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2010 DEC.
デジカメがなかった頃のヒシクイ
 半世紀ほども前に撮られたヒシクイ。撮り終わったロールフィルムを新しいのに換える作業に指先が凍えるのを覚えた冬の日。シャッターを押した瞬間の感覚と瞼に残るファインダーの構図を思い起こしながら、格好のモデルとなってくれたヒシクイに、「いや有難う、きっと傑作が写っているに違いないぞ」と一人つぶやく。現像ができあがってくるまでの1週間ほどが待ち遠しい。そんな経験をニヤリと思い起こす向きには懐かしい「今月の1枚」である。
 個人的な懐かしさ以上に、誰がみてもホッとする “故郷の匂い”が感じられるようなこの写真には、ピントや色彩を超越した“味”が滲みでているように思われる。
 デジカメは、当然そのころ存在していなかった。このヒシクイを撮った隣りで同時に撮られたデジカメ写真と比べて鑑賞することができるなら、はたしてどちらの写真がより魅力的であろうか。遊び心で想像してみるのも一興である。

 話は飛ぶが、忘れがたいのは私の高校時代の絵画の授業で経験したこと。全生徒がそれぞれ描いた画の、勝ち抜き選をした。私の果物画が最後に残った。教師は、難しいスイカのピンクが美味しそうに描かれていると短く批評して、画用紙のスイカをガブリと食べる仕草でクラスを笑わせた。得意な気持ちが覚めやらない内に、教師は一番ペケに選ばれた画を取り出し、私の隣りに並べてみせた。どちらが面白いと思うかと問うたのである。
 生徒が最も良いと思って選んだ画と、一番ヘタな画。面白みというか画の味というか、結果は比べるまでもなく一番“ヘタクソ”の画であった。教師は何もコメントしなかった。しばし静まった時が流れ、教師の意図が教室を支配した。私の“見る目”を開眼させてくれたその教師に、いまだに感謝している。

 想像するに、デジカメでバシャバシャ連写された中から選ばれる画像は、色彩美しく、ピントがピッカピカにきているに違いない。ヒシクイの翼先端の羽1枚1枚にまでピントがあって、被写体がマガンかヒシクイか迷うこともないであろう。一見して誰の目にもキレイな良く撮れた画像である。
 モノクロを“ペケな”写真と端っから決めつけるつもりはないが、デジカメで撮られた写真とモノクロとを比べてみると、なんとなく画の教師を思い出す。デジカメ写真全盛の今の時代に、モノクロ写真から“何か”が感じとれるならば、そしてそれをデジカメ撮影に活かせれば、デジカメ画像がさらに魅力的になるのではないだろうか。
 画と写真とを問わず、「見る目」と感性をいつも磨くよう心がけることは損にはなるまい。

降下するヒシクイの一群
撮影 ◆ 高野凱夫
1964年2月
新潟県佐潟

BPA
2010 NOV.

巣立ち近い2羽のトキ
撮影 ◆ 下村兼史
1933年5月31日(SINRA June 1999 p.109に拠る)
新潟県佐渡郡新穂村(現佐渡市)

 (財)山階鳥類研究所に収蔵されている視聴覚資料の中に、日本の野鳥生態写真の先駆者下村兼史(1903−1967)が遺した写真関連資料があります。乾板・ネガ・プリントなどの写真等資料10,386点と原稿・台本・スクラップなどの文字資料1,492点とが「下村兼史資料」と呼ばれるものです。主要な原板やプリントはデジタル化され、また全資料のデータベースが作成され、利用されるのを待っています。(山階鳥類学雑誌 第41巻第2号には、文字資料が918点と報告されていますが、その後に574点の文字資料が発見追加され、「下村兼史資料」の総数は11,878点となっています。)
 一生態写真家の生涯に撮られた写真のほとんどが戦禍や散逸を逃れて集中的に保存管理されているのは、野鳥生態写真史上きわめて稀な事例であろうと思われます。山階鳥類研究所のご好意により未発表作品も含めてこのバード・フォト・アーカイブスのホームページで折りにふれて下村兼史作品を掲載し、他所では機会の得難い大先達の作品鑑賞の場とさせていただきます。
 今月は、トキをご紹介いたします。

 歴史的なトキの写真で挙げられるのが、「今月の1枚」の下村兼史が77年前に撮った巣立ち近い2羽の幼鳥の写真(下村資料ID no.AVSK_NM_0011)。当時各地の天然記念物や希少種を学術記録として下村が撮影していたときの作品です。
 野鳥生態写真の黎明期は、対象をアップで撮ることが写真技術上むずかしかった時代とみえて、生態写真家は少しでも大きく撮れる撮影を心がけたようです。トリミングして大きく伸ばしている写真もみかけます。下村とて例外ではなかったようです。その点からは、トキが比較的大きく写されている「今月の1枚」は、下村自身の手によってはどこにも発表されていないのが不思議な気すらします。吉田元によりSINRA 1999年6月号の109頁に紹介されたのが、私の知るかぎり初めてです。
 2羽の幼鳥がいる同じ巣と思われる写真で巣の周辺をも取り入れた、トキがやや小さく写されている作品(AVSK_DM_0160)があります。こちらは、日本鳥類生態写真図集p.29、日本の鳥類と其の生態 II p.904、日本鳥類大図鑑 II no.393、日本鳥類生態図鑑no.4、野鳥礼讃写真1に載っていますので、ご記憶のある方もあるかと思います。発表されたトキの繁殖生態を撮ったものとしては、「今月の1枚」とともに日本で最初に撮影された一連のトキの写真の1枚かと思われます。下村が、トキが小さく移っている方の写真をどうして選んで発表したのかは、語られていません。発表写真の選定という視点から興味深いことです。

