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2014 DEC.
梢から飛び立つシロフクロウ
撮影 ◆ 塚本洋三
1975年3月16日
ミシガン州北部(UP) アメリカ

ワンチャンスのシロフクロウ

フクロウの仲間で最大級のシロフクロウであるが、特に雪上では“白い塊”があるばかりで、それが鳥とは思えないほどの“怪ブツ”。日本では北海道でたまに見られれば「ラッキー!」な、けだし魅力ある鳥なのだ。ひとたび飛行すると意外に軽やかにスマートに飛ぶのだが、飛び立つ瞬間は、巨体を宙に浮かしてまさに“空飛ぶ雪ダルマ”と呼びたくなるほど。
  昼間活動するだけに、その迫力ある瞬間を撮りたいものと、はかなく願ってはいた。北極圏に餌が少ない年は厳冬期に例年より南下してきて、アメリカはミシガン州の北部でも観察される。とはいえ、私のミシガン州南部での滞在中で、見られたチャンスはそうは巡ってこなかった。さらに数少ない撮影チャンスである。飛び立ちが撮れたのは、地上と梢からの2度しかなかった。
  「今月の1枚」は、その内の梢から飛び立った1枚である。



写真向きのシロフクロウは稀

北ミシガンの凍てついた原野で見るシロフクロウは、ほとんどが点在する小さな納屋の屋根の上やスノーモビルが走る田舎道の電柱の上などにどーんと陣取っていた。その眺めは、「野性味たっぷりなシロフクロウのいる風景」といった勝手に抱く憧れのイメージからかけ離れ、私のウデでは写真にならない。ところが「今月の1枚」を撮った日は、空前絶後の高い針葉樹の天辺に止まる1羽に遭遇したのであった。
  その樹は巨大なクリスマスツリーよろしく、原野に1本ぶっ立っていた。驚いたことに、樹上に“白い塊”を見つけたとたん、心で叫んだ。「デッカイ!!」。そのシロフクロウは、なぜか大樹に負けずにどっしりと大きく神々しくさえ見えたのである。
  「これは“絵になる!”」


マグレなシャッター

タクマ−300mmのレンズをつけた愛用のアサヒペンタックスSPで、縦位置一杯に撮れるところまで近づき、ここぞとシャッターを切った、切った。初めて使う露出計内蔵の機能が心強かった。因みに、この時のシロフクロウは、私の気に入った数少ない生態写真の1枚となった。
  ×2〜×3のテレコンバーターを300 につけて撮ってもみた。かなりのアップなシロフクロウがファインダーに浮かんで、視野が暗くて手動のピントが合わせにくかったのだが、相手が相手、ワクワクして撮影したのを覚えている。
  夢中で撮っていたが、ボツボツ気にしなければならないことは、フィルムの交換だ。シャッターチャンスを前に肝心の36枚撮りフィルムが切れてジタンダを踏む“恐怖の瞬間”だけは、「神さま、助けて〜・・・」。
  と、飛び立つ気配などなかったのに、幸いにもフィルムが残っている内に、梢のシロフクロウがいきなり飛び立った。その瞬間、レンズの鏡胴をにぎった手をちょっと回して手前にピントがくるようにしたのか、なにをしたのか覚えていない。同じく手動の絞りなんかは、どのみちほったらかし。ファインダーの中に白い巨大な塊が躍動したとたん、無我夢中でシャッターを切っていた。
  右手一指し指で押したシャッターが落ちた瞬間、親指の腹でフィルム巻き上げレバーを水平に素早く半回転させて2回目のシャッターに備えた次ぎの瞬間には、遠ざかるシロフクロウを見送るばかり。
  現像があがってみると、行く先を見る目と趾まで羽毛に覆われたぶっとい両脚が写っていたのは、マグレであった。ここまで撮れたのなら、アノ時コンバーターをつけずに300mmだけで撮っていたなら、翼の先端まで撮れていただろうに・・・と、欲を言えば切りがない。


赤フィルターの効果

ほくそ笑んだのは、めったに使ったことのない赤フィルターのお陰で、青空が沈んでシロフクロウの白が際だったことであった。
  それというのも、野鳥生態写真ファンにも恐らく余り知られていないであろう写真集“Wings in the Wilderness”(Oxford Univ. Press, 1947)に掲載されたAllan D. Cruickshank の125枚の内、赤フィルターで撮られた写真が7枚、黄フィルターが19枚含まれていた。当時はまだ野鳥生態写真家のはしっくれであった高野伸二さんと、その写真集をみては夢を語りあったのだった。「赤フィルターを使えば、クリックシャンクばりの傑作が撮れるにちがいないぞ!」と。
  やたらフィルターを使えば傑作が撮れるわけではないのは明らかなのであるが、そこはよくある傑作撮りたい一心の思い込み。そんなことがあって、私はちゃっかり赤フィルターを買ってはおいたのが、図らずもシロフクロウで役に立ったとは!


1回だけのシャッターの醍醐味

たまたま撮れた「今月の1枚」ではあるが、アノ時のシャッターを切った瞬間の、「やった〜!」と心に響く快感。現像するまでどう撮れているものやらわからない不安やそれを打ち消す期待感も過ぎりながらの、手ごたえあったシャッターが押せた至福の極地。
  そのとき押した1回のシャッターの感覚は、40年ほど経った今でも甦る。ワンチャンスでのシャッターの“重み”と“味”が体験できるその瞬間は、生涯忘れられないほどのものなのだ。個人的体験ではあるその“堪らなさ”が感得できるからこそ、野鳥の撮影は魅力的なのだ。


2014 NOV.
雁群の図
撮影 ◆ 廣居忠量
1968年2月12日
宮城県伊豆沼

寺山修司の「雁」に想う

寺山修司(1935-1983)の未発表詩集『秋たちぬ』が、今月半ばに岩波書店から刊行された。最初の一編が「雁」の題。
  “雁がかえって来たとき”の短い一行にはじまる。
  シベリアの父を想う修司。やぶれ障子のつめたいすきま風に、母とむきあって・・・。
  詩は1951年10月の創作のようだ。修司、15歳。父親は、実は1945年にセレベス島で戦病死していた。
  シベリアに置きかえ、かえって来た雁に託す修司の心から離れないひとこと、“お父さん”で詩はおわる。

  バードウオッチャーなら、さしずめ修司がみたガンは果たしてなにガンだったのかが先行し、詩の鑑賞がおろそかになる。私もバードウオッチャーの端くれ。ついあれこれ思いめぐらす。修司が野外識別に長けていたにしても、しかし詩題が「ヒシクイ」や「サカツラガン」などではサマになるまい。いや、修司は、かえって来た雁をみてはいなかったのかも・・・。
  ともあれ、言葉をたいせつにした修司は、「雁」と題して「カリ」と読ませたかったのであろうか。

