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飛翔中の2羽のコミミズク
撮影 ◆ 高野凱夫
1967年1月21日
神奈川県川崎市ガス橋下流
2012 DEC.

コミミズクの写真記録

 一般に知名度も人気も高い鳥の仲間として、フクロウたちが挙げられよう。日本では12種の記録があり(日本鳥類目録 改訂第7版)、いずれも両眼が前を向いている人間のような顔ツキを見ただけでも、どこか親しみを覚える。昔から絵画、彫刻、詩歌、民謡、神話など、人間の生活や文化に深く浸透している。それでいて、実際に野外で実物を見る機会は意外と少ない。フクロウ類の多くが夜行性であるからだ。写真に撮るとなると、ストロボなどの夜間撮影の機材が必要となって、簡単ではない。
 その点、昼間も活動することで知られるコミミズクは、他の昼行性の鳥と同様にシャッターが期待できる。首尾良く見つかればの話ではある。バードウオッチャーの目が増え、探鳥情報が溢れる今日でこそ、コミミズクを見たり写真撮影することは、さほど難しいことではなくなった。1950年代から60年にかけての探鳥を思い起こすに、見たくともコミミズクはみつかるアテがなかったように記憶している。従って、発表されたコミミズクの写真も記憶に薄い。

 「今月の1枚」は1967年1月の撮影。これは日本のコミミズクの生態写真としてはかなり初期のものではあるまいか。ふとそう思い立って、当時定期的に生態写真が発表される『野鳥』誌(日本野鳥の会)の1960年から1975年までを大急ぎでチェックしてみた。
 果たして、同誌の1967年3月号の口絵を飾ったコミミズクが、「今月の1枚」の撮影者、高野凱夫さんのもので、コミミズクの載った最初の写真と思われた。同じ撮影場所で高野さんより2週間早く撮られた高野伸二さんと高田勝さんの写真も同時に掲載されている。3人が情報交換し同じ場所で撮影していたことが、高野凱夫さんからお聞きしてわかった。
 1月下旬の撮影でそれが同じ年の3月号に載ったのは、当時のフィルム現像や引き伸ばし、そして編集発行に要する時間などを思えば、まさに速報というに値する。さらに我田引水の想像をすれば、コミミズクを写した特ダネ的写真という意識が編集者にあって、そういう扱いがされたのではあるまいか・・・。
 『野鳥』誌に掲載されたアップのコミミズクよりも、バード・フォト・アーカイブスの視点から画面に時代が感じられる写真を「今月の1枚」に選んだ。東京都大田区下丸子と川崎市中原区上平間を結ぶガス橋を背景に、多摩川河川敷を飛ぶ2羽のコミミズクである。トリミングはしていない。数少ないシャッターチャンスでの撮影者の興奮をも感じとっていただきたい。

 撮影時は、このあたりに7,8羽越冬していたという。見つけたペリットには、前歯の先端がオレンジ色のハタネズミの頭骨が入っていて、川原に棲息していたのを主な餌にしていたことが推測された。
 関連して、昨年(2011年)ガス橋の近くで見つかった越冬中の5−6羽のトラフズクのペリットを調べた人の話では、ドブネズミやクマネズミの頭骨しか見つからなかった。恐らく多摩川下流域からハタネズミは姿を消したのではあるまいか、とのことである。
 この情報を鳥仲間から知った高野凱夫さんご自身、かつての撮影地へ行ってみたところ、整地されグラウンドになっていて、ハタネズミやコミミズクの棲める環境ではなくなっていたという。ドブネズミが棲める環境に改変されてしまった「今月の1枚」を見て、環境の「質」の見えない大切さに改めて思いを致している。ドブネズミとて自然環境の一員ではあるが、人間が生活する環境を人間自らがドブネズミ化する手はあるまい。

 因みに、『野鳥』誌上に掲載されたコミミズクの写真であるが、1970年1月号の本文中に絵ハガキ広告があり、その見本としてコミミズクが採用されて載っていたものがある。
 生態写真の掲載を目的としたものでは、1960年からの15年間で、上記の1967年3月号 (1) に次ぐのは、(2) 1970年12月16日に船山陽一さんが仙台市福田町で夜間撮影されたものが1971年4月号の本文中に、(3) 1971年2月14日に高野伸二さんが千葉県新浜で撮影されたのが1972年1月号口絵に、(4) 1972年12月24日に田中幸久さんが大阪南港埋立地で撮影されたのが1973年7月号口絵に、(5) 1973年1月14日に伊藤良昭さんが岐阜県長良川で撮影されたのが1974年8月号口絵にそれぞれモノクロで載っている。
 『私たちの自然』(日本鳥類保護連盟)では、野鳥の見分け方の記事中で他の鳥とともに小さな写真で1968年11月号に扱われたのが、コミミズクの初出。月刊誌の『アニマ』(平凡社)では、辻田寿夫さんのコミミズクが初のカラー写真で1974年 NO.12 の表紙を飾ったのが初出であったと思う。

BPA
2012 NOV.
オオハクチョウの飛翔滑走
撮影 ◆ 下村兼史
1928-29年の冬
鹿児島県荒崎
写真資料提供:公益財団法人 山階鳥類研究所

生態写真はセンスで勝負

 オオハクチョウの飛び立ちを写真撮影するチャンスは、昨今では越冬地で辛抱強く待てば巡り合える。オオハクチョウそのものに出会うことの少なかった1920年代後半の鹿児島県荒崎で、さらに少ないチャンスのその飛び立ちをカメラに納めるのは、至難の技。それをやってのけた写真が「今月の1枚」である。
 日本の野鳥生態写真の草分け、下村兼史が初めて荒崎を訪れたのは、1927年だった。その時1羽のオオハクチョウを見た。翌年は2羽だった。1928年11月から翌1929年2月まで、5羽が越冬した記録が残されている(下村兼史「カメラ野鳥記」誠文堂新光社 1952年 p.147)。
 その5羽を撮影しようと、下村はやや大きな池の畔に設置したブラインドに入って、オオハクチョウの飛来を待った。ところが、水上に浮かぶ5羽を撮ったガラス乾板(ガラスの片面に感光乳剤が塗られたネガ“フィルム”相当のもの)やプリントが、山階鳥類研究所の下村兼史写真資料には見当たらない。加えて、そのような下村の写真が、私の知る限りどこにも発表されていないのである。
 まったくの推測であるが、オオハクチョウは飛来したものの、下村にシャッターを切る間も与えずに(警戒して)飛び立っていってしまったのではなかろうか?(当時のカメラ機材は、名手下村でも手こずりかねない機能でしかなかったことをご想像いただきたい。)その時、飛び去るところを撮る他には術がなかった現実にあって、唯一のシャッターが押せたのではなかろうか?
 そう思って改めて見る「今月の1枚」は、さすがと思えるほどドンピシャリのタイミングでシャッターを押している。5羽の“決まった”両翼のバランスと醸し出されたリズム感。一瞬のシャッターチャンスをものするカメラセンスがうかがえる。
 今日のデジカメでなら何回かのシャッターチャンスで連写した画像の内から思い描く1枚を選べるのであろうが、下村に与えられたのは、ワンチャンスに1回シャッターを押すことだけ。次のシャッターを押さんものと、撮影後のガラス乾板を即座に新たな乾板と入れ替える余裕などなかったに違いない(私も下村がその時使っていたのと同じと思われるグラフレックスカメラを入手して撮影を試みているので、そのあたりは実感できるつもりである)。「今月の1枚」は、まさに必殺撮影の産物と言ってよかろう。