 これらの写真を含め「下村兼史資料」には、トキ関連の原板、プリントなどが63点あります。中でもユニークな記録として、トキの“卵”(AVSK_PM_1197)の写真があります。プリントの裏には、“1962年6月内田博士採集 巣の真下に落下したもの 破片を集めて再生したトキ卵”のメモ書きが残されています。
 胃の内容物の写真(AVSK_PM_1198)の裏のメモには、“トキ 雛 佐渡島”と撮影日と思われる“八、五、三十一”の他に、識別された胃内容物の種類と数が挙げられています。
 トキの古文書に関する写真(AVSK_OT_0322)には、“慶長年間の朱鷺に関する文書”とのメモ書きがあります。解読されれば、貴重な資料となるかと思われます。また、トキの故郷の森で一人がトキの屍をかかえ、他の一人は一升瓶を手に威儀を正した数人の地元民の写真(AVSK_NM_0001)も残されています。
 トキの生態を写したものには最初に挙げた繁殖生態の他に、山間を舞う2羽の米粒のようなトキの姿(AVSK_NM_1734)もあります。当時ですら下村にしてようやく撮れた写真のように思われますが、いずれも詳しい撮影状況の記録やデータがみつかっていないのが惜しまれます。

下村兼史作品紹介: トキ
(財)山階鳥類研究所の下村兼史資料の利用についてのご質問、お問い合せは、同研究所の下村資料提供窓口となっている(有)バード・フォト・アーカイブスへ直接ご連絡ください。
mail:info@bird-photo.co.jp(@を半角に直して送信してください)
URL:http://www.bird-photo.co.jp/
tel&fax:03-3866-6763
BPA
2010 OCT.

ニシツノメドリ
撮影 西崎敏男
1981年6月
アイスランド

生態写真の撮影時の狙い目
 乾板やフィルムカメラ時代に生態写真を撮るときの楽しみは、まさにシャッターを押す瞬間にあったと思う。ファイダーを除き、ピントはよいか、構図はどうか、光線は? モデルのポーズや表情を追いながら、もっと「ここぞっ」という画面展開にならないか・・・ 考え過ぎや狙い過ぎで目前のチャンスを逃してはタイヘンとの思いが頭を過ぎる。と、次の瞬間、ガシャ! シャッターを切る。といったところか。大抵はワンチャンスに1回の必殺(撮)のシャッターである。これが快感、こたえられない。どのように写っているかは、現像ができてのお楽しみであった。
 デジカメなら、「ここぞっ」の気合いが入る前に、大抵はバシャバシャバシャの連写になろう。撮れた中からどれかモノになっている1枚を後から選んで作品にすればよい・・・。その場で結果の確認ができるから、ダメならさらに撮り直しもきく。フィルムカメラとは、自ずからシャッターを押す気構えが違っている。

 換羽時のボロボロの鴨の写真が撮りたいとか作品意図がよほど限定されていない限り、被写体選びはハンターのトロフィー狙いと同じようなもので、より美しい個体、より立派な個体、より見栄えのする個体、珍しい鳥を狙いたいのが人情。それは昔も今も変わるまい。
 モデルとなる鳥種によって、“写真になり易い”種となり難い種があること。フォトジェニックな種とそうでない種があるのも、同じである。
 例えば、白鳥は白鳥なるが故に、そして水辺の景色のよいところにいるので、誰が撮ってもなんとなくサマになる写真が撮りやすい。白鳥はなにかと“絵になり易い”のである。その有利さの故に、撮る方に安心感があるせいか、撮る人の多いわりに傑作が少ないように思える。
 カラスや雀となると、なかなか絵にならない。傑作写真を撮るのは、実に難しい。鳥自体が写真のモデルとして正直見栄えがしない(失礼!)ので、それだけ撮る側で努力して写真にしなければならない。どちらも身のまわりにいる鳥だけに、背景の景色も写真としてアピールできるまでにまとめるのがままならないのである。カラスや雀のハッと息を呑むような傑作写真が撮れれば、自慢できるというものである。
 海鳥のコロニーのようなシャッターチャンスがいくらでもあるところでの撮影は、狙い方次第でいろいろな写真が楽しめる。いわゆる生態写真の域を飛び越えた写真に挑戦するチャンスでもある。

 「今月の1枚」は、ニシツノメドリのバックを岩影にして2羽のポーズの面白さを35mmのフレーム一杯に思い切った構図で狙ったもの。鳥のポートレートとして一味違ったものが感じられる。因みに、コダクロームII(ここではグレースケールで表現した)ASA25が使われ、ニッコール1000mm F11のレフレックスレンズでは、太陽がギラギラとは輝かないアイスランドの海岸で、シャッタースピードは1/30〜1/60秒。焦点深度が浅いので鳥の前後にボケるものを避け、なにより苦心の手作り手振れ防止装置(?)で手ブレに気を使って撮った。狙いに狙って撮っただけに、この1枚への思い入れも強く、撮って30年近くになるのに今だに「シャッターの瞬間」を鮮明に覚えているとのことである。 

 撮らんかなの意図的に狙う心構えと自然の中の鳥を“絵として”捉えるセンスがあれば、生態写真の先には無限の可能性が生態写真家を楽しませてくれるに違いない。

▲2010目次

BPA
2010 SEPT.
サロベツ湿原の仮水路掘削工事
撮影 ◆ 藤巻裕蔵
1961年10月25日
北海道サロベツ湿原

サロベツ湿原の放水路をめぐって

 北海道最北のサロベツ湿原の稚咲内砂丘列に並行して長く南北に延びる長沼湖沼群の沼畔。一面に咲いたゴゼンタチバナソウの小径を行く。花を踏みつぶさずには前に進めない。アカエリカイツブリの異様とも思える声が森の奥の沼から響く。耳を緊張させ、繁殖期の鳴きあう(?)声を初めて聞く。人っ子一人いない。原生自然を満喫していた私。30年ほども昔のことだ。
 そのときは、近くのサロベツ湿原に放水路が建設されていたとは、想像の外であった。実は、湿原を一刀両断、東西に全長3,840mの放水路が建設されていた。完成は1966年。戦後の開拓入植がきっかけとなって、雪解け水による洪水緩和と牧草地造成により基幹産業の酪農を育成していくための放水路建設だった。

 昨年、「こんな写真もあるけど・・・」と藤巻裕蔵さんから遠慮がちにバード・フォト・アーカイブスに送られてきた5枚の写真。こんな・・・どころではない。ご覧の通り、アノ放水路建設工事現場そのものではないか?

