1枚の写真が語るもの
「今月の1枚」は、1羽のトキとその死を悼んでいる雰囲気を漂わせている地元の7人の男たちを撮ったものである。80年も前に撮影された写真。山階鳥類研究所所蔵の下村兼史資料から、トキを膝に男がしゃがんでいる未発表と思われる方の画像(ID番号:AVSK_NM_0002)を紹介する。同じ構図でトキを抱く男が立っている別の写真(AVSK_NM_0001)は、例えば、竹内 均(編)1983. トキ 黄昏に消えた飛翔の詩. ニュウトンプレス, 東京.; 1999. 特別天然記念物「トキ」は蘇るか? 日録20世紀. 9.14. (Special Issue 16); 竹内 均(編)2002. トキ 永遠なる飛翔. ニュウトンプレス, 東京. にすでに発表されている。
写真には、見入ってしまう魅力があるばかりでなく、語られざるいくつかの謎が秘められていた。
撮影者は誰?
まず、写真の撮影者である。撮影データはない。上述の文献ではいずれも「下村兼史」(「野鳥生態写真の先駆者 下村兼史資料」
参照)となっている。その根拠は述べられていない。想像するに、恐らくカメラを所有することが珍しい当時にトキが死んだ周辺地域で写真撮影のできた人は、下村をおいて他にはいなかったであろうと推測するのはムリからぬこと。
加えて私は、下村兼史資料の中の佐渡でのトキに関連する原板28点の中に、件の写真の原板が2点とも含まれていることを主な理由に、および、「今月の1枚」が私には“下村調の雰囲気”を醸し出している写真と感じられることから、やはり撮影者は下村と判断している。
そうだとすると、撮影日は下村が佐渡滞在中の1933年5月〜6月となる。撮影場所は、ピンポイントで特定するのはこの際私にはさして重要ではないが、恐らく下村がフィールドにした新穂村、或いは加茂村の可能性も否定できないと推定している。
謎だらけの撮影現場
さても「今月の1枚」は、どういう状況での写真撮影なのであろうか? 想像を遊ばせてみると――
なんでトキが1羽死んで男の膝にいるのか?
男たちの服装は普段着とも思えない姿だし、1升瓶を調達してトキの死を弔うかのような雰囲気であるが、実際はどうだったのか?
7人の内、5人(と犬)は、下村の撮影に同行したのかどうかもはっきりとした情報がないと思われるが、同行したと判明している2人(後述)は、果たして人煙稀な山奥の営巣現場へ背広ネクタイで往復したのであろうか?
これら7人の男は、現場へ行かなかった男たちが写っているとしたら特にその人たちは、いつ誰からどういう連絡を受けてこの写真の撮影地点へ馳せ参じたのであろうか?
写真は、「皆さん、死んだトキがいるからすぐに集まって。はい、バシャリ」と撮ったにしてはデキスギに思える。背景も意図して選ばれているように感じられる。写真撮影の目的に配慮してコーディネイトする人がいたのでは?
このあたりの情報が一番期待された佐渡のトキ保護研究の第一人者佐藤春雄先生から、結局説明は得られなかった。80年も昔のあまりにローカルな情報とあっては致し方ない。しかし、1枚の写真に秘められたドラマが終わらずして幕が下りてしまうのは、余りに惜しい。私は、当てなく過去の記録を探し続けている。
真実を知るものは?
