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2013 DEC.
1枚のプリント:ヨシゴイ
撮影 ◆下村兼史(暫定の判断)
撮影データ不詳(1930年代初めの撮影か?)
写真資料提供:山階鳥類研究所

撮影者特定の悩ましき一例

古いモノクロ写真を手にしてみると、撮影者が誰であるのか不明のことがあって嘆くことになる。せっかく見つかった写真なのに撮影データがなくては、資料としての価値は無きに等しいからだ。
  無いデータは、探し出す努力なしには甦らない。推測となるデータでもデータゼロよりはよいと考え、バード・フォト・アーカイブスではどこかにその手がかりはないものかと常にアンテナを張っている。

山階鳥類研究所のプリント

「今月の1枚」は、小型のサギの1種ヨシゴイのプリントである。山階鳥類研究所が所蔵している下村兼史写真資料の整理保存作業中に見つかったもの。未発表の写真と思われるだけに、なんらかの情報を期待して裏返してみたプリント裏面には、果たしてほとんどの下村プリントと同様に、撮影データの書き込みは無い。
  撮影者は誰なのか? ご遺族から山階鳥類研究所へ寄贈された「下村兼史写真資料(AVSK)」のプリントの束の中に在った事実から、下村兼史撮影と判断するしかない。ヨシゴイのプリントには、AVSK_PM_1643 のID番号が与えられた。

下村資料の整理保存作業では、撮影者が確定できない場合、撮影者が下村と特定された写真と同じの“PM”番号を付すことにしている。他方、明らかに下村以外の撮影者と特定できるプリントには、撮影者を下村のものと区別するために“OT”番号が付された。
  山階鳥類研究所の「下村兼史データベース」の撮影者欄には、特定された撮影者名のみが入力されている。撮影者欄が空欄となっている“PM”番号は、暫定的な判断で下村撮影とみなされているのだ。

こうした作業上の取り決めのため、「今月の1枚」のヨシゴイは、ID番号上は“下村兼史撮影”なのである。ネガフィルムであれ乾板であれ、原板がみつかれば撮影者を特定できる情報がみつかるかも知れないのだが・・・。


[今月の2枚目]
1枚のガラス乾板:ヨシゴイ

    写真資料所蔵:バード・フォト・アーカイブス

バード・フォト・アーカイブスの原板

「今月の2枚目」はバード・フォト・アーカイブスが所蔵するヨシゴイの手札版ガラス乾板である。乾板とは、カラス面に感光剤が塗られていて、フィルムの以前から撮影に使われた銀塩フィルムカメラの“1枚撮りネガフィルム”に相当するもの。落として割ったりすると、どんな傑作が撮れていても永久に失われることになる。フィルムとは比較にならないほど、取り扱いに気を使わなければならないしろものなのだ。

「今月の2枚目」を見れば、「今月の1枚」のヨシゴイと瓜二つの画像が浮かび上がっているのが読み取れる。これぞ、山階鳥類研究所所蔵のヨシゴイプリントの原板ではないか!

この乾板は、松山資郎さんのご遺族からバード・フォト・アーカイブスに提供された松山資郎資料群から2004年11月に見つかったもの。下村写真資料の整理保存作業が始まる1年ほど前のことである。
  件の乾板の入っていたネガ袋には、“ヨシゴイの雛”と書かれた他には、ネガ番号以外の情報がない。因みに、もう1枚の異なる“ヨシゴイの雛”の乾板が在中するネガ袋には、年月日欄に“昭和六年(1931年)七月八日”と手書きされている。2枚の乾板と“ヨシゴイの雛”とのそれぞれの関連は解明できない。
  しかしながら、乾板が松山写真資料群から発見されたという事実と、他のいくつかのネガ袋に残された撮影年月日や撮影者欄の“松山資郎”のゴム印とを不十分な情報ながら検討したところ、この写真は“松山資郎が1931年に撮影したものではないだろうか”と推測された。
  私は、乾板から引き伸ばしたヨシゴイの写真をBIRDER誌 (2005 March p.27)にすでに発表していたのである。キャプションは「バード・フォト・アーカイブス提供/松山資郎撮影(?)」となっている。

撮影者は松山資郎か下村兼史か

私は撮影者特定の板挟みになった。
  1930年代の農林省鳥獣調査室からの重鎮として明治大正昭和平成を生き抜いた野鳥調査保護活動の大先達、松山資郎(1907-2000)の撮ったヨシゴイとなれば、まさに超アーカイブス級である。疑問符つきとはいえ撮影者を発表していた手前、撮影者は松山資郎の可能性が高いと私は願いたい。下村兼史写真資料で撮影者が下村と暫定的に判断された原板やプリントの中には、下村以外の生態写真家が撮影した可能性の余地が残されているのだから。

一方、日本の野鳥生態写真・映画の先駆者下村兼史(1903-1967)が撮ったヨシゴイの原板であるとなれば、バード・フォト・アーカイブスが存在価値の重い“お宝”原板を所有しているということになる。それはそれで願ってもないことだ。下村は、松山と同じ鳥獣調査室に勤務していたことがある。下村に帰属すべき「今月の1枚」のヨシゴイプリントの原板が紛れていたとしても、それは十分に考えられることと思えるのだから。

未解決のままに

私がID番号を付した件のヨシゴイプリントは、私が発見した乾板からその昔に引き伸ばされたものと考えることには、さして疑問をはさむ余地はなかろう。撮影者が特定できる決定的な根拠は現在見つかっていない。どなたか、さらなる情報をお持ちの方はおられないのだろうか。私には気のもめる悩ましき一件なのである。

(公財)山階鳥類研究所の下村兼史写真資料の利用についてのご質問、
お問い合せは、同研究所の下村写真資料提供窓口となっている(有)バード・
フォト・アーカイブスへ直接ご連絡ください
mail:info@bird-photo.co.jp(@を半角に直して送信してください)
tel & fax:03-3866-6763  URL:http://www.bird-photo.co.jp/
2013 NOV.
案山子になったクマゲラ
撮影 ◆ 杉崎一雄
1959年夏
北海道天塩川河口付近

北の国の ”珍鳥”

飛行機の便も青函トンネルもなかった半世紀ほども昔、東京にいて想う北海道は、まさに地の果て。青森−函館間を青函連絡船で渡り、網走に着くまで2晩も列車で過ごす。わざわざ最果ての地へ鳥を見に行こうなどとは、日本野鳥の会東京支部(当時)のご年配の多かった室内例会で話題になった記憶がない。

東京で知れる北国探鳥事情

北海道だけに繁殖する鳥がいることは分かっていても、タンチョウ、ヤマゲラ、ヘンソンハシブトガラ、エゾセンニュウ、クマゲラ、チゴハヤブサ、ショウドウツバメ・・・、どれ1種とっても、どこへ行ったら見られそうなのかの情報が極めて乏しかったのである。

いつの時代であれ、レベルの違う”鳥キチ”が登場する。あの頃は、野宿用のあれこれ、食料、着替え、探鳥道具など一切の必需品を大型キスリングザックに詰め込んで上野駅から夜行の急行列車に乗り込み、狙い定めた彼の地で5万分の1の地図を頼りに ”ヤドカリ北国探鳥”を決行する、そんな連中がいた。夏休みがあって学割がきき、頭の羅針盤が北しか指していない、数少なかった学生バードウオッチャーたちだ。

探鳥もさることながら、東京からはるばる出向く北海道での旅は、ちょっとした冒険気分。プラスアルファの不安が伴う。しかし、犬も歩けば式に、憧れた北海道ならではの鳥に出会い、そのたびにいい知れぬ感激に酔えたのは、若き北海道憧れ族の特権であった。

想像を絶する“珍鳥”発見

そんな一人、杉崎一雄さんが天塩川の河口近くを探鳥していた際、一面のジャガイモの花を背景に見つけたのが、カラスの案山子。棒に釣り下げられ、カラス除けとして仲間へのみせしめに犠牲になったものか。
  近づいてみたら、カラスと思った黒い鳥は、なんとクマゲラだった!

