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しめ飾り小屋
撮影 ◆ 中野宗夫
1960年12月
東京都

正月はどこへいった?

 「今月の1枚」は今回も、バード・フォト・アーカイブスのキーワード「鳥・人・自然」の直球勝負を敢えて外し、年の瀬にタイムリーなとっさの変化球の1枚をご覧いただきたい。
 というのも、晦日に下町を走って正月の雰囲気がまったく無くなってしまったのを目の当たりにし、愕然としたからだ。今住んでいる大川端は柳橋から5分ほどの私が小学生から育った(東京都台東区)浅草橋界隈にかけて、正月に見る門松やしめ飾りがすっかり消えていたのである。日頃と打って変わって人影の少なくなった通りは、まったく殺風景。正月は死語の世界といっても過言ではない。まさか不景気が伝統をさらったのではあるまい。年々正月の風情が私たちの生活から薄れていくのは承知していたが、ふと気がつくと心が寒くなったのだ。

 私の子供のころは、しめ飾りを買うのは長男の役目とか。そんな時ばかり長男を持ち出され、しぶしぶ近所の柳橋通りのかけ小屋へ行き、はっぴ姿の兄さんにいくばくかのオマケをしてもらって「正月」を持ち帰ったものである。一家の幸せを祈願するしめ飾りは、玄関の軒下につるされた。長寿のウラジロ、家門繁栄のだいだい、よろこんぶの昆布などの縁起物で飾られた新しいワラ束は、過ぎし年の不浄を払ってくれたらしい。
 一年の幸福を授ける神様をお招きする門松もなくてはならない。神棚と仏壇を整える。部屋の大掃除を済ませる。年越しそばを味わう。戸棚に隠してあったきんとんを見つけ人差し指ですくって食べたのがバレて叱られる。除夜の鐘を聞くころには、なにがなんでも「旧年の雑事」を片付け、風呂にどっぷりつかって身を清める。忙しい年の瀬を乗り越えた安堵感。
 明けて、まさに新年おめでとうなのである。いつに変わらないハズの一夜明けた同じ朝だが、静かなめでたい新年正月元旦の朝なのだ。確かに新年だと実感できる雰囲気がそこここに感じられた。
 家族がいつもより着飾って新年の挨拶を交わし、お雑煮とおせち料理。お年玉。百人一首といっても、もっぱら坊主めくり。近所の鳥越さまに初詣。松の内の明ける7日には、おふくろが七草がゆを作ってくれた。食べると1年風邪をひかないといわれたことが遠くで記憶にある。凧揚げをしては電線にひっかけて諦めた。近所の羽根つきの音はまだ耳に残る。祖母が弾いていた「春の海」の琴の音も。
 正月は正月であった方がよいに決まっている。

 そんな昔の正月にしがみつき懐かしがってなんになる? 答えは「今月の1枚」の「しめ飾り小屋」に見いだしていただきたい。単に年号が変わるだけの、伝統的文化の香りがほとんど失われた正月を迎えるようになって久しい私。地元柳橋町会から今年も松飾りを描き「賀正」が印刷された1枚の短冊が郵便箱に届けられた。ここに住み始めた30年ほど前は、それでも共同住宅の自宅のドアに貼ってささやかな正月気分を味わったものだ。それも年を追って味気なくなり、今年も飾る気はしない。

 新年正月に限らず、人の心がいつのまにか寂しくなっていく世の中に住んでいる私たち。気を取り直し、寅年に伝統文化を忘れまいと唸り声をあげたいものだ。 (塚本洋三記)

シュッポ シュッポ シュッポポ  4110型SL
撮影 ◆ 藤巻裕蔵
1970年代初め
北海道美唄

鳥・人・自然 プラス SLも!

 BIRDER誌(文一総合出版)2008年2月号のARCHIVESのページで北海道濤沸湖のオオハクチョウが紹介されている。1972年の撮影とあって、背景の釧網本線を黒い煙を引いて貨物列車を牽引するC58型SLが写されていた。撮影者は百武充さん。バードウオッチングのベテランとばかり思って何十年とお付き合いいただいてきたが、その時SLファンと知って驚かされた。その後に、SLファンはファンでも角が出るほどのマニアであることがわかって、二度驚かされた。
 似たことが最近また起きた。同じく野鳥界で名の通った藤巻裕蔵さん。高校時代から共に探鳥していながら、SLファンとは気付かなかった。バード・フォト・アーカイブスに多くの野鳥の写真をご提供いただいてきたが、今回はなんとSLが、それも(当時は高価な)カラー写真で届いたのだ。
 魅力溢れる画面に、SLファンならずとも惚れた。これは紹介しなければ! といった訳で、バード・フォト・アーカイブスの中核をなす写真のキーワードは「鳥・人・自然」であるが、今月はその枠をはみ出して突然蒸気機関車の登場となった。遊び心をお許しいただいて、アーカイブスの世界に浸っていただきたい。

 さすがの藤巻さんも百武さんにはかなわないとのことで、シロウト向き簡単な写真解説を百武さんにお願いした。実物は当然見ているとて、水を得た魚どころの騒ぎではない。詳しい(詳しすぎる!)解説がメールされてきて、百武さんのタダならぬSLマニア振りを改めて痛感した。
 かいつまんで受け売りすると、写真のSLは、美唄鉄道が1915年に開業した数年後に発注され1972年の炭砿閉山まで使用された、4110形式機関車の内の2号機。三菱美唄炭砿のあった常盤台と美唄駅の約10km区間をもともと石炭を運んでいた。
 自慢は、急勾配路線専用に製作された機関車なので、動輪が5軸もある点。普通の機関車にはある前輪も後輪もなく、牽引力を増すように機関車の重量がすべて動輪にかかるような設計となっている。知名度の高いSLの華D51(愛称デコイチ)がスリップするような重い列車も、悠々と引き出せる実力の持ち主。と聞かされると、その動輪5軸が写真でご覧いただけなくともワクワクしてくるではないか。メジャーな機種ではなかったが、似たタイプのSLが全くなかったため、ファンの人気が高かったというのも大いにうなずける。