  識別できないガンの写真があったハズだと、バード・フォト・アーカイブスのデータベースから「今月の1枚」に選びだしたのが、廣居忠量さんの群れ飛ぶ雁。マガンである。伊豆沼の湖面の白は、修司の父が“じっと空をみている”であろう“もう寒いシベリアのどこか”と重なる。

  廣居さんが45年ほど前に撮った雁の群れ。カメラは、確か当時初の内蔵露出計付きアサヒペンタックスSP、レンズ:スーパータクマ−135mm、フィルム:Plus X。
  「今月の1枚」、言われて観てもガンの種類はわからないが、わからなくとも風情ある鳥景色に心が充たされる。

  修司がこの写真をみたら、現実にまた身をおきつつ現実を超える別の現実を表現しようと詩句をつむいだことであろう。

2014 OCT.
フィールドの下村兼史
撮影者・撮影場所・撮影年 不詳
写真提供:山本友乃/BPA

野鳥界のマルチタレント 下村兼史

「今月の1枚」は、2018年に山階鳥類研究所の主催で開かれる予定の「下村兼史生誕115周年・写真展」の主役となる下村兼史(1903-1967)、その人。兼史のご長女、山本友乃さんからご提供いただいたものである。撮影データは分からない。まったくの想像をお許しいただけるならば、写真の雰囲気と服装から推して、撮影の舞台は北千島ではないだろうか? もしもそうだとすると、1934年かその翌年(兼史31-2才)の写真ということになる。



カメラと映写機で

1922年に原板第1号のカワセミを撮ったのを手始めに、兼史は野鳥を主とした野生の生きものにレンズを向け、人生の前半を写真で、後半を監督・演出・脚本家として映像で野鳥と自然を表現した、この道の先駆者である。
  一方、ご自身の写真を撮られるのもお好きだったに違いないのである。野鳥生態写真家で兼史ほど自身の写真を多く撮っている人を、私は他に知らない。北千島の人っ子一人いない大湿原においてさえ、セルフタイマーの代わりにシャッターレバーにくくりつけた紐を何食わぬ顔して引っ張ってシャッターを切り、ダンディなフィールド姿を写し残しているくらいである。
  一つにイケメンおしゃれな兼史ならではのことなのかも知れない。というのも、山階鳥類研究所とバード・フォト・アーカイブスのデータベースに数百枚残されている兼史自身が被写体の写真では、多くの写真が大好きな帽子を手放さずにレンズに向ってポーズをとっている。常にカメラを意識しているのだ。完全な後姿が写っているのは、私の気づいたのでは五指に余るほど少ないのである。


著述、イラスト、音楽的センスで

カメラセンス抜群の兼史は、文筆でもその才を発揮し、野鳥の本格的な写真集となった「鳥類生態写真集」第1-2輯(1930-31年 三省堂)の発刊以降、単行本だけでも生涯25余冊を上梓している。中でも名著といわれる「北の鳥南の鳥」(1936年 三省堂)の初版本は、今日でも下村兼史を知ることになった野鳥写真ファンが古本市上で入手できないものかと注目しているほどである。
  いつどのように習得したのかは定かでないが、絵筆の才もほしいままに、イラスト入り野鳥図鑑類をも出版している。例えば、恐らく日本で最初のフィールドガイドと目される「観察手引 原色野鳥図」上下(1935年;1937年 三省堂)であり、「原色野外鳥類図譜」(1938年 三省堂)である。
  さらに音楽的なセンスにも恵まれ、それはひとつに下村監督の映画「春の流れ」(現存する映画フィルムの所在は不明)制作で知れる。映画の背景にはスメタナの「モルドウ」を流すことにしたが、当時パイプオルガンが少ない中で三越のパイプオルガンで演奏してもらったものはしっくりこなかった。自らあちこち音源を探し求め、青山学院の教会にあったハモンドオルガンに巡り会って納得し、その演奏を映画に採用したというほどである。

生涯、常に自然を舞台に野鳥を中心とした生きものを、写真で、映像で、著述で、イラストで、音楽でも表現した兼史は、野鳥界のマルチタレントといっても過言ではないといえよう。一般の人々への自然や野鳥への興味関心を喚起した功績は、少なからぬものがあったと思われる。

なお、下村兼史に関しては、山階鳥類研究所のホームページのサイト「野鳥生態写真の先駆者 下村兼史資料」をご参照いただきたい。

2014 SEPT.
オナガ
撮影 ◆ 岡田泰明
1956年6月14日
千葉県新浜

日本野鳥の会主催 半世紀前の野鳥生態写真展

1957年5月のバードウイーク(10〜15日)期間中に、野鳥の生態写真展が東京銀座で開催された。日本野鳥の会とカメラ毎日との共催で、小西六写真工業KKが後援である。
  『・・・中央に於てこのような綜合展を催すことは始めてのことでもあるので、今回は鳥学的な選択に傾かず、鑑賞して下さる方々の印象に止まりやすかろうと思われるものを審査の主眼とした。野鳥生態写真というものがどのようなものであるかをお認め頂ければ幸いであり、またこれを機として野鳥生態写真の発展を期したいと思う』 会場に掲げられた中西悟堂による写真展趣旨の大看板が、往時の生態写真事情を語っている。

  デジタルカメラが普及して誰にでも野鳥の写真が簡単に撮れるようになった今日から思えば想像もつかないほどであるが、当時は、審査の対象となる写真が果たして集まるものか、開催が可能なのか、日本の野鳥生態写真の現状を把握する調査をあらかじめ実施しなければならなかった。野鳥を撮っていると知られていた人に、どんな鳥を撮っていて写真提供が可能かどうかなどの照会状が日本野鳥の会から送られたのである。
  照会を受けた人は、全国で僅か33名。中に、下村兼史、清棲幸保、藤村和男、星野嘉助、周はじめ、高野伸二、小林桂助等そうそうたるお名前が含まれるのは当然としても、知人から135mm望遠レンズを借りて見よう見まねで野鳥にカメラを向けていた私塚本洋三の名前が含まれていたのであるから、当時の“生態写真家”の質と量が察しられようというものである。

  結果は、全国32人からの129点と北海道庁のタンチョウ2点とが展示決定され、6日間の世紀の野鳥生態写真展に40,390人の入場者を見たのであった。出品者と展示された作品の詳細は、「野鳥」第22巻第4号(1957年 通巻184号)のpp.18-22に掲載されている。


