暑中のお見舞いに
夏にはなるべく涼しそうな雰囲気の写真を選ぶよう心掛けてはいる。猛暑に写真を見ただけで涼しげになろうとはムシが良すぎるというものの、「今月の1枚」をご覧ください。急流の上に架かっていて頼りなさそうなもの、人が渡っているから吊り橋とわかる。眺め直してご想像ください。
恐怖感が頂点となってくる、行くも返すもならないあたりで渡っている人が、この写真をバード・フォト・アーカイブスにご提供くださった鈴木邦彦さん。送られてきた写真説明以上に迫力あるリライトが可能な能力を、私は持ち合わせません。お許しを得て、ご本人の説明文を原文のまま次に引用させていただきます。
鈴木さんの心境や・・・
『これは、昭和27年 (1952) の写真ですが、大町の西、後立山の南端に 針の木岳と言ふ山があって、その大町側に針ノ木峠、それを越すと黒部川の側に降りられました。 それで出逢ふ黒部川に 針金と薪ざっぽうで出来た吊り橋がありました。 そこを「平の渡し」 と称して、僕が日本を出る頃までは、あの近所で黒部川を立山の側へ越す、唯一の場所でした。
恐ろしい吊り橋で 勿論1人づつしか渡れない、ご覧のやうに、万一、橋が壊れたり、足を踏み外したりして、落っこちたら一巻の終り、でした。
この写真で、対岸が五色が原 (立山)側、こちら側が 針の木 (大町) 側、渡ってゐるのは僕です。 この辺りは、今は完全にダムの底、話によると 遊覧船みたいな船で反対側へ渡れるとのことです。 僕は黒部ダムを見たことが無いのですが、見たいとも思ひません。』
百聞は一見にしかず
写真は、鈴木さんが東大生教養2年の夏休みに、植物の先生と「植物採集」に名を借りて遊びに行った時のことだそうだ。私にも、一人一人渡る吊り橋で足下がすくんだ遠い思い出はある。渡るときの恐ろしさはさておき、事故が起きたら責任の所在はどこに?などと言ってもいられない、そんな吊り橋が昔は現に存在していたことに、改めて感心しています。
かつては日常でこんな命がけの吊り橋があったのでした。
BPAフォトグラファーズ ティータイム:鈴木邦彦さん
「今月の1枚」が撮られた2年後の1954年3月21日、日本野鳥の会東京支部再発足第一回会合の記念集合写真に、詰め襟姿の中学生だった私が大学生の鈴木さんと共に写っている。いや、大昔の話。
その懐かしい写真は、アノ吊り橋がまだ黒部川に架かっていた1960年に鈴木さんが渡米され、48年を経て2008年に帰国された後に、もろもろのアーカイブス級写真と共にバード・フォト・アーカイブスにご提供いただいた貴重な写真の中の1枚である。ご縁とは有り難きもの。
大学を1962年に卒業し追っかけ渡米した私は、大学院生活をミシガン大学で送っていた。語学不足で授業もペーパーも期末テストもアップアプの日々、先に渡米された鈴木さんが陸続きにおられることなどは、まったく失念していたのであった。アメリカで共にバードウオッチングのひとときが持てなかったことを、いまだに悔やんでいるのです。
鈴木さんが帰国されたのを知ったのは、2008年に日本学士院会員となられたときの新聞報道でした。米国ノースカロライナ大学神経内科・精神科名誉教授、同大学神経科学研究センター名誉センター長とあったのです。小柄で笑顔の似合う鳥好きの山男。私にはそれだけの印象しかなかったので、ご専門が知れて感銘深いものがありました。
どんなに偉くなられても歳月が過ぎようとも、バードウオッチングのご縁は途切れないのが有り難くも嬉しいところ。鈴木さんがとある野鳥写真展をご覧になられたのがきっかけで、2011年6月6日に半世紀余ぶりに電話でお話できたのでした。
私自身が後期高齢者に近づいていたのに、昔ながらに“洋ちゃん”と呼んでくださる間柄に、身分の違いや時の隔たりは感じられなかったのでした。二人して超ご無沙汰を一気に飛び越えていたのです。
年をとっても 鳥仲間は鳥仲間
それなら鈴木邦彦さんを知る鳥見人OB会を開こうということになった。その年7月2日上野池之端の料理屋に集まったのは、その時すでに引退気味のかつての古強者たち。お名前を勝手にここに列記してもお困りになるような軟弱な方々ではあるまいとの、私の判断。「もう、とっくに死んだと思ってた人がまだ生きてたんだ、なんて気付く人がゐるかも?」とは、鈴木さんからのアドバイス。出席者は、岡田泰明、笹川昭雄、志水清孝、鈴木邦彦、鈴木孝夫、中坪禮治の諸氏、それに私の7人。平均年齢79.40歳。侃々諤々、昔話に終始したのは歴史的な出来事?であった。
