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2011 DEC.

猟師と獲物(コウノトリ・雁)
提供 ◆ 中村直人
撮影者不詳
1886−87年頃
山口県?

コウノトリの過去

 バード・フォト・アーカイブスの登録画像では撮影年が恐らく一番古いものを、今月の1枚でご紹介したい。中村直人さんが所蔵する写真。一見して目を引くのが、ヒシクイのように見える雁に挟まれて釣り下げられた、白い大きな鳥。長い首、巨大な嘴。それと気づいて驚かされるコウノトリである。
 猟師は、中村さんの曾祖父にあたる方で萬延元年(1860年)の生れ。明治の頃、山口県の判事を勤めていたと聞かされていた中村さんは、写真も山口県かその周辺地域で撮られたと推測する。コウノトリもそのあたりで撃たれたものかも知れないとさらなる推測が重なる。
 写っている子供は祖父で明治16年(1883年)の生れ。撮影当時は3-4歳と思われ、撮影は1886-87年頃になる。
 プリントのサイズは95×135mm、台紙は130×188mm。裏側に朱印に署名入りの毛筆書き。「狩猟為記念撮影」と判読できる以外の、肝心な情報が得られそうな達筆文字は、まだ解読されていない。

 そのコウノトリであるが、江戸幕府による狩猟の規制がなくなると、多くの大型鳥類と同じ運命をたどって乱獲され、日本各地から姿を消していった。1892年に公布された「狩猟規則」には、禁猟鳥獣15種、期間禁猟鳥獣18種が法律で定められた。しかし、保護の対象になったコウノトリは豊岡市の鶴山に限られ、稲を踏むので「有害鳥」と判断された他地域のコウノトリは銃口から護られなかった。
 1895年に新たに「狩猟法」が制定され、コウノトリは「有害鳥」から「稀少種」へと位置づけが変わり、トキやツルなどとともにはじめて禁猟種となった。

 保護の概念からはほど遠い「狩猟法」の制定ではあるが、銃禍によるコウノトリの歴史にひとまず終止符が打たれた。しかし、その後の保護活動も及ばず日本の空を翔るコウノトリは1971年に姿を消した。コウノトリ縁の地、豊岡市で野生生物保護管理で日本では前代未聞の絶滅種の大規模な自然復帰のプログラムが2005年にスタートした。人手によって絶滅したコウノトリが、人手を借りて野外で再び羽ばたく日が来た。
 コウノトリの将来が明るい見通しとなった今、今月の1枚の写真は、撃たれた場所や年月が推測の域をでないものの、改めてコウノトリの過去を知る百聞は一見にしかずの好例であろう。単に一種の狩猟記録というばかりでなく、民族文化史の側面から野鳥と人との関係を解明する資料として役立てられることが期待される。

BPA
2011 NOV.

アビ類と漁師との共生――鯛の一本釣り伝統漁法
撮影 ◆ 下村兼史
撮影年代不詳
瀬戸内海(広島県豊浜村?)
写真資料提供:(財)山階鳥類研究所

在りし日の伝統漁法を伝えるモノクロ写真

 瀬戸内海の早春。漁師たちが楕円に漕ぎ回る数10隻もの和舟。時に100隻を超えた。舟に囲まれすぐ近くの海上に浮かぶシロエリオオハムの群れ。2月上旬から5月上旬にわたり「怒り網代(いかりあじろ)」「鳥まわし漁」などと呼ばれる伝統漁法の舞台と役者である。
 越冬するアビ類の習性を活用した人鳥一体の漁法とは、餌となるイカナゴの群れをアビ類が追う。海深く追い込まれていくイカナゴを海底にいるタイが捕食しようとイカナゴを追って上がってくる。深くにいて釣れなかったタイが釣糸の距離に現れ、待ち構えていた漁師が一本釣りで釣り上げるというもの。
 高級魚を漁師にもたらしてくれるアビ類(主な種類はシロエリオオハム)は、神の使いであり、信仰の対象でもあった。1931年に「あび渡来群遊海面」として国の天然記念物に指定された。
 ところが、江戸時代に起源する300年ほども瀬戸内海に栄えた漁民と野生のアビの仲間との共生は、1980年ほどで途絶えてしまった。イカナゴの産卵場である海砂が建材として採取され、アビ類の餌が激減し越冬個体が減ってしまったこと、漁網による混獲被害が増えたこと、海洋汚染により棲息環境が悪化したことが主な原因であったと考えられる。地元自治体や関係者の伝統漁業を継続させる努力も万策尽きた感があった。
 [ここに簡略に述べたアビ鳥とその伝統漁法は、『アビ鳥を知っていますか――人と鳥の文化動物学』(福村出版 2011年)に詳しく述べられている。ご一読いただきたい。その著者百瀬淳子さんのことどもは、Day By Day の2011 Nov.をご参照いただければと思う。]

 天然記念物の宿題をしていて私が「鳥持網代(とりもちあじろ)」と呼ばれたこの漁法を知ったのは、1950年代、中学生の時で、海鳥が漁に係わるだけに強く興味を引かれたのは今でも覚えている。とうとう実際の漁を目の当たりにせずに終わったのは、誠に残念という他はない。
 野鳥生態写真の先駆者である下村兼史(1903−1967)が1927年に史跡名勝天然記念物調査委員に任命され、怒り網代に関する報告書を書いたことを百瀬さんから教えていただいた。今日まで知らなかったとは不覚であった。その『史跡名勝天然記念物調査報告 第一輯』(広島県 1929年)のp.182に、下村は次ぎのように述べている。
 「此数十艘の漁船の中に交わりて、遊々たるアビ鳥一幅の絵画の如し、到底筆紙のよく尽くす処にあらざるなり。」
 下村の麗筆をもってしても表現し尽くせないという「一幅の絵画」は、下村が内に秘める卓越した構図とカメラセンスとでモノクロ写真に再現されている。伝統アビ猟は、今やこうした写真記録の中でのみ生きている。「今月の1枚」は下村が撮り遺した中から私が推薦したい1枚である。
 [ 以上のアンダーライン部分に誤記があるので、2012 AUG. に載せた訂正後の文でご確認いただきたい。]