クマゲラは、環境省版のレッドリストには、絶滅の危険が増大している種(絶滅危惧U類:VU)とある。北海道全域と本州北部で繁殖。頭にワンポイント赤い部分のある全身黒い大型キツツキの仲間である。
  当時、クマゲラは北海道の原生林に棲むというイメージ。広大な原生林ではまずムリだろうな、偶然でも見つけられれば・・・、といった予想感覚が支配的であった。それでも誰しも見たい鳥の筆頭グループに属していた。

思いがけずに杉崎さんが発見したのはクマゲラには違いなかったものの、クマゲラに出会って初めて味わえるハズの感激にはほど遠かった。
  よもや天然記念物が案山子に・・・。

天塩川河口一帯は一望の開拓地で、クマゲラの棲みそうな樹林は視野になかった。どうしてそこにクマゲラが案山子になっていたのかは、推測の域をでない。当時の北海道ならではの前代未聞の珍事であった。

クマゲラ案山子よ 永遠に

今ではアーカイブス級の国産大型一眼レフカメラ、105mm標準レンズ付きのリトレックで、その前代未聞が記録された。ネガフィルムは、とうに失われているという。唯一アルバムに残されたセピアがかった写真をデジタル画像に起こしたのが、「今月の1枚」である。
  その写真からは、文字に書き記された場合よりも、見るままにさまざまな情報が読み取れる。同時に、写真に醸し出された見えざるものにまで連想が及び、見る者それぞれの ”北国のクマゲラ物語” を産んでいく。

2013 OCT.
“夢でいいから見たい鳥”の頃のセイタカシギ
撮影 ◆ 藤村 仁
1967年5月5日
千葉県新浜

セイタカシギ 今昔の感

私が初めて使った図鑑、石澤慈鳥著の「原色野鳥ガイド」上下巻(成文堂新光社 1950-51年)には、セイタカシギの図版は 載っていなかった。こんな優美な竹馬をはいたようなシギがこの世に存在しているとは、思ってもみなかったのである。
  1953年以前には、日本全国で記録されたセイタカシギは、わずかに6例。7例目は、1959年10月、大阪の大和川河口で採集された個体。その間の6年間は、誰一人として見た記録が残されていない。
  セイタカシギは、あこがれのシギ、夢の鳥であった。

夢の鳥が繁殖した!

ところがこの珍鳥に異変が起きた。1961年以降、毎年日本のどこかで、特に新浜、大阪、荒崎では年に1回ならず観察されるようになったのである(野鳥 35:130-131)。
  信じ難かったニュースは、1975年、愛知県鍋田干拓でまだ飛べない雛3羽が(野鳥 41:262-263)、その翌年1巣4卵が発見されたことである。豪雨と恐らくカラスの仕業で繁殖は失敗したが、すぐ後の2回目に産卵された卵は孵化し、4羽の雛が無事に巣立っていった。
  珍鳥の繁殖というビッグニュースにも、鍋田干拓に全国からかけつけるバードウオッチャーは一人としていなかったと聞く鳥見事情。
  さらに1978年には千葉県京葉港埋立地で繁殖が確認されている(野鳥 43:532-534)。

年を追って珍鳥から水辺の鳥の常連へと変身してしまったセイタカシギは、近年のバードウオッチャーにとっては、タダの普通に見られるシギといった感覚であるようだ。かつて1羽の夢の鳥を発見して喜びに酔いしれた私こそが、夢をみていたのではないかと思えるほどである。

カメラに記録されたセイタカシギ

夢のような過去が現実であったと確認できるのが、記録された写真である。
 日本で最初にカメラに納められたセイタカシギは、野鳥生態写真家でもあった高野伸二さんによると、恐らく1959年12月に茨城県牛久沼で羽田健三さんが撮られたものであろうとのこと。どこに発表されたものかお聞きしておくのを忘れたので、残念にも私はまだその写真を拝見する機会に恵まれていない。
  1960年代の“セイタカシギブーム”で観察されたセイタカシギの多くが、カメラでも記録されているようだ。その1枚1枚のシャッターを押すときの数少ない当時のカメラマンの興奮と感激は、ギャラリーが押すな押すなでデジカメ連写の今日では味わい得ない撮影事情。

「今月の1枚」が撮られた1967年には、ブームだったとはいえ、全国で記録があったのは、鹿児島県、千葉県、埼玉県の3カ所で4例のみ。シャッターチャンスは限られていた。それでも同年前後の数年間では一番多く観察され、いずれも1羽であったが、チャンスが期待されたものである。千葉県新浜での1羽にはかなりのレンズが向けられ、超望遠レンズによりアップも撮られたようであるが、藤村さんのカメラにも納められていたものを、ここに紹介した。
  五月の陽をあびてカメラを意識せずに採餌するセイタカシギの姿。水面に宿す影。静かな湿地の佇まい。そんな「今月の1枚」を眺めていると、セイタカシギを被写体とした生態写真は近年数多く見られるが、珍鳥であったころに撮られた藤村さんのこの1枚に、私はつい惹かれるのである。

Day By Day「らくがき帖」の2013 Oct. BPAフォトグラファーズ
ティータイム 藤村 仁さん
および The Photo「今月の1枚」の
2010 APR.『ツグミの空中戦』も、よろしければクリックしてみて
ください。
2013 SEPT.
トキの死と7人の男
撮影 ◆ 下村兼史
1933年5〜6月
新潟県佐渡島
写真資料提供:山階鳥類研究所

1枚の写真が語るもの


「今月の1枚」は、1羽のトキとその死を悼んでいる雰囲気を漂わせている地元の7人の男たちを撮ったものである。80年も前に撮影された写真。山階鳥類研究所所蔵の下村兼史資料から、トキを膝に男がしゃがんでいる未発表と思われる方の画像(ID番号:AVSK_NM_0002)を紹介する。同じ構図でトキを抱く男が立っている別の写真(AVSK_NM_0001)は、例えば、竹内 均(編)1983. トキ 黄昏に消えた飛翔の詩. ニュウトンプレス, 東京.; 1999. 特別天然記念物「トキ」は蘇るか? 日録20世紀. 9.14. (Special Issue 16); 竹内 均(編)2002. トキ 永遠なる飛翔. ニュウトンプレス, 東京. にすでに発表されている。
  写真には、見入ってしまう魅力があるばかりでなく、語られざるいくつかの謎が秘められていた。

撮影者は誰?

まず、写真の撮影者である。撮影データはない。上述の文献ではいずれも「下村兼史」(「野鳥生態写真の先駆者 下村兼史資料」 参照)となっている。その根拠は述べられていない。想像するに、恐らくカメラを所有することが珍しい当時にトキが死んだ周辺地域で写真撮影のできた人は、下村をおいて他にはいなかったであろうと推測するのはムリからぬこと。
 加えて私は、下村兼史資料の中の佐渡でのトキに関連する原板28点の中に、件の写真の原板が2点とも含まれていることを主な理由に、および、「今月の1枚」が私には“下村調の雰囲気”を醸し出している写真と感じられることから、やはり撮影者は下村と判断している。
 そうだとすると、撮影日は下村が佐渡滞在中の1933年5月〜6月となる。撮影場所は、ピンポイントで特定するのはこの際私にはさして重要ではないが、恐らく下村がフィールドにした新穂村、或いは加茂村の可能性も否定できないと推定している。

謎だらけの撮影現場

さても「今月の1枚」は、どういう状況での写真撮影なのであろうか? 想像を遊ばせてみると――
  なんでトキが1羽死んで男の膝にいるのか?
  男たちの服装は普段着とも思えない姿だし、1升瓶を調達してトキの死を弔うかのような雰囲気であるが、実際はどうだったのか?
  7人の内、5人(と犬)は、下村の撮影に同行したのかどうかもはっきりとした情報がないと思われるが、同行したと判明している2人(後述)は、果たして人煙稀な山奥の営巣現場へ背広ネクタイで往復したのであろうか?
  これら7人の男は、現場へ行かなかった男たちが写っているとしたら特にその人たちは、いつ誰からどういう連絡を受けてこの写真の撮影地点へ馳せ参じたのであろうか?
  写真は、「皆さん、死んだトキがいるからすぐに集まって。はい、バシャリ」と撮ったにしてはデキスギに思える。背景も意図して選ばれているように感じられる。写真撮影の目的に配慮してコーディネイトする人がいたのでは?
  このあたりの情報が一番期待された佐渡のトキ保護研究の第一人者佐藤春雄先生から、結局説明は得られなかった。80年も昔のあまりにローカルな情報とあっては致し方ない。しかし、1枚の写真に秘められたドラマが終わらずして幕が下りてしまうのは、余りに惜しい。私は、当てなく過去の記録を探し続けている。

真実を知るものは?

