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2008.12.31.カミさんのティータイムさらば と ようこそ

   2008年 さらば
   2009年 ようこそ
 ごあいさつをしてしまった。あまりにありふれたお言葉で芸もなにもないが、とりあえず、といったところ。
 万年部屋にこもりっきりでボーッと過ごしている私には、クリスマスとか年末年始とか世の中の行事は、どうもピンとこない。これは子供のころからの感覚といえば、まあそうだ。勿論お年玉は両手をあげて歓迎したし、「まったくもう」などという気持ちは顔にあらわさずお年玉をあげたのだが、どうも正月はねえ、といった風なのだ。
 正月は人がよる。我が家はおじいちゃんおばあちゃん、父母、兄、そのうえ家は商売屋だったので、親戚から若い衆からどんどん集まる。そういう中で育ったので、子供の頃はそれなりに笑い、少し大きくなったらなんだかんだとお客相手に母を手伝わなくてはならなかった。お客が好きでもあり嫌いでもある人間にしたてられていったわけだ。
 というわけで今日の話題。などと言いながら暮れ正月とも縁もゆかりもない。美術の話。

 「石田徹也」というアーティストをご存じだろうか。2008年11月からつい先日、12月28日まで練馬区立美術館において展覧会が開かれていた。私は彼のファンである。否、ファンではないのかもしれない。実は彼の存在を知ったのはTVの“新日曜美術館”だったと思うが、そのあまりの気持ち悪さとわかりやすさにトリコになってしまったのだ。絵画に姿をかえた石田徹也の感性が私の背中にベトーと張り付き、まっ、ようするに好くも悪くもやられてしまったわけだ。
 石田徹也の遺作集を手にいれた。本屋で求めたかアマゾンで購入したか忘れたが、それからしばらくの間ベットの脇で鎮座していたのだ。しかしこの画集、とんでもないことをおこした。どーれ、と静かな気持ちになって画集のページをめくる。2,3ページ見る。すると頭痛がしてくる。なんだか理解できぬまま、もう1,2ページ送る。すると頭痛はおなじように、いや以前にも増すいきおいで襲ってくる。“頭痛いな”などと思ったのはどうも偶然ではなさそうだ。この画集を見ることによって必然的に頭が痛くなるらしい、と気付きはじめた。
 これはホントのことだ。
 彼は2005年に踏切事故にあい亡くなっている。どういう状況で亡くなっているかは公表していないのではっきりしない。享年31歳。ともかくあちらの世界で浄化しているか、あるいは魂がぐだぐだしているか、私には理解しえない。こういった状況はあまりに画家として数奇な才能にまぐまれたせいなのか、あるいは霊的な世界なのかはよくわからないが、いまだ時々3ページを限度に画集をひもといている。
 というわけでこの暮れの一大イベントとして、練馬区立美術館にいかねばならなかった。それは画家としての仕事をチェックするため? あるいは霊的現象になにかめぐり逢うため? あるいはただのミーハーとして? どれでもヨイのだが、いかねばならなかった・・・のだが。

 夫は言うことを聞いてくれなかった。今私は内臓の障害者で、一人身ではどこにもいけない。車にのってその場まで連れていってもらわなければ何一つ出来ない。声をかけてすぐに「おれ、連れてかないよ。その画集見ているだけで頭痛くなるなんて。そんなのダメ。」うったく、もう。

 夫は2009年もまっこう生きていくのだなぁ。弊社バード・フォト・アーカイブスは、丑年も元気だぜっ。(塚本和江記)

2008.12.31. この大晦日に

 『今月の1枚』で紹介した憧れのフクロウ、カラフトフクロウ。私の思い入れに、もう少しお付き合いのほど。とはいえノンビリしてはいられない、丑年が迫ってくる。

 ミシガンから帰国後、私がついに野外でカラフトフクロウにお目にかかれたのは今のロシアがソ連邦であった時代、ヤクーツクの北、ある湖畔の疎林をバードウォッチングしているときであった。見たい、見たいとガツガツしていないときに不意をつかれた感じで、見上げるカンバの枝に“斑紋だらけの渋い灰色の棒っ杭”のような丸見えのカラフトフクロウが、オタオタする私を小さな黄色い目で見下ろしていた。
 飛び去る様子もないので、もっと近づけばよかったのにと今にして思うのだが、タクマー300mmをつけたアサヒペンタックスSPのファインダーに見える憧れのフクロウに満足したか、興奮して判断がつかなかったのか、手持ち棒立ちで遠くから数枚だけシャッターを切った、のを覚えている。
 その時のスライドを捜しだして紹介したいものだと思ったが、早くも紅白歌合戦が始まっていた、その時間がない。ま、見ぬもの清し、かも。そんな気もする。

 あまり魅力のない紅白がどうも耳障り、ながら見していても原稿が進まない。テレビを切った。大晦日のいつにない静けさに気づく。

 さて、この際、我が家にいる“カラフトフクロウ”も紹介しておこう。石でできている。とくとご覧いただきたい。“座っている”ポーズなので棒杭にはみえないが、顔は立派なカラフトフクロウではないか。
 写真は今日の午後に撮った最新のもの。カメラは、な、なんとついに手に入れたデジカメ一眼だっ。デジカメがどうも好きになれない私が、であるから、間違いなく今年の私の十大ニュースに入る「デジカメ事件」ではある。その顛末は来月にでも書くとして、初撮りしたついでにカラフトフクロウを量りにかけたら10kgほどもあった。どこで手に入れたかというと、彼はアメリカ生まれなのだ。
 ミシガンから帰国して数年後、アメリカ西部を旅したことがあった。イエローストーン国立公園のホテルのショップで、1羽のフクロウが床に鎮座していたのを運良く(値札をみれば運悪く)見つけてしまったのである。一目惚れ。
 同じ床にあぐらをかいて彼女(彼?)をみつめ、どうしたものかと30分ほども悩んでしまった。旅先でちょっと買うには、実は気がひけるほど高い。日本へ送ったらさらに高くつく。持ち帰るには重すぎる。さりとて初めて出合った憧れのカラフトフクロウだ、諦め難い。迷いに迷ったのだった。
 以来、我がアパートの床に棲みついているカラフトフクロウは、私のカラフトフクロウについてのすべての思い出を一身に受け、お宝的存在なのである。

 この原稿は、カミさんのお古のコンピューターを引き取って叩いている。一応Windows XPなのだが、滅法反応が悪い。フォルダを開くまでに小用がたせる。文字変換は、あれどうしたのかなと思うほど毎回が遅い。のみならず、時々スクリーンが暗転してドキッとさせられる。イラついても仕方ないシロモノ。心身に良い影響を与えないので、緊急用なのだ。
 今なぜ緊急かというと、私のコンピューターは昨晦日の朝から、妙な色模様がディスプレイに蔓延する病気になってしまった。あわててバックアップをとるも、バードディスクへのコピーがいつになく超ノロノロで気が気でない。今朝までなんと21時間もかかった。一体なにが起きたのか・・・。

 皆さん、コンピューターの悪口を言ってはいけない。カミさんのお古は、ここにきて暗転したままついに動かなくなってしまった。急きょカミさんが今使っている別のコンピューターで叩きはじめた。これがなんとも手の焼けるVISTAなのだ。いや、悪口を言ってはいけない・・・。

 ついに今年も1時間足らずを残すのみとなった。コンピューター御難で一年がしめくくられるとは、コンピューター音痴が冥利につきる? へこたれそうだか、夢をもとう!(←『ルーキーズ』の見過ぎか) 今日はまだ私の病んだコンピューターを立ち上げていない。なにもしていないのだから病気が治っているとは思えないが、万が一にすがりたい私のこの気持ち。気合一発、本番一発、ホームページへのアップを大晦日のこれから試みるとしよう。すっきり年を越すぞぉ。
 皆さん、どうぞ佳き新春を! (塚本洋三記)