[今月の2枚目] 日本野鳥の会主催の「野鳥の写真展」会場風景
撮影者不詳
1957年5月
東京銀座

「今月の1枚」は、「今月の2枚目」から明かのように、展示された131点の中の岡田泰明さんが撮影された1枚。千葉県にある宮内庁新浜(しんはま)御猟場(現・新浜鴨場)で半世紀前に撮られたオナガである。キャノン2Dに135mm望遠レンズをつけての手持ち撮影であった。岡田さんの手元に残されたアルバムからデジタル化された画像での、改めての登場である。

  記念すべき野鳥写真展に展示された写真が、纏まって現在もどこかに保管されているとは思えない。図録などもなかった。岡田さんのように、写真提供者個人のアルバムに眠っているのがほとんどであろう。当時どんな鳥が誰によってどのように写真表現されていたのかを纏めて知ることができないのが、実に惜しまれる。

2014 AUG.
一羽のツバメチドリ
撮影 ◆ 下村兼史
1930年9月7日
福岡県山門郡両開村筑後川口
写真資料提供:山階鳥類研究所



歴史的な写真を読む

一見して「今月の1枚」は見栄えがしないとお感じの向きはあろうが、日本の野鳥生態写真の草分け、下村兼史が80余年も昔に撮ったものと聞けば、再度眺めてみる気も起きるのではないだろうか。
  下村の一文を引用する。
  『此処は筑後川の注ぐ所、海上から吹いてくる南風も亦夏の名残を語り、溜池の岸にざわめく蘆荻の深い緑は未だ少し秋には遠いものである。遮ぎる物の無い廣い干拓地は焼つくような陽の光のゆらめくに委せ暑気は頗る強い。(略)
  今日は珍しい鳥を見たのである。それは一羽のツバメチドリ。(略)
  此日、辛うじて撮ったシネマ(アイモカメラ)のスタンダードフィルムの中に、泡粒の様に現はれた映像からエンラージして造らへ上げた写真が挿図である。甚だ頼りない印画であるが、私の一生のうち此鳥を此後レンズに入れる機会は恐らく無いだらうと思ふと又尊くも考へられ、唯一のレコードとして挿図に入れたのである。』(下村兼史 北の鳥南の鳥 1936年 三省堂 pp.284-289.)
  その挿図と同じ写真が「今月の1枚」なのである。

  下村が伸ばしたと思われるオリジナルの部分的にセピアがかかった件のプリントが、似たような他のプリント6枚と共に、山階鳥類研究所の下村兼史写真資料の中に残されている(山階ID:AVSK_PM_0884)。
  そのプリントを、参考資料用としてさらにデジカメで撮影された画像から、焼きムラや無数の傷などの補正にフォトショップで時間をかけた。天国で下村も苦笑しておられるであろうが、私の補正技術に限界がある。お許しいただいて、"ネムイ画像"ながら雰囲気は伝えられようかとの判断で載せたものである。

  下村が現像してみれば、撮った人にしかわからないような鳥がネガに「泡粒の様に現はれた」のであるが、下村には無視し得ない。それは、今日でこそ野外で稀ならず観察されるが、往時は珍鳥ツバメチドリであった。下村の予想通り、ご自身の生涯で二度とツバメチドリに巡り会ってシャッターが押せたことは、確かになかったのである。
  今日では見向きもされないであろう「甚だ頼りない印画」ながら、下村が「北の鳥南の鳥」p.288+に手札版ほどの写真を遠慮勝ちに載せた胸の内が、文中から察しられようというものである。

  たとえ写真そのものにインパクトがなくとも、なにやら曰く付きの古い写真には、被写体の事情、撮影時の状況、撮影者の心情などが分かってくると、写真はまさに歴史となってプラスαの味が感じられてくる。昔の写真を「読む」楽しみの一つではある。

(公財)山階鳥類研究所の下村兼史写真資料の利用についてのご質問、
お問い合せは、同研究所の下村写真資料提供窓口となっている(有)バード・
フォト・アーカイブスへ直接ご連絡ください
mail:info@bird-photo.co.jp(@を半角に直して送信してください)
tel & fax:03-3866-6763
2014 JULY
都道の松並木
撮影 ◆ 田中勘一
1950年代後半
東京都三宅島

松風はどこ吹く

東京に暮らしていて、ふと思う。松の梢をわたる風の音を最後に記憶しているのは、いつの頃だったかと。

「今月の1枚」は、三宅島の坪田にお住まいの田中寛一さんが、1962年の昭和の三七噴火よりも以前に撮った三池海岸の松並木である。島一周の都道を行く人影もまばらで、聞こえてくるのは、海風が松林を吹き抜けて松の樹が奏でる音、松風のみ。風の強弱のままに、どこかうら寂しい音と途方もないエネルギーが噴出するかのような畏敬の念をも抱かせる音との自然の奏でる素朴なシンフォニー。

松風、「しょうふう」と音読みを私は好む。話して伝え易いのは「まつかぜ」。どちらの読み方も、日本各地の地名に残されている。昔は生活の中の情景だったのであろう。

「今月の1枚」は松林の過去の姿である。島の中央、標高775mの雄山噴火のガスや台風などの影響で、“奇跡の松”もなにもなく1本残らず姿を消した。現在は、立派に舗装された二車線の都道と海岸に沿った砦のごとき防潮堤とで、かつての風情ある島の姿を思い起こさせる何ものもないほど、景観は一変している。三池海岸の松風は、「今月の1枚」の松並木を眺めながら、昔を知るものが思い出の中に聞き取れるだけとなった。

世代の断絶が起きる前に、松風を復活させるプロジェクトが島民を中心に起きないものか。百年、二百年の計。ユニークな松風を、三宅島の自然をアピールする稀有な観光資源とするのである。
  その実現は、単に松風一つに留まらない。日々失われがちな私たちの心の糧をも守ることになる。情緒不安定な人の多くなった都会育ちに、一服の清涼剤となる自然な環境の大切さをも伝えるのではないだろうか。

小さなアイディアも途方もなく思えるプロジェクトも、始めてみないことには育たない。松風を知る世代を繋いでいくのにも、人間個々の生活にとって自然環境に隠された深淵な意味があることにまず気づかねばなるまい。

2014 JUNE
カワセミ PL.45
撮影 ◆ 下村兼史
1922年1月5日
福岡県福岡市
校正用写真提供 ◇ 吉田 元

下村兼史の原板第1号カワセミをめぐって

1922年に、カワセミを撮っていたダンディな男がいた。日本の野鳥生態写真の草分け下村兼二である [1930年代に兼史と名前を変えている。BPAホームページでは名前の表記を「兼史 (ケンジ)」に統一している]。
  そのカワセミの写真は、北九州佐賀市の兼史の生家の庭で撮られた。バード・フォト・アーカイブス(BPA)10周年記念ネット写真展に載っているその1枚が、庭の雰囲気の読める現存している唯一のプリント。今回がネット上初公開である。写されている池が、カワセミ撮影のピンポイントの舞台かどうかは定かではない。豪邸だった庭には幾つかの池があったとは、ご長女山本友乃さんの言である。
  当時、兼史はお屋敷で父の看病をして退屈していた。ガラスの窓越しに池が見える。水辺の松の木の決まった場所に止まるカワセミに気づいた。
  池の対岸に据えつけたカメラのレンズを向けてあらかじめ止まり場にピントを合わせ、シャッターレバーにくくりつけた紐を父の枕辺まで長く引いて、待った。
  2時間ほどしてピントを合わせたまさに同じ枝にカワセミが現れて止まり、下村は静かに紐を引いた。張られた紐の向こうでシャッターが反応した。こうして得られたのが原板第1号である。


撮影データから

下村の撮影手帖 に記された撮影データは、「No.1 カワセミ 一九二二年一月五日 夕方 (カメラ)タロー・テナックス (105mmレンズ)ゴルツドグマー F4.5 (シャッタースピード)1/5 乾板=ウェリントン、アンチスクリーン」である [下村兼史「カメラ野鳥記」(誠文堂新光社 1952年)p.217. ; カッコ内は説明用に塚本追記;以下のデータも同書の最終章「原板第1号」pp.213-225 に拠る]。

  紐を引いてシャッターを切る遠隔撮影法は、トラツグミ、ヒバリシギ、ルリカケスなどカワセミ以降の撮影でも下村はしばしば用いている。しかし、被写体となる野鳥がいつどこに現れるのか想定し難い非繁殖期に、カワセミ原板第1号で成功しているのは、極めて希有な例といえよう。いずれにしても、撮影に先立って鳥の行動生態などを辛抱強く観察することが必要だったのである。
  撮ったのが冬の日の夕暮れ時でやむを得ず5分の1秒というシャッターを切ったが、さすがの下村も、野鳥を相手にそんな超スローシャッターはNo.1 カワセミが最初にして最後だと述懐している (p.217)。

  撮影データであるが、これほどの詳細が記録されているのは、原板第1号と原板第601号 (p.218) の僅か2点に限られている。多くの乾板やネガの保存ケース、プリントの裏面などには、撮影データが書き残されてはいない。下村自身が「カメラ野鳥記」で言及している“撮影手帖”(“撮影ノート”とも原板601号の項に記されている)なるものが、果たして存在したものなのであろうか。なにかの弾みで発見されることが心待ちされるのである。

  原板第1号は、デジカメSDカードの前身のフィルムのさらに前身のガラス乾板である。ガラス板の片面に感光乳剤が塗られたもので、うっかり落として割れたら、どんな傑作も一巻の終わりというシロモノである。下村が使用したのはほとんどが手札版であった。


原板第1号の行方

下村のNo.1ガラス乾板の存在に興味を抱いた吉田 元 (1930-2005) が、1950年に下村宅を訪問した際、直接質問している。その時下村は、戦争により乾板を焼失したと明言していた (SINRA 6(4):101-102)。下村が自身の著書に書き残してもいる。『だが、原板第1号も・・・戦争の為に失った』(p.225)、と。原板第1号が山階鳥類研究所の当時未整理の資料の中に埋もれていようなどとは、誰しも想像すらしていなかった。
  ところが、カワセミ撮影から75年経った1997年のこと。下村のほとんどすべての写真資料を所蔵する山階鳥類研究所でその資料に目を通していた吉田は、1枚の手札判ガラス乾板を手にして一瞬頭の中が真っ白になった。それこそ焼失したハズの原板第1号だったのである!
  吉田の取材ノート(BPA所蔵)の1行が、そのときの興奮を伝える。
  『H9(1997) 8/7 PM2:03 我、原板No.1、カワセミを発見せり』

  原板第1号のガラス乾板は、右上が破損し、乳剤面の劣化が進んでいる状態で発見された。肝心のカワセミ部分のイメージは、かろうじて劣化を免れている。劣化部分を取り込んで引き伸ばされたプリントには、撮影から間もなく100年という時空が醸し出す風合いさえも感じさせるように思える。
  その乾板は、山階鳥類研究所の貴重なコレクションとして、下村写真資料の整理保存作業 (2005-2008年度) 時点より画質が劣化しない状態で残されるよう高画質デジタル化された。原板 (山階鳥研ID番号: AVSK_DM_0002)は、ドライキャビネットに保存管理されている。


“僅かなプリント”の行方 と「今月の1枚」

No.1カワセミのプリントに関して下村は、『辛うじて私の手に残ったのはそれ等の原板から得た僅かなプリントが今はあるばかりだ。』とも書き残している(p.225)。
  その“僅かなプリント”は、山階鳥類研究所に収蔵されている下村兼史資料の4,201枚のプリントの中には存在していない。実は、どこにも現在発見されていないのである。
 プリントに近い現存する唯一のものは、吉田が下村から譲り受けて所蔵していた、1930年出版当時の校正用と言われた1枚である。興味を抱く向きには、下村兼史著「鳥類生態写真集」第1輯 (三省堂 1930年)のPL.45 を開くと、その右上端に斜めの折り目が印刷されて残されていることに気づかれるであろう。同じ折り目が、「今月の1枚」にも見られる。
  校正から80余年の間に、下村から吉田へ、吉田からバード・フォト・アーカイブスへと所有が移って、「今月の1枚」への登場となったのである。

2014 MAY
濤沸湖畔の放牧馬
撮影 ◆ 志水清孝
1960年前後の夏
北海道小清水原生花園

自然と共に生きる難しさ

北海道に憧れる者なら一度は訪れてみたいと思った北の果て、小清水原生花園は濤沸湖畔が「今月の1枚」である。オホーツクの海岸に沿って帯状の縞を描くように、ハマナスなどの植物群落のある砂丘、釧網本線と国道244号線、そしてハマナスより高い木のない放牧草地とが帯なして、斜里町と網走市の中間に広がる茫漠たる大地。目を転じて、濤沸湖畔から遙かに斜里岳を臨む雄大なパノラマ。「今月の1枚」が撮られた1960年代前後は、まさに原生の佇まいであった。


大自然の中で

閑寂なことこの上ない。夏休みでも人影もまばら。どこでも気ままに散策しバードウオッチングが楽しめた。数日滞在して、バードウオッチャーに出会うこともなかった。1日数本のおよそ乗客の少ない路線バスの最終便が去ると、人っ子一人いなくなる。テント場も好きな場所が選べた。大自然を一人占めに満喫できたのは、騒音の都会育ちには最高のぜいたくに思えた。
  原生花園では、オオジュリン、ノビタキ、シマアオジ、マキノセンニュウ、コヨシキリ、オオジシギなどの草原性の鳥が迎えてくれた。エゾカンゾウやヒオウギアヤメの群落。ふと足下にひっそりクロユリの一輪。はるか湖畔の白と黒の点がタンチョウと分かったときの興奮と感激。どうして人間の存在がわかるのかと疑うほど遠くでこちらを警戒しているフィールドスコープの視野のキタキツネ。目前を翔るチゴハヤブサに息をのむ。
  放牧地であるから、牛や馬もいた。リーダーとおぼしき馬が耳を伏せてこちらを窺う。どうみても好意的ではない雰囲気。こわごわ退散。追っかけられたら敵うわけがないのでトゲのあるハマナスの群落に逃げ込めばよいかと逃げながら思ったのは、物事知らずの浅はかさ。馬たちは苦もなくハマナス群落を駆け抜けるのを見て驚愕し、国道沿いの牧柵まで必死に逃げ帰ったり。
  「今月の1枚」を見ながらの思い出は尽きない。


半世紀の歳月を経て

20年ほど経って再遊してみて、あまりの違いに驚いた。大学生のころ訪れたのは夢だったのかと。観光客で賑わいごった返していたのだ。全国でよくみられる観光開発の姿がそこにもあった。
  原生花園のまっただ中に観光地風の新たな駅舎が釧網本線に出現して“便利になって”いた。当然として、駐車場も。昔、土煙をあげて洗濯板のような国道をガタバタ走るトラックが落としていったジャガイモを拾ってキャンプの朝食にしたその国道は、すっかり舗装されていた。歩けるのは、限られた遊歩道だけ。致し方あるまいが、濤沸湖畔までの勝手な散策などは思いもよらなかった。
  ガク然とした気持ちが忘れ得ないまま30年ほど経って、さて、小清水原生花園は現在どんな眺めになっているかと想像するだけで気がふさぎ、あこがれの彼の地に心躍るようなことはなくなっていた。


人間次第の自然と地球

自然は年々歳々変化していく。なにものも留まってはいない。人為の影響があるとは思えない原生自然環境保全区域の南硫黄島でさえも、台風の影響で崖が崩落して地形が変わり、雲霧林がなぎ倒されて林相が一変し、自然が自然のままに遷移していく。ましてや、人為の影響が多い自然環境では、自然の遷移以上の変化が加速されるのは、必然。人為による環境の改変は、環境破壊と紙一重となる。自然に対する認識で基本的に大切なのは、人間は自然と自然資源に依存しなければ生きていけないという当たり前のことなのである。今さらながら。
  観光開発ではその資源たる自然そのものの保全が第一義であるべきなのであるが、経済優先の利用など人間の側の思惑で自然は泣かされることが多い。こうした話題は、昨今マスコミを賑わすことも無くなってきている。いつの時代でも、観光開発は言うに及ばず、自然を理解しながら自然資源を活用させてもらう心意気と実践を、いつの世にも声を大にしていかねばならないのであるが。
  「今月の1枚」が撮られて半世紀ほどの間に人間が学んだ負の側面を、果たして次ぎの世代へのプラスに転化し得る知恵を私たちは、特にリーダーシップをとる立ち場の人たち、為政者は手探りしているのであろうか。
  一つ思うに、福島原発事故の対応策で地下水をバイパスして海に放流するという素人目には簡単そうなアイディアに思えることでも、地下水を蓄えているのは他ならぬ自然である。自然に相対するとき、人間の技術と思惑が活かされるに充分な生態系の水文への知識と配慮が施策決定の根底にあることを切望している。
  そういえば、この地球上で増大するエネルギー需要に応えるべく、福島原発の事故収拾がついていないそばから、日本を含めた国際間の原発売り込みの駆け引きが進行していて、トルコやインドなどで原発建設によるエネルギー源確保の期待が高まっている・・・。
  自然は人間が想定できるほどアマくはないという現実も、喉もと過ぎればの習性がしみこんでいる人間の備忘として、負け犬の遠吠えながら付け加えておかざるを得ない。

2014 APRIL
サカツラガンの群れ
撮影 ◆ 下村兼史
1930年代後半
千葉県新浜
写真資料提供:山階鳥類研究所



下村兼史の「或日の干潟」 人気の源流

去る3月23日(2014年)、浦安市郷土博物館で下村兼史監輯の映画「或日の干潟」(理研科学映画1940年)が上映された。この古い短編映画のオリジナルからリプリントされた35mmフィルムの完全版が現存しているのは、奇跡に等しいと考えられる。それが、市川市立市川自然博物館に収蔵されているのだ。映画の主なロケ地と思われる干潟があった地元の、2つの博物館で学芸員同士の連携プレーが奏功し、今回浦安市での上映が決まったのであった。一般公開は久々のことである。
  予想外は、聴視覚教室いっぱいの82人もの参加者。「或日の干潟」人気というか、下村兼史人気というか、恐らく相互作用での記録的なハプニングとなったのであろう。その源は、どこに在るのであろうか。


下村兼史と「或日の干潟」

野鳥を主とした生態写真を1922年以来撮り続けていた下村兼史が映像の世界にはいったのは、1939年。人生半ばの36歳であった。
  1938年に創設されたばかりの理研科学映画株式会社は、既成の映画人より素人を登用して新しい映画を制作したいとの意向があった。映画制作の知識もなく入社した下村が、着想の新鮮さを表現できる舞台があったのである(田中純一郎 「日本教育映画発達史」蝸牛社 1979年 p.117)。
  さらに1939年には、折しも映画法が制定され、劇映画の上映には短編の「文化映画」の上映が義務づけられた。映画製作会社には願ったりの仕事であり、良くも悪くも「文化映画」が量産されていった。下村作品が世に出る社会的な背景も整っていたのである。

  下村の第1作が1939年で、その年度の優秀文化映画上位に推された「或日の沼地」。続いて発表されたのが、1940年の「或日の干潟」であった。
  17分のこの映画は、サギ、カモメ、ガン、シギ・チドリなどの水鳥やハヤブサ、フジツボ、カニ、トビハゼなど、そして、干潟でオゴ採りをする地元のおかみさんや映画制作ではタブーとされた撮影スタッフの姿まで、潮が引いて満ち来るまでの干潟の1日を描いたものである。
  有明海に棲むムツゴロウが登場するが、映画のほとんどの舞台は東京湾最奥の千葉県の行徳から浦安にかけての新浜の干潟であろうと推察される。そこでは、1940年前後に50羽から100羽ほどのサカツラガンが、数100羽のマガンとともに定期的に越冬していた。戦後の新浜でのサカツラガンの明確な越冬記録はなく、戦後も渡来し続けたマガンも1964年の冬までで途絶えた。東京湾では、もはやガンの群れは越冬していない。「或日の干潟」には、かつて見られたこれら2種のガンと、開発が進んだ現在からは想像もつかない広漠たる干潟環境が写し残されていて、往時が知れる映像記録資料としての価値も少なくない。
  山階鳥類研究所が所蔵する下村兼史資料の中に、35mmスチルネガ6コマ分に相当するスリーブ状態で映画フィルムが保存されている。「今月の1枚」は、そのような映画フィルムの「或日の干潟」の1コマを高画質デジタル化し(山階ID: AVSK_MM_0043)、画像として採録したものである。

  「或日の干潟」を含めて文部省から文化映画の認定を受けた46作品が、1940年の芸能祭文化映画コンクールに出品された。その審査員の一人として映画評論家飯島 正(以下、敬称略)は、どこからこんなに多くの文化映画が飛び出してきたかと驚きながらも、優れた作品が少ないのにもまた驚かされた。ただ、「『或日の干潟』は、・・・ほとんど文句なくぼくの気にいった唯一の作品である。・・・『或日の干潟』はまことにきもちのいい映画である。これにくらべると、ほかの文化映画は、よどんだ水のように憂鬱である。」との記述(「スタア」1940年8月上旬号pp.6-7,16)が、下村の映画作品と当時の文化映画事情を端的に物語っている。
  因みに、同誌の別ページ (p.13) に無記名で載った「最近の文化映画」評欄では、「或日の干潟」が「日本では稀らしいところを努力して狙っている」と認めながらも、「映画的教養の不足から子供向きのマンガ映画みたいなものになってしまった」と評されている。
  佐野時雄の撮影になる下村兼史監輯「或日の干潟」は、文部大臣賞、皇紀二千六百年奉祝芸能祭文化映画コンクール主席に選ばれた。登場する生きものたちの表現の細やかさと素朴な詩情は秀作と評価され、下村兼史が文化映画の監督として一躍名をあげたのである(『日本映画監督全集』キネマ旬報社 1976年 p.210)。


時代をこえた“反響”

◇ 映像作家の羽仁 進は、下村兼史を評して「まさに『変な奴』である。しかし、この変な奴が、まともな奴には出来ない貢献をしてきたことに気がついた」と述べ、「或日の干潟」については「私がこの映画を見たのは、戦後しばらくたってから・・・過去の秀作を見る機会に恵まれた時であった・・・何といっても『或日の干潟』の印象が一番強烈で、その時一度しか見ていないのに、画面の幾つかは、今でも鮮やかに覚えている」(「アニマ」1989年5月号 pp.52-53)。
  ◇ 2002年、長崎県佐世保市で第22回全国豊かな海づくり大会が開催された際、天皇陛下は「幼い日に見た、有明海の干潟の生物を写した『或日の干潟』という映画は、今も私の心に深く残っています」とおことばを述べておられる。
  ◇ 私にとっては半世紀ほど昔のバードウオッチャー仲間なのですが、鈴木邦彦さんが長い滞米生活から帰国され、2002年6月10日、日本学士院賞を受けられての受賞昼食会でのこと。同じテーブルの皇后さまが「昔、『或日の干潟』という文化映画がありましたね」と語りかけられたそうだ。鈴木さんは「ボクもよく覚えていますよ」とお答えし、私には残念だったことに、それ以上の映画の話題は途切れてしまったとのこと。しかし、ではある。
  ◇ 「或日の干潟」は総称して「短編映画」と呼ばれるジャンルであるが、劇映画に互して日本映画ベスト150の146位にランクされた(文芸春秋(編)「日本映画ベスト150――大アンケートによる――」文春文庫 1989年、p.264)。このアンケートに答えたラジオタレントの永 六輔は、「『或日の干潟』を小学校の講堂で見て最初の記憶に残っている映画」とのこと。作家の杉本苑子は、「少女のころ親と見た『或日の干潟』は50年後の今なお、家族の間で話題になるほど感動的な記録映画だった」と述べ、「マイベスト10」の3位に挙げている。
  ◇ 映像文化製作者連盟、映像評論家登川直樹、渡部 実等が中心になり選んだ日本の“短編映画100選”(映像文化製作者連盟(編)「日本短編映像秀作目録――映像作品でみる日本の100年――」1999年 pp.7-24)には、“ベスト100”とは意味合いが異なる点に注意は要るが、恐らく数(10)万本にものぼるとみられる短編映画の中から、「或日の干潟」が100作品の中に選ばれている(同 p.7)。因みに、下村兼史の遺作「特別天然記念物ライチョウ」(日本シネセル 1967年)もリストされ(同 p.16)、下村作品への評価がうかがえる。


いつの日にか

「或日の干潟」に関する種々の情報が、長い年月の間、著作に引用され、雑誌に載り、ネットに流れ、稀にテレビ放映され、時に東京国立近代美術館フィルムセンターで一般上映され、関心のある人たちの間でささやかれたりしながら、20世紀を代表する文化映画と目される「或日の干潟」像と、名作であるとの伝説的なイメージとが相俟って、「或日の干潟」への認識が関心層に静かに浸透していっていると考えられるのではないか。
  制作から75年ほども経つ今日でも、「見られる機会があれば、是非見てみたい」と期待される映画「或日の干潟」なのである。

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2014 MAR.
  
  
吹雪にオオバンを掴んで飛ぶオオワシ
撮影 ◆ 奥村隆司
2014年1月19日
滋賀県湖北


“今日的アーカイブス写真”

「今月の1枚」は、バード・フォト・アーカイブス(BPA)としては一見して異色である。これまでのモノクロ方針を逸脱しているのであるが、今年はBPAが設立されて10周年となり、もう一皮むけてもよかろうと、今現代に撮られた“今日的アーカイブス写真”の登場となった次第である。


吹雪をものともせず なればこそ

2014年が明けて間もない1月19日は、青空が一瞬見えたかと思うとまた横殴りの吹雪に変わる典型的な雪空だった。奥村隆司さんは、これではバードウオッチングどころではないと知りつつ、仲間と琵琶湖の湖北野鳥センターへと向かったのだった。その根性が「今月の1枚」を産んだと言えよう。
  狙うは、センター近くの山本山でここ10年ほど越冬している、オオワシ。首尾良く見つかったが、飛び立って行ってしまった。諦めて帰り仕度をはじめたときに、オオワシが舞い戻ってきたというのである。しかも、オオバンを引っさげて。
  慌てるなといっても、ムリだった。×1.4コンバーターつきの300mm F4を装着したキャノン7Dを夢中で取り出す。三脚を立てる間はない。手持ちでファインダーにオオワシを追いかけ、カメラマンではないからと自認するウデでは、4-5回シャッターを切るのがやっとだったとのこと。
  その“やっとの1枚”がメールに添付されて届いた。またとないチャンスを捉えた画像だ。しばし私は目を離さずに思案した。撮影者の気持ちは察するが、被写体をやたらとトリミングした画像である。初めからていねいに仕上げれば、きっと見応えあるものになるに違いない、と。
  折り返し送っていただいた元データを私の好きなようにトリミング画像処理し、奥村さんのチェックを受けて「今月の1枚」に載せさせていただいた。仕上がりの責任は私にある。
  BPAのアーカイブス写真に求められる一つには、野生の生きもののいる自然の情景を写し撮った雰囲気のある写真、叶うものなら時代や地方色などをも感じられる写真である。奥村さんの「今月の1枚」には、そのような要素は限られているものの、湖北では通常はブラックバスを主食としているオオワシが、近年増え続けているオオバンを捕らえ、鷲づかみに飛ぶ姿を撮った生態写真としての価値がある。さらに大事な私の強調したい要素として、観る者の想像が吹雪の画面をオオワシと共に駆けめぐり、ワクワク感に満ちている点である。その写真が、「今月の1枚」に“今日的アーカイブス画像”として登場する嚆矢となったのである。


BPAの方針拡大

アーカイブス級の写真となると、過去に振り返って対象のほとんどがモノクロ写真となる。しかし、今現在撮られるカラー写真が10年、30年、半世紀と経つ内に、アーカイブス級の仲間入りをする。となれば、現時点で撮られた写真をBPAの対象外にするほどのこともあるまいという理屈になる。
  理屈なのであるが、悩ましい問題が残る。前月(2014 FEB.)のこのページで書いたように、春国岱の大雪原に1羽のタンチョウがいるというまたとないチャンスの1977年に撮影者の真柳 元さんが切ったシャッターは、わずか6回。1960年に生まれて初めて見た野生のタンチョウに、1回しかシャッターを切っていない私。ロールフィルム1本で撮れる枚数制限や、その現像引伸も含めたフィルム代を無視して撮りまくるわけにいかなかった。
  フィルムカメラにはそのような制約があるものの、今日のデジカメの撮影では、ワンチャンスに押すシャッターの回数は、ほぼ無制限でタダに等しい。それだけカラー画像が溢れることになる。
  BPAではモノクロだけでも事務作業が追いついていないのに、カラーの登録が急増しては、手に負えなくなるのは目に見えている。だが、BPAのモノクロ写真の方針をこれまで通り優先させる一方で、限られた範囲のカラー写真を時々に紹介するのは、やぶさかではないと思うのである。
  去る2月中ごろ、ご覧のオオバンを掴んで飛ぶオオワシのカラー画像に遭遇し、BPAの方針拡大へのこの思いを一層強くした。この10年でBPAのモノクロ写真の収集・保存・活用・継承の概念は自己満足的に定着したと考えるので、今後はこれぞと思われる“今日的アーカイブス画像”も、状況の許す限り紹介していこう、と。

2014 FEB.
  
  
流氷 雪原 1羽のタンチョウ
撮影 ◆真柳 元
1977年3月18日
北海道春国岱


タンチョウの生態写真 ルーツ以降

先月のこのページでは、タンチョウの生態写真のルーツを探ったが、ことのついでに、タンチョウ生態写真の鳥関係の雑誌、書籍での初出を追ってみた。 関連する写真として「今月の1枚」に選んだのは、春浅い道東の風連湖畔は春国岱のタンチョウである。

  撮影した真柳 元さんは、その日快晴の午後、雪の中で迷彩となるよう白のキルティングを着込み、静かな国道44号を一面流氷のオホーツク海へ向かって歩いていた。春国岱橋にほど近く対岸に見えたのが、1羽のタンチョウ。
  タンチョウと人とが距離を隔ててトコトコと共に同じ方向へ。あたり視界の限り、厳冬の佇まい。静寂無窮の大自然。鳥と人とが互いに気にせず気になって対峙する。
  300mm F4.5をつけたニコマートELを構え、流氷が背景になるところまでで6回シャッターを切った。多くの鶴が近間に集う給餌場とは一味違う、タンチョウ1羽のいる風景が狙い。最後に切ったシャッターが「今月の1枚」である。


1940年代以降の生態写真

さて、1943年2月には、鹿児島県荒崎に現れた1羽のタンチョウが下村兼史によって撮影され、同氏の著「カメラ野鳥記」(誠文堂新光社 1952年)の口絵に載っている。大陸から渡ってきたタンチョウと推測されるが、タンチョウ写真史上これも貴重な日本での撮影例である。
  下村以降1950年代初めまでの10年余では、意外にタンチョウの生態写真は見つからなかった。(1953年 [追記:1954年が正しい]から撮り始めた岩松健夫は、後述。)
  突然、1954年になって、北海道のタンチョウ生態写真の当たり年となったようだ。タンチョウ生態写真のルーツと思える1930年中頃以来の空白を埋めるかのように、別海村西別原野、釧路市大楽毛、同市街阿寒村の3カ所でタンチョウの写真が撮られていた。
  その年(1954年)2月28日に周はじめが西別原野のバラサン沼南方で撮った2羽の写真が、日本鳥学会の「鳥」誌の第13巻第64号(1954年9月)の口絵に掲載された。同誌の口絵に初登場のタンチョウの写真であろう [付記をもご参照ください]
  1954年5月には丹葉和之(目次には佐藤春雄とある)が釧路市大楽毛で「タンチョウの雛」(1羽) を撮り、それが「野鳥」誌の第21巻第2号に掲載された。同じ口絵に、1954年12月に佐藤春雄が釧路市街阿寒村で撮った写真が「丹頂の飛翔」(4羽)と「刈跡のトウモロコシ畑で採餌するタンチョウ」(2羽)とのタイトルで載っている。丹葉と佐藤の3枚が、初めて同誌の口絵を飾ったタンチョウの生態写真と言えよう。


岩松健夫のタンチョウ写真集とICBP

四季を追って釧路湿原のタンチョウの生態を克明に写真で記録したのが、岩松健夫。初めてのシャッターは、鶴居村宮島崎の湿原での雛で、1953年 [追記:1954年が正しい]5月のこと。それから8年間で1万枚にものぼる写真を撮り、中から80枚ほどを選らんで1961年に写真集「丹頂鶴」(北海道新聞社)を出版した。編集後記による 「この写真集は他に類例がないものと確信する」とある。恐らく最初のタンチョウの生態写真集だと思われる。
  中に、1960年に東京で開かれた国際鳥類保護会議(ICBP)でのエクスカーションに参加したD・リプレー会長一行が、道東にタンチョウを訪ねた写真も載っている。余談になるが、同会議の東京招致に一役買ったのが、岩松のタンチョウの写真だったことが紹介されている。
  日本代表の日本鳥類保護連盟理事長山階芳麿博士がリプレー会長の要請でヘルシンキ会議に日本の野鳥の写真を持参したところ、特にタンチョウの写真が会議参加者の目を捉えて日本開催への盛り上がりに繋がり、次回東京誘致が成功したというのだ。
  岩松の写真は、1966年に同じ「丹頂鶴」のタイトルだが、豪華本写真集として雪華社から出版された。1961年出版の写真と重複するが、岩松の大先輩だという島田謹介が写真の選択に協力し、86枚の大型写真が載っている。


余録:私のタンチョウ初シャッター

1960年3月のこと。写真を撮るというより、東京から北海道のどこへ行けばタンチョウが見つかるのか思案していた大学の頃。庭先にツルがくると聞いていた山崎定次郎さん宅を目当てに、釧路駅から雄別炭鉱鉄道に乗り阿寒駅で下車。5万分の1地図を手に歩くこと2時間30分。当てずっぽうで見知らぬ山崎さんを訪ねた。
  そこで、感激のタンチョウ6羽に出会う。雄阿寒岳をバックに、なんとかタンチョウと判別できる(?)白点が、画面に6つ。たった1回シャッターを切った。私個人のタンチョウ写真のルーツとして、佳き思い出の1枚ではある。

2014 JAN.
  
  
タンチョウの舞
撮影 ◆ 佐藤照雄
1978年2月12日
北海道阿寒町

タンチョウ生態写真のルーツ

今年は午年ではあるが、新年そしてお目出度の年明けの気分には、瑞鳥タンチョウが登場すべきだ。白と黒のツートン。カラー写真でもタンチョウは白と黒に写るが、モノクロ写真にはうってつけの被写体ではあるまいか。
  説得力にやや欠ける理屈ではあるが、「今月の1枚」はBPAデータベースから佐藤照雄さんのタンチョウを代表に選らんでご覧いただく。
  清楚な姿で冬を逞しく生きるタンチョウ。そのモノクロ写真は、見る者の想像をカラーの世界へと誘う。そんなところにモノクロの魅力の一つがある。佐藤さんの1枚は、それを余すところなく伝えていると思う。

  タンチョウは、かつては日本各地で見られたという。一時は絶滅したと思われた。1923年にハンター仲間でタンチョウを見たという話しが持ち上がり、北海道庁により棲息が確認されたのは翌1924年のこと。北海道釧路地方の鶴居村はツルアシナエ湿原で、その時僅か10数羽だったという。1935年に天然記念物に指定された。
  地元の農家や関係者の方々の献身的な努力で次第に数が増えていったとはタンチョウ保護の歴史に書き記されているのであるが、写真が撮られたという記録は見あたらないようである。


ルーツはどこに?

さて、今日、北海道はタンチョウの給餌場へ冬季に行けば誰でも写真が撮れるようになったほどのタンチョウであるが、日本で初めて発表された生態写真は、いつ頃のことなのであろうか?
  試みにネットで「タンチョウ 写真」と検索してみたところ、「タンチョウの画像 314,023件」。即座に先を諦めた。アナログ人間にはアナログな探し方が向きであろう、と。めぼしい雑誌、図鑑などを当たってみた。

  私が目にした一番古いタンチョウの写真は、再発見されてから10年後に撮られたもの。1934年12月に、島田謹介によって鶴居村のツルアシナエ原野で3羽が画面に捉えられている。その写真が、清棲幸保「日本鳥類大図鑑」第V巻(大日本雄辯会講談社 1952年)の写真番号609 で紹介されている。
  この写真と、雰囲気や3羽がいる背景の原野の佇まいがよく似ていて、恐らく同じ時に撮られたと判断される別のカットがあった。1935年に巣林書房から刊行された「日本鳥類生態写真図集」p.43 に載っている。島田謹介撮影とある以外に撮影データはない。

  タンチョウ生態写真のルーツは、島田謹介の1934年にあると考えている。


ルーツには違いないが・・・

1936年5月に北海道庁林務課撮影とされる写真「釧路国塘路付近のタンチョウの巣」が、佐藤春雄「タンチョウを護る」(野鳥21(2):24-29)の記事中(p.26) に掲載されていた。巣に残された卵殻が写っているようである。タンチョウそのものではないが、希有な生態写真の一端を成すものであり、年代的にルーツ絡みで特記しておきたい。

  島田が撮影に成功した1934年は、日本野鳥の会が創設された年。会員誌「野鳥」の口絵は、創刊の2年間(第1-2巻)は、下村兼史、清棲幸保、中西悟堂の写真でほとんどが占められていた。タンチョウは登場していない。
  第3巻になってその第4号p.49に、釧路の撮影であるからタンチョウであろう鶴の写真をみつけた。
  写真を撮った筆者、更科源蔵の「釧路湿原の丹頂鶴」の冒頭をまず引用する。「五萬分地圖で見れば造物神(サマイクルカムイ)のぬかった足跡のやうな釧路濕原、この茫々の地にもし丹頂鶴の一羽がゐなかったら、恐らく世界一馬鹿げた荒地であらう。」
  半ページ大の写真のキャプションは「雄阿寒を背景に釧路川淵に遊ぶ鶴」とある。よくよく見ると、白いから鶴であろうと思われる小さな白点が、川辺に3つ(4つ?)。確かに「世界一馬鹿げた荒地」は免れているが、果たしてタンチョウの生態写真と言えるかどうかは一考の余地がある。
  当該雑誌は1936年3月25日印刷製本とあるから、それ以前に更科は撮影していたわけで、推察するに島田のそれと年代的に前後しているころであろう。更科の撮影時の気持が察しられる“鶴のいる写真”ではある。タンチョウ生態写真のルーツの一端として、これも記録にとどめるべきであろう。

  因みに、「野鳥」誌は、1944年9月の第11巻第2号をもって一端終刊となる。創刊以来それまでの10年間、口絵に野生のタンチョウの生態写真は載っていないと思える。

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