杯やりにさっそくかけつけ、ご亭主から父堀内讃位の情報をしこたま手に入れていただろうに。松田さんの下戸を怨みたくもなる気がしたものだ。
松田さんのもう一つのアイディアは、出版社の総合科学出版研究所の関係者から辿れないかというもの。その出版社は、例の本を出版後に消滅していて、その関係者を探るくらいなら、堀内讃位のご遺族捜しにエネルギーをさいた方がよかろうということになった。
浮上したいくつかの情報が繋がりそうで繋がっていかない展開に、気分は浮かないまま・・・。
2010年夏ごろ
恐らく岡村さんと私とでビールで喉を冷やし、アタマも冷やして追っかけの策戦会議をしていたときに出たアイディアだったと思う。内容ははっきり覚えている。松田情報の巣鴨にあるコミーという会社の社長さんは、“今も、(呼び出されて「さんみや」に言ったこともある)その客との縁は続いている”とサイトで綴っている。1987年のこととはいえ、それなら常連客だったらしい社長さんに会って話を聞くか、社長さんの付き合い客を紹介してもらって、ご亭主から酒の肴に聞いたかもしれない堀内ご遺族のことをあるいは聞き出せるかもしれない???
残念ながら、私にはこんな奇想天外な発想はでてこない。暗いトンネルの先にポッと見えたような気がする明かりだけが頼りのアイディアだが、「気の長〜い話しよ、長生きするぜぃ」と一笑に付すにはもったいないほどのグッドアイディアに思えた。
真に受けた私はさっそく社長さんの連絡先を当たり、アポがとれるばかりの段取りとなって・・・安心したわけではないが、他事にかまけて実現しないままに時は過ぎた。
2010年9月24日
私はこの月のバード・フォト・アーカイブスのホームページに追っかけ記事を載せ、松田さんもご自身のブロクに“堀内讃位を探せ”を書いて応援してくれた。どちらの読者からもなんの反応もなし・・・。
2011年8月10日
山階鳥類研究所での昼食事の雑談で、私は思ってもみなかった情報を得ることになる。どこだか特定できないが、どこかの恐らくしかるべき団体が堀内讃位の写真資料を多分そっくり保管しているのではないだろうか?! そう推定するに値する情報だった。私はそれまでの堀内讃位の追っかけが急に気抜けしたものになったと思ったのと同時に、堀内讃位の写真資料が無事にどこかに保管されていることに限りない喜びと安堵を感じたのである。
かくして私は、堀内讃位の追っかけに終止符が打たれたと思ったものだ。実は、その後にさらに思ってもみなかったことが山階鳥類研究所を軸に展開したのである。
2011年12月30日夜半
突然ですが、気がつくまでもなく年の瀬がすぐ目の前。山階での“思ってもみなかった展開”を書き続けると、年が明けてしまう。続きは後半に譲ろうと、たった今賢くも踏ん切りをつけたところである。
来年もバード・フォト・アーカイブスは踏ん張って進んでいきます。堀内讃位に続く気の遠くなるような追っかけもしぶとくやっていきます。モノクロ写真のご提供も引き続きよろしくお願いいたします。
なにより、皆さま、どうぞ佳き新春をお迎えくださいますように!(塚本洋三記)