BPA
BPA

2008.11.29. カミさんのティータイム: 雑誌と鼻水タラッ

 このところ寒い。気温に敏感に反応している。どうも、くしゃみやら鼻水は温度差に弱い。人生のその時々にいろいろ症状がでる。大昔は夏、バスに乗ったときに鼻水がでてきた。それほどバスの空調がききすぎていたのだろうが、それからというもの、喘息やらなにやらアレルギー系を勃発しはじめた。に加えて鼻水系の汁もの注意せよ、が始まってしまった。家にいる時ぽとぽと、鼻水をあしの指の先端に落としながら歩いていた。
 せんだって、本屋に足を運び雑誌を見物していた。平ずみされたぴかぴかの本たちはこれ見よがしに、“あたしを見て、オレを買え”といっている。まずは女性誌をながめ、文芸誌をちょと手にとる風をよそおい、経済誌の背表紙をなぜ、趣味的雑誌の群れにいく。今日の狙いは“pen”。特集はデジカメ。2,3日前の新聞広告に載っていた。カメラ雑誌ではないのでわたしにも持てる。それに加えてバード・フォト・アーカイブスは写真関連会社なのである(そうだったのだ)。
 この雑誌を手にしょうとした瞬間、ツーと、鼻から汁が流れた。なんの前ぶれもなくポトンと、となりにつんである群れに落ちていった。かなりおおきな汁滴であった。
 あっ。つぎの行動までひと呼吸。そして首をふらずに周りを見渡し、どうも黒目だけ動かしたようだが、反射的にその汁のツブを左手でふいた。少しつめたかった。そうしてキレイに整えたあともういちど、あせる心を隠し静かにその本の表紙をゆびでなぜ、手にとった。問題ない・・・と思う。あせっていたので雑誌の名前は忘れた。
 夫に“pen”をレジまでもっていってもらい、一息。こんな時人はどうするのだろう。店員に正直に伝える? そしてその雑誌を買うつもりである、なんてことを述べるのだろうか。あるいは鼻水なんてことは言わずによだれとか嘘をつくか? 鼻水とよだれではどちらがましか? うんぬん。恥の部分だけいえば万引きして、叱られしまった方がよっぽど人なみなのであろうか(そうともかぎらないかぁ)。結局反射的にチョイスした行動は、しらぬ顔して逃げてしまった。まったくだらしない話だが、どうにも説明しづらい。
 日本橋高島屋向いの古くて大きな(今は建て直されてぴかぴかだが)、つまりお爺ちゃんたちが昔から愛し続けた万年筆などを買った店“丸善”だから、ちょっとしたクレームなどはその懐のおおきさで飲み込んでくれるだろうけれど、故に、あまりの落差に告白しづらい。鼻水じゃあ、こう、失礼というか、ランクが違いすぎる。コンビニの雑誌にもの申しているわけじゃないのだ。ああ、なんという落差。つまり相手があまりに大物で、それであまりに小さいお詫びを言いそびれたわけなのだが、あの、鼻水つき雑誌はいったい誰が買っていったのだろうか。
 大丈夫、きっとだれも気がつかない・・・さね。(塚本和江記)

2008.11.30. 
ああ、悩ましきデジカメ一眼

 もはやデジタルカメラでないと話にならない時代 (なのか・・・)。
 銀塩かデジカメか、いや共存かではなく、時代ははっきりデジタルなのだ。とたまたま手にいれた『pen』誌でいわれると、モノクロのフィルムカメラで育った私には、どこか抵抗したくもなる心境である。

 誰にでも撮れてしまうオート、オートのデジカメのメカに尻込みしているアナログ勝ちの私。それは私の問題なので放っておくとして、どうもデジカメが好きになれないでいるのは、デジカメで撮れた写真のこれ見よがしのギンギラギンのピントとキレイ過ぎるほどのカラーのせいだと思っている。光学機械技術がそこまでの高水準に到達したのだ。私には、ピントも色も“暖かみ”に乏しく、非人間的なものを感じてしまうのである。
 塚本のヤツ、撮れもしないで何を言うか、と言われるのもシャクなものだ。とか言っては、また時代のバスに乗り遅れている。が、どうやら次のデジカメ一眼バスを待つあたりに追い込められてきたようだ。理由はといえば――。

 今月8日の週末に新潟県水原町の瓢湖に白鳥とその見物客の取材にでかけたときのこと。久々にニコンのクールピクス5700を持ち出した。ちょっと写すには便利以上の便利さ、その有り難さが身にしみている最初にして今のところ最後のコンパクトデジカメである。取材ともなればこれまで使っていたCFカード128KBより容量の大きなものを手に入れ、tif でバッチリ撮ろうと思っていた。店員さんは、「5700だと割と古いから2ギガのCFカードはムリかもしれませんね。」“割と古いから”の一言に私は傷ついた。数年前に買ったばかりの愛機なのに。ジャンジャン進化しているデジカメにとって、数年は大昔に等しいことを納得させられるのに時間は要らなかった。1ギガのCFカードで十分ですとか負け惜しみを言って購入したのである。内心は、128KBに較べればほんとにこれで十分と、(今ごろ1ギガを手に入れて)意気揚々であった。
 瓢湖のコンクリの“湖畔”で、まず一枚。最初のシャッターがいつも通り切れる。続いてもう一枚・・・。ゥ、いつもと違う? シャッターがいつものように落ちないのだ。リャ、故障したか? まさかここまで来て・・・。ム? 覗きなおしたファインダーに砂時計表示が・・・。なんだろ、これ・・・ エエェッ、さっき押したシャッターの画像処理をしているのだ。そんなに時間をかけて? 砂時計は律儀に少なくとも3回は砂で時を刻んだ。さすがにイライラし始めたころ、ようやく次のシャッターが切れる運びとなる。
 ガシャ・・・。焦って押したくもなかったシャッターを押してしまう。ク、クソッ・・・。当然、同じ実にむなしい時間をやり過ごす。次のシャッターまで居眠りができそうなほどに長く感じる。本当に故障かとカメラをやたらと振ってみたりもした。これには私も参ったぁ。撮影が終わるまで参りつづけたのである。

 「5700は割に古いから・・・」 私を傷つけた店員さんの一言は正しかったのだ。これじゃ仕事にならない。私の最初のデジカメ一眼をいよいよ購入せねばならないのか・・・。つい先日、どうせ買うなら最新のキャノン EOS 5D MARKII がでれば5Dが値下がりするだろうからチャンスか、などとほざいていたら、あっさり財布に撃退されたばかりだった。やっぱ、オレはデジイチには縁がないと思っていた矢先の、瓢湖シャッター事件であったのだ。
 今、覚悟を迫られている。お世話になっている写友から薦められたお手頃なデジカメ一眼が、『pen』誌に載っている。しげしげ眺めたところだ。さて・・・。(塚本洋三記)

BPA
BPS

2008.10.29. カミさんのティータイムそして ペッ!

