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2007.12.30.カミさんのティータイム乗り物あれこれ

 大小とわず、乗物が好きだ。三輪車から飛行機まで動くものならなんでもよろしい。乗物の規模に対応して景色が動く。スピードにおおじて体にかかる圧力が変わる。などなど小難しいことを書きならべたが、ようするに他愛なくウハウハできるからだ。車の運転をすることよりもぼーっと助士席に座っている方が、夜行列車は特上のロイヤルルームを想像している方が、自転車も長い髪を風にたなびかせて高原を走りぬけている方が、考えるだけで腰を抜かしそうに嬉しいのだ。(もっとも自転車は実は乗れない。30歳ごろ闇稽古を始めたのだが、コケてばかりで実に面白くない。という訳でとっとと止めてしまった。)

 居眠運転はいけない。やるなら誰もいないところで、同乗者なしでひっそりやらねばならない。ところがその居眠り運転、セスナの運転手がこの離れ技をやってのけた。先月グランドキャニオンの話をしたが、有名どころのためいくつか話を頂戴した。そのひとつ。
 “フゥワー、ファ、ファ”などととても唄とは思えぬ調子で20人ほどのお客をのせたセスナ運転手の、鼻歌がとまっていた。「ね、寝てる?」驚いた。思わず声にだしていた。ほかに日本人観光客が乗っていたので、“起こせ”コールに励まされ、背中をどんどん叩いた。彼女のすぐ前が運転席だったのだ。“おー”といって、パイロットは目を覚ました。結局“オイラ、寝ちゃったぜっ”と平然としていたようだ。ほんのわずかな時間だろうと思うが、セスナの居眠り運転なんて聞いたことがない。
 帰りぎわに“サービス”などと言ってのけ、急旋回。大きな拍手がわいたそうな。あきらかに、日本人は居眠り運転の危険から開放され“命があった”の拍手。何が起きたかわからない外人さんは「いやーぁ、面白かった。」拍手の内容は大きく違ったが。今から14年前の事だったという。

 私もかつてオーストラリアでセスナ風なものに乗った。シドニーとロードハウという島を往復しているものだ。確か11名ほど乗っていた。空港で重量検査があるのだが、この際荷物、手荷物、身体と大きな重量計に乗り、数字を出す。合計の重さで乗る、乗れないが決定される訳だ。(大デブはどうするのだろう。他の人が一人放りだされるのだろうか)そして出発。機内に入ると機長は、大きな名刺入れような(輸入文具店にある一本の軸でぐるぐる回る機種)のマニュアルを見る。そして離陸。
 フワーと機体が浮いたと思ったら、天井から酸素マスクが降ってきた。なんじゃこれは、などと思って周りを見れば、しごく普通の顔をしておもむろに丸めてしまっている。ふーん、と思い私も他人のマネをした。誰も声などださない。これは説明なしの機内訓練か、あるいは単なる事故なのかいまだわかっていない。
 しばらくするとお茶の時間となった。機長が片手でハンドルを持ち、片手でお茶を入れようとする。すると最前列の客が手つだうのだ。Tea or coffee? などと選択させ、チョコレートと一緒に後ろへと手送りする。いやはやなんとも・・・。
 しかしこの小型ヒコーキはすばらしかった。帰りの飛行機の助士席が空いていた。夫は機長となにやらモニャモニャ話しているうちにOKとのこと。帰りのからっぽの助士席は私がのってきた。(写真は20年以上前のもの。あぁ、恥ずかしぃ。)

 さて、来年からはこのロードハウアイランドのお話でもしよう、かっ。(塚本和江記)

2007.12.20.何たる記憶――ユルリ島燈台その後談

 私の出先まで追っかけてきた電話、MHさんの声があった。過日、ユルリ島の燈台の一件(前回参照)を、再度確認してくれたのだった。
 「あ、済みません。ユルリ燈台が1940年に点灯したと言ったのはカスレ文字を私が読み違えたもので、よくよく見たら“1960年点灯”が正しかったんです。」
 「え、え?」
 「ですから、塚本さんが行かれた1959年には燈台はなかったハズで・・・」
 「ほぉりゃ、そうでしたか!」
 一刻も早くにと知らせてくれたのはいかにもMHさんらしいことと感心し、「それ見ろ、オレの記憶も捨てたものではない!」と内心ほくそ笑んだのが同時だった。
 年を重ねると記憶は怪しくなる。思い違いや思い込みも増えてくる。心していても現実には勝てぬ、などと感じ始めていた頃の「ユルリ島燈台事件」は、私にとって脳の老化を踏みとどませるに十分な出来ごとだった。
 MHさんの真面目さに感謝しつつ、前回の“1940年”を“1960年点灯”と訂正させていただく。

 昆布盛の部落に魅かれて、実は翌年の3月にもはるばる東京から訪ねたのだった。その時は、なにごともなかった海が一夜にして岸まで押しよせた流氷で一面の氷原と化けたのだ。都会者のド肝を抜いた。テレビで流氷情報なんかはなかった頃のこと。ユルリ・モユルリ島へは氷づたいに歩いていけそうな気さえした。が、好奇心よりも自然の凄さに圧倒されて、それは思いとどまった。
 その時撮った写真をみると、これまたモユルリ島は全景が写っているものの、ユルリ島はまたも左側半分だった。「燈台事件」の舞台となった右側半分は、どうも撮られたがらないようだ。なぜか私の気持ちが、そうさせていたのかもしれない。(塚本洋三記)

PS:この稿の最後の最後で、モユルリ島全景が写っている名刺版の写真がみつかった。ルーペでよくよくみても、燈台らしい突起物は画像にみつからない。再度私はほくそ笑んだ。
 ささいな話題が二転三転したが、1960年という確実なデータと残されていた一枚のモノクロ写真とで、納得のいく一件落着の運びとはなった。

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2007.11.30.カミさんのティータイムグランドキャニオン

 やっぱり私たち日本人、気合いとか根性とか大好きなのだ。とりわけ年が明ければすぐ箱根駅伝がある。勝っても負けても実力はともあれ「よく気力であそこまで頑張った」と。この傾向、年が食えば食うほどより顕著にでる。お正月はこの人情駅伝によって盛り上がるのだ。
 今回のアメリカ旅行中かくなる根性がうずいたところ、それはグランドキャニオンだった。ここは来訪当時お天気がいまひとつはっきりせず、かといって雨がざーざー降るというほど悪くはない。ウワーとはしゃぐほどではないけれど、さてとここは運が悪かったと言いながらおさらばしようじゃないの、とさっさっと腹をくくるわけにもいかない。ウィンドブレーカーを肩にかけ夜明け前に“朝日絶景ポイント”に行っては見たが、写真で見かけるありがたい日の出は見物できなかった。
 ならばグランドキャニオンのコロラド川で削られたV型絶壁を小型飛行機で入って見物しよう、そうしよう!と言うことになった。
 観光用ヘリの事務所に行った。結構たくさんの人々がウロウロしている。お天気が良くも悪くも、このヘリやセスナで空中散歩をしてみよう、などと考えるのは全く普通である。少なくとも、上からロバにのって谷底まで行きつくツアーや、5日をかけ(6泊だったかも)ボートで川を下るコースに申しこむよりはずっとお気楽に楽しめる。(事実この手のコースあり。日程のため断念、ああ残念)。という訳で航空チケットを手にいれようとしたわけである。ウロウロ。
 “気合い一発”などと小声で唱えていた。ヘリなんてものは有機的根性の産物によりブワーと飛ぶものだ、と思っていたからだ。よほど天気が悪くないのに中止はあり得ないはずと。欠航はなしよと空をみあげて手を組み、係りのお姉さんには媚びた笑顔でせっした。飛ぶであろうヘリには念力をおくりまくった。
 しかし結局ヘリは飛ばず、だった。後で解ったが、このグランドキャニオンの航空ツアーはよく落ちるのだということ。たいして風なしといったお天気でも、谷の奥は大きな風が渦巻いているということだ。根性も気合もあっけなくフラれてしまった。どの初歩的観光客もクリアーできるこのネタをである。
 という訳で巨大なパイ皮をいくえにも重ねたようなこの地は思い出の土地となった。生きているうちにもう一度ここを訪ね、空中散歩や朝日のビューポイントをたずねたい。恥ずかしながら、まるで夢みるおばさんであった。