 調べていただくと、撮影は1961年。放水路建設に先立つ仮水路掘削工事であろうという当局の見解。なんでも、放水路はポンプ船で浚渫して施工し、放水路の湿原側(南側)に排出された浚渫土から出る泥水を沈降させるための水路工事と考えられるとのこと。いずれにせよ、当時のサロベツ湿原開発の現場が湿原の東側から西をみて撮影され、ハーフサイズのフィルムに残されていたのだ。
 見れば、約20,000haといわれる広漠たる湿原とその1カ所にとっついてスコップを手にした工事の規模とがまるでミスマッチのような、のどかな?開発現場を写した貴重な記録写真ではないか。

 そのサロベツ湿原はというと、1923年から1975年の約半世紀の間に湿原は牧草地などに改変され、その面積は約半分に減少したとみられる。放水路工事や他の暗渠排水、客土など人為による残されたサロベツ湿原への影響は少なくない。これでは、湿原生態系の複雑な水文バランスが崩れ、いずれは湿原が湿原の姿を保てなくなってしまいかねない。
 湿原保全の一つの契機は、1974年に利尻礼文サロベツ国立公園になったとき。約30年間保留地としてあった肝心の原野部が新たに国立公園に編入されたのは、2003年になってからのことではあったが。この間にも人為に起因する原生湿原を蝕む環境の変化は進行している。
 上サロベツ湿原における保全の課題は、放水路による植生への影響、乾燥化によるササ群落の侵入、泥炭採掘跡地の再生、土砂の流入、湿原と農地の隣接による影響、ペンケ沼の土砂流入による埋塞などなどが挙げられている。
 課題になんとか対応しようにも、典型的な低層、中間、高層の3タイプからなるサロベツ湿原が形成されるまでに悠久の歳月がかけられたその自然を、人知や科学技術の力で数十年くらいで再生管理しようとしても、湿原はそれほど言うことを聞いてはくれまい。
 開拓時代から湿原に影響を与え、放水路が完成して40年以上もの間にじんわり育ってしまった課題だけに、環境省、農水省、国交省をはじめ、関係官庁や諸団体などが実施する、遅ればせながらの湿原再生事業に期待をかけたい。
 その湿原再生事業は人間にとって未知の領域が多い。莫大な資金、労力、時間、生態学的社会学的知見、政治判断とを必要とし、なお結果は恐らく未知数であろう。蓄積されたデータと経験豊かな識者の勘にもよる湿原相手の試行錯誤が続けられよう。
 私の願いは、2つ。個々の課題は数十年かけてもクリアーするにしても、結果「湿原は死んだ」ことにならないよう、常に湿原の水域全体を視野にいれた計画と連絡調整の効いた湿原再生事業が展開されること。そして、その事業は、明確な目標に向かって子孫代々まで継続されるような、日本人には多分苦手であろうが、息の長〜いものであって欲しいこと。

 1961年6月にサロベツ原野を横断して鳥の調査をされた藤巻さんが、昨年私に語ってくれた。「ミズゴケ湿原の上で飛び跳ねると10m四方くらの範囲がゆらゆらと揺れたのを今でも覚えてるんだ。」
 ミズゴケの絨毯で共に“踊る”のは、ほんの一握の日本人が経験できることではあろう。しかし、想像するだけでも、そんな湿原環境がどこか北の方に在ると知るとき、私の心はいい知れないワクワク感で満たされたのだ。
 貴重な湿原は守らなければならない。

●同じ時に撮られた開発現場の写真が、BIRDER誌11月号のARCHIVESのページに載る予定です。
 併せてご覧いただければと思います。

[今月の2枚目]

サロベツ湿原の仮水路掘削工事−2
撮影 藤巻裕蔵
1961年10月25日
北海道サロベツ湿原

BPA
2010 AUG.

清流にカワガラスの図
撮影 ◆ 下村兼史
1920年代後半?
佐賀県?
資料提供:(財)山階鳥類研究所

下村兼史作品紹介:カワガラス

 (財)山階鳥類研究所には、約6万9千点の標本類、3万9千冊にのぼる文献などとともに、日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史(1903−1967)が遺した乾板、ネガ、プリントなどの写真資料約1万点が「下村兼史資料」として収蔵されている。今月は、その資料の中からカワガラスを紹介したい。

 カワガラスは、四季主に日本の山間渓流に棲み、多くはないが普通にみられる小鳥である。水棲昆虫や小魚などを主食とするため、澄んだ水との縁は切れない。餌を求めて水中に潜り川底を歩いたりと、スズメ目の鳥としては“変わり者”である。産卵を始めるのが九州では春には遠い2月ころからではあるが、全国的にうだるような酷暑だった今夏、滝の裏側の巣に餌を運ぶ涼しげなこの作品を、残暑お見舞いを兼ねて敢えて選んでみた。

 下村の初期の代表作と目されるこの写真は、一幅の水墨画のようでもある。自然の中で息づくカワガラスの生態を詩情豊かにカメラに捉え、画面からは涼風さえ感じられる、下村ならではのモノクロ作品の真骨頂といえよう。

 このカワガラスは、ガラス乾板(資料ID番号:AVSK_DM_0217)で撮影されたものであるが、劣化が著しく進行しているため、下村自身が引き伸ばしたと考えられるプリント(AVSK_PM_0347)から再製した。
 撮影データの詳細は、残念ながら下村の多くの作品で欠けていて、推測する他はない。この写真が代表的な写真集『鳥類生態写真集 第1集』(1930年 三省堂)のPL.38に収録されているので、撮影年は1920年代と思われる。
 撮影場所は、下村の初期の撮影フィールドでの同種の写真および二次情報(例えば、吉田 元 1999. 日本ではじめて自然を撮った男 下村兼史. 第1回 発見された日本で最初のネイチャーフォト. SINRA 6(4):102)から推して、佐賀県と考えられる。

BPA
2010 JULY
田中徳太郎(1909−1989)撮影の写真を追う

埼玉県美園村小学校を訪れた国際鳥類保護会議(ICBP)の各国代表と挨拶するD・リプレイ会長
(写真凸版からデジタル化)
撮影 田中徳太郎
写真凸版(“シャトツ”)提供
増田直也
1960年5月29日
埼玉県美園村