とにかく当時の記録が極乏しい。現場の証言ができるご存命の方も、今日恐らくはおられまい。張本人の下村であるが、1933年に下村がトキの撮影を目的に前年に続いて佐渡を訪れ、世界で初めてと思われる巣にいるトキの幼鳥の写真を同年5月31日に撮影した。だが、その際現場で起きたこと、「今月の1枚」との関連などに関して、下村自身が記録を書き残していたとしたら、それがどこにも発見できないのである。
  佐藤先生がトキを調べ始めたのが、軍隊生活を終えて復員した翌年の1946年。下村の撮影には、先生がまだ子供の頃のことで同行していないと、昨年(2012年)7月に私の問に答えて知らせてくださった。撮影現場にいなかったので、先生ですら第一次情報は持ち合わせていないのである。
  「はばたけ朱鷺」(1978年. 研成社、東京)など先生のトキに関する著書に当時の状況がかなり詳しく述べられている。かなりというのは、当然書かれてしかるべきと思われる情報が抜け落ちているからである。とはいえ、先生は地元関係者の聞き取りに基づいて記述されたと推察され、第一次情報に次ぐ貴重な記録に変わりはない。
  その後に出版された先生以外の著者によるトキの文献には、1933年の出来事に関して出典は明記されずに“現場での事実”が書かれているのを見かける。事実はそうだったのであろうがな〜とは想像のつく記述ではあるが、できるだけ原情報に当たりたいと願っている私には、どこか歯がゆいものを感じている。

死んだトキをめぐって

下村がトキの営巣状況を1933年に現地調査した際に撮影のため巣のある木に登ると、幼鳥2羽のうちの1羽が巣から落ちて死んでしまったという件。これは、「はばたけ朱鷺」をはじめ関係する文献のいくつかに記述されている。恐らく撮影に同行した人(の言い伝え)または関係者の証言に基づくものと推察できる。80年前のその1件が事実だったと認めなければ、話にならないことになる。
  一方、“当時、死んだトキが1羽いた”という事実は、「今月の1枚」の男の膝にいるトキが生きていないことから明かである。果たしてこのトキが巣から落下して死亡したトキなのであろうか? 写真は種を明かしてくれない。下村が佐渡滞在中に、どこかで死んでたまたま地元の人に拾われた“もう1羽のトキ”がいたのであろうか? 改めて問われれば、すぐには答えが見えてこない。

関連情報として、1932年と1933年に撮られたトキ関連の原板が下村兼史資料の中に乾板3点と大型ネガ(手札版)25点ある。この内、トキ幼鳥が1羽アップで写っている乾板と大型ネガがそれぞれ1点(ADSK_DM_0162)と4点(ADSK_NM_0012〜0014, 0020)ある。悩ましいのは、巣にいた2羽の内の1羽なのか落下した1羽なのかが、写真から判定し難い。
  乾板のトキを見ただけでは、佐藤先生も「どちらか分かりません。」 巣の小枝らしきものがトキの足もとに写し込まれている大型ネガのトキは、巣の縁にいるととれなくもない。幼鳥の右向きのポーズは、5点とも似たり寄ったり。
  落下した後に撮影された写真だと判断できれば、その1羽は即死ではなく、少なくとも立ち上がってしばらくは生きていたという証拠写真になろうというもの。撮影データが無くては、写真はどんな真を写したのか、いつでも泣かされるのである。問題のトキが死亡したのは、巣から落ちた当日なのか数日後なのかといった情報に至っては、推して知るべしなのである。

7人の男をめぐって

しばし話題をトキから7人の男に移すと、主役のトキ男は、一部地元で噂されているような農林省の内田清之助でも下村兼史自身でもない。トキ男を含めて、今日地元でも全員の名が確定されてはいないのである。
  佐藤先生のご教示に拠ると、「和木川」ラベルの一升瓶を持つ右端の男が1933年の巣の発見者で、下村の案内役をした大倉俊平。トキ男の後ろが、佐渡支庁の西登喜雄。左端が加茂村和木の酒屋の主人、川上可一。その父、川上喚濤(かんとう)と共に、1932年5月には内田清之助が世界で初めてトキの卵の破片を見つけた加茂村の現場へ、そして同じ年の8月には下村が初めてトキの飛翔をカメラに納めた現地案内をした人物。左から2人目が新潟県庁保安課の小林虎雄である。
  大倉と小林の2人の名が、1933年に巣にいるトキを撮影する下村に同行したと「はばたけ朱鷺」p.51に挙げられている。
  余談であるが、下村が川上家に泊まった記録がみつかっていた。同家の芳名録(郷土博物館蔵)に、1933年6月1日付けで下村が小林に続いて記帳していたのである (上記西登喜雄は大工の棟梁で市川音吉だという説を含め、「佐渡カケスの瓦版」を参照していただきたい)。この芳名録が、佐渡での下村の足跡を記録として残している恐らく唯一の資料であろう。
  蛇足でしかないが、酒豪の下村にとっては願ったりの酒屋に投宿し「和木川」を嗜んだことは疑う余地がなかろうと想像して、ニヤリとする私。「今月の1枚」に写っている1升瓶「和木川」と撮影者下村・・・。さては、この1升瓶こそが謎解きの鍵となるかも?
  さて、「今月の1枚」の撮影データは存在していないと思われるのでそこからの情報は諦めるほかないが、直接下村に同行した2名が少なくとも写真に写っていることが判明した。だが、下村−死んだトキ−2名の同行者−「今月の1枚」をつなぐ情報は、想像の域を出ない。関連した出来事だと決めつければそうなのであろうが、写真のトキが木から落ちた個体なのか別のものなのかも含めて、納得できる答えは出ていないのである。

謎トキが80年後の今に

検証の舞台は佐渡から東京へ移る。農林省へ1羽のトキが佐渡から持ち帰られた経緯は不明である。ただ、下村兼史資料の中に、トキの胃内容物を撮った1枚のプリント(ID番号:AVSK_PM_1198)がある。それを精査した結果、下村と同じ鳥獣調査室の石澤慈鳥によってその胃内容物が同定され撮影されたことが明かとなった。
  さらに、昨年(2012年)、「新潟県佐土郡新穂村 31.V.’33 (1933年5月31日) 雛 下村兼二(兼史の旧名)」と採集地、採集年月日、採集者とが明記されたラベルが付されているトキ幼鳥の仮剥製が、山階鳥類研究所に収蔵されていることが確認された(塚本洋三・鶴見みや古 2013. トキの胃内容物(佐渡 1933年採取)の写真撮影者の特定および関連する二・三の知見. 山階鳥類学雑誌44:107-112; The Photo: 2013 APR.; Day By Day: 2013 Apr.-Aug. 参照)。
  このラベルの採集日と採集地が、石澤の残した胃内容物プリント裏面の検体の採取日と採集地のメモに一致すること、および採集者が下村兼史であることから、この仮剥製個体から件の胃内容物が採取されたと考えた。また、木から落ちて下村が採集し持ち帰ったトキが、「今月の1枚」に写っている死んだトキであろうことが、採集者と撮影者が下村で少なくとも2名の現場同行者が写っているという状況判断から、ようやく読めてきたのである。
  トキの死体をめぐっては、推察に過ぎないが、1933年に他のトキ個体が死亡・採集されたという事実があれば、その頃すでにトキは絶滅に瀕した貴重な鳥であったので、なんらかの記録が残されていてしかるべきであろうと思うのは、私一人ではあるまい。
  検討の余地はまだ残るが、1933年に死んで人の目にふれたトキは、下村によって採集され、「今月の1枚」に収まり、胃内容物が調べられ、仮剥製となった1羽だけだったと推定するのが妥当である、と私は考える。
  死んだトキとともに「今月の1枚」の関心事である7人の男たちが撮影された経緯や現場の状況については、私の情報探索の成果があがらないままに、謎解きはいまだに謎として残されている。

付記

竹内 均(編)の「トキ 永遠なる飛翔」(2002年、ニュウトンプレス)p.180には、トキ標本一覧として森林総合研究所には「1933年(昭和8)5月/新潟県佐渡郡新穂村で採集」の標本を所蔵しているとした記述がある。採集年月といい採集地といい、これぞ件のトキ幼鳥に違いないと佐藤先生も私も思い込んで確認追跡調査していたところ、誤情報であることが判明した。
  実際に同研究所で調べたところ、該当する標本は存在せず、p.180で写真紹介されている朝鮮半島産の成長本剥製の他に、採集地が新潟県佐渡とだけラベルに記載された個体と、他に石川県羽咋と産地不明の2個体の仮剥製計3個体が収蔵されているだけであった。
  「トキ 永遠なる飛翔」p.180に載っている森林総合研究所の新穂村産のトキは誤情報で、実は該当する情報を持つ仮剥製は山階鳥類研究所に収蔵されていることに大方の注意が向けられるよう、勝手ながらその点をここでも指摘しておきたい。