 「うっ」 口にした瞬間、ものすごい速さで反射神経と理屈抜きの感情が全身をかけめぐった。あまりのまずさ故である。毛穴がざわめく、皮膚が波立つ、感情がぶつぶつ騒ぐ。おいしいものを食べた時は、そう、ゆっくりと体のそこからうまいじゃないのてな感覚がしみわたってくるのだが、こっ、こんなにまずいものが体にはいったとなると、全身を駆け巡る拒否反応はすごい。
 オーストラリアはシドニー近郊のなんという公園だったか、とあるヨットハーバーでこの逆上的体感に遭遇して、言葉が消えた。メモもない。あるのはなんとも言い難い記憶だけ。あの静かで美しく、まるで絵本の1ページのような気品ある、さながら“赤毛のアン”などにでてくるような洋風の出店でのできごとであった。こんなに可愛くて、こんなにさわやかで、場所はオーストラリアのヨットハーバーで、これ以上なにを求めようとするのか。なにかうまいものはないかなどとお願いしたら、自らの品性に罰があたる。ところがどっこい、それが本気でまずかったものを与えられてしまったのだ。
 口にしたのは“ミートパイ”。ああ、なんというすばらしい響き。ハンバーガーじゃないところがよろしい。チェックの柄いりのかわいい台紙にこんもりもりあがった田舎風のパイ。ものすごくお腹がすいていた。がぶっとかぶりついた。なにしろミートパイは私の好物なのだ。好物ゆえ点数はひどく甘く生ぬるい点をつけてしまう。なのになんだこのまずさは。私の本能に聞いてみた。これは体内に流しこんではいけないものなのか? NO。これは腐っているのでもなければ農薬いりでもない。なにをどうすればここまで不味くなるのかわからぬままミートパイを吐き捨てた。ペ ッ!なのだ。
 口から吐き捨てたのとは別に、そのかみくだいた断面をのぞきこんだ。別になにか変ったところでもあれば少しは納得したろうが、特にカビが生えていたわけでもなく、ただ中身がぐちゃとしていただけ。このままゴミ箱に投げ入れるのも、チート心が痛む。で、そこらでのどかそうにしていたカモメたちににっこり笑いかけこのミートパイをプレゼントした。彼らは悪食で知られる  生き物なので、“うまい”とか“まずい”なんてわずかにしか存在してないはずだ。「こっちにおいで」などと口に出すにもはばかれるような甘〜いこわいろを発しながら、彼らに近づいていった。そうして、「うまいよー」などと嘘をつきながらミートパイを渡そうとした。2,3羽よってきた。が、しかしである。彼らはパイの破片すら口にしようとはしなかった。
 この挫折感、どのように申しあげたらよいのだろう。カモメたちはこのまずさをもはや学習していたのだろうか。カモメたちにすらも嫌われ、顔の筋肉はズローッとなった。
 夫を見た。じっと見た。なにか事が起こったと気付いた彼はパイを口にした。夫の偉いところは、なにがどうまずくとも、とりあえずは食べる。そして「こんなものなのかなぁ」などと言いながら一応食べ物に敬意を表す。それが今日に限って「なんだこりゃ」と大声で騒ぎたてた。そして、ペッ!
 カモメと同様、彼は学習した。

 きょうのフォトはそのヨットハーバー。カモメじゃないが、サギの一種White-faced Heron。ああ、うつくしい・・・。(塚本和江記)

2008.10.24. 秋の夜長はモノクロ写真SHOWで
 ほとんど1年程前のことになる。日光は東照宮近くで日光野鳥研究会主催の「モノクロ写真の力」と題した講演会(第82回)が開かれた。その時パワーポイントされたほとんどのモノクロ画像と講演内容が、同研究会のホームページに先日アップされた。
 バード・フォト・アーカイブスの登録画像がこれほど一挙に公開されたのは初めてのこと。遅ればせながら日光野鳥研究会のご好意でここに紹介させていただきます。まずはクリックしてご一覧いただければと。http://nwbc.jp/kansatu/index.html →第82回を選択してください。

 お急ぎの方に、80余コマのうちから極く一部の画像をここに・・・。

 掲載された画像のクレディットは、上記ホームページ上でご覧いただきたいのですが、撮影者および画像、イラスト、音楽をご提供くださった方々のお名前を以下に列記し、心からの感謝の意とさせていただきます。
    石川 勉    岡田泰明    岸本寿男    神戸宇孝    重原美智子
    志水清孝    下村兼史    周はじめ    菅野雄義    杉崎一雄
    高野伸二    塚本和江    塚本洋三    中村正博    永井真人
    西崎敏男    百武 充    藤岡宥三    藤村和男    藤村 仁
    松田道生    望月英夫    ローゼ・レッサー

 すでに公表された画像も多々あるのですが、中には本邦初公開も。野鳥生態写真家でも知られた高野伸二さんの初期の“迷作”も登場しています。これには天国の高野さんも微苦笑を禁じえないでしょうが、私の独断での掲載です。勿論、後年の名作も見られます。
 拙著「東京湾にガンのいた頃」(文一総合出版)の舞台である千葉県新浜の環境変化は、画像を横スライドしてパノラマでご覧いただけます。今回の「売り」です。東京湾奥のかつての広大な干潟が高層ビル群にかわる画像と対比されているのをお見逃しなく。
 講演のテープ起しと校正、画像の数の多いこととキャプションの追加など、ホームページ作成以前の大変な編集作業で掲載が延び延びになったのは、私のチェックが遅れた怠慢もあったのですが、日光野鳥研究会ご担当のBYさんの念の入れようにもあった。驚くばかり。これを超ご多忙の本業の合間にこなしてくださった。末筆となりましたが、ここに改めてお礼申し上げます。(塚本洋三記)

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2008.9.29. カミさんのティータイム船越桂 展―「夏の邸宅」
 東京都庭園美術館で開かれていた彫刻展に足をはこんできた。前日までゲリラ的豪雨がふり、落ち着くのを待って行ったのだ。いや待てよ、光の量が変わると作品に影響をうけるかと思っていたが、中に入ってみればちゃんと計算され、天気の光の量はほとんど関係なかった。

 船越桂氏は彫刻家である。この芸術家の彫刻は国内外でヒットしている。一般にも知名度が高いのは、しばらく前に『永遠の仔』という本の表紙に使われたり、2003年に開かれた前回の彫刻展の時、資生堂がスポンサーになり自社の広告などで使っていたからだ(船越氏が巨大ポスターのモデルになっていた。イケメンかなり手前かなぁ)。
 今回は、ドローイング、版画、彫刻と二次元的なものと三次元的なものを一緒に展示するのが目的であった。つまりぺったんこの下書き、版画、彫刻までならべたものだ。このなんでもアリよ的彫刻展をはなっからめざしたか、あるいは結果こうなったかはちょっと疑問の残るところではあるが、実際入館すると、展示方法がすばらしい。展覧会場の特別さ、つまりここは1933年にたてられた朝香宮邸(あさかのみやてい)を美術館にし、すこしばかり生活臭がしているのだが、それやこれらが入り乱れ、ありていにいえば“おもしろかった”のだ。(おもしろかった、とか、よかった、などの単語は頭の痛いものである。この手のものは芸術を表現するのに避けたほうがよい言葉なのであるが、やっぱり“おもしろかった”を使わせていただく。)

 2003年の展覧会では、いわゆる“まっ白くドーッと広い東京都現代美術館”で、個々の作品が放出するエネルギーにより配置空間が計算されていた。一つの作品がその力の量の表現のように、正比例して美術館内の空間の大小を決めてきた。それはそれで、私は作品にこころを震えさせてもらい、うっすらと涙さえ、要するに泣いてしまったわけだ。
 しかしながら今回のこの展示物は、作品の力に見合った空間にドヒャーと置かれていたわけではない。かつて書斎だった部屋に彫刻一体を展示する方法、階段をあがった踊り場にお客を迎え討つ作品、小部屋からひっそりとお客をのぞきこむように置かれた作品、等等。これらのアール・デコ様式の邸宅と現代作家の作品が“見事にはまった”のだ。
 彫刻によっては2003年の展覧会で見たものもあって、「エッ、えー、コレって同じ作品?」なのだが、それは意外性の驚きであったのだ。とりわけ、風呂場に置かれたにょっきり手の生えた「言葉をつかむ手」にいたっては、この作品はずっとこの部屋に住んでいたかも、などと意味不明な気分にさせられてしまった。そのうえいくつかの彫刻たちは、夜中にこっそりと自分の立つ位置を離れ、まるで恋人同士の密会のようにふわふわとうごめいているのではと、あらぬ想像すらもたくましくなっていったのであった・・・なんて。
 そのくらいこの展覧会はおもしろかったのだ。無論わたしは船越桂氏のファンなので、彼の芸術性の方法論はすべからく“GO”なのだ。

 像ににょっきり腕が生えてきた・・・。それは2003年の展覧会。そして今回は、“スフィンクス”と題し皮素材の耳がだらりとはえ、女性像にちんちんすらも生えている(両性具有)。過去の、人間的な一部分をよりリアルに模写する方法から、さらに観念的な表現法が多くなってきている。氏のなかでなにかが見えて、それをより的確に表現しようとしている。
 しかし、すこーし不思議。アーティストの表現方法が進化していくと、豆腐状態になっていくことが多いのではないか。つまり細部とか余分なものをとりのぞいて、結局シンプルイズベスト、つまり豆腐化していく作家が多いなかで、氏はどんどん新しい表現方法に進化してゆく。私はどんどん期待してゆく。この次は何が生えてくるのか?