 もう1点注目したいのは、下村のトリミングのセンスである。手札版ガラス乾板(82×107mm)の中央に小さくイメージされた5羽のオオハクチョウ部分を大胆にトリミングしている。下村がこのトリミングを通じて表現したかった意図は、水面を滑走して飛び立たんとするオオハクチョウのダイナミックな姿であろう。意にそぐわない背景を切り捨て、画面の下半分を水面だけにして飛び去る鳥との距離感を出す。常套手段といえばそれまでであるが、この1枚にその構図を活かしたセンスが光る。
 乾板を見れば、生態写真としては背景の格好の松並木も含めた構図にしたいところである。私なら凡庸にそうしていたと思いつつ、下村のその時の他の写真を山階鳥類研究所のデータベースでチェックしてみた。果たしてここに載せた乾板の画像に緑色で示したトリミングのプリント(下村兼史写真資料ID番号:AVSK_PM_4192)を、下村自身が作成していたことが分かった。
 ところが、日本の野鳥生態写真史のマイルストーンとも目される下村の写真集「鳥類生態写真集」第1輯 (三省堂 1930年) で第16図に下村が選んだのは、オオハクチョウの飛翔滑走を強調して表現した方の構図であった。「今月の1枚」は、その構図を忠実に再現してみた。
 乾板の中心部のみをトリミングして伸ばしたので、ピントはより甘くなっているが、それを気にして自身の表現したいものを犠牲にする下村ではなかった。このあたりは、アマピンにアマイ私は、心しなければならないところではある。甘いピントの写真がいつでも良しとされる訳では無論ないが、「今月の1枚」のようにピントの甘さを凌駕する傑作というのがあってしかるべきではないだろうか。
 不思議なもので、デジカメ画像のこれでもかのシャープな画像と超美しい色調に飽きてくると、アマピンのモノクロ写真がデジカメ画像には表現されていない懐かしく穏やかな「なにか」を我が目我が心にアピールしているように感じられる。そのあたりを謙虚に見直すと、デジカメ画像が一段と魅力あるものになるのではないかと思う。モノクロ写真は、そのあたりで今の時代に微笑んでいるに違いない。

[今月の2枚目]

オオハクチョウの飛翔滑走
「今月の1枚」の原板である
撮影 ◆ 下村兼史
 資料提供:(公財)山階鳥類研究所
下村兼史資写真料ID番号 AVSK_DM_0970

BPA
2012 OCT.

クロトキのいる風景
撮影 望月英夫
1963年12月1日
千葉県新浜

珍鳥と共にある生活は 今

 珍鳥ファンとしては、日々の生活になにげなく珍鳥が見られるのに憧れる贅沢な想いがある。そうそう巡り会えるものではない。「今月の1枚」は、そんな夢のような場面を写し撮り、同時に当時の自然環境を今に伝えている。

 かつて東京湾奥の海は遠浅で、潮が引けば見渡す限りの干潟がでた。大潮時の潮があげてくると、写真の千葉県新浜のように干潟一面うっすらと潮がかぶる。鳥見に沖へ出ていて浅いうちならまだ大丈夫と見くびると、潮の満ちるのは意外に速く、泳ぐ覚悟がない限りまさに潮に追われるように堤防へと急がねばならない。地元の猟師さんならそのあたりを心得ていて、潮時を見て帰路につく。
 オゴ(海草)採りが手に手に籠をさげて三々五々と岸に向かうその中に、珍鳥クロトキ2羽が採餌に余念がない。望月さんはこの光景を目撃して200mm望遠レンズ付きのミノルタSR1 でフィルムに記録した。
 写真には、生活の場にいてクロトキには頓着のないオゴ採りの人たちも、たまさか立ち寄って人間の営みには無関心の如くのクロトキも、サマになって干潟の風景に溶け込んでいる様子が写し込まれている。互いにその場にいることがさも当然であるかのように、極く普通の景色に見える。憬れの一コマである。

 その昔クロトキは日本でも見られたらしいが、1883年1月に東京都江東区亀戸で採集されたのを最後に記録が途絶えていた。因みに1883年といえば、写真左端をさらに左へと歩き戻った堤防際に、宮内庁新浜御猟場が開設された年である。クロトキがバードウォッチャーの夢の鳥となったのは、1951年以降少数ながら各地で観察されはじめてからのこと。
 私にとっての最初のクロトキとのニアミスは、日本野鳥の会東京支部の新浜探鳥会のあった1954年5月23日のこと。集合場所に遅刻して行ったら誰もいないし、小雨なので中止だろうと帰宅したら、その日、御猟場近くでクロトキが出たという。忘れることのできない痛恨事であった。以来、クロトキにはご縁がなく、いまだに憬れの鳥としてフィールドで会える日を楽しみにしている。

 「今月の1枚」の撮られた翌年から、写真の左側はるか遠くの江戸川放水路河口にほど近い、後の千鳥町での埋め立て工事がはじまり、干潟は一変した。クロトキがいて地元漁師さんの生活の場であったあたりの干潟一帯は、埋め立てられて工場団地や高層ビルに取って代わった。そこに東西に走る首都高速湾岸線が1978年に、JR京葉線が1988年に開通している。御猟場開設100周年の1983年には、クロトキのいたあたりから僅か数キロ西の旧江戸川河口に東京ディズニーランドが開園した。
 新浜の原風景を今に伝える「今月の1枚」がなければ、東京湾奥の過去はまさに私たちの記憶の中に葬り去られるであろう。現にディズニーランドが昔干潟だったとさえ知らない多くの今の若い世代には、温故知新のかっこうの視覚的な資料となることを願っている。

BPA
2012 SEPT.
父と子のツーショット 黒田長禮博士(左)と黒田長久博士
撮影 ◆ 鈴木邦彦
1959年2月27日
東京都港区

黒田長禮・黒田長久両博士の思い出

 日本鳥学会が今年100周年を迎えた。その歴史で、親子がそろって学位を取得したのは、黒田長禮・黒田長久両博士をおいて他にいない。「今月の1枚」は、当時恐らく東京は赤坂のお宅でくつろがれるその黒田父子を撮ったものである。お二人お揃いでカメラに納まった写真を見る機会は、ありそうで意外とないように思える。写真のお顔を拝見していると、思い出のいくつかが蘇る。