 野鳥のアーカイブス写真も蒸気機関車のそれも、ノスタルジックな雰囲気を作品に漂わせているものが多く、そこらあたりが忙しい現代社会に生きる私たちの心にふと忘れかけていたものを想起させる。私たちは過去と現在しか「見て」いないが、その体験が知り得ない未来へと繋がっていく。そう思うと、アーカイブスな記録が大事なものに見えてくる。歴史を粗末にすると、未来を見失いかねないのである。
 4110型SL2号機は、現在、美唄市内の旧東明駅跡に保存されているそうだが、バード・フォト・アーカイブスには藤巻さんの画像が登録され、その姿を未来に引き継ぐことになった。

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セグロセキレイ
撮影 ◆ 下村兼史
撮影年 1922年〜1930年
撮影地 不詳(恐らく九州北部)
資料提供 (財)山階鳥類研究所
      下村兼史作品紹介:セグロセキレイ
 (財)山階鳥類研究所には、下村兼史(1903−1967)が生涯に撮った1万点を超える「下村兼史資料」が収蔵されている。下村は、日本で野鳥を主にした野生生物の生態写真史黎明期を駆け抜けた人。一生態写真家の作品群が戦禍や散逸を免れ写真資料として整理保存されているのは、極めて希有なことである。
 今月は、下村写真の中から初期の作品『セグロセキレイ』を紹介する。代表的な写真集『鳥類生態写真集』第1輯(1930年 三省堂)の第41図である。
 下村が撮影データを多く残していないのは残念な事実であるが、この『セグロセキレイ』も然り。撮影年月日の情報は、どの文献にも見つけることができない。しかし、写真集が出版された1930年以前で、1922年に下村が初めてシャッターを切った原板第1号『カワセミ』の撮影以降であることには違いない。
 撮影場所はといえば、これも正確には不詳である。ただ、1920年代は佐賀県と福岡県、有明海岸や今津湾を主な撮影地としており、鹿児島県荒崎を初めて訪れたのが1927年である。その頃撮られた写真の内容から推して、この写真は恐らく九州北部で撮られたものであろう。下村の甥にあたる野鳥の生態写真に造詣の深い藤村和男さんの話でもある。
 作品を見てみよう。なにやら願ったりの、河原の石組み構図が小憎いばかり。写っているのがセグロセキレイ。セキレイの仲間の習性として、下半身を動かし尾を上下に振る習性で「石たたき」の異名をとる。下村はこれを狙っていた。写真集の解説に曰く、『図はセグロセキレイの「石たたき」の様で注意して見れば尾が上下に動いたのが撮れているのがわかる』。
 名作と言われる写真には、単に対象を写し撮っただけではなく、どこか微妙な「味」が漂っているのである。

 (有)バード・フォト・アーカイブスでは(財)山階鳥類研究所と取りきめを交わし、同研究所所蔵の「下村兼史資料」の質問・問い合せの窓口(詳細はこちら)となっている。資料が広く活用されることを期待したい。また、同研究所の資料提供によりこのページや他の媒体で順次下村の傑作写真を紹介していく予定である。

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繁殖地でのタカブシギ
撮影 下村兼史
1935年6月
北千島パラムシル島

 1922年1月5日、下村兼史(当時は兼二)は(今で言えば)自身初めてレンズを野鳥に向け、カワセミを狙ってシャッターを切った(実際には、“カワセミのお決まりの止まり場に前もってピントを合わせ、そこにカワセミが来たときに、三脚に固定のカメラのシャッターにくくりつけた紐を遠くからひっぱってシャッターを切った”という苦心の撮影術)。下村の原板第1号である。その歴史的写真が、下村の代表的な写真集『鳥類生態写真集』(第1−2輯 1930-31年 三省堂)の第1輯、PL.45である。
 以来、下村は日本で最初のプロの野鳥生態写真家として野鳥を中心に野生の生きものや自然を生涯撮り続けた。1939年から自然ドキュメンタリーやセミドキュメンタリー映画の演出や監督として映画の名作をも残した。野鳥観察撮影紀行や自ら筆をとった鳥類図鑑などをも出版し、野鳥界のスーパースター的才能を発揮した。下村の作品は今日でも輝き続けている。
 私のモノクロ写真の原点である下村の写真集は、中学生のとき古本屋でなにげなく手にして惹きこまれた思い出の書。今では背表紙がとれた2冊を折にふれ本棚から取り出しては、近年全盛のデジカメで撮られたカラー画像からは得難いモノクロの「味」に一人悦に入っている。

 欧米では著名な生態写真家が19世紀末から活躍しているのを知るにつけ、日本ではほとんど手をつけられていない生態写真の現状を遺憾に思っていた鳥類学者内田清之助は、『日本鳥類生態写真図集』(1935年 巣林書房)の序文で次のように述べている。
 『時に福岡に突如出現した彗星がある。それは誰あろう、下村兼二君である。もう八年の昔になるが、君が初めて提供された鹿児島県荒崎の群鶴渡来地の作品は、どんなにか当時人々を感動せしめた事であろう。斯くして我国鳥類生態写真の黎明はほのぼのと明けた。』
 この日本鳥学会編纂の写真図集のサブタイトルは、『大英博物館万国自然写真展覧会出品記念』。1935年10月16日−11月末日までロンドンで開かれた写真展に日本から発送された写真のみを纏めて刊行された。『いわば母国の名誉を双肩に担う生態写真チャンピオンの顔見世である』(同序文)。
 掲載された50点の内、下村の写真が27点、清棲幸保14点、葛精一と島田謹介が各2点、池島武雄・松山資郎・中西悟堂・小松正躬・山階芳麿が各1点。この内、下村のナベヅル、ルリカケス、トラツグミ、センダイムシクイとツツドリの4点が、写真展開催後に出版された優秀作品集“Nature in the Wild”に収録された。日本からは下村一人が選ばれ、しかも一人の作家が4点も選ばれたのは例が少なく、日本に下村ありを世界に知らしめることとなった。下村写真に対する評価の高さがうかがえる。