半世紀ぶりの再会を果たした面々のボルテージは上がりっぱなしで、どうして文字にして残すのが憚れるような古(いにしえ)の“秘話裏話”が続出。中西悟堂先生の話題も例外ではなかったほど。
「ボクは録音されて困るようなことは喋らないから」とかのご発言もどこへやら、この機に話さずにはいられようかとばかりの会話の総てが録音されたハズでした。ところが、張り切ってテレコを新調しボランティアした録音係の“キヨタカ”(私の高校生の同級で以来鳥仲間の慶大名誉教授。共に“若輩モノ”で当日の幹事役であった)が最新のデジタルなメカに追いつけず、パソコンで再生するあたりで気がついたら消去していて、一巻の終わり。
とばかり、今日の今まで私は思い込んでいた。なんと、3時間5分余の録音コピーが鈴木さんのコンピューターになぜか保存されていることが、はからずも判明。このあたりは、鈴木さんの記録保存の完璧癖、なんでも“とっとく魔”の一端がよくわかる一事ではあった。
この記念録音は、存在することに意義アリということになりましょう。出席者にはアノ日の語らいが脳裏に焼きつけられ、生涯の型破りな思い出となっているに違いありません。
限りなき知力体力
医者にはなぜか多才多趣味な方をお見受けするが、鈴木さんもその例にもれず、学生時代には東大医学部の山岳部に所属しておられた。84歳の今でも、ご自宅のマンション31階まで階段を登って山歩きのトレーニングをされているとか。今年の1月には、ニュージーランド南島の南端、「世界で最も美しい散策路」などと評されるミルフォードトラックのトレッキングに出かけられたと聞かされた。トシを考慮してこれ以上待ったら時間切れになるからと殊勝な決心?で行かれたそのトレッキングは、なんとトータル55キロで山道を4日で完歩したとのこと。拙宅のある9階までエレベーターを使ってラクをし、近所を運動がてらたまに1万歩ほど歩いて得意ヅラをしているず〜っと年下の私は、どうしたらよいというのだっ・・・。
バードウオッチングや写真など自然相手の活動は登山と共にとは言いようであるが、他に能楽、現代音楽、文学など、どこから時間を作って楽しんでおられるのか、私にはまったく理解しかねている。
鈴木さんは超人なのである。
最近感激したこと
「今月の1枚」に関連して、その同じ写真と鈴木さんの一文が「信濃木崎夏期大学百年誌」(同誌編纂委員会(編) 2016年8月 北安曇教育会 (非売品))に載っていると、ご一報いただいた。お陰さまで私は図らずも、長野は木崎湖畔で戦時中も一度も中断することなく今年で100年を迎えた信濃木崎夏期大学なるものの存在を知ったのであった。
畳敷きの大広間で講義された鈴木さんの言葉をお借りすれば、同大学では「学び」の本質を追い求め、単に「役に立つこと、得になること」ではなく、損得を度外視した「何か新しいことを学びたい」という熱気に溢れているそうです。そこに私は、日本の将来社会や自然環境の保全に希望のような清々しいものを感じたのです。久しく巡り会わなかった少なからぬ感動でした。
バード・フォト・アーカイブスの話題からはかけ離れましたが、100年も続くそのような大学があることを、鈴木さんのお陰で知ったことをお伝えしたかったのでした。
ご縁は続く
鈴木さん、私は鈴木さんから得るものばかりで何もお返しできませんが、戦争体験から日本社会の現状をみてその将来を案じられる鈴木さんのお考えには、密かに拍手を送っています。ご経験やお考になるところを、実直で明瞭に表現される<旧仮名遣ひの>文章で纏め、後世に繋いでいかれることを願ってやみません。
古い写真でも、“とっとく魔”の鈴木さん、さすが肝心のデータがきっちり記録され、きちんと整理保存されていて、感激ものです。アーカイブス写真のさらなるご提供も、厚かましくどうぞよろしくお願いいたします。
今では平均年齢80歳超の“七人の鳥侍”、どなたも簡単にはくたばらないと思いますので、また鳥見人OB会で集いましょう!