●●2016 Dec.●●らくがき帖 :新たな"国民の祝日"
年の瀬です。「もう一年経ってしまうのかぁ。早いねぇ、一年経つの。」 例年この頃、お決まりの嘆き節です。「早く来い、来い、お正月」はいざ知らず、時が早く過ぎることでオイシイ話は、ついぞ思い浮かびません。
気がつくのは、社会の動きが早すぎるかも知れないということです。人間、とかく進歩とか便利さとか能率的とか合理的にとか、少しでも早くとか、なんとかかんとかそんな理由で、生活が追い立てられているかのように無意識に世の中を走らされているのではないのかと思います。そんなに日々急ぐのは、何のために? どこに向かって行こうというのでしょう?
たまには立ち止まって、そんなことを考えてみてはどうだろうと思ってしまいます。人間が走る限り、社会が走りつづけます。人間が走るのは性(サガ)なのだと、私は半ば諦めています。それでも諦めきれずに、走らないで済む生活をせめて一年に一日とる一つの提案があります。
手作りな祝日
国民の祝日に、「自然と共にの日」を加えてはどうでしょうか。四季のどの日を祝日とするのかは議論百出しそうですが、私なら新緑薫る6月初旬かな。アイディアとしてこの祝日には、国民誰もができるだけ多くの時間を自然の息吹に触れながら、金を使わないで思い思いに過ごすのです。例えば:
原っぱに寝そべって、青空を眺める
梢をわたる風に耳をかたむける
泥んこになる
川に浮かんだまま、流れにまかせて下っていく
砂浜でウトウトする
Photo by Y. Tsukamoto
一本の樹の枝ぶりを、目で追ってみる
裸足になって土を踏む
地平線の彼方を想像してみる
深呼吸して宇宙を感じる
樹に登る
Photo by Y. Fujioka
虫たちの存在を意識する
樹に寄りかかって居眠りする
1羽の鳥がどこへ行くのか、ついていってみる
見慣れた景色をよくよく見る
夜空に虹が見えないかと、探してみる
Photo by N. Nakayama
なんでもないようなことでも国民の祝日として意識してやってみると、忙しさにかまけて忘れていた考えや視野とか感覚が、自身の中で広がっていくことに気づくと思います。自然とのささやかな対話を体験して、それまでの生活とは違った情感が心に甦るでしょう。
人間らしさを取り戻す日
この祝日ばかりは、オニギリのお弁当とお茶でも野外へ持っていって、できるだけボケーッとしたりして過ごしましょう。退屈してみるのです。また、遊び心で思いついたアイディアを、自然の中でノ〜ンビリと試してみましょう。五感を今一度研ぎ澄ませてみるのです。
まずはこの日、立ち止まってみて、「なんでこんな日が祝日なの?」と疑問を抱いたり、“人間とはなんなのだろう”とややこしいことに思いをいたすところにいきつけば、その一日は、今の忙しい社会に生きて日々走らされている総ての国民にとって、貴重な一日となるハズです。そんなことには金銭的な価値がないと主張される議員さんは、相手にしないことです。金では買えないものが得られる日なればこその、価値ある一日なのです。
新たな祝日は、結果として人間が人間らしく生きることの大切さを再確認する一日になるのです。自分自身を大切にする日でもあります。国民こぞって世の中を見る目がそれまでとは違ってくるなら、私の夢である“自然と共に生きられる社会”の実現にも、希望がもててくるでしょう。
諦めないとき、夢は実現するのです。
来る年もよろしく〜
皆さま、夢のある佳き新年を!
そして、時がゆったりと流れる一年でありますように!
●●2016 Nov.●●らくがき帖 :写真のキャプションに ボヤキ止まず――“鳥島”の一例
生態写真には、タイトル、撮影年月日、撮影場所、撮影者などの撮影に関するデータなどのキャプションが欲しいものです。記録や資料価値として必要なばかりでなく、より巾のある写真の楽しみ方ができるからです。
古い写真では、キャプション情報に疑いの余地があったり、それを検証するのが容易でなかったり、しばしば欠いていたりで、アーカイブス写真を多く扱う私は、きりきり舞いさせられることが間々あります。
そんなわけで、どんな著名な鳥類学者の著書に載っているキャプション情報でも、それが撮影データに関わる限りは私は注意して読むことにしています。他の文献と食い違っていなかなど、一歩退いて読む習慣が身についてしまっているのです。
高名な著者を疑うのではありませんが、キャプション情報そのものを著者がどう集めたのかは知る由もなく、著者が集めた段階ではキャプションの通りであっても、そもそもの情報が間違っていたかも知れないのです。疑っては切りがありませんが、実は疑わざるを得なくなる場合もあるので、悩みは尽きません。
アホウドリの集団繁殖地を撮った1枚のモノクロ写真
この写真は、下記「写真帳 小笠原」より、編者のご厚意で転載させていたいたものです。以下の4つの文献に載っていました。
@内田清之助著の「新編鳥学講話」(1949年 暁書房)のページをパラパラと繰っていたところ、p.170に見覚えのあるこのアホウドリのコロニーの写真が載っているのを見つけたのです。特に写真の説明はなく、キャプションは「鳥島アホウドリ繁殖地 籾山徳太郎氏写真」となっています。
その時は、「ありゃ〜、籾山さん、伊豆諸島の鳥島へも上陸したことあったんだっけ?」と、やや疑いの思いだったのでした。上陸していなければこの写真は撮れなかったので、撮影者が間違って載っていると判断できます。と疑っても、籾山さんが鳥島に上陸したのが事実かどうかを検証するのは、容易なことではないのですが・・・。
ところが、籾山さんがこの写真を撮ったとして、撮るためにはあっちこっちの島に上陸したことになるのです――
A 同じ写真が、倉田洋二編「写真帳 小笠原 発見から戦前まで(改訂版)」(1983年 アボック社)のp.197 に載っていて、キャプションは「北之島には、山頂近くにクロアシアホウドリも生息している。写真では、50羽のアホウドリと10羽のクロアシアホウドリが数えられる。放置されている卵も見える」となっています。
B 同じく、下中彌三郎編輯の「大百科事典」第二十四巻(1933年 平凡社)p.638 の「ムコジマ 聟島」の項に載っていて、本文に写真の説明はなく、キャプションは「聟島の信天翁」だけです。
C 内田清之助著者代表「応用動物図鑑」(1930年 北隆館)のp.265 では、やはり本文に関連した説明はなく、「小笠原西の島アハウドリ繁殖地(籾山徳太郎氏原図)」なのです。
アホウドリにしてみればキャプションに挙げられた4島は一っ飛びの距離にあるのでしょうが、同じ写真なのに撮影地が鳥島、北之島、聟島、西の島と異なっていては、面食らってしまいます。1930年前後に撮られたと思われる写真に関して、どうしたら撮影データの正解が得られるのでしょう? とりつく島がありません。
おおっ この地形は?!