 さて、今月の1枚はバード・フォト・アーカイブスが所蔵するお宝写真の紹介である。裏に下村兼史のゴム印とカットを指示するメモ書きのあるキャビネ大のオリジナルプリント。下村の名著の一つ『北の鳥南の鳥』(1936年 三省堂)のp.44に登場するタカブシギである。
 今日古本屋でも比較的入手し難い初版『北の鳥南の鳥』から、まず下村が北千島のパラムシル島に一歩をしるした時の一節を引用する。北千島への切ないほどの憧れを、私は幼くしてどれほどかき立てられたことか。
 『海岸を上り、台地状の湿原に出て見た。雪に覆われた北方の山からその裾は広々と南へ拡がり、一望涯として草原は漸くこのライシャ(パラムシル島の南端部)まで延び、盡きるところはなだらかに海底をさしている。
 見渡せば悉く蒼黒い草の原、その中に幾つかの沼地が白く、クロームナイフの様な冷たい色に光っている。その先は霧を含んだ空の中に遠山の雪渓だけが稲妻の様に瞭然(はっきり)と見えた。
 強い西風の吹くが儘に、何の避くるところも無い此湿原は、幾百幾千年のさいなみに慣れて、寒気と寂寥の裡にじっと耐え、そこには未だ素朴とか凡庸とか云う感情は無く、産まれたばかりの姿で犯し難い威厳をさえ見せている。
 唯茫然たることしばし、私はすっかりこの単調な威力に圧せられたのであった。我身の如何に小なる存在であろう。代々木の原を横切るに蟻程の割にも当たるまい。併し此湿原は私の為に与えられた自然のプレバラートだ、と平原に向って挑戦するドンキホーテのような私であった。此ドンキホーテは槍や楯の代りにカメラと双眼鏡を持っている。』

 カムチャツカ半島の南端のすぐ南に位置するこのパラムシル島の湿原が、タカブシギの写真の舞台であった。
 『良く晴れた(1935年)六月二十三日の朝、私は野田浦の小屋を出て西南方の沼の畔をさまよい歩いた。聴き慣れぬ声、ピョッ、ピョッ、ピョッ、ピョッ、・・・・・・・。鋭く又冴えて、丁度時計のセカンドの刻む速さで続け様に鳴く。遠く青空にかすれて鳴くときは鋭さが消え、ピョー、ピョー、ピョーと稍アオアシシギに似た声になる。声は次第に近づき、終に頭上へ。仰いで見れば、ハマシギ程の太さの鳥であるが細っそりと、又後方へ伸ばした長いふ蹠が尾羽を越して尖った尾のように見えた。タカブシギだと私は直観する。
 更に一羽、同じ声で、同じ動作で、私に迫るように頭上で騒ぎ出した。高く低く、小凧の如く、頗る賑やかなことである。私は此顕著なデモンストレーションに、必ず何かを語るものがあるものと考えて、その儘草に坐し双眼鏡を出して静かに見つめた。ひとしきり騒いだ鳥たちは、坐り込んでしまった私を認めたらしく、稍あって彼方の沼の水際へ降りた。
 降りても未だ鳴きづづけている。痩せた体を又長々と伸ばし、尾部を時々ピョコピョコと上下に揺る。之はアオアシシギやクサシギがよくやる仕種(しぐさ)。水際を覆う水草は未だ伸びかかりで、去年の赤い茎に漸く三寸程の若草を出している。草の葉隠れに鳴く鳥の声は、静かな空気に女神の鼓動のように響く。
 それから約二時間の観察は、此タカブシギは雛を引いていることを知り得た。』

 その翌日に下村は、湿潤な沼畔の水際でタカブシギの巣を見つけている。巣には孵化したばかりの雛が4羽。警戒声を発する親鳥を望遠レンズで捉えたこの写真は、そのときの撮影と推測される。
 日本では渡りの季節に普通にみられるタカブシギであるが、それを繁殖地でみた下村が羨ましくてならない。おまけにその地がパラムシルと響き心地のよい名前の北千島ときている。写真を眺めていると、背景の茫漠たる湿原のボケに、6月とはいえ冷えて透きとおるようなパラムシルの空気が感じられるようだ。
 恐らく『北の鳥南の鳥』の印刷にまわされたであろう1枚のタカブシギのプリントが、70余年を経て今私の手元にある。ホームページ上で皆さんと共に下村の世界の片鱗に触れることができるとは、感無量のものがある。
 下村ドンキホーテ二世として、いつの日かパラムシル島の湿原に立つ私の夢が実現しないとは誰が断言しえようか。

BPA
下村兼史撮影・引伸のお宝プリント
湿地:佇むツルシギ
撮影 ◆ 松田道生
1974年3月10日
千葉県新浜
人が変えた環境
 人手が加えられなくとも変化していく自然環境があれば、人手によって変化消滅させられる自然環境もある。「今月の1枚」は、後者の例として水鳥の楽園といわれた千葉県新浜の在りし日の姿である。

 池、葦原、蓮田、小川、田んぼなどがモザイクに広がる内陸湿地に、高度経済成長期の開発が進んでいた。湿地を分断して、地下鉄東西線が1969年に開通した。写真は、高架の東西線を背景にして埋め立て前の昔の姿をわずかにとどめる湿地に、渡ってきたばかりで翼を休めるツルシギの姿を捉えている。

[ 今月の2枚目 ]
ビル街:かつて湿地だった
撮影 ◆ 塚本洋三
2003年4月9日
千葉県新浜
 「今月の2枚目」を見ずしてこの短い章は終わらない。1枚目とほとんど同じ位置で、マンションの屋上に目線を移してみた“現在”の状況である。東西線はビル群に埋もれて見えない。かつての湿地環境なのだと言われても、昔の写真と対比しなければ想像さえし難い。

 人は、緑の自然を必要としないで生きていけるのであろうか。改めて、人のなせる業が残された自然環境へ及ぼす影響力を思う。

BPA
山旅の想い
撮影 ◆ 中野宗夫
1956年8月
東京都下奥多摩

 私の顔の一部となった眼鏡を面倒みてくれている日本橋の眼鏡屋さんへ行った時のこと。いつもの丁寧な対応。つい図に乗り、調整の合間にふとバード・フォト・アーカイブスの話を持ち出してみた。これが有難い展開になるとは。
 眼鏡士の中野幹裕さんのご厳父が、5−60年前に山のモノクロ写真を撮っていたという。是非にと、アルバムやできればネガを探していただくことになった。
 次回、眼鏡の用も無いのに眼鏡屋さんを訪ねたのは、人生初である。お仕事のお邪魔ではあったが、モノクロ写真となるといつもの控え目な私が陰をひそめる。待っていた重い数冊のアルバムに釘づけとなった。
 「野鳥・自然・人」をキーワードにして収集してきたモノクロ写真で、何故かこれまで本格的な山の写真がほとんどなかった。中野さんのお陰で、山のアーカイブス写真のコレクションが一気に膨らんだのだった。