 黒田長禮博士(1889−1976)と私との出会いは、出会いというより、山階鳥類研究所が東京渋谷の南平台にあった頃(現在の我孫子市に移転したのは1984年)、鳥学会の月例会が同研究所で開かれている席でのことであった。私はさほど広くない会議室の最後部の折り畳み椅子に座り、そこから最前列にお座りになる黒田先生をいつも眺め見ただけなのである。限られた場所での束の間の観察ではあるが、博士の笑顔はついぞ記憶にない。写真では微笑んでおられる。
 日本鳥学会第4代会頭(在任期間:1947−63)の黒田博士は、さすが福岡藩の大殿様そのままと思える風貌と相俟って、当時中学生の私には近づき難い存在であった。ましてや鳥学の重鎮に自らなにかお話したいなどいう気は、まったく起きなかったのである。
 唯一回だけ、はからずも近づけたのは、1958年の鳥学会総会で奨学賞の表彰状と副賞の英文の本2冊を受け取った時であった。私が表彰されたわけではなく、当時千葉県新浜の海岸で“野外識別学”に現を抜かしていた「新浜グループ」というバードウオッチャーの一団を代表し、リーダー格の高野伸二さんと私が賞状を受けただけなのである。その時お近くからの黒田会頭には、人間たるものの最たる風格とはこれかというものが若年にして肌で感じられたのを、今でも覚えている。

 黒田長久博士(1916−2009)には、長年にわたりなにかとお世話になった感謝の念と、またご迷惑もお掛けした申し訳ない気持ちとが、いまだに私の中で混在している。日本鳥学会との関係でというよりは、もっぱら日本野鳥の会の黒田会長として、会務や野鳥の保護活動などを通してのお付き合いであった。思い出は尽きない。中でも強烈なのをいくつか書き残しておきたい。
 個人的にストレスがかかった思い出は、1990年に理事会の決定を受け、黒田先生に日本野鳥の会の会長になっていただくお願いの役を私がすることになったときだった。地下鉄赤坂駅のエスカレーターを上がった先の喫茶店の待ち合わせ場所へ向かう時の緊張感は、今もすぐ胸に蘇るほど。
 差し向かいでしばしのやりとりの後に、引き受けましょうとおっしゃられた時の安堵の気持・・・。その時は、鳥学界のトップに立つ黒田博士がなんで日本鳥学会の会頭(第6代・8代会頭 在任期間:1970−75、1981−90)を辞し、在野の一鳥団体でしかない日本野鳥の会の会長を務めねばならないのかと、鳥学の府で後にかなりの物議をかもしたやに人伝に聞くことになろうとは、予想もつかなかったのだ。
 その時黒田先生は、鳥学の底辺を拡げる必要を述べられ、まず鳥に興味を持つ層を厚くしなければならない。それには日本野鳥の会で会員を増やすことです、とお考えを語られた。鳥界全般を見渡してのご判断、それには私はどれほど心強く感じたことか。
 鳥学では分類学から形態、生態、解剖学など広い分野の業績を残されたと聞いているが、驚異的なのは、専門分野の他に自然保護や芸術にも常に意欲的に取り組まれたことである。その活動の根底には、「和」を重んじるお考えが一貫してあったと思う。
 公正を期することに二の足を踏まれることはなかったが、相対する側にも配慮し組織の長のお立場でのご判断が明確でなくなることがあったのには、私は少なからず泣かされた。それも、今では懐かしいばかり。寡黙にして温厚、超真面目な、学者にして学者を超える愛すべきお人柄に惹かれる向きは多く、私も黒田ファンの人後に落ちないと思っている。
 黒田先生は、稀なるマルチタレントな鳥学者であった。歌詞を創り楽譜に表現し、時に自らも歌われた。どう興に乗られたのか、日本野鳥の会の理事会席上で会活動の文化面に言及され、突然自作のウグイスの唄を歌いだされたのには面食らった。その時、私は会長の隣で司会進行の補佐を務めていたが、議場の雰囲気を取り繕う術もなく、ただ唖然と会長の横顔を眺め、頭の中では“ウグイス”が上の空を飛んでいったのだった。「お殿様」との印象がさらに強まった破格のできことであった。
 酒豪にして黒田家では当然というか、待ってましたの「黒田節」をここ一番の際に唱われた。私の結婚パーティーでもご披露してくださったのが、いまだに耳に残っている。果報なひとときであった。
 個人的にもう一つ有難かったのは、バード・フォト・アーカイブスで『日本でいちばん鳥を聴いた男 蒲谷鶴彦さんがいく』というDVDを制作(2008年)した時だった。黒田先生が作詞作曲された『蒲谷鶴彦氏追悼歌』の著作権を快く許諾くださり、DVDの最後を私の希望通りにピアノ曲で飾ることができたのである。亡くなられる1年ほど前のことだった。先生の作曲の才も凄いことなのだと、音痴な私はDVDを見るたびに感じ入っている。
 絵画でいえば、鳥がいても主眼は棲息環境の中での鳥の生活を描いているのである。自然に生かされている鳥の姿は、単に鳥主題の挿絵を描いたというのではなく、常に一枚の画として魅せる努力をされているのに驚かされる。どころか、鳥が一羽も描かれていなくて、空の雲だけを絵筆で表現して著されたりも。まさに、鳥学者の域を超えて計り知れない才能を生涯積極的に発揮された希有の人であった。
 「今月の1枚」の写真で想像できるように、共に鳥学の博士である仲睦まじい父と子は、極楽浄土でこの世の続きを謹厳に楽しまれ、存分にご活躍されていることを疑はない。

BPA
2012 AUG.
シロエリオオハムなどを活用した伝統漁法
撮影 ◆ 下村兼史
1930年代初め(推定)の4月
瀬戸内海(広島県)
写真資料提供:公益財団法人 山階鳥類研究所
海鳥と漁民一体の伝統漁法(2011 NOV.訂正編)
 「今月の1枚」の2011 NOV.で、瀬戸内海に越冬するアビ類と漁師とが協働で繰り広げる伝統漁法のモノクロ写真をご紹介した。撮影したのは、日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史(1903−1967)。今回は、同じ伝統漁法の状況を撮った下村の別の1枚を、前回の解説と共にご覧いただきたい。山階鳥類研究所が所蔵する1万点を越える下村兼史写真資料の中の、ID番号AVSK_PM_2433である。

 ところが、実は、前回2011 NOV.の内容には間違った情報が載っている。原文では、二人の「下村」――下村兼史と下村六三――が混在してしまっていたので、改めて以下に訂正したものを載せさせていただく。