 行ったことのない地は不思議だ。人力が手を出していない未開の地なぞは、私ごときにはTVでおめにかかるだけなのだが、仮に上手に維持管理をしている国立公園なぞは、ホントにすごいと思う。このグランドキャニオンはしっかりと維持管理され、野生動物も人間もコントロールされている。そのコントロールされているのがわかっていても、人間である私たちは不愉快ではない。勿論、日本と違ってUSAはひろい。比べようもなく広大な土地だ。やはり大きいことはいいことだ。大きいとすべてをのみこんでしまうのか? あるいは小さなことなどどうって事なく過ぎてしまうのだろうか・・・。(塚本和江記)

 私の大学時代の話だが、北海道東部の根室に近く、昆布盛という部落に立ち寄ったことがある。文字通りコンブが狭い浜一杯に干されていた寒村。子供たちがすっ裸で波打ちぎわで遊んでいた。沖に大小のお盆をふせたようなまっ平らな島影が見える。周囲は断崖絶壁。右(南)の大きい島がユルリ島、その北1kmほどの小さい方がモユルリ島と5万分の1の地図で読めた。兄弟のようにならんだユルリ、モユルリというどこか魅かれる名前も気に入った。
 あてもなく部落の1軒の家にころがりこんだのだが、東京から鳥を見にきたという突然現われた男を怪しみもしないで泊めてくれ、ついでのことだとコンブ漁の小舟でモユルリ島へ渡してくれた。まさに古き佳き時代のこと。今日では、ユルリ・モユルリ島は、ともに国設鳥獣保護区(特別保護地区)、海鳥繁殖地として北海道の天然記念物に指定され、渡島が厳しく規制されているところだ。
 島は無人島で海鳥の楽園であった。モユルリ島の崖に立って、北海道で当時ですらほんのわずかしか繁殖していなかったエトピリカを見ることができ、それだけで訪ねた甲斐があったというもの。

 その後十数年たって、道東の主みたいな顔をしているMTさんとユルリ島の話になった。
 「燈台のあたりはよぉ・・・」
 「え、燈台いつ建ったの?」話をさえぎったのは私。
 「いつって、ずっと前からーー」弁の立つMTさんが口ごもる。
 「だって、私が1959年に行った時はなかったよ。島にはモユルリにしか上がらなかったけど、写真撮ってあるもん。まっ平らで燈台も何んもなかったから、確かよ」
 「あれぇ、そうだったかなぁ・・・」さしものMTさんも、私の明言に気持ちがひけた風で、自分の経験をこれっぽっちも疑わなかった私の言いなりに終わった。

 先日、まさに噂のユルリ島でその昔写されたモノクロ写真が、北海道のYFさんからバード・フォト・アーカイブスに送られてきた。近年繁殖個体が日本からいなくなりそうなウミガラスの、しかもコロニーの写真だった。興奮して見ていてふと気になり、鳥の調査で島に1970年頃に上陸したことのある身近なMHさんに燈台のことを確かめてみた。
 「アリャ、燈台あったかな・・・」電話の向こうで気の抜けるような反応。記憶がまったく欠けていて思い出せません、と。 みんな記憶がアヤシイ。コトが起きて突然“記憶がなくなる”政治家と違って、正直者の年配バードウォッチャーはどうもほんとに記憶があいまいなようだ。
 「だって、まっ平らな島に燈台があれば、見たくなくたって見えたんじゃないの?」
 ほとんど決定的な私のダメ押しだった。やっぱり燈台はなかったのだ。私の現地の印象と自ら撮った写真での記憶は、MHさんや地元のMTさんのより正しかったと結論づけた。

 翌日、メールが届いた。「国土地理院の2万5千分の1を検索したら、燈台は島の南西寄り、崖からは少し離れていて、43.1mの三角点の僅かに南にあるようです。昆布盛から見るとかなり右に寄っているはずです。」 さらに「根室市の年表では1940年に点灯した」と。マジメなMTさんは早速ネットで調べてくれたのだ。
 私は完全にヘコンダ。しかし・・・それでも納得しかねた。私の記憶が正しくないとしても、1959年の写真は真実を語るハズだ。ところがなんと、捜し出した数枚のキャビネ版写真には、モユルリ島は全景が撮れていても、ユルリ島は左半分しか写っていない・・・ “昆布盛から見るとかなり右に寄っているはず”の燈台は確かめようがない。
 参った。ユルリ・モユルリ島は昆布盛の沖3kmとあるから、現場でそうと気にして見なければ私の視野にはいってこなかったようだ。ユルリの全景を撮ったと思っていたのも記憶違いであったのだ。なんたる記憶。
 私は確信した。事件の証人になんか絶対になれない、と。(塚本洋三記)

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2007.11.30.何たる記憶――ユルリ島燈台の思い違い

2007.11.1.カミさんのティータイムあまりに大きいパンケーキ、ほか

 田舎都会にかかわらず、USAの外食産業(?)の量が半端じゃない。一人前のだされる食事量がものすごい。少し冷静になって考えれば、まったくもともな話なのだ。こちとら40キロあたりをふらふらしているのと、100キロをこえるドンとした体つきとを比べれば、その量、倍はこえてしまうはずだ。旅行者たるもの、その土地で簡単に入手できたものを胃袋におさめる。それは大とか小とか選べないかぎりアメリカ人の普通サイズなのだ。
 ソルトレイクへ向かう田舎ハイウェイの交差点際に、ベローンと大きなパンケーキを出す店があった。ブツブツの、例の酸味のあるブルーベリーがそば粉入りの生地にまぜられ、それは日本で目にする紫色のソースをかけて一丁あがりという簡単なものではなく、しっかりしたパンケーキ屋なのである。
 旅行雑誌に書いてあった。ああいった類の情報はあたりもあればハズレもある。ハズされるのを覚悟でそういった情報に踊らされるわけである。三ツ星レストラン情報ではないので、つまり私ども貧乏人相手なので重要度も低いが、やはり知らない土地なので多少なりとも信じようとしてしまう。
 ここのパンケーキは美味かった。ブツブツパンケーキの横にベーコンの焼いたのが2,3枚ならべてある。妙に焦げていたのが気にはなるが、どうもこれがアメリカンスタイルらしい。あのブツブツパンケーキを3口食し、カリカリベーコン少々口にする。これが絶妙なコンビネーションなわけだ。しかししょっぱいベーコンはあっという間に消える。それほどパンケーキの量が多い。最初に目の前に出てきたとき、「うっ!」っと一瞬ひるんだ。お皿に盛られたパンケーキは、圧倒的な量と存在感をお客にあびせていた。
 当然、私たちは残ったパンケーキを持って帰った。亭主と私の残りものを崩れたピザ箱のようなものに“ぐわっと”詰め、意気ようようと店をでた。
 夕方私は小腹をへらしこのテイクアウトを車の中で広げた。そして食べてみた。「まずい・・・。」 あの皿から湯気とともにたちあがるアメリカの勢いはなかった。しばらくし、宿泊場所について「パンケーキどこやった? あれ、あれ」と唱え、夫は例の、残りものテイクアウトを食べだした。もったいないと思ったか、とんでもない勢いでかぶりつきだしたのだ。はて、無理してなのか、ほんとうに美味しかったのか。本人いわく、「旅先ではすべての価値観がかわる。すべては美味くなる。」ともっともらしく語っていた。すっかり残りのパンケーキを平らげのだった。

 アリゾナの空港でのハンバーガーもデカかった。確かキングスバーガーだったと思う。食べても食べても小さくなっていかない。和会席の一人前のお盆の大きさだ。両手で支えながら食べ続けたが、とうとう残してしまった。なんだか惨敗したような気分だった。

 ロスで食べたサラダには驚いた。チーズケーキファクトリーというお店。もうバケツにたんと盛られたサラダを思い浮かべてほしい。サラダボールを二まわりほど大きくし、高さを深くしたものをしばらく待たされたのち目の前におかれた。これは一人前なのだ。腹がへっていたので驚きはしたものの、中腰になりそのバケツサラダをいただいた。
 “どうだ、日本人おなごの心いきを見よっ”などと心の中で言っていた。誰も気にしてはくれなかった・・・が。

 アメリカ産の人間はもちろんのこと、動物や鳥、そこかしこのものまで大食漢なのであろうか。なんたって、びっくりスケールの食体験であった。(塚本和江記)

2007.10.30. 南硫黄島の天辺へ

 1982年、あの島は夢でみたのだったのか?
 東京を南へ約1300km、絶海の孤島、南硫黄島に上陸した。灼熱酷暑と体力勝負の原生自然環境の野外調査。海岸から山頂への登攀は、45度の平均斜度。出発前に懸垂下降やユマーリングの特訓をうけたものの、そんなオソロシイ山登りを無人島で味わうのは予想以上のことであった。強烈な体験だった。
 今年6月に東京都と首都大学東京による学術調査隊23人が四半世紀振りに同島へ上陸したのを機に、古いスライドを棚から引っ張りだした。
 夢ではなかった。