とにかく当時の記録が極乏しい。現場の証言ができるご存命の方も、今日恐らくはおられまい。張本人の下村であるが、1933年に下村がトキの撮影を目的に前年に続いて佐渡を訪れ、世界で初めてと思われる巣にいるトキの幼鳥の写真を同年5月31日に撮影した。だが、その際現場で起きたこと、「今月の1枚」との関連などに関して、下村自身が記録を書き残していたとしたら、それがどこにも発見できないのである。
佐藤先生がトキを調べ始めたのが、軍隊生活を終えて復員した翌年の1946年。下村の撮影には、先生がまだ子供の頃のことで同行していないと、昨年(2012年)7月に私の問に答えて知らせてくださった。撮影現場にいなかったので、先生ですら第一次情報は持ち合わせていないのである。
「はばたけ朱鷺」(1978年. 研成社、東京)など先生のトキに関する著書に当時の状況がかなり詳しく述べられている。かなりというのは、当然書かれてしかるべきと思われる情報が抜け落ちているからである。とはいえ、先生は地元関係者の聞き取りに基づいて記述されたと推察され、第一次情報に次ぐ貴重な記録に変わりはない。
その後に出版された先生以外の著者によるトキの文献には、1933年の出来事に関して出典は明記されずに“現場での事実”が書かれているのを見かける。事実はそうだったのであろうがな〜とは想像のつく記述ではあるが、できるだけ原情報に当たりたいと願っている私には、どこか歯がゆいものを感じている。
死んだトキをめぐって
下村がトキの営巣状況を1933年に現地調査した際に撮影のため巣のある木に登ると、幼鳥2羽のうちの1羽が巣から落ちて死んでしまったという件。これは、「はばたけ朱鷺」をはじめ関係する文献のいくつかに記述されている。恐らく撮影に同行した人(の言い伝え)または関係者の証言に基づくものと推察できる。80年前のその1件が事実だったと認めなければ、話にならないことになる。
一方、“当時、死んだトキが1羽いた”という事実は、「今月の1枚」の男の膝にいるトキが生きていないことから明かである。果たしてこのトキが巣から落下して死亡したトキなのであろうか? 写真は種を明かしてくれない。下村が佐渡滞在中に、どこかで死んでたまたま地元の人に拾われた“もう1羽のトキ”がいたのであろうか? 改めて問われれば、すぐには答えが見えてこない。
関連情報として、1932年と1933年に撮られたトキ関連の原板が下村兼史資料の中に乾板3点と大型ネガ(手札版)25点ある。この内、トキ幼鳥が1羽アップで写っている乾板と大型ネガがそれぞれ1点(ADSK_DM_0162)と4点(ADSK_NM_0012〜0014, 0020)ある。悩ましいのは、巣にいた2羽の内の1羽なのか落下した1羽なのかが、写真から判定し難い。
乾板のトキを見ただけでは、佐藤先生も「どちらか分かりません。」 巣の小枝らしきものがトキの足もとに写し込まれている大型ネガのトキは、巣の縁にいるととれなくもない。幼鳥の右向きのポーズは、5点とも似たり寄ったり。
落下した後に撮影された写真だと判断できれば、その1羽は即死ではなく、少なくとも立ち上がってしばらくは生きていたという証拠写真になろうというもの。撮影データが無くては、写真はどんな真を写したのか、いつでも泣かされるのである。問題のトキが死亡したのは、巣から落ちた当日なのか数日後なのかといった情報に至っては、推して知るべしなのである。
7人の男をめぐって
しばし話題をトキから7人の男に移すと、主役のトキ男は、一部地元で噂されているような農林省の内田清之助でも下村兼史自身でもない。トキ男を含めて、今日地元でも全員の名が確定されてはいないのである。
佐藤先生のご教示に拠ると、「和木川」ラベルの一升瓶を持つ右端の男が1933年の巣の発見者で、下村の案内役をした大倉俊平。トキ男の後ろが、佐渡支庁の西登喜雄。左端が加茂村和木の酒屋の主人、川上可一。その父、川上喚濤(かんとう)と共に、1932年5月には内田清之助が世界で初めてトキの卵の破片を見つけた加茂村の現場へ、そして同じ年の8月には下村が初めてトキの飛翔をカメラに納めた現地案内をした人物。左から2人目が新潟県庁保安課の小林虎雄である。
大倉と小林の2人の名が、1933年に巣にいるトキを撮影する下村に同行したと「はばたけ朱鷺」p.51に挙げられている。
余談であるが、下村が川上家に泊まった記録がみつかっていた。同家の芳名録(郷土博物館蔵)に、1933年6月1日付けで下村が小林に続いて記帳していたのである (上記西登喜雄は大工の棟梁で市川音吉だという説を含め、「佐渡カケスの瓦版」を参照していただきたい)。この芳名録が、佐渡での下村の足跡を記録として残している恐らく唯一の資料であろう。
蛇足でしかないが、酒豪の下村にとっては願ったりの酒屋に投宿し「和木川」を嗜んだことは疑う余地がなかろうと想像して、ニヤリとする私。「今月の1枚」に写っている1升瓶「和木川」と撮影者下村・・・。さては、この1升瓶こそが謎解きの鍵となるかも?