 写真を眺めていて当然ながらなるほどと思うことがあった。50年前に撮られたスズメも昨日カメラにおさまったスズメも、写真になったスズメだけを見ればほとんど変わってはいない。槍ヶ岳の山容が、半世紀をへて「味」がでてきたなんてこともついぞ聞かない。いつも自然はまさに自然そのままで在る。
 鳥でも山の写真でも時代背景が感じられる写真は、なにか同じ要素を持ち合わせている。それは、自然そのものに「人間臭さ」が加味されるときにちがいない。人の営みが時代を感じさせてくれ、それが時経てアーカイブス写真となるのだ。自然を表現したいばっかりに人間をむしろ意識的に画面構成から排除してきた私には、ちょっと皮肉な発見であった。うすうすは気づいていたが、山の写真を見て目が覚めたような感じがした。
 かくして、梓川岸から見上げる穂高連峰の写真は昔も今も胸を打つが、手前に河童橋を渡る登山者を配すると、俄然時代が見えてくる。白馬岳の大雪渓をキスリングを背負って登る山男の姿が点景となると、「おっ、あの頃の写真だ!」となる。
 ご提供いただいた山の写真の中から、今回はまずは私が気に入った1枚を紹介したい。

BPA
ノスタルジックな山岳写真

アーカイブスなのか このカワウの写真
撮影 塚本洋三
2009年4月12日
埼玉県武蔵丘陵森林公園

カワウのコロニー:森林公園と不忍池

 突然として、私が過日わざわざ撮ってきたカワウが登場した。バード・フォト・アーカイブス(BPA)の“売り”である古いモノクロ写真とは対極にある画像、とは承知である。モノは考えよう、20年、50年経てば、現在の写真は過去の記録としてBPAの趣旨と同じ意味の価値を持つのである。
 昨今増えすぎ (?)、被害問題だ、やれ駆除しろ、いや人との共存が優先課題だと議論されるカワウではあるが、またいつの年か個体数が激減し、身勝手な人間がそれ保護だ、保護という日がこないとも限らない。その時、この1枚は、単にカワウのコロニーを写した以上の価値を持つ写真になるかもしれない、のだ。
 というのも、カワウは1960年以降全国的に激減し、1980年代になってから個体数が回復し生息域を拡げてきたのである。実際、ここ埼玉県の武蔵丘陵森林公園では、1988年までまったくカワウが記録されなかった。初めて確認されたのが園内の山田大沼で、1989年のこと。少数がいついてやがて塒をとるようになり、1996年に入って営巣が初めて確認された。年を追って数が増え、年間を通じて重要なカワウの生息地となったという。今シーズンの繁殖最盛期となる2009年4月20日には、1365羽、営巣数426巣(バードリサーチ調べ)に膨らんだ。

 白状すると、この写真は7月中旬発売予定のBIRDER誌8月号のARCHIVESのページに載ることになっていた。校正も入稿も終わった時点で、ある1枚の写真がみつかった。急きょ差し替えたために、また同誌の限られた紙面をここで補足するためにも、「今月の1枚」となった次第。8月号には、上野不忍池の昔のカワウの写真が3枚掲載される予定だ。そちらもご覧いただけたらと願っている。

 たまたま発見された1枚とは、蒲谷鶴彦さんが1981年に撮影された不忍池の中の島のカワウコロニー全景の図である。その人工島には1978年の改修工事の際に“植えられた”5本の擬木(ぎぼく)があり、日本で初めてカワウが擬木で営巣した状況がなんとか見てとれる点で、まさにアーカイブスフォトなのである。
 その擬木とは、鉄心の枠組みにグラスファイバー繊維を巻きつけ、さらに樹脂で覆って木肌をつけたという苦心作。強度も十分で柔軟性もある優れもの。島の改修工事終了とともに次々と営巣を始めたという。“木”の枝振りもよく恐らく止まり心地もさることながら、地上にも営巣し始めたカワウがいたところをみると、住宅難解消とばかりに擬木をさっさと利用したのだろうか? ちゃっかり愛らしきカワウたちよ。

 東京の都心部不忍池にカワウのコロニーができたのは、飼われていたカワウがそもそものきっかけであった。1949年当時、日本で最大のコロニーの一つであった千葉県大巌寺の鵜の山で捕らえてきた19羽の雛を、不忍池に隣接するオープンケージで育てていたのである。私が中学生のころよく動物園へ行っては、1953年から繁殖始めたカワウが目の前で雛を育てるのを見て楽しんでいた。
 1954年に孵った4羽の内、1羽だけが羽を切られなかったので、池を我が家とばかり自由に呼び回っていた。1962年になって放し飼いが始まり、やがて不忍池の中の島(柳島、鴨島、松島の3つの隣接する島のまず柳島)で繁殖し、次第に増えていった。1973年には約170羽、蒲谷さんが撮られた1981年には約1300羽に増加したという。
 1971年には天然記念物に指定されていた大巌寺のコロニーが消滅するほど、カワウは全国的に少なくなってしまった。不忍池のコロニーは人為的にスタートしたとはいえ、野生で自活するカワウの貴重なコロニーとなったのである。
 しかも不忍池は、都心であり公有地でもあり、島の改修工事や池の浚渫工事でもない限り、また種としても個性的なカワウ自身が“嫌気”を感じて不忍池を後にしない限り、人為的にコロニーが撹乱されることもコロニー消滅もまずあるまい。全国でも例外的な“地の利”を得たカワウの楽園として今日まで比較的に安定したコロニーが存続している点で、カワウ保護上重要な拠点なのである。
 さらに、来歴のわかる個体識別できる“住人”が多くいる点で、コロニー性の大型鳥類の調査研究拠点として恐らく世界的にも希有な存在であろう。
 大巌寺個体群の血をひく正統派?不忍池のカワウコロニーの歴史には、1970年以降不忍池一帯をできるだけ自然状態に保ち、カワウを中心としたバードサンクチュアリ的な要素を活かし、できるだけの保護を進めるという上野動物園の先進的な方針と実践があったことは特記すべきでしょう。