海抜0mからの登攀

 礫と巨岩の巾狭い海岸から、ユマーリングで登頂開始。覚悟をしていたいきなりの垂直の岸壁は、さらにハシゴのご厄介だ。コルまでの急斜面の全ルートは、ルート工作班が固定したザイルが頼り。一人ひとり自らを確保しての汗だくの一歩一歩、急斜面は天をめざす心地。最初の頂上アタックでは、標高500mのコルに到着するまで6時間を費やした。その間も調査は続く。両手がふさがりノートはとれない。胸ポケットのマイクロコーダーに音声記録する。
 ルート沿いで抱卵して逃げないアカオネッタイチョウや樹林帯に入ってのアカガシラカラスバトなどの出現に、しばし疲れを忘れようとする。が、この暑さと疲労はなんなのだ。
 コル周辺のコブガシの林は、夜ともなると海から帰巣したシロハラミズナギドリの大喧騒で谷中が唸るよう。コルからの先で初めて見る雲霧林に魅せられる。あえぎ、稜線にとっついて、直登。

▲ 916mの山頂

 思わないことが起きた。巣穴近くでウミツバメの仲間と思われるダウンの雛がみつかった。これは何としても親鳥を確認しなければならぬ。山頂でのビバーク許可を隊長に無線要請、OKとなる。哺乳類班、ルート工作班と鳥類班の私の3人が、下山組みを見送った。
 暗くなり、特異な声をだしながら山頂近くを乱舞しはじめたのは、ウミツバメの仲間。半端な数ではない。ボトボト地面に落ちてくる。巣穴に帰るのか。立っている私にぶつかって難なく捕らえられるのも。懐中電灯の明かりに、クロウミツバメと識別する。クロウミツバメなのだ!
 北硫黄島で繁殖すると記録のあるのに次ぐ2番目の繁殖地の発見であった。最高地点での最高の一夜であった。(塚本洋三記)

 おおげさに言えば、1936年に次ぐ有史以来2度目の登頂成功。私(左から2人目)を含めたこの日(6月16日)の登頂メンバーでほぼ一杯の山頂には、ハチジョウススキが生えていた。ここより高いところはない。一望はるかの太平洋の眺めは、雄大壮快の一語。
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2007.9.30.カミさんのティータイムLAガンクラブ

 都市部に入って、つまりLos Angeles に入ってレンタカーを変えた。いままで乗っていたのより幾分広く、おまけに乗り心地がよろしい。最近では”TOYOTA “とか”HONDA”とかいうけれど、旅行者にはやっぱりアメ車だ。こんな機会じゃないと“ビバリーヒルズ”“ベニスビーチ”とかを乗り回せない。
 少々大きな気分で車を走らせた。ロスの中は日本に比べ道幅も広いし、けっつこういい気分よね、などと思い信号で止まる。ふと隣を見る。するとロス警察のパトカーが止まっている。二人のポリスが無愛想に座っている。仕事中だから当たり前か。しかし驚いたことにその体格の立派さである。まぁ、よくもこんな巨大なポリスユニホームがあるのかと感心したり、怖くなったり。アメ車がデカイのはこういう訳があったからか・・・などと、そんな思いを背中にのせて街を走れば、またパトカーが巨大な二人のポリスを乗せ信号待ちをしている。無論さきほどとは人物が違う。
 私はじっと見ていた。事件なんか起こっていないのだから静かにしている。と、その瞬間片割れのポリスが私を見た。目があってしまった。“う、うわっ”と意味なく動揺してしまう。相手がでかいというだけで、こんなにも血圧が上がってしまうのか・・・。

 ダウンタウンのはずれ、ひとけはあまりない。倉庫がならんでいる。LAガンクラブをめざす。スプレー式で絵や猥褻な言葉がかかれ妙にぶっそうなところだ。(私たちが行ったときにはだ。最近の事情がよくわかっていないので、はずしたら、ゴメンである。)
 ガンクラブに入った。“ざぁー”と説明された。そして、オーダーした拳銃をうけとった。なにも知識がないので、日本のおまわりさんが所持している、例の銀色の銃を発注したのだ。
 実際に射的する場の扉を押した。ものすごい。“音”がものすごいのだ。映画では、もっとも何の映画か忘れたが、ヘッドホン型の耳せんをしていたがあれはホントだ。とてもじゃないが、はだか耳ではいられない。耳せんをつけて再びである。
 実弾をこめて持ってみる。はて、どうしたものか。言うに言われぬ緊張。思うに今まで私は実弾は勿論、おもちゃでさえ手にしたことなどなかった。それをロスに来たからと言って、突然に誰も教えてもらえずに「さあ、やってごらん。」とこのありさまだ。事故がおきたらどうするの? さかさまにうったらどうなるわけ? 目の前にたちふさがる◎を見ながら、さまざまな景色が一瞬にうかぶ。ニュースの一場面、おちゃらかしの映画、貧乏性か感受性が豊かなのか、うんざりするほど早いスピードでコマ落としのように非情な場面が動いてゆく。
 目標までは25ヤード(50ヤードを選ぶこともできる)、つまり22.86メートル。3発、私はゆっくりと引き金をひいていた。わずかに震えていたようだ。
 しかし一発、一発と落ち着き、慣れてくると妙に集中し、あげく面白くなってくる。今度はそれが恐ろしい。つまり恐ろしかったのは、あっという間にとりこになってしまうことだ。銃のもつ威力? バイオレンスの力? ものの数分で自分の中に二つの自分の姿をつきつけられた。善者と悪者。哲学的な問題が降ってきた。しかしその問題は、“あらよっと”とびこえてしまった。なんと知恵のない乗り越えかただ。
 LAに住む人々は日夜こんな思いをしているのか。それはそれで怖いことなのだが。

 PS:掲載した写真はその時のもの。人型をした迫力ある?標的もあったが、どうもボロになって捨ててしまったらしく、見当たらぬ。恥ずかしながら亭主と私の二枚をならべた。夫はこの時マグナム連発銃だった。インストラクターも目をむく夫のうまさ。私はなんだかちょとくやしい。(塚本和江記)

2007.9.25.中秋の名月に
 十五夜お月さんはひときわ美しかった。
 前日に、Sさんから送られてきた1本に、一筆の添え書き。「月夜うさぎを傍らに 奥様の顔をながめながら 満月をお楽しみ下さいませ。」 月夜うさぎとは、清酒の銘柄。我が家のベランダからの軟弱なお月見に、これ以上のことを望んではバチがあたる。

 アポロ13号で飛んだ人間が月面を歩いてしまってから、子供心に在った“月に兎”の影は薄らいだ。科学技術の進歩で、ひとつのロマンが失われてしまった。どこかで新たなロマンがうまれるのだろう。だが、はたして“月に餅をつく兎”のような永遠のものかと思われるロマンが、生れでてくるものなるや。
 兎のいない満月は、しかし静かに美しい。

 月夜に飲む酒は日本酒に限る。型にはまった酒飲みの精神性に素直に従う。飲みながら、The Photo「今月の一枚」に登場願った吉田元さんを思い出す。無類の酒好きだったと聞く。新宿の「用心棒」というバーでよく飲んでは写真談義に夜を明かしていたと。そんなひとときを共有できなかったことが、今更のごとく残念に思えてくる。
 吉田さんが鳥の師と仰ぎ、私のモノクロ野鳥写真の原点でもある日本の野鳥生態写真家、下村兼史も酒飲み、いやどうも大酒飲みだったらしい。酒を飲めば吉田さんや下村兼史のような傑作が撮れるものなら、私もおおいに呑まねばなるまい。

 スチールカメラで撮っていた吉田さんではあったが、1956年に『白い風土』で脚本・演出をされている。日本テレビで当時評判となったドキュメンタリー30分番組「ノンフィクション劇場」でのこと。大島渚など一流人が指名されて独自に制作する一人に選ばれたのだ。それを知ったのは後のことで、『白い風土』はビデオで拝見した。厳冬極寒の西別原野での馬と牧場の生活を淡々と描く。それが名状し難い緊張感で最後まで目が離せなかった。吉田さんの別の顔を発見した。
 字幕には、“脚本・演出 周はじめ”とあった。周さんでも吉田さんでも、才能は隠しえないのだ。

 吉田さんが亡くなってもう2年半も経つ。昨年2冊の写真集『神々の残映』『北回帰線の北』が冬青社から上梓された。これには感激した。『日本フォトコンテスト』2006年12月号で“知られざる写真作家「吉田元」”が語られ、その作品が11枚にわたって紹介されている。
 モノクロ写真をかく撮りたいと私にはムリな願いとは知りつつ、作品を眺める。酔いがまわるにつれ、オレにも似たようなものが撮れはしまいかと・・・それはないな。

 吉田さんの骨は、写真集の舞台となった沖縄は八重山諸島の黒島沖を海流にのっていったと奥様から伺った。ご本人の希望通り、10月(18日)の“ミーニシ(新北風)の吹くころ”好きな季節だったという。地球が墓場になり、好きなときに世界中に出かけているにちがいない。
 「おっ、ひょっとしてベランダの鉢植えの向うにいるんかい。吉田さんもよ〜くご存知だった方からいただいた酒だ、遠慮はいらんのだよ。」

 うまい酒。よき友。名月。月は誰がどこにいても見られる。当たり前にすてきなことだ。
 夜は更ける。明ければ私の誕生日。いつのまにやら私はGさんの域。呑んでばかりもいられまいか。

 PS:写真の月は、気をとりなおして翌26日に撮ったものです。(塚本洋三記)

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2007.8.31. カミさんのティータイムラッキーとアンラッキー

 “自然が相手。多少時間なんかズレるわけ。おおきな気持ちが大切ね”そんな風な言葉は何千回と耳にした。事実私も他人さまにはそう申し上げた。しかし実際わが身にふりかかると、これが結構おもしろくない。自然の話なんてつるりと忘れ、なんだか「ちぇ」という気分なのである。

 ここは世界最強の間欠泉、オールドフェイスフル。USA イエローストーン国立公園の真っ只中、時間がくると噴水のごとくぷわーと温泉を高々と吹き上げる。その様子を見物しようと人が集まってくるわけである。無論私どももその集団の一メンバーである。行けば木造建築で最古のホテルの案内版に、次の噴射が3:40頃と書いてあった。ステキだ。すきっ腹をみたすには沢山の時間だ。ホテルのハンバーガーショップでテイクアウトにしてもらい、巨大なホテルのロビーでかじりついた。ふーっ、まんぷく。
 3:30、さてと巨大噴射を見に行こう!と、のこのこ案内板に従っていけば、なにやら人々が帰ってくるではないか。すっきりさわやか、個々に笑みをたたえながら帰ってくる。そっ、そんな馬鹿な。巨大な間欠泉は爆発してしまった、らしい。なんと虚しい。次のおおきな爆発まで、我慢できるか? きっつぱりと“否”と言いたいところだが、要するに時間がないので、サラバというのが現実だった。

 その夜は満月。本当に満月。でかけなければならない。たいがい哺乳類は夜行性である。であるからして、彼らの行動を視察すべく・・・などといったアカデミックな目的はあとで思いついたことだった。公園内のホテルで夕食をすませ車に乗り込んだ。そして走ること暫し。
 「いたっ! 目玉が光った。」夫が低い声で言った。
 ヘッドライトをゆっくりと振った。数万頭のエルクが浮かびあがったのだ。その姿を見た私たちは感激だか興奮だかにとりこまれ、全身総毛だった。そしてエルクは急に明かりをあてられ、少し憮然としたふうに私たちをみている。
 数えることが不可能なエルクの眼がわたしたちを捉える。ヘッドライトを消した。「月に照らされたエルクの群れはそれはそれは美しく」などと有りていの言葉しかみあたらないこのもどかしさ。まるで呪術がそこら一帯を支配しているかのようだ。ただ見る。出会っている。これは超常現象ではないのだ。
 “キュイーーン”巨大な角をもったボスのエルクが鳴く。群れは目の前、数十メートルの道路を横切り、右から左へと流れていく。急ぐ様子もなく前を歩き、いく頭ものエルクが珍しそうに私たちの車をみていく。だからと言って、かれらの方から近づく風もない。
 バッファロウが遠くで吠えている。ブッフフとあたりを震わせて、まるで空気の層が手に触れられそうだ。目も耳も刺激が与えられ、それに呼応しようとしていた。もはや言葉はすっかり消えた。

 旅の途中、大きくはずされ、無論それはソレなのだが、夜には大ラッキーに巡り合う。大きな間欠泉を見そこなったが、満月の夜、数万等のエルクと出あえる、と言った具合に。もし仮にラッキーとアンラッキー、どちらかを選ばなくてはならないのなら、人はどの程度納得してチョイスしていくのだろう。結局はだーれにも答えられない。(塚本和江記)

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2007.8.31. 知らぬが仏、一枚のオリジナルプリント

 我が家の一等地に、一枚のオリジナルプリントが飾られている。
 北極の低い太陽の光が、疾駆する数10頭のカリブーの影を雪原に長く落とす。針葉樹の梢の長い影が調和する。よく見ると、雪上にスノーシューラビットの足跡もわかる。アラスカの野生動物の息吹が、空撮とモノクロならではの魅力で切ないほど研ぎ澄まされた雰囲気を醸しだしている。たまらない眺めだ。

 初めて見たその写真は、50年ほど昔、本屋で立ち読みした「アサヒカメラ」の半ページに載っていたものだ。胸が鳴った。食いいるようにみつめた。一目ぼれした。こんな傑作をキャビネほどの大きさで紹介してはいけない。そう思った。

 次に出会ったのは、ミシガン大学の中央キャンパスにほど近いダウンタウンのこれも本屋だった。“ETERNAL AMERICA”という大判の写真集を繰っていて予期せず目にとびこんできたのだ。見開きいっぱいの例の写真は、キャビネとは比較にならない。惚れなおした。留学生の身だが迷わず大枚をはたく。写真は、YOSHIKAZU SHIRAKAWA、白川義員のものとわかった。

 写真は、本棚に手をのばせばいつでも見られるようになった。ところが、見開きページの境目がひどく鑑賞をさまたげ、私をいらだたせた。
 「よしっ、折り目のない一枚のプリントを手にいれよう。」 外国にいてどう住所を調べたのかは覚えていない。とにかく手紙だ。写真の出会いからミシガンでの再会のこと、折り目のない一枚を生涯の宝にしたいこと、四つ切を希望だが値段次第で小さなプリントを余儀なくされるけど果たしていかほどかなど、連綿と書きつづってエアメールしたのだ。
 ややして件の写真が太い筒で送られてきた。半身半疑だった。どうもサイズが大きい。「先生が半切に伸ばして送るようにとのことで・・・」と書生さんの手紙がそえてあった。「やったぁ!」のである。

 帰国して写友にコトの顛末を話したことがあった。 「え? そんな手紙をほんとうに送ったのか?! 白川先生は気難しい方で知られてるんだっ。」 オリジナルプリントを私がもっていることを羨むどころか、驚きあきれる写友。人間のちっぽけな存在を拒否する壮大無限の宇宙的大自然を撮れば、他の追従をゆるさない写真家とは承知していた。そんな難しい方とは知るよしもなかった。
 実は手紙には一生の宝にしたいので、プリントが変色しないよう水洗いは十二分にして欲しい、先頭に抜けだして走る1頭は構図上きわめて重要と考えるのでカットしないように伸ばして欲しい、モノクロの色調を損なわないよう焼き加減にはくれぐれも配慮していただきたい・・・、今思えばあろうことか私が思いつくかぎりの生意気な注文を気難しいプロへの手紙にしたためたのだった。知らぬが仏であったのだ。

 

 先般、白川義員写真展「世界百名瀑」(8月1日〜13日 松屋銀座)が開かれた。ミーハーGさんよろしくサインをいただいた折に、緊張しながら半世紀も前の手紙の非礼を詫び、今に変わらぬ半切写真のお礼をお伝えした。積年つかえていたものが氷解する思いだった。先生は気難しいどころか笑みさえうかべて話を聞いてくださり、すっかり安堵した私は恥ずかしながら記念のツーショットとなったのである。

 カリブーのオリジナルプリントを見ない日はない。間違ってでもいいから一生に一枚似たものらしきを撮ってみたいと、そんな私の夢のお宝プリントなのである。(塚本洋三記)