さて、「今月の1枚」の撮影データは存在していないと思われるのでそこからの情報は諦めるほかないが、直接下村に同行した2名が少なくとも写真に写っていることが判明した。だが、下村−死んだトキ−2名の同行者−「今月の1枚」をつなぐ情報は、想像の域を出ない。関連した出来事だと決めつければそうなのであろうが、写真のトキが木から落ちた個体なのか別のものなのかも含めて、納得できる答えは出ていないのである。
謎トキが80年後の今に
検証の舞台は佐渡から東京へ移る。農林省へ1羽のトキが佐渡から持ち帰られた経緯は不明である。ただ、下村兼史資料の中に、トキの胃内容物を撮った1枚のプリント(ID番号:AVSK_PM_1198)がある。それを精査した結果、下村と同じ鳥獣調査室の石澤慈鳥によってその胃内容物が同定され撮影されたことが明かとなった。
さらに、昨年(2012年)、「新潟県佐土郡新穂村 31.V.’33 (1933年5月31日) 雛 下村兼二(兼史の旧名)」と採集地、採集年月日、採集者とが明記されたラベルが付されているトキ幼鳥の仮剥製が、山階鳥類研究所に収蔵されていることが確認された(塚本洋三・鶴見みや古 2013. トキの胃内容物(佐渡 1933年採取)の写真撮影者の特定および関連する二・三の知見. 山階鳥類学雑誌44:107-112; The Photo: 2013 APR.; Day By Day: 2013 Apr.-Aug. 参照)。
このラベルの採集日と採集地が、石澤の残した胃内容物プリント裏面の検体の採取日と採集地のメモに一致すること、および採集者が下村兼史であることから、この仮剥製個体から件の胃内容物が採取されたと考えた。また、木から落ちて下村が採集し持ち帰ったトキが、「今月の1枚」に写っている死んだトキであろうことが、採集者と撮影者が下村で少なくとも2名の現場同行者が写っているという状況判断から、ようやく読めてきたのである。
トキの死体をめぐっては、推察に過ぎないが、1933年に他のトキ個体が死亡・採集されたという事実があれば、その頃すでにトキは絶滅に瀕した貴重な鳥であったので、なんらかの記録が残されていてしかるべきであろうと思うのは、私一人ではあるまい。
検討の余地はまだ残るが、1933年に死んで人の目にふれたトキは、下村によって採集され、「今月の1枚」に収まり、胃内容物が調べられ、仮剥製となった1羽だけだったと推定するのが妥当である、と私は考える。
死んだトキとともに「今月の1枚」の関心事である7人の男たちが撮影された経緯や現場の状況については、私の情報探索の成果があがらないままに、謎解きはいまだに謎として残されている。
付記
竹内 均(編)の「トキ 永遠なる飛翔」(2002年、ニュウトンプレス)p.180には、トキ標本一覧として森林総合研究所には「1933年(昭和8)5月/新潟県佐渡郡新穂村で採集」の標本を所蔵しているとした記述がある。採集年月といい採集地といい、これぞ件のトキ幼鳥に違いないと佐藤先生も私も思い込んで確認追跡調査していたところ、誤情報であることが判明した。
実際に同研究所で調べたところ、該当する標本は存在せず、p.180で写真紹介されている朝鮮半島産の成長本剥製の他に、採集地が新潟県佐渡とだけラベルに記載された個体と、他に石川県羽咋と産地不明の2個体の仮剥製計3個体が収蔵されているだけであった。
「トキ 永遠なる飛翔」p.180に載っている森林総合研究所の新穂村産のトキは誤情報で、実は該当する情報を持つ仮剥製は山階鳥類研究所に収蔵されていることに大方の注意が向けられるよう、勝手ながらその点をここでも指摘しておきたい。