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2013 AUG.
翔るオオグンカンドリ
撮影 ◆ 望月英夫
1965年9月1日
太平洋北マリアナ諸島(北緯19°50′、東経145°20′)

炎暑に涼を求めて

 残暑どころではない8月のこの暑さ。ケタ外れの酷暑にせめて涼を呼ぶ“大型” の写真はないものかとバード・フォト・アーカイブスのライブラリーで選び出したのが、この悠然と滑空する“怪鳥”オオグンカンドリ。
 無限に続くのかと思える大海原と悠久が支配する天空とを水平線が二分し、その壮大な大空間をオオグンカンドリは棲み家とする。「今月の1枚」を眺めつつそこに心を遊ばせる時、海風が私の頭の中を吹き抜ける。
 「今月の1枚」は、太平洋上のマリアナ諸島の北から三番目のアスンシオン島 (Asuncion Island) 海域で、ほぼ半世紀ほど前に望月英夫さんが撮ったもの。 カツオ一本釣りの現役漁船に乗り込んで卒論のデータ収集をしながら漁労も手伝う忙しい傍ら、撮りも撮ったり、“音もなく翼動もなくヌーと現れた”この大物。2mを越す翼開長のこの海鳥を35mmフィルムの斜め一杯にAuto Tere Rokkor-QF 200mmレンズをつけたミノルタ SR-1で捉えた。連写機能もないのに“このチャンスを1回のシャッターで”モノにしたこの1枚から、フィルムカメラ時代の野鳥生態写真撮影の醍醐味をも察しられる。

 グンカンドリの仲間は、日本ではオオグンカンドリとコグンカンドリの2種が、沿岸部や漁港などで稀に記録されている。問題はその識別である。現在のフィールドガイドに描かれているよりも「現実は奇なり」に思えるのである。
 かつて私は嘴の長さに目をつけた。オオグンカンドリの嘴峰98-135mm 。対するコグンカンドリ88-99mm (清棲幸保. 1952. 日本鳥類大図鑑 第2巻 大日本雄弁会講談社)。オオグンカンの最小値がコグンカンの最大値と1mmしか重なっていない。そこで標本をみてみたら、両種の嘴の長さや太さの違いは一目瞭然。私はシメタと思った。ハシブトガラスとハシボソガラスの識別と似たような感覚で、それよりはグンカンドリ2種の大きさの違いと相俟ってラク勝で野外識別できるぞ、と。これが若気の至りであったのだ。
 野外では、嘴の長さと全長なり翼開長なりとの比は、実際見た目に両種見事に差が無いと感じられたのだ。パラオ諸島の繁殖地で目の前をいくらでも飛ぶ“グンカンドリ”の識別では、迷いだしたら完璧に混乱してしまった苦い経験がある。ましてや、稀に日本で遭遇した海上遠くを飛ぶ個体の識別においておや。
 実は、かなり自信があると思い込んで識別していた頃に発表した私の“コグンカンドリ”の記録があるのだ。「南硫黄島原生自然環境保全地域調査報告書」(環境庁自然保護局 1982;同じ内容で 「南硫黄島の自然」日本野生生物研究センター 1983)のpp.261,282,284 に。その後にグンカンドリ類の種の識別はそう簡単ではないことが分かった。私の南硫黄島での記録を訂正しなければならないと思いつつ、年月が過ぎていた。
 ようやく訂正できるチャンスが到来した。25年後の2007年に実施された南硫黄島の調査報告が「小笠原研究」No.33(首都大学東京小笠原研究委員会 2008)に掲載された時である。動物班(鳥類)として参加された川上和人さん(森林総合研究所)のご厚意で、そのp.121に、1982年の同島の“コグンカンドリ”の記録は“グンカンドリsp.”(グンカンドリの一種)と、訂正を載せていただくことができたのだった。不明を恥じながら、改めてここでも訂正した事実を書き残しておきたい。
 そんな識別力レベルで苦い経験を持つ私に敢えて言わせていただければ、グンカンドリ類の野外識別では、雄雌や年齢、換羽による違いまた個体差までを考慮しながら、内外の文献でよく学んでいただきたい。野外識別するのに役に立つだろうと鳥友に教えてもらった一例を紹介させていただく:James,David J. (2004) Identification of Christmas Island, Great and Lesser Frigatebirds. BirdeingAsia 1:22-38.  

2013 JULY
アスンシオン島沖の魚群につく海鳥
撮影 ◆ 望月英夫
1965年8月31日
太平洋北マリアナ諸島(北緯19°50′、東経145°20′)

海鳥ウオッチャーの夢 そして課題

 近年増えてきた海鳥ファンといえどもそう簡単には実現できないのが、日本を遠く離れた外洋での海鳥ウオッチングである。私たちにその夢をみさせてくれるのが、望月英夫さんの『今月の1枚』。
撮影当時、望月さんは東京水産大学(現 東京海洋大学)の4年生で、「カツオに付く海鳥」を卒論のテーマに選んでいた。海鳥と魚群のデータ収集を目的に、カツオ一本釣りの現役漁船、192総トンの第5甚生丸(じんせいまる)に乗り込んだのであった。1965年のこと。
 目指したのは、東京から小笠原諸島への距離をさらに同じくらい南へくだった太平洋上のマリアナ諸島。南北に十数個の島が連なるその南端のサイパン島やグアム島へは、日本からも観光客が訪れるようになった。しかし、北から三番目の無人島、アスンシオン島 (Asuncion Island) 海域へ行けるバードウオッチャーは、今もほとんどいないと思われる。
 アスンシオン島は、船の漁師さんにはアッソン島とかアッソング島とか呼ばれていたそうだが、島ごと富士山のようなその標高は891m。早朝薄暗いときに海鳥が、群れと言うより黒いベルトとなって連続的に島から沖へ向かうのは、信じ難い眺め。特にクロアジサシが多かった。北部諸島野生生物保護区域に指定されていると聞く。その島の沖合が「今月の1枚」の舞台となった。

 船がスピードを落として魚を獲る態勢に入ってしまうと、もうその周辺はそれこそ大変なのだ。魚も鳥も人も興奮状態になる。動きが激しいカツオや大型ではないがマグロ類の群れは、水しぶきをあげてさかんに小魚を食べる。こんなにいたかと思われるほどの海鳥たちが集まってきて、魚群に集中する。さらに気合いを入れた漁師さんが一本釣りでカツオを狙う。そんな時、力のある漁師さんの釣り場となる船の先端部“やりだし”の空気が異様になる。魚、鳥、人、皆が皆、海に生きる生命と生活をかけているのだ。
 望月さんご自身は、卒論のデータを集め、写真も撮り、できるだけの漁の手伝いもしなければと、船上でこれまた一人異常な体験に直面していた。写真のために船をまわすようなお願いなど口にしようものなら、ボルテージの上がっている漁師に海へ放り出されそうなその場の緊迫状況。そんな最中、うまく背景にアッサン島がファインダーに入ってくれ、Auto Tere Rokkor-QF 200mmでミノルタ SR-1のシャッターが切れたのは、幸運としか言いようがなかったと述懐する。

 写っている鳥を紹介すると、海面高く飛ぶセグロアジサシ。中央やや左の巨大な黒い1羽がグンカンドリ(多分、オオグンカンドリ)。その右奥に黒い頭部と白い腹のカツオドリ。さらに右手海面近くの白と黒のツートーンがアカアシカツオドリ。沢山いるが黒くて小さく低く飛ぶので目立たないのが、クロアジサシ。暗色型のオナガミズナギドリも混じっているハズである。同じ視野にこれだけの種類と数の鳥。洋上に突き出た島影や白い飛沫から想像される魚群の規模と相俟って、まさに海鳥ウオッチャー垂涎の絶景と言えよう。
 魚群には集まってこないので漁師さんの魚群探知には役立たないが、望月さんには歓迎された他の海鳥たちは、シラオネッタイチョウやアカオネッタイチョウ。スコールの黒い雲をバックにすると一段と美しいシロアジサシ。シロハラミズナギドリやオオシロハラミズナギドリ。アナドリ。限られた繁殖地を特に訪れなければ、日本近海ではいずれもなかなか見られない海鳥ばかりなのである。
 一度ならずとも味わってみたい遠く外洋の海鳥ウオッチング。望月さんのように小さな漁船で台風に遭遇すると、死ぬ思いも覚悟しなければならないが・・・。

