ワンチャンスのシロフクロウ
フクロウの仲間で最大級のシロフクロウであるが、特に雪上では“白い塊”があるばかりで、それが鳥とは思えないほどの“怪ブツ”。日本では北海道でたまに見られれば「ラッキー!」な、けだし魅力ある鳥なのだ。ひとたび飛行すると意外に軽やかにスマートに飛ぶのだが、飛び立つ瞬間は、巨体を宙に浮かしてまさに“空飛ぶ雪ダルマ”と呼びたくなるほど。
昼間活動するだけに、その迫力ある瞬間を撮りたいものと、はかなく願ってはいた。北極圏に餌が少ない年は厳冬期に例年より南下してきて、アメリカはミシガン州の北部でも観察される。とはいえ、私のミシガン州南部での滞在中で、見られたチャンスはそうは巡ってこなかった。さらに数少ない撮影チャンスである。飛び立ちが撮れたのは、地上と梢からの2度しかなかった。
「今月の1枚」は、その内の梢から飛び立った1枚である。
写真向きのシロフクロウは稀
北ミシガンの凍てついた原野で見るシロフクロウは、ほとんどが点在する小さな納屋の屋根の上やスノーモビルが走る田舎道の電柱の上などにどーんと陣取っていた。その眺めは、「野性味たっぷりなシロフクロウのいる風景」といった勝手に抱く憧れのイメージからかけ離れ、私のウデでは写真にならない。ところが「今月の1枚」を撮った日は、空前絶後の高い針葉樹の天辺に止まる1羽に遭遇したのであった。
その樹は巨大なクリスマスツリーよろしく、原野に1本ぶっ立っていた。驚いたことに、樹上に“白い塊”を見つけたとたん、心で叫んだ。「デッカイ!!」。そのシロフクロウは、なぜか大樹に負けずにどっしりと大きく神々しくさえ見えたのである。
「これは“絵になる!”」
マグレなシャッター
タクマ−300mmのレンズをつけた愛用のアサヒペンタックスSPで、縦位置一杯に撮れるところまで近づき、ここぞとシャッターを切った、切った。初めて使う露出計内蔵の機能が心強かった。因みに、この時のシロフクロウは、私の気に入った数少ない生態写真の1枚となった。
×2〜×3のテレコンバーターを300 につけて撮ってもみた。かなりのアップなシロフクロウがファインダーに浮かんで、視野が暗くて手動のピントが合わせにくかったのだが、相手が相手、ワクワクして撮影したのを覚えている。
夢中で撮っていたが、ボツボツ気にしなければならないことは、フィルムの交換だ。シャッターチャンスを前に肝心の36枚撮りフィルムが切れてジタンダを踏む“恐怖の瞬間”だけは、「神さま、助けて〜・・・」。
と、飛び立つ気配などなかったのに、幸いにもフィルムが残っている内に、梢のシロフクロウがいきなり飛び立った。その瞬間、レンズの鏡胴をにぎった手をちょっと回して手前にピントがくるようにしたのか、なにをしたのか覚えていない。同じく手動の絞りなんかは、どのみちほったらかし。ファインダーの中に白い巨大な塊が躍動したとたん、無我夢中でシャッターを切っていた。
右手一指し指で押したシャッターが落ちた瞬間、親指の腹でフィルム巻き上げレバーを水平に素早く半回転させて2回目のシャッターに備えた次ぎの瞬間には、遠ざかるシロフクロウを見送るばかり。
現像があがってみると、行く先を見る目と趾まで羽毛に覆われたぶっとい両脚が写っていたのは、マグレであった。ここまで撮れたのなら、アノ時コンバーターをつけずに300mmだけで撮っていたなら、翼の先端まで撮れていただろうに・・・と、欲を言えば切りがない。
赤フィルターの効果
ほくそ笑んだのは、めったに使ったことのない赤フィルターのお陰で、青空が沈んでシロフクロウの白が際だったことであった。
それというのも、野鳥生態写真ファンにも恐らく余り知られていないであろう写真集“Wings in the Wilderness”(Oxford Univ. Press, 1947)に掲載されたAllan D. Cruickshank の125枚の内、赤フィルターで撮られた写真が7枚、黄フィルターが19枚含まれていた。当時はまだ野鳥生態写真家のはしっくれであった高野伸二さんと、その写真集をみては夢を語りあったのだった。「赤フィルターを使えば、クリックシャンクばりの傑作が撮れるにちがいないぞ!」と。
やたらフィルターを使えば傑作が撮れるわけではないのは明らかなのであるが、そこはよくある傑作撮りたい一心の思い込み。そんなことがあって、私はちゃっかり赤フィルターを買ってはおいたのが、図らずもシロフクロウで役に立ったとは!
1回だけのシャッターの醍醐味
たまたま撮れた「今月の1枚」ではあるが、アノ時のシャッターを切った瞬間の、「やった〜!」と心に響く快感。現像するまでどう撮れているものやらわからない不安やそれを打ち消す期待感も過ぎりながらの、手ごたえあったシャッターが押せた至福の極地。
そのとき押した1回のシャッターの感覚は、40年ほど経った今でも甦る。ワンチャンスでのシャッターの“重み”と“味”が体験できるその瞬間は、生涯忘れられないほどのものなのだ。個人的体験ではあるその“堪らなさ”が感得できるからこそ、野鳥の撮影は魅力的なのだ。