山階鳥類研究所には、下村兼史(1903−1967)が生涯で撮った野鳥や自然関連の写真の原板やプリントのほとんどが収蔵されている。日本の野鳥生態写真のジャンルで先駆的な作品を遺した下村。その原板第一号カワセミは、1922年に撮られている。以来撮り続けられた写真がご遺族のご厚意で山階鳥研に寄贈され、整理保存、活用されている。今日までの長い年月散逸もせず、戦禍をまぬがれ、生態写真史の貴重な資料となっているのは、奇跡の部類ではなかろうかと思っている。
ただ一つ私の嘆きは、撮影データや下村兼史の撮影紀行を知る資料が極めて乏しいことである。下村の写真が掲載されている書籍などをみつけては、写真撮影の背景となる情報が載ってはいまいかと、どんな些細なデータでも落ち穂を拾うように集めるようにしている。
「今月の1枚」は、山階鳥類研究所の下村兼史写真資料として11,982点を収蔵するデータベースから、これまで印刷された写真としては未発表の1枚を選んでご紹介し、下村の足跡が探れる情報を一つ一つ積み上げていく1例を書いておきたい。
北千島で最も大きいパラムシル島のすぐ北に、二番手のシュムス島(占守島)がある。千島列島の最北にして最東端の島。下村兼史は、パラムシル島には1934年と1935年に上陸して多くの生態写真を撮っているが、果たしてシュムス島に上陸していたのであろうか?
パラムシル島での撮影と観察とが詳しく書かれている『北の鳥南の鳥――観察と紀行』(三省堂 1936年)には、下村がシュムス島に渡ったという記述は明確でない。そうと確定できる写真も公表されていない。唯一、パラムシル島と対比させ“台地状の占守島は全島おびただしい湖沼群が散在している”(同書p.40)との一般的な記述があるのみ。長い間、私は下村がシュムス島に上陸したとは考えていなかった。
ところが山階鳥類研究所で下村兼史写真資料の整理保存作業を2005年からお手伝いしたときに、シュムス島から撮ったカムチャツカ半島の手札版ネガがみつかったのだ。
「今月の1枚」をよくご覧いただきたい。ネガの一端にあるメモ書きは、反転すると「カムチャツカ(占守、杜川ヨリ)」と読めるではないか。ネガに遺された恐らく下村の手書きであろう数少ない例の一つである。
山階での作業が始まる前年の2004年に、そのネガの存在を下村兼史の写真に傾倒した映像作家吉田元さんから教えていただいてはいたものの、この目で見つけ出してみて初めて納得したのだった。
確かに下村は占守に上陸していたのだ。
ネガに写されているのは、どうということのない海と遙かに島影のようなものが水平線上に浮かぶ単調な風景。最北の地に一人立って感無量ながら、さすがの下村も写真的表現をするにはいかんともし難い凡庸な景色に、とにかく1枚シャッターを切った・・・。この1枚はそんなところに違いないと私は想像をたくましくしている。
その写真が貴重な1枚となったのは、波静かな占守海峡をはさんで遙かに霞んでかろうじて写されているのがカムチャツカ半島であるからだ。「当時日本領とはいえ最北の地を訪ねてカムチャツカ半島を撮った日本人はそうはいないハズなのだ。歴史的な写真だよ。」吉田さんが、生前私に嬉しそうにそう語ってくれたものだ。
ところが、ところがである。ここまで書きながら虫の知らせというか、私のかすかな記憶が気になり、『野鳥』 2(11): 8-13 をチェックして膝を叩いた。『北千島の紀行日記(二)』のp.13に、7月23日、“船は占守(シムシュ)の杜川(モリカワ)に着く”とある。ご本人の紀行文であるから、これ以上確かなことはない。
ただ、杜川での碇泊は期待したほどの時間はなく、直ちに船はその夜の停泊地柏原へ向かったとある。撮影にはとても十分な時間がなかったことがうかがえ、それなら他にもシュムス島で撮った写真がなさそうなのも納得がいくのであった。
上陸の事実が判明したばかりでなく、「今月の1枚」の撮影日まで特定できたのは思ってもみなかった拾いものであった。こんな好運はめったにあるものではない。
他にも意外なところに“証拠”がみつかっていた。これも吉田さんに教わったものだが、なんと別所二郎蔵著『わが北千島記』(講談社 1977年)に、下村兼史来島の記述があったのだ――
“そして、もう一人孤独?の探求者がいた。野鳥の生態をたずねて中央から来島した一人の自然愛好者が、パラムシロ南部のシギの巣平などを彷徨する。“道”の定かでない野鳥の世界にさまよい込んだ彼にとっては、漁場のあわただしさも工場の喧噪も上の空だったらしい。(注・北村兼史)“
塚本注:引用文の最後の括弧書きは“北村兼史”となっているが、この注は同書の編集段階で加えられた(編集後記に拠る)もので、なんらかの意図で“北村”としたよりは、恐らく編者の単純ミスであろうと推測している。肝心なところで名前を間違えてくれなくともよかろうにと思うのであるが・・・。
別所は、『北の鳥南の鳥』の下村の一文を引用しているので、別所が意図した記述は下村兼史のものであるとみてよいと考える。シュムス島にその頃野鳥をたずねて他にも“孤独?の探求者”がいたとしたら、それこそ誰だか名乗り出てもらわねばなるまい。
下村兼史は、自身の最北の撮影地として1935年にシュムス島にも短時間であれ足跡を残していたことが明かとなった。文献資料調査をおろそかにして、下村はシュムスには上陸していまいと長年勝手に思い込んでいたことを恥じつつ、下村兼史の撮影データ探索とその足跡を辿る私の旅は、心して続くのである。
追記:下村兼史の足跡を追って、私もいつかパラムシル島からシュムス島をも訪ねてみたいものと切望している。その島の表記であるが、気のついたものを参考までに列記すると:
パラムシル(幌筵)島、パラムシロ島、ポロモシリ島
シュムス(占守)島、シムシュ島、シュムシュ島、シュムシリ島。因みに、同島で生まれ育った別所二郎蔵は“占守島”“シュムス島”と『わが北千島記』で表記している。同書の冒頭、占守島に“シムシュ”とルビをふってもいる。
北千島を構成する主な3島の他の一つが、アライト(阿頼度)島