 海鳥ウオッチングの興味は尽きないが、他方に、尽きないばかりかさらに増幅している海の今日的な課題がある。ゴミをどうするかである。
 ほぼ半世紀前に撮られた『今月の1枚』に見るアスンシオン島周辺の海域には、撮影当時、海に浮いているものといえば、木材、むしろ、木箱などといったものだけで、白いものが海上にみつかればネッタイチョウ!だった。それが、近年は“白い鳥”を見つけてドキッとすれば、発泡スチロールやプラスティックなのだ。
 見た目に変わらないように思える太平洋上に、実は現在、想像を絶する数量の産廃生活ゴミが海流に乗って漂流している。そんな他国のゴミとは無縁だった海の向こうの国の海岸に漂流ゴミが打ち上がり、地球規模の環境問題となる時代になっているのだ。
 悲しくも的を得た望月さんの一言が胸に残る。「野帳に“潮目”とは書くが、ゴミが目立つところは“ゴミ目”となってしまった。」
 一見美しい海。だが、好むと好まざるとに関わらず現実の海の生態系を“ゴミ目”目線でも見るよう意識しなければならないのだ。困っているのは、プラスティックなどをのみ込んでしまう海鳥ばかりではない。臨海国の沿岸部や洋上のゴミ問題はすでに国際的な関心を呼び、取り組むにも途方もないほどの規模の難題を関係国に突きつけている。
 「今月の1枚」は遠洋海鳥ウオッチングの夢を運んでくれたが、同時に厳しい海環境の現実にも目を向けることになった。私たち人間がそんな海にしてしまったことを、夢夢忘れてはなるまい。

2013 JUNE
抱卵するタマシギの雄
撮影 ◆ 下村兼史
1949年6月13日
鹿児島県出水郡荒崎(現出水市)
写真資料提供:山階鳥類研究所

監督・演出家・脚本家 下村兼史

 下村兼史 (1903−1967) と聞けば、知る人ぞ知る多くの方がモノクロの野鳥生態写真家としての下村兼史を思い浮かべるであろう。
 福岡の生家の庭で1922年に撮られた『カワセミ』が下村の原板第一号。日本の野鳥生態写真史の黎明をつげる歴史的な1枚である。以後、博多湾、有明海、鹿児島県荒崎などをフィールドに撮影活動を続け、1930−39年の農林省鳥獣調査室勤務時代に北は北千島のパラムシル島から南は奄美大島まで日本各地で撮影し続けた。著名な鳥学者や自身の著書に数多くの生態写真が掲載されている。1930−31年に出版された恐らく日本で最初の本格的な野鳥生態写真集『鳥類生態写真集』第1−2輯(三省堂)を手にすれば、デジカメ時代の今なお、生態写真の大先達のモノクロ作品に魅力を覚える人は少なくないに違いない。
 これらカメラによる生態写真作品は、下村の生涯キャリアでその前半に集中している。下村といえば生態写真家のイメージであり、私もそのイメージを伝える微力を尽くしてきた。作品のいくつかはこのページでも紹介してきたし、これからも続けていきたい。
 だが、下村にはもう一つの顔がある。自然科学のドキュメンタリー・セミドキュメンタリー映画の監督・演出家・脚本家としての下村兼史である。常に自然が相手のキャリアだった生涯の後半は、映画制作に集中されたのであった。自然文化映画監督として下村兼史ありと目されたその下村の顔を紹介しないのは、明らかに適正を欠く。
 ふと思い出したのである。野鳥識別のフィールドガイドや写真集など多数の著作を遺した高野伸二さんは、“野鳥界の長嶋”と表現する人がいたほど「野鳥の高野」であったが、クモにも造詣が深かったと知るバードウオッチャーは存外少ないのではないか。蜘蛛の世界では、「え、高野先生、野鳥もやっているのですか?」と言われたほど「クモの高野」で通っていたのだ。生態写真家の下村兼史も、「知らなかった、映画も撮った人なの?」と言われては、下村作品を広く紹介したいと願う私としても、不本意である。との思いがこうじて映画人下村を取りあげることになった。

 農林省を後に映画の世界へと転身し、第1作が『水鳥の生活』(1938年 理研科学映画)。以後、最期の床にあって自身完成を見届けることのなかった『特別天然記念物・ライチョウ』(1967年 日本シネセル)まで、20本以上の主に野鳥や自然を対象とした映画作品を世に送り出している。この内、私がリストアップできた中の11作は入賞や推薦作品であることからも、映画人下村の卓越した才能がうかがえよう。
 「今月の1枚」は下村が脚本監督の『こんこん鳥物語』(1949年 東宝教育映画)からの一コマである。酷似した写真は下村著の『カメラ野鳥記』(誠文堂新光社 1952年)の口絵に載っているが、ここに紹介するのは山階鳥類研究所の下村兼史資料の中のID番号AVSK_NM_1026である。下村は何を考えたものか、10.5×15cmほどの、ネガ資料の中では例外的な大判のネガに起こしている。それを資料保存整理の段階で高画質デジタル化し、私の画像作成でご覧いただいている。
 映画のタイトルにある“こんこん鳥”は、鳴き声に由来する主役の俗称で、ご覧のタマシギのことである。一妻多夫で知られるタマシギは、鳥なら通常雄が演じる役割を派手に美しい雌がやり、地味で小柄な雄が抱卵から子育てまで家事を一手に引き受けて生活するシギの仲間。
 そのタマシギの撮影記で私の一押しは、小林平一さんの『タマシギに想う』(『野鳥』1954年9−10月号 pp.60−64)である。かの昔、オンボロカメラでタマシギの生態写真を撮ろうと涙ぐましい努力を重ね、気心で綴られた文章は笑いを誘う。アーカイブス級の内容なのだ。下村の映画にもほんの一言触れている。
 生活史では、中林光生さんの『湿田のタマシギ』(『アニマ』 1980年 5月号 no.86, pp.13−19)をお薦めしたい。広島市内の住宅街に点在する田んぼを行き来してしたたかに生活していた一群のタマシギの生態を詳細に追った、希有な観察ドキュメントである。筆者中林さんの考察が魅力の一つでもある。
 『こんこん鳥物語』映画撮影の下村自身の奮闘記は、前述の『カメラ野鳥記』pp.49―64に詳しく述べられている。勿論、映画を観ていただくにこしたことはないのであるが。

 山階鳥類研究所が所蔵する下村兼史資料には、残念ながら映画フィルムの完全なものは1作も含まれていないが、台本や絵コンテ、製作メモなどの下村映画を研究するのに貴重な文字資料が収蔵されている。因みに、映画フィルムそのものの所在は、現在全作品が判明しているというにはほど遠い状態にある。
 恐らく一番収蔵していると思われる東京国立近代美術館の国立フィルムセンターでも、私が主任研究員からご教示いただいた上映用所蔵フィルムは、2006年現在、『こんこん鳥物語』を含めて13タイトルのみで、その多くは残念ながらフィルム状態として良好ではないとのことである。
 幻の下村映画の所在確認は諦めずに続けるが、どこかに眠っているかも知れない1巻でも2巻でも、その所在をご存知の方は是非ご一報いただきたい。
 映画の紹介で映画そのものをご覧いただけない歯がゆさは、例えようもない。私自身観た映画はほんの一握である。下村映画のほとんどはなかなか鑑賞の機会がない。監督下村兼史の名は自然科学文化映画史上隠れようもないので、制作年代は古くとも国立フィルムセンターや映画祭などで現在でも作品が上映されるチャンスがなきにしも非ず。油断はならないと思ってはいる。
 このホームページでは、映画フィルムから起こした動かない写真ではあるがその1コマを“肴”に、下村作品のもう一つの顔を折にふれて紹介していこうと考えている。

(公財)山階鳥類研究所の下村兼史写真資料の利用についてのご質問、
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2013 MAY
浅川駅舎のイワツバメとその巣
撮影 ◆ 笠野英明
1960年6月23日
東京都下国鉄浅川駅(現JR高尾駅)