 今月は旅行記はお休み。目の前におしゃべりしておかなければならないことがある、と思ったから。さーて、来月は? (塚本和江記)

2008.9.30. 
消えてしまうのか? 日本の自然

 『消える日本の自然』が上梓された。必見&必読の書。鷲谷いづみ編、恒星社厚生閣、定価税とも¥3,150(ISBN978-4-7699-1086-2 C1040)である。我田引水で紹介したい。

 本書の大きな特長は、第1章が写真だけで構成されている点である。270頁のうち103ページが、過去と現在を比較した自然環境の写真で埋まっている。文字通り埋まっていて、全国から集められた写真が小さくレイアウトせざるを得ないのは、残念である。
 しかし、それが本書の伝えるメッセージの重要性をいささかも減じてはいない。北海道から九州まで100箇所ほどの代表的な自然環境の変貌を目のあたりにする。いまさらながら愕然とさせられるのだ。
 第2章から、保全生態学の鷲谷いづみをはじめ、第1章に対応する環境別に専門家が執筆した「消えつつある日本の自然」、さらに「生物多様性の危機」「私たちにできること」と続く。最後の参考文献は、具体的な事例を示す内容のものが多く挙げられている。

 写真が本書の大切な役割をになっているのは、わが意を得たり。さていつの間に私たちはこれほどまでに自然を変えてしまったのだろう。怖いのは、“いつの間に”である。急激な変化なら誰しも気づいてなんとかしようとするだろう。徐々に進行する環境の悪化は、なんとなく目に見えていても危機感をつのらせるほどそうとは認識しにくい。気づいたときには、科学技術的に、経済的に、価値観の差から利害関係、国家戦略上から国際関係にまで、対応が恐ろしく困難となっている。今日の地球環境問題しかりである。
 「どうも地球がこの頃オカシイんじゃないのかねぇ」と肌で感じて口にする人が、近年身辺に少なからずいる。感じはじめた人もまだ感じていない人も、『消える日本の自然』の写真をよっく観て欲しい。これまで人はなにをしてきたのか、現在自然はどうなっているのか、そして私たちが将来に投げかけている今の環境問題への認識を、まず新たにしていただきたいものと強く思う。本書が、私たちの自然環境をなんとかしなければとの方向で世の中がものを考えられるようになる一助になれれば、なによりである。

 バード・フォト・アーカイブスとしては本書の企画に賛同し、写真の提供に極くささやかに貢献できた。石川勉さん、高野凱夫さん、高野伸二さん、平岡考さん、私を加えて9点が掲載されている。この場を借りて出版社と写真提供の各氏にお礼申しあげたい。
 そして、北海道から沖縄、小笠原の方々からも掲載候補となる得難い写真のご提供をいただいた。残念ながら本書には掲載されなかったが、短期間での突然ムリなお願いに積極的にご協力くださった方々に、今でも有難さが身にしみる。併せて心からのお礼を申し述べさせていただく。(塚本洋三記)

BPA
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2008.8.29. カミさんのティータイムああ 無欲

 シドニーからちょと車で動いたところ、リゾート的こじんまりとした海岸があった。海辺の散歩とはいかず砂の上にゴロリと転がる。疲れていた? どういう理由か思い出せないがウトウト。静かな風が取り囲み、波の音は今いるこの次元を超えさせてくれる。なーんてもっともらしいことを書きつらねてみたいわけだが、要はぼーと気持ちイイだけを求めている。頭にきたことなんか思いださない。ただひたすら、うとうと。日本にいたときこんな風に旅さきでうたた寝していただろうか。ゴロゴロして眠ってしまったことなどあっただろうか。うつらうつらしながら考えているような。
 どうも鳥?らしきものがそばに来ているような気配。顔の上にのせた帽子をちょとずらし、すきまからのぞいてみる。鳥がそこらを歩いている。ふーん、どのくらいいるんだろう。また、軽い睡魔。そして無欲。「私は寝ているからここらで遊んでいけば」と夢のなかでぶつぶつ思う。

 欲がないと鳥からやってきてくれる・・・ことがけっこう多い。数年前、埼玉県の大きな公園に出向いた。なーんでこんな体調の悪い時に、というほどのときだった。一歩一歩、夫につかまりながら歩いた。時は“つつじ祭り”。例の極彩色のつつじの山をぬけ、あたりはひっそりと、そしてうっそうとした森になっていた。小道をぬけ木々の間を静かに歩いていた。すると私たちのまわりになんだかんだと鳥がにぎやかにしている。メジロ、ヒヨドリ、オナガ、シジュウカラ、etc. どこにでもいる鳥だけれど私がのそのそと歩いても逃げない。そればかりか鳥たちからやってくる。

 その時にはヤッホーとか喜びの感情はわきいずってこなかった。ただ「けっこう埼玉も“野生の大国”じゃないの」と、淡淡と思っていた。そう、きっとそうなのだ。小鳥でもでてきてくれないかなぁなどと邪悪な気持ちがないほうが、相手の次元に近づいているのかな。目の前を鳥たちが行き過ぎる。その景色は今思えば、童話の世界のようなのだが、私は“そういうもんか”という感じでウハウハはなかった。
 しかしやはり「ああ、無欲のなせるわざ」なのだ。

 シドニーの写真を載せたが、このカモメ、日本にはいない“ギンカモメ”というものらしい。夫はオッ、オッ、という気分でシャッターをきっていたようだ。私はカモメを脅さぬようにじっと転がっていた。これも無欲のなせるわざ、鳥たちは私をただのブツと思ってかそばで遊んでいった。

 しかし大きなおまけがあった。このギンカモメの、もうひとつ残暑見舞いにちょうどいい写真があった。カメラマン、どうもこちらの方を狙っていたような気がする。しかしまぁ、いい。結局ギンカモメは私に近い。これで、無欲のなせるわざが証明されたに違いない、かなぁ。(塚本和江記)

2008.8.25. 暑さはビールで吹き飛ぶか

 前回の『The Photo 今月の一枚』をご覧あれ。カツオドリの親子が炎天下にそろって口を開けて涼をとろうと喘いでいる。キャプションには『親鳥も雛も暑さにうだる。そんな情景を写真で眺めているなら、不思議に涼を覚えるではないか。』
 ちょっとムリがあったかと思っていたら、OAさんからメールが届いた。
 「カツオドリの真似して口を開けてみても一向に涼しくならない今日この頃・・・」
 返信して私。「人間たるもの、口を開けたらビールをグビッとやらねば涼はとれぬが当然ですよ。」
 すぐに返ってきたメール。「人は口を開けたらビールを注げ」とのご名言、座右の銘といたします。(笑)」
 想像してたよりはるかに酒豪なのだと最近わかったOAさんにさらなる酒飲みの口実を与えてしまったものだ。

 けだし暑いときの冷えたビールって、ほんとに美味いですねぇ。あのノド越し! 最初の一口がまずこたえられない。ビール飲むならこの数秒間を大切にせねば。私が避けたいのは、口にあてて飲む缶ビール。缶からでてくる量と、もっとゴクゴクッとノドに流したい量とが合わないもどかしさ。ビール会社が缶飲みビールの図を宣伝に使うのは私には気がしれない。2つ目に避けたいのは、小さいコップにつがれたビール。一口の量が少なすぎてビールのビールたる美味さが半減する。3つ目、飲みたくない気分に勧められるビール。いずれの場合も結局は飲むのであるが。

 ビールに限らず、酒はできるだけ上物を、飲みたい時に、気のあった人と、飲みたいだけ飲むのがモットー。というと私が大酒のみのようだが、大好きでも深酒はあまりしたくはないものです。
 とにかく酒は心楽しく飲むもの。楽しい酒は量ではない、質で飲むことだ、と決めている。なかなかいつもそううまくはいきませんが・・・。