追記:お詫びして訂正

不忍池のカワウは、3月で0羽!(バードリサーチ調べ:私信)
 最近の不忍池のカワウは、上記本文の記述に反して悲惨な状況にあると、即刻ご指摘をうけました。1970年代の上野動物園の方針が継続しているものと思い込み、世界に誇れるあの「大都会の大型水鳥のコロニー」がよもや人間サイドの事情で現状では壊滅状態になっていたとは・・・。最新の状況を調べずに希望的な記事を書いてしまい、ホームページをご覧くださった方にもカワウたちにも申し訳ないことをしてしまい、またおおいに恥じ入っています。
 明日にでも現場をみてきます。 2009年7月2日夜半 塚本

レポート:上野動物園不忍池のカワウの島改修工事
 
7月3日朝の梅雨曇り。不忍池を二分する弁天堂の通りを西園池之端門へと向かう。かつては不忍池に棲息しなかったウミネコが飛び回っていて、聞き慣れて心和むハズのその声も今日の私には場違いのようで小うるさく感じる。
 中学生のころから親しんだ上野動物園であるが、開園と当時に入った記憶はない。あいにく、というかアポ無しでは致し方ないが、小宮園長は2日間のご出張中でお目にかかれず、代わって飼育展示課調整係のご担当が丁寧に対応してくださった。

カワウコロニーがあった工事後の上野不忍池柳島(左)、鴨島(その手前)、松島(右)
2009年7月3日

 1.昨年度の予算で池の西寄りにマダガスカル館「あいあいのすむ森」の建設工事があった。併せて東岸沿いに景観向上を含めての護岸埋め立て植栽工事と、カワウの繁殖していた松島、柳島、鴨島3島の護岸改修および“整地”工事を今年1月ぐらいから実施した。
 2.小型のショベルカーを筏で島に渡して工事した。柳島にあった5本の擬木は “老朽化”し、景観も悪くなり評判も良くなかったので、撤去した。
 3.2009年2月11日に120巣数えた。2月23日に、雛や卵を回収し、巣も取り払ってきれいにした。
 4.不忍池上の遊歩道から係員が歩いて餌を運べるように今回浅瀬が新たに造成された柳島には、柳の若木2本などが植栽された。この島は今後カワウには遠慮してもらい、いずれ猛禽を展示したい意向のようである。
 柳島と松島には、擬木用の穴だけは今回の工事で用意したが、カワウの多くが地上営巣だったので、擬木を立てる予定はない。
 鴨島と松島は、工事後は“更地”のままで、カワウが利用してもよい状態になっている。コウノトリやトキ類を展示したい案もあるが、未確実である。
 5.今回改修した3島の将来利用に関しては、積極的なプランはまだない。工事によってカワウを不忍池から追い出すという積もりはないが、カワウのコロニーを再建し保護しようとする前向きな方針、施策もない。
 6.工事でカワウはほとんど姿を消した。5月23日の「あいあいのすむ森」のオープン式典に先立つ5月18日には、20羽くらいが島に戻ってきていた。その後も20羽ほどがいついている。安心できれば、戻ってくるのではないか。
 私自身、今日の午前10:30頃には、柳島に14羽、松島に9羽のカワウが、モモイロペリカン、コハクチョウ(オオハクチョウもいるという)とともに休んでいるのをみた。正午に両島で同じく計23羽を数えた。午前中のこの時間帯で池に飛来、飛去する個体は見られなかった。
 7.ついでながら、カワウと競合し得るウミネコの存在に触れておきたい。京成上野駅にほど近い不忍池際のビルの屋上などに休む個体とは別に、柳島で34羽のウミネコが見られた。時には鴨島に下りるのもいたが、いかにも柳島にはいつきそうな“賑わい”であった。
 8.不忍池際の展示案内板には、最初に飼育した雛は、大巌寺と浜離宮で捕らえたと書かれていた。私の得ていた情報は大巌寺だけであったので付記する。なお、捕らえた羽数は、案内板には明記されていない。

柳島のカワウ数羽とウミネコたち 背後は鴨島全景

所感:不忍池カワウコロニーの復活を願って
 
帰途の足取りは重かった。
 まず、ボヤキから。「島の改修工事や池の浚渫工事でもない限り・・・コロニー消滅もまずあるまい」とばかり思いこんでいたら、「工事でもない限り」の工事がついに入っていた。その工事は、年度予算との絡みもあったのだろうが、施工時期を含め工事前後のカワウ保護への影響を意識したものとは思い難い。1978年の改修工事は、柳島を半永久的なコロニーとする条件作りをするためだった。工事目的が違うとはいえ、今回はカワウへの配慮が欠けていたのではないのか。自然のカワウは動物園とは直接関係ないと言われれば、なにをかいわんやであるが。
 「1970年以降不忍池一帯をできるだけ自然状態に保ち、カワウを中心としたバードサンクチュアリ的な要素を活かし、できるだけの保護を進めるという上野動物園の先進的な方針と実践」の継続を、私は希望的に信じていた。実際、島の見える遊歩道際の案内板には、カワウは「現在1,000羽以上」と書かれ、日本でのカワウの保護に不忍池コロニーは重要な位置を占めてきたのだから。
 大都会での野鳥のオアシスと目される不忍池ではあるが、そこが動物園の西園である限り、動物園トップが変われば経営方針が変わるのも当然至極とも思っていた。それをすんなり受け止めきれないでいた。カワウへの方針がいつの日か消えてなくなっていた、または明らかな方針変更が決定されていたとは、まだ信じたくないほどの気持ちでいる。