国鉄浅川駅とイワツバメ物語

 風薫る五月。夏鳥たちが渡ってきた。囀りでにぎやかな山野。繁殖期は恋の季節。想像するだけでも胸が躍る。「今月の1枚」は南から渡ってきたイワツバメ。40数年前に国鉄浅川駅(現JR高尾駅)で笠野さんがアサヒペンタックスS2に コムラー300mmをつけて撮影したものである。振り返れば、浅川駅でのイワツバメの歴史を語る1枚でもある。
 イワツバメは本州南部の一部で越冬もするが、九州以北の亜高山帯や海岸の崖や洞穴などで夏鳥として普通に繁殖する、腰の白い小型のツバメの仲間。温泉街や山小屋の軒下にもコロニーで繁殖するようになった。さらに特に戦後は都市近郊の橋桁、校舎、駅構内などに繁殖域を広げた。ジュリ、ジュリと呟くような声を出して群れで飛んでいる様は、日々の生活に潤いをもたらす環境アメニティの一要素であろう。
 東京駅からの中央線快速の終点、国鉄浅川駅の頃、着いて改札を出た北口では、一群のイワツバメが出迎えてくれた。神社を思わせる駅舎の軒下の梁にいくつもの巣を構えて繁殖していたのだ。それは、イワツバメが人工建造物に巣を構える日本各地のどこでも同じような、お馴染みの眺めと雰囲気であった。と思ったが、営巣に関しては高尾周辺のイワツバメは他所とは事情が違って、人為的に移植されたのだと探鳥会の幹事さんに教えられた。
 イワツバメは、もともと高尾山周辺には棲息していなかったのだそうだ。
 言われれば、どこかでイワツバメの移植の記載を見たように記憶するが、興味がなかっただけに私の記憶はまったく薄れている。調べもしないでいたところ、「林業試験場の職員が試みに長野県野沢温泉から巣立ち間際のイワツバメの幼鳥を連れてきて高尾で放鳥したところ、昭和21年(1946年)から高尾に戻ってきて営巣するようになったと聞く」と、清水徹男著『高尾山野鳥観察史 75年の記録と思い出』(けやき出版 2012年)のp.212に述べられていた。
 高尾山をホームグラウンドにして探鳥や調査をしていた鳥声録音の開祖蒲谷鶴彦さんの書かれた小冊子『武州高尾山の鳥』(表紙も含めて22頁の活版印刷で、入手困難;最初の頁が標題と筆者名のみで他の書誌情報は載っていない)の高尾山鳥類目録によると、イワツバメは「昭和21年より毎年渡来」と備考欄に書かれ、本文に「現在(1961年頃のことか?)では普通に見られる鳥となっている」とある。
 私がその昔探鳥会でちょっと耳にした移植話が清水さんの本で確認でき、蒲谷さんの記載とも一致する1946年が、恐らく浅川駅周辺から高尾山一帯のイワツバメの歴史の始まりと考えられる。
 浅川駅のイワツバメは、私の野鳥ノートの1953年6月2日には、「巣78」とだけ記録が残されている。これは、中学2年生だった私が駅舎北口の軒下の巣を見上げて数えた総数であろう。このうち、実際に使用されていた巣がいくつだったかを調べる知恵は、なかったとみえる。
 因みに、イワツバメが営巣場所に選んだ浅川駅の北口駅舎は、重厚な社寺風デザインで、よくぞ建てたものと思っていた。これは元々大正天皇の大喪列車の始発駅として新宿御苑に設置された仮設駅舎を移築したものだそうだ。
 さらに、昭和天皇が多摩御陵に参拝された帰途、浅川駅のイワツバメの営巣に関心を持たれた天皇に駅長が説明を差し上げたという経緯が、先に挙げた清水さんの書著に述べられている。当時の状況が知れたらと思い立ってこの原稿を書く前に高尾駅まで出掛けてみた。駅長さん以下駅員さん方はお若く近年勤務された方がほとんどということで、ご親切に対応くださったものの肝心の記録は過去に埋没されてしまったようだった。
 1901年に開業した浅川駅は、高尾山と山頂近くにある真言宗の名刹高尾山薬王院有喜寺の「高尾」に由来して1961年に高尾駅と改称された。高尾登山の玄関口としてまた日本野鳥の会東京支部(当時)の探鳥会の集合場所としてバードウオッチャーにも親しまれた浅川駅。駅名の改称はとかくの思いが交錯したに違いない。
 ところが、1967年になって京王高尾線が開通し、JR高尾駅から1駅の京王高尾山口駅が開業した。探鳥会の集合場所はより高尾山に近い“便利な”高尾山口駅へと移り、イワツバメもホーム下のコンクリート橋梁を新たな営巣の場所に利用し始めたのである。
 高尾駅のイワツバメ群が、高尾山口駅でのポピュレーションの増加とどのように関わったのかの生態的なドキュメントは報告されていないかと推察している。高尾駅舎の軒下の営巣環境にどのような“変化”が起きたのかは想像の域をでないが、駅員さんの話では利用客から糞害の苦情もあったようで、3年前頃からイワツバメはこなくなったとのことであった。
 浅川駅のイワツバメ物語は人為的に終始したとはいえ、70年ほどの歴史で幕を閉じてしまうのであろうか・・・。「今月の1枚」は、どこでも普通に見られるイワツバメであるが、どうやら野沢温泉の末裔を浅川駅時代にカメラで記録した歴史的な写真になりそうである。  
2013 APR.
トキ幼鳥の胃内容物写真
撮影 ◆石澤慈鳥
1933年(推定)
撮影場所不詳
写真資料提供:山階鳥類研究所

写真で記録されたトキの胃内容物

 野生のトキの胃内容物の報告例は稀である。(A) 美濃国武儀郡で採集・購入されたトキ(柳原要二 1918. 美濃にて獲られしトキに就て.『鳥』2(6):54)および (B) 1961年1月3日に新潟県五泉市で誤射された個体と同年1月25日に新潟県南蒲原郡で発見された斃死体(江村重雄 1961. 越後で落鳥したトキについて. 『野鳥』26:66−78)の報告が、その数少ない例として挙げられる。後者の文献で報告された2個体に関しては、同定された胃内容物が写真でも紹介されている。
 「今月の1枚」も写真による野生個体の稀なる記録の1例である。このキャビネ版のプリントは、山階鳥類研究所が所蔵する下村兼史写真資料の内、4,201枚のモノクロ写真の中に発見された。写された検体は、「新潟県佐土郡新穂村 31,v,’33 (1933年5月31日) 下村兼二」と採集地,採集年月日、採集者とが明記されたラベルを持つトキ幼鳥のものと考えられる(この仮剥製は現在山階鳥類研究所に収蔵されていて、同研究所のホームページ上で標本番号YIO-08762で検索可能である)。
 この胃内容物が貴重な資料であるだけに、同定した石澤慈鳥自身による報告が、一般書や報告書以外の学術誌に当然発表されていると思われるのであるが、未だに見つかっていない。私は、その掲載図書を今も捜し続けている。
 幸い、石澤のメモ書きによる同定結果が、プリントの裏面に残されている。それによると、写真の上半分がイモリ12、下半分の左からカニ3、ケラ1、カヘル6、ガムシ5となり、他に「カニ、カヘル、ガムシの小片は各1/3位のみ写しました」とのメモがある(Day By Day、2013 Apr.のプリント裏面の画像参照)。
 興味深いのは、石澤の調べたガムシの内、2頭は写真が鮮明であることで明らかに雄雌のシャープゲンゴロウモドキと今世紀になってから同定されたことである(大野正男 2001. トキの餌になっていた佐渡のシャープゲンゴロウモドキ.  月刊むし (370):4)。写真記録されていたお陰で昆虫専門家の目にとまり、1930年代のトキがこの稀少種を餌にしていたことがわかったのである。従って、石澤のこの同定結果を引用した文献は、ガムシ部分が修正される必要がある。
 「今月の1枚」の撮影者に関しては、写真を掲載した文献に誤りがあることが判明した。まず、日本鳥類保護連盟(編)の『鳥との共存をめざして』(2011年)、p.262 の該当写真のキャプションでは「撮影:下村兼史」となっているが、正しくは「撮影:石澤慈鳥」である。
 撮影者が誤って記載されている責任は私にある。その誤りは、この著書の第5章で「トキの野生復帰と人と鳥類の共存」を担当執筆された新潟大学農学部の本間航介准教授に、正確な情報を塚本が当時提供できなかったことに起因している。本間先生にこの場でも心からお詫びし、改めて訂正いたしたい。
 次に、佐藤春雄著『はばたけ朱鷺』(研成社 1978年)p.211 の同じ写真のキャプションには、「石澤健夫(慈鳥の以前の名)さん調べ、下村兼二(兼史の以前の名)さん撮影」と載っているが、同定も撮影したのも石澤慈鳥である。
 私自身のことは棚に上げて誤った撮影者情報がこれ以上広がらないよう、「今月の1枚」の撮影者は石澤慈鳥であることを機会ある毎に吹聴していただけることを、読者の皆さんに伏してご協力お願いいたしたい。
 その撮影者であるが、私はプリントを発見した当初から恐らく下村兼史撮影であろうと思い込んでいた。ところが、内田清之助著の『脊椎動物大系 鳥類』(三省堂 1937年) p.67 には、件の写真が「石澤健夫氏写真」となっていることに気づいたのである。
 撮影者が下村か石澤かを特定するのは、調査開始当初には不可能に近いかと思われた。というのも、写された胃内容物が採取されたのは80年も昔のことであり、同定された後に恐らく時間を経ずして、従って1933年にその写真が撮影されたものと推定されるからである。
 すでに結果は述べた通りであるが、撮影者の特定や検体標本の所在確認に至までの報告は、塚本洋三・鶴見みや古 2013. トキの胃内容物(佐渡 1933年採取)の写真撮影者の特定および関連する二・三の知見 として『山階鳥類学雑誌』(44:107-112) に掲載されている。撮影者特定のナゾ解きに関心のある方は、同誌を、または今月から連載予定の隣のページ、Day By Dayをご参照いただきたい。

