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2009.12.31.カミサンのティータイム ゆず

あたまをちょとつまみ
きゅきゅと切って
のぞき見る

あるある 日本人の食べ物が
紅白なます いくら
魚の焼き物
あげく フライドチキンも
ひしめきあって

ゆずの中身は
日本人の胃袋かも 
ふわっと かおる柚子の香に
和ごころ
身も心もどっぷりと

  (塚本和江記)

BPA
Photo : Y. Tsukamoto
2009.12.31. 早くも年の瀬
 「え〜、もう1年経っちゃったのぉ!」 毎年のことだが、師走を迎えて月日の経つのが早いのに思い知らされる。近年、異常に早い。70の大台に乗って余命を意識しだしたからでもあるまいに。
 いつの世でも1秒は1秒、1月は1月に変わりはない。だが、どうも進歩発展や利便性を追い求め、社会生活に遅れまいとして私たちの生活のリズムや対応能力が狂ってしまったのでは。“気持ち時計”が、1秒は1秒よりも早く進んでいるのに気づいていないほど、人間は近代社会の急速な進展に呑まれてしまっているのではあるまいか。と、思ったり。
 社会生活のストレスに負けないために、たまには1秒が1秒の世界に身を置いてネジを巻き戻すのがよいと真剣に思う。私のお薦め処方箋は単純効果的。自然の中で、特に水面を眺めながら心を遊ばせることだ。清流をただ見つめる。無心に波とたわむれてみる。草っ原に寝転がって行く雲を見て小1時間ほどポカ〜ンとしている。静かな森で木に寄りかかって聞き耳をたて目を閉じて30分ほどじっとしてみる。流れの静かな川に大の字に浮かんで我が身を流されるにまかせてみる。
 忙しい生活ではあり得ないことを試みると、ほとんど忘れかけていた自然との対話が始まって五感が甦る。その時が、意識しようとしまいと、1秒が1秒の世界。その時こそ、時の流れ、いや、流れの止まったような時を体感しているのである。
 人間は自然の子。生身の生命体。自然界の悠久のリズムに乗って心安らぐひとときを持たないと、肉体に宿る精神はたまったものではない。

 現実は私にも厳しい。常に時間に追われる。この年末ほどやるべきことが山積した年の瀬も珍しい。加えて、師走はどうも私のパソコンにとって鬼門であるらしい。昨年と同様、頼みのパソコンが不調となった。今回はハードのチェックに約6時間かかると聞かされゲンナリしたが、一晩ほっておけば朝には結果がでるかぁ・・・。ところが、なぜか36時間もかかったのだ。だから不調なのだといいたいのに、テスト結果はオールPASS。さあらばと、やりたくなかった数々のソフトの再インストールを敢行し、さらに3日ほども過ぎてしまった。失われた設定をやり直しすべて終わってみれば、前となんら変わっていないではないかっ。
 打つ手がなくなったときの助け船は、普段からお世話になっている山階鳥類研究所の仲間、RHさんからだった。「G3(爺さん)のホームページは画面が出てくるまでに異常に時間がかかるんだ。The Photo(今月の1枚) とDay By Day(らくがき帖) の超長いページがパソコンに悪さをしているのではないと思うんだけど。」
 かくして、愛称「長フンドシ」の両ページを、年単位のページに分けるホームページの大手術をするハメになった。これまで為す術なく一ヶ月づつをアップし続けて4年間分を1ページに収めてあった。もう限界にきたのかと私も観念したのだった。
 「長フン」を「短パン」に衣替えするのは、PC音痴の私にとって技術的にド・エライコトであった。にもかかわらず、この際だから年ページに目次もつけたいと、PC音痴に限ってそんなことを言いたくなって言ってしまった。RHさん、冷静にのたまわく、「今回はシンプルに年毎にわけるだけにしておいたらぁ。」
 PC先輩の言に、PC音痴がさからった。お陰で、このクソ忙しい年の瀬の1週間ほどが、ホームページのソフトをにらんだまま他になにもできずに過ぎてしまった。しかも、作業はRHさんやMHさんの短期特訓を受けても、試行錯誤の連続。精神衛生上よくないことは分かっていても、男一匹、いやG3の一徹、やるっきゃなかった。
 結果は神のみぞ知る。大晦日に控えたアップが無事に済み、アクセスしてくださる皆さんが見やすくなったページを楽しんでいただけることをひたすら願い、今キーを叩いている。

 皆さま、時の流れを気にしつつ、どうぞ佳き新年をお迎えください! (塚本洋三記)

BPA

2009.11.30.カミサンのティータイム むらさき式部

小春日和のある日
むらさき式部の実を食べた

右と左にゆるゆるふられ
上と下にぐるぐるまわされた
なつかしき思いに

悲しいほどにちいさい小屋で
輪の中をめいっぱい
とまどいながら走り回る
ハツカネズミのように

からだは人間いろ
ノスタルジアは薄紫いろ

美しき手紙の言葉は
どこにいったの

  (塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto
2009.11.29. 夢は叶えるもの
 人間、いつも夢を持とう。私の口癖のようなもの。年をとったなぁと思えば、加齢が余計に進む。気持ちを若く心弾む日々を心掛ければ、老化が遠慮してくれる。夢は老化の特効薬?

 「下村兼史? 聞いたこともないけど、その人がどうかしたのぉ」知る人ぞ知るアノ下村兼史ではあるが、今の若い世代のバードウオッチャーなら、こんな反応もムリからぬこと。ましてや鳥知らずの世間一般となると・・・。 興味と関心のある方、古いモノクロ写真から夢でもみいだそうと思う方は、インターネットで「下村兼史」を検索してみて欲しい。ぞろぞろ出てくるその中に、財団法人山階鳥類研究所が今月初めにアップしたサイトも見つかるハズ。下村の人と業績が概観できる唯一のサイト。それなら検索しなくても次をクリック:http://www.yamashina.or.jp/hp/hyohon_tosho/shimomura_kenji/k_index.html

 このサイト、同研究所が所蔵する下村の写真が中心となっている。下村が脚本・演出・監督で関わった映画関連の情報は手薄ではあるが、私も制作にどっぷり関わったサイトだけに、是非ご覧いただきたい。ご意見、ご質問など大歓迎である。できれば友人知人にご紹介願いたい。ハンサム、酒豪、抜群のカメラセンス、卓越した野鳥観察センス。「へえ〜、下村ってスゴイ人が昔いたんだぁ」という人が増え、その作品から得られるものを今日に活かして欲しい。

 山階鳥類研究所に下村兼史の写真資料が眠っているだけでは誠にもったいない。広く世間一般にも知ってもらう価値がある。それには一つ下村の写真を中心に「下村兼史の世界」展を開こうではないか!
 とんでもない夢を抱くことになった。

 「夢は実現させるものよ」けしかける知人が現れて、私をその気にさせる。どうせ開催するなら、資料を所有している財団法人山階鳥類研究所と資料の問い合わせ窓口となった有限会社バード・フォト・アーカイブスが共催して大々的にやってみては?! 山階鳥研はご異存ない。バード・フォト・アーカイブスを代表する私は燃えている。いつの日か、皆さまに下村ワールドをお届けしたいっ。
 開催には莫大な金がかかる。金だ。夢を見るのはタダだが、夢の実現には金が要る。ハタ・・・。