 希望を先につなごう。
 不忍池を後にしたカワウが分散して被害問題の増幅にならないことを祈りつつ、よし最盛期と同じ状態とは言わないまでも、不忍池のカワウはきっと不忍池に戻ってくると信じよう。戻ってきてくれれば、後の多くは人間サイドの問題である。カワウの将来は、園内に棲みこむカワウや他の野鳥を「動物園の客員」としてどう位置付けるのか、動物園トップの判断にかかってこよう。
 自然のカワウを本来業務の一環に組み込むことだ。幸い、過去にカワウが利用した不忍池3島の将来プランは、まだ明確に決定されてはいないようではある。島に棲む黒い鳥カワウは来園者に好まれないから成り行きにまかせるなどということではなく、カワウを積極的に“借景”して新たな動物園の姿を改めて強調するチャンスではないだろうか。
 カワウが不忍池にコロニーを形成する重要性と価値を来園者に伝える前向きな展示方法を考案する気構えが動物園側にあってこそ、旭川からさえも上野動物園を訪れる人が増えるネタが見えてくるのではないだろうか。都知事の笑顔も見えてくる。それはとりもなおさず、大都市にある野生の大型鳥類のコロニーを世界にアピールでき、UENO ZOOの存在価値を高めることになると思えるのである。
 上野動物園の経営陣に、不忍池カワウ保護のエールを心から送りたい。(2009年7月3日 塚本記)

BPA

日本航空機の黎明 会式1号
提供 ◆ 磯村公明
撮影者不詳
1910年初め

鳥・人・自然 プラス 飛行機も!

 「バード・フォト・アーカイブスで古い写真を集めているって? 鳥じゃないけど極く古い飛行機の写真ならあるよ、見るかい?」 慶応幼稚舎の同窓会で何十年振りかであった級友の磯村公明君の話にちょっと戸惑って、「あぁ、鳥も飛行機も空飛ぶよな。同じようなもんだ。是非お願い。」咄嗟に思いついた返事をしてしまった。
 なんでも磯村君の祖父が第二次大戦の始まる前に引退した旧日本軍の将校で、日本航空機の黎明期に空を飛んだ浅田禮三大尉だった。磯村家に遺された飛行機と関連写真が送られてきて、びっくりした。正直、飛行機にはさほど興味はないが、写真として目を見張る魅力に満ちていたのである。
 中でもここに紹介する飛行機、会式1号。1903年に世界で初めてライト兄弟が動力飛行してから7年後の1910年、徳川大尉の操縦する会式1号が日本で初めて試験飛行に成功した。そのときのこと。無事に飛行を終わって大尉が機から降り立つと、関係者一同感激の涙にぬれたとある。その2年後に浅田大尉が乗り始めたようで、磯村君が送ってくれた数十枚の中には、二人乗りの後部座席に搭乗の大尉の勇姿が写されているものが含まれていた。
 なんでこんな凧みたい飛行機が飛べたのか。しかし、飛んでいるのだ。見ているだけでワクワクしてくる。三輪車にまたがって飛んでるようなもので、バードウオッチングにはもってこいかも、などと想像してみる。
 添付してくれた資料に目をやって、またまた目が点: 会式1号の全長全幅ともに11m、総重量550kg、速度72km/h、航続3時間、価格3,080円(発動機、人件費をのぞいて)。バックデータがわかると、アーカイブス写真の面白味が一段と増してくる。

 一も二もなくこの磯村コレクションをバード・フォト・アーカイブスに寄贈し、画像登録していただいた。興味関心の深いアーカイブス的写真があれば、なにも拒む必要はあるまい、と。柔軟に取り組んで貴重なアーカイブス写真が埋もれてしまわないようにするのが、守備範囲拡大の本旨である。
 お手元のアルバムなどに魅力的なまた資料価値の高いと思われるモノクロ写真がみつかったら、拡大解釈したバード・フォト・アーカイブスに是非ご連絡いただきたい。
 因みに磯村君は、航空機写真の歴史的な価値を知るために日本航空協会を訪ねた。「掘り出しもの」とのことで、磯村コレクションは同協会にも保存されることになった。ともども協議しあって貴重な飛行機写真資料がより有効に活用されることが期待される。
 こうした企業団体間相互の協力は、それそれの分野で収集保存されていると思われるアーカイブス写真の収集、保存、活用、継承に不可欠な要素と実感し、その認識と実践が広まることを歓迎したい。

BPA
威嚇するタマシギの雌
撮影 ◆ 中林光生
1973年6月10日
広島市牛田
タマシギの“隠し技”

 翼に大きな白いキズが! 6x6cmのネガをスキャニングして気付いたのだった。よりによって憧れのタマシギのド真ん中に、と自分のことのように悔しがった。諦めるにはあまりに惜しい。さっそく撮影された広島市の中林光生さんにメールしての返信に、私は己の無知を嫌というほど知らされた。
 写真の雌は、実は普通では隠れて見えない長い白い羽毛をわざと見せ、相手を威嚇しているのだそうだ。威嚇している相手とは、カメラを構える中林さんのこと。言われれば、雌の尾のあたりの背後に、白い竹の子のようにボケて見えるのが雄。確かに、自分の相棒を威嚇する手はないだろう。因みに、その“白い竹の子”は、尻を思い切り高く上げて見せてる雄で、夫婦間のコミュニケーションポーズだそうな。
 広島市内の牛田住宅街には、こんなところによくぞタマシギが繁殖しているかと思われる小さな田んぼがいくつか点在し、そのうちの6枚を主に行き来して7、8羽くらいのタマシギ個体群が、1978年までしたたかに生活していた。タマシギの生態観察を7年間続けているうちに、中林さんとすっかり顔見知りになったタマシギは、中林さんが人間であることを忘れ?逃げ出すどころか威嚇する対象になっていた。とは、お聞きするだけで羨ましい関係に思えた。

 数ある鳥の図鑑の中でも、この白線が描かれているものは少ない。死んだ標本を見たのでは、わからないからだ。野外で鳥を観て習性を熟知し図鑑を著した高野伸二さんの『フィールドガイド日本の野鳥』(日本野鳥の会)には、さすがにその白線が控えめながら示されている。私は、1982年に出版されて以来、いまだにそのフィールドガイドを愛用し、タマシギの図柄も何度も見たはずであったのに。見れども見えずとは、嗚呼。
 そのタマシギを、去年、「タマシギ見た〜い」症候群のバードウオッチャーが数人声をかけあい、牛久沼周辺の田んぼを日がな一日探し回った。空しかった。関東では野外で見ることが近年とても難しくなってしまったのだ。いつか出会うときには、タマシギの“隠し技”を見てみたいものだ。もっとも中林さんのように“タマシギの雌に威嚇される仲”になれるとは、とても思えないのだが・・・。