 人の活動圏にいる鳥を写し撮った、今となっては民族文化的資料ともなる下村のこの1枚は、恐らく下村自身がプリントしたと思われ、山階鳥類研究所の「下村兼史資料」に実在する。数10年の年をへてややセピアがかかるそのプリント(ID番号AVSK_PM_0354)から、デジタル画像で読み起こしたものである。この写真を含め、同資料には乾板1点、大型モノクロネガ4点、35mmモノクロネガ4点、35mmカラーポジ80点、モノクロプリント15点など計110点がある。下村が一つの主題にこれほどの写真を撮り込んだのは珍しいことである。

●(財)山階鳥類研究所には、約6万9千点の標本類、3万9千冊にのぼる文献などとともに、下村兼史が遺した乾板、ネガ、プリントを主とする写真関連資料約1万点が「下村兼史資料」として収蔵され、大方のご活用を待っています。
●下村兼史資料の利用についてのご質問、お問い合せは、同研究所の下村兼史資料提供窓口となっている(有)バード・フォト・アーカイブスへ直接ご連絡ください。
 mail:info@bird-photo.co.jp(@を半角に直して送信してください)
 tel & fax:03-3866-6763

BPA

シジュウカラガン35+1
撮影 ◆ 竹丸勝朗
2010年12月5日
宮城県大崎市

2011 OCT.

過ぎし日を偲ぶ 1枚の写真

 今年3月の「今月の1枚」から転記させていただく。
 『伊豆沼の雁で記憶に新しいのが、地元のTKさんからの本年の年賀状に登場したガンのカラー写真である。題して、“シジュウカラガン35+1”。憧れの雁であるシジュウカラガンが、葉書一杯に構図されている。見ているだけでワクワクしてくる。
 初め私は手書きの“35+1”が“35H”と読めて首をかしげ、“H”の謎を解こうとシジュウカラガンを1羽1羽数えてみた。36羽いるではないか。ルーペで確かめてみてニヤリとした。頬の白い35羽のシジュウカラガンの他に“+1”を発見したのである。マガンであった。』
 写真の右から5番目の上を飛ぶ1羽、頬ではなく嘴のつけねがちょっと白くみえるのが、そのマガンである。
 実は私も群れがシギチドリ類であれガン類であれ、1群の中になにか別の種類が写されてはいまいか、それを捜し出すのが群れの写真を見る楽しみの一つなのだ。私の心を読んだような“+1”のヒント付き写真が、タダでさえ珍しいシジュウカラガンなのだから、ひがみ半分、小憎らしさ半分の思いが胸中を駆けめぐったものだ。

 このシジュウカラガン、なんと私のホームグラウンドだった千葉県新浜で、その昔も昔、1922年1月7日に、101羽の大群が記録されていた。黒田長禮博士の大著「雁と鴨」に、“頬白し”と、シジュウカラガンの特徴を示す三文字が記されている。その活字を“発見”したときの、しびれるような思いは今も忘れられない。いつか私も野外でお目にかかりたいものだ、と。
 1922年ごろまではシジュウカラガンが日本へ渡来したとの記載は文献にあるが、いつどこで何羽かの確実な記録に私は巡り合っていない。1922年以降も、記録そのものが極めて稀である。現在も、絶滅の恐れがある亜種として、環境省のレッドリストに記載されているほどだ。
 日本で定期的に越冬する少数の群れが見られるようになったのは、日ロ渡り鳥条約専門家会議で在来亜種の羽数回復事業が承認され、米国の協力も得て日ロ関係者の努力により渡来数が次第に増えてきたお陰である。
 シジュウカラガンの群れをまだフィールドで見たこともない私にとって、願ってもないような群飛の写真をTKさんこと仙台の竹丸勝朗さんにみせつけられては、穏やかではいられない。もしやこの写真をバード・フォト・アーカイブスに登録していただけないものかと、厚かましくも懇請してみた。結果は嬉しや、ご覧の通り。1922年の黒田博士の歴史的な観察記録に思いをはせ、ご本人のお許しをいただいてモノクロ調に表現させていただいた。“頬白し”がはっきりイメージされ、私もいつの日か竹丸さんに負けない写真が撮れる!?のを夢みている。


付記:シジュウカラガン (Branta canadensis) は種和名であるが、同時に日本に現在定期的に渡ってくるようになった亜種 (B. c. leucopareia) の和名にも使われている。「今月の1枚」に登場するのが、この絶滅の恐れがある小型の在来亜種シジュウカラガンである。
 北米に広く分布する Branta canadensis は、学者によって8〜12亜種にも分けられている。その一つの、在来亜種とは別の大型の亜種 (B. c. moffiti、亜種オオカナダガン、である可能性が高い) が日本に移入され、野生化し富士山麓を中心に繁殖しはじめ分布を広げている。この移入された大型亜種は増殖率が高いと言われ、環境省の要注意外来生物リストに載っている。
 種名がシジュウカラガンで、保護すべき在来小型亜種と生態系への影響が懸念され駆除されるべき移入大型亜種が同じ亜種名のシジュウカラガンと呼ばれ記録されるのは、希少種の保護や外来種の管理の面で混乱の原因以外のなにものでもない。分類や名称の整理が提唱されているが、現在は日本で見られる両亜種の違いと動向に特に注意が必要な状況にある。
 なお加えれば、シジュウカラガンの亜種の中で最も小型のヒメシジュウカラガン (B. c. minima) の日本産記録もある。


[後日追記] 日本鳥学会から2012年に出版された「日本鳥類目録」改訂第7版では、シジュウカラガン Branta hutchinsii (pp.11-12) と カナダガン Branta canadensis (pp.388-289) とに2分類されたので、亜種についてもそれぞれご留意いただきたい。

BPA
2011 SEPT.

ふるさとの祭り
撮影 老田敬吉
1930年代初め?
飛騨地方

 故郷によせて

 「今月の1枚」は懐かしい故郷のイメージが感じとれる飛騨地方のお祭り風景である。撮影された老田敬吉さんは岐阜県高山市に住んでおられた。まったくの私の推察ではあるが、お住まいの近くの日枝神社での撮影ではあるまいか。撮影するのに、フィルムではなく、その前身となるガラス板の片面に感光乳剤の塗られた1枚撮りのガラス乾板(手札版)が使われた。乾板に今から80年ほど昔に撮られたと思われる祭りの雰囲気がネガで浮かぶ。それをデジタル画像に再現して眺めるのは、また感無量なものがある。

                     『ふるさと』    作詞/高野辰之  作曲/岡野貞一
    兔追いし かの山  小鮒釣りし かの川  夢は今もめぐりて  忘れがたき ふるさと
    如何にいます 父母  つつが無しや友垣  雨に風につけても  思い出ずる ふるさと
    志を 果たして  いつの日にか 帰らん  山はあおきふるさと  水は清き ふるさと

 この詩歌のなかに日本人だれもの心の故郷が凝縮されている。「生まれ育ったあの森あの川と共に我在り」の感覚で、自然と人の営みとが一体となった故郷。その故郷が、特に今年は自然災害に翻弄され続けである。
 日本列島に熱波、不順な天候、東北大地震、巨大津波、その後の断続的な余震、集中豪雨による河川の氾濫、土砂災害、台風12・15号の暴風雨の追い打ち・・・。
 一変した人々の生活も故郷の自然にも、思えばこれほど胸を痛めることはかつてなかった。
 加えて、福島第一原発事故。人災への政府対応の稚拙さに加えて見えない放射線の人体への影響。私たちの将来の生活に計り知れない不安がぬぐいきれない。故郷を後にせざるを得ない人々の負けない姿勢にエールを送るばかりである。

 故郷への想いは人さまざまであろう。私はといえば、生まれ育った東京はさておき、戦後の強制疎開で千葉県の利根川下流で過ごした寒村は幼心に第二の故郷であり、留学先のミシガン州の大学町アナ―バーは第三の故郷。日本各地で訪ねた先の自然や出会った人々は、これまた“故郷”に近いほんわかした思い出が甦る。先行き短くなった我が人生を振り返ってみると、故郷を追われた経験のない私は現代の果報者。天災人災に立ち向かっている人々、子供をかかえる親御さんを思うと、じみじみしてしまうこの頃である。

 不変という言葉はあるが、あらゆるものが変化していく。不動とはいえ、万物一瞬たりとも留まってはいない。途方もない宇宙、地球、自然の影響を受けつつ私たち個人も人の世も科学技術が高度に発達した社会も、ままならない変わりゆく小さな存在でしかない。ひとつの地球上にいてその事実を人間皆が意識するとき、先への道が見えてくると信じて、今日を頑張ろう。

BPA
2011 AUG.
カツオドリの親子
撮影 ◆ 塚本洋三
1982年6月
東京都南硫黄島
 日中はまだ30度をこすが、9月を数日後に朝夕の風にはさすがに秋の気配を感じるようになった。しかし、日本全国、今年の夏の暑さは格別であった。東京にいて暑さにうだる日々。そんな時私は、いくら暑いからといっても南硫黄島の暑さにはかなうまいと思い、それで涼とすることにしている。気は心である。

 1982年のこと。東京から南へ約1330km。小笠原の父島から19時間で硫黄列島の南端海域に到着。原生自然環境保全地域学術総合調査の隊員18名。6月11日、南硫黄島へ上陸した。洋上に浮かぶ三角オニギリ型の山頂近くはほとんどいつも雲がかかり、918mの頂きを雲のベールにつつんで神秘なものにしていた。
 今月の1枚は、暑さにうだりながら、断崖絶壁とごろた石の狭い海岸に接するところで、島を撤収する21日までの間に撮らせてもらったカツオドリの親子。すでに30年近くも昔になる。

 年1回繁殖のために島に戻ってくるカツオドリ、アカオネッタイチョウ、アナドリ、ミズナギドリ類などの海鳥たちにとっては「当たり前」の暑さなのかもしれない。私にはあれほど暑い体験はなかった。炎天下、写真撮影も一苦労。望遠レンスを掴むと、アチチチッ。充分に温まったカメラの中のフィルムが溶け出さないものかと心配するくらいであった。上半身でわずかの日陰をつくり、フィルム交換も容易でない。とにかく暑かったのだ。

 今月の1枚があまり暑そうにも撮れていないと感じられる向きには、それは私のウデのせいであると納得していただきたい。

灼熱の太陽の下で
BPA
干潟・ひと・マガン(現在の行徳野鳥観察舎前の堤防より
宮内庁新浜御猟場裏の干潟を臨む)
撮影 ◆ 塚本洋三
1960年3月13日
千葉県東葛飾郡新浜(現在の市川市) 
2011 JULY

 「せまい水路が、茫洋たる干潟をわけて一筋沖へ。行く手に日本人の心が黙して座するがごとき簡素な木組みの鳥居。干潟とともに生きる漁師たちは、べか舟をゆっくり滑らせ、鳥居をくぐってさらに沖の海苔ヒビへと向かう。上空を米粒をまいたようなマガンの一群が鳴いてすぎる。」――『東京湾にガンがいた頃』(2006年 文一総合出版)より抜粋加筆

記憶と記録を残すモノクロ写真
 私たちの記憶ほど曖昧なものはない(と、記憶力に乏しい私は思ってしまうのであるが)。時が経つとその記憶は風化したり、記憶違いだったということにもなる。記憶を証言に裁判が執り行われ、人間一つの命が死刑になったり無罪になったりすること、無きにしも非ず。記憶に頼るのは慎重であるべきだ。
 記憶がなんらかの媒体で記録されていると、客観性を帯びる。その記録は誰の目にも触れられ等しく検討評価される機会を得て的確な共通認識に収斂され得る。過去を知る資料として未来に役立てられる“指標”ともなる。資料に芸術性が認められれば、それだけ“味のある”価値が付加されるというもの。そんな媒体の一つがモノクロ写真である。

 [今月の1枚]を含む開発される以前の東京湾奥に位置する干潟の一連のモノクロ写真を、千葉大学大学院園芸学研究科緑地環境学コースの2011年度前期環境造園学プロジェクト実習で、学生に見ていただく機会があった。去る5月26日のことである(Day By Dayのページ、2011 July 千葉大学でのハプニング参照)。
 ここで [今月の2枚目]をご覧いただきたい。

[今月の2枚目]
[今月の1枚]から40年後に行徳野鳥観察舎前の同じ堤防から略同じ方向を撮影した景観
撮影 ◆ 塚本洋三
2003年9月30日
千葉県市川市
 1964年に始まった埋め立て工事で東京湾奥の干潟は一変し、工業地帯となる。鳥居が立っていたのは、京葉線のかば色の電車が走り込む写真右端の市川塩浜駅の手前あたり。京葉線と並行して、画面では隠れているが、かつての干潟上を東西に首都高速湾岸線が走る。その手前に見える水面が、開発の砂漠に小さなオアシスの如く残された千葉県行徳鳥獣保護区の一部。
 一望の干潟も漁師の生活もマガンの声も消えて久しい。

 干潟から工業地帯への環境変化をこの目で経験してきた私でさえ、[今月の2枚目]をみて、昔はここにほんとうに[今月の1枚]のような干潟があったのかと疑ってしまうくらいだ。1枚のモノクロ写真が語ってくれなかったら、かくも素晴らしかった干潟の私の記憶は、時とともに忘却の彼方へと薄らいでいくに違いない。
 ましてや、[今月の2枚目]で撮られたような環境しか訪れる実体験がなく、生まれる以前にはあった広大な干潟の泥に触れたことのない学生さんたちにとっては、学習で与えられたプロジェクト課題「新しい海辺」の将来構想を描く際に、どんなに筆を尽くした文献よりも雄弁にモノクロ写真が視覚的な資料としてアピールしたようだ。実際、浦安から行徳、三番瀬の昔のモノクロ写真が文字による記録よりもはるかにビジュアルに訴える力があり、過去から未来を読むのに資することができたということを、プロジェクト終了後に一人の学生さんから直接確かめることができた。
 1枚のモノクロ写真の力、我田引水ではあるが、まさに我が意を得たりの感を深めた。

 バード・フォト・アーカイブスとしては、モノクロ写真の秘める価値を認識し、私の関心の対象である「野鳥」、生きもの総ての生息地である「自然」、それらと係わる「人」の3つのキーワードを軸にしたモノクロ写真を、ささやかな“記憶遺産”としても引き続き幅広く収集、保存、活用、継承していく事業を続けていく。
 カビがはえていても、破れていても、変色しようが、2度と撮ることのできないお手元のモノクロ写真やその原板を決して捨てないで、バード・フォト・アーカイブスへご一報いただきたいのである。よろしくお願いいたす次第です。

BPA
2011 JUNE

小笠原の空を翔るオガサワラオオコウモリ
撮影 ◆ 蓮尾嘉彪
1969年6月29日
東京都小笠原村母島

世界遺産の小笠原諸島
 東京から南へ約1,000km。船旅約25時間半ほどで行き着く小笠原諸島。その世界自然遺産への登録が決った。
 大陸と一度も陸続きになったことのない海洋島。アメリカの占領下から1968年に返還された。歴史的にも物理的にも遠い存在のように感じられるこの島が、豊かな自然を前面に世界に紹介されるのが眩しいようだ。
 折しも、山階鳥類研究所が主導して鳥島からアホウドリの雛を移送し新たな繁殖地を造成しようとして画期的な成果をあげつつある注目の舞台が、小笠原の父島列島の北端、聟島である。
 嬉しいニュースが続いてますます目が離せなくなる小笠原。

 おぼろげな記憶だが、私が小笠原のいくつかの島に上陸したのは、1979年だったと思う。43時間の航海で着いた父島には民宿がまだ2軒しかなく、観光開発が進んでいない島の常として、妙に静かな佇まいだった。強烈な夏の太陽が照っていた。
 ネコの額のような砂浜で暑さにのびていた時に飛んできたのが、小型飛行機。目で追っているうちに、水しぶきをあげ湾内に着水。異様な光景を見るようで度肝を抜かれた。
 そのまま眺めているうちに、船を陸揚げするより簡単そうに何ごともないかのようにたちまち上陸したのには、我が意を得たりだった。「なんだ、飛行場なんか建設しなくたって、これでイケルじゃないのか・・・。」(海の生態系への撹乱も考慮しなければならないのだが。)
 意外なものは水上飛行機だけではなかった。
 約30の島からなる小笠原諸島で一番広い父島の、定期船の船着き場からそう遠くない海岸近くだった。沈没した戦艦の船首(?)が尖った岩礁のように海面から突き出て赤錆びていた。東京からはるばるそこまで来て、本土からその遠隔地だからなおさらのこと、島のそこここで目の当たりにする戦争の爪痕に、声がなかった。
 渡島の目的は野鳥の調査だったのだが、今振りかえってまず思い出すのは鳥とは直接関係のないこれら想定しなかった体験なのだった。まだある。ふとした“現体験”は、心の底で「戦争は絶対イヤだ」と私に言い続けている。
 父島の西南端、ジョン浜へ行く途中のこと。ジャングルの道は樹冠がほとんど覆われたトンネルのようで薄暗く、およそ地元の人や観光客に出会わない。設定したコースの調査を終え、ジャングルから、狭いが光輝く砂浜に出てみた。小笠原ブルーの海がたまらなく美しく魅力的だった。
 渚を後にするとき、私の立つ無防備に明るい幅狭い砂浜と、誰がいるかも定かでない奥の知れぬ暗いジャングルとが、ツートーンで威圧的に際立ってみえた。その時、まったく予期せず、もしもその時そこが戦場だったら・・・という思いが頭を過ぎったのである。
 相手に丸見えの標的となる“敵前上陸の私”に対して、誰かいるのかいないのかも判断できない俄に暗いジャングルの際に、いたら“一斉射撃準備完了の銃口”が私に向けられている。想像だに恐怖が走る。そんな状況でも、“戦争”は私を前へと押しやるのだ。鳥の声一つしない静けさに、不気味さが増幅した。
 怖くなって、近づくジャングルにもしや人の気配でもと気を配りながら、踏み分け道を急いで仲間のもとに戻った。
 何の予備知識も持たないで訪ねた私の父島での、今に生々しく甦るそんな体験は、重かった。

 印象に残った鳥は、母島と向島(むこうじま)だけに棲息が確認された固有種のメグロだった。島に上がれば普通にみられるばかりでなく、興味深そうに人間を見にきてくれる。ひょうきんな存在だった。
 鳥ではないが空を飛ぶオオコウモリも強烈な印象を与えてくれた。コウモリといえば小さなアブラコウモリしか見たことのない私には、あんな大きなものが真っ昼間に飛んでよいものかと怪しんだ。
 その時の経験、オガサワラオオコウモリの大きさ、シルエット、飛び方が頭にたたき込まれ、後に活かされることになった。1982年6月、南硫黄島へ調査船が近づいたとき、島の稜線を飛ぶオオコウモリをいち早く発見識別できたのだった。

 小笠原諸島の世界遺産登録は、石原東京都知事の言を俟つまでもなく、通過点であってゴールではない。小笠原のユニークな自然をいかに末永く保全するか、世界が注目される中でその実績が問われる。頭の痛い外来種の問題には覚悟がいる。島民を含めた島と海の生態系が保全され、それに島の歴史と文化とが綾なした上での観光開発が道筋であろう。それも、これまで日本各地で苦い経験をした観光ブームではなく、小笠原らしさを活かした新しいコンセプトの“エコ観光開発”であって欲しい。
 私の極限られた経験では、1982年に世界遺産に登録された先輩格のオーストラリアはシドニー沖のロードハウ島が頭に浮かぶ。訪ねたのはもう25年も昔になるが、ロードハウ島の開発=自然の保全といった考えや外来種の対応から、学ぶものが少なくはあるまいと思っている。
 父島南端の南島が現在どういう状態であるか知らないが、私が訪ねて見たように、アナドリ、カツオドリ、ミズナギドリ類などの海鳥の繁殖地として将来ともに保護され、次ぎに訪れる人が私と同じように原生海岸の自然景観を享受できるように保全されていることを切に願っている。
 繰り返すが、生態系の保全を基本にした「意味ありのエコ観光開発」の実現を、世界遺産の小笠原でこそ期待したい。再度訪れてガッカリさせられるのは、まっぴらご免に願いたいものだ。

BPA

ガスに煙る知床半島
撮影 ◆ 藤巻裕蔵
1965年7月14日
北海道知床半島(斜里側の海岸)

2011 MAY
最果ての地 知床半島
 今から半世紀ほど昔、私の学生時代は、知床半島といえば道東から北千島に向けて突き出た最果ての半島、まさに“未知の知床”、憧れの地であった。東京からバードウオッチングに行くなど聞いたこともない時代で、冒険旅行に行くといった感じであった。何の探鳥情報もないままに、衣食住、カメラ、探鳥道具いっさいを大型キスリングザックに詰め込み、5万分の1の地図を頼りに遙々訪ねていったのである。
 網走から斜里を経由して半島の根っこ近くのウトロという定置網を仕掛けた辺鄙な漁港といえば漁港に行き着いた。夜の野営で生憎の雨となって、番屋に逃げ込んで飾らない漁師の兄さんたちにお世話になった。東京から来たというだけで珍しがられた。風呂代わりに素っ裸でオホーツクの海に浮かんだのは、その時。人っ子一人いない静寂な大自然での贅沢さは、今でも忘れなれない。

 「今月の1枚」は、撮影者の藤巻裕蔵さん(帯広畜産大学名誉教授)がまだ学生のころ、知床半島特別調査(北海道教育委員会)に調査協力者として同行したときに撮られた写真である。ウトロから半島の丁度反対側の海岸にある羅臼までの9日間の行程。46年前のことである。
 ウトロと半島突端の知床岬との中間点のラシャ川よりは岬に近い地点で、後にしたウトロを振り返るように撮影された。海岸にたれこめる雲、人を近づけない険しい海岸線に岩礁。“知床半島”の海岸の私のイメージにピッタリの写真である。私も学生時代に漁船上から見たハズの景色で、懐かしさも手伝って紹介したい。

 調査行で藤巻さんが注目した種の1つは、ミツユビカモメ。日本に冬鳥として渡ってくるが、夏にも多く見られたこと。峰浜付近の海岸で約1,000羽、カムイワッカ付近で100羽、赤岩から羅臼間で合計300羽近くを記録した。すべて2年目の幼鳥羽だったという(「知床博物館研究報告」第7集、1985)。
 私が知床岬を訪れたのは1959年だったと記憶しているが、夏を過ごすミツユビカモメには1羽も遭遇しなかった。それだけ藤巻さんの記録を羨ましく思ったのだった。

 ウトロへは年経て40 数年ぶりに訪ねて我が目を疑った。予想はしていたが、覚悟していたどころではなかった。観光客や車でそれはごった返した観光地となってしまっていたのだ。私の“最果ての地”は、最早面影の片りんすらもなかったのである。
 ウトロよりさらに北に位置する、「今月の1枚」に見るような険しい海岸線だけは開発を免れ、変わらぬ昔の佇まいでいることを切に願っている。
 知床は2005年に世界自然遺産へ登録されている・・・。

BPA
2011 APR.

囀るに余念なきホオジロ
撮影 ◆ 下村兼史
1920年代後半?
九州?
資料提供:(財)山階鳥類研究所

下村兼史のホオジロ

 (財)山階鳥類研究所には、約6万9千点の標本類、3万9千冊にのぼる文献などとともに、下村兼史(1903−1967)が遺した乾板、ネガ、プリントを主とする写真関連資料約1万点が「下村兼史資料」として収蔵されている。日本の野鳥生態写真の草分けの写真資料が戦禍や関東大震災にも散逸せずにそのほとんどが残されているのは、後進の生態写真家の資料の所在すら不明な場合が多い現状を思えば、奇跡といっても過言ではない。
 貴重な資料の中から、今月はホオジロを紹介したい。

 ホオジロは、草つきや低木のまじる開けた低山地、農耕地、河原などに棲む。日本の北の地方のものは冬に南に移動するが、それ以外の地では普通に周年みられる茶っぽいホオジロ科の小鳥である。
 ホオジロが囀るのどかな響きは、聞くものに訪れる春を伝え、時に春眠を誘う。その囀りを人の言葉にあてはめた「一筆啓上仕候(いっぴつけいじょう つかまつりそうろう)」は、つとに知られている。
 ところが、一昔前の句会ではどうもウグイスの囀りばかりがもてはやされ、その他のホオジロを含む歌い手たちは「囀り」の季語にまとめて含まれてしまっていたようである。ホオジロを詠った短歌は極く限られていると聞く。

 高槻のこずゑにありて頬白のさへづる春となりにけるかも(島木赤彦)
 ホオジロは樹木の混んだ森林には棲まないが、明るい見通しのきく林のかなり高い木の天辺でも囀る。ホオジロの習性と季節とを島木が素直に詠みこんだ短歌ではなかろうか。
 一方「今月の1枚」は、胸を張り天に向かって囀る姿を、日本の野鳥生態写真の黎明期の恐らく1920年代後半に、下村兼史がカメラに捉えたものである。
 短歌からも写真からも、ホオジロの囀りが聞こえてくるような気分になれる。

[今月の2枚目]

手札版のガラス乾板に写されたホオジロ
「今月の1枚」の原板である
撮影 ◆ 下村兼史
 資料提供:(財)山階鳥類研究所
下村兼史資料ID番号 AVSK_DM_0054

 山階鳥類研究所で下村資料の保存整理作業をしている時にこのホオジロの写真の原板を手にして初めて気付いたのであるが、その原板は横位置で撮られていた。当時のレンズではドアップで撮ることは叶わなかったと推察するが、そのまま伸ばせばホオジロがちんまり写っている普通の写真であろう。それを下村は思い切った縦位置にトリミングして、ホオジロの習性と囀るひたむきな姿とを表現している。下村の写真表現の非凡さがうかがえる1枚である。

 この作品は、1931年に出版された下村の「鳥類生態写真集」第2集(三省堂)のPL.44にも載っている。決まった枝のお気に入りのソングポストで囀るホオジロの習性を読み、その近くにカメラを構えて待てば撮れるハズの写真ではある。同じ囀るホオジロながら、カメラ機材の違いはとにかく、80年ほど昔にガラス乾板で撮られた下村のモノクロ写真と、光学機器の粋である現代のデジカメで撮られた写真集によく見られるような生態写真家のカラーでは、当然ながら味わいが異なるところがまた興味深い。どちらを好むかは、カラスの勝手であろう。

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BPA
2011 MAR.

飛び立つオオハクチョウの群れの中に
撮影 廣居忠量
1965年2月28日
宮城県伊豆沼

宮城県伊豆沼への想い

 季節は移る。この当たり前の自然の営みをやわらかな(しばしば甘いピントがムードを深める)モノクロ写真に“色”をも連想して眺めると、その雰囲気からさまざまな想いが心にひろがる。
 今月の1枚は、3・11大震災が襲った東北地方の、宮城県に位置する伊豆沼で45年ほど昔に撮られたオオハクチョウとガンである。日本有数の水鳥の越冬地で冬を過ごした白鳥や雁や鴨たちは、大震災をよそに今年も3月から4月にかけて北の繁殖地をめざして旅立っていく。渡り鳥に託す夢に、被災地で復興に立ち向かう人々の明日への力強く限りない希望が重なる。

 オオハクチョウが飛び立つダイナミックな一瞬を捉えた画像を眺めて目に飛び込んでくるのが、画面左の黒っぽい1羽、マガンである。右端の1羽は同じ雁の仲間で嘴から頭にかけてが大き目のヒシクイ。何種類かの水鳥が写し込まれた写真は、1種類で構成された写真より想像のドラマが幅広く展開していくようで、愉しい。
 そんな愉しみを増幅してくれるのが、2羽の雁に目を奪われて見逃していた隠し絵の如きもう1羽の雁。ヒシクイのすぐ前を飛ぶ珍鳥、ハクガンである。名前の通り白い身体に翼の先だけが黒いのが見てとれる。
 そこにハクガンも写ってますよ、と教えられるのではなく、自分の目で見つけてドキッとさせられる愉しみ。今月の1枚は、そんな写真の典型である。しかも、群れの写真として欠かせない鳥たちのリズム感が画面に横溢している。シャッターチャンスの冴えでもある。私の好みの1枚。

 同じ伊豆沼の雁で記憶に新しいのが、地元のTKさんからの年賀状に登場したガンのカラー写真である。題して、“シジュウカラガン35+1”。憧れの雁であるシジュウカラガンが、葉書一杯に構図されている。見ているだけでワクワクしてくる。
 初め私は手書きの“35+1”が“35H”と読めて首をかしげ、“H”の謎を解こうとシジュウカラガンを1羽1羽数えてみた。36羽いるではないか。ルーペで確かめてみてニヤリとした。頬の白い35羽のシジュウカラガンの他に“+1”を発見したのである。マガンであった。

 私が伊豆沼を最後に訪れたのは、もう記憶にもないほど昔である。厳冬に水鳥を観たのも、初夏に和舟に棹さし蓮をよけながらカイツブリの巣の調査をしたのも、懐かしい思い出となっている。気になっているのが、そのときお世話になった地元のバードウオッチャーの中に、今回の大震災で行方が確認できていない方が1名。穏やかな口調の飄々としたフィールドマン。調査でどこか別の地に難を逃れてはいまいか。いつものちょっとはにかんだような人なつっこい笑顔でひょっこり現れましたよ、と仙台から連絡がはいらないものかと切なく祈っている。

 東京でもサクラの便り。季節は冬から春へ。何ごともないように自然はうつろう。

BPA
2011 FEB.

陽を浴びて休むセグロカモメ、ユリカモメ、ウミネコ(左より)
撮影 ◆ 塚本洋三
2011年1月21日
東京都上野不忍池

シャッター幕のないカメラで撮影?!

 「今月の1枚」は今年になって私が撮った最新の写真。それも、30年50年経てば、背景に不忍池の足漕ぎボートが写っていてカモメたちの時代を感じさせるアーカイブス写真になるところではある。
 だが、今月の主役は写真ではなく、それを撮ったカメラにある。
 カメラとは、数あるグラフレックスの中でもR.B.AUTO GRAFLEX。シャッタースピード表のプレートには“FOLMER & SCHWING DIVISION, EASTMAN KODAK,CO.”とあるので、1907〜1917年の間に製造されたカメラと思われる。カメラの底には“PATENTED MAY 6-1913”の刻印がある。まあ、それくらいのアーカイブス級カメラなのだ。
 手にいれてみたら、フォーカルプレーンのシャッター幕が無い? いくらみても幕面がない! シャッターボタンを押しても、当然ながらシャッターの切れる気配がないのだ。シャッターが作動しないカメラでは話にならない。撮影は諦めた。

 諦めてはみたものの、日本の野鳥生態写真の先駆者、下村兼史が1920-30年代に野鳥の傑作写真を数多く撮ったのは、私が手にしているのとそっくりなオートグラフレックスなのだ。それだけ余計に、私の“グラ”でなにか野鳥が撮れたらなぁというむなしい思いが頭を離れなかった。
 “グラ”には、乾板の取り枠の代わりに、ロールフィルムが装填できるフィルムホルダーがついている。ふと、無謀な思いが浮かんだ。市販のフィルムが使えるのだから、シャッター幕がなくてもなんとか撮れる方法がないものだろうか?!
 

 メカが単純な旧式カメラのこと、撮れないハズなのに、工夫次第で撮れるかもしれない・・・。こんなことはデジカメでは逆立ちしてもマネの出来ないこと。アテもないのに、なんだか面白くなってきそうな気分。若かりしころの“鳥の写真撮りた〜い”という一心が猛然と甦ってきた。
 小箱のようなカメラを両膝に乗せ抱え、作動する部分を点検する。ミラーが下がるので、ピントは合わせられる。シャッターを押すとボソンと鈍い音をたててミラーが上がる。レンズは掃除してきれいになった。こりゃ、イケそうではなかろうか?・・・。

手を使ってシャッター幕の代わりにする撮影法”
 
肝心のシャッターであるが、両手を駆使してなんとかなるのではないかと思いついた方法は、次ぎの3通り。その結果予測が◆である。
 (1)レバーを引いてミラーを下げ、被写体にピントを合わせてから、シャッターボタンを押してミラーを上げる。ロールフィルムホルダーの引き蓋を素早く完全に引き、できるだけ早く蓋を元に戻してシャッター幕の代わりとする。
 蓋を引いている間だけ、露光されるハズだ。迅速に引き蓋をスライドできれば、それだけ高速の“手動シャッター”となる・・・。
 ◆引き蓋が想定したほど速やかにスライドしないで、置いたカメラ本体が動いてしまった。始末が悪い。カメラブレがないと仮定して目一杯絞っても、救いようのないほど露出オーバーになること、疑いなし。一番簡単なこの方法は、ムリと覚った。

 (2)ミラーを下げてピントを合わせ、勘で“適正露出”の絞りをセットし、引き蓋を引く(一息)。左手でシャッターを切ったとたんに右手で可能な限り早くレバーを手前に引き、上がったばかりのミラーを下げる。
 ミラーが上下動する間だけ露光されるハズだ。二重撮りを防ぐため、1回“手動シャッター”を切ったら忘れずにフィルムを巻きあげること。

 ◆シャッターを押す左手(親指)、ミラーを下げるためにレバーを引く右手(人差し指)とをタイミングよく連続させてなるべく早く動かすトレーニングを繰り返した。左右のリズム感を会得するころには、“手動ミラーシャッター”の手応えが感じられるようになった。1/25〜1/50秒はイケそうな感触!
 この方法は、なによりもカメラブレが問題だろう。30cmほどのがっちりしたジッツォーの小型三脚に、雲台をはずして直接カメラをしっかり取りつけてみた。実戦で試写してみる価値あり、とみたり。

 (3)カメラを三脚に固定したままピントを合わせ、絞りをセットし、光線モレのないよう右手のひらでレンズを押さえてから、左手でシャッターを押してミラーを上げる(一息)。レンズにあてた右手はそのままに、左手でフィルムホルダーの引き蓋を引く(一息)。シャッター幕の代わりに、手刀を切るようにパパッと右手のひらを素早く上下させる。
 右手が上下動しているその間、露光されるハズ。撮り終えたら、右手はレンズを押さえたまま、左手で裏蓋を閉じる(一息)。やっと自由になった右手でフィルムを巻きあげる。
 ◆問題は、右手の上下動での“シャッタースピード”のコントロールと、右手からの光線モレをどう防ぐか・・・。
 手首のスナップを効かして少しでも早い“手刀シャッター”の切れるよう懸命なトレーニングの結果、最速1/50〜1/125秒くらいはイケルのではないか?
 ところが、思わないことが・・・ 試作第1号に想定している公園のカモが撮れそうな距離では、標準レンズがカメラ本体から突き出てくれないので、手のひらがレンズに被さらないのだ。光線モレを心配する以前の問題である。
 急遽、5cmほどの“レンズフード”を黒い紙で作り、再度“手刀シャッター”を試みる。だが、光線モレしないように手のひらをフードに押しつけると、レンズもろともズルズルと戻っていってしまう。ミラーのセットやせっかく合わせたピントを最初からやり直しては、同じことを繰り返した。
 レンズが戻るのは、ピントのあったところでピント合わせ用のノブを布粘着テープで固定することで解決。
 これで第3の方法はイケそうではないか?
 一連の操作を試みての問題は、想定被写体のカモが警戒もせずにじっとしていてくれるものやら不安が過ぎるほど、いかにも手間取ること。左手でシャッターボタンを押してから右方向へフィルムホルダーの引き蓋を引き、光線モレしないように最初からレンズにあてていた右手で“手刀シャッター”を切るためには、通常のカメラの構えからカメラはそのままに身体を90度ほどずらして横ずれの構えにはいらねばならない。身体の動きが窮屈で非機能的であることだ。カメラもがっちり固定する必要がある。
 それでも慣れれば一番有力な“手動高速シャッター”と思われる。これならシャッター幕の無いグラフレックスでも、なんとか撮れるのでは? と思うだけで、実写には縁のないひたすら重い古カメラが、愛おしくさえ思えてくる。3通りの中ではもっとも有効と考えられるこの方法に辿り着き、我ながら勝算読めたり。ワクワク感で満ち足りた気分になれた。
 旧年は、そんな撮影準備で終わった。

“手動式シャッター”法での撮影結果
 
新年2日に撮影地の下見で都内の安田庭園、小石川後楽園、六義園をまわってみた。イメージしていた「石庭でじっとしているマガモ」や私の“グラ”での撮影に適した動きの少ない大型の被写体は、見つからずに終わった。
 翌3日と4日に、不忍池に隣接する上野動物園西園の池へブッツケ本番で出かける。数年前は普通だった枯蓮の水面に休むカルガモやマガモがいるハズなのに、その日は影もない。遠くのコサギ、近くのゴイサギ、不忍池に移って昼寝するカモメたちを(2)と(3)の方法で3本初撮りしてみた。
 中旬にあがってきた現像は、胸弾む期待感とは裏腹に、真っ白でなにも像がないネガばかり・・・。なんと、ホルダーのフィルム装填で裏巻きにしてしまったというドジのせいだった。
 1月21日、今度こそ! 
 と、ピント合わせ用ノブの回転を止める粘着テープを忘れてきてしまった。仕方なくもっぱら(2)の“手動ミラーシャッター”法に頼って、8枚撮りのロールフィルム2本を撮り終えた。いや〜、すべてを超越したノンビリな撮影は、なんとも楽しいものであった。
 と、撮影済みの1本目は、直射日光を避け車の中でホルダーの蓋を開けたら、未撮影のコダック120ロールフィルム(ISO400)そのものがゴロッと入っていたのが目に飛び込んできて、一人で大笑いしてしまった。フィルムの一端を巻き取りリールにかませないまま“空撮り”したのだった・・・。
 1月25日に現像があがった。21日に撮った2本目の、ネガ(実寸5.5×7.5cm)7枚にようやく狙ったカモメたちの像が浮かびあがったのである。「やったぁ!!」 ガツガツのガッツポーズだった。その晩はビールで乾杯〜ぃ!

 露出は、撮影当日快晴の適正露出が1/500秒のF6.3と勘で決め、それを基準に絞りを総てF16で撮った。1/50秒を想定した“手動シャッター”の両手のタイミングが一定でないためであろう、1枚がかなり適正露出で、残りはややオーバー気味であった。この程度なら、モノクロ写真なのでなんとかなるさといったところ。
 ネガをスキャニングし画像ソフト上で“露出”を微調整したのが、「今月の1枚」に載せたもの。標準レンズANASTIGMAT F4.5の7.5 inch(約190mm)をつけた我がR.B.オートグラフレックス1号機の試作第1号である。

自己満足を振り返って
 
シャッターの作動しない時代もののカメラで野鳥が撮れないものかと思案し、ちょっと工夫して撮影準備を整え、1枚のプリントが得られるまでに、ほぼ1ヶ月。この間、どれほどドキドキ感あふれるひとときを過ごしただろうか。デジカメでは思いもよらない経験は、なにかと多忙でなにごとにも便利便利を追求する今の生活にあって、なかなか得難いものであった。「“オレ”が写真を撮るのだ。“シャッター押せばカメラが撮ってくれる”のではないのですぞ」という思いが、やっと手に入れたグラフレックスでの撮影に至る原動力であった。下村兼史の真似ごとができた満足感も、実は捨てがたい私。
 ファインダーの左にいたセグロカモメが全身をブルブルッとさせて、あ、ブレるかなと思った瞬間 “手動シャッター”を切った。その1回の“シャッター”の感触は、今もハッキリ甦ってくる。なんとも“デジカメ遅れ”した試作第1号ではあるが、私のヘソ曲がり(?)撮影歴で特に思い出に残る1枚に違いない。
 “グラ”のお陰で、野鳥撮影ののどかな醍醐味を存分に味わうことができたのでした。

BPA
2011 JAN.
アマミノクロウサギ
撮影 ◆ 下村兼史
1935年
鹿児島県奄美大島
資料提供:(財)山階鳥類研究所
   アマミノクロウサギ

 1935年に撮られたアマミノクロウサギ。恐らく“その姿がフィルムに宿された最初であろう”と、撮影者下村兼史と親交のあった吉田はじめは SINRA (1999年6月号、p.114) に述べている。
 当の下村は、奄美大島のある寒村から撮影に出かける様子を、自身の『北の鳥南の鳥』(三省堂 1936年)のp.179に、次のように書き残している。
 『じめじめと降り続いていた雨が思い切りよく止み、ぱっと光を投げた太陽は既に西の山の端にかかっていた。急に思いついてこれから山へ入ることにした。カメラ、電気フラッシュのセット、電池、寝具、食料等一切を用意し徳さん(地元で得た青年の案内者)と分割して背に負う。今宵の宿は営林署の小屋か木こりの小屋、何れにしても木こりの人たちに厄介になる筈だからと泡盛の一瓶を用意して行くことを忘れなかった。
 今日の目的は、数日前から見つけてあるアマミノクロウサギの穴を利用してウサギが夜間出て来るところをフラッシュで自動的に撮影するのである。』
 ここで興味深いのは、1930年代に下村はフラッシュライトをシンクロさせた生態写真をすでに試みていたことである。1931年に出版された下村の『鳥類生態写真集』第2巻(三省堂)に載っている夜間に抱卵するサンコウチョウが、フラッシュによる生態写真の恐らく日本最初のものであろう。
 夜行性のアマミノクロウサギを撮るには当然フラッシュのセットが必要となるが、その点が文中に明記されているので、なるほどと思わせる。“自動的に撮影する”とも書かれているが、はたして下村はどんな撮影法を用いたのであろうか。
 ここに引用した一節以外に、アマミノクロウサギの撮影状況がわかる記述や撮影データは、どこにも見当たらないようである。

 山階鳥類研究所の下村兼史資料には、アマミノクロウサギが4点ある。このうち大型ネガが2点で、The Photo に挙げたID番号AVSK_NM_0034の写真は、前述のSINRAと下村著の『原色狩猟鳥獣図鑑』(狩猟界社 1965年)のP.191に掲載されている。もう一点のやや横向きのクロウサギが写された大型ネガAVSK_NM_0138の写真は、未発表である。
 プリントは2点残されている。AVSK_PM_0452は同じ巣穴の入り口で正面から撮られたものであるが、その原板はみつかっていない。他の1枚のプリントは、SINRAに載せるために吉田がAVSK_NM_0034のネガから伸ばしたAVSK_OT_0344である。
 野鳥を主な被写体としている下村作品の中で、奄美大島と徳之島にのみ棲息するアマミノクロウサギの生態写真は、恐らく日本で最初に撮影されたものとして、またフラッシュで撮られた動物生態写真として特筆すべき存在といえよう。

 今年(2011年)が卯年ということでついでに述べれば、下村兼史資料のデータベースには、アマミノクロウサギ4点の他に、ノウサギ1点、ナキウサギと思われるのを含めて12点、飼いウサギが16点の計33点が収録されている。

(財)山階鳥類研究所の下村兼史資料の利用についてのご質問、お問い合せは、同研究所の下村資料提供窓口となっている(有)バード・フォト・アーカイブスへ直接ご連絡ください。
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