「新編鳥学講話」でモノクロ写真をみつけたのが、2009年6月23日。それより8ヶ月ほど前に、実は私はこのモノクロと超偶然にも同じアングルで撮られたカラー写真に出会っていたのです。
このカラープリントは夏ですので、どのみちアホウドリの1羽も写ってはいません。しかし、いまにもアホウドリが戻ってきそうな雰囲気ではありませんか。モノクロとカラーの2枚の写真の間に、数10年の歳月の隔たりがあるようには思えません。背景の島の輪郭と斜面の感じは、明らかに同じ地形と識別できると思います。
この島は、山階鳥類研究所佐藤文男研究員から、聟島の北西約6kmにある北之島であることが確かめられたのでした。写真は、海鳥繁殖状況調査で上陸した時のご本人が撮影したもので、撮影日は2008年8月22日です。ここに掲載させていただいて、有り難うございます!
離島調査の海鳥男といえば佐藤さんなのですが、件のモノクロ写真をみていただいたのがスンナリと問題解決に繋がったのでした。こんなラッキーなことは、めったにありません。佐藤さん、重ねて感謝、感謝です。
アラカルト
いずれの4島でもかつては、伊豆諸島の鳥島では今も繁殖していますが、アホウドリが分布または繁殖していたのです。キャプションの誤りを多目にみておこうというわけにはいきません。さりとて、筆者等がどこから鳥島、聟島、西の島との情報を得てキャプションに載せたのか、興味本位で知りたいものです。@とCは内田博士が関わっているのに、鳥島や西の島とは、「それはないやね」とついボヤきたくもなるのです。
となると、撮影者が籾山徳太郎となっているのも、疑ってみる必要があるような気になってしまいます。これは、1920年代から1930年代初めに小笠原諸島を鳥類探検調査した籾山の上陸記録が見当たらないので、一筋縄ではいかなくて一頓挫しています。そうとわかっていれば、1950年代に籾山先生等と東京明治神宮で何度も探鳥した際に伺っておくのだったのにと、またもボヤきたくなるのです。
内田博士が件の写真を何故鳥島だと判断したものか、海洋生物学者の倉田洋二先生にかつて電話でボヤいたところ、一笑された即座のお答えは、「海鳥がたくさんいる島はあちこちにあって、みんな“鳥島”ですよ。」いや、海鳥経験豊富な倉田先生の地元眼線のユーモアある見解には、参ったのでした。
同じ鳥島絡みでの撮影データといえば、下村兼史が撮ったとされる巣にいるアホウドリの写真のキャプションも(鳥島)となっています。それを鵜呑みにすれば、「兼史がアホウドリの繁殖地である伊豆諸島の鳥島へ上陸して撮影した」ということになります。どっこい、"鳥島"
はどこも一筋縄ではいかないのです。興味を持たれる方は、こちらをどうぞ!
一つの真実に辿り着くのは、結構大変なことなのです。
●●2016 Oct.●●らくがき帖 :戸惑いを感じた巨大アート
トーマス・ルフ展 東京国立近代美術館 2016年8月30日―11月13日
会場に入っていきなり巨大ポートレートの写真5枚と向き合うことになりました。ポスターにもなっている「売り」の1枚と鑑賞する人とを較べて、その巨大さには納得されると思います。
ふと目にした新聞の写真展紹介欄(読売 9月26日)では、「引き伸ばして巨大なプリントにしたことにより、身近な人たちのポートレートが印象を一変させ、画像情報がアートになった」と。
「現代写真の表現を第一線で牽引する世界的なドイツのアーティスト」の写真とはいえ、そんな簡単に(?!)「アートになる」ものかと、紹介欄のコメントにはいささか懐疑的だった私。この手のものは、私自身の「コノ目」で確かめるしかありません。「圧倒的なスケールを展示室で体感してほしい」とも書かれていたのをまともに受けて、久々に近代美術館へ出掛けたのでした。
巨大アート 初体験
勝手に抱いていた期待感は、すぐに霧散しました。
巨大ポートレートに表現されたありふれた人物写真が「どこか不可解で不可思議な存在にすら見えてくる」と評価されているなら、私にそれを「見る」力量がないのだとすぐに実感できました。「圧倒的なスケール」には、最初の巨大額装写真を見て「これかぁ・・・」(ため息)。代表作の巨大シリーズどれもが、私には感動を味わえるような作品とは受け入れられなかったのです。
ルフ自身がプリントまでを製作したのかどうかは知りませんが、シロウト目にもプリントの仕上がりは素晴らしいと感じました。でも・・・、世界トップクラスの現代アート写真を見ているのに、我ながら不思議なくらい腑抜けた気持ちだったのです。
気がつくと、会場はどこか盛りあがりの雰囲気に欠けているような? ブラブラと作品の前を通り過ぎる人。巨大作品の前で記念写真を撮る人(フラッシュ禁止で撮影は自由)。物見遊山的で、少しは“芸術の秋”らしく振る舞ってよと内心つぶやいたくらいでした。熱心に眺めている人がいると、私のように「悩んでいるのかな」と、まったく余計なことを思ってしまうほど。最後まで集中できませんでした。
以下は、私のつぶやきと反省です。
画像をデジタル加工した写真表現の魅力?