 先週木曜、山階鳥研は自然誌研究室での午後のティータイム。年末ジャンボ宝くじを買った、まだ買ってないの話で、職員とバイトの5名が異常に盛り上がっていた。3億の税金対策に共同購入しとかないと。えっ、ほんと、税金なんかかからないじゃん? 5000万円くらい山階にポンと寄付しようかしら。宝くじ買ったこと旦那に言っちゃったから旦那にも少し渡さないと。家のローンが返済できた上に人生遊んで過ごせるんだぁ・・・。誰もがすっかり3億円当たる気になっていた。私は言った。「3億なんてみんな結構欲張りですね。私なら1億当たれば十分なんだけど・・・。」
 帰途、JR浅草橋駅東口の階段をおりた私は、迷わず宝くじ売り場の列に並んだ。
 持つべきは、夢♪  (塚本洋三記)

BPA
BPA

2009.11.3.カミサンのティータイム コスモス

コスモス畑はふわふわと
でかでかとしているのがいい
優しいあの花たちの
いとおしさは
はしからはしまでが
わからないほどの広さがいい

涙がでるほどに
悲しくなってしまうほどの
青い空へ
虫も人間もみーんなまとめて
ぬくもりの絨毯をひきつめた地球を
プレゼント
ぽーんと投げよう

 (塚本和江記)

Photo :Y. Tsukamoto

2009.10.30.下村兼史資料の覚書取り交わし 実現!

 下村兼史といえば、私には憧れの野鳥生態写真家です。まだ中学生の時、代表的な写真集『鳥類生態写真集』第1 −2輯(1930−31年 三省堂)をたまたま古本屋で手にし、すっかりその作品に魅了されました。私のモノクロ写真の原点となったのです。
 下村兼史とは、なにか離れがたい結びつきがあるのでしょうか。この4年間、(財)山階鳥類研究所に所蔵されているその下村兼史写真資料の整理保存作業をお手伝い致しました。それが契機となり、(有)バード・フォト・アーカイブスが同研究所の「下村兼史資料」についての質問・問い合わせの窓口となる役をお引き受けさせていただくことになりました。これこそ願ってもないこと、早くもリキが入っている感じです。

                                                 Photo: Takashi Hiraoka
  覚書調印後、(財) 山階鳥類研究所の島津久永理事長(左)と窓口担当のBPA塚本

 (財)山階鳥類研究所のホームページ野鳥生態写真の先駆者 下村兼史資料に、その概要が載っています。是非ご覧ください。ご質問・お問い合わせは、同研究所ではなく、直接(有)バード・フォト・アーカイブスまで(こちら)お願いいたします。一つ一つ丁寧に対応させていただきます。
 貴重な下村写真資料を広く紹介するのも、(有)バード・フォト・アーカイブスの役回りと心得ております。ネット上で、誌上で、写真展などで、(財)山階鳥類研究所が提供する下村写真作品を是非お楽しみいただければと願っています。有料とはなりますが、下村写真が多く商業目的にも利用されるようしかるべくお口添えいただければ有難いことです。“翼にたくす地球の未来”への活動資金とさせていただくからに他なりません。
 ほとんど知られていなかった「山階鳥研に下村兼史の写真資料在り」を世に周知させ、この貴重な資料が広く活用されることを心から念じております。よろしくお願いいたします。(塚本洋三記)
BPA
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2009.9.30.カミサンのティータイム彼岸花

人類のすべてのなみだ顔
空にそっと写された

ひゅーどん 一瞬に
焦げた光の海

家族を 目のまえで
やられた 憎しみ

つぶされたビルの中で
息たえた 人びと

地球上のすべての悲しみ
いくえにも流された
涙の かたまり

おおきな池となり
かたわらに
彼岸花

今に咲く

  (塚本和江記)

Photo : Y. Tsukamoto
BPA

2009.9.29.下村兼史著『北の鳥南の鳥』

 The Photo (今月の1枚)の原稿を書くにあたって『北の鳥南の鳥―観察と紀行』(1936年 三省堂)を拾い読みしたら、この本のことどもが懐かしく蘇ってきた。下村の代表的な名著であり、オールドバードウォッチャーならずともお勧めしたい私の座右の書である。

 “座右”の書ながらフィールドの友となった思い出を、一つ二つ。
 1960年ごろ、学生時代に北海道へ行くとなると、当時一番早い急行列車でも上野駅を午後4時ころに出て一晩眠り、確か朝方に札幌に到着。網走はその翌朝着。ありゃ、そんなにかかったのかと今に思えば疑うほど。とにかく飛行機もない時代の大旅行だったのである。そのくらい長い車中を退屈しないで過ごす手段に、何冊かの本を持っていく。キスリングから取り出す本は、相棒のもいれて7、8冊。それが窓辺にならぶ。『北の鳥南の鳥』は”車中文庫”の常連だった。
 他愛ないゲームが始まる。相棒がパッと開いたページを頭から読み始め、そこに出てくる鳥の名が読まれる前に私が当てるのだ。1行を終わらずして鳥の名が飛び出すこともある。当てたら読み手交代。時には、開いた本の厚さでそのあたりの内容を察知し、朗読が始まる前に鳥の名を言いあてて相手を面喰らわせるホールインワン的楽しみ方で盛り上がった。
 野鳥識別のフィールドガイドで著名な高野伸二さんは、なんでもこの愛読書をほとんど丸暗記していたと高野つや子夫人は笑って述懐する。高野さんほどではないが、私も結構読み込んでいたことはお察しの通り。それほどの本なのだ。
 フィールドでの野鳥との巡り合いを精緻な描写で綴る下村の名文は、時を超えてフィールドへの憧れを誘い、懐かしさが滲み、そして新鮮である。

 2004年7月のある日、『北の鳥南の鳥』の評価がうかがい知れる稀有な情報を、野鳥関連の古書収集に熱をあげる現日本野鳥の会理事の西村眞一さんが発見して知らせてくれた。それは壹銭五厘だった当時の一枚の官製はがき。『書窓』編輯室の、フィールドへ持って歩く本は?の問に答えた中西悟堂のものだった。
 『この夏は山から山の生活と思ひます。山と海の鳥類調査の仕事なので、出先で読む本としてはあまり厚手の本は携帯できません』の自筆につづく数冊の本の筆頭に挙げられていたのが『1.下村兼史氏の「北の鳥南の鳥」』。
 中西悟堂が『北の鳥南の鳥』を?!・・・。驚きというか我が意を得たりというか、そんな私の表情を読んだ西村さんの得意顔につづく満足したお顔が今でも目に浮かぶ。

 挿入された71枚のモノクロ写真が、また魅力である。本文の味をビジュアルに増幅し、現地を訪ねてみたい私の夢を一層かきたてるのだ。特に、北千島。下村は1934年と翌年の2度も島に渡り、その景観や日本では繁殖していない野鳥たちの生態をカメラに納めている。
 今日北千島のパラムシル島を訪ねたら、下村を唯茫然とさせた大湿原は、未だ『幾百幾千年のさいなみに慣れて、寒気と寂廖の裡にじっと耐え・・・、産まれたばかりの姿で犯し難い威厳をさえ見せている』に違いない。と、島の自然が開発変貌されていないことを祈ること切なるものがある。
 渡島の夢が叶ったなら、下村の見た同じ景色に野鳥たちに、私は夢中でレンズを向け気のすむまでシャッターを切るのだ。
 因みに、1942年の改訂版は写真は口絵に載っているだけで装丁も簡素なもの、探し求めるなら1936年の初版本である。(塚本洋三記)