 バード・フォト・アーカイブスとしては写真撮影の見地から「今月の1枚」に関して一言述べておきたい。トキの胃内容物を撮った写真自体が極めて少ないと思われるが、それが野生のものとなると写真にはさらなる稀少な価値が内包されていることは言を俟たない。
 その上で胃内容物の写真を見ると、前述の『野鳥』(26:66−78)に載っているのは同定された種別に撮影されたもので、誤射個体は7枚、斃死体では1枚の写真で胃内容物全体が示されている。一方、石澤の「今月の1枚」は、ご覧の通り同定された全種が1枚の写真に納められ、検体間の大きさの比較も可能である。撮り方にそうした違いはあるが、どちらも写真そのものは学術的に価値ある記録写真である。
 注目したいのは石澤の写真表現である。石澤は、被写体を審美的にも捉えようと検体の並べ方に行き届いた配慮をし、美を意識して同定標本を撮影することによって、ともすれば一般には興味を惹きにくい胃内容物を見る者にアピールしたように思える。誤射個体の写真に見られるような単なる記録写真の域を超え、「1枚の“絵になる”写真」として見応えのあるものに仕上げているのだ。これは、石澤の他の鳥類の胃内容物写真でも言えることで、この分野の鳥類調査で貢献した石澤ならではの写真技として評価したい。
 石澤の胃内容物写真は学術記録が第一義であるが、胃内容物一つに限らず常に美に対する意識を心して被写体に接するという普遍の教えをも伝えていると私には思えるのである。      

(公財)山階鳥類研究所の下村兼史写真資料の利用についてのご質問、
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2013 MAR.
東京湾奥に在ったTHE 干潟
撮影 ◆ 藤村和男
1960年1月15日
千葉県新浜

映画『或日の干潟』の舞台は 今

 「今月の1枚」は、過ぎし日の東京湾奥に在った“これぞ干潟”の景観である。写真は、うっすらと潮の残る干潟に冬の日を浴びて休むオナガガモの小群や大型のサギなどを前景に、沖の海苔ヒビの列も懐かしい東京湾奥の原風景を写して往時を語っている。
 かつて千葉県浦安市の現浦安市役所のすぐ西隣りに在った堤防から撮影された干潟が、「ディズニーランドが干潟だった頃」としてこのページの2012 MAR.で紹介された。その干潟は、写真を左にはみ出して延々と続いていた。東へ2kmほど行った地点である当時の丸浜養魚場、現在の市川市行徳野鳥観察舎の前の堤防から同じ干潟の続きを撮ったのが、「今月の1枚」である。今から50余年前の干潟環境である。
 この写真は、丸浜養魚場(現千葉県市川市福栄)の隣の宮内庁新浜御猟場(現新浜鴨場)沖をも一望している。干潟は写真左端からさらに東へと続き、江戸川放水路河口沖を越え、今の三番瀬へと霞んでいた。
 2枚の写真から想像できるように、或いは、埋め立て地に建つビル群で撮影地点から東京湾の海が見えない現状を知れば想像を絶するほどに、干潮時に広がる広漠たる干潟は一見単調ながら科学技術の粋をもってしても再生でき得ない“人類の至宝”的希有な存在であったのだ。

 ここ新浜には、1940年前後までサカツラガンの50〜100羽ほどの群れが定期的に渡ってきて、マガンとともに干潟を中心に越冬していた。その越冬群を主役に干潟を映像記録したのが、下村兼史(1903−1967年)の名作といわれる『或日の干潟』(1940年 理研科学映画)である。
 野鳥生態写真の日本の草分け下村兼史は、1922年から野鳥を主に自然生態写真を撮り始めたが、キャリア後半の1939年から1967年までは、監督、演出家、脚本家として自然映画のドキュメンタリー・セミドキュメンタリー映画を主に撮り続けた。多くの受賞作品を残したが、映画の2作目が『或日の干潟』で、文部大臣賞や皇紀2600年奉祝芸能祭文化映画コンクール首席を受賞している。知る人ぞ知る自然科学映画の短編傑作として、オールドファンの憬れと佳き日の干潟への郷愁を誘う。
 この映画にはムツゴロウが登場するように有明干潟でもロケされたが、主なロケ地は「今月の1枚」に見られる千葉県新浜の干潟であったと思われる。サカツラガンが葦原をバックに休んでいるシーンは、現在の千葉県指定の行徳鳥獣保護区の中、新浜御猟場の裏手(写真には写されていないが、手前の堤防近く)の葦原ではなかったのかと、撮影当時の面影を残す埋立前の干潟景観から私は推測していた。下村兼史と新浜でサカツラガンを撮ったことのある藤村和男さんが、後にそうと証言してくれている。
 サカツラガンは、戦後も渡ってきていたという記述はあるが、新浜での戦後の確実な記録は私の知る限り1951年11月25日に2羽の観察例があるだけである。マガンの群れはこの干潟の埋立工事が始まった1964年の冬までは、定期的に渡ってきていた。今日では、両種とも映画『或日の干潟』の中で生き続けているだけである。

 その干潟も、過去のものとなった。豊かな干潟生態系に支えられていた江戸前の漁業も、風前の灯火である。写真の左方向、江戸川放水路河口と撮影地点との中間ほどにある現千鳥町で1964年に埋立工事が始まって以降、干潟環境は一変したのだ。「今月の1枚」が撮られた4年後のことである。
 写真に見る沖の海苔ヒビのあたりを東西にのびる首都高速湾岸とJR京葉線とがそれぞれ1987年と1988年に開通し、湾岸交通の動脈として私たち人間はとても便利にしている。埋め立てられた干潟や、人間が人間らしく生きていくのになにか大切なものが失われたことなど、気にするほどのこともない?・・・のであろうか。

2013 FEB.
『第一図 荒崎に於ける鶴及び大鵠』
撮影 ◆ 下村兼史
1928年1月
鹿児島県出水郡荒崎(現出水市)
写真資料提供:山階鳥類研究所

天皇陛下に献上された写真

 「今月の1枚」は、日本の野鳥生態写真の先駆者、下村兼史の代表的な写真集「鳥類生態写真集」第一輯(三省堂 1930年)の最初のページを飾った写真である。近年のように越冬している鶴が1万数千羽もいるのと違って、ナベヅル500羽とマナヅル50羽(下村兼史著「カメラ野鳥記」誠文堂新光社 1952年 p.142)しか渡来していなかった頃、1927−28年の冬に撮影されたものと思われる。
 後列のマナヅルと前列のナベヅルの目立たない群れに2羽のオオハクチョウの白を右側に配した安定感のある構図は誰でも考えるであろう。餌を採る、歩く、首を伸ばすの3種の主役の1羽ずつのポーズにムダがなく、しかも群れとしての心地よいリズム感を画面に創り出すのは、並みのことではない。下村は意識してその瞬間にシャッターを切ったに違いない。一見何ごともないスナップ風の写真であるが、見ていて飽きのこない下村の腕の見せどころといった1枚といえよう。
 すでにセピアが色濃く一部破損しているこの六ッ切プリントは、下村が伸ばして遺したものと思われる。山階鳥類研究所に収蔵されている下村兼史写真資料のモノクロ写真4201枚の内の1枚、ID番号AVSK_PM_3055である。