 “下村六三が1926年に史跡名勝天然記念物調査委員を委嘱され、怒り網代に関する報告をした・・・その『史跡名勝天然記念物調査報告 第一輯』(広島県 1929年)のp.182に、六三は次ぎのように述べている。
 「此数十艘の漁船の中に交わりて、遊々たるアビ鳥一幅の絵画の如し、到底筆紙のよく尽くす処にあらざるなり。」
 下村六三の麗筆をもってしても表現し尽くせないという「一幅の絵画」は、下村兼史が卓越した構図とカメラセンスとでモノクロ写真に再現している。”
 以降の原文に出てくる「下村」は「下村兼史」としてお読みいただきたい。

 「二人の下村」のような過ちを繰り返さないための自戒の意味で、私が誤解した経緯を敢えて書き残しておきたい。
 上記の『史跡名勝天然記念物調査報告 第一輯』の「十五 怒り網代」pp.175−188 のコピーを入手した際、その最終ページに「(昭和三年一月下村委員)」と執筆担当者が明記されているのに気づいた。その年代の下村兼史の動向を知りたかった私が、我が意を得たり的な鵜呑みでその下村委員を“下村兼史委員”と思い込み、2011 NOV.にアップしてしまったのである。
 原典に当たって確認しなくてはいけなかったという一抹の後ろめたさが尾をひいて、下村委員がずっと気になっていた。ネット検索がニガ手の私に、助っ人が現れた。バード・フォト・アーカイブスでもお世話になっていて、小林重三研究家、ISO14001主任審査員などで活動している園部環境企画の園部浩一郎さんである。間違いが証明されたのは、園部さんがあっという間に鹿児島県立図書館から入手してくれた資料であった。
 果たして件の『史跡名勝天然記念物調査報告 第一輯』のpp.201−202に、天然記念物係 委員の名簿があった。下村六三(廣島市立廣島高等女学校教諭)と載っていたのだ。下村六三がどのような人物かは調べていないが、下村兼史でないことは明かであろう。
 改めて私の肝に銘じたのは、どこか気になることは、キッチリと納得いくまで調べてからモノを書くべしという当然過ぎること。平素より、下村兼史自身や撮影データの未確認情報をいかに解明できるかで腐心していることは、このページのそこここでも書いてきた。今回、やるべき確認作業を怠って2011 NOV.にアップしたことに、反省は尽きない次第である。

 なお、下村兼史に関して今回ささやかながら意味のある“発見”があった。鏑木外岐雄著の「十 アビ渡来群遊海面と漁業」と題する報文が『天然記念物調査報告 動物之部第二輯』(文部省 1932)pp.65-71に載っているのを、これも園部さんからご教示いただいた。そのp.70+ に、2011 NOV.で紹介した同じ写真が「アビの群遊と鳥附漕釣漁業の実況」と題して載っていたのである。
 2011 NOV.では「撮影年代不詳」としたその写真であるが、『動物之部第2輯』が1932年3月に発行されていた事実から、それ以前に撮影されていたことが判明した。加えて、下村兼史が“その頃”広島県を訪れていたことがわかったのである。
 下村生涯の足跡を辿るには、埋もれている資料の存在を“嗅ぎつける”特技を持つ才人のサポートと、上記のようにふとしたことで見つかるかもしれない撮影データの不断の集積とが不可欠であることを、改めて痛感したのである。

●(財)山階鳥類研究所には、約6万9千点の標本類、3万9千冊にのぼる文献などとともに、下村兼史が遺した乾板、ネガ、プリントを主とする写真関連資料11,982点が「下村兼史資料」として収蔵され、データベース化されて大方の活用を待っています。

●下村兼史資料の利用についてのご質問、お問い合せは、同研究所の下村兼史資料提供窓口となっている(有)バード・フォト・アーカイブスへ直接ご連絡お願いいたします。尚、山階鳥類研究所の下村兼史サイト www.yamashina.or.jp/hp/hyohon_tosho/shimomura_kenji/k_index.htmlもご参照ください。

2012 JULY

真夏の夜の夢 ―― 「なんじゃ、こりゃ?!」
写真提供 高島るみ子
撮影者・撮影年月日・撮影場所 不詳

被写体に心当たりのある方へ

 ご覧になっての通りである。
 特大の鯛焼きのような、なにやら巨大な物体が浮かび上がる。つり下がったゴンドラらしきに乗った2人の、右の人は半身を乗り出して下を窺っている。
 若い世代には馴染みのない場面であろうが、物体は飛行船か? だとすると、手元の電子辞書には「ヘリウム−ガスなど空気より軽い気体を気嚢に詰めて揚力をつくり、動力によって推力を得る航空機」(スーパー大辞林)とある。航空機というイメージからはほど遠い気がする。しかし、終戦記念日を間近に控え、かつて日本の空に起こっていたことどもが現実味を越えて想像される1枚ではないだろうか。
 この写真に写されているものを知る手がかりは、なにもない。分かっていることは、写真をご提供くださった高島るみ子さんが大切にしているアルバムに貼られてあったこと。そのアルバムは祖父にあたる高島儀一さん(1901−1983)から譲り受けたもの。ということだけである。

 バード・フォト・アーカイブスに提供される写真の中には、同じ空を飛ぶ鳥だけに限らず、ご覧のようなアーカイブスな写真も折にふれて含まれるようになった。バード・フォト・アーカイブス活動の中核となるべき「野鳥・自然・人」のテーマをいささか逸脱してはいるが、アーカイブスな魅力にコト欠かない写真は、なにによらず垂涎の的。本末転倒は避けるべきだが、テーマ以外の希有な写真が散逸したり世の目に触れないままに埋没されるよりは、バード・フォト・アーカイブスも然るべく保存管理の一役を担ってよかろうという柔軟な考えに変わってきたのだ。
 例えば、バード・フォト・アーカイブスの登録写真の中に大戦中の軍用機の写真があれば、一般財団法人日本航空協会に連絡をとってみることも一案。企業団体間の連携によって、門外漢には単に魅力あるだけの写真が、専門の機関で資料性が認知されさらなる活用や記録の蓄積が期待されるということもあろう。
 とても小さな一歩一歩の積み重ねではあるが、客観的な過去を知るために地道ながら不可欠な活動と考えるのである。

 とはいえ、撮影データが皆無な写真には、正直泣かされる。「今月の1枚」で、見覚えのある原っぱだとか、“鯛焼き”は何だとか、いつ頃撮られたらしいとか、撮影の状況を多少ともご存知の方のご一報を心待ちしている次第です。