 最後にちょっとPR: 『アニマ』no.86, 1986 には、中林さんの興味深いタマシギの生態が詳しく載っている。掲載されている写真もよいが、「この1枚」といえば、『野鳥』1974年7月号の口絵を飾ったダンス上手の雌の写真。私のいまだに忘れられない名作である。先般、中林さんの連絡先を探し出し、ご無理願ってバード・フォト・アーカイブスにご提供いただいた。その写真が、『BIRDER』(文一総合出版)の6月号に“装いも新たに”再デビューする予定である。併せて是非ご覧いただき、私と同じように唸っていただきたい。

BPA
佐渡の海を渡ったトキ
撮影 ◆ 神戸宇孝
2009年3月7日
長野県下高井郡木島平村
放鳥されたトキ、4対4

 日本では絶滅してしまったトキの野外復帰をめざす試験放鳥が実現したのは、昨2008年9月25日だった。中国産のつがいをもとに人工増殖し、自然界での自活訓練を受けた雄5羽雌5羽が、佐渡の空に飛び立っていった。
 放鳥後1羽が行方不明。12月14日に1羽が死んでみつかった。生存が確認されているのは8羽となった。今年に入って1月8日、雄1羽と雌2羽が行動を共にしているのが放鳥後初めて確認された。群れの維持と繁殖ペアへの期待がかかった。
 ところが、1羽の雌が新潟県で発見されたのである。また1羽。そして、3月28日、ついに4羽目が佐渡の海を渡った。本州にいる4羽とも雌。佐渡にいる4羽はいずれも雄。
 すでに新聞報道などで周知の通りである。

 自然界で何か起きるか、人知では計り知れない。佐渡で放されたトキが海を渡って本州に現れるとは、誰もの予想に反したことをしてくれた。
 日本で最後にトキが棲んでいたのが、佐渡。佐渡で放鳥すれば当然佐渡に棲み、佐渡で繁殖すると思われた。佐渡でのトキ保護の高まりを思えば、佐渡のトキ関係者にとっては、トキが海を越えて飛んでいくとは飛んでもない話。佐渡で放されたトキは “ウチのトキ”といった感覚のようだ。新潟県、長野県を転々とする“ウチのトキ”を佐渡に返して欲しいという気持ちも分からないでもない。
 しかし、時代は動いている。ここは佐渡のトキ以上に日本のトキ、いや、世界のトキといった広い視野を忘れてはなるまい。佐渡は、世界のトキへの“トキ親善大使”の役回りなのではないのか。
 佐渡にだけトキがいればよいのではない。かつての日本のあちこちにいたといわれるトキの姿を取り戻したいのが、大方の願いではないのか。長い年月トキに係わってきた佐渡の人々、今回トキに係わることになってしまった本州の人々、そしてトキの保護に関心のある人々、野外復帰の成功というひとつの願いに向かって皆でできることを協力しあっていきたいものである。
 環境省トキ保護増殖検討委員会は、未知の要素が多い初体験のトキの自然放鳥に当たって、的確には舵取りし難いに違いない。委員の皆さんとて人の子。トキの気持ちまで察しはつかない。相手は自然と人。せめて意志の通じ合える人間同士は、風通しをよくしておきたい。

 現実的には、佐渡に雄が4羽、本州に雌が4羽では、トキとて繁殖ペアの組みようがない。この8羽にまだ何か起きるかわからない。人間側の思惑でトキに迷惑をかけてはいけない。まだ試験放鳥の1年目も前半である。
 雌たちは恐らく新天地を求めて佐渡を後にした。確かに“佐渡のトキ”に不意をつかれたが、雌トキにとっては当然の行動なのかもしれない。今は自然の成り行きを静かに見守るのがよいのではないか。
 雌雄が佐渡と本州にわかれて繁殖できない1年目の状況であれば、2年目の放鳥群の行動をみてその先を決めればよい。3年先、5年先の人間サイドの放鳥の青写真が、次第にうっすら見えてこようというものである。気長に、したたかにいこう。國や県の予算も息切れしてはなるまい。

 マスコミは、ここは騒ぎ立てないで、むしろ、トキの自然での生活は春夏秋冬の1年が単位なのであるから、試験放鳥の成りゆきを5年10年の視点で見据えていくべきだと、コトある毎に報道して欲しいものだ。せっかちに過ぎてはならない。自然を相手とする野生生物の保護管理は、年単位での組み立ての連続なのである。
 本州側のトキ現場では、見物のキャラリーができて静かに見守るどころではないようだ。写真のトキが撮られた日には100人ほど、前日には500人ほどの人出があったという。地元の警察による交通整理、野鳥グループによる監視、地元のトキへの暖かい気持ちなどのお蔭で、トキは困難な冬を越えている。せっかくの1羽を贔屓の引き倒しにしないようにしたいものだ。

 トキの試験放鳥は、始まったばかりである。短期の一喜一憂の判断ではなく、長い目で育てていきたい。そのために、「佐渡に返して欲しい」とか「雄雌別れ別れなのに関係者は何をしとるのか」といったことではなく、今はトキを静かに見守り、トキ8羽のデータをきっちり集めて次に備えていくときだと思う。

BPA
田んぼを翔るチョウゲンボウ
撮影 ◆ 橘 映洲
1976年2月1日
石川県七尾船尾
 チョウゲンボウ、漢字で長元坊。ハヤブサの仲間で名前までが高貴な雰囲気を漂わせる。河原、農耕地、原野など開けたところで秋冬季に全国でまあ普通に見られるタカである。
 本州の崖などに巣を構えるが、近年は都市のビルなどを営巣場所に選ぶ都会モノもでてきた。チョウゲンボウ自身が人工環境を選ぶのであるから、文句をいう筋合いではない。そんな場面での写真は、それはそれで自然と人工物の融和する面白いものとなろう。
 自然により近い人間の営みである農耕地でのチョウゲンボウも、また魅力ある画像となる。問題は近年農村環境も変わってきて、昔のような趣のある景色で期待のシャッターが押せるチャンスは少なくなったようだ。
 今月の1枚は、バード・フォト・アーカイブスのコレクションの中から、これぞという画像を紹介させていただく。

人間よ 車でタカを追いかけなさんな!

 少ないチャンスを狙って傑作を撮るのは、カメラハンティングの醍醐味である。特にチョウゲンボウを含めて空翔るタカの仲間は、一発のシャッターで、いやデジカメ隆盛極める今日ではシャッター連発連写でというべきか、これぞという一枚の作品が出来上がったときの悦楽の境地は理解できる。
 ところがそんな写真を撮りたいばっかりに、鳥たちの「迷惑」に思いをいたさず撮りまくるのは止めてくれないと困る。人間とコミュニケーションできない鳥に代わって、同じ生態写真を撮るカメラ仲間として、マナーを顧みないカメラ輩に言いたいのである。
 この冬、ウスハイイロチュウヒという聞いたこともない鳥が千葉県に現れていたようだ。それは、日本で初めて記録されたというタカの仲間。数週間前に情報を嗅ぎつけた多くの珍鳥パパラッチやカメラマンが、現場に急行した。
 なんとも看過しえないのは、写真を撮りたい一心で珍鳥を追っかけ回すカメラマンがいたことである。ウスハイイロチュウヒの1日の飛行パターンを読み取るために自力で走って追っかけ飛行ルート沿いで待ち伏せてでもシャッターを切ろうとか、相手との駆け引きの奮闘ならまだ分かる。しかし、一方的に車で追いかけたというのである。しかも車列をなして。
 これでは相手もたまったものではない。カメラマンたちは、なぜ車列追尾してはいけないのか、気づかないでいる。今の社会の縮図が、鳥を撮影する世界にも見られるとは残念至極。
 実際に関西で起きたことと聞くが、カメラマンたちがある1羽の鳥を車で追いかけ続けたのがどうも原因らしく、餌を採ることもままならずにその鳥は疲労餓死(?)したらしい。にわかには信じ難いが、あり得ることかと背筋が寒くなった。
 鳥には絶対に近づくなとか追っかけるなと言っているのではない。要は物事の限度をマナーが許す範囲で判断すること、これに尽きよう。規則法律にしばられないこの手の判断に、どこまで追ってもよいかの線は引けない。人や状況によって判断の幅も違ってくる。そんな時は、判断の尺度をゼロに戻し、追ってはいけないと決めてから改めてそろりと尺度をゆるめ限度を見極めていくのはいかが。
 「ちょっと我慢しててくれ、撮らせてもらうよ」というカメラマンがいれば、「じゃ、撮れるもんなら撮られてもいいよ」という鳥がいるかもしれない。ここはお互い配慮の駆け引きである。共有できる配慮の輪が撮影の土俵に描かれる日が、ダメなカメラマンにもやがては訪れることを期待したいものである。

BPA

アイヌ古老
撮影 ローゼ・レッサー
1930年代?
北海道平取

ーゼ・レッサーさんの写真は 上信越の山峡にある?!

 透徹なまなざし。端正な動じない顔立ち。イオマンテ正装のアイヌ古老のこの写真を一目見たとき、ウルウルしてしまったほど心動かされた。写真というより、鳥友でイラストレーターの重原美智子さんが3年ほど前に見せてくれたのは、一枚のコピーだった。それも、写真モードがあることなど知らないローゼおばぁちゃんが、生前コンビニでコピーしてくれたというペラ。そのコピーのまたコピーが、バード・フォト・アーカイブスの「ローゼ・レッサー」ファイルにある。
 コピーですら感動の1枚をどうしても紹介したい。思い直して私はコピーコピーをスキャニングしてみた。オリジナルだったら、白黒の微妙なグラデーションとともにモノクロ写真の命が蘇る。ローゼ・レッサーさんが“アイヌ古老の写真を通じて表現したかったに違いない伝統とか平和への想い”(昔の教え子のお一人、Yさん談)が、写真からより滲みでてくるだろう。
 モノクロ写真ファンの衝動が走った。このオリジナル写真をなんとか拝見したい!

 新年は元旦に、横浜市在住の見知らない方からバード・フォト・アーカイブスにメールが届いた。メールの送り手Yさんは、ネット検索中に私の書いた“ローゼ・レッサーさん撮影の写真は今いずこ”(このページの前々回の項参照)に辿り着き、ローゼさんの情報をお伝えできるかもしれないとのこと。おお! さっそく重原さんにご注進。メールが飛び交った。2日後の夕方には、横浜にほど近い東横線菊名駅で3人の顔がそろった。
 初対面のYさんと重原さんは、ドイツ語や英語会話を巷で教えていたローゼ・レッサー教室の同窓会さながら、ローゼさんを知らない私はお二人の話からローゼさんの魅力に惹かれ、駅前のファミレスですっかり盛り上がったのだった。3時間ちょっと、ビールジョッキー計8杯。
 肝心なYさんの話。ローゼさん関連の残されている諸々の資料は、上信越高原国立公園の山深いY旅館の別館に未整理のまま保管されている。まずはどんな資料がどのくらいあるものか調べてみる必要がある。写真も恐らくでてくるのではないか、とのこと。なにはともかく、「やったぁ!」
 積雪で冬場に訪ねていくのも大変である。それなら新緑の候に鳥の囀りでも楽しみながらローゼさん縁の温泉旅館を訪ね、遺品の数々でローゼさんを忍ぶのもよいだろう。3人の思いは同じだった。
 Yさん情報のお陰で、ローゼさん撮影の眠っているモノクロ写真に出会えるすてきな希望が現実のものとして見えてきた。

 私が最も期待したい「アイヌ古老」のオリジナルプリントに関しては、今のところその行方を探り当てるアテがない。というのは、役に立ててくれそうな人にあげてしまうといってローズさんがアルバムからはがしているのを、重原さんは見たことがあると言うのだ。重原さんがバードウオッチャーだからと、新潟県水原で撮った白鳥のネガごと重原さんにプレゼントされた“実績”のあるローゼさんのこと。教え子でアイヌ研究をされていた方の手に渡ってしまっている可能性が極めて高いそうなのだ。その方が誰でどこにおられるか、手がかりはまったくない。
 Yさんとの出会いがあったのだ。アイヌ研究家の方からのご連絡がないとは限るまい。祈り。
 所在不明のモノクロ写真を追跡する夢は尽きない。

Ω
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