ルフは、自分で撮った写真ばかりでなく、ネット上のデジタル画像を含めてあらゆる写真を素材に用い、「新たな写真表現の可能性を探究している」とのことなのです。作品がここに見えてくるわけではないのですが、展示されていた二三の例を、紹介の言葉をも借りてひと言「描写」すれば:
・数式がつくる3D線形をコンピューター上で再構成し、「奔放な曲線の組み合わせがプリント平面に綾なす惑星の軌道のように見える」作品。
・jpeg のエッジが拡大されるとギザギザになる特性に着目し、写真を素材として「デジタル画像の構造そのものを視覚化」した作品。
・「過去に実在した数人のポートレートをコラージュして1人のポートレートに仕立てた」写真は、「実在しない非現実な人物の写真ながら、1枚の写真としては現実に在る」と、分かったような気にさせられた作品。
ルフの「新たな写真表現の可能性を探究」とは技術的な模索として評価されるべきと思いますが、それは作品になる製作過程の妙であって、どちらかといえばデジタルで思考錯誤する「頭」の作業に思えるのです。
ルフの作品が、「心」の作業を通じて、哲学・人生観・情感とかに自ら衝き動かされ、また心の葛藤なりが反映された芸術表現であるようには、私には感じられなかったのです。そんな芸術表現は現代アートには無用というなら、なにをかいわんやですが。
恐らく「心」のあたりで、私はルフの「アート」作品についていけなかったのです。アナログ人間として育ってきた私の感性が、デジカメとコンピューターを駆使したデジタル加工の「現代アート」を、私のイメージする「芸術」として受け入れ切れていないことがよく分かったのでした。ルフ作品の「巨大」部分は、二の次だったのです。
会場を後にしながら
会場入口で展示されていた額装巨大ポートレートが小さくなってカードに納まっているのを、出口の売店でつくづくと眺めて・・・、さても「アート」とは?
●●2016 Sept.●●らくがき帖 :年寄りな話
敬老の日?
今年も「敬老の日」がめぐってきました。老後のブンザイでお邪魔している某研究所での私よりはるかに若い作業仲間の奥方連中は、国民の祝日でお休みだという認識はあるものの、なにをする日かほとんど理解していないような感じです。
午後のティータイムでのこと、「皆さん、どうも、老人を敬う精神が不足してるんじゃないの〜?」 言外に、ちったぁ年寄りの私を・・・と煙に巻くようなことを言ってからかったりするものの、実は私も休みが1日増える以上に何を祝う日なのか、しかとはわかっていないのです。
喜寿の戒め
そんな私ですが、今月下旬には喜寿となっています。平均寿命は格段に延び、高齢化社会ではどちらを向いても珍しくもない年頃です。「喜寿をお祝いしなくては」と言われても、「誰のこと〜?」みたいな感覚です。老人の自覚なんか持ったら、それこそトシをとりそうです。
「喜寿」は、「喜び言祝ぐ(ことほぐ)」です。ははぁ、「よろこんでいるうちにオメデタクなるトシなり」とも解釈できます?! トシは気にしない方がよいのでしょう。
今月初めに、野鳥関係者で後期高齢者4人での食事会がありました。一杯やって盛りあがったのです。やっぱり気になって、トシを計算してみました。平均年齢、81.75歳。喜寿になる私などは、ハナタレ小僧であることが実に確認できました。
最期まで爽やかに
「塚本さん、体調には気をつけてくださいよ」と最近よく言われます。ボケないで健康にやりたいことをやって最期を迎えたいと願うのは、私とて同じこと。大好きなジンを毎晩チビリと楽しんで、健康維持にコレつとめています。見かけによらず、ちゃんと体調に気を使っているのです。
先日、自動車運転免許の更新をしてきましたが、その前に認知機能検査というものをやらされました。実はカミさんが脳出血のリハビリでやらされていた認知症テストを隣で見ていて、健常者の私がよく答えられなかった残像があり、今回人生初めてのボケ具合の検査はあまり気持ちよいものではありませんでした。幸い、「記憶力・判断力に心配ありません」とのおおらかな検査結果でした。年寄り的言動が最近目立ってくるのは気にせずに、気持ちを若くもって前を向いていくことに決めています♪
ボケてるヒマがないのは 幸せ!
どのみち、私の場合はボケてなんかいられません。2018年秋に開催する下村兼史写真展の実行委員会事務局長をしているもので、写真展開催の準備作業に忙しいからです。もしも私がボケたりクタばってしまったら、それこそ開催がオジャンになりかねません。責任上、2018年まではボケずに元気で仕事をしなければならないのです。
ですから、私はあと少なくとも2年間は死ねないので、写真展が終わるまでは死にませんと宣言しています。お陰さまで、その気が日々私を引っ張ってくれています。
目の前のニンジンは元気の素
アノ世へ逝く前にやることやりたいことは、山ほどあります。写真展が終わったら、アリゾナへ鳥友を訪ねる約束も果たさねばなりません。運転免許更新はそのためのものでしたし、カミさんが遺していった初級英会話のCDを、朝起き抜けの体操のBGMに聞き流したりしているのも、小さなニンジンなのです。
人それぞれですが、目の前に自分でニンジンをぶらさげてみると、結構アノ世が遠慮して、コノ世での残る人生が楽しく思えてきます。
それには健康第一!と、適度な睡眠と美味しいお酒は日々厳守しています。年忘れた風に過ごしているこの頃です。
●●2016 Aug.●●らくがき帖 :あのシダがぐんぐん伸びている!
ご覧の通り、我が家のシダが元気一杯に青々と伸びています。植え替えたままの白い鉢が見えなくなるほど、一抱えもある葉がふっさふっさと育っているのです。ベランダから取り込んで、「はい、ポーズ!」
それだけのことなのですが、実はこのシダ、2013年の夏ごろに近所の花屋で買った時は、小さな葉を3枚つけていただけでした。冬を越し、そのまま次の冬が過ぎても、葉はまったく伸びる気配もなかったのです。枯れないのだから生きているのだろうと思いつつも、あきらめて捨ててしまおうかと一度ならず思ったのでした。しかし、相手は生きものです。辛抱強く毎日水をやり続けたのでした。
シダを元気づける打つ手がないままに、植えかえしてみました。そうしたら、シダは何を思ったのでしょうか、新たな芽を出し葉が育ちはじめたではありませんか。まるで魔法がとけて深い眠りからさめたかのように。その時の写真が、2015 Sept.の「ハプニングの続くシダ」に載っています。
その後も、あれよあれよという間に健康な葉を茂らせ、私を半ばアキレさせ、そして喜ばせてくれています。3枚だった葉が伸び始めてからほぼ1年後の今では、ご覧の通りというわけです。
生きることは 死なないこと
考えたところで考え及ばないのが、生命の不思議です。地球は生命のかたまりです。その中で、あっさりこの世を去るもろい生命があれば、たくましく生きる生命もあり、二冬を越す長い間“死んだふり?”をしていた我が家のシダなんかもいるのです。
人の目には見えませんが、生きる源となる生命力。一つの生命体に宿る底知れない生命力を、シダと共に過ごしてみて実感したのでした。
我が家のシダは恐らく余計なことは考えないで、今日も目一杯生きているのでしょう。生きるも死ぬもままならない人の世に在る我が身を思うにつけ、“気ままに?”生きるシダが、なんとなく羨ましいような。
●●2016 July●●らくがき帖 :WINDOWS10への遠吠え
買い手が望みもしない商品をタダだからといって“買わされていた”とすると、そりゃアタマにきます。許せません。許せないことが私の身に降りかかったのです。皆さんの中にも、私と同じ“犠牲者”になられた方は少なくないことでしょう。WINDOWS 10への「アップグレードのお薦め」のことです。
理解に苦しむ“お薦めの手口”
パソコンを立ちあげるごとに、私のトップ画面に「今すぐアップグレード」か「今晩アップグレード(時刻を指定)」かのどちらかを選ばねばならないかの如きメッセージがでました。お薦めとは名ばかりの、インストールの実行を迫っているとしか思えません。しかも、画面を一見しただけでは断る方法がないかのように思えるのです。期間限定でタダだからといっても、イヤなものは要らない。私はWINDOWS 7で充分だったのでした。
私が出向いている研究所でもWINDOWS 10 がインストールされはしまいかと、朝一の仕事始めでパソコンを立ちあげる際にしばし緊張感が走ったのです。だからといって、今さらマックユーザーにはなれませんよ。
「へぇ〜、塚本さん、WINDOWS 10 なの?!」 “10”を敬遠していた所員を尻目に、研究室で最初に“10”を使い始めたのは、なんとパソコン音痴の私でした。
もちろん好んで使い始めたわけではありません。自宅での深夜の作業中に油断があったのです。「またバージョンアップのアナウンスかぁ」そう思い違いしてついうっかりクリックしてしまったのでした。そりゃ私のチョンボでしたが、後の祭り・・・。
ユーザーサービスはどこへ?