BPA

2009.8.31.カミさんのティータイム おしろい花

はらっぱのまんなかで
ピンクをしぼる
ひとりぽっちで

両手にすくいとり
喉にながす
おしろい花になった

すっかり夕暮れ
けれど ぷっとひらく
充実の花

チュルル
脇をはしるトカゲに
かじられた

つかまえた 目が合った
しっぽを切り
走り去っていった彼

ふられた

それからずっと
ここにいる
しゃがんだまま

    (塚本和江記)

2009.08.25. 三つ子の魂 負け戦の弁

 ジシギの仲間が南へ渡っていく。ああ、今シーズンもジシギを見ずして終ってしまうのか。今年こそと、BIRDER誌1月号の誌上インタビューに答えた――『タシギ、チュウジシギ、オオジシギをできるだけ多く見たい。50年ほど前、これらジシギ類の野外識別は不可能ではないかと思ってあきらめたが、自分に納得のいく識別に再挑戦したい。』 だのに、である。この30日には鳥友に誘われていて、その気になっていたのに用事ができてしまった・・・。

 オオジシギ、チュウジシギ、タシギ、ハリオシギなどをひっくるめてのジシギ類は、どれをとってもなんでそんなにそっくりなのか?!と、腹立たしくなるほど似ている。識別できるとはとても思えないほど。

 というのも55年ほど昔、頼れるフィールドガイドは無い、フィールドスコープなんてバードウオッチング界に存在しない、識別を教えてくれる先輩もいない、普通に見られるシギチドリ類の識別にさえ独学で苦心していた頃、千葉県新浜をホームグラウンドにしていた「新浜グループ」の仲間と、ジシギ類を識別しようとはしていたのだ。

 それは、真夏の太陽が照りつける堤防際の草むらから、どうもジシギらしい1羽が飛び出したときに始まる。タシギにしては渡来が早いし、ずんぐり大型に思えた。識別は二の次で、大型ジシギ発見にワクワクしたのは今でも忘れられない。以来、ジシギたちが、シギチドリの識別に燃えるグループのメンバーをさらに悩ませることになった。

 グループのリーダー格の高野伸二さん(後に『フィールドガイド日本の野鳥』など多くのガイドブックを著わした識別男)が、「どうもジシギの中に次列風切の外側に白線の出るのがいるなぁ・・・。」ある日つぶやいた。高野さんの鋭いフィールド感が言わせた一言。

 確かに次列外側に白線の出るジシギは小型のものが多く、体長の割に嘴が長い、飛翔も軽快で翼下面が他のジシギより淡いようだ。もしやフィールドマーク(そこを見れば種類が識別できる決め手となる色彩、形、斑、線など)では? 一同、色めいた。

 フィールドでの検証が熱をおびる。山階鳥類研究所へ走って標本を調べる。おお! タシギはみんな次列風切に細いが明瞭な白線がでるのだ。飛べばタシギだけは識別できそうだ。

 今日ではフィールドガイドを開けば当たり前に解説されているこのタシギの白線が、かつては野外識別上の大発見だったのである。水辺の草つきに潜むタシギとなると相変わらず識別の手の打ちようがなかった。だが、「飛べばタシギだとわかるぞぉ!」これは、新浜グループのメンバーにとって大きな一歩前進。満足感は極めて大きかった。

 他のジシギ類識別の葛藤は依然つづいた。古い文献にあるジシギ類の識別法も勉強した。フィールドでの検証が続いた。なにかフィールドマークがありそうだけど・・・。やっぱり不可能なのかなぁ。挫折感と希望が交錯する。

 そんなある日、ジシギ類を採集しているある鳥学者の言を耳にした。オオジシギと思って撃ち落とすとチュウジシギだった。チュウジシギと思ってズドン。オオジシギだった。10数例とも同じような結果に、ついに「野外識別はムリや。」それを知ったグループの面々、とうとう地面にいるジシギ類の野外識別なんかやっぱり不可能かぁと思うようになった。貪欲なまでの識別魂は急速に萎えた。

 以来、フィールドノートには、タシギとわかる時以外は“ジシギ類“と一括して記録するようになったのである。

 今や、新浜グループ時代とは知識も識別技術も機材も格段に違うレベルで野外識別するバードウオッチャーが増え、かなりの人がジシギ類を容易に(?)識別しているようだ。シーズンともなるとジシギ専門に“追っかけ”をして、見事な写真を添付してくれる目利き腕利きの“ジシギハンター”HKさんもおられる。いつも私の重い尻を後押ししてくださり有難いが、進歩のない私の心中穏やかではない。悔しいことに、言われても写真のジシギでさえ識別できない・・・。

 昔の識別魂に火をつけようとしてつかない、このもどかしさ。ジシギシーズンがまた一つ過ぎようとしている。

 「スズメ色のシギ、まだ諦めてないの?」カミさんがなんと言おうと、一見茶色のジシギ類の識別点を高野さんへの冥土の土産にしなくちゃ気がおさまらない心境ではある。(塚本洋三記)

BPA
BPA

2009.7.31.カミサンのティータイム地球のあくび

町の幸せが
大きく手をかざし

2本の虹で
おいでおいでをした

一本は天国いき
一本は天国から

ペケをくらった人間が
すーっと放りだされる

人の命は重要だけど
まとめて考えれば
どうということはない

うぉぉ どこからか優しい地響きが
聞こえてきた

のんびりと
まるで地球のあくび

(塚本和江記)

2009.07.25.もう一つの江戸の華

 風は強いが心配された空は晴れ上がった。夕方近く、隅田川を続々と花火遊覧船が上っていく。我が家のベランダからの、夏の風物詩。
 例年と違うのは、ウミネコの成長1羽2羽の飛ぶ姿が時折見られること。夏でもこの界隈に棲みつくようになった新参モノは、やがて花火の音にびっくらすることだろう。
 「塚本さんのお宅からは花火がよく見られるんでしょう?!」と、期待をこめてよく聞かれる。大川っぷちの集合住宅の9階からでも、実はまったく見えないのだ。次々と建ったビルに隠れ、打ち上げ花火は見えない。その昔両国花火大会と言われた頃ならベランダ下が花火会場で、仕掛け花火は最高の見ものだったそうな。ここより上流の現在の会場でも、仕掛け花火は過去のものとなったようだが。
 隅田川の川開き、打ち上げ花火は江戸の華。どれっとビールを手にテレビ中継に見入る。今年はプロ野球のオールスター戦が重なって、チャンネルをあちこちさせチト忙しなかった。テレビで花火を見るとはなんとも無粋と知りつつ、ここ数年はそうしている。
 無粋とも気付かずにテレビ画面の花火にやんやの歓声をあげる人がいたら、一度は現場に身をおいて見ることをお薦めだ。そのド迫力や感動は、およそテレビの比ではない。尾をひいて打ち上げ花火の先を目で追い、どのあたりで夜空を彩るかと心を躍らす。巨大な極彩色の火の傘が頭上にかぶさってきて、そのまま降ってくるかと一瞬ドキリ。「立ち止まらないでくださ〜い、前へ進んでくださ〜い」と警護のお巡りさんの声。聞こえないふりする押すな押すなの雑踏。空を見上げる歓声。待ってました、クライマックスを告げる連打連打連打の打ち上げ。バリバリバリッと下駄履きの地面を揺るがすような爆音。川面に映える花火はまた格別。夢中で忘れていた川っ風の涼を、ふと覚える。
 現場で雰囲気を五感で感じとる。花火見物はこれでなくちゃ!
 テレビは実況中継でありながら、所詮テレビ画面なのだ。本物の花火見物を私が楽しんだのは、もう昔のこと。その経験と感覚があるから、テレビに毒されても承知でテレビの花火を見る。覚めた気持ちを心のどこかに意識しつつ。現場で感じる本物の花火とテレビ中継でみる「本物」、その違いを絶対に忘れてはなるまいと自分に言い聞かせる。言い聞かせたとて便利至上の「文明開化」に毒されていく今の世だからだ。

 花火中継が終わるころ、ベランダからの大川を下る帰り船の流れは、また見ものである。流れ下る舷側の提灯の赤。ついカメラを向けてみる。「こればっかりはモノクロじゃイカンなぁ」モノクロ写真ファンとしては苦笑い。遠地の友人が隅田川の花火風景を撮って送ってくれと言われていて力んだせいか、はたまた重ねたビールのせいか、こんな画像しか得られなかった。来年を期待していてくれ。アテのない約束を遠くの友につぶやく。(塚本洋三記)

BPA
BPA

2009.6.30.カミサンのティータイム薔薇

くちびるで
棘をなめる

しなやかな指で
愛撫する 茎

はらりと ひとしずく
流れる血を

舌ですくい取り
ごくり と飲んだ

花びら一枚落ちて
ローズティ ああ 目まい

ぐじゃぐじゃ煮て
ローズジャム おお 甘い

ろっ骨の内側に
薔薇の花 咲いた

心臓が なんだか
かゆくなってきた

    

     (塚本和江記)

2009.06.23. 柳橋にて

 私が今住むところから5分ほどで、神田川が隅田川に合流する。その神田川の水源が三鷹市井の頭池で、都心を25kmほど流れてくると知ったのは後のこと。川に架かる最後の橋が柳橋だ。渡りながら、隅田川に架かる両国橋を見るあたり、視界に川向こうの国際スタジアム会館(日大講堂)のドーム、近くは水上警察があってランチを繋ぐ太い杭の影が水面に揺らいでいた。
 そんな背景で飛び交うユリカモメの群れをねらって、中学生だった私は親父のブローニー判スプリングカメラでシャッターを切っていた。

 1698年に架けられた柳橋は昭和になって架け直され、平成3年に化粧直しされた。花街にちなんで欄干につけられた「かんざし」のレリーフはその時のもの。そう、柳橋の街は幕末明治維新以来から知られた花柳街だったそうだ。1955年ごろまでの全盛期には88軒もの料亭が大川沿いに立ち並び、数百人の芸者衆が行き交ったという。私よりご年配は「塚本さん、柳橋とはよいところにお住まいで・・・」と。どうもこの界隈、“よかった”らしい。
 露伴の娘幸田文が柳橋の芸者置き屋で働いた経験をもとに小説『流れる』を綴ったのは1955年。私が高校に入って懲りもせずにまだユリカモメに標準レンズを向け、千葉県新浜でバードウオッチングに夢中になっていたころだった。かつての華やかなりし柳橋街の面影は、歴史小説の中にのみ息づいていた。いや、橋のたもとの明治15年創業という佃煮の小松屋さんや、そのすぐ近くの和菓子の梅花亭さんなどは、変わらない昔の姿で商いを続けているが。
 私が大川っぷちの住まいに引っ越したのは、アメリカから帰国した1978年のこと。9階なんてイヤだぁと思いつつ部屋を下見にきたら、ベランダからユリカモメの群れが桜吹雪のように見えてすっかり気に入り、入居を即決した。それでもそのころは、お隣の料亭いな垣さんの前は黒塗りの高級車がヅラリとならんでいた。私なんぞは帰宅がてら、門から中を覗くことさえはばかられる雰囲気が支配していた。そのいな垣さんも数年前に柳橋最後の料亭として店仕舞いし、今では往時の佇まいそのままに門前を過ぎる人の想いを過去に誘う。
 街は姿を変え、住む人が入れ代わり、下町風情も移ろいでいく。なにごとも留まることことなく、総てが動いていくこの世のこと。変わらないものの存在を見いだせれば、忙しない日々に心がホッとする。ご近所でいえば、いな垣さんの門構えをそれとなく見て過ぎるその“ひととき”であろう。往時を語る街の顔として生き続けて欲しいものだ。

 夜、電話が鳴った。前日メールを送った北海道は美唄市の旧友藤巻祐蔵さんからだった。「塚本さん、今会えますか?」「えっ? いまどこ?」所用で柳橋向こうの実家に戻っていて、バード・フォト・アーカイブスに提供するスライドを持ってきているそうだ。
 「じゃ、5分後に柳橋の上で待ち合わせしましょうか。」粋な計らいである。相手が悪い?がその提案がすっかり気にいった私。
 かくして北海道はモユルリ島での1970年代初めに撮られたウミウのコロニーの写真は、柳橋が舞台となってバード・フォト・アーカイブスに登録されることとなった。
 柳橋界隈を散策すると、まだなにかいいことがあるかもしれないのだ。(塚本洋三記)

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2009.5.31.カミサンのティータイムGOOD-BY

砂丘をけりあげ
両手を広げ
水平線をいだく

歯ブラシ一本
胸ポケットにさし
巨大な海に挑戦する

途中 あなたが逝ったのを知らせる
おわりの波紋が
足元の砂をほる

ぽっ と咲く
ガクアジサイ
あの世の命が一つ 咲いた

空をみあげて

GOOD-BY

  (塚本和江記)

2009.5.25. 続 タイガの雫 (しずく)

 近辻宏帰(ちかつじ こうき)。今話題のトキに関心のある人には、近辻さんイコール佐渡のトキである。仕事として生涯トキの保護に明け暮れた、他に例を見ない人だった。そう、過去形なのだ。去る5月5日の深夜に突然あの世へ飛んでいってしまった。奥さんさえ予想外のこと。参ったなぁ。ほんとに参った。
 その日の朝方、私はトイレに起った。中に、人が背を丸くしてかがんでいて、すでに空になっている仏壇からなにかを取り出していた。な? そんなとこでなにしてんだい・・・。とっくに天国にいるハズの、親父さんかい?と問うあたり、どこだかへ行くと言ったよな、そのまま人の姿は消えた。
 寝付きよく夢も覚えない私だが、その短い夢ばかりははっきりしていた。珍しいので朝食をとりながらカミさんにその話をして2時間ほど後、近辻さんの訃報が届いた。
 朝の人は近辻さんだったに違いない。別れをしにきてくれたんだ・・・。