 「今月の1枚」は、もともとは1954年から埼玉県野田の鷺山でサギの生態写真を撮っていた田中徳太郎が撮影した写真である。そうと撮影者が特定できたのは、たまたま「野鳥」誌通巻202号(1960年)の口絵にこの写真が載っていたのを、私が記憶していたからだ。
 その写真といえば、鳥の分野では日本で初めての大きな国際会議――第12回国際鳥類保護会議(ICBP=現在のバードライフ インターナショナル)――が1960年に東京で開かれた時のこと。エクスカーションの参加者一行が野田の鷺山を見学した際、県知事招待のパーティが開かれ、そのとき地元で活躍していた田中徳太郎が撮影した1枚なのだ。
 一方、増田直也さん(リトルターン・プロジェクト代表)が、約0.5mm厚ほどの薄い銅版の表面にこの写真とまったく同じイメージが浮いて見える“古道具”を所有されていた。その銅版は、どうみても古道具の一部としか思えない厚い木っ端(135×94×23mm)に糊付けされたもの。後に印刷博物館で教えてもらったことだが、銅版には感光性の幕がはってあってネガに相当する像が浮いてみえ、写真凸版(通称シャトツ)と呼ばれかつて凸版印刷に使われたものだそうだ。増田さんからバード・フォト・アーカイブスに寄贈をうけたシャトツを、ままよとネガ扱いで強引にスキャニングしてデジタル化したのが、ここに載せた1枚である。

 田中徳太郎は、1949年に国鉄を退職して浦和市(現さいたま市)で写真材料店を開き、1954年から10kmほど郊外の野田の鷺山へ自転車で通い、サギの生態写真を撮り始めた。写真集や写真展を通じて “サギの田中徳太郎”で知られ、 作品は海外でも美術館などで永久コレクションに選定された。1985年には、浦和市のシラサギ記念博物館に150点の作品が展示された。1989年没。サギの写真一筋の半生だった。

 田中徳太郎が生涯で何枚ぐらいの写真を撮ったのかはとにかく、おそらく膨大な量のネガやプリントは、現在どこに存在しているのだろうか? バード・フォト・アーカイブスとしては、それをなんとしても確かめたい生態写真家の一人である。
 いよいよその気になっての田中徳太郎の追跡は、なんのアテもないところから始まった。一括して写真を保存管理する“田中徳太郎写真事務所”なるものが現にあるものだろうかとまず想像したのだ。想像は想像で終わった。ネット検索がニガ手の私には、とっかかる術もない。
 2008年2月、困ったときのMさん頼りでメールを送ったところ、田中の情報源になるであろうシラサギ記念自然史博物館をヒットしたが、なぜか閉館になっていた、と。お忙しいのにMさんは、ご親切にさらにもろもろの追跡チェックをしてくれた。果ては「今のクイーンズ伊勢丹のところの写真館の田中さんでしょ?」という某ネットのかなりローカルな書き込みまで探り当てた。が、ここから先へ情報がつながらない。
 諦めきれない私は、北浦和のクイーンズ伊勢丹のあたりをウロウロ当てもなく徘徊してみたが、こうした情報探索能力に欠ける私には、かつての田中写真館らしきなんらの手がかりをも嗅ぎつけることなく、徒労に終わった。
 その内にウルトラE情報が、頼みのMさんから届いた。田中徳太郎にあこがれて動物カメラマンとなり親交のあったUさんに訊いてみようという。これはイケルと心待ちの返事は、「いつしか連絡も途絶え、ご遺族の方とも縁が切れてしまいました」とのこと。万事窮す。
 2008年10月、鳥ゼミの帰途、地下鉄内でのR大のU先生との立ち話で、行方不明の田中徳太郎の写真原板や閉館してしまったシラサギ自然史博物館など“私の窮状”をボヤいたとき。なんと! 確かその博物館にいた昆虫生態学者の同い年のSさんをご存知だという。
 2008年11月、紹介されたS先生に、かつて特別天然記念物に指定されていたが今はサギ1羽いないまったく静かな野田の鷺山をご案内していただき、そして田中徳太郎の写真原板の行方について具体的なお話を伺うことが出来た。
 なんでも当時作製されていたサギの絵はがきが売り切れ、2順目を準備しようということになったとき、博物館 (?) の事務員が、田中徳太郎の息子さんがいなかったので妹さんにお会いしたところ、その妹さんがネガを全部お持ちだった。しかし、保存状態はかなり悪かった、という。瞬間、とにかくネガの存在が明らかになった!と飛び上がりたいほどの気持ちも束の間、その後どうなったかを追跡できる書類もなにも残されていない・・・。妹さんの安否さえ不明とのこと。
 万事窮したかと思ったら、その妹さんが、みのもんたの「おもいッきりテレビ」の「きょうは何の日」のコーナーで、田中徳太郎の命日にあたる日に出演されたという。S先生がご存知の、田中徳太郎へ辿りつける最後の手がかりだった。
 「きょうは何の日」の番組制作担当氏から探れば、或いは妹さんの連絡先が?・・・。気の遠くなるような話だが、確かに2000年11月13日に「シラサギの写真家・田中徳太郎が亡くなった日」の番組があったことまでは突き止めた。が、そこまで。妹さん情報は得られていない。いや、さすがの私も10年昔の当時を知る番組ディレクターを捜し出せるものかと躊躇したのだ。妹さんのお名前すらも知れないまま追跡はそこで頓挫し、今日に至っている。
 どなたか、田中徳太郎の写真・原板の存在あるいはご遺族の情報をお持ちの方は、バード・フォト・アーカイブスまでどうぞご一報いただければと念じている。
 ひとつ、S先生の確実な写真情報が救いだった。浦和学院高校に田中徳太郎のオリジナル写真が額装のまま残されている! ご紹介していただいてK先生に電話でご挨拶したのが、2009年4月。お互いの都合やら新型インフルエンザで学級閉鎖やらで、同校にK先生を訪ねようやく田中徳太郎の作品にお目にかかれたのは、今月(2010年7月)になってからのことだった。(訪問記は、今月の「Day By Day」のページをご参照ください。)

 田中徳太郎を例に引くまでもなく、日本の生態写真家のモノクロ写真・原板の所在を明らかにする追跡作業は、なかなか手強いことを身をもって実感している。ちょっとした情報、わずかな手がかりをもとに追跡していくエネルギーを、バード・フォト・アーカイブスは常に持ち続けていかねばならないと、自身に言い聞かせている。
 一方、ネット情報社会のこと、思わない情報が突然見知らない方から得られないとも限らないという期待もしている。皆さんのご協力をも切にお願いいたす次第です。
 ついでながら、野鳥・自然・人にかかわるモノクロ写真そのものをお持ちの方、持っている方をご存知の方、モノクロ写真資料が忘れ去られる前にバード・フォト・アーカイブスにご一報を是非お願いいたします。

BPA
2010 JUNE
給餌台に来たオナガ
撮影 ◆ 真柳 元
1970年6月27日
武蔵野市吉祥寺
“こんな時代があった”のだ
生態写真撮影の愉しみ
 フィルムカメラ時代のこと。野鳥を撮ろうと試みるとき、デジタルカメラとはまた大いに異なる困難や愉しみが経験できた。撮影機材が今日とは比較にならないほどプリミティブであるが故に、撮影のための自然条件や社会事情が今日とはケタはずれに過酷とも思えるが故に、結果の写真を見ただけでは窺えない野鳥撮影のドラマがあった。そうした条件や状況を乗り越えて撮られた生態写真や昔語りを継承することも、バード・フォト・アーカイブスの活動の守備範囲と考えている。
 経験は記録に残さないと風化する。古典的な野鳥生態写真撮影法の資料ともなるよう、フィルムカメラ時代に困難や愉しみを味わった先人の経験を再現が可能な内に出来るだけ記録に留め、適宜ご紹介していきたい。
 今回は、真柳 元さんのオナガ撮影の手記を掲載させていただく。なお、(括弧内)は、塚本の補足&コメントである。

撮影機材
リコーフレックスIV (二眼レフで野鳥を撮りたい。この無謀なる?意気込み! 一筋縄では撮れないことを知る者の、工夫と苦心と愉しみのスタートである)
レンズ 80mm F3.5 (つまり標準レンズ。望遠レンズが買えたとしても、この手のカメラには装着できない。)
フィルム ブローニー6x6の12枚撮り (1枚もムダにはできないと、シャッターチャンスに神経を集中させる。1回毎のシャッターの重みを感じる。二重撮りは悔しいミスの一つで、なんとしても避けたい。12回シャッターを切ったら、ロールフィルムを交換しなければならない)
ネオパンSSS (当時としては高感度のASA200。動きの速い相手や手振れを考慮して、少しでも早いシャッターを切りたいところから、感度の高いフイルムが選ばれた)

撮る相手がいなくては話にならない
 
窓辺に餌台を設置したのは1968年12月、オナガが初めて餌台に来たのが1970年6月17日(1年半も待っていた!)、撮影日の10日前のことです。1羽の若鳥でした。成鳥が初めて来たのは6月23日、撮影日の4日前でした。

いよいよ撮影チャンスか?
 
この時は天下御免の浪人生でした。平日は予備校に通い、週末は徹夜です。撮影日は土曜日の徹夜明けです。日の出が最も早い季節ですが、曇天の為でしょうか、スズメが動き出したのはやや遅めでした。
 この日の蒲谷さんの「朝の小鳥」(文化放送の毎朝に、鳥声録音家蒲谷鶴彦さんによる小鳥の声を流す番組。1953-2006年の間、14,000回以上続いた長寿番組)は日光のコマドリ。そろそろ問題集を閉じようかという時、待望のオナガ成鳥が餌台にやってきました。すぐ飛び立ちましたが、5分後には成鳥と若鳥とが再訪。

フィルムの確認
 
カメラ後ろの赤窓(フィルムを何枚使ったかの数字が表示される直径1cmほどの、フィルム感光除けの赤い小窓)を見ると、12枚中9枚残っています。カメラにはさんだ撮影メモを見て、現在セットされている4枚目が未撮影分であることを確認。この確認を怠ると二重露出で泣くことになります。

撮影状況はというと
 
餌台はある程度の大きさがあるので手前と奥とではピント合せが必要です。固定据付糸シャッター(三脚にカメラを固定し、鳥が決まって来るところを予想してピントを合わせておき、離れたところから紐を引っ張ってシャッターを切る。一引き必殺[必撮]の古典的撮影法)は断念。カーテンの陰からカメラを構えて撮る方法を試みました。
 二眼レフのつらいところは、撮影時には撮影者の頭がカメラより前に出てしまうところです(上から覗き込むようにピントを合わせる二眼レフの宿命)。レンズだけをカーテンから出し、撮影者を隠すとなると一工夫。洗濯バサミでレンズだけの隙間を作りますが、ファインダーを覗き込む通常の姿勢ですと、頭に押されてカーテンがレンズにかかってしまいます。結局、手を一杯に伸ばす姿勢となりました。
 ファインダーからは遠くなってしまいますので、きっちりとしたピント合せは困難です。絞り込みたいところですし、こんな時のためにSSSを常用していたのですが、この曇天ですと、一番遅い1/25秒でも、F8がぎりぎりでしょうか(このシャッタースピードで、しかも手持ちで、動きの速い野鳥が止まると思っていたのですね)。

最初のシャッター
 
カーテンと格闘していたためか、オナガはなかなか餌台に戻ってくれません。やっと戻ってきたところで1 枚。ところが、動きに落着きがありません。
 1枚撮ったので、カメラ後ろの赤窓を見ながら、フィルムを巻き上げていきます。行き過ぎると戻りませんし、巻きが足りないと端が隣りのコマとかぶってしまいます。始めはぐいっと一巻きし、じわりじわりと赤窓に現れる次の数字を所定の位置まで巻いていきます(チャンスに連続してシャッターを切ろうなどとは、夢のまた夢)。

2度目のチャンス
 
今度は1/50秒 F5.6で再挑戦(1/25より倍も速いシャッタースピードなら、手持ちでも、動きの速い野鳥が止まると計算したのですね。それでも1/50秒、嗚呼)。絞り、シャッターをセットし直し、再びカーテンと格闘した後は、じいっと静止して待つこと25分。伸ばした腕がいい加減つらくなってきた頃、やっと戻ってきました(この忍耐! そして、鳥をファインダーに捉えた感動!)。
 腕を伸ばしたまま何とかピントを合わせ、一瞬の静止を狙って1枚。それでも、顔ではなく脚にピントがあってしまったようです。ちなみに最初の1枚はやはり顔が動いていました。

撮影終了、そして
 
寝る時間が少々遅くなってしまいました。一応本業は受験生ですので、一定の睡眠時間は確保しませんと。
 2枚目を撮った後で次のコマまでフィルムを巻き上げ(次のチャンスにすぐ撮影態勢に入れるように巻き上げておき、その旨メモするか記憶しておく。次の撮影前に巻き上げてもよいが、巻き忘れてシャッターを切ると二重取りとなり、前のコマ共々オジャンとなる)、撮影メモにデータを記入し(つい忘れがちだが、これが大切)今度はカーテンをぴったり閉めて。お休みなさい(真柳さんの夢の中では、オナガの傑作写真が“出来上がっている”ことは想像に難くない)。

 (こうして12枚を撮り終わって現像に出し、結果が判明するネガが上がってくるまで1週間ほど待たされる。「きっと傑作が撮れているハズだ!」と、この数日間は当事者の鼻息が荒く、最も心ときめいているのである。)

自己紹介
真柳 元(まやなぎ・げん)
毎日、双眼鏡を入れた鞄で通勤している鳥好きのサラリーマン。昭和43年からつけ始めたフィールドノートは現在60冊目。勤務の都合で転勤や出張が多く「ついでの鳥見」と言いながら何時の間にかライフリストはそろそろ900種とか。標準レンズから始めた鳥の写真も、500mm、1200mmを経て再び標準ズームレンズへ。釣りは鮒に始まって鮒に終わる謂いかも。中西悟堂先生や高野伸二先生の謦咳(けいがい)に接した最後の世代?である。

BPA
2010 MAY

ミズバショウ
撮影 藤巻裕蔵
1959年4月21日
北海道江別市野幌

COP10の先を見よう――撮影データの重み

 「今月の一枚」に植物が主役となって登場するのは、初めてのことかと思う。背景に時代や地域性が感じられるアーカイブ的に表現した樹木や草花を写し撮るのは、そうと意識しても撮り難い被写体なのか。野鳥などより作品例が少ないのである。
 今回のミズバショウも、先月尾瀬沼で撮ってきたばかりと言われれば、そうかとも思える。実は、半世紀以上も前の1959年に北海道で撮られたもの。欲を言えば、その時代の“匂い”が漂う画像であって欲しい。しかし、地球温暖化と結びつけてみると、背景より大切なのが撮影データなのである。特に、撮影年月日と撮影場所は欠かせない。ミズバショウにはその最低のデータが揃っている。

 COP10開催が10月に迫ってきた。地球温暖化に関して、数年前のことではあるが、興味ある論文(Miller-Rushing, A.J. et al. 2006. Photographs and herbarium specimens as tools to document phenological changes in response to global warning.  American Journal of Botany. 93(11): 1667-1674.)を東大の樋口広芳教授に教えていただいた。植物の写真を使って読者に効果的に温暖化をアピールしている手法が、私の関心を引いたのである。主眼は、撮影データがいかに大事かということである。
 論文は、同じ場所で同じ被写体を撮影した歴史的な写真と近年の写真とを対比させ、同時に撮影データと気温変化のデータを示している。
 1例では、ボストンのアーノルド植物園で同じような状態で花を咲かせているモクセイ科のヒトツバタゴの仲間を、1926年6月20日と2003年5月7日に撮っている。2003年の方が77年前の1926年より約45日早く花を開かせていた。2月-5月の平均気温は、1926年の2.5℃から2003年の3.8℃に上昇したのだ。
 ドラマチックな変化が写真で見られる例は、マサチュウセッツ州のロウェル墓地で同じ5月30日の1868年と2005年にそれぞれ撮られた写真の対比である。墓石の位置関係から確認できる同じ広葉樹は、1868年には裸木であったのが、2005年には緑々と葉を茂らせてる。この137年間に、平均気温は1.9℃から4.7℃に変化している。
 難解な英文の論文を読むよりも、2枚1組の写真で地球温暖化によると思われる植物の生長の変わり様をまさに目の当たりにすることができる。百聞は一見にしかず、写真の視覚的な効果に改めて感じ入ったのであった。

 論文に掲載された写真を1868年や1926年に撮った人は、まさか写真がこのような形で役に立つとは思ってもみたなかったに違いない。撮影データが明記されている50年以上も前に撮られた今月のミズバショウも、100年後になにかの論文に登場するかも知れない。二度と撮り直しのきかない過去の写真を未来に繋ぐバード・フォト・アーカイブスの役割も、一つはそんな“夢みたいな現実”にあると考える。
 再度申しあげたい。科学論文に採用される場合には撮影データのない写真は論外であるが、どんな写真であれ、撮影データをきっちり記録しておく重要性を再認識したいものだ。
 因みに、今回掲載した1枚の他に、ミズバショウが咲いている環境を示す群落の写真が、撮影者によって同時にバード・フォト・アーカイブスに登録されている。撮影時における撮影者の“もう1枚撮る配慮”が、写真の活用される際の視覚的情報の巾を広げている点を指摘しておきたい。

BPA
2010 APR.
ツグミの空中戦
撮影 ◆ 藤村 仁
1968年2月10日
千葉県新浜

フィルムカメラ時代の“飛びもの”

 「今月の1枚」は、自動露出・オートフォーカス・手ぶれ防止・連写連写連写で機関銃の如くシャッターの押せるデジカメの時代に、フィルムカメラ時代の“飛びもの”を見ていただくのも、なにか“見えないものを見る”ご参考にはなろうかと、バード・フォト・アーカイブスのコレクションから選んでみた。

 デジカメ族から見れば、「なんだ、ブレててピントはあまいし、小さくしか撮れてなくてぇ・・・」というところであろうか。

 1960年代、野鳥をカメラハンティングする人口は現在とは比較にならないほど少なかった頃、飛んでいる鳥を狙うのには勇気を必要とした。それがちょっと大げさな表現なら、思い切りが要った。地上にいる鳥を撮るのに四苦八苦していたころとて、飛ぶ鳥なんぞは撮ってもロクなものにはならないという気持ちが支配的であったから。
 なかなかめぐりあわないシャッターチャンスが目の前にくると、相手を望遠レンズに捉えてピントを合わせるまでが、まず試練。ままよとシャッターを切っても、ブレないでピン良く撮れている可能性は、神頼み。ブレなくてピントもそこそこあっていると、露出不足とくる。ブレなくてピントまあまあ、露出OKの稀なる結果が得られたときには、ポースが悪い、構図がなってない。とは、カメラ経験の不足している私の場合であるが、まわりの仲間をみても状況はかなり似たり寄ったりと思われた。飛翔中の鳥撮は、手強さのトップレベルだった。

 「今月の1枚」は、35mmフィルムでトリミングは周辺部にほんの僅か。そこに小型の鳥を画面のいい位置に捉えている。よほど冷静でないと、画面中央へもってきてしまう。争う鳥のポーズ良し。周辺の環境を入れた(多分入れざるをえなかった・・・とは言え)描写よし。恐らくツグミの小競り合いは、たまたま通りがかりのチャンスだったに違いない。それを、この構図で1回のシャッターで決めていた。ネガスリーブに残されたのは、この1コマ(その日の最初の1枚)だけである。
 連写など夢のまた夢、そんな時代があったのだ。

  1枚のシャッターを切る瞬間の醍醐味とはどんなものかを考えさせられる作品といえよう。

BPA
2010 MAR.

孤独なナベコウ
撮影 ◆ 下村兼史
1928年1月16日〜24日(推測)
鹿児島県荒崎
資料提供:(財)山階鳥類研究所

下村兼史作品紹介:未発表のナベコウ

 日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史(1903−1967)が生涯に撮った1万点を超える「下村兼史資料」が、(財)山階鳥類研究所に希有なコレクションとして収蔵されている。今月は、その中からナベコウを紹介したい。
 ナベコウは、コウノトリの仲間である。雄は、光沢の鮮やかな黒と下面の白とのツートーンに、紅赤色の嘴と脚が鮮やか。今日でも日本での記録が少なく、私の憧れの鳥の一つ。下村は、鹿児島県荒崎の鶴の渡来地を最初に訪れた1927年に1羽を発見して以来1930年まで、何度か観察撮影の機会を得ている。

 『そこへまたヘラサギのあとを追うようにして、例のナベコウが現われた。遂にこの鳥は私から離れないのだ。現われると写さないわけにはゆかないような気がして、その都度写している。もういいかげん彼を写したフィルムが出来ているはずだ。
 ナベコウは藺草のくさむらの傍で眠り始めた。ヘラサギは彼方の水の畔で、淡い夕陽を浴びながら平べったい嘴で羽つくろいをしていたが、そのうちこれもまた、嘴を大事そうに背中の羽に埋めて眼をとじた。
 遮るものは何もない、この廣い枯草の原を、陽炎のゆらめくにまかせて、静寂の中に眠る二羽の白と黒の鳥、彼等が見る夢は果して白と黒の夢だろうか――。(1928.1.24)』(カメラ野鳥記. 1952. 誠文堂新光社. pp.141-142)

 広い荒崎田んぼで珍鳥ナベコウがカメラの前に現れると、『写さないわけにはいかない気がして』とは、50余年のバードウオッチングで一度もナベコウを見たことのない私にとっては、なんとも贅沢な話。『もういいかげん彼を写したフィルムが出来ているはず』という下村が荒崎で撮ったと判別できるナベコウの写真は、山階鳥類研究所の「下村兼史資料」に13点の乾板(及び18点のプリント)が存在する。その内、小川の畔にいるナベコウの写真は、4点の乾板に残されている。その中でここに紹介する資料ID番号AVSK_DM_0805が、未発表の1枚である。
 同じ時に撮られたと思われる他の作品は、『鳥類生態写真集 第1輯』(1930. 三省堂)の第12図に収録されている。今回初めて発表される作品が第12図と同じトリミングで紹介されることを、下村兼史は望んでいるかもしれない。私は、異なる表現を試みたかった。数百羽が群れて冬を越すナベツルやマナヅルのいる同じ田んぼで、ナベコウは唯1羽でいた。その孤独な姿を、敢えてその背に広がりのある構図で表現したい。さらに、下村が意図した珍鳥を中心とするトリミングよりも、今日では整然と区画整理された田んぼが、往時はかくも自然の佇まいでそこにナベコウもいた事実を、作品に語ってもらいたい。背景の田んぼと西干拓との境の堤防に植えられた一列の松は、知る人ぞ知る荒崎そのものの景観である。これらの想いを、80余年前に撮られた下村作品として表現したかったのである。
 私の解釈した未発表作品を、天国におられる当の撮影者下村兼史が「自分の撮影意図とは違うけど、まあ」などと控えめな微笑みでみてくださることを、切に願っている。

(財)山階鳥類研究所の下村兼史資料の利用についてのご質問、お問い合せは、同研究所の下村資料提供窓口となっている(有)バード・フォト・アーカイブスへ直接ご連絡ください。
mail:info@bird-photo.co.jp(@を半角に直して送信してください)
URL:http://www.bird-photo.co.jp/
tel&fax:03-3866-6763

BPA
2010 FEB.

雪降れば、気もそぞろ

地吹雪に耐えるマガモ
撮影 ◆ 塚本洋三
1975年4月3日
アメリカ・ミシガン州

 2月に入って東京にも夜から雪が降った。朝にはほとんど消えてしまっていたのは残念であった。
 雪は、そこに住む者には厄介なものであるが、雪国を訪れる者にとってこれほど美しく魅力的なものはない。雪の中で息づく野生の生きものをカメラ構えて探し歩くのは、自然の女神がおいでおいでをしているようで、つい我を忘れる。

 緯度がちょうど札幌あたりのアメリカはミシガン州のアナーバーにいたころ、北国の積雪はさぞやと思ったらそれほどでもなく、気温もマイナス20度になることはほとんどなかった。愛用のアサヒペンタックスSP のオイルを寒地仕様にしてこなくてもよかったかと思ったほどであった。風さえなければ、“暖かな冬”だった。とはいえ、雪にはこと欠かない。
 しんしんと降る雪をみると、私は心落ち着かなくなる。起き抜けの窓辺で、降っている雪が写真向きか、写真写りのよくない雪かを見極める。一つ一つの雪が目に見えるようにみっちり一面に落ちていると、フォトジェニックだ。また、風で飛ばされる雪が横殴りの線となって見えるとき、それはめったにない撮影チャンスだ。
 「ウオッ、たいへん!」。私好みの雪だと、にわかに“体調が悪く”なり、その日は欠勤の連絡を入れて精神状態を落ち着かせるべく外出すること、しばしばである。リスや小鳥たち、運がよければ鹿の小群がお目当てだった。悪天候に野生の生きものに巡り会えしかも写真に納まってくれる機会は、そうはないことを承知しつつ。
 そんな或日、天気がよいのに積もった粉雪が強風に飛ばされる地吹雪となった。欠勤しなくてはバチが当たりそうな、写真向きの雪景色。雪の日の天候は変わりやすい。おっとりカメラで飛び出した。
 ミシガン大学にほど近く、ヒューロン川という響きのよい名の小さな川に、おなじみのマガモの一群をみつけた。一つがいが雪の上で地吹雪に耐えているのが、目に入る。「これだ、絵になる!」と思ったとたん、タイヤが雪にとられ車は動かなくなった。車は後で掘り出せばよい。目の前のシャッターチャンスは一瞬だ。とっさの判断で車から出る。
 「ウエェ 寒っ。」Y2のイエローフィルターをつけたタクマー300mmのほどよい距離まで、にじり寄る。「マガモも寒いんだろうな。」逃げるより寒さにじっと耐える方が先だぁみたいに、動かない。地吹雪と被写体に恵まれた我を忘れるひととき。これはなにものにも代え難い。
 あれから何十年もたって引っ張りだした画像に、あのときの強烈な体験が甦る。フィルムは、35mmロールフィルムの36枚撮り、トライXを使っていた。シャッターを切ってはフィルムをいちいち巻き上げた。手袋を脱いでのフィルム交換の時の指先の寒さったらない。
 撮り終わってもマガモ夫妻は同じところで同じように耐えていた。「相手になってくれてサンキュー」と後ずさりして、さて、車を掘り出す時にミトンの中でかいた汗がまた凍って、気がついた時は指先が色も固さも蝋のようになっていた。軽い凍傷にかかったかと、帰路近くの大学病院で手当をうけた10本の指先は、こうしてキーをたたく今も、この時期うっすら膨らんで赤みを帯び、そのときを忘れようにも忘れられないのだ。包帯でぐるぐる巻きにされボクシングのグラブのようになった両手。ぎこちないギアチェンとハンドルさばきでワーゲンをあやしつつスリップしやすい雪道を帰ったときの恐怖も、ついでに思い出す。
 「なにもマガモを撮るくらいでそんな目にあわなくったって・・・。」友人に言われて、照れ隠しにニヤリとした。そのときの1枚は私のお気に入りの写真となったからだ。

 “雪中、野生動物の図”は、ミシガンでの私の胸躍るテーマ。多少常軌をはずしても、そうは巡り会えないシャッターチャンスには代えられないものがあったのだ。
 夢中になれるテーマがあるのはよいが、雪は東京ではねぇ・・・。

BPA
2010 JAN.
タンチョウの舞
撮影 ◆ 佐藤照雄
1978年2月12日
北海道阿寒町
寅年に鶴

 長寿めでたい折りには、なにをおいても鶴と亀は欠かせない。正月も、鶴。日本人の心の風情。寅年といえども鶴である。しめ飾りに鶴をデザインしたものがあると聞く。然り。新年の床の間には、松上の鶴の一幅。元旦の新聞一面。鶴さえいれば万事めでたく収まった。
 めでたい鶴は、いずれも頭に赤を頂き、体が白く、“尾”が黒いタンチョウが選ばれる。かくして、「今月の1枚」の正月は、北海道は釧路の佐藤照雄さんからバード・フォト・アーカイブスにご提供いただいた雪野に舞うタンチョウでめでたいスタートとなった。

 ふと気づいたが、近年タンチョウの伝統の座が軽んじられてきてはいまいか。出番が少なくなったような。一昔前にくらべて、めでたい席でそれほど鶴、鶴という雰囲気が感じられない。私だけの思いであろうか。
 かつて千円札の表に夏目漱石、裏面にタンチョウがデザインされていた。タンチョウの生態写真家林田恒夫さんの写真から描かれたもの。その千円札は3年ほど前に姿を消した。とたんに、話題となった“タンチョウ千円札”の記憶も急速に薄らいでいく。
 悲しいかな、次々に新しいものが登場するマスコミの世の中で、ひとたび舞台から去ったものはさっさと忘れられる。私たちは去り行くものに鈍感というか無関心だ。構っていられない、構う必要もない。忘れるつもりはなくとも忘れられる。かくして、知らず知らずに生活の周辺が味気なくなっていく。なんとなくではあるが、タンチョウは“社会的な絶滅危惧種”になりつつあるような気がしてならない。

 幸い、野生のタンチョウは元気だ。一時は絶滅したと考えられたが、1924年に釧路湿原で10数羽が発見、保護された。現在は“千羽鶴”を超えるまでになり、北海道の原野でしたたかに棲息している。私たちの生活に登場するタンチョウも、私たちの心の故郷でいつまでもめでたく羽ばたいていて欲しいものだが。

BPA
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