とにかく、実に極めて後味の悪いものです。
もう一度書きます。WINDOWS 10の“お薦め”は、インストールを断る術が画面をにらんだだけではすぐにそれとは読み切れず、インストールするしか他に方法がないかのように思わせるのです。遠慮なしにしつこく登場するメッセージに、どうしよ、どうしよと気持ち悪がっている内に難を逃れれば、ラッキー。運に見放されると、OKしたつもりはさらさら無いのに、あっと気がついたときにはインストールが始まってしまうことこそ心配の種でした。
大手のパソコン業者が大手をふってやるには、詐欺まがいの手口ではないでしょうか。そうまでする意図がなんなのかを、勘ぐりたくもなります。
以上、望みもしないWINDOWS 10 をインストールして(されて)しまい、日々“10”を使わざるを得ない年寄りユーザーのボヤキでした。
カミさんの形見が ハイジャック
そうこうする内に、あれほど注意していたのに、カミさんのノートパソコンまでWINDOWS 10 に今度こそ乗っ取られてしまったのです。
ある朝、見たくもない“お薦め”メッセージがまたまたトップ画面にあからさまに出てきて、その時も苦〜い経験をいかしてそれまで同様インストールを拒否したと思ったのです。数分後にふと「あれ?! なにやってんの〜」と気がついたときには、インストールが始まっていたではありませんか! これが乗っ取り詐欺まがいでなくて、なんなのでしょうか。
カミさんの形見のパソコンなのです。この数年間、毎朝起きてすぐ立ちあげ、“カミさんが使っていた余韻”に、しばし心を和ませていたものです。突然の招かざる“客”に、憤懣やる方なし。
しかも今回は、インストール完了後に使用を続けるにはさらにナントカせよとかの私に理解不能なメッセージがでたのです。そのあたりで私のやる場のない怒りは完全に頂点に達し、もう使うのを諦めたのでした。
カミさんには申し訳なく、自分には情けなくも悔しくも諦めるより他ありません。カミさんのパソコンの使用中止は、某パソコン会社に対しての実に意味のないせめてもの“腹いせ”だったのでした。
企業倫理は企業のため
こんな“お薦め”手口を大手のパソコン業者が平然と行っているのは、社会のどこかが狂っているとしか思えません。そういう社会になってきたのは、社会の責任なのでしょうか? いや、“社会”という漠然とした言い方では、責任の所在はボヤケます。手口などの末梢的なことを騒ぐよりコトの根源に目を向けると、WINDOWS 10 に関してはマイクロソフト社が責任主体であることは明かです。
今回の“10事件”には、巧妙で鉄面皮な手口にたまりかねたものか、遅ればせながらついに某紙が手ぬるくはあっても“お薦め”の難解さを指摘した記事を載せたのでした。その後に、画面のメッセージに多少の改善策はとられたようです。
「他から指摘され、いま頃なんだよぅ!」 もうすぐタダのインストール期間は終了するとのことで、逃げ切られたといった感は否めません。
近年、大手企業の企業倫理が次から次に取り沙汰されるとは、なんともなぁな社会です。マイクロソフト社よ、お前もか、にはなって欲しくはありません。
マイクロソフト社員一人一人が恐らく自社製品のユーザーだと思うのです。ユーザーの立場になって社員が「我が社のやり方が、どうもオカシイのでは」と、どうして疑問に感じないのか不思議です。
基本的に必要なのは、自浄努力ではないでしょうか。そうした努力が企業をより健全に成長させていくと、社員一人一人が確信し行動することです。上司は上司。
会社の事情や世のしがらみがあるとはいえ、社会の目は厳しくなっていますぞ。まず社員の自覚を促さざるを得ません。
●●2016 June●●らくがき帖 :63年ぶりの富士山麓須走
中学生の頃に訪ねた静岡県駿東郡須走村は、今は小川町須走となっています。見るもの聞くもの総てが変わっていて、それはいた仕方ないこと。それでも、浅間神社だけは別でした。木々は60余年の年輪を重ね、境内に立つと昔の佇まいを今に残し、心和むものがありました。
神様が通る道 夜明け前の浅間神社本殿
早朝の小鳥の大コーラスは?