佐渡へいく前の年の近辻宏帰さん
撮影 ◆ 高野伸二
1966年10月24日
千葉県新浜

 近辻さんは、高校3年の1960年に日本野鳥の会へ入会。同じ年、東京で開かれた国際鳥類保護会議(ICBP)で、トキが国際保護鳥に指定された。その時、すでに近辻さんとトキとの見えない運命の糸が紡ぎはじめた。
 早稲田大学を卒業し、1967年、バードウオッチング界の長島さんと言われた鳥男、高野伸二さんに薦められ、佐渡行きを決めた。絶滅に瀕していたトキを救うために。すごい決心だったと思う。
 単身、大都会から佐渡へ。風土習慣の異なる地で“よそ者”が地元の人たちの理解を得て保護活動を進める。ハンパなご苦労ではなかった。人知れぬ心労は想像に余りある。幸い、トキの故郷旧新穂村の道子さんが良き生涯の伴侶となった。これもトキのとりもつご縁と聞く。
 トキが死ねば真っ先に責任を問われる立場。予定した新婚旅行も中止するハメに。トキ一筋の生涯。中でも特に「キンちゃん」は36年間も面倒みた。その経験が今に生きる。キンちゃんが逝った同じ2003年に、トキ保護センター長を退任。その後も、ボランティアで保護活動を続けていた。
 近辻さんはじめ関係者の積年のご苦労が実り、1999年に中国産のトキで初めて雛をかえすことに成功。それが昨2008年9月25日の野生復帰に向けた試験放鳥につながった。放鳥の日、トキを放される秋篠宮殿下のお側でサポート役だった近辻さん。その前に大病を患ったせいか、ちょっとやつれて見えた。後でテレビインタビューを受けたときの晴れ晴れとしたお顔。近辻さんには、ひとしお感慨深いものがあったに相違ない。
 だが、トキの野外での自然繁殖を確かめることなく「キンちゃん」の後を追った。享年66才。

 人去り重い日々だけど、ウルウル思い出を語るに早くもふんわか感じるのは、近さんのお人柄か。気安いけど、近辻さんは呼び慣れた「近さん」でいくぜぃ。
 私自身の近さんの自慢は、Tシャツのモデルになってもらったこと。ある日、近さんに佐渡への声をかけた野鳥生態写真家でもある高野伸二さんが珍しくマジメに人間を撮った写真をみつけた。佐渡へ赴任する1年前、おあつらえ向きに最旧式プロミナ―(フィールドスコープ)を担ぎ、ツバを後ろにキャップ姿の草つきに立つ近さん。高野さん近さんコンビでTシャツをデザインしようと思いついた。肖像権のOKをもらうとき、「ボクがモデルじゃ、売り上げ伸びなくても知りませんよ〜」電話の向こうで、何年振りかで声を聞く佐渡の近さんが笑っていた。
 そのTシャツは結構気に入って、今でも私は愛用している。まさか、思い出の品になるとはねぇ。
 Tシャツは、そのうちボロけてなくなってしまう。でも近さんが生涯かけたトキ保護の前人未踏の活動は、永遠だ。スゴイよな。地元に一握のトキ保護の大先達はおられても、マニュアルもないトキ飼育と保護活動の多分に未知の世界を切り拓いてきた。のに、ご自身のその活動をエピソードも交えてトキ保護の歴史の一冊として本に纏めることが実現しなかった。どうしても悔やまれてならない。近さんでなければできないことだったのに、ったく!

 家庭では、トキの話はまずしなかったそうだね。今日はトキどうだった? また死んだの? なんて奥さんからも聞かれていたら、気の休まる場もなかったもんな。敢えて何も聞かない奥さんの度量は底知れない。これ以上の思い遣りはなかったんじゃない? ジコチュウの近さんでも、そこはわかっていたんだよな。そうじゃなくとも、恐らく飲んべえを承知で一緒になったものの、奥さんのご苦労は絶えなかったようで。
 苦労はかけただろうけど、2羽がお互い羽づくろいしあい仲睦まじいトキのように、近さんと道子さんは“トキ夫婦”だって、東京で聞く噂はもっぱらそれだった。私はお二人の心の機微に直接ふれるのを密かに楽しみにしていた。それが果たせなくなってしまった。仕方ないけど。困った人だ。

 東京の私には、佐渡は遠い。
 1952年には、野生のトキが佐渡にまだ24羽も(!)いた。行って見たい。あの艶やかに神秘的なトキ色をこの目で一目見たいのだ。衝動を感じつつも、絶滅が心配されたトキを探しに行って繁殖の邪魔をしてはいけない。中学生の私はトキを“見てはいけない鳥”と一人決めた。ヤセ我慢さえしていなかったら、とっくに佐渡へ渡っていたかもしれない。佐渡の近さんご夫妻にもお会いできたのに。
 東京で会えなければ、私が佐渡へ行こうかと話はしていた。訃報を受けて初めての佐渡へ? 正直、心に抵抗があった。近さんと呑んで語り明かせるわけじゃなし。それは、葬儀を失礼してしまった私自身を納得させる言い訳でしかなかったのを知ってはいた。
 奥さんにはお悔やみを述べたかったものの、弔意だけを電報に託し、その晩は一人自宅で呑んでいた。いつかの近さん手土産の猪口で。底には小さな1羽のトキが羽ばたくデザイン。猪口を何度重ねてみても、トキは同じように1羽で羽ばたいていた。その内に、小さなトキが飛び去っていくような? お〜い、近さん、待ってくれぃ・・・。酔いがまわってきたか・・・。
 近さんも佐渡もまた遠くなった。

 近さんが逝ってまだ日も浅い5月16日。佐渡でとんでもないことが起きていた。奥さんのお宅から15分ほどの田んぼに、1羽のタンチョウが現れたのだ。佐渡にいるハズがないタンチョウが? 北海道からこの季節に渡ってくるとは信じ難い。しかし紛れもないタンチョウが、なぜか1羽。
 実は、5月の7日から、奥さんもご一緒の北海道へのバードウオッチングの旅を楽しみにしていたそうだ。出発を目前に、近さんは倒れた。タンチョウが佐渡に来たその日は、北海道から帰ってくる予定の日だったのだ。
 時々近さんは言っていた。「佐渡にタンチョウが来ないかなぁ〜。」そう言って待っていたご本人がいなくなってから現れなくともよかろうに・・・。
 ・・・おっ? そうなんだ、こりゃ近さんだぁ。タンチョウは近さんご自身なのだ。気付いて、鳥肌立った。近さんの魂がタンチョウに姿を変えて“里帰り”したのだ。
 知らせを聞いて現場へ車を走らせた奥さんを、タンチョウが迎えた。「うわぁ〜、きれい!」胸を打たれた。「足ながぁ〜い!」感動しながら、その時なぜかトキの足の短さを思い起こしていたそうだ。
 そう言えば近さん、なんでまたトキじゃなくてタンチョウになったんだい? 素朴な疑問。ま、佐渡でトキなら“当たり前”だよな。おや、見知らぬトキが現れたくらいで、誰も近さんとは気づかないやね。幻の北海道旅行で見るハズだったタンチョウになって、一人残した奥さんを喜ばせようとしたんだな。近さん、なかなかやるなぁ!

佐渡に現れた“近さんタンチョウ”
撮影 ◆ 近辻道子
2009年5月16日
新潟県佐渡市泉

 ところがタンチョウは、さらに驚くことをやってくれた。奥さんは誰よりも目をむいた。静かに近寄っていったら、左側の田んぼにいたタンチョウが車に近づいてすぐ前をゆっくり横切ったのだ。タンチョウが“近さん”そのものでなくて誰なのだ。
 右の田に移った“近さんタンチョウ”は悠然と餌を採り、はては畦で寝入ってしまった・・・。奥さんの目の前で。
 近さん魂は、北海道のタンチョウが佐渡の春浅い緑の田んぼで優雅に息づくすばらしいミスマッチを演出したのだ。生前、毎晩飲んでは奥さんにキツ〜ク小言を言われっ放しだった罪滅ぼしにしても、近さん、やってくれるねぇ。タンチョウに見惚れる奥さんならずとも、その話を聞く私までジ〜ンときてしまったもの。
 人間、一人で生まれ、人生の旅を終えるのも一人で、なのだ。心細いといえば心細い存在。夫婦一緒での年月が限られればこそ、短い時限に凝縮して培われたエネルギーを糧に残された者が生きていけるのだ。孤独とも違う。誰かが傍にいるから。十分なパワーを奥さんに残したかどうか、近さんはタンチョウになって確かめにきたんだよな。安心して旅立ちな。

 “近さんタンチョウ”は、佐渡の後はどこを見物していく気なんだろ。近さんのこったぁ酒瓶は忘れないだろうが、あの世でも飲み過ぎなさんなよ。

 3年前、次は奥さんとご一緒に拙宅を訪ねてくれるとの話は、なくなった。あの時の近さんの名言、「タイガの針葉樹に触れた霧の雫を集めてつくったようだよ、コレ!」を想いつつ、私お薦めのコレ、BEEFEATERを手向けの手土産としてもらおう。そのうち天のどこかで落ち合って、存分に呑み語ろうじゃないか。(塚本洋三記)


 追記:“フンドシ頁”と異名をとったこのホームページをどんどんどんどん繰っていくと、2006.4.1.タイガの雫(しずく)』と題したTさんこと、近さんが登場する拙文がみつかる。併せてご一読願えればと思う。

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2009.4.30.カミサンのティータイム侘びすけ一輪
一輪咲いた さいごの椿
少女の唇の
儚き笑い

遠い日

吊革をもつ指が
電車のなかでゆらゆら
まるで指切りげんまんを
誘っているかのような
小指

あれは
ちかん
だった

あの日
なにを約束してしまったのだろう

わびすけ よ
ぽっ とあらわれる
鳥のくちばしがほしいかい

思うぞんぶん 笑っておやり

(塚本和江記)

2009.04.12.さすがデジカメ一眼  カラーリングが読めた!

 久々のフィールド。時は春。気分、うらら。カワウのコロニー取材で国営武蔵丘陵森林公園へ出掛けたのだった。正月3日以来の、新調のオリンパスE3の出番である。1000羽以上もいるというカワウ。近くを飛べば、図体が大きい上にスピードもそこそこ。デジイチ新米が飛翔中の鳥をねらってシャッターを切るには、格好の被写体に思えた。
 シャッターは押し続けてよい。フィルム交換しなくて済むデジカメならではの夢のような話だ。それが、ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たる、という安易な考えに繋がる。それでなにが悪い? じゃんじゃんシャッターを切ろう。ああ、私もデジカメに染まっていくのだなぁ、てぇ気になるのだった。
 かなり思いっきり撮った。帰宅して、案の定、PCのディスプレーにピンボケカワウの山が築かれた。相当ヘコんだ私を救ったのが、この1枚である。

 実は、この1枚のシャッターには手応えを感じていた。ファインダーで黄色一点に気付いた、おっ、カラーリングだ、う、ピントあった、瞬間バシャ、やったぁ! それまで連写モードで撮っていたが、その時、人差し指は1回のシャッターでとどまった。その1回に、充実感が感じられた。これだっ、シャッターの醍醐味というのは。もしも連写でバシャバシャ撮った何枚かのうちから選んだ1枚なら、コノ瞬間にシャッターを押した喜びはなかったに違いない。
 ピントはイマイチであったが、私にしてはこのレベルでもマグレであった。しかし、納得のマグレだった。旧カメラ人種の私でも、デジカメに慣れればさらにマシな画像が得られるであろう明るい見通しがついた。

 ところがそれだけに終わらなかった。さすがデジイチ。画像を拡大してみたら、なんとカラーリングの番号が読み取れるではないか。さっそく旧知のカワウ姉御、バードリサーチの加藤鵜ななえさんにご注進してみた。メールの返事が、私の1枚に華を添えてくれたのだ。
 「(A87) 右足 カラーリング
 2003年3月6日 行徳鳥獣保護区コロニー 巣内ヒナの時に装着
 この個体は、2007年12月18日に同じ森林公園のコロニー内で私が観察していました。間違いなさそうですね!」
 すっかり嬉しくなってしまった。このカワウは、かつての私のホームグラウンド千葉県新浜でバンディングされ、6年も元気に飛び回っている。私の撮ったカワウの履歴がわかって、野生のカワウと私が結ばれたといった感じ。軽い興奮を味わった。なんだか眩しい感じ。
 この感じはお薦めである。皆さんもカラーリングに気付いたら、番号を読み取って特定非営利活動法人 バードリサーチinfo@ bird-research.jp へご一報を。プラスαの興奮に加えて、カワウ調査にちょっぴり、しかし大事なデータ提供という協力をすることになるのですよ〜。

 心優しき加藤鵜さんは、メールの最後に付け加えてくれた。「これからもピンボケの山にめげずにご精進くさい。」
 よっしゃ、精進するぞぉ。(塚本洋三記)

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2009.3.31.カミサンのティータイム: しだれ桜

だんだんと夕方
気づけば
とっぷり夜


ここはこの世
それとも
あの世 


近所の露地をまがって
とうふ屋さんを探して
ひとんちのうら庭を
はい上がっていくうちに

とつぜんあらわれた

ケイタイ電話をかえたばかりで
撮りかたがわからない
となりのお姉さんに聞いても
“そんなの知らない”って

静かに
多弁に
あたりの空気をふるわせ


しだれ桜


この世とあの世のあいだに
たたずむ


(塚本和江記)

BPA

2009.03.30.デジカメは消耗品?!

 今回もデジカメの話? いささか聞き飽きたと言わずにちょっとお付き合いのほど。
 いや、驚くなかれ、今や高級一眼デジタルカメラでさえ消耗品だという。機能の優れた上位機種が次々とでてくるので、1−2年使って買え換えた方が「お得」というのだ。

 50年ほど前、カメラを持つ人は少なかった。私は中学生でオヤジのお古をいつの間にか自分のものにして使っていた。カメラは高級品、親子末代まで、といった感じであった。加えてカメラは自分の感覚や手先の延長であり、カメラと私は一体という感じで愛着をもって扱ったものだ。
 1974年に写真集『野の鳥の四季』(小学館)を出版され、野鳥生態写真史で一つのエポックを築いた高野伸二さんがよく口にされていた。「カメラはメーカーではなくて、ウデ次第だね。使いこまなくちゃ。」メカの性能が低い一生もののカメラ、必然使いこなすことにもなろう。愛着がわいてこようというものである。どれも過ぎし日の話。

 今は違う。カメラは誰でも手にすることができる。旧カメラ人種の私としては、高級デジカメでさえ消耗品と聞かされ、デジカメのいわば使い捨て状態に驚かされた次第。高野さんも天国でさぞやニガ笑いであろう。(塚本洋三記)

BPA
2009.3.1.カミサンのティータイム“おくりびと”は“納棺師

ニュース速報を見て興奮した。
右手で握りこぶしを振り上げ「うぉー」と吠えた。
“おくりびと”がアカデミー最優秀外国語賞を取った。

数年前実母が亡くなったとき、この専門職があるのはちっとも知らずにめぐりあっていた。
やけに丁寧に髪をとき、亡骸の顔をなぜ、うぶげを剃り、そして死化粧をほどこした。最初はぷふっと笑いたくなったが、その彼の儀式のありさまを見ているうちに、だんだん母のことを思い、切ないような、それでいて、妙に満足するよな気分になっていった。

私は真剣に母の人生を考えた。
不思議だった。

以前友人の御父上が亡くなったときの話。悲しみはそれはそれなのだが(彼女はファザーコンプレックスと見まごうばかり)、御遺体を見事に洗い清めるようすに感動したとのこと。涙半分、笑い半分。
ピュアな心の持ち主だなぁ、と感心した。

今回“納棺師”という職業をしった。まったく無知なもんである。

母をおくった納棺師は本木君ほど美男子ではないが(当たり前かっ)、真面目そうで、少しいたいけな表情がなんとも魅力的な青年だった。

今回のアカデミー賞はもうひとつ、短編イラスト賞も受賞した。温暖化により家が水没してゆく中で、家族の思い出などを拾い集めてゆく話という。「つみきのいえ」加藤久仁生監督。優しい話、心が愛で満たされゆく。

一年のアカデミー賞で2部門受賞。これは、画期的。
どちらもまだ観ていない。観ていないのにTVで滝田洋二郎監督のおっかけをしている。なにを話しても、うまい。本木君もうまい。

はやく、作品にふれなければ。(塚本和江記)

BPA

2009.02.22. 悪口はカメラに慣れてから言え!

 私は銀塩フィルムのカメラを使っていた旧カメラ族に属するモノログ人間ではあるが、デジタルの時代に半生のモノログ域を脱しないのも不甲斐ない。デジカメのめまいのするよなボタンやダイアルの組み合わせに尻込みするフシはある。それは扱っていればなんとか慣れるであろう。コンピューターだって必要な部分の扱いを知って便利しているのと同じではあるまいか。
 とは気安めしてみても、どうにも私がデジカメを好きになれないでいるのは、ひとつには美し過ぎるカラーや研ぎ澄まされたピントの良さにある。あまりに人工的な感じがするのだ。しかし、文句言っても始まらない。まずは美しいドピントの画像を私自身が撮れるようになってみて、なおデジカメの悪口を言いたいなら言えばよい。というわけもあってオリンパスE-3の登場。60才もドン詰まっての手習いと相なった。

 前回このページでデジカメ一眼での初撮り惨敗の記を書いた。さっそくデジイチ先輩(私にはデジ神様)から、ごもっともなアドバイスをいただいた。「まずはカメラに慣れること。その内デジカメの楽しさも分かかるようになってきますよ。」そのメールを神妙にうけとめた。
 自業自得、傷心の初撮りから1ヶ月以上も部屋の片隅に放っておいたE-3を、やおら机の上に移し、カメラに慣れることにした。仕事の合間に手にとりそこここ動かしてみては、マニュアルで機能を確かめる室内練習である。とある日、折良くカラスの声が聞こえた。しめたっ、被写体つきの実習だ。9階のベランダからそっとレンズをのぞかせ、2階の手すりを止まり場にしているハシブトガラスを狙ったのだった。

 撮れた、撮れた。いともカンタンに撮れた。出来不出来を言わなければ、とにかくハシブトガラスが写っていた。だが、どうも釈然としない。その昔、カラスの写真を撮るという感覚でいえば、こんな簡単に撮れること自体あり得なかったのだ。
 野鳥の撮影は、レンズと被写体との距離をなんとか縮めるという、シャッターチャンス以前の問題から始まる。カメラは手動、露出はカン、すべて経験がモノをいう。発売されていない部品が要るとなると間に合わせの材料を見つけ出して手製する。工夫し苦心して撮るものだった。DPE屋さんから現像があがって結果を見るまで1週間は待たねばならなかった。待ったあげくに、フィルムに浮かび上がった鳥らしき画像がブレていたりピンボケだったり。大抵はがっかりさせられるこんなお決まりのコースでも、いつかは一枚の傑作を夢見て撮り続ける奥の深い楽しさがあった。
 一方、デジカメの撮影ときたら、シャッター切るまでがモノ足らなければ、結果がでるまでいとも簡単で早過ぎる。同じ人間である私にとって、モノログの過去とデジタル現在の落差があり過ぎるのだ。
 「で、ラクに撮れて何が悪いんだい?」 自問して自らを納得させようとするデジカメ一年生であった。
 かくして「撮れた、撮れた。見て、見てぇ」の初心者よろしく、私の相手になってくれた件のハシブトガラスくんの晴れ姿をご覧いただく次第である。ピントも色もイマイチは承知だが、さらに内容のある一ランクずつ上をお目にかけられるよう、まずはカメラに慣れることを心掛けるようにしよう。(塚本洋三記)

BPA

2008.1.31.カミサンのティータイム雪ちらちらの八丁

 川の流れに耳を澄ませながら、雪ふる露天風呂をご想像いただきたい。湯にふれた肌に白い雪がおちる。これはまさに日本の演歌の世界か。演歌はあまり好みではないが、ソレはソレ、どっぷりとつかりたい吾人も多かろう。しかし今日の露天風呂話、その世界とはちょと違う。

 ここは栃木県奥鬼怒温泉郷“八丁の湯”。秘境の温泉場として名をはせている。この地に入るには、途中の駐車場に車を乗り捨て、迎えのバスでのぼっていかねばならない。尾瀬とか上高地とかといった所と同じで、加仁湯というところで私たちは拾われた。この加仁湯も秘境温泉で知られてはいるが、どうも、こう、あそこの湯はいけない。橋の上から混浴が見えてしまう。そんなものをチラリと盗み見しながら、宿が派遣するマイクロバスにのりこむ。
 こんなにも雪深い道を行く。道なんかない。いや、夏になれば小道が現れるのかもしれないが、雪が積もった、ちょっと開けた林間を走っていった。おおきく揺れながら運ばれていったのだ。
 しばらく行くとドーンと温泉場に到着。雪深きため全体の風貌はよくはわからぬが、昔ふう建物もあったように思う。案内されたのは、おっと洋風の館、予想と違って少々のとまどい。

 滝が落ちる。暗闇の中で野天風呂がほんのりライトアップされ、まわりはめまいがするほどの雪景色。そして軽やかなほどの小雪が舞っている。心がとろけてしまいそうなほど美しい。耳をすませば水音が誘う。よろしい、誘われましょう。滝を見物しながらお風呂にはいれる。こんなにも魅力的な露天風呂のかたまり、計8つ。
 私は風呂から風呂へとわたり歩いていた。人も思いのほか少ない。美しさのためかスッポンポンでふわふわと。とあるお風呂の際で、すてんと一発すべって転んだ。それも少しではあるが小股を広げて。なんと人が湯につかっていたのだ。顔立ちは忘れてしまったが、その時の殿方の表情は忘れない。うわっ、という顔をして、それは一瞬だったが、すぐなにもなかったように顔をそむけてくれた。ありがたかった。その礼儀がありがたかった。むろん私も即刻すっくと立ち上がり、なにくわぬ顔でその場をあとにした。もちろん部屋にもどれば足に青たんが浮き出ていたが。

 食事は正直申し上げて、まずい。食堂にみんな集められ、値段にあった楽しみ方をしている。私どもはシカなべだかイノシシなべを別注文した。特別注文なので期待していたのだが、これはもう言葉にはならなかった。あれはクマなべではなかったのか。もっともクマなべがどのような味かはよくしらないが。どうにも、まずい。あの獣の匂いがいまだ胸にしみこんでいる。どうぞためそうとなさるなら、皆さま、ご注意なされよ。もっとも夫は「ふーん、強烈だ。うまかねぇ。」などと言いながら、結局最後まで食していたが。

 細かいことアレやコレ書き連ねてきた。しかしほんとに美しいところに足を踏み入れると、人間どんな気持ちになるのだろう。ひとつ言えることは、良いも悪いもすべてのみこみ、たとえ一瞬であれ美の異次元へひきずりこまれる。それがほんとに“次元の違う美”というものなのではないだろうか。(塚本和江記)

2009.1.24. デジカメ一眼で初撮り ああ・・・完敗の記

 デジカメの悪口をいってはいけない。新年早々に思い知らされたのだ。正月3日に千葉県三番瀬と谷津干潟へでかけ、ついに手に入れたデジタル一眼カメラで初撮りした時のこと。

 三番瀬のきらめく海、抜けるような青空、遠く白雪の富士。干潟がでるまで砂浜に大の字になって小一時間ほどウトウトした。気温4度、暖かな陽の光と頬にほんのりした微風に、気持ちのよいことこの上なかった。
 新年初フィールドの好調なスタートは、そこまで。潮が引き始めたのに、お目当てのミヤコドリの大群は影すらもない。仕方なくハマシギとかコサギにレンズを向け、遊ばせてもらう。その日の目標は、ピントのよい画像を撮ることとデジカメ一眼のメカに慣れることだった。
 機種はというと、オリンパスE-3にズイコー70‐300mmの望遠レンズ。機種選びの当初、どうせなら最高レベルのキャノンEOS 5D MARK IIが登場しての値下がりを狙って、EOS 5Dあたりを想定していた。期待したほどには値が下がらなくて、5Dは高嶺(値)の花に終わった。
 私の胸中を察して対応してくださった写友のお薦めが、お手頃のキャノンかオリンパスであった。後者なら予算内でそこそこな望遠レンズも手に入る。フラッグシップ機E-3が、防塵もさることながら雨中の撮影に耐えるというのも気に入った(もっとも望遠レンズが濡れれば話にならないが、ま、その時はビニールでも巻いておけばよかろう)。さらに、どうもキャノンやニコンのユーザーからオリンパスが一目おかれていないあたりが、私の入り込めるスキ間としてもよろしい。そうだっ、アノ動物写真家岩合光昭が愛用しているのがオリンパスだ。ざっとこんなあたりのミーハー的な理由で、エイヤッとオリンパスに決めたのだった。
 デジカメ一眼を持たせれば塚本にもなんか撮れるんだろうなぁと思っているデジカメ先輩をアッといわせる画像をいずれご披露し、ついでにデジカメ一眼の悪口をたっぷり言いちらしたいところだった。

 久々に新しいカメラを持つのは悪い気がしない。長年親しんだロールフィルムの1本12枚撮りとか35mmフィルム36枚撮りとかを経験している私には、もったいなや、夢ではないかと、あっという間に300枚ほどを“消化”して持ち帰ったのだった。
 いそいそと画像をパソコンに取り込んでみて、我が目を疑った。太陽の下でカメラのモニターを見たときは、まぁこんなもんかぁと思っていたのに。ヘタな鉄砲でも300回ほど撃ったのだから、満足のいく画像の1つくらいは当たっていてもよさそうに。
 一体なにがどうしたというのだ?! まず、まともにピントがあっていない。オートフォーカスはどうした? 微妙に手振れか? 手振れ防止ではなかったのか? プログラムオートに設定したのに(う?! シャッター優先にすべき?・・・そんなぁ、いまさら)。画像の雰囲気がなんとも美しくない。コサギなんてタダの白の光沢紙のようだ。オートのホワイトバランスは効かなかったのか? ブツ、ブツ・・・。
 ほとんど全滅状態に、ただ愕然、ボー然。
 デジカメ時代に内心私は思っていた。デジカメなんてオートなメカの塊りだから、シャッター押せばカメラが撮ってくれる。撮影のウデなんて二の次三の次だ。冷たい感じすら覚えるシャープなピントに美しすぎるカラー。やたらとシャッターを切ってウンザリするほど多くの似たような画像の中から最も良さそうな1枚を選び出す作業なんて、写真を撮る楽しみとは言い難い。写真を撮る工夫やウデの振るいようは、フィルムカメラに比べればほとんど無きに等しい。きっとつまらんですよ、デジカメは。などと、どうもデジカメ一眼が好きになれないままでいた私。使ったこともないのに、ずっ〜とデジカメ一眼の悪口を言いたい放題であったのだ。
 やられた。完ぺきに足元をすくわれた。参ったなぁ、もう。アノ日から3週間ほど過ぎたが、私のデジカメ一眼は部屋の片隅で静かにしている。恥っさらしとは思うが、我がデジカメ完敗記を記録しておかなければなるまい。気を取り直し、300枚の中でもマシに思える画像を選んでみた。

●浅瀬で魚?を追うコサギを眺めていて逆光の干潟が“絵になる”かと、撮れるハズの絵コンテを頭に描く。シャッター1発で、思い描いたポーズを仕留めたと思った。が、ピントがどうもイマイチ。
 干潟でのオートのピントがなんだか合いにくいと感じていたので、このときは中心部だけのターゲットAFモードで狙ったハズ。なんでアトピンになっちゃったのさ。さても600mm相当のレンズを手持ちでは、手振れ防止機能も限界なのか? オートに頼ってばかりではいけない? 慎んで反省。

●もう少しピントの良い画像もあるにはあるが、私の好みでセイタカシギにふさわしく? フワッとしたピントのものを選んでみた(どうも負け惜しみくさいなぁ)。
 ガチガチのピントの良いデジカメ画像はどうもいただけないと思うのだが、黙っていても撮れるものと思っていたガチピンの画像が、私には撮れなかった悔しさ。ま、“ピントの良い写真、必ずしも傑作ならず”などと悪態をついてはみても、このセイタカシギが傑作というにはほど遠い。無念なり。

●連写初体験で、ヒドリガモの水浴びを狙う。何か撮れているだろうと連写をバカにしていたら、ロクな画像がなかった。ヒドリガモくんには申し訳ないが、狙った水しぶきの面白そうなものを選んでみた。
 なるほど、これが連写か。ココダッとシャッターを押したい私の衝動を無視して、カメラが勝手に写し続ける。快感といえばこれまでの私のカメラでは味わえない感覚。便利といえばそれまで。つまらんと感じれば確かに味気ない。とにかく撮っておいて後から1枚を選べばよいのだと思うと、余計に気分が白けてくる。集中力も失せる。ところが、である。たちまち連写にすがり、連写連写でシャッターボタンを押し続けたから恐ろしい。
 ああ、オートなデジカメ連写で、こんな画像とは・・・。普段「飛びもの」を見せてくれる写友が、デジカメの神様のように思えてきた。

「いまに見ていろ、オレだって・・・」 50年ほど昔にも確かこんなこと言った覚えがあるなぁ・・・。(塚本洋三記)
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