BPA

佐渡新穂山に於けるトキの巣と雛
撮影 ◆ 下村兼史
1933年5月31日
佐渡佐渡郡新穂村
資料提供:公益財団法人山階鳥類研究所

2012 JUNE
歴史的なトキの写真

 一度は絶滅した日本のトキが人間の手で自然に復帰すべく8羽の雛が巣立っていった今年(2012年)。この歴史的な年から丁度80年前の1932年8月とその翌年5月下旬に、下村兼史はトキの撮影目的で佐渡を訪れている。これもまた野鳥生態写真史上で歴史的なことであった。その時の、巣立ち近い幼鳥の写真が「今月の1枚」である。
 この写真が載っている「日本鳥類生態写真図集」(巣林書房 1935年)の序文に、「佐渡のトキは世界最初の収穫である」との記述がある。恐らく日本で最初にカメラに捉えられた巣にいるトキと思われる。
 公益財団法人山階鳥類研究所の下村兼史写真データベースには、2回の佐渡撮影行で撮られたトキ関連の写真が61点(乾板3点、大型ネガ25点、プリント33点)収納されている。(データベースにはネガもプリントもないが、他で発表されているこの時の写真が少なくとも1点は存在する。)
 61点の内、「今月の1枚」とほぼ同じ構図のものが、2枚の乾板と7枚の大型ネガフィルムに記録されている。デジカメ時代の今では想像し難いことではあるが、フィルムより以前に使われていた、ガラス板の片面に感光乳剤が塗られた乾板を、フィルムと併用して使用していた点が時代を感じさせる。ここでは、被写体が極めて酷似する手札版乾板2枚の内、山階データベースID番号AVSK_DM_0160を紹介した。
 この写真は、内田清之助が1933年に日本鳥学会誌「鳥」(第8巻 第37号)に「珍鳥朱鷺の棲息地」と題した論説を発表した際の口絵に載って以来、1935年に出版された「日本鳥類生態写真図集」p.29、1935年「野鳥礼讃 」写真1、1941年「日本の鳥類と其の生態 」II p.904、1952年「日本鳥類大図鑑」II no.393、1954年「日本鳥類生態図鑑 」no.4に掲載されている。
 「今月の1枚」でご注目いただきたいのは、写真の構図である。上記の文献に掲載されているどの写真も同一の乾板から伸ばされた写真であるから、同じ写真と言ってしまえばそれまでである。実際には、生態写真として鳥が中心の構図であったり、掲載頁の都合でトリミングされたような写真であったり、恐らく下村の作品意図とは違ってしまった、微妙な差とはいえ似て非なる写真となっている感がある。
 果たして下村兼史が「1枚の作品」として納得した構図はどれであったのだろうか? 下村は、甥の藤村和男さんに写真術を教えた際、「構図が大事だよ」とよく口にされていたと聞く。さりげなく冴えた構図は、下村写真の魅力の一つであると言っても過言ではない。構図に対する意識が高かったことが窺える。それだけに、「今月の1枚」も下村の最高のトキを紹介しなければと考えた。
 何に準拠して“下村自身が納得の構図”と考えるべきか。掲載された写真を見比べてみると、私の一押しは「日本鳥類生態写真図集」に載っているものである。主題のトキそのものは小さく控え目であるが、それだけ営巣環境が読み取れ、渓谷沿いの密林中の断崖の上にあったという営巣木の栗の大樹の風格までが写し込まれている。写真の四隅一杯まで樹の枝振りに気遣ったに違いない構図で、神経の行き届いた作品に仕上げている。その点が、他の掲載写真と異なると私は判断したのである。その構図を「今月の1枚」で忠実に再現してみた。
 加えて、「日本鳥類生態写真図集」は、1935年にイギリスで開催された国際自然写真展に日本を代表して送られた写真50点を収録したもの(同著の序文、p.4-5)である。出典した9人の生態写真家の内、下村の写真が27点とダントツに多い。写真の制作にも下村が主に係わったと聞く。そうであれば、国際デビューを果たすべく下村が自身の作品にも普段に増して気を配ったことが推察され、同著にあるトキの1枚もその構図をもって最高の作品とみなしたのではあるまいかと想像をたくましくしてみたのである。
 どのみち、私の独断で「今月の1枚」の構図を選んだ次第であるが、いかがであろうか。

(公財)山階鳥類研究所の下村兼史写真資料の利用についてのご質問、
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BPA
2012 MAY
飛翔中のハリオアマツバメ
撮影 ◆ 廣居忠量
1966年7月8日
北海道斜里岳
ハリオアマツバメを撮る:フィルムvs.デジタル

 カメラのスイッチを入れてシャッターボタンを押せば誰でもとにかく鳥の写真が撮れるデジカメ時代となった。振り返れば、フィルムを入れたカメラで写真を撮影すること自体が特殊技能と目された時代があったことなど、ウソのようである。ピントや絞りの調節および装填したフィルムの巻き上げは、すべて手動。露出は勘と経験に頼る。手振れ、二重撮り、空撮りは自分で注意する以外に防ぎようがない。そんなカメラを私自身使った経験が懐かしい。
 露出には常に悩まされた。過不足は免れない。むしろ適正露出で撮れることの方が少ない。アサヒペンタックスSPという露出計が内蔵された一眼レフカメラを1960年代半ばに初めて使って、その時の感動は今も忘れられない。「今月の1枚」は、そのSPで撮られた廣居忠量さんの1枚。
 ご覧の鳥は、ハリオアマツバメ。しかも飛翔中とくる。当時としては、現像が出来上がってきて識別も可能なハリオアマツバメがネガに浮かび上がれば、「やったぁ!」と声をあげる部類なのだ。というのも、トップクラスの“飛び師”ハリオアマツバメが猛スピードで過ぎるのを35mmのファイダーに捉え、手動でピントを合わせながらシャッターを切るのが、まず至難の技。因みにこの写真、35mmフィルムでトリミング無しである。
 廣居さんはコムラー300mmのレンズを使って撮っていた。左手で支えるように鏡胴を掴んで回しピントを合わせなければならない。被写体までの距離をレンズに固定し、焦点深度内にハリオが飛び込んできたと思えるときにシャッターを切る“やけっぱち撮影法”も、選択肢ではあるが・・・。ついでながら、では、絞りはどのタイミングでどうセットしたのか? 「なんとかしてたんでしょ。覚えてなんかいないですよ。」が廣居さんの答えだった。
 そのシャッターも、モータードライブが搭載されているとかデジカメのように連写ができるのは、夢のまた夢。必殺のシャッター1回の勝負である。シャッターを切ったら、右手親指で出来るだけ早くシャッターレバーを水平に回してフィルムを送り、次ぎのチャンスを待つのだ。
 ピント、ポーズ、構図が決まったとき、私の場合ポーズは運を天に任せるしかなかったのだが、決定的瞬間にシャッターを押すのはナミの腕と多少の経験ではムリだと理解していた。すべてが一瞬の判断で人指し指が反応し1回のシャッターで決めるのは、当時最新鋭の光学機器を使ってもまさに勘と経験の産物だったのである。
 写真はカメラが撮ってくれるのではなく、撮る人がカメラを駆使しなければ撮れない時代だった。

 同じハリオアマツバメを、私の写友、というか押しかけ弟子の弟子にもなれない私が“写師”と仰ぐ関西在住の方が、昨年撮って送って(贈って)くださった。これぞデジカメ撮影ならではの妙味といえるハリオアマツバメの「とびもの」に、感動しきり。構図、色彩、ピント、スピード感、画面に醸し出された雰囲気、それらが一体となった神業のようなすばらしい画像である。
 デジカメがどうも性に合わなくて、デジカメで撮られた画像にとかくモンクを言いたい私も、このハリオアマツバメのようなデジカメ画像なら、出来るものなら私もデジカメの腕を磨きたいものだと思わせる作品である。モノクロ時代には撮れなかった、まさに今日的野鳥生態写真の雄と言えよう。

 師匠の画像を比較してここに載せられないのは残念ながらさておき、同じ飛翔中のハリオアマツバメの写真で、私を唸らせた師匠のデジカメカラー画像と懐かしのモノクロ「今月の1枚」とで、どちらを好むかは勝手である。時代時代の光学機器の改良発展を受け、表現できるものが異なったものになるのは当然。
 だが、日本の鳥類生態写真史に記録されるべき時代を代表する写真として改めて考えてみると、デジカメ時代だからこそモノクロ写真を真摯に受けとめるなら、「今月の1枚」の鑑賞の視点やモノクロ写真の価値が見えてこようというものである。
 モノクロ写真技術があってこそ今日のデジカメ技術へと発展したのである。モノクロだけとかデジカメだけがそれぞれ独立して進歩しているのではなく、なにごとも互いに関連し影響をあたえて生態写真の歴史が動き、文化となっていくのではないか。まずは「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る」、或いは「クラシックに学べ」の態度でモノクロ写真を見直し、デジカメ画像の“味”をも評価し、機材や撮影の時代背景を加味しながら作品を鑑賞した方が、幅広く生態写真が楽しめると思う。
 心の琴線に触れる良い作品は、モノクロでもデジタルでも良いものである。

BPA
2012 APR.
巣に入るヤイロチョウ
撮影 ◆ 下村兼史
1937年6月14日
高知県幡多郡大物川山国有林
資料提供:公益財団法人 山階鳥類研究所

75年前に撮影されたヤイロチョウの繁殖

 「今月の1枚」は、1937年に下村兼史がレンズを向けたヤイロチョウ(公益財団法人山階鳥類研究所の下村兼史写真資料ID番号:AVSK_NM_0665)である。ヤイロチョウは今日でも繁殖地域が限られ、四国(主に高知県)、九州南部および北部、長野県の一部のみである。かつては迷鳥と考えられ、全国でも17ヶ所の採集例があるのみ(「山林彙報」32:3 別刷1-10)の“幻の鳥”であった。
 未確認のヤイロチョウの営巣状況を撮影するという構想を抱いていたと思われる当時農林省山林局鳥獣調査室の内田清之助博士は、ヤイロチョウの営巣発見の報告を組織網を通じて指示していたに違いない。1937年6月4日に四国の山奥の山林事業所の所員に巣が発見されると、その報告は営林署、営林局、林野省へと電話リレーされ、その日の内に内田のもとに届いた。
 ヤイロチョウの撮影に、仕事の先約があった内田は部下の下村兼史を“抜擢”したのだった。内田は特に天然記念物指定の鳥を生態写真により記録する重要性を認識しており、下村の生態写真技術をかねてから評価していたのである。
 本省に連絡の届いた翌5日に下村は内田の命を受け、仕事としてヤイロチョウを撮るべく9日には東京を発ち、高知県の宿毛から大物川沿いに犬がひくトロに乗って山峡の奥地へと向かっていた。営巣現場に到着したのは6月12日のこと。
 暗い森での急斜面の櫻の大木の地上6メートルほどの二股に作られた巣の撮影は、簡単にはいかなかった。巣がうまく構図される位置にカメラとフラッシュランプが取りつけられる櫓を立てた。シャッターを1枚押すごとにセットしに上るための梯子も急造された。20メートルほど離れた巣と反対の斜面の巣と並行となる高さにテントを張り、そこから電線でスイッチを入れるように準備した。この作業に3時間以上もかかったのである。
 運良く用意してきたフラッシュのセットが役立ったが、撮影の伏兵でもあった。当時は新聞社の写真班でもあまり用いられなかったシンクロフラッシュガンを下村は自作しており、それまで使う機会がないままに、ヤイロチョウ撮影がまさに試運転であったのだ。本番一発、シャッターは彼方でガシャリと鳴ったがフラッシュが発火しない。発火したと思えた瞬間、大きな爆発音がしてフラッシュ電球が破片となって散る・・・。失敗と成功を繰り返す撮影が続いた。
 困難を極めた6月13日からの3日間の撮影作業を終えた16日の朝には、次の土地へ向けてヤイロチョウの巣を後にしたのだった。

 ヤイロチョウ撮影記は、下村自身の著『カメラ野鳥記』(誠文堂新光社 1952年)の“森の精(ニムフ)”の章に詳細されている。その章の最後の方に、撮影現場で親しくなった“事業所の田井さん”とある。その田井さんこそ、「ヤイロチョウ繁殖 日本初確認の写真見つかる」との見出しの高知新聞(1996年6月20日付)に載っている田井保重さん(1976年、79才で死去)ではあるまいか。
 宿毛営林署大物川事業所主任だった田井さんは、下村が訪ねた1年前の1936年に営巣しているヤイロチョウを見つけたとのこと。新聞に掲載されているスナップ写真は、幹の二股にある巣の位置といい、木の幹の太さ形といい、下村写真に写されているものとよく似ている。田井さんと下村との出会いをめぐって、本邦初のヤイロチョウの繁殖生態撮影への想いが重複したのである。
 下村のヤイロチョウの撮影結果は、山階鳥類研究所の下村兼史写真資料でこの巣に限ってみれば、大型ネガで巣および巣に出入りする親鳥が32点、雛3点、営巣環境2点、巣を見る人物3点の計40点、およびプリントが11点残されている。
 四国から帰京して間もなくの1937年6月29日、下村は、日本鳥学会の第58回例会において、「四国に於ける八色鳥の繁殖地」と題した講演を行っている(「鳥」第45号の「雑報」pp.527〜528)。席上、ヤイロチョウ繁殖に関する写真を6〜7葉供覧したとあることからも、鳥学会での関心事であったことがわかる。

 下村のヤイロチョウ撮影成功の反響は、当時例があればかなり少なかったと思われる鳥の絵葉書になったことからも窺い知ることができる。下村兼史写真資料に、この絵葉書同じものが5枚 (ID番号: AVSK_OT_0197 など) 含まれている。ヤイロチョウの美しさをアピールするためにか、カラー着色となっている。
 この絵葉書の発行元や発行年については、今のところ推測の域をでていない。絵葉書の発行データをお持ちの方はご一報よろしくお願いいたしたい。

 ヤイロチョウの学名をも記載された裏面の説明文:・・・従来その繁殖地は不明であったが、最近高知県幡多郡大物川山及び同県高岡郡大正村折合の二ヶ所に繁殖することが分かった。写真は・・・昭和12年6月14日、前記大物川山国有林で下村兼史氏の撮影せるものである。

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BPA
2012 MAR.
東京湾奥に在った干潟たる干潟
撮影 ◆ 藤岡宥三
1963年4月21日
千葉県新浜 浦安沖

ディズニーランドが干潟だった頃

 「今月の1枚」は、まさに在りし日の干潟である。東京湾奥に広がった広漠たる干潟を文章で読んだり人づてに聞いただけでは想像するのも難しいところであるが、この1枚のモノクロ写真が残されていたお陰で鮮明にイメージすることができるのではないだろうか。実際にこの景観を目の当たりにした人でも、薄れゆく記憶を取り戻すのに格好の写真であるに違いない。
 渡りの時期には、干潟はワクワクさせられるほどのシギチドリ類、ガンカモ類、アジサシやカモメ類、サギ類などの水鳥で賑わった。写真には、春の渡りのオオソリハシシギを主にチュウシャクシギや中小型シギなどが見てとれる。

 千葉県は浦安の町はずれの堤防に立ってみる(現浦安市の浦安市役所のすぐ西隣りにあった)この干潟は、東寄りの千鳥町で1964年に埋立工事が始まってからの数年までは、写真画面の左右にまだ延々と続いていた。
 左へは、宮内庁新浜御猟場(現新浜鴨場)沖から江戸川放水路河口沖を越え、さらに今の三番瀬へと霞んでいた。右に眼を転じれば、引き潮でシギチドリの群れが最初に集まる通称“シギの島”の干潟をはさんで、旧江戸川河口まで広がる広い広〜い葦原もあった。
 冬ともなれば、はるか彼方の枯れ葦の上をすれすれに飛ぶ1羽2羽が8倍の双眼鏡でかろうじて捉えられ、その姿と両翼の保ち方からかろうじてチュウヒだとわかるのだった。小さくしか見えないチュウヒと干潟に接する広大な葦原の対比。単調な佇まいの中の茫漠さには、今も忘れ得ないほどのどこか切ない感無量な印象をうけたのだった。このような景観が、私たちの共有すべきかけかえのない財産ではないと誰が断言できるだろうか。
 その葦原が旧江戸川の河口に接するあたり、今にして思えば、人知人力では造りだし得ない、見るからに“美味しそうな”干潟が干出していた。写真から西へわずか2kmほどの干潟続きなのである。そこが埋め立てられてできたのが、東京ディズニーランド。1983年の開園であった。
 写真に見るはるか沖合の海苔ヒビが並ぶあたり、東西にのびる首都高速湾岸線が建設された。1978年の開通である。湾岸高速と併走するJR京葉線の開通は、1988年のこと。
 開園以来30年近くが経とうとして、ディズニーランドを訪れる多くの人の中で、そこがかつて写真にみられるような干潟だったと気づく人はいても僅かであろう。湾岸高速道路の便利さにご厄介になってはいるが、地元の漁業資源や貴重な干潟を失ったことに思いを馳せて運転する人はどれほどいるであろうか。
 高度経済成長期、私たちが進歩発展を意識し東京湾岸の自然を改変してできた現在の人造環境。わずか半世紀ほど前に撮られた写真を見るにつけ、今日の環境のかつての姿を忘れてはなるまい。写真が残されて過去が知れるだけでも良しとしなければならないだけでは、いかにも寂しい。モノクロ写真が語るもの、そこに過去から未来へのメッセージを読み取らねばならない。

BPA
2012 FEB.
シュムス島からカムチャツカ半島を望む
撮影 ◆ 下村兼史
1935年7月23日
北千島シュムス島杜川
資料提供:(財)山階鳥類研究所
下村兼史の写真データと足跡をたどる資料

 山階鳥類研究所には、下村兼史(1903−1967)が生涯で撮った野鳥や自然関連の写真の原板やプリントのほとんどが収蔵されている。日本の野鳥生態写真のジャンルで先駆的な作品を遺した下村。その原板第一号カワセミは、1922年に撮られている。以来撮り続けられた写真がご遺族のご厚意で山階鳥研に寄贈され、整理保存、活用されている。今日までの長い年月散逸もせず、戦禍をまぬがれ、生態写真史の貴重な資料となっているのは、奇跡の部類ではなかろうかと思っている。
 ただ一つ私の嘆きは、撮影データや下村兼史の撮影紀行を知る資料が極めて乏しいことである。下村の写真が掲載されている書籍などをみつけては、写真撮影の背景となる情報が載ってはいまいかと、どんな些細なデータでも落ち穂を拾うように集めるようにしている。
 「今月の1枚」は、山階鳥類研究所の下村兼史写真資料として11,982点を収蔵するデータベースから、これまで印刷された写真としては未発表の1枚を選んでご紹介し、下村の足跡が探れる情報を一つ一つ積み上げていく1例を書いておきたい。

 北千島で最も大きいパラムシル島のすぐ北に、二番手のシュムス島(占守島)がある。千島列島の最北にして最東端の島。下村兼史は、パラムシル島には1934年と1935年に上陸して多くの生態写真を撮っているが、果たしてシュムス島に上陸していたのであろうか? 
 パラムシル島での撮影と観察とが詳しく書かれている『北の鳥南の鳥――観察と紀行』(三省堂 1936年)には、下村がシュムス島に渡ったという記述は明確でない。そうと確定できる写真も公表されていない。唯一、パラムシル島と対比させ“台地状の占守島は全島おびただしい湖沼群が散在している”(同書p.40)との一般的な記述があるのみ。長い間、私は下村がシュムス島に上陸したとは考えていなかった。
 ところが山階鳥類研究所で下村兼史写真資料の整理保存作業を2005年からお手伝いしたときに、シュムス島から撮ったカムチャツカ半島の手札版ネガがみつかったのだ。
 「今月の1枚」をよくご覧いただきたい。ネガの一端にあるメモ書きは、反転すると「カムチャツカ(占守、杜川ヨリ)」と読めるではないか。ネガに遺された恐らく下村の手書きであろう数少ない例の一つである。
 山階での作業が始まる前年の2004年に、そのネガの存在を下村兼史の写真に傾倒した映像作家吉田元さんから教えていただいてはいたものの、この目で見つけ出してみて初めて納得したのだった。
 確かに下村は占守に上陸していたのだ。
 ネガに写されているのは、どうということのない海と遙かに島影のようなものが水平線上に浮かぶ単調な風景。最北の地に一人立って感無量ながら、さすがの下村も写真的表現をするにはいかんともし難い凡庸な景色に、とにかく1枚シャッターを切った・・・。この1枚はそんなところに違いないと私は想像をたくましくしている。
 その写真が貴重な1枚となったのは、波静かな占守海峡をはさんで遙かに霞んでかろうじて写されているのがカムチャツカ半島であるからだ。「当時日本領とはいえ最北の地を訪ねてカムチャツカ半島を撮った日本人はそうはいないハズなのだ。歴史的な写真だよ。」吉田さんが、生前私に嬉しそうにそう語ってくれたものだ。

 ところが、ところがである。ここまで書きながら虫の知らせというか、私のかすかな記憶が気になり、『野鳥』 2(11): 8-13 をチェックして膝を叩いた。『北千島の紀行日記(二)』のp.13に、7月23日、“船は占守(シムシュ)の杜川(モリカワ)に着く”とある。ご本人の紀行文であるから、これ以上確かなことはない。
 ただ、杜川での碇泊は期待したほどの時間はなく、直ちに船はその夜の停泊地柏原へ向かったとある。撮影にはとても十分な時間がなかったことがうかがえ、それなら他にもシュムス島で撮った写真がなさそうなのも納得がいくのであった。
 上陸の事実が判明したばかりでなく、「今月の1枚」の撮影日まで特定できたのは思ってもみなかった拾いものであった。こんな好運はめったにあるものではない。

 他にも意外なところに“証拠”がみつかっていた。これも吉田さんに教わったものだが、なんと別所二郎蔵著『わが北千島記』(講談社 1977年)に、下村兼史来島の記述があったのだ――
 “そして、もう一人孤独?の探求者がいた。野鳥の生態をたずねて中央から来島した一人の自然愛好者が、パラムシロ南部のシギの巣平などを彷徨する。“道”の定かでない野鳥の世界にさまよい込んだ彼にとっては、漁場のあわただしさも工場の喧噪も上の空だったらしい。(注・北村兼史)“
 塚本注:引用文の最後の括弧書きは“北村兼史”となっているが、この注は同書の編集段階で加えられた(編集後記に拠る)もので、なんらかの意図で“北村”としたよりは、恐らく編者の単純ミスであろうと推測している。肝心なところで名前を間違えてくれなくともよかろうにと思うのであるが・・・。
 別所は、『北の鳥南の鳥』の下村の一文を引用しているので、別所が意図した記述は下村兼史のものであるとみてよいと考える。シュムス島にその頃野鳥をたずねて他にも“孤独?の探求者”がいたとしたら、それこそ誰だか名乗り出てもらわねばなるまい。

 下村兼史は、自身の最北の撮影地として1935年にシュムス島にも短時間であれ足跡を残していたことが明かとなった。文献資料調査をおろそかにして、下村はシュムスには上陸していまいと長年勝手に思い込んでいたことを恥じつつ、下村兼史の撮影データ探索とその足跡を辿る私の旅は、心して続くのである。

追記:下村兼史の足跡を追って、私もいつかパラムシル島からシュムス島をも訪ねてみたいものと切望している。その島の表記であるが、気のついたものを参考までに列記すると:
  パラムシル(幌筵)島、パラムシロ島、ポロモシリ島
  シュムス(占守)島、シムシュ島、シュムシュ島、シュムシリ島。因みに、同島で生まれ育った別所二郎蔵は“占守島”“シュムス島”と『わが北千島記』で表記している。同書の冒頭、占守島に“シムシュ”とルビをふってもいる。
  北千島を構成する主な3島の他の一つが、アライト(阿頼度)島

BPA
2012 JAN.

日本で初めて撮られたハジロクロハラアジサシ
撮影 高野伸二
1955年11月1日
千葉県新浜

珍鳥の写真記録

 「今月の1枚」は、私の古いアルバムから高野伸二さん撮影のハジロクロハラアジサシをご紹介したい。
 このアジサシは、近年でこそ美しい夏羽さえ撮影され、観察例が大幅に増えて、完全に珍鳥の座を明け渡している。写真のハジロクロハラアジサシが観察された以前には、日本では伊豆七島の八丈島で1929年11月11日に採集され、徳島県で1回観察されたという記録があるだけのまったくの珍鳥。それが1955年11月1日に千葉県新浜で私たちの目の前に現れた。金魚を養殖していた養魚場の池をしきる巾狭い土手の杭にとまっていて、正確には、そこは現在の浦安市役所の隣にあたるかつての「秋山の金魚池」であった。
 1965年以降19年間で16種類以上の図鑑類や写真集を著した「識別の神さま」高野さんではあるが、見なれないアジサシをすぐには識別できないでいた。手持ちの日本の図鑑には載っていないし冬羽ということもあり、ピーターソンのフィールドガイドと首っ引き。ハジロクロハラアジサシにたどりついたものの、そんな珍鳥に半信半疑だった。
 とにかく記録写真を撮るようにと私は高野さんをせかしたが、「なんだかケチなヤツだなぁ」と気乗り薄の反応。業を煮やした私は、高野さんが最近手に入れたばかりの135mm望遠レンズつきのアサヒフレックスを取り上げ、鉄条網を乗りこえて2−3枚勝手にシャッターを切った。そこらでやっと高野さんが重い腰をあげた。ご自身、腹ばいでゆっくりとアジサシに近づいていく。
 「こらあ〜、何してる!」突然のどなり声。養魚場の主人だ。夏場はコアジサシに金魚を食われ面白くないところに、今度はまた大の男が金魚ドロボウしようとしていると見えたに違いない。同行の志水清孝さんがすっ飛んでいって訳を話した。「だったら表からはいれよ。」でケリがついた。ごもっともではあっても、そうもいかない事情はこちらにもあった。表門まで遠回りしているうちに飛んでいってしまっては、一巻の終わりとなるところであった。
 高野さんはとうとう3メートルほどにまで近づいて、数枚のシャッターを切ることができた。1955年以前に撮られたハジロクロハラアジサシの写真はみたことがないので、恐らく高野さんのこの1枚が日本で最初のものであろう。
 この写真が撮れたお陰で、後に高野さんは念のため関西鳥界の雄、小林桂助さん(翌1956年に保育社から『原色日本鳥類図鑑』、通称『コバケイ図鑑』を出版された方)に写真を送って同定をお願いしたところ、ハジロクロハラアジサシで間違いないでしょうとのお墨付きをいただいた。

 近年とは比較にならないほどに、1950年代では珍鳥の識別可能な記録写真がいつでも誰にでも撮れるカメラ事情ではなかった。ハジロクロハラアジサシが主役の「今月の1枚」を見ただけでは語られない撮影裏話を書き残しておくことも、古き時代の珍鳥事情を知る者のささやかな優越感でありいささかの責務でもあろう、かと。蛇足ながら、記録写真を撮るよう身をもって高野さんを促した私は、流行のサッカーならさしずめ決定的な“アシスト”ということになろう。

BPA
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