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 95マイル。ちょっと切ない数字だ。
 ユタ州のソルトレイクシティからハイウェイに乗り、快適に突っ走っていた時のスピードである。正確にアメリカのハイウェイの制限速度はいかほどのものなのかわかっちゃいない。1マイルはだいたい1.6キロメートル。ということは時速152キロメートルということになる。これは、まっ、けっこう早い。正直、ずるりと周りの車は抜いていた。鼻歌まじり風に走っていたら、パトロールカーが右左のヘッドライトを交互に点滅させて、わがレンタカーの後ろについた。運転していたのは、夫。ケチなスピード違反だ。
 私はテンションがあがり、声はださずとも興奮状態。妙にご機嫌でアメリカのおまわりなるものをちょっくら観察しようと視線を飛ばす。ニュースでお馴染みのあのポリス服をきて、頭にはテンガロンハットをのせている。ここら西部じゃこれが決まりなんてことはないだろうに、なんていうイモイモしさだ。彼は笑いながら私らの車に近づいてきた。私はダサいポリスににっこりし、車の扉をあけようとした。すると突然夫が「開けちゃ、だめ」と低い声で言った。なんでまた?
 “無意味に扉を開けて出てはいけない”のだそうだ。“銃でももってると判断されればポリスもコワイ、簡単にブッぱなす”のだそうだ。彼はライフルをかかえていた。勿論、日本人ツーリスト相手にそんな不埒なことをしようなんてことはないとは思うのだが、一度ビビってしまうと、どんな田舎ポリスだって偉そうに見えてしまう。さっきまでの鼻歌はどこかへいってしまった。根性も気もすっかり萎えてしまった私であった。
 結局スピード違反のチケットをライフル片手のポリスに切られた暑〜い昼下がりであった。

 ソルトレイクというのは呼んで字の如し、塩の湖である。ただ白い。そしてしょっぱくって広い。ピリピリ光りそれは雪の白より軽やかだ。そのただ中を私たちはどんどん走る。インターナショナルスピードウェイとやらを目指していた。
 はぁ? いったいなにがどうなると、ここがスピードウェイなのだ。だだっぴろい塩の平原だけなのだ。ちょっとは人が出入りするであろう小屋とか、レースカーが走るであろうまあるいコースめいたものとか、がない。なにひとつない。
 白い世界のまっただなかで車をおりると、何やら細かく黒い虫が塩の上を這いつくばっているのが見える。それも結構な量だ。一緒に行ったメンツはだれも昆虫に詳しい者はいない。うーん、うーんといささか苦悩めいた声をだしながら眺めているだけだった。スピードウェイに細かい虫、なんだかこうUSAを走りまわる私たちのようだった。
 塩の湖と同じ名のソルトレイクシティは美しく穏やかな町だった。日曜日だったせいか“教会にご一緒に”などと声をかけてもらったりもした。ジョークかと思いきや、さにあらず。信じられないような清らかな微笑みだ。あまりのことにコケそうになりながら、事実視線をあわすこともできなかったが、実はまんざらでもなかった。今思い出してもどきどきしてしまう。

 95マイルの続きをひとつ。例のスピード違反の能書きを辞書を片手に帰国の機中で読んだ。こんなもの握りつぶすかどうか考えたが、折角だ、送ることにした。シティバンクで当時100ドルだったと思う。小切手を作りソルトレイクの裁判所に郵送した。小心者のせいか、我々はいまだ犯罪者にはなっていない。(塚本和江記)

2007.7.29. 人差し指のボヤキ

 古今東西、カメラのシャッターを押すのはおおかた人差し指の役目である。いや、二眼レフはもっぱら親指で押していたか。恐らく押される回数を歴史的にくらべれば、人差し指はエライのだ。

 

 8月12日まで、アンリ カルティエ=ブレッソンの写真展が国立近代美術館で開かれている。かのカルティエ=ブレッソンも、物理的には人差し指の動き一つで「決定的瞬間」を撮っていたのだ。
 彼のスゴイところは、などと私がのたまえるどころではないのだが、35mmの小さな画面一杯にこれ以上期待しえないほどの構図で「決める」ことだ。主役の人物と光と影などをくみあわせ、動を瞬時に平面の画像に表現する。カルティエ=ブレッソンの感性のひらめきが人差し指にのりうつり、その時すでに傑作がうまれている。
 かつて私は、一生に一度、間違ってもいいからカルティエ=ブレッソンのような写真を野鳥を被写体にして撮ってもみたいと夢想していた。そんな夢はあきらめたかというと、あきらめ切れない気持ちをひそかに抱いてもいる。だれか野鳥の生態写真を撮る人が私の夢の写真を、つまり、「野鳥生態芸術写真」なるものを撮ってみせてくれないものかと。
 生活、社会、時代を背景に人物や群像を撮ったらピカイチのカルティエ=ブレッソンが、被写体を野鳥にかえたら、おなじように鳥肌立つような写真を撮るのであろうか。撮られてたまるか、野鳥は勝手がちがうハズだ、と強がってみる。それなら野鳥生態写真家が傑作人物写真を撮る心得があるかというと、カルティエ=ブレッソンが野鳥を撮る心得以上にないようにも思える。さてこの勝負、結果がでないことには判定はおあずけということにしておこう。
 実は、「決定的瞬間」で一世を風靡したカルティエ=ブレッソンが、1回の人差し指の動きでいつも傑作をモノしていたかのように思いこんでいた。展覧会の映像コーナーでみた短編のひとつに、35mmベタ焼きをパンし連続して写したコマの中から「選ばれた一枚」をアップでみせるシークエンスがあった。超有名写真作家のいわば裏側を垣間見たおもいであった。5−6カット撮っているなかからコノ1枚を選び世に問う。そのプロセスをもっと克明に描いてほしかった。
 カルティエ=ブレッソンにおいておや、たった1回の人差し指の動きでつねに決定的瞬間の傑作がうまれるわけではないことを知って、内心ホッとしたのである。ホッとしたとてなんになる?・・・ (塚本洋三記)

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2007.7.29. カミさんのティータイム95 Miles

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2007.6.30. カミさんのティータイムナバホ
 時間とはめっぽう不思議なもの。“なにか事”がおきれば、ついこの間と思えるときもあるし、逆に2,3か月しかたってないのに十年たったと思える場合もある。それが楽しいことの場合もあるし、ひどく苦痛のネタのこともある。いったい何故かと問うてみても、もっともらしい答えはない。要するに良くも悪くも“超”がつくクラスのものは、時の間隔を飛び越えて、人生の時間に食い込まれるらしい。
 そんな事を思いながらベランダの窓を大きくあけた。梅雨なのに今年の雨は僅かだ。目の前には隅田川が流れ、その脇を首都高が走る。見慣れた景色だ。しかし今日はいつもと違う景色だった。真っ赤な砂の中を一本の道路が横切り、小虫がはいつくばうかのように土埃をあげて一台の車が走っている。どうやらすべてをふっとばし、記憶は10年以上もさかのぼってしまった。

 空気は乾いているのに重たい。広漠たる原野。ほかに車の気配もない。まるで映画の一場面のようだ。しかし、それはまっこと普段のできごとであって、いつもの様子なのだ。アリゾナに位置しアメリカ最大級のインディアン居留地、ここはナバホだった。
 夜の気配に後押しされながら、ナバホの地にはいった。なんとも広い。めまいがするほどの広大な土地。日本だと中国地方と同じぐらいだという。走って行くとジープが数台とまっている。そこから先はナバホの村の人がジープで案内するという。「ガイドつきジープ散策はいかがかな? 奥までいくよ。」とおやじさんがよってきた。簡単なもんである。私たちはキャッチされ、そそくさとジープに乗り込んだ。
 ゴトゴトゆれながら居留地をさらに中にはいってゆく。道らしい道などない。遠くから見ればお化け煙突3本あり(どうもスリーシスターズと呼ばれる巨岩らしい)、という感じなのだ。おおきな断崖絶壁の台形の岩、途中からぽっきりいってしまいそうな岩、巨大なドーム型の岩、どれをとっても雄大だ。
 ときどき停車しジープからおろしてくれる。映画「駅馬車」とか、さまざまのシーンにつかわれたところであった。“ジョン・フォード監督のポイント”とかいうのだそうだ。そりゃあ見ている。あそこを馬にのったジョン・ウェインが走ったとこだ。ミーハー心理がかきむしられる。
 しかしそんな気分も最初のうちだけだった。次第になんたら岩とか、なんたら映画とかの解説も意味を持たなくなった。時は満月、月明かりはすべてを幻想的にしたてあげている。限りない月あかりの中で、私はいったいなにを求めている? はたして私は何所にいる? これは現実、それとも妄想? 限りないクエスチョンが私をとらえはじめた。
 心に幕をはろうとしているのか、解放しようとしているのか、理解できずにいる。ただ徐々に暗くなってゆく岩と砂の中で、自分も一つの小さな人間岩になっていこうとしている。ほら、手の10本の指がくっつきはじめた。2本の脚は一本の中ぶりの棒になっていく。残すは頭のみ・・・。凛々と輝く月光は魂をてらそうとしているのか。もはや子供のころの本に描かれたように、岩になったのか。風が冷たい。
 心の皮がぺろぺろむけてきた。