 しかし、今年ほど暑気払いに誘ったり誘われたりしている夏は近年珍しい。中でも出色の飲み会は「ギネスとテキーラの会」であった。テキーラに先立って一人当てギネスのビンビールが1本つくとは、洒落た計らいである。主催者は酒心ある人とみたり。そこがまず気に入っての参加だった。
 人生2度目のテキーラだった。本格的な飲み方をすべし。ということで、某鳥類研究所のSYさんから俄か手ほどきを受けた。まずライムの一切れを左手の人差し指と親指でつまむ。つまんだ両指を水平にして間の平らな小スペースに岩塩を一つまみのせる。その岩塩はモンゴルの2−3億年ほど前の良質ものを良しとする。適量のテキーラが注がれたグラスを右手に持つ。準備完了。
 いざ。岩塩を直接口に含む。口の中を好みの塩加減にしてテキーラを一気に飲む。つまんでいたライムを歯でしぼり味わう。 
 スカッ〜・・・
 この間、数秒のできごと。
 リュウゼツランの樹液からとる強い(といってもウイスキー並みの)酒だそうだが、一連の儀式がさらに酒席を盛り上げる。
 困ることがひとつ。カッと一気に飲むせいで、あまり「飲んだ」という気がしない。で、ついグラスを重ねる。効果はほどなく理解できた。

 平素酒を飲むにもなにか理由をつけないとちょびっと気がひける。
 北京オリンピック漬けの紙面(8月24日付け読売新聞朝刊)に小さくでていた記事をカミさんがみつけて呟いた。
 「新種の鳥がめっかったってよ。」 
 「なにっ? この狭くなった地球上にまだ新種がいたのかえ?」
 アフリカはガボンでアメリカのスミソニアン研究所のチームが発見。科学専門誌Zootaxa 1850:27-42(2008)に発表されたOlive-backed Forest Robin (Stiphrornis pyrrholaemus)である。
 こりゃぁメデタイ。さっそく新種に乾杯! (塚本洋三記)
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2008.7.31. カミさんのティータイム東へ戻れ

 わきまえもなく西に走った。コアラとカンガルーを目指して。当然のことながらどちらもお目にかかれぬままタイムリミットが押し寄せ、いい塩梅のところでUターンして今走ってきたばかりの対向車線を東にもどりはじめた。とても贅沢なようで、限りないほど馬鹿な行為ではあった。
 けっこう内緒の行動と思ったが、自らをバカだっバカだっと言いちらしているわりには楽しくて、これは本当にちょとMだと、にやにやしながら車を進めていった。方向が変われば窓からの景色もチト変わる。これはこれでけっこう楽しめたのだ。しかも今度はちゃんと目的を持って。シドニー空港へ行くのだ。帰国の飛行機に乗らねば。

 オーストラリアの昔の交通標識は妙なものがあった。この先カーブあり標識がみえればスローダウンしようかという気になり、スピード標示もさがってそれはそれで普通なのだが、そのままカーブにつっこむと、えっ? 制限速度いっぱいまでスピードアップしてもよろしいサインが早くもカーブの一番キツイあたりに見えてくる。わけわからない標識である。とてもこんな表示どうりに走れない。オーストラリアの感性はちょと違う、と思うのだが。
 ともかくそういった気分をかかえながらひたすら空港へとむかった。向かうのはいいが都市部に入ったら、今度は道がわからない。どういうわけか住宅地に入り込んでしまった。高級な家が並んでいたが、ナビゲーションシステムなんて考えもおよばぬ時代、手元にあるのは電話帳のような地図だ。それも縮尺が大きいというか小さいというか、ちょっと走っては次のページ、また左に曲がって次のページという具合に。これには参った。これはレンタカー屋の策略か?と思えるほどわかりずらい。まぁ、レンタカー屋にどういうメリットがあるのかわからないので、これは考えすぎ?なことなのだろうが、ともかく必死である。まちがったら飛行機の離陸の時間だ。地図読みが下手で日本への時間に間に合わなくなって、“とほほ”になる。そんな逃げ手の気分で地図読みをしたら、なんと一か所もミスをおかさずにクリアーした。この一件、単なる地図読みではない。外国行って見たこともない地図帳を片手に現在地を確め、これまた必死にドライブする夫に右だ左だと指示するのだった。
 「よし行ける」と思ったのもつかのま、今度は交通渋滞だっ。シドニーのハーバーブリッジを左手に見ながらのろのろと進まねばならぬ。この追い詰められた悲しさはどのように表現したらよいのだろう。大ごとなのか小ごとなのかわけがわからぬまま、夢中になってつきすすまねばならぬ人間の幼稚なことよ。嗚呼。

 

 飛行場にもどれたのは飛行機のフライト時刻直前だった。ゲートへ向かう一直線を猛スピードで抜けた夫はレンタカー屋に戻る余裕もなく、近くにいたレンタ屋らしきおっさんに怒鳴ってキーとガソリン代に十分すぎるキャッシュを手渡しレンタカーを後にした。私は出国手続きの窓口でなにやらさっぱりわからない英語を使い、「夫がもうすぐくるから待ってほしい」とかなんとか言いちらし騒いだ。逆上していたためもはや細かい点を説明できないでいる。夫はもうすこしマシな英語で話をつけ、とうとう飛行機に乗り込んだ。そんな風にして飛び立ったのが定刻より10分ぐらいだったと思う。遅れた。きっとなにかトラブルがあったか? うんにゃ、しようがない日本人が約2名いたせいか。

 今回、写真が見当たらぬ。渋滞の写真もとってはいない。で、こういう場合にはまったく関係のないものをのせるべし。というわけで、ワライカワセミの画像。日本には人に飼われているもの以外みられない。本国では野鳥なのにこんな手で触れる距離。うーん、オーストラリアはやっぱり、やるなぁ。(塚本和江記)

2008.7.12.サギ三昧プラス

 車から出ると、緑一望の水田。クワーッと頭上から宇宙へと一気にひろがる無窮の空間。シラサギがそこかしこに。稲田を渡る真夏日の微風が心地よい。
 「これだぜぃ」心につぶやいた。気分は一気に自然へと回帰し、日常と異なる開放感は壮快の一語につきる。
 ここは、茨城県牛久沼に隣接する水田地帯。
 その朝の私といえば、自宅アパートを出る。ビル群にひきさかれるような地平線(?)を視野に、JRの人となる。常磐線藤代駅で総勢12人の鳥仲間に合流し、車に分乗。かくして私のほとんどの時間は常に「箱」の中、閉鎖空間である。自宅から2時間もしない広大な水田地帯にきて、「箱」から解き放たれた心が一気にはじけたのはムリもない。
 私だけではあるまい。人為的に囲まれ区切られた空間が日々の生活や仕事の場であれば、自然の中に飛びだして無限の拡がりに身をおくとき、それはストレス除けの精神安定剤であるハズだ。
 自然と共に過ごせる有難さをかみしめて、さぁバードウォッチングだ。

 驚いたことに、目にはいるシラサギのほとんどが、一時はみつけるのが難しくなったほど減ってしまったと思われたチュウサギである。チュウサギは環境省レッドデータの準絶滅危惧種(現時点では絶滅危険度は小さいが、生息条件の変化によっては「絶滅危惧」に移行する可能性のある種)である。人の気配に稲の中からカマ首をもたげるようにこちらを見るのは、どうみてもどれもそのチュウサギだ。
 聞けば、茨城県下このあたりチュウサギは極く普通とのこと。ありゃ、大中小のシラサギの中ではどこでも一番多いと思っていたコサギは、探し出さねばならない程わずかしかいない。これはまたどうしたことか? 同じ日に早目に本隊を離れて日光へ向ったMさんご夫妻の後日の報告では、埼玉、栃木と田んぼのなかを走る東武線からはサギの姿がほとんどなく、帰路に見たのが飛んでいくゴイサギ1羽だった、と。関東一円、“水田あるところシラサギあり”のかつてのイメージは消えていた。では、なぜ牛久沼畔にこんなにサギ類が、特にチュウサギが(茨城県に? 実は近年どこか他でも??)多いのか? そしてコサギが少ないのはどうしたことだ?
 いくつかの?マークをかかえつつ、チュウサギに混じるシラサギ最大のダイサギ、草つきでのアマサギ、それにアオサギの何羽かとゴイサギ成長の1羽が見られ、さらに予期せぬ珍サギ、カラシラサギ夏羽の1羽が飛ぶのは見ものであった。サギ三昧の午前中だったのである。
 勿論、セッカ、オオヨシキリ、キジバト、ムクドリ、ハシボソガラス、ヒバリ、ツバメ、カルガモ等も猛暑のなか皆元気であった。

 昼飯は、牛久沼畔のウナギ屋の2階で生ビールにうな重、仲間との語らい。ビールの美味さといったらこたえられない。遠慮勝ちな2杯目ジョッキーは、隣のMRさんと山分けする。鳥の世界で何十年もお互い知っていながら同じ空の下でバードウォッチングをするのは初めてのこと、よい想い出ともなった。OMさんはDVD『日本でいちばん鳥を聴いた男 蒲谷鶴彦さんがいく』2008.5.29.がご縁で知り合い、その日が初顔合わせ。ナマ録派とあって、MMさんやTAさんと話が弾む。それにKTさん父子が加わる。蒲谷鶴彦先生も天国から目を細めていてくださったにちがいない。
 そんなぜいたくな人や野鳥との出会いがあればこそ、バードウォッチングはやめられないのです。

 食後は、藤代駅からほんの数分の住宅地の一角にある小さな遊水地で臨時ストップ。柵で囲まれ人が立ち入れないとあって、ヒメガマの生えたわずかの湿地には、なんとヨシゴイが数つがい繁殖しているという。
 葦原やガマなどの湿地環境に普通にみられるヨシゴイ。だが、開発されやすい環境とあって、葦原が減少消滅するにつれてめっきり少なくなってきた。

 そのヨシゴイを、YTさんのお宅のベランダからアイスコーヒーをご馳走になりながらのウォッチング。なるほど、池の上を飛び交い、近くの田んぼへ採餌にでかけたりしている姿が堪能できた。
 ふと気付けば、その辺りにお住まいの方々はヨシゴイと共に日々を過ごしている! 東京は下町育ちの私には夢のような話。ヨシゴイが“庭先にいる”宅地環境は、貴重な共有財産と考えるべきだ。“ヨシゴイのいる我が町”はなんとしても守ったほうが、鳥にも人にもハッピーなのだ。それには地元の声が第一。周辺住民やふじしろ野鳥と楽しむ会の皆さん、ガンバレ! 外野からも皆で応援しましょう。
 その日のサギ三昧はまだ続いた。ねらって訪ねた印旛沼畔のサンカノゴイである。サンカノゴイは、絶滅危惧種IB類(近い将来における絶滅の危険性が高い種)である。一見麦わら色のサギらしからぬ重量感のあるサンカノゴイが葦原から飛び出す姿を見るまでにそれほど待たなかった幸運を喜んだ。
 まだ広い葦原が残されているそこでは、ヨシゴイがずっと小さなオオヨシキリに追っかけられたり、葦にとまってゆっくりフィールドスコープにおさまってくれたり、絶え間なくみられた。あまりよく見られて狐につままれたようだった。
 これがクセ者、喜んでばかりもいられない。葦原が開発されれば、ヨシゴイもたちまち絶滅危惧種になることを、私たちは肝に銘じていなければいけない。
 実際、印旛沼のはるか対岸では成田新高速鉄道・北千葉道路の建設工事が進行中とあって、双眼鏡で望見するだに堂本千葉県知事の政治判断は腹に据えかねる。そして同じようにサンカノゴイをはじめ湿地性希少種の棲むこっち岸に、対岸の火が飛び火しないという保証はないのだ。

 結局その日一日で見たサギは9種。私のささやかな新記録となった。
 夕方近く、気になっていた巨大な積乱雲が頭上にまでかぶさってきた。遠く稲妻が走る。地平線は大夕立だ。降られたらたまらない。早々にひきあげることにした。さても案内役のTHさんご夫妻、KHさん、ステキな1日、有難うございました。
 解散後、残った4人、OMさん、TAさん、MKさんと私は、駅前で一杯が二杯・・・4時間以上も飲み食い語ってすっかりゴキゲンとなり、大夕立が通過したのさえ気づかなかったとは。(塚本洋三記)

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2008.6.29.カミさんのティータイム: 西へ走れ
 オーストラリアといえば、そりゃもうコアラとカンガルーである。あの国を表現しようとするとき時(無論おおざっぱに言ってだが)、コアラはいろいろな国の婦女子に(どういうわけか女、子供が多いが)だっこされ迷惑そうにしている(と思える)。そうだコアラに会わなければ。オーストラリアに来たのだ。素人の旅行者にはおきてなのだ。あのコアラを胸に抱き、少々恍惚とした笑顔を写真にとらねばなるまい。
 もうひとつ、カンガルーはカンタス航空のロゴマークにもなっている。日本でいえば日航の鶴丸(残念ながら過日現役を引退したが・・・)のツルみたいなものだ。とりあえずお目にかかっておかねばならない。
 コアラとカンガルーのめぐり逢いがわたしを待っている。なんと低レベルではあるが、とりあえず心踊らされることよ。という訳でハンドルを握る夫に声をかけた。「ここはオーストラリアじゃありませんか。コアラとカンガルーを見にいこう」と。その言葉に夫のハートに火がついた。どうもカンガルーと自らが運転する車がならんで走っているのが目に浮かんできたらしい。にやりと口もとがゆるんだ。そして叫んだ。「西へ走れ!」
 シドニーから大陸を西にのびるハイウエイを進んだ。どんどん。コアラとカンガルーが大自然のなか走っている、はずだ。行こう!と決めたときはあまり考えなかったのだが、コアラとカンガルーは同じところにいるのだろうか? だってそうじゃないか。コアラは森の中で木のてっぺんにつかまって、じーとしている。哲学している風である。しかしカンガルーの方は荒野をぴょんぴょんとアクティブに走っている。そんな簡単なことも“んな、馬鹿な”と気づかないほどに興奮してしまっていたわけだ。冷静になって考えれば、そんな訳ないのだが、それもまたよし・・・。会えなきゃあえずもこれまた一興、というわけで走りつづけた。
 どんどん走る。しかし当たり前だが、西にいけば荒野でそこに生息している野生に巡り合える・・・なんていまどき考えるほうがアホなのだ。出発点はシドニーなのだ。東京にいてタンチョウが見たいから北にむかって走れ、なんていってるみたいなものだ。北に走ればツルが飛ぶ、ってか。そう思ってハンドルを握るもまたよしとるするか。

 西へ100キロほど、“ブルーマウンテン国立公園”という看板にでっくわした。シドニーからのコースはガイド書もよくみていなかったので、どういうものかさっぱりわからないが、国立公園というのでいってみた。高い山々の中で観光客を呼ぼうとする姿勢ではあるが、鳥をみせる工夫とかが広大な土地にそれなりに整っている。その台地に真っ逆さまに、ゆっくりと谷に向かい落ちてゆく、一見ジェットコースターを思わせるアトラクション的登山電車のような乗り物があった。勿論ためす。あんな急斜面の乗り物はいままで乗ったことはない。のろのろしながら谷底まで落とされていく。予想もしていなかったのでけっこう無邪気に喜んでしまったが、後楽園のジェットコースターとかデズニーランドのスプラシュマウンテンとかのほうが、こうなんて言おうか一歩ぬきんでている、と思うね。

 旅というものは成り行きも楽しむもの・・・と準備せず、ただ無計画にドライブを楽しんだ。故に、帰りは同じ道の対向車線をひたすら戻るだけ。なんともはや、なのだ。
 結局コアラにも巡り合えず。少し心残りがある。野生のカンガルーと車で競争してみたかったのに。大平原をつっぱしるカンガルーとレンタカー、思い浮かべるだけで今だ興奮してしまうのだ。(塚本和江記)

2008.6.22. “Sky & Wind”と岸本寿男さん

 壁いっぱいに掛けられたウン10万円も中には3桁もするギターの壮観に圧倒される。その名もギタープラネットのお店2階がインストアーLIVE会場であった。尺八とギターのデュオ、F-bandの演奏を待つ。

 ライブはいきなり“Morning Sea”ではじまった。五感を研ぎ澄ませて聞き入り、感慨にひたる。
 この曲こそ動画風DVD 『日本でいちばん鳥を聴いた男 蒲谷鶴彦さんがいく』(このページの2008.5.29参照)で、タイトルに続く私の選んだ最初の曲でもあった。どうでもいいことだが、人間、LIVEもDVDも同じ曲ではじまるという偶然が嬉しかったりするものである。

 そこに至るまでには、人の輪の有難さがあった。
 「バード・フォト・アーカイブスの画像にピッタリきそうなCDがあるんだけど。」情報をくれたのは山階鳥類研究所の資料室長、鶴見みや古さんだった。尺八の音色がモノクロ写真に合うのだという。心動かされた。しかしなんだろうとCDは世の中に五万とある。著作権問題で苦い経験をしたばかりの私はたじろいだ。
 ところが鶴見さんは、作曲者で演奏者を紹介してくれるという。願ってもない話。「研究者仲間だから。いいと思うのよ、たしか先生のCD、使って構わないとおっしゃってたし。」 研究者? 先生? どうも尺八とは結びつかないが、半信半疑のまま「どうぞよろしく」ということになった。
 まずネット経由でCDをさっそく手に入れた。それが“Sky and Wind”。尺八演奏はTosio Kishimotoとある。一聴き惚れだった。尺八らしからぬサウンドにギターとのデュオがなんともピッタリ。包み込まれるようなサウンドに当然というか必然というか無邪気に引き込まれていた。
 なんでも1995年に、アメリカテレビ芸術科学アカデミーが設けるテレビ界のアカデミー賞であるエミー賞、その米国北西部地域エミー賞・作曲賞に輝いたというから、そうだったかと初めて知った私はただただ驚き、嬉しく、かつ恐れ入ったのである。そのようなCDとご縁がつながるものなのであろうか。
 尺八サウンドは、蒲谷スライドショーのバックのほぼ全体に流れる野鳥の声に、違和感なくピッタリなのには我が意を得たり。野鳥録音された蒲谷先生もこのCDならご依存あるまい。私は確信した。この曲をおいて他にない、と。
 今年の2月、岸本寿男さんに状況をメールで誠意をつくして連綿とお伝えし、曲を使わせていただけるかお尋ねしてみた。OKの即答! 鶴見さん様様。どこの馬の骨ともわからない私に、よくぞご決心くださった岸本さん様様。これで私のDVD制作はキマッタも同然。
 9曲のどの曲をどこのスライド場面にあてるか、1種の鳥の声をフィーチャーするときには曲の音量をおさえたり、曲にあわせて画像やテロップの展開を微調整したりと、緊張感を持続させ楽しいオーディオ作業が気のすむまで続いたのだった。5月のバードウィークに予定ギリギリでDVDが完成した。

 そんなご縁で、ライブ開始前の寸暇に初めて岸本さんとのご対面。CDのお礼が直接言えればそれでよかったのだが、しめた、ちょっとの間お話できる時間があった。
 鶴見さんのいう先生とは、実は国立感染症研究所のドクターで医療の最前線で重責を担っておられる方。リラックスされた大らかな雰囲気からは、その本業がどうもピンとこない。趣味という尺八は師範の免許を持つのであるからハンパでない。いくらでも時間の欲しい研究職とプロ級のミュージック活動を両立させているのは、無芸大食かつオンチの私には驚き以外のなにものでもない。「尺八で医者の仕事とのバランスとってますから、尺八がないと・・・」非凡人にはそれが出来てしまうのだ。
 海外の学会出張などにもギターを持ち歩いてちょっとの空き時間に気のおもむくままに作曲する。即興の演奏もわけないのだ。「感じるままを曲にしていくだけで・・・」と、なにごともないかのようなご返事。お聞きしていると、岸本先生のカッコ良さばかりが感じられ、私自身が小さくなっていくのを覚えた。
 私とは次元の違うところを歩んでおられ度量の広い方と出会えたものです。いずれの日かバード・フォト・アーカイブスの画像とのコラボ(?)を夢みてもみたいし、なにより次回のライブを早くも楽しみにしている次第。(塚本洋三記)

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2008.5.30.カミさんのティータイム クレープ&ブレックファスト

 空はすごい。こんな単純なことにいちいちまいってしまう。青空の限界ポイントとか、けっこう当たり前の疑問符を並べ、そのたびにめまいをおぼえてしてしまうのだ。
 今日の空はロードハウアイランドから12人乗り(?)のちっぽけな飛行機にのりシドニーまでもどってきた。お天気は晴れ。以前にチラリと書いた気もするが、夫がパイロットにちょとお願いなんかしてくれて、隣の副操縦席に乗せてもらった。ウヒャーなどと声をあげて喜びたいのをぐっとこらえ、静かに乗り込む。やがて離陸。しずしずと小型飛行機は青空に飲み込まれていった・・・。と、ここまでは大した感動なく、目の前が青いフロントグラスのまま飛んでいくのだが、着陸のときが凄い。飛んだまま飛行機の頭の部分を下げる。すると小さな私の眼に入ってきたのだ。眼の前にシドニーの街が窓ガラスいっぱいに開け、その街の塊の中に突っ込んでいく。段々と目の前の都市が大きくなっていく。ちっぽけな飛行機は滑走路をつかまえ、融合しながらシドニーの街のほんの一部分となってゆく。あの着陸の機長の隣に乗っていた時、空を愛する人々のほんの僅かな部分を体験させてもらったのだ。結局、機長にバイバイしか言えなかった。英語が苦手、それと頭の中がボーッとしていたから。

 というものの、シドニーという街はそれほど魅力的かというと、正直そうでもない。ニューヨークとかパリとかいうものと比べるのはなにかと思うが、都市としての売りがない。最近ぴょこり登場した都市だから、ハワイとか(祈りとか魂などと関係ない地域、)賑やか都市という類のものなのだ。といってもガイド書に載せねばならない“オペラハウス”なんてものもあるが、それは東京の歌舞伎座なんてものの方が売りになっているではないか。やっぱりシドニーの良さは自然の中にあるのだ。

 シドニーから車でちょっと・・・。というのは海岸の名前を忘れてしまったのだが、どえらく美しい断崖にひっそりと、そのわりには派手に建てられたホテルがある。まるで地中海を見渡すホテルだっ。こんなホテルは貧しい人には毒というか、時にはイイというか。ここで私は決心したのだった。気分だけハリウッドスターになろうと。そんなことなら、まあ、できる。誰にも伝えず自分の気持ちだけが満足すればOKなのだから。
 やっぱり映画スターはディナーとブレックファストが必須条件なのだ。他の人々のまえでスターになったつもりにならないと。自分の部屋にじっとしている時なんか、ただの日本人なのだ。
 晩ご飯のデザートにクレープシュゼットを注文した。黒服を着た男性が私たちの眼の前にきてクレープソースを作ってくれる。うーん、ハリウッドスターごときの成り行きだ。オレンジキュラソーに火つけて、ぼーっともやし、いろいろ気持ちをあおってくださる。なぜこれを調理するのにお客の目の前でとりおこなうのかよくわからないが、人生でもっともおいしいクレープシュゼットに巡り合ったのだ。回りを見渡すとこのホテルの宿泊客でもない方々もこのクレープを召し上がっていらっしゃる・・・ここはどうもクレープ屋としてもまわりに圧力をかけているらしい。
 そして女優としての朝ご飯だ。前日、ブレックファストはお庭でね、と予約しておいた。風が吹く。優しく海の水分をふくみ心地よく全身を撫でる。午前の日差しは風に踊らされ、パラソルの上で弾け、遊び、そしてまたひとつの光になる。メニューは普通のホテルのもの。ジュース、トースト、オムレツ等々。お味はともかく眺めのイイこと。すっかり気分はオードリー・ヘップバーンだった。
 ずい分長いことテーブルにいた。ホテルの方が“もう帰れ”と遠回しに言われたほどに居続けた。人生もっともリッチな朝ごはんだったのだ。(塚本和江記)

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2008.5.29. 蒲谷鶴彦さんのことども (II)

 日本で野鳥録音の父といえば、蒲谷鶴彦さんである。蒲谷さんの生涯が日本の野鳥録音の歴史でもある。国内は勿論、海外でも鳥にマイクを向けて踏破してきた。レコードやテープ、CDなどの著作物は枚挙にいとまがない。文化放送の『朝の小鳥』は50年以上も続いた。1人で収録・構成し、放送回数15,000回以上、稀有な長寿番組の主であった。因みにこの番組は、蒲谷さんからバトンタッチをうけた松田道生さん(野鳥研究家http://birdcafe.net/syrinx-index.htm; http://homepage2.nifty.com/t-michikusa/が続けている。
 実に、蒲谷さんが遺された野鳥録音は、不滅の文化遺産である。
完成、DVD: 日本でいちばん鳥を聴いた男 蒲谷鶴彦さんがいく
 蒲谷さんは昨年(2007年)1月15日に他界された。3月17日に開かれた「天国の蒲谷鶴彦さんと野鳥の声を聞く会」で私はスライド担当であったが、結局は役立たずであった。というのも、パソコン音痴が禍して、徹夜もどきでようやく作り上げたスライドストーリーの半分ほどしか上映できなかったのである。舞台から蒲谷さんと参会者にひたすら謝って、その日は終わった。
 スライドの後半もいつか見たいとの声があがる。“未完成”というのは、誰しも心のどこかで完成への期待の糸をひくらしい。会に参加されなかった全国の蒲谷ファンのためにも、スライドストーリーを動画風にDVDとしてまとめようということになった。作業は、スワロフスキー・オプティック社のご協力を得て、バード・フォト・アーカイブスで進めることになった。つまり、本番の失敗を取り戻すべく、私塚本がである。

 どうにも私の言うことをきかないIT機器との悪戦苦闘の末にできあがった約27分のDVDは、題して『日本でいちばん鳥を聴いた男 蒲谷鶴彦さんがいく』。蒲谷さんの生涯と業績を楽しく紹介する内容である。
 夜明けの野鳥のコーラスに始まって特に存在を主張してバックに流れる種類は、ヨタカ、ジュウイチ、ヒガラ、オオルリ(蒲谷さんが大好きだった囀りが、タイトルバックと終盤で登場)、ミソサザイ、ホオジロ、ヒクイナ、アオアシシギ、コノハズク、ツツドリ、オオハクチョウ、ヤンバルクイナ、ギンザンマシコ、ホトトギス、クロツグミなどなど。
 加えて、岸本寿男先生のご厚意でCD ”Sky & Wind”の曲、尺八とギターの音が華をそえている。
 120枚もの画像を調達するには、私の方から必要なものを名指しでご提供いただいた方をはじめ、多くの方々にご無理をお願いした。また、バード・フォト・アーカイブスの登録画像から、藤村和男、百武充、高野伸二、橘映州、小林隆成、神戸宇孝の各氏に私のも含めて14画像が「特別出演」したのである。
 蒲谷さんの奥様の久代夫人、ご長男の剛彦さんには終始お世話になったし、毎日新聞デジタルメディア局データベースセンターには特段のご配慮をいただいた。
 蒲谷さんを知る人には懐かしい思い出と追悼に、知らない方には日本を代表する野鳥録音家を知る縁として、このDVDが多少のお役にたてば望外である。制作にご協力くださった皆さん、この場を借りて重ねて「どうもありがとうございました!」
 (DVDをご希望の方は、こちらをどうぞ

 一つ書き残しておきたい。蒲谷物語の終わりに近く、ある現象が起きたことを。
 主なき椅子を中央に蒲谷スタジオがカラーからモノクロ場面に転じるとき、椅子の前と棚のオーディオ機器のスイッチあたりが2ヶ所で一瞬、ほんの一瞬光るのである。この光は、黒田長久先生作曲の「蒲谷鶴彦氏追悼歌」を日光野鳥研究会の阿部洋子さんが弾くピアノがスタートする瞬間なのだ。私には、瞬光は“心霊”現象のようなものではなかろうかと思っている。
 実はピアノ曲の頭だしをどこでキメようかと、パソコンのモニターで画像の動きをにらみながら間のとり方にさんざ頭を悩ませていた。何度も試みてのある時、ここらならどうだっとオーディオクリップを調整しピアノ音を再生したその時、ピカッと光った?・・・!
 「そうだ、そこでいいんじゃないの」背後で蒲谷さんが頷いてくださったよな、その合図だったに違いない。鳥肌立ったのを忘れることができない。
 以来、画像や他のオーディオクリップは動画ソフト上でどのくらい微調整したか数知れないが、このピアノ曲の頭だしの瞬間だけは手をつけないでいる。そのせいかあらぬか、ご覧の通り光り続けている。
 理由なく光り始めただけに、いつか消えてしまうのではないかと心のどこかで畏れつつ、実費頒布のDVDをQCサンプルチェックしてみては、あの瞬間が光るたびに私は密かな満足感を覚える。「やっぱり蒲谷さんが近くで見ていてくださるのだ」と。(塚本洋三記)

 追記:(T)は、「THE PHOTO 今月の一枚」のページ「追悼 蒲谷鶴彦さんのことども」をご参照ください。

2008.5.12.カミさんのティータイム:めったにいない鳥たちよ

 その場所に行かねば会えないものがある。珍しい性分の人間は勿論だ。たとえば、走る総武線でスーパーのポリエチレンのフクロに亀を入れ、おのが胸元にしまいこんでいる爺さま。座るなり亀をひっぱりだして、愛ある語らいにのめりこんでいる。あるいはワニ皮で作ったランドセルをしょって、毎日通学している小学生。(どちらも実存。亀の方は穏やかだが、はっきりいって、どこかブチ切れてしまったおじいさん。2度ほど会ったことがある。ワニ皮の子供は私の友人。小学生時代はとても恥ずかしかったという。うーん、そうだろう。)そこらはまたの機会に話させてもらう、ということにして今日のところは生きもの系の、その地でなければめぐり逢えない者たちの話をひとつ。

 動物、植物、昆虫などの名前の頭に、地名のついたものがある。北海道にいればエゾなんとか、沖縄にいればヤンバルだとか、マダガスカルに行けばマダガスカルなんとかだとか。そう言えば昔、カマキリとかバッタとかの種類だったと思うが、新種の標本を絵で見たことがある。従来の昆虫とならべられていた。私はそれらの絵をじっと見た。しかし同じに見える。どこが違うのかわからないほど同じなのだ。少々ひげのようなものが長いとか、脚の先にちいさな線が入っているとか、そういう類の差なのだろうが、私なんかが見物してもまったくわからない。人間の顔なんかの方が結構違うと思えるが、通ごのみの研究者には大変な騒ぎとなってしまう。

 このところ話のネタにしているロードハウアイランドには珍しい鳥が沢山いる、らしい・・・。というのは大ざっぱに話をきいているので、私はすぐに忘れてしまう。この島に上陸してからというもの、夫はすぐにロードハウクイナの事を話しだした。ヤンバルクイナやグアムクイナのように、その地で特有な鳥たちなのだ。無論彼は一度も出会っていない。
 見たい、会いたいなどと言いつつ夫はうろうろ。どこにいけばいいのだろうか、などとブツブツ。黙ったまま腰をかがめて歩いている。どうもその姿勢のほうが出会う確率がイイらしい。現地の人らしい、とみれば直ぐに聞いていた。しかし誰一人として明解な返答を返してくれる人はおらずというありさま。
 とうとう島を離れる日になってしまった。苦悶の表情をおさえるように、ホテルの庭番に小声で聞いた。
 「えっ!そんな馬鹿なっ。」彼のへにゃへにゃの声が聞こえたのだった。
 そうなのだ。このホテルの人が餌づけならぬ“音づけ”? をしていