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山崎さん一家のタンチョウ給餌風景
1981年2月28日
撮影◆佐藤照雄
北海道阿寒町
心温まる「ツルの里」と教育

 凍みる空気。どこか温かい雰囲気のツルと子供たち。次世代をになう子供たちが野生の生命に接して育つのをみると、私はホッとする。自然を身近に感じてこそ、人間、身も心も健全に育つのではあるまいか、と。

 精神の健康に気をくばる時代。ストレスの多い毎日をすごす都会では特に、心の病が気になる。そのよい処方の一つが、自然に接して過ごすひとときを持つことにある。
 そう言い切るには、自然が精神面に不可欠の影響を与えるという確証がないのは実にもどかしい。なにかと科学的な証明が優先する今日の社会で、科学的データに基づかなければ論拠が正しくないとされるデータは、無きに等しい。だが、一言いいたい。
 人間は、客観も主観も含めて経験と理性に基づく考察ができるではないか。いかに進歩発展せよ、人間は自然の一部でしかない。自然のなかで生かされる。自然から「自立」して人工的な環境で生きられると考えているうちに、見えない心の病がしのびこむのでは。そうと気がついた時は手遅れの第一歩、ボツボツ気づいてよい時代。自然は大切にしたいものだ。

 そんな自然、長い目で人間社会の安定剤ともみなせる自然、それを守る心を育む理念が、今回の教育基本法改訂の基底にあるのだろうか。地球環境時代にふさわしい将来への教育視点が謳われていないのも気になる。地球時代のこれからに、不健康な人間を育てかねない教育をし、国際社会での日本がますます狭くなるような改訂をして、将来が明るくなるとは思えないのだが。
 教育基本法の改訂が自然の価値を見直していないなら、それだけ心して次代を育てる「教育」を私たちが心掛けたいものである。

 さて、北海道でツルといえば、タンチョウ。アイヌに、湿原の神サルルンカムイと呼ばれた。かつては全国でみられたというが明治以降激減し、10数羽ほどが釧路湿原でみつかったのが、1924年。
 ツルの保護には、地元の人々の、自身がカユをすすり、ツルにトウモロコシを毎日与えた並々ならない歴史があった。絶滅の淵にいたツルが再発見されて四半世紀が過ぎた1950年に、山崎定次郎さん(写真)が初めて餌付けに成功する。二人のお孫さんと共に佐藤照雄さんのブロニカ6x6におさまったのが、その30余年後の1981年。人と心かようツルとの関係を捉えた一枚のモノクロ写真が、野生を身近に感じる生活の温かさとを伝える。
 今年1月、タンチョウは1000羽をこえるまでに回復した。鶴の給餌人であった山崎さんのところの「タンチョウ観察センター」(現阿寒国際ツルセンター別館)、伊藤良孝さんの土地を要に設置された「鶴居・伊藤タンチョウサンクチュアリ」(共に故人)、渡辺トメさんの庭先の給餌場などに、冬場に集う野生のタンチョウを訪ねる人々は後をたたない。
 「千羽鶴」は保護の一つの喜ばしい節目であるが、農作物への被害など人間との問題も表面化してきた。ツルと人間は、新たな共存の歴史を歩みはじめている。

 ◆BIRDER誌(文一総合出版)1月号のp.15に、佐藤照雄さんのモノクロ写真「タンチョウ 輝く」が載っています。併せてご覧いただければ幸いです◆

BPA
東京湾のマガンの群れ
1955年11月23日
撮影◆高野伸二
千葉県新浜

 今から50年余り前に撮られた写真と聞けば、ネガの傷にも味がでようというもの。私のホームグラウンド千葉県新浜は宮内庁新浜猟場沖を移動する、在りし日のマガンの群れである。
 写真で南西から北東に飛ぶ群れと並行するあたりに、現在は、湾岸高速道路、国道、JR京葉線が束になって走る。東京ディズニーリゾートは、鳥居のわずか5kmほど西に位置する埋め立て地に。東はるかに三番瀬を臨む新浜のこの広大な干潟は消え、マガンの定期的な渡りは終りを告げた。
 以下は、近刊書「東京湾にガンがいた頃――鳥・ひと・干潟 どこへ――」(塚本洋三著 文一総合出版)からの抜粋である。

 「エッ、東京湾でガンが見られたんですか。」
 21世紀のバードウォッチャーが驚く。
 1960年代初めごろまでは、ガンが新浜で冬をこしていたのだ。忘れられようか、鳴きかわし沖あいを移動するマガンの群れを。
 その昔、東京でも。
 一列に飛び、Vになり、流れてYになりする雁行を見あげ、はやし歌を歌ったものだ。
 「ガ〜ン、ガン、竿(さお)になれ鉤(かぎ)になれ・・・」
 歌いながら、飛び去るほうへ雁行を二三歩おいかけたりもした。哀愁をおびた声が胸にしみる。幼いころのあの思い出すらが、はるかに過去のものとなっていく。
 いまや東京湾のガンは、記録のなかでのみ生きている。

                    ○
 マガンは新浜の冬の風物詩。
 潮があげてくると、待ち心。郷愁をさそうマガンの声が、いつ聞こえてくるかと。
 「そおら、くるぞお。」
 緊張が走る。沖合いはるかを凝視。まだ、かすかに声だけが・・・。
 「あそこだツ。」中空ににじみでるゴマ粒のような一列。
 軋り声がしだいしだいに近くなり、やがてガンの容(すがた)となる。
 高まる期待感。もしやサカツラガンやカリガネがまじってはいまいかと。一羽一羽を確かめたり、数をかぞえたり。
 あの声・・・、あの雁列・・・。歓激しつつも、消えたガンたちの姿が交錯し、ふと寂しさをおぼえる。
 いよいよせまりくる一群を、くいいるように双眼鏡で追いつづける。
 ハンターの射程をさけるためか、沖合いから高く飛んできて、やがて宮内庁新浜猟場沖に立った禁猟区の立札の上空内側へさしかかる。と、隊列が乱れ、乱れたわけだ、身体をはげしく左右にゆさぶり、全群がきりもみでの急降下、まさに落雁。水面近くあわやの瞬間、急ブレーキがかかって水平飛行を短く。そして水しぶき、着水。
 その迫力。思わず、堤防の誰彼から感嘆の声があがる。それは芸術鑑賞にも比する生涯の心の糧なのだ。

 (中略)私が新浜を去った1963−64年が、初認から終認まで(マガンが)みられた最後の冬となってしまった。人間さまに無言の抗議をするかのように、1964−65年の冬には、数例の観察目撃があったのみ。新浜でのマガンの定期的な越冬は終りをつげた。
 マガンの声もない新浜の一冬(1965−66年)が、過ぎていった。
 さらにその次ぎの冬、1967年1月8日、日本野鳥の会東京支部の探鳥会でのこと。マガン19羽がたまたま観察された。これが、最後。群れといえるマガンの新浜最後の記録となってしまったのだ。

 シジュウカラガンやハクガン、サカツラガン、マガン。時代をこえてつづいた新浜のガンの渡来は終った。
 “東京湾のガン知らず世代”となって、40年以上がたつ。      [本書、ご希望の方は]

BPA
撮影◆細谷賢明
モズ、高鳴くころ
1960年頃
鳥取県気高郡(現在の鳥取市

 秋。収穫の季節。
 都会に住みついて季節の移ろいを忘れかけている今の私。農村風景の写真をみていると、妙に懐かしくなる。強制疎開のとき、千葉県の片田舎で小学1年を過ごした遥かの思い出が呼びさまされるからなのか。

 農作業は、かつて一家をあげての大仕事だった。
 6月の田植え時は、まさに猫の手も借りたいほどの忙しさ。小中学校では、農繁休業で授業は1週間のお休み。生徒たちは皆家の農作業を手伝った。
 年端もいかない子供は幼子をおんぶし、農道脇で一日の終わりを待つ。蒸したサツマイモが、おやつ。野良仕事は家族みんながするものとの考えが、小さなうちから自然にしみこんでいく。
 働き盛りは、皆一日中働いた。動力農機具なんてない。田を耕すにも、馬力や牛力が頼り。牛馬は家族の一員だった。田押し車(たおしぐるま)を押して、稲株の間の雑草を抜きとった。除草剤はまったく使わない。稲も麦も、もみを落とすのは、人力。素朴な作りの足踏み脱穀機だ。
 脱穀したあとの藁は、田んぼに積みあげられる。「わらぐま」と呼ばれた。牛の餌料や畑作にもいろいろと使用される。すべてがムダなく利用され再利用される農村の生活がそこにあった。
 その「わらぐま」も一人ではできない。藁束を投げる人と受取る人との阿吽の呼吸が、なにごともなく日常の作業をこなしていく。
 10月、モズの高鳴きが聞こえてきそうな秋の一コマを、二眼レフカメラが捉え、かつての農村風景を今に伝える。

 お米はコンビニの袋からでてくると思っている都会ものに、農作業の現実はみえにくい。ノスタルジックな農村生活の情景が、これからの農村のあり方を問うている。

BPA
撮影◆藤村和男
45年前に撮影されていたコアオアシシギ
1961年9月20日
千葉県浦安

 生態写真というとなにかとお世話になっている、大先輩の藤村和男さんのアルバムを拝見しているときだった。
 「おっ?! こりゃ・・・。」
 こりゃ、コアオアシシギだっ。撮影されたのは1961年の秋。超珍鳥コアオアシシギが写された日本で最初の写真かもしれない・・・。
 当時、シギ・チドリを見にいくバードウォッチャーは少なかった。東京近郊で生態写真を撮る人は限られていた。カメラを持ったバードウォッチャーがコアオアシシギに出くわす確率は、ごくごく稀なことでしかありえない。それを考えると、写真の中の藤村さんのコアオは、私にはとてもまぶしく映った。ご本人はそうでしたかと、淡々としておられる。同じ田んぼに3羽いたそうだ。キャノンにコムラー500mm、ミラーボックスを使ったとのこと。
 さっそくここにご紹介させていただく。そして、1961年以前に撮られたコアオアシシギの写真をご存知の方は、ご一報いただければ幸いです、ちょっと私の好奇心を満たすためだけなのですが。

 かつてはとんでもない珍鳥だったコアオアシシギ。1950年中ごろまでのバードウォッチャーは、こんなシギがみられるとは思ってもみなかった。私が使っていた図鑑(石澤慈鳥「原色野鳥ガイド」上下 1951 誠文堂新光社)には、第一そのイラストが載っていなかった。「図解以外の鳥類目録」の項に、ただ一行、「迷鳥として日本で1回捕獲された」との記載だけ。
 その日本での唯一の記録とは、「1882年、横浜付近」なのだ。
 なんと71年後だ、2番目が記録されたのは。1953年9月6日と13日のこと。大阪の住吉浦でそれぞれ2羽ずつが採集された。同年は、この種の当り年という他なく、他にも10月11日に千葉県浦安で約20羽の1群が、姫路付近の海岸で1羽が観察されている。
 そんな超珍シギを、私自身がホームグランドの千葉県新浜で見ることになろうとは! 1955年9月4日のこと。識別できたのは、普通種のアオアシシギを普段から良く見ていたことと、識別のバイブルのようなイギリスの図鑑(The Field Guide to the Birds of Britain and Europe. Collins, 1954)でMarsh Sandpiper をこれがコアオかと穴のあくほど眺めてイメージをあたためていたからだ。
 そしたらその年は11月3日までの間に7回、述べ12羽もみたのである。そうなると、超珍シギがこんなに見られてよいものかと気持ち悪くなり、自らの識別を疑ってみたりもしたものだ。
 1956年以降も観察記録がつづいた。となると、超珍シギの座がゆらいだどころか、数は多くないが特に秋の渡りでは毎年みられる普通種になりさがってしまったのである。

 今日では「ああ、コアオもいますね」と、バードウォッチャー誰しも興奮もしなければ喜びもしない、まるでスズメ並みの反応をうける存在でしかない。
 そんなで写真が撮られても、当り前。
 「昔は胸おどらされたもんだよ。この写真、みろよ!」と言ってみたところで、
 「へえ〜、そうだったんですか。」
 いまどきのバードウオッチャーには、参るよ。

BPA
BPA
撮影◆中村正博
日本初記録、セグロサバクヒタキ
1976年4月18日
石川県金沢市大浜埋立地

 日本で記録されたことのない鳥を発見してみたい。それはバードウォッチャーの夢。その夢を叶え、写真まで撮った中村正博さん。他界され、9月で1周忌を迎える。
 中村さんは、いつものあの人なつっこいテレ気味の笑顔で、夢を追う鳥仲間の動向を天空から見守っていてくださる、と。合掌。

 本邦で初めて記録・撮影された“中村さんのセグロサバクヒタキ”を語れる人は、同じセグロサバクヒタキを撮影した矢田新平さんをおいて他にはいまい。お互いに財団法人日本野鳥の会石川支部の幹事で長年の探鳥仲間、野鳥撮影のよきライバル。
 以下は、転載を快諾くださった石川支部と筆者の矢田さんのご好意による、同支部報「石川の野鳥」第125号から、『中村正博さんのセグロサバクヒタキPied Wheatear(本邦初記録)発見記』である(矢田さんご自身のチェックで、長い原文の一部を変更して掲載させていただく)。
 なお、中村さんが撮影されたすべてのモノクロネガは、中村美喜子夫人からバード・フォト・アーカイブスにご寄贈いただいた。それに先立ち、石川支部長橘映州さんは、監事の関幸良さんとともに、大変な忍耐と労力と時間とをかけて膨大な量のネガの整理をやりとげてくださった。
 多くの方々のお力添えで、このページができあがった。この場を借りて、ご厚情に心から感謝いたします。

 1976年4月18日の夕方4時30分ごろ、金沢港大浜埋立地で中村正博さんは日本の図鑑に掲載されていない野鳥を見つけてしまった。シギ・チドリ類生息状況調査を終えて帰宅しようとしていた時の出来事だった。今から30年前の話で、中村さんはまだ28歳の若さだった。
 その当時の大浜はゴルフ場リンクスもなく、だだっ広い不毛の土砂埋立地であった。そこで、名前の判らないとんでもない鳥を見つけたその日の彼の心境はいかばかりだったか、これは体験者だけにしか味わえない至宝である。
 とにかく家に帰って日本の鳥類図鑑を片っ端からひも解き、そこに掲載されていないことを確認するや、次はアメリカや東南アジア、ロシア、中国、最後にはヨーロッパの図鑑までも調べたに違いない。そして先ほど観察した鳥はヨーロッパの図鑑に掲載されているPied Wheatearの雄成長夏羽にとてもよく似た色合いであることを確認したのだった。
 本邦初記録になることを意識しながら、ここで始めて僕に電話してきたと思われる。そのためか、第一声はいつになく慎重な口ぶりだった。彼の話によれば、尾の特徴的な模様からサバクヒタキの仲間であることには異論はなかったが、背中が真っ黒なサバクヒタキ類はそれまで日本の鳥にはいなかった。その鳥は頭と下面は白でのどが黒、尾には逆Tの字のはっきりした黒い模様があったという。
 僕は受話器を耳にあてながら矢継ぎ早に証拠写真は撮ったのかと尋ねたら、彼いわく、「撮ったことは撮ったけど、カメラを持つ手は震えるし、横に乗っていた子供も喜んで騒ぐので車はゆれっぱなしで、撮った写真はみんなブレブレやわ。」
 当時の一眼レフカメラは、スクリューマウントのペンタックスでレンズをカメラボディーに合体させる際、あせったり手が震えたりするとなかなか装着できない代物だった。この日は小さなお子さんを車に乗せて子守りがてらの調査であったらしい。ブレブレでもとにかく撮影できたのならよかった、と安堵した。
 あくる日、天気は快晴、月曜日で僕にとっては仕事日であったが、とにかくこれだけははずせないと思い、スタッフの白い目を背に受けながらカメラ七つ道具を車に詰め込み往診中ということにして午後一番に大浜に直行した。目指す鳥のいた場所は直ぐわかり、そこでまず深呼吸しながら周囲をゆっくり見渡した。
 と、いたいた! 近くの枯れ枝にひょいと止まったかと思ったら砂地にぱっと舞い降り、何か虫のようなものをくわえてまた元の枯れ枝に止まった。捕獲した虫はアリジゴクであった。
 僕は無我夢中でシャッターを切った。人間をまったく恐れる風もなく生き生きした姿の写真を数多く撮らせてもらった。帰宅後直ぐにこのことを中村さんに電話したら、彼は大変喜んでくれて二人して大いに盛り上がった。そして次の日、彼は僕よりいい写真を撮ろうと、お子さんを同乗させずに再度現地に赴いたが、残念なことにその時にはすでにPied Wheatearの姿はなかったという。
 後日、コバケイ図鑑(「原色日本鳥類図鑑」保育社 1956)の著者である故小林桂助氏より、この鳥の和名をイナバヒタキに因んでカガヒタキにしたらどうか、という提案があったが、中村さんは恩師である故高野伸二氏と協議の末、この鳥種をセグロサバクヒタキと命名した。
 この原稿を書くにあたり、「野鳥」通巻第358号の報告文を改めて読み直してみると、若かりし頃のはつらつとした中村さんの心意気が伝わってきて、とても懐かしい想いに包まれた。

◆ここに掲載された写真は、「野鳥」通巻第358号の口絵のうちの1枚と同じネガからトリミング再構成したもの。セグロサバクヒタキの別のカットが、BIRDER (文一総合出版) 2006年9月号 のThe Archivesのページに掲載されている。ご参照いただければ幸いです。
BPA
撮影◆高野伸二
高野伸二の“本邦初”、抱卵に入るセイタカシギ♂
1976年6月14日
愛知県海部郡鍋田干拓

 本邦初というフィールド体験のできるバードウォッチャーは、ごく限られる。以下は、その数少ない人の“本邦初”をめぐる1975-76年のドキュメント。場所は、愛知県海部郡(アマグン)鍋田干拓、現在の弥富市である。

●雛の発見
 1975年7月27日。「キリー キリー」セイタカシギが鳴きながら飛んできた。炎天下、松原敬親さんは放置されたブルドーザーのひさしの下に身をひそめる。100mほど離れた雑草に、セイタカが消えた。
 と、水溜りの草つきに、なにか動くものが――ヒナ?? 大きさの違う3羽のセイタカシギの雛だった!
 まだ飛べない雛たち。日本で初めての繁殖の確証を得たのだ。
 親の近くに、ぬいぐるみのような3羽の雛。松原さんの本邦初の記録写真が、「野鳥」通巻第356号のグラビアに載る。夢を見たのではなかった証拠だ。
 翌日現場へ急いだ吉村信紀さんによって、孵化後20日ほどと推定された。8月3日に数メートルを、8日には数10メートル飛ぶのが目撃された。

●巣と卵、発見から卵の消失
 1976年の繁殖期。今度は吉村さんの出番。前年と同じ場所で、セイタカシギがトビを攻撃しているのが目撃されたとの知らせ。1人で行ってみると、セイタカシギが2羽飛んでいた。思いは一つ。果して、水溜りのちょっと土盛りしたところに、さして苦労もなく巣がみつかった。中に4つの卵!
 日本で初めての巣と卵の発見である。
 記録的な雨の年だった。排水しない水溜りは、池のようになってしまった。見ていたわけではないが、親鳥がやったに違いない、巣はかさあげされていた。
 1976年5月22日。知らせを受けた高野伸二さんが、東京から駆けつける。撮影されたのは、浮き巣と見紛う状態の本邦初発見のその巣(BIRDER 2006年8月号 The Archivesのページ参照)。親鳥の帰巣する撮影は、あきらめる。
 数日後に、水位は巣の高さすれすれとなり、「水没するぞ・・・。」
 災難は思わぬところからふってきた。卵は恐らくカラスにやられてしまったのだ。「よりによってセイタカを・・・。ケリの卵でもつついてくれれば、と思いましたね。」

●2番目の巣と卵、そろって孵化し巣立つ
 1976年6月初旬。「その場所が気にいったとしか、言いようがないですよ。」1番目の巣のすぐ近くで、2番巣がみつかったのだ。心なしか、貝殻や枯れ草をあわてて集めた感じがする簡素な巣に、卵が4つ。
 6月14日。「高野さん、抱卵もとれるよ。」 連絡に再び飛んできた高野さん。今回はブラインドに入る。目と鼻の先の親鳥は、落ち着いている。巣と卵と、♀と交代して抱卵に入るセイタカシギ♂とが、ソナー250mmを装着したハッセル500ELMの画面にそっくり納まった。カラーとモノクロの両方で撮っていたころだ。
 その後、4羽の雛は無事に巣立っていった。
 8月17日。吉村さんが本邦初撮影された写真が、毎日新聞夕刊に掲載される。「珍鳥セイタカシギ二世誕生」と題された、まだ巣にいる雛および抱卵しようとする親鳥の写真である。7月月間賞のトップ、A賞に輝いた。

●干拓地のこと
 珍鳥が繁殖しているというのに、干拓地で1日中誰にも会わなかったとは。気兼ねなく撮影に没頭できた。昔はそんな佳き日があったのだ。
 鍋田干拓での繁殖確認は、なぜか1975年と1976年の2年だけ。1977年には、環境が変わらないと思えるのに、親鳥の姿さえなかった。
 干拓地はその後工業地帯などとなって環境は一変し、往時の面影はまったくない。

●珍鳥は昔語り
 1953年以前には、日本での記録全部あわせてたったの6回しかなかった珍鳥セイタカシギ。それが1961年から、まるでセイタカブームのごとく全国で観察や撮影され、越冬もするようになった。愛知県で2例、千葉県では1978年以降繁殖すら。完全に珍鳥の座を譲り渡してしまった。
 「また、セイタカがいるね。」バードウォッチャーに一言で片付けられる今日、かつての“珍鳥セイタカシギ”を知るものには、複雑な気持ちにとらわれるのだ。
 鳥の世界も、また無常なり。

                                         撮影◆塚本洋三
雪国の忍者、オナガフクロウ
1975年3月1日
ミシガン州、USA

 現在の日本領土からは記録のないオナガフクロウ。英名Hawk Owl。清棲幸保著「日本鳥類大図鑑」第II巻(大日本雄弁会講談社、1952)には、*印で「旧日本産」として絵まで載っている。この本で、私はハンサムなフクロウの存在を知ったのだ。
 北半球のツンドラのある林で繁殖し、分布は広い。樺太や千島に渡ってきて冬を越すという。北海道の果てで待っていれば、100万が1にも日本産の新記録種がうまれないとも限らない。まさに夢の鳥だった。

 チャンスは、アメリカのミシガン州で過ごした1975年に巡ってきた。その冬、北ミシガンにオナガフクロウがいると。鳥友からの知らせだった。めったに見られない鳥だからな、と念をおされた。
 ミシガン州を縦断し、雪のハイウエイをカナダ国境に近いホークアウル カントリーへ。片道500km。たった1羽の鳥を求めて。
 冬地獄とはこのことか。殺伐として茫洋。よくシロフクロウが止まっている納屋が点在する広々とした雪原。ここかしこに、針葉樹を交えた広葉樹の小規模な森。視界に生命あるものはオオモズ1羽だけ。容赦ない寒風がこたえる。なんてとこに棲んでるんだ・・・。 
 目撃された付近を執拗に探し回る。なんども行き来して、なにもいなかった路傍のシラビソの巨木のその天辺に、忽然として現れた鳥こそ! オナガフクロウそのものであった。
 止まった枝に枝ごと風まかせに揺れ、ゆっくりと頭を水平にまわし雪原の彼方をみやっている。そうして日がな一日過ごしているのだ。ある午後、2時間40分もの間にしたことといったら、頭をかいたのが1回、あごをしゃくるように下を見たのが1回、やらずもがなの気のない羽づくろい数回、ウンコ3回、頭をもたげてしばし遠くを凝視したのが1回。それだけだった。
 日に何度か、隣の森に移ったりする。梢の天辺にいると、遠くても確かにすぐに見つかる。見つからないときはどこにいるのかというと・・・ 雪にでも化けたとしか言いようのないほど、いっくら探しても影すら見当たらない。「雪国の忍者」になりきっているのであった。

 人には無頓着。そうとなれば、夢の鳥をカメラに納めたい。愛用のアサヒペンタSPにx2−3のコンバーターをつけたタクマー300mmをひっさげ、雪をふみしめ、梢のオナガフクロウに接近する。いくら近づけたとて、木々が邪魔になる。ほどよい構図を求めて、しばらくは右往左往した。
 ファインダーを覗いていつまで待っても、右、左、正面と顔がゆっくり動くだけ、ポーズはほとんど変わらない。いい加減シャッターを切って、それ以上はフィルムのムダかとぜいたくな思いが頭をかすめた。とたん、梢から地上に落ちるように飛び立ってしまった。ファインダーの視界から沈んで消えるかと思えた瞬間、反射的に一か八かのシャッターを切っていた。

 帰宅して現像してみたら、翼をひろげたオナガフクロウがかろうじてネガの底に残っていた。飛翔中ではたった1回のシャッターチャンス、唯一のネガ。ボケていようとブレていようと、私のお宝写真なのだ。  (2006.6.20.)                       

                                                                                                        

    ▲2006目次

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撮影◆藤村 仁
「野鳥を追放せよ
1968年2月10日
千葉県新浜

 高度経済成長期。乱開発のうねりは、日本のあちこちで自然を破壊しつづけていた。
 東京都と千葉県境を流れる江戸川。河口から、「江戸前の海産物」をはぐくむ豊かな海がひろがっていた。大潮には広大な干潟があらわれる。バードウォッチングのメッカ、その新浜でも、京葉臨海工業地帯の開発計画がもちあがった。
 1964年から、後の千鳥町となる後背湿地や干潟の埋め立てが始まる。時を同じくして、東京湾で唯一定期的に渡ってきていたマガンの最後の群れが、新浜を見捨てた。海岸線一帯は一変していく。土からコンクリートへ、静の自然から騒の人造環境へ。
 土地開発でもうける人々。その陰で、地元農漁業者の伝統的な生活は変わらざるを得なかった。サギ、ガン、カモ、シギ、チドリなどの多くが、湿地や干潟とともに姿を消していった。
 国を挙げての経済発展。「人か鳥か」の短絡した発想で開発を優先させる人にとって、野鳥や自然などは邪魔ものでしかなかった。それを守れというのは、社会に異議を申し立てるようなもの。
 一枚のモノクロ写真が、当時の風潮をなによりも雄弁に語る。

 開発側と対峙して、「新浜を守る会」を軸とする市民運動が盛り上がる。「野鳥も人も」の声が経済発展と科学技術の進歩の波にかき消された時代に、成果は残された。新浜開発の砂漠に、貴重なオアシスとも思える83haの近郊緑地特別保全地区が指定されたのだ。1970年のこと。
 それから35年余が経った。人々の生活水準はあがった。多くの自然が姿を変えた。ふと、人は物質的な豊かさの中で心の貧しさを感じはじめ、さて、どうする?

 心安らぐ緑、生命あふれる自然は、一朝一夕には再生できない。残された自然は守りつがねばならない。バード・フォト・アーカイブスは一般の方々から提供されるモノクロ写真を通じ、環境の保全と復元のメッセージを発信しつづける。超弱小法人ながらそれが使命の一つだ。
 去る5月14日に日比谷公会堂で「全国野鳥保護のつどい」(主催:環境省・財団法人日本鳥類保護連盟)が開かれた。そのオープニングに、愛鳥週間60年の歴史を振り返り将来に思いをいたす映像が上映された。制作協力・写真提供は、バード・フォト・アーカイブス。往時を語る「野鳥を追放せよ」は、このページに載っているトキ、コウノトリ、アホウドリなどとともに、公会堂のスクリーンに登場し、約700人の参加者の目にふれた。
 次の世代へと野鳥や自然環境を守るメッセージを広め伝え継ぐには、個々人の小さな力をのばす努力をめげずにしていくことだ。それが心の豊かさを取り戻す行動にもつながる。
 自然を守るとは、人のみがなし得るゴールのないマラソンだ。できることから、誰もが参加しなければなるまい。                               (2006.5.19.)

撮影◆高野凱夫
最後のトキ「キンちゃん」
1967年9月29日
新潟県佐渡郡真野町西三川
 コウノトリに続け! 兵庫県豊岡市で昨年放鳥されたコウノトリが人工巣塔で産卵したニュースに、誰もが願う。次には、トキが佐渡の空を舞う日を。1年でも早く。

 植えた稲を踏まれないように、ドウ(トキのこと)を追う歌が歌われた。それほどにかつてトキがいたようだ。本州最後の能登半島のトキが1971年に絶え、日本最後の棲息地、佐渡でも1952年には24羽を数えるだけに減っていた。
 1967年のこと、巣の位置は特定されなかったが、恐らく新穂の山で1羽のトキが孵っていた。真野町(現在の佐渡市)の水田にひょっこり姿をあらわすようになる。餌をやる地元の宇治金太郎さんになついた。宇治さんのお名前を頂いて、「キン」と呼ばれる。まだ生活経験もとぼしく、1羽暮しでなにかと危険が多いのではと案じられた。翌年、鳥獣保護員をしていた宇治さん自らの手で捕らえられ、キンちゃんはトキ保護センターに保護された。
 写真は、「キン」の名前をもらう以前の、まだ野生のころの若かった「キンちゃん」の姿である。撮影者を無視するように羽づくろいしている寛ぎのひとときが、200ミリ望遠レンズに捉えられた。カメラは、夕暮になって「ター」と一声、1羽でねぐらへと帰る姿をも追っている。
 キンちゃんが生まれた同じ年に、東京からセンターに近辻宏帰さんが赴任してきた。キンちゃんは♀。子孫をのこすことが期待されたが、果たせず、2003年10月10日、キンちゃんは逝った。日本産最後の1羽だった。
 近辻さんと36年間の生涯。同じ年、近さんはトキ保護センター長を定年退職。キンちゃんへの想いを胸に、近さんは佐渡からトキ情報を発信しつづける。「空飛ぶ国宝」トキが再び佐渡に舞う日を心待ちしつつ。

 まったくもって日本人はせっかちだ。野生の鳥獣が相手なら、まさに10年1日の如くを頭に入れて動きを読まねばならないというのに。コウノトリにならって、センターで増えたトキを自然に放せば明日にでも卵を産むというのは、夢物語に近い。
 ワイルドライフマネージャーは自然を対象に黙々と調査研究し、年毎に知識や経験をかさね、人間の側の条件整備をも図る。自然は、1年がサイクル。ある年一つうまくいかないと、次の年まで待たねばならない。物理化学の実験のように、机上で何度でもやり直しがきかないのだ。話題のコウノトリやトキの保護活動を追ってみれば、うなずけよう。
 野生のコウノトリを捕獲して人工飼育が始まったのは、1965年。ロシア産のペアが初めて繁殖に成功したのが、1989年。以来増え続け、野外へ放鳥されたのが昨2005年。今年の4月16日、百合地の人工巣塔で2個目の卵が産まれているのが確認された。残念ながら2卵とも巣の外に出てしまって孵化するのは難しい状態とはなった。とにもかくにも自然界で雛の誕生が期待されるところまで、たどり着いたのだ。日本の野生個体が1971年に消滅してから、35年が経っている(最後の飼育個体が絶命したのは、1986年)。
 日本に生き残るすべてのトキ5羽が捕獲され、野生では見られなくなったのは、1981年(最後の飼育個体が絶命したのが、2003年)。佐渡のトキ保護センターで、中国産の親から始めて雛が誕生したのは、1999年。80羽にまで増えたのが2005年。トキの自然放鳥を模索する時期となった。環境省は2008年の放鳥を目指し環境づくりをするという。
 いずれも日本産は絶えてしまった種。ロシアや中国などとの国際協力により、人間の手でまさに息を吹き返してきているのである。関係者の世代交代があっても保護調査の活動は続く。じっくりしっかりと野生の鳥たちと人間自身の将来をみすえていかねばならない。         (2006.4.19;4.28追記) 
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撮影◆高野伸二
松上の巣に佇むコウノトリ
1959年6月13日
兵庫県豊岡市

 昨年来、コウノトリほど話題になっている鳥も少ない。
 1971年に日本の繁殖個体群は野外から姿を消してしまった。絶滅、一巻の終わりであった。それを終わらせまいと、1960年にロシアから贈られた6羽の幼鳥を育て、増やし、昨年秋に5羽を自然へ放つところまで漕ぎつけたのだ。
 コウノトリを絶滅へと追いやったその人間が、コウノトリを野生に返す。その試みは、日本の野鳥保護史上、前代未聞のこと。舞台は兵庫県豊岡市の県立コウノトリの郷公園。現在その近隣を自由に飛び回り巣作りを始めたコウノトリに、自然繁殖の期待がかかる。夢が現実となる日は近いにちがいない。

 コウノトリは、明治以前には日本に広く分布していたようだ。江戸の社寺の屋上に巣をかまえたと古文献にもあるという。ところが、第10回国際鳥類保護会議(1957年、南アフリカ)での提案を受け、1958年にコウノトリ国際調査が実施された時には、常に棲息し繁殖しているのが確認されたのは、日本全国で兵庫県と福井県だけであった。
 兵庫県出石付近のコウノトリは、1894年に一つがいが再発見されて次第に増え、最盛期は1930-31年ころで約100羽と推定された。それが1958年の国際調査では、7巣、15羽が確認されただけだ。もう1県頼みの福井県では、同年、6羽のみである。
 1959年に再び豊岡市を訪れた当時日本鳥類保護連盟の高野伸二さんは、但馬全域を調査し、8巣17羽を報告している。前年に続いて兵庫県下で1羽の雛がかえっただけ。旅先からの私信には「こんなことを毎年くりかえしていたら、絶滅疑いなし。眠い目をこすりながら、貴重な幼鳥1羽をみてきました」とあった。写真は、同じ年、豊岡市木内(三開山)の赤松の天辺にかけられた巣であたりを睥睨する在りし日の姿である。

 コウノトリの激減に拍車をかけた主な要因は、狩猟、農薬、営巣木の伐採など。しょせん、人間のしたこと。その人間が、絶滅したコウノトリを野外復帰させる。人間は、そんな不可能と思われたことを可能にする能力を持つにいたった。コウノトリの人工増殖が始められたころには聞いたこともなかったDNA鑑定など、今では日常語。科学技術の進歩には目をむく。
 他方、人間は、自然の営みと人間活動とを総括的長期的に捉え価値判断する能力にはひどく欠けているではないか。将来なにが起きるか、誰にも予測つかない。自らの行動が身勝手にならざるを得ない悲しむべき生きものなのだ。
 例えば、人間がカラスの増える環境を“心ならずも”整えてしまい、増えすぎて人間に迷惑だからと駆除に走る。やむを得ないとはいえ、である。
 状況も異なるカラスから話しは飛躍しすぎるが、ままよ、果たして、人の手で放たれた“希望の鳥”コウノトリの未来は、誰が明るいものばかりと断言できようか。コウノトリが増えすぎた?! そのとき、人間は・・・。
 要らぬ心配などする前に、コウノトリの野外復帰の成功を心待ちしよう。      (2006.3.23.)

                                           ▲2006目次

撮影◆塚本洋三
世紀の珍鳥ソデグロヅル(左)とマナヅル
1960年11月23日
鹿児島県荒崎

 1959年12月27日、鹿児島県出水のツル保護監視人、又野末春さんからハガキを受け取った。「マナヅルの群中に1羽みなれぬツルが渡来中」。
 見なれないツルといっても、どこが見なれないのかハガキでは見当がつかない。日本からの記録は6種、マナヅル、ナベヅル、クロヅル、タンチョウ、ソデグロヅル、アネハヅルである(カナダヅルは1963年に荒崎で初記録されるまでは、近年の記録なし)。どの種も特徴がはっきりしていて、識別なら恐るに足らず、である。
 ツルと共に生活している又野さんが見なれないというツルは、そも何者ぞとの野次馬根性が先にたつ。とにかく行って見るしかない。鳥友の高野伸二さん(「フィールドガイド日本の野鳥」の著者)に声をかけ、当時一番早く着ける急行列車で荒崎へ急行した。
 年の瀬もせまる西干拓のねぐらに帰ってきたナベヅルは、約320羽。日中も荒崎田んぼのそこここに残るマナヅルは、あわせてたったの44羽。そのマナヅルの家族の中に「1羽みなれぬツル」が、確かに見つかったのである。恐るに足らず、と思いきや――そのツルが世紀の珍鳥だったとは。私にそう思う余地はこれっぽちもなく、バードウォッチャー識別人生最大の不覚をとってしまったのである。以下は「新浜物語 手探りの無常」第28回(BIRDER Sept. 2005)から抜粋した痛恨録である。

 「『なんだ、ありゃ?』 全身が一見うす茶っぽいマナヅルより一回り大きなツルなんて、私の頭にも手持ちの図鑑(石澤慈鳥「原色野鳥ガイド」上下 誠文堂新光社 1950−51)にもない。嘴が長く基部が太い。顔つきがアヤシイ。どうもなんだかナミのツルとは違う。さすがの高野さんも、直ちに識別ができないでいた。
 その『なんだ、ありゃ?』が飛び立った。瞬間、すべてが裏切られたような気がした。両翼端部だけが真っ黒な、目を欺くように一見白い派手なツルに変身したからだ。
 「ソデグロヅル!」間髪容れず高野さん。負けずに大声で「タンチョウ!」は、私。
 同時だった。運命の一声だった。そんな珍鳥だなんて考えの外だった。白と黒のパターンならタンチョウという単純なアタマでしかなかった私には、その黒が次列風切ではなくて、翼の先半分の初列風切であったことに、瞬時の識別判断がいたらなかった。ああ、何も言わなきゃよかったのに。黙ってさえいたなら、高野さんに乗って「そうだ。ありゃソデグロヅルだっ」とか識別を共有した言い方ができたのだ・・・。
 己を恨んでも悔やんでも、もう遅い。さすがは高野さんだと感じ入ったのは、怒りに近い感激がようやく収まってからだった。」

 世紀の珍ツル、ソデグロヅル。それもそのはず、19世紀末に日本産として剥製がオランダのライデン博物館に3羽とニューヨークの自然科学博物館に1羽が残されているだけのもの。生きたソデグロヅルが日本の野外で識別されたのは、その時が探鳥史上初めて!だったのである。
 私は、1959年の「あの瞬間」を絶対に忘れることはない。

 日本で生きたソデグロヅルが最初に識別された場にいあわせたバードウォッチャーとして(このあたりの表現は、我ながら改めて「悔しい・・・」)、私に残されたことはフィルムに記録することであった。それも「日本初」のハズだ。タクマー500mmのアサヒフレックスを構える高野さんを除けば。私のはテッサー210mm、リトレック6x7版。「う〜む、フィルムのサイズは私のが大きいが、レンズの長さではかなり分が悪いぞ。」
 珍鳥がいるというのに、バードウォッチャーもカメラをさげた人影さえもみあたらない佳き時代。じっくりゆっくり、ソデグロと3羽のマナヅル家族ににじりよった。マナヅルは首を弓反りにした飛び立ち直前の姿勢をまだとっていない。余裕がある。その時、ソデグロが大きく羽ばたいた。冬枯れの田んぼに黒と白の巨大な大輪を花開かせたような、「あわっ」と息を飲む瞬間にシャッターを押していた。だれにもモンクを言わせない、どこから見てもソデグロヅルが映像として残された。
 又野さんが発見し高野さんが識別し私も撮影したソデグロヅルの記録は、1959年と1960年ともに、後に「日本鳥類目録」(改訂第5版 日本鳥学会 1974)に掲載された。採集されて標本がないと記録として取り上げられない風潮があった鳥学会に、写真による識別判定が認められた一例となったのである。これは喜ばしいことであった。

 その翌年にも又野さんから連絡が届いた。「ソデグロ三十一ヒ一キタ」、ソデグロヅルが1960年10月31日に1羽荒崎に渡来した、との電報である。2年連続の渡来をよろこび、一見純白の成長になったかと期待したら、ほとんど前年と同じの若鳥だったのには、いささか拍子抜けしたものである。
 その後、四国を除く北海道から九州各地に渡来し、荒崎に関していえば、1960年の後は1982、1994、1996、1999−2001、2003に1羽づつが記録されている。さすがの珍鳥ファンにも騒がれなくなった感もあるソデグロヅル。世界的にみれば、約3,000羽が生存しているだけである。絶滅を心配しなければいけないツルなのだ。
 日本に渡来するのはなぜか人怖じしない個体もいて、ドアップのカラー写真まで撮られた。ピンの甘い私のモノクロは歴史的な価値だけはあるぞと、力んでみたりするのだった。

(2006.2.27.)

 

付記:“先月の一枚”

 2月は逃げる。いつになく超忙しく過ごした。今月の更新期限はあと数時間後に迫っていた。おっとりコンピューター。案の定、すっかり忘れてしまっていたGoLiveCS2でのレイアウト術。そんなときに限って、な、なんと、開いたソデグロヅルの画像が、万華鏡のごとくページ一杯に何10羽と現れた。
 コンピューター音痴の私になす術なく、お助けコール。「そんなことになるなんて、知らないなぁ。バグかなんかじゃないの?」つれない返事に、万事休す。
 GINを飲んでアタマを柔かくし、キイを叩いては可能なワザをやみくもに試みた。執念というか、怖いもの知らずというか。突然、突然として何羽ものソデグロヅルが所定のレイアウトボックス内に1羽となって納まったのだ。「やったぁ!」 チンパンジーがタイプライターをたたいてシェクスピアなみの戯曲を創りだす確立よりは、マシだったに違いない。
 かくして、ご覧のとおりのアップとはなった。そのとき、時計は12時を過ぎ、3月になっていた。                                       (2006.3.1.深夜)                                             ▲2006目次

                    

撮影◆塚本洋三
シロフクロウ――”空飛ぶ雪だるま”
1972年2月26日
デトロイトに近いエリー湖畔、ミシガン州、USA


 北極圏で繁殖する大型の白いフクロウ、と聞いただけでフクロウファンの想像をかきたてるのに十分過ぎる。シロフクロウ。横文字にしてSnowy Owl。どちらもいい響きだ。あこがれの鳥だ。
 主食のレミングのポピュレーションが4年周期で大爆発する年には、シロフクロウも雛を育てやすく、その数を増す。4年毎に、見られるチャンスが増える単純な理屈となる。そんな年にカナダ国境を越えてミシガン州で冬を越すシロフクロウを、私は待っていた。

 うっすら雪の積もる凍てついた湖畔を、一人歩く。エリー湖は五大湖の一つ。これが湖かと思うほど茫漠として遮るものがない。吸い込まれそうな天空。寂として透きとおる寒気。白と青と冬が支配する、時の流れさえ止まったかのような佇まいだ。
 雪上に軽く残されたホッピングの足跡は、ユキホオジロのものに違いない。足跡を目で追った視線のそのずっと先に・・・「塊り」を見つけた。ドッキリ。
 「おおっ?! あれはアレだぞ。」
 「塊り」の上の方がゆったり水平に動いた。白い顔に2つの金色の目。その目がはるかに私を認めたような気がした。ブルッた。間違えようがない。成長の雄ではないとみえて全身純白ではないが、十分過ぎるシロフクロウだ。しばらくは、ただ立ちすくんでいた。
 なんとかカメラにおさめたいと願う男と、それには無関心なツンドラの主との駆け引きがはじまった。あっちを向いているスキに、タタタッと腰を低く近づく。開けっぴろげの荒野で、いないいないバァ。
 首だけを時々回し360度を睥睨しているだけで、警戒している風でもない。だが、撮影距離まで近づかせてもくれない。一度飛ぶと、低くかなりのスピードで距離をかせぐ。負けじと追いかける。足早にいい加減近づいてから、息をととのえ奥の手のいないいないバァをくり返す。
 土くれの上でアグラをかいたように落ち着いたとき、どうせ私は丸見えなんだ、ままよと真正面からにじり寄ってみた。なんと、イケルじゃん。
 タクマー300mmF4.5にY2フィルターとx2〜x3のコンバーター付き、潤滑オイルを寒地仕様にした愛用のアサヒペンタックスSV。そのファインダーに写ったやや白い「塊り」は、鳥とは言い難い。とか思いながら、実はピントがあっているのかどうかも判断つかないほどにあせっていた。右手人差し指が勝手に反応してシャッターが切れる。反射的に親指がフィルム巻上げレバーを水平に回転させる。夢中で何回か繰り返して、我ながら冷静にもフィルムを温存した。トライX36枚撮りを撮り切ってフイルム交換しているときに限って飛ばれたりする。そしたら一生後悔するのが頭をよぎったからだ。
 果たして。巨大なごま塩オニギリのような頭を下げて姿勢を低くした。ヤバイ、飛ぶな、ドハッ、飛び立った、やったぁ! 宙に浮いたとたんの「塊り」にシャッターの心地よい響き。総てがこの一瞬に凝縮された。

 なんたって恐れ入ったヤツだ。モンペをはいたような脚、羽毛の指、掴まれたら痛そうな爪。大きな頭に一抱えほどもある図体。それが飛び立った。飛べそうにもない「雪だるま」が飛ぶのである。まさに「怪ブツ」。                               (2006.1.18.)                                              ▲2006目次

  

撮影◆高野伸二
ゆびをひろげて舵をとるアホウドリ
1963 年 4 月 14 日
東京都 伊豆鳥島

 アホウドリとは気の毒な名前がつけられたものである。
 英名でも「マヌケな鳥」の俗称がある。地上では、すぐには飛び立てないので、確かにノタノタしている。その昔、人間にこん棒でなぐられれば、ひとたまりもなかったのだ。
 飛び立てば、大海原の王者の威風である。約 7kg の体重を、広げた翼が 2m を越える細長い両翼に乗せ、ほとんど羽ばたかずに翔けるのだ。
 写真は、”鳥も通わぬ”八丈島からさらに南へ約 300km 、アホウドリの繁殖地、伊豆鳥島へ 1963 年に渡ったときの高野伸二さんのもの。当時の最大目撃数はたったの 44 羽。その 1 羽の若鳥が両脚を舵にして滑空する胸のすく姿を写したものである。

 かつて、鳥島全体がアホウドリで埋め尽くされていた。一度飛び立つと島が舞い上がったかのように白い鳥柱が立ったという。その数、数十万羽とも。
 19世紀後半から羽根布団用の羽毛採取で乱獲がつづき、減り続けた。1929年には約2,000羽。1947年の調査では1羽も見られず、絶滅してしまったと考えられた。
 1951年、「白い大きな鳥」が10羽ほど気象庁の気象観測所員に目撃され、アホウドリ再発見が1954年に鳥学会で報告された。
 1955年の最大確認数は28羽。それが100羽の大台に乗ったのは、1979年。木の一本もない孤島で、命がけの調査保護活動が地道に続けられている。卵は年に一つしか産まない。半世紀を経た現在、1971年に尖閣列島で70年振りに再発見され増えてきた個体を含めて、ようやく2,000羽そこそこ。世界中の総てだ。絶滅が危惧される。
 繁殖を終えて島を去ると、アホウドリがどこへ向かうのかは不明であった。外洋の鳥だけに、バードウォッチャーの目にふれることもほとんど無い。1990年代中ごろからの人工衛星での渡り追跡調査で、日本近海を北上し、アリューシャン列島、ベーリング海、カリフォルニア沿岸まで回翔することがわかった。直径わずか2.7kmの島で育ち、北太平洋を庭先とするのだ。
 米国は2000年に生物種保存法の対象種に指定し、2001年から保護に乗り出した。日米共同の保護作戦は、小笠原諸島に新たな第三の繁殖コロニーを作ろうという壮大なもの。島が火山である鳥島で大規模な爆発があれば、半世紀かけて回復してきたポピュレーションに打撃となるからだ。2002年から合同で検討が進められている。
 アホウドリの仲間は人間と接触の機会は少ないようでいて、実は延縄漁業による混獲の犠牲となるものが絶えない。バードライフ インターナショナルなどの国際協力による漁業面からの保護活動も、同時進行だ。
 アホウドリは、保護基金など皆さんからのご協力をも待っている。

 人間がアホウドリを絶滅の淵へと追いこみ、人間がアホウドリを救う。その人間自身が地球環境を危ういものにしてきた。鳥も人も地球上で生きつづけるには、覚悟がいる。     ( 2005.12.2. )
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