ところがです。新月が東の空に残る4時過ぎにはバードウオッチングを始めたものの、境内の雰囲気がおかしい・・・。静か過ぎるのです。沸き立つような朝の大コーラスがないのです。囀っているのは、あっちとこっちでメジロくらい。「不二山」の鳥居をくぐって随神門のあたりでミソサザイ。遠くでカッコウ。元気にうるさいくらいなのは、やや遅起きのヒヨドリとハシブトガラス。本殿裏の森でキビタキに出会えても、歌のあまり上手くないのはとにかく、なんとも浮かない気分でした。
1953年に日本野鳥の会探鳥会で訪ねた時は、いろんな鳥のコーラスで私の頭の中は大きな囀りの塊となり、どの囀りがなんの鳥なのか識別どころではなかったのです。バードウオッチャー一年生の私は、茫然としつつも感動し立ちすくんでいたのでした。
今でも忘れられません。その時、我が耳を疑ったのは、隣のご老人の独り言のような一言。「小鳥の囀りが昔より少なくなったような気がしますな。」
歩く登山者を無視する"富士登山道"
このままでは帰れまい。1953年と比較すべく、一里松まで登ってみることにしました。
ところがです。「富士須走口登山道」と路傍に看板はあるのですが、肝心の登山道がみつからない・・・。しばしあたりをウロウロしたあげく、まさかこの道を歩けとでも? かなり躊躇したあげく、立派な二車線の150号線舗装路のすぐ外側を歩き出したのです。そして、妙に納得したのでした。「ははぁ、“登山道”とは車で登山する人のためのものか・・・。」
その昔なら浅間神社で登山の無事をお参りし金剛杖に刻印してもらって、まず一合目を目指すところ。今では五合目まで車で行けるという。神社素通りでは世界遺産が泣こうというものです。“登山道”を往き来する車が危なければ、歩く登山者は側溝に避難するか飛び越えて林縁の草つきを歩く他ないのです。徹底した車優先で、歩いて登る人を無視する現代版“富士登山”なのです。時折すぐ横を過ぎる車に用心を強いられまたその騒音に、どうしてくれんだと腹の立つこと腹の立つこと。
鳥の声がまったく少ないのには、腹を立てても始まらないとは思うのです。ところが途中、誰が気づくのかと思われる路傍の石柱は「第一回探鳥会会場跡」とありました。1934年日本野鳥の会の歴史的な探鳥会が開催されたことを知らせているのでしょう。せっかく建てるなら、もう少しマシな字句表現があるのではと、また腹立たしくなる私でした。
「旧一里松」には6時42分着。海抜1120m。須走から勾配12%の車道を300mほど登ったことになります。ふ〜む、行く手に見えるどっしりと優美な富士山頂は、さすが日本一。あそこまで登るのは、シンドイぞ。でもそれは良いのです。富士山は見る山で登る山ではないと決めつけている私は、一生富士山頂に立つことはないでしょうから。いつもの川柳?が頭を過ぎりました。「富士の山 夢に見るこそ楽しけれ 金もかからず くたびれもせず。」
昔と今の鳥種の単純な比較
1953年5月31日 早朝4時15分の浅間神社から、宿へ戻って朝食をとった後、一里松まで、探鳥会とて大勢でノロノロと歩いて往復し、午前中に見聞きした鳥は、47種。
2016年6月2日 4時5分から8時22分までの同じコースで、鳥の種類も個体数も少ないので一人でトットトットと歩いて、24種。
下村兼史 (1903-1967) を想う
早朝の鳥のコーラスを期待したかった今回の須走行のもう一つの目的は、日本の野鳥生態写真の草分け下村兼史が富士山麓で撮影していた時に定宿とした米山館に一泊し、先代と今のご主人から兼史の取材をすることでした。宿の廊下には、米山館縁の人々と共に兼史の1930年の新聞記事や写真が額装されて飾られていました。貴重な資料でもあります。
今回、兼史が私に同行していたとしたら、往時の鳥の大コーラスを振り返ってなんと語ったことでしょう・・・。
●●2016 May●●らくがき帖 :長野県戸隠で命の洗濯
2018年に迫ってきた下村兼史写真展の準備作業を放ったらかし、去る10日、東京を後にした。初めての長野新幹線で、心なしか嬉しい駅弁。気持ちが弾んでいた。長野駅から迎えの車で、午後3時には戸隠森林植物園に立っていたのだ。
繁殖期の囀りは20年振り?
車を出たとたんに頭上から落ちてきた地鳴き。「聞いたことある声だなぁ・・・。」 同行のベテランYさんに、ニュウナイスズメだと教わる。「ウムゥ」 遠い記憶を探って思い出す声。「そうだな、ニュウナイか。」
ほんとに久々に聴く小鳥たちの囀り。ひたすら昔取った杵柄の耳を集中させる。アオジとヒガラがよく囀る。ここのアオジの歌はどうもいただけない。声もよくないし、節回しが悪い。信州弁で歌っているからということにした。クロツグミが賑やかだ。アカハラ、キビタキ、イカルと切れ切れに囀りが続く。
「お、ツツドリ!」同行二人のベテランより一早く気づく。遠〜くで鳴く声をお二人が聞き取れるまで、つかぬ間ながら、余裕の私。長いブランクがあった私の耳も、捨てたものではない。
「あ、ミソサザイ」「・・・?」そんなに遠くで鳴いたとも思われないのに、私だけ聞き逃す。ミソが聞き取れないなんて、ややヘコむ。
にしても、昔を想って期待した「あたり一帯鳥のコーラスで、なにが鳴いているのか頭が混乱状態」というには、あまりに囀りが少ない気がする。期待し過ぎなのか? 実際鳥が減っているのか。
曇り空で戸隠連峰こそ望めないが、春まだ浅い新緑の森は、清々しい。ミズバショウは最盛期を過ぎていた。黄色のリュウキンカは真っ盛り。林床一面の緑の葉は、これが総てギョウジャニンニクと聞いて驚く。これをつまみにチビリ、夕卓での一杯が頭をかすめる。
ヤブサメ事件
「ヤブサメだね」静かにKさん。
「え、ヤブサメ?!」やや気色ばんで、オウム返しの私。「ヤブサメ、聞こえたの?」疑わしく思えたので、ダメを押す。
「ほら、また鳴いた。」「・・・?」聞こえているのはベテランKさんだけ。
「ヤブサメなのぉ? なんも聞こえないけど。」まだいぶかる私。
どこか虫に似て「シシシシシシシ」と鳴くヤブサメの声は、周波数が高く、年寄りの耳には聞き取れない。聞こえた聞こえないは、バードウオッチャーの「耳の若さ度」のバロメーターなのだ。
三人とも70代の半ばを過ぎて、聞こえる限界をとっくに超えているハズ。長い間フィールドにでていない私は、つとに諦めていた。とはいえヤブサメカントリーに来てみたら囀りを聞き取ってやろうと、実は内心意識して耳を澄ませていたのである。
ケガの功名ならず、参っただけだった。
しかし、三人ほとんど同じ年なのに、なんでKさんには聞こえるのだ?!
「Kさん、ソラ耳じゃないの〜?」 ヒガンで言うそばから、「ほら・・・」と声の聞こえるらしい方を、マジメ顔で指さすKさん。その方向からは、シシシの「シ」一つ聞こえない・・・。ベテランYさんは、黙して語らず。
聞こえなくては勝負にならない。Kさんの“聴能力”に恐れ入って、ヤブサメの囀り聞き取り最高年の恐らく新記録を奉るしかなかった。
宿坊での極楽
戸隠神社 中社(ちゅうしゃ)の宿坊は、我が意を得たりの重厚にして温かな和の佇まい。案内されるままに足を運んでなにげなく席をとったテーブルで、神棚にあげられるのと同じ御神酒をまずいただく。
夕食は、我が人生初と思える山菜などの珍味の山。中でも蕎麦粥の一椀は絶品。上質の酒を茶碗ほどの杯で二三杯。これがまたたまらない。森の美しさや小鳥の囀りなど、昼間の満足感を増幅するようなもてなしであった。
その場がまさかの神殿と気づき、退室前ににわかに改めて二礼二拝一礼。
いや〜! 風呂にどっぷり首までつかる。この6年以上シャワーしか使っていなかったので、人間は水棲動物ではないものの、湯船につかる心地良さが身にしみる。失っていたものを心身ともに取り返したような境地であった。
早起きは三文の徳
寝しなに、案内役でもあるYさんの地獄の一声。「明日は4時起きだから。雨でも4時半にはとにかく出ましょう」と。やっぱり4時起きなのか・・・。宵っ張りの私は4時に寝ることはあっても、今世紀になって4時に起きた覚えはない。
翌朝小雨の中、宿坊の玄関を出たとたん、それこそ目の覚めるようなクロジの囀り。思わず揃って歓声をあげた。雨中の囀りが周辺のなにかにと程よく鳴震したのか、こんな美しいクロジの囀りは、1953年に探鳥を始めて以来のことであった。
杉並木の威容
戸隠神社の奥社への参道半ばで立派な狛犬に迎えられ、そのすぐ向こうが随神門。横を流れる清流の音に負けじとミソサザイが間近で囀る。行く手に樹齢400年の杉並木が続く。小雨にけぶる佇まいは、静寂にして荘厳。神現の気配に畏敬の念が交錯する。
悠久の時の流れを刻む杉の威容に圧倒されて無我の境地をさまよっていたか、ややあって我に返る。
緩やかな上り勾配をさらに行った右手に、しめ縄の巨杉がある。根方は大人二人ほどが屈んで入れるくらいの、ほこらになっていた。これぞ、戸隠神社のパワースポットと聞く。5年ほど前のパワースポットブームで、戸隠神社は一躍観光地化したらしい。当初は、さきほどくぐった随神門だか参道入口の大鳥居だかを仰ぐ巨杉の梢に輝く朝の太陽が霊験新たとか。有り難や、今回はブームの雑踏どころか人影なき参道に歩を進め、まさに自然の霊気に触れる思いで過ごせたのだ。そんなひとときが、私にはなによりのことであった。
しめ縄の巨杉に一礼しただけで、果たして神さまのご加護を期待してよいものか・・・。
あわやクマに遭遇?
どうやらご加護はあったようなのでした。
奥社への参道を途中で引き返し天然林の遊歩道を歩いていた時、後から声が追いついてきた。Kさんである。
「なんだかクマが出そうな環境ですな。」
「出ましたよ、あそこっ!」
即座に私が指差したのは、ちょうど目に入っていた“クマに注意”の看板。タイミングがよすぎて、Kさんの心配はつのった。
「こういう時の私は結構アタルので、気をつけていかないと・・・。」
すぐ先を行く地元のYさんは、涼しい顔して振り返り、
「このあたりには、6頭のクマがいることが調査でわかっていますよ」
2日間で見聞きした鳥は32種で、Yさんと私はマイナス1種(ヤブサメ!)。いや、とにもかくにも満足度の極めて高い戸隠行。まさに命の洗濯でした。
人間、テレビの自然番組ではなく、たまにはホンモノの自然に触れないといけないと、改めて強く感じたのでした。
●●2016 Apr.●●らくがき帖 :一匹のナメクジ
八重桜の鉢植えが4月も中ごろになって今年も満開となりました。ベランダから取り込んで、サクラが好きだったカミさんの仏前に供えたものです。
ふと、鉢の縁に、同じ茶色の丸まった枯れ葉がくっついていて、ちょっとどけようかと触れたとたん、枯れ葉がピクッと動いた! 指先に弾力のあるものを感じてとっさに手を引いたのとが同時。その一瞬、私もビクッとしたのでした。なんと、一匹のナメクジだったのです。
ナメクジなんて、都会暮らしの私は今世紀に入ってから見た覚えがありません。そうした自然の仲間に、気づかないままに縁遠い生活を送っていたのです。
思わない珍客?に、眺めることしばし。ツノを左右に振るようにゆっくりゆっくり鉢の地面を這って30cmほどの櫻の幹をのぼり、満開の花の雄しべのなかに顔をつっこむように、ナメクジ流お花見? いや、どうも花の密でお食事? 夜になってみたら、別の花に移っていました。よくよく見ると、櫻の花びらに小さな食痕があります。
この鉢と櫻が恐らくナメクジの生きる全世界なのでしょう。自ら選らんだベランダ環境から、頼みもしない室内へ鉢ごと強制移住させられたナメクジは、世の中をどう見ているのかと、気になりました。
もう一匹のハエ
思い出したのは、昔アメリカへ飛ぶ飛行機の中。私の座席のまわりを飛ぶ1匹のハエがいたのです。日本から乗り込んだものか・・・。まわりの人間さまには幸い気づかれず騒がれもせずに、壁にとっついたりしていて、空の旅を共にしたのでした。
明らかに太平洋を越えて移動してしまうのに、機内という狭い空間ながら、果たして世の中は広いと知ってか知らずか。世界をまたにかけて移動させられたハエが己の生活圏をどう認知するかなんて、分かりようもないのですが・・・。
あのハエは、どこで最期を迎えたのでしょう。
知らぬが仏
ふと、我に返りました。テレビニュースをみて、あたかも世の中、日本中の主な動きが分かったような気分でいる私。報道されるのは、世間の膨大なできごとのほんの断片に過ぎないのに。しかも私が選らんだものではなく、他人のフィルターを通したニュースを見せられているだけなのに。
地球規模の広い世界が在るのを知っていながら、限られた報道で世界中の主なできことが分かるかのように思っている私と、極限られた空間を己の全世界と思っているかも知れないナメクジやハエと、なんだかあまり差がないような気にさせられたのでした。
いずれも井の中の蛙。蛙さんよ、気にしなさんな。みんな同じ井の中にいるのです。それが結構それぞれの生涯で幸せなことかもしれないのですね。
●●2016 Mar.●●らくがき帖 :備えあれば・・・
私はビルの9階に住んでいます。超高層ビルの上層階ではないので、9階ならイザ災難という時なんとかなるだろうと、ウスウス楽観して暮らしている次第。
気持ちの問題で、階段を9階まで上り下りするトレーニング?を、極たまにやっています。暗闇を想定してエレベーターに入りながら両目を閉じ、開閉ボタン、非常ベル、下りたい階のボタンを指先感覚で押し当てる練習もしています。
とはいえ、具体的な避難方法には、さしたる心配もしないで30年近く過ごしてきた私。
避難意識向上のきっかけ
先日、このビルで避難訓練がありました。2018年の下村兼史写真展の準備作業に追われている最中ですが、写真展実行委員会事務局長の私が災難で死んでしまってはいけませんので、訓練に参加しようと決めていました。
避難行動は二段構え。10時に想定地震のアナウンスが流れ、各自室内の安全な場所に待避。次なる火災の不意打ちアナウンスで、一早く一階ビル裏側のゴミ捨て場前に参加者全員集合。そこで消化器の扱いなどの実習という段取りでした。
予想された訓練でしたのに、待っていた私が最初に耳にしたアナウンスは、
「皆さま、お疲れさまでした。避難訓練を終了いたします。」
「・・・?! なんじゃ、そりゃ〜ないやね」
私の9階には、避難アナウンスが流れなかったのです。後で、その手違いも避難訓練の反省点と聞かされても、ねぇ。
自前の避難訓練
そんな間抜けな訓練にも参加しそびれた私は、この機に9階から地上までの待避路のチェックを独自にしてみました。やってみた甲斐があったのです!
●玄関を飛び出して、エレベーターホール横の非常ドアから非常らせん階段で道路際へ下りる。この避難ルートは普段から承知していましたので、まずOK。
●廊下の反対側の階段を使うのは初めてのこと。階段を上ればすぐ屋上に出て、非常らせん階段から道路に。非常階段へ出る網戸には鍵がかかっていないのを確かめました。こちらもOK。
階段を下へ避難すれば、ビル裏側のゴミ捨て場に出られるハズ。ところが1階まで下りて出口のドアを見つけるまで、ウロウロ。これでは本番で慌てていれば・・・。ましてや停電してたら・・・。まずは、出口が確認できて、内心「よかった〜!」
避難訓練はやっておくものと、このあたりで納得したものです。
避難訓練やるべし!
●ベランダからは、鉄格子状の非常階段が使えるハズです。下りたと想定して見下ろしてみたら、どうやら3階のテラスに辿りつき、そこからビル裏側の地上まで別の非常階段があることが見てとれました。
同じ非常階段を上に向かったとしたら・・・ 見上げて思わず、
「なぬっ?!」
屋上の周囲には飛び降り防止?の鉄網柵が(いつの頃からか)そびえ立って、これでは非常階段から屋上には出られないではないか!
我が目を疑いました。階上が10階でそのすぐ上が屋上ですから、イザの時は一早く屋上へでて、反対側のらせん非常階段で表側の道路に避難すればよいと、この数十年間ずっと想定していたからです。
ビックラポンどころではない状況に、しばし茫然。屋上への避難路が断たれていることを避難本番で気付いたならと思うと、愕然。こんなことが起こるから避難訓練を確実にやるべし!というのが、今後の戒めとなるその日の最大の収獲でした。
皆さま、都心でも普段から防災避難意識に心しましょう。
●●2016 Feb.●●らくがき帖 :下村兼史を無二の親友と呼んだ男
そんな男がいたのか?! とても驚きでした。半信半疑でした。2018年秋に開催される下村兼史写真展を視野に、特にこの10年以上、資料をシラミつぶしに追っている私。兼史を親友と呼んだ男の存在なんて、一片の資料すらみつかっていなかったのです。
コトの始まりは
いつもなにかと私の下村兼史プロジェクトをサポートしてくれている園部浩一郎さんから、1月7日に短いメールが届いたのです。淡々とした一行は、「あるホームページを見ていたら、下村に関する記事が出ていました。」さらにもう一行:http://www.tcp-ip.or.jp/~wakasugi/
さして期待もせずにクリックしてみたそのホームページは「マーリン通信」でした。ハヤブサの仲間でコチョウゲンボウの英名Merlin から採った乙なホームページ名。あらゆるタカ類の話が満載です。拾い読みしたら、タカ以外の環境もののエッセイがまた興味尽きないのです。肝心の下村に関する記事とは、「73年前の野鳥写真 下村兼史著『カメラ野鳥記』」でした。
読み始めて直ぐに、これは一体?!! ホームページの主、若杉 稔さんのイントロ部分の記述は、私にはなんともたまらなく貴重な情報源に思えたのです。あせって読みかえしました。
「下村兼史氏は私が鳥を教わった先生の大の親友でもあって、長いつきあいだったそうなので、この先生から下村氏の一生懸命さやエピソード、人柄をたくさんお聞きすることができました。」
え、えっ?! 「先生」とは誰なのだ?! 「大の親友?!」 「下村と長いつきあい?!」 興奮するなといわれてもムリというもの。
お宝級の「先生」&下村の情報
このチャンスを逃してなるものか。必死の私でした。メールが行き交い、タカ類の観察でお忙しい日程をやりくりしてくださった若杉さんにお話が聞けることになった!のは、今月9日のことでした。一路、東京から新幹線で愛知県は名古屋へ。
若杉さんの「先生」とは、丹羽有得さん(にわ・ありえ1901−1993)でした。年譜はブログに詳しく載っています。丹羽さんは、なんと1930年から3年間にわたって元公儀御鷹匠 村越仙太郎氏について公儀鷹術を学び、鷹匠の最高峰を極められたその人。1932年から阪神パーク動物園で12年間、その後名古屋市東山動物園で22年間勤務され、1964年に「日本鷹狩クラブ」を設立されたのでした。
或日の下村兼史(左)と丹羽有得
撮影データ不詳。プリントの裏面に'61 AUG 26 のゴム印アリ。いつもの写真データ探しの癖で、この日付が撮影日と最初は思ってしまったのです。それにしては丹羽さんが60歳の時に当たり、若すぎます。また、服装が8月では有得ません。丹羽さんの右上の看板は「オホワシ」と読め、
起伏に富んだ背景から場所は名古屋市東山動物園のようだと若杉さんからご指摘がありました。因みに、この日、丹羽さんは東京の下村宅を訪ねたことが判り、このプリントの受領日として下村がゴム印を押したとみるのが恐らく正解なのでしょう。私一人では、とんだ早トチリをするところでした。一つのゴム印にも、解釈には要注意を思い知らされた1枚です。(写真提供/山本友乃・BPA)
その丹羽さんの弟子にあたる若杉さんは、下村の没後17年以上もたったころでさえ、面識のない下村のことを聞かされたそうです。話をされた丹羽さんも丹羽さんですが、下村とはそれほどのお付き合いだったのだと察しがつきます。
若杉さんは、「下村兼史は無二の親友」と丹羽さんが言われたのを、何度も直接お聞きしたとのこと。日本野鳥の会愛知県支部の幹事をされていた当時の若杉さんが、1987年6月にテープ録音された丹羽さんのお話をCDに再録されたものを聞くこともできました。話の中で丹羽さんが二度も「無二の親友」と口にされたのを、私自身もこの耳で確かめることができたのです。
乏しい下村情報のウラをとるのに苦心している私には、貴重な“声のナマデータ”を得た満足感は、なにものにも代え難いのでした。
丹羽さんが旧制佐賀高等学校(現佐賀大学)の学生だった時に、二つ年下の中学生だった下村を級友から紹介されたこともわかりました。以来、生涯のお付き合いですから、まさに親しい友だったのです。
丹羽先生は若杉さんに何度も言われたそうです、「人間、何をするにも下村さんのように熱心にやらないと、ものにはならないよ。」と。
下村の名作といわれる映画「或日の干潟」(理研、1940年)のハヤブサのシーン撮影の陰に、鷹匠としての丹羽さんの知識と経験があったこともお聞きでき、なるほど〜と納得がいったのでした。
私の知る二人の丹羽は同一人物だった
実は、私のアタマに「二人の丹羽」が長い間存在してはいたのでした。
一人は、下村兼二(1930年代中ごろに兼史と改名する前の名)が1931年に著した「野の鳥の生活」の序文に登場する「種々の教垂を賜はれし丹羽有得氏に鳴謝する次第である」の丹羽。そんな人物は、他の下村のどの著書にもみつからないままでした。
もう一人は、東京の下村宅で1961年8月に撮られた男の写真を指し示しながら、兼史のご長女山本友乃さんが私に話された、丹羽さん。2012年8月にお聞きした話で、「この人は、晩年父と親交の深かった名古屋市東山動物園の園長(=実は飼育主任でしたが)の確か丹羽さんという方です。」
1931年の丹羽有得は、まさしく若杉さんの先生。件の写真の丹羽さんという男は、若杉さんに鑑別していただき、丹羽有得その人とみて間違いなかろうとのことでした。
私の中で80余年の歳月をへだてた「二人の丹羽」が、若杉さんのお陰で同じ人物であることが初めて確認できたのです。長い間確証が得られず悩んでいただけに、痛快な思いでした。
友乃さんからバード・フォト・アーカイブスにご寄贈いただいた丹羽さんの他の写真も丹羽有得とわかった以上、これは、2018年の下村兼史写真展で紹介しないわけにはいかないと思ったのです。展示される主な写真は当然下村の撮った野鳥生態写真ですが、若き鷹匠姿のハンサムな丹羽さんの写真も「下村兼史を無二の親友と呼んだ男」としてきっと展示されるようにしますので、どうぞお楽しみに!
下村情報収集のサポートに感謝しつつ
若杉さんと初対面の日、丹羽有得と下村兼史の話題で若杉さんと私のボルテージは上がりっぱなしでした。未知の下村情報が、丹羽さんを知る若杉さんから直接得られ、ほんとに素晴らしい展開になったものです。
帰京後も、メールでの情報交換は続いています。そこに、若杉情報を報告した園部さんや、同じく情報探索では神がかった“嗅覚”で下村情報を探し出してくださる岡村正章さんが加わって、四つ巴のメール情報交換。
かくして、若杉情報からさらに芋づる式に他の情報が浮かび上がりました。中には年代が特定できたらなぁという貴重なミニ情報が多々あるのですが、それら断片的な点と点の情報をおおよその時系列で整理推察しながら、下村の生涯の流れを読む作業に没頭している今日このごろです。
にしても、今ごろになってこんなに重要な丹羽−下村情報が浮上するとは!
●●2016 Jan.●●らくがき帖 :生け花 (?) によせて
旧年末のことでした。拙宅の仏前に供えてあった小菊のいくつかが、首をうなだれるように下を向きはじめたのです。花そのものはそれほど弱っているようにも見えないのですが、花瓶から抜いて捨てようと思って、それも気の毒かと。
ふと思い立って、梅花型の織部の器を取り出しました。カミさんが逝って一人での煮付けなど盛るには大きすぎるとて、久しく食器棚に眠っていたものです。
水一杯にして、茎をギリギリに切った花を浮かべてみたのです。二つ三つではどうも間が抜けていて、それならばと、鉢一杯の小菊の ”大輪” となりました。
浮いた小菊は、それから何日もの間、華やかさを保って目を楽しませてくれたのです。こんなに花保ちがよくなるとは知りませんでした。そればかりか、一人暮らしの代わり映えしない部屋に「生きるもの」が一点あるだけで気持ちが和むものだと、思い知らされたのです。
咲きつつも、やがて生命尽きていく寂しさを思いの向こうに漂わせている小菊たち。それは、どんなに大切にしている置物からでも感じられない「気」の通うものだけに、この世のひとときを過ぎゆく小菊の生と死が、私になにかを訴えているようでした。
年明けて義父が急逝。葬儀の数日後に、ロック界の巨星DAVID BOWIE が逝去のニュース。実の親父よりうちとけて話をする機会が多かった義父。40年ほど昔デトロイトでのライブ公演で、今も忘れ得ない異才を放っていたボゥウイ。ケタ外れに繋がらない二つの死が、私の心で一つになっています。
死とは、ほんとに生きることの終わりなのでしょうか?