 ナバホの地を夫は30年前に訪れている。そして今回この地を訪れたとき深い感慨をうけていた。嬉しいような、そんな馬鹿なという気持ちがまざっていたのだ。居留地をいく1本の細い道路は “当然舗装されているに違いない”と覚悟を決めていたようだ。しかし現実は何一つ手をつけず、先住民としての誇りと哲学をもってこの地を守っていた。その精神に頭がさがる。そして今なおこの赤土のナバホの地が守られている。
 30年前、14年前、今現在、そしてこれから先ずうっと、ナバホの心はうけついでいかれるにちがいない。そう願っている。(塚本和江記)

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2007.6.29. 不思議な気分にさせられたアートプロジェクト

 “象と向かいあって本を読む少年”の画像に目をとめられた方は、少なくあるまい。グレゴリー・コルベールのアートプロジェクト、ashes and snow の真髄を伝える看板写真である。
 先般、そのアート展(3月11日−6月24日)を東京お台場の特設会場で見たのだ。チラシを一見したとき「なんじゃい、これ?」と拒否反応を示したが、これは見なければイカンと思い直してでかけたのだった。
 私の興味は大型写真と映像にあった。作品のどの場面にも驚嘆し妙に魅かれるのに、なぜか気持ちのどこかで反発を覚えたのだ。芸術作品だと絶賛してもおかしくないのに。なんとも名状し難い気分にとらわれた。

 まずパンフレットから引用して紹介しよう: 人間と動物との驚異的な交流の姿を捉えた作品の数々。そこには両者の間に存在する境界線などありません。ashes and snow が構成するこの詩情あふれる芸術作品は、グレゴリー・コルベールによる現在もまだ進行中の・・・写真作品、映画、美術、小説、建築が一体となったアートプロジェクトです。全てのイメージは自然のままで、デジタル加工や合成などは全く行っていません。

 作品を鑑賞しての私の中っ腹は、パンフに書かれていて期待したことが私の早とちりだったことに原因があったのだ。と気づくまでになんと時間がかかったことか。コルベールは“野生もの”を意図していないのに野生っぽく映像展開しているので、誤解した私の自然派魂がちょっと騒いだに過ぎなかったわけだ。そう考えれば合点がいく。
 なるほど作品は「人間と動物との驚異的な“交流”の姿を捉え」てはいるが、「人間と“自然を舞台に生きる野生の”動物との交流」とは言っていない。犬もハムスターもニワトリも出てはこないが。パンフには“野生の顔”がズラリなもので、これを見て動物との交流といえば“自然もの”を期待する自然派としては、“エルザとジョイ・アダムソンの世界”を頭に描くのではなかろうか。そこが早とちりだったのだ。
 コルベールは、人間と“ペットではない、野生の”動物との交流を、檻の中や首輪をつけてではなく“自然”を背景に動きを“拘束することなく”撮っている。それ自体、驚異的なことだ。確かに「全てのイメージは“自然のまま”」であろう。それが私にはニクイのだ。登場する“野生の”動物は、芸術作品のために“馴らされ”、コルベールの“演出”を受け、アーティストの“意図する環境(背景)”で、演技にしてはあまりに見事であるが“演技している”と、はなっから受け取めればよい。そう簡単に受け止められては、今度はコルベール自身が納得しないような気もするのだが。
 さすがに鯨と人間との陸上での交流シーンはないが、闊歩するチータと黙想する人間が、なにも砂の吹き飛ぶ砂丘で? ポツンと所在なげに立つ数頭の象と丸木舟で瞑想する少年が、なぜかスクリーン一面の広大な水面に?「自然のまま」と言われれば、動物たちが棲む場へ人間が訪ね交流するのかと期待してしまう。美しくも稀有なこれら撮影不可能ともとれるシーンに驚嘆しながら、「交流」の場として不自然な“生息環境”に違和感を覚えるのだ。それを言っては作品が成り立たないことも理解できてきたが。

 作品を評価したいのだが、どうもケチが先行して申し訳ない。もう一言。コルベールの写真も映像も、芸術と呼ばれるジャンルに属するには違いない。芸術とは、人それぞれに言いたいことがあろう。私が特に「アリャ〜 芸術性はどこに?」と思ったのは、鯨や象やジュゴンと人間との水中での「交流の舞い」である。
 独特の水中光線をうけ、動物と人間との素晴らしいシーンとスキのないカメラワークの連続。コルベール自身の指先足先まで神経のいきとどいた水泳舞踏の驚異技。コラボする動物たちにも感服。まさに「詩情あふれる」売りの部分なのだ。
 にもかかわらず、芸術鑑賞に不可欠な要素だと考える受け手の“心に響くもの” “感動させるなにか”が、私には伝わってこなかったのである。どうしてだかナゾである。単に私のムシの居どころが悪かっただけなら、救われるのだが。

 つい知りたくなる撮影方法や撮影場所は明らかにされていないが、なにを言おうとコルベールや出演者が撮影のために何十種類もの“野生の”動物たちと共に過ごし感じあい、途方もない時間と忍耐と愛をかけたことは間違いない。そして、地球のあちこちを舞台にしたというこのシリーズに傾注する長年にわたる意志と忍耐とエネルギーとには、敬服するほかない。
 それだけに、猫や馬や犬が相手ではないこの種の「動物と人間の交流」をもって、“地球上の自然や野生動物とふれあうことの大切さ”にすり替えられるような見方がされない努力は続けて欲しい。今、都市の人間が失いかけている自然や野生動物とのきずなとコルベール流の「動物との交流」とは、質的に似て非なるものとの認識が欠かせないと思う。
 これからも制作が続く「動物と人間の交流を描く芸術作品」への割り切ったアプローチと作品の明確な狙いを、次作に期待したいものだ。「自然もの」を目指すのでない限り、デジタル加工や合成技術を駆使してまでも、手法云々を凌駕する前代未聞のこの手の芸術大作を望みたい。
 作品に対して私が自然派志向を捨て、噛まれたらひとたまりもないチータや踏まれたらセンベイにされる象たちと人間が舞台を共有し、感情交流しているかのような稀有なシーンを撮った芸術作品と割り切ってみれば、早とちりに腹立たしい私の気分もおさまるのである。
 けだし異色の大作である。(塚本洋三記)

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2007.5.31.カミさんのティータイムはぐれバフ
 イエローストーン国立公園を走っていた。ここは世界で最初の国立公園として19世紀につくられたものだ。規模も大きく、沢山の間欠泉などで、地球の活動もかいま見せてくれ、野生動物の楽園なのだ。どこを走っていても、すくなくとも、ゴムボートでスネークリバー下りをのぞけば、なのだ。
 道路からちょっと見物できる位置に、エルクがいたりヘラジカがいたとなれば、あっという間に人間や車の渋滞となる。都市部におけるソレとは分けが違う。そら待ってましたとばかりに交通渋滞をたのしんでいる。場所がかわれば価値観がかわる。
 