 前述の写真集の序に、内田清之助博士の次の一文がある。『(前略)氏の作品の一部は嘗て乙夜の覧に供せらるるの光栄をさえ荷った。』 “乙夜の覧”、中国は唐の文宋の故事に倣った表現で、下村の写真が陛下に献上されたというのである。
 ほとんど知られていないこの一件は、1929年の日本鳥学会誌「鳥」6(27):134-135で、『我国最初のしかも優秀なる鳥類生態写真研究家』下村兼二(旧名)の名誉として、宮内大臣一木喜徳郎宛ての伝献書全文とともに紹介されている。
 さらに昨年(2012年)、下村兼史のご遺族からバード・フォト・アーカイブスに、写真献上の事実を裏付ける当時の資料が寄贈された。宮内大臣から下村宛ての昭和3年(1928年)12月7日付け文書で、『鶴渡来地ニ於ケル鳥類生態写真一冊』が『御前ヘ差上候』とある。
 一生態写真家の写真を昭和天皇がご覧になられたということで、当時として尚のこと大変なできごとであったと想像される。

宮内大臣より下村兼二宛ての文書
資料提供:山本友乃 / バード・フォト・アーカイブス

 鶴の渡来地鹿児島の荒崎を下村が初めて訪ねたのは、1927年の初頭である。そして、伝献書には次の件がある。『二個年ニ亘リテ鹿児島県出水郡荒崎ノ渡来地ニ於イテ撮影ヲ試ミ各種鶴類ノ生態及鶴以外ノ種類ヲモ凡テ撮影スルヲ得タリ 本冊ハ右荒崎ニ於ケル下村ノ撮影写真中ヨリ抜萃セルモノニシテ・・・』 1927年と翌年とに荒崎で撮影された内から鶴類と恐らくナベコウなどの希少種の写真が選ばれ、1928年の末に献上されたということになる。
 「今月の1枚」の撮影データは、他の多くの下村写真と同様どこにもみつかっていない。しかし、鶴のいる田んぼと西干拓地との境をなす知る人ぞ知る松並木が写し込まれているだけでも、撮影地は荒崎である。下村が訪れた2冬目の1928年に、「今月の1枚」で見られるようにオオハクチョウ2羽の記録があり(「カメラ野鳥記」p.147 )、観察日が1928年1月16日〜24日であることから(同 pp.119-142)、撮影日は1928年1月と考えてよかろう。
 献上された個々の写真を今日特定することは叶わない。しかし、被写体、撮影地および撮影年月が献上に関する文献などの記述と矛盾していないことから、「今月の1枚」で紹介した『第一図 荒崎に於ける鶴及び大鵠』は、昭和天皇がご覧になられた内の1枚との可能性が大きいと考えている。
2013 JAN.
オオハクチョウのいる風景
撮影 ◆ 巻島克之
1959年12月
新潟県水原町(現阿賀野市)瓢湖

瓢湖での白鳥渡来・保護 初期の資料

 近年でこそ、主な越冬地で白鳥が水辺近くに群がっている。白鳥と人間がツーショットで記念写真に納まるのも、珍しい光景ではなくなった。60年ほど昔となると、白鳥を野外で見たいと願ってもままならないのに、その白鳥が人を恐れずに近づいてくるなどということは、可能であるとしたら夢の中だけであった。そんな時代に新潟県北蒲原郡水原(すいばら)町の瓢湖(ひょうこ)で、一人の老人の呼ぶ声に野生の白鳥が餌を求めて湖心から泳ぎ来る情景が正夢となった。恐らく日本での白鳥餌付けの嚆矢であろう。
 1950年2月6日、戦後初めて瓢湖に8羽のオオハクチョウが着水する。それから4年の間、近くに住む吉川重三郎翁が昼夜をとわず数10羽の白鳥を献身的に見守った。白鳥はついに吉川翁の心が読めたに違いない。1954年2月4日、吉川翁が大声で呼びかけながら撒く餌をついばんだ。「白鳥の瓢湖」実現には、町当局、地元有力者、保護関係者等の協力も見逃せない。
 1954年2月22日、日本鳥学会会頭黒田長禮博士と宇都宮大学学長鏑木外岐雄博士(文化財保護委員会会長)が視察に訪れた。3月7日、日本野鳥の会中西悟堂会長が同会東京支部の会員7人とともに東京から夜行列車で訪ねた。中学生の私もその中の一人だった。湖畔に立つ吉川翁と水上のオオハクチョウ30羽とコハクチョウ2羽との命の絆とも思える感動の光景は、60年ほど経った今でもまざまざと胸によみがえる。かけがいのないものを目の当たりにしたのだった。

 白鳥渡来の歴史、吉川翁の当初のご苦労など「白鳥の瓢湖」を紹介する最初の資料に、加茂農林高校の成沢多美也先生が著わしたガリ版刷りの小冊子『38度線の白鳥』がある(推測だが恐らく1952年刊;拝借して書き写したのは記憶にあるが、その手書きコピーが今私の書棚に見つからない)。中西会長の最初の瓢湖訪問から吉川翁との交流や晩年の消息などは、中西悟堂著『定本・野鳥記』第7巻(1965年 春秋社)pp.294-318が参考になろう。
 16世紀からの歴史に始まる瓢湖と白鳥の渡来・保護の総括的な資料として、瓢湖の白鳥を守る会現会長の関川 央氏が著わした『瓢湖の今・昔』(『水原郷土誌料』第29集 水原町教育委員会 2001年、pp.3-110)が詳しい。
 この中に、日ソ漁業交渉の過程で潤滑油の役を担って瓢湖の白鳥が登場するくだりが興味をひく。1960年に第1回日ソ漁業交渉が開催された際、ソ連側は日本を厳しく非難したという。「日本人は動物愛護の精神に欠けるところ多く、北洋におけるサケ・マス・その他魚類の乱獲は年々漁業資源の枯渇を招いている」と。
 実はモスクワでの会議に先立ち、日本側主席代表・日本水産会会長高碕達之助氏は、日本鳥類保護連盟会長山階芳麿博士と共に瓢湖を視察していた。そのあたりの主席代表としての戦術的な読みが心憎い。会議でのソ連側の言い分に、高碕氏は日本人に対する誤解と認識不足であると反論し、持参した瓢湖の白鳥のフィルムを映写した、とある。日本人がソ連生まれの白鳥に餌を与え大切に守っていることを目の当たりにしたソ連側代表は感嘆し、一転交渉がスムーズに進展はじめたということである。

 瓢湖版「白鳥の湖」を演出した吉川翁は1959年に64歳で逝去された。「今月の1枚」は、その同じ1959年に撮られた吉川翁の最後の舞台となった瓢湖の写真である。
 給餌は2代目吉川繁男氏に引き継がれたが、氏の亡き後は阿賀野市の職員が行っている。近年5,000〜6,000羽の白鳥が毎冬記録されている。湖岸は整備され、2008年にラムサール条約の指定湿地となり、白鳥の見物客が絶えない。
 吉川父子の「こ〜〜い、こぉい、こい、こい、こ〜い」の大声が聞かれないのは寂しくも致し方ないが、写真から感じられるような静かな湖の佇まいも過去のものとなった。「白鳥の瓢湖」は新たな時代を迎えている。
 1950年以来の年々の2種の白鳥の合計最高渡来数は、初認終認記録とともに瓢湖の白鳥を守る会(〒959−2013 阿賀野市水原314-17 白鳥の里資料館内)の会報「白鳥」に掲載されている。白鳥が瓢湖に渡来し始めた初期には大勢を占めたオオハクチョウが今日ではコハクチョウに取って代わられ、コハクチョウが9割ほどを占めているそうだ。
 尚、1971年に瓢湖水禽公園計画を策定したのが山階鳥類研究所であることはあまり知られていないように思うので、付記しておく。

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