 その日の渋滞はバッファローであった。ともかく、イエローストーンにはたっぷりいる。大昔、絶滅すんぜんだったのを苦労してよみがえらせたのだ。乾いたバフちゃんの毛、つまり野牛の毛を上半身ぐしょぐしょに生やし、捲き角をはやし(ばかにでかくないのがイイ)、のほほんとしている。色は茶色。脂っけのない毛がなんとも悲しくもあり、愛おしい。そのうえ、可愛いつぶらな瞳がはりついている。つぶらといえば聞こえはよいが、野生動物がつぶらな瞳というのは、甚だあてにならない。そうとう、どう猛なやからですらこの手の眼の持ち主だったりする。この上半身のボリューム感がすごい。パワー炸裂である。
 しかしながら、バッファローの下半身はすこぶるタイトというか、貧層というか、あのたっぷりした上半身とは不釣り合いのしろものである。上半身を覆っていた長くておじょろおじょろした毛は消え失せ、つるりとシェイブされた体毛におおわれている。そして笑っちゃうほどなさけないしっぽを持つ。喧嘩するときは、みょーなバランスのこのシッポをふりかざしながら派手なぶつかりあいをするのだ。その様子はど迫力の中に一点の悲しみが、ポンとしっぽによって表現されているかも、なのだ。
 車からおりた。身近で見た。でかい。ウンコだってデカクてすごい。もっと近くに寄りたいが、すぐそばに“バッファロー接近注意”などとかいてある看板あり。外国人ツーリストは無視してはいけない・・・。やっぱり怖いし、あーでもない、こーでもない、うじうじ。などと思っているうちに、2匹が角と角をぶつけ合いながらのけんかに遭遇。両者からだをひき、2匹の距離がイイ塩梅につくられ、頭から突進して砂埃がもうもうと湧きあがる。私は興奮のおたけびをあげた。この距離で見物できるのはそうはない。
 その日の勝敗はでかい方のバフが負けた。おおむね大きい方が勝つのだが、恐るべしジャパニーズの価値観、柔道だって相撲だって、こぶりの勝利というのがあるのだ。

 どこの世界でもそうだろうが、ここバッファロウーの地域でも大きなチームになじめず一匹でやっていこうといているヤツがいる。ぽつぽつと草を食み、なにか哲学的なことを考えている風である。私はこの“はぐれバフ”に愛すら感じる。ちょと無理があるかもしれないが、両者こたつに入りながらゆっくりしゃべってみたりもしてみたい。「9割がさみしくて1割がごきげんで、それでも1匹でしかやっていけない・・・」あるいは、「生きものは所詮一匹なのさ」と腹をくくっているのか、そんな話なんかをしてみたい。あの強そうなのに、どこかにしっぽの雰囲気をあわせもつ、そんな話をしてみたい、などと考えてしまうのは私だけなのであろうか。
 ああ、“はぐれバフ”よ、一緒にこたつに入ろう。(塚本和江記)

BPA

2007.5.24. 30年振りのアリグモ

 「アリグモがいますけど、塚本さん、ご覧になりますか?」山階鳥類研究所の仲村昇研究員が唐突に声をかけてくれた。彼はいつもそうである。下村兼史のネガの保存整理作業をちょっとほったらかして飛んでいく。なるほど、中庭に面した窓の向う側で垂直にウロウロしているアリのようなクモ一匹。ガラス越しの至近距離である。
 今月のHP「The Photo 今月の一枚」では、高野伸二さんのシマフクロウの写真が、撮影されてから33年ぶりにBIRDER (文一総合出版)6月号と同時公表となった。高野さんに教わったアリグモともなんと30年振りの再会だったのである。アリグモがそれ程に珍しいわけではない。たまたま私が見なかっただけではある。懐かしい思いがこみあげてきた。そして、興味深そうな生きものや書籍などがあると、私の気持ちを読むかのように知らせてくれる仲村さんに、感謝。
 そのアリグモとの出会いを、拙著「東京湾にガンがいた頃」(文一総合出版)から以下に抜粋すると・・・

 [フィールドガイドの]なかから思い出にのこる一冊をえらべば、高野伸二著の『日本の野鳥――野外での見分け方』(小学館、1976)だ。
 “昭和52年9月2日アリグモの日 高野伸二” 表紙をめくって目に入るこのサインはといえば――
 私がアメリカから一時帰国したその年に、鳥友をたずねて一緒にのったタクシーでのできごと。1cmほどもない小さな黒いものを、目ざとくみつけた高野さん。私には1匹のアリだった。と、
 「ほら、アリにそっくりで、動きもアリみたいでしょ。実はクモなもんで、アリグモなんだ。どう? いいでしょ!」メガネの奥の目がおおげさにひらかれて笑っている。なるほど、
 「オレはアリだぞ」とばかりに前足?をアリの触覚のように動かすクモに、私は感心しきり。そのうち、高野さんのネクタイのあたりにいたアリグモの姿は、みえなくなった。
 タクシー内の一件はすっかり忘れていた。数時間後、友人宅でもりあがる鳥談をさえぎった高野さん、
 「どうも耳の中になにかいるな。」あてた懐中電灯の光にさそわれて出てきたのは、おりゃ、なんとアリグモ1匹! ヒッチハイクでの、まさかの再会であった。なんでまた高野さんの耳の中に?! あきれる私たち。ご自身は、まんざらでもないビックリ顔。
 “フィールドガイドの高野”ながら“クモの高野”でも知る人ぞ知る高野さんのクモ念力が、アリグモにふたたび引きあわせてくれたのか。
 おかげで私がおぼえた数少ないクモの1種となって、行きがけに書店でもとめてプレゼントしてくれた『日本の野鳥』におさまったのである。
              (塚本洋三記)

撮影◆國末孝弘
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2007.4.29.カミさんのティータイム
            ハクトウワシ(白頭鷲)の頭は黒かった

 「激流○○下り」とかいかにも笑っちゃいたい文句でツーリストを相手にしている観光会社がどれほどあろうか。恥ずかしながら我ら二人は、かつて最上川下りを試みた。36度と言う異常気温のなか、夫は、おしりから串に刺さったまずい魚(アユだったと思うけど)と缶ビールとを手にして、いそいそ乗り込んだ。真上からダイレクトに日差しがてりつけ、逃げ場はなく、それはそれはひどい目にあった。

 かくの如くぱっとしない目にあっていたのに、USAの「スネークリバー・いかだ下り」なんていう広告につられた。日本での経験なんか“ぷぅ”ととんでいってしまった訳だ。今度こそなのだ。たしか5時間だか6時間コースだかを選んだ。チケットを手に、わくわくすることしきり。“1993年夏”とメモ帳には書いてある。

 スネークリバーはイエローストーン国立公園のなかを走る。発着所に行くと“いかだ”にあらず。どでかいゴムボートにお客10人ほどをのせ、ガイド兼船頭が一人のる。さあ、出発! しかし何事もおこらない。そりゃそうかもしれない・・・。ゴムボートがのらのら動き出すのといっしょに自然が騒ぎだす、なんてとんでもないことが起こるわけではない。そこが素人のおバカさんなものだから、ついつい腹の底で期待してしまっていたらしい。
 最初の期待感は、10、20分程度。そのうち段々のんびり、それでもなにも起こらない川下りは飽きてくる。岸にあがることなどできない。このノリはいったいなんなのだ。1時間もすると退屈なノリが大きな団子となって、ゴムボート上を支配している。なんて退屈なんだ! ああ悶絶!!
 と思っていたやさき、私の苦闘エネルギーがすっとぬけ、なにか違う時の流れにはいったようだった。本当にスゥーという音がしたような、自分の体で開けた、そんな気さえした。そして次の瞬間「ああ、これが自然の流れのサイクルなんだ」と体で理解した。10分も1時間も同じなのだ。仮になにか大きなアクシデントが起きても、自然はそれを飲み込んでしまう。そしてそのまま100年が過ぎてしまう。それが自然の力なのかもしれない。

 ゴムボート下りのさなか、公園のあちこちで見られる呼び物の野生動物は、期待したほどにめぐりあえない。退屈にさらに拍車がかかる。おっと、ようやく左手に大きい鳥が私たちのボートをみすえる。夫は言い放った。「あれ、ハクトウワシ」と。どこも白くない。頭なんか黒いままだ。「ほら、ごらん。若鳥だよ」。2、3羽ほどいたのだろうか、頭はぜんぶ黒いままだ。興奮しそびれてしまった。大きさもほどよく、威張りぐあいも適当であるのに、一番のウリが、つまり頭が白くなかった。

 はずかしながら当方、英語は苦手である。ガイドが皆をのらせる会話などわからない。今思い返せばガイドの話が全然わからなかったために、ひとりあのような思いに浸れた・・・のかも、なのだ。 (塚本和江記)

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 バード・フォト・アーカイブスのオリジナルTシャツ2007に、シロフクロウが登場しました。アメリカはミシガン州北部で30数年前に私が撮った写真がモデルです。
 本物のシロフクロウは金色の眼をしています。Tシャツのシロフクロウは“眼の色を変え”オレンジの稲妻を射ています。
 アートワークはblitz (http://www.bltz.jp/ )の中堅デザイナー國末孝弘さん( LINK参照)。センスの冴えがナミの鳥柄のTシャツとは異なるところにご注目(BPA SHOP参照)。
 日本では稀なシロフクロウが野外でみられたら、バードウォッチャーは恍惚状態になるほどです。フクロウファンならずとも、あこがれのシロフクロウTシャツをお楽しみいただければ嬉しいです。(塚本洋三記)

BPA
2007.4.24.シロフクロウがTシャツに登場

2007.4.3. カミさんのティータイムふしぎな話

 ふしぎな話である。ある日ふっと目の前が暗くなり、病院へかつぎこまれた。顔の右半分が下方に崩れ落ち、右半身がきかない、言うことは唸り声のようなウワウオで言葉にならず、なにがおきたのか覚えてないのである。
 
 脳みその中が爆発した。2月半ばに、脳出血である。確かに血圧も高く、コルステロールもばか高かった。中規模の爆発で、もう2,3ミリの出血の範囲がずれれば、右半分が完全に麻痺したであろうという。
 この症状、確かに改善しているが、なにが残り、なにが消えるのかそうなってみないとわからないとの話。お医者いわく「このくらいですんで、奇跡らしい事がおきたと考えてください」。ふーむ、奇跡かぁ。(救いの主、脳外科医のしのだ先生、度肝をぬかれながら看病してくれた夫に、心からありがとう。)
 後遺症は残っている。リハビリに通って計算問題をやってみたり、読ませるべく日記を書いてみたり。右手が上手く使えない。ちょっとおバカになったみたい。なんとも切ないが、やっぱりキ・セ・キなのだ。

 思えば今年1月17日母が逝った。悲しい悲しいおばばの日から、正味一ヶ月をきっている。通夜も葬式も終えた。人が来ればそれなりに挨拶をし、にっこり笑いもするのだが、やっぱり土台が悲しいものだから、スキを見つけては泣いていた。
 今から10年くらい前、母が肺気腫で入院した。以来、母は家族にて介護される日々。そして今年1月苦しいと言って入院し、10日で逝ってしまった。あっけなかった。母はなにを言いたかったのだろうか。もう少しこの世にいていろいろ経験しなさいと、あるいは、もうイイから一緒にあの世で楽しもうよ、と誘いにきたのだろうか・・・。
 四十九日の納骨の日、私は行かれなかった。入院していたからだ。ベットで寝ながら病院の天井を見ていた。「ぼつぼつ、おばばがお墓に入ったころかなぁ。」などと弔いの気持でいっぱいだった。

 母と子の不思議。親子で在宅酸素をしている。おっと、母は逝ってしまったので“していた”と言う感じか。娘の方はその後2,3年して酸素の機械をしょっている。その上、程度の差でわたしが母を見舞っていた。どちらも鼻にチューブをいれてである。その上、ばばが死んだ日から1ヶ月たらずで脳出血にかかり、脳にたっぷり陰をこさえたままこのホームページを書いている。

 もう一つ不思議なことがある。あまりにひどい喘息発作のあった年、救急車で頻繁に病院に運ばれた年なのだが、可愛がっていた猫が逝った。それは、おばばが最初に入院した年であった。あの猫とは16年いっしょに生きてきた。「申し訳ない」という思いと「ありがとう」と言う思いが、今だ心をとらえている。猫の命日は、私の誕生日だった。
 あの年、母と猫がいなければ、いったいどの命が消えたのだろう。
 本能がわかっているけど、なんだかふしぎな話。(塚本和江記)

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2007.4.2. 身辺雑感

 3月も逃げた。というか、正月は5日まで例年になくひたすらノンビリ過ごしたことに反発するかのように、一生に1度とか1度起きるかどうかということが、1−2度ならず4度も起きてしまったのだ。どれ一つ気が抜けないものだったもので、確定申告や原稿の締め切りを延ばし、はては財団の役員会がコロリと意識からはずれて無断欠席。
 ストレス多く多忙を極める間に、2時間の講演や別の原稿が加わり、さては頼りのコンピューターがダウン。カバが口を開けたように床に置かれたコンピューター本体を覗きこんでは、人生初体験の機能修復作業に1週間余り・・・。
 この2ヵ月半、よくぞわが身がもったものだ・・・偽らざる感想である。

 4月にはいって、ホ〜ッと一息。エイプリルフールの日は、奇跡とも思えるICUから浮世に復帰したカミさんのリハビリをも兼ね、市ヶ谷のお堀っ端の桜満開を愛でる余裕がでてきた。桜の優しい色合いは、なんと穏やかな気分にさせてくれることか。心にもたらす安らぎ感は、この世のものであったのだ。アツアツのタコ焼きも美味しかった。

 このささやかにハッピーな気分も、長くは続きそうにない。マザーボードの交換で結局修理に出したコンピューターが帰宅すれば、さっそく遅れたホームページのアップにとりかからねばなるまい。先延ばしにして積もった雑用の山で、遭難しないようにしよう。   (塚本洋三記)

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2007.3.1. 2月は逃げる
 2月は逃げた。3月に気をとりなおすことにしたい。だが、予定がつまってきて早くも頭がいたいのだ。閑話休題、宇宙のチリほどにもない私、どこへ向かっているのだろう?  (塚本洋三記)

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2007.2. カミさんのティータイム:
 
体調をくずしてお休みをいただきます。どなたさまもどうぞ健康第一に。
2007.2.2. カミさんのティータイム:
          たまごパン、たまごボーロ そしてばば
 若年層には馴染みが薄いたまごパンだが、我々中高年には慣れ親しんだ菓子である。ビスケットとカステラの間くらいの感じ。つまり乾燥したカステラのようなもの。形は丸くたまごを半分に切ったようなものである。近頃とんとお目にかからない。以前はコンビニで、大抵はバナナの隣あたりになんとなく置かれていた。存在価値がいまひとつはっきりしない。
 たまごパンは朝食に便利である。他の菓子パンより日持ちがよろしい。一袋かっておくとけっこう持つ。靴をはきながら、あるいは歩きながら食べられる。これに牛乳でも飲べば万全である。飲み物がないと唾液を吸収して、けっこうつらい。
 女子高生のとき(私にだってこの時代があった、らしい・・・)、遅刻すれすれの日々をおくるなか、朝食にこの手のものを愛していた頃があった。顔を洗う間も、卵かけごはんを食べる時間もなく、ただ玄関から走るのみである。その際、目についた“かわきもの”を手にとる。そして歩きながら口にほうりこむか、学生カバンの横の隙間から中にしまう。それはたまごパン(時々草加せんべいという選択肢もあったが)。アンパンなどあれば、大ごちそうだ。授業が始まる前に朝食としていただく。朝ごはんは抜かない主義であった。
 ある日、かばんを振り回しながら駅から校門まで走った。もはや遅刻か。気づけば、後ろからサラリーマン風の男性が私を追ってくる。全速力で走ってくる。何事か! 男性に追われるなんてすばらしい事がおきているのか。
 とうとう私においつき息を荒げながら、手に持ったたまごパンを目の前にかざした。ただならぬ殺気さえただよわせていた。なんぞ大切なたまごパンと思ったか。私は礼儀ただしくふかぶかとおじぎをして、たまごパンをいただいた。
 その日の朝ごはん用“かわきもの”は随分手前にはいっていた。あまりに急いでいたためだ。モーダッシュの時、鞄を振り回した振動でこぼれ落ちたらしい。このへんてこな話は、捏造(ねつぞう)などではない。いまだよくわからないシーンだ。その後教室で、感謝の気持でいっぱいになりながら、たまごパンを食べたのはいうまでもない。

 

 

 

 年があけ1月半ば、母が逝った。長患いをしていたが、穏やかな美しい顔をしていた。深い悲しみの中、苦しみから開放された母を思い「ばば、バイバイ、もういいのよ。」とさよならのかわりに言った。最後の餞(はなむけ)の言葉だった。
 そう、私の朝ご飯は“かわきもの”だけではない。母の名誉のために書きそえておかねばならない。いつも急ぐわたしのために、母はミルクセーキをつくってくれた。牛乳、たまご、砂糖をシェーカーで攪拌し、大きなグラスにたっぷりそそいでくれた。
 ほんとうに美味しかった。
 そしてもうひとつ思い出。母はたまごボーロが好きだった。左の手のひらに5,6粒ひろげ、右の指でつまんで口にほうりこむ。亡くなる数ヶ月まえ、私の手土産のボーロを、背中をまるめ嬉しそうに食べていた。
 享年78歳。ばば、ありがとね。(塚本和江記)

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2007.2.2. 梅の咲く頃

盆栽の梅が満開である

2日前に わが家では稀なメジロが立ちよった

その時 二三輪がほころびていた

メジロは見向きもせずに立ち去った

鳥来たり、義母逝く

          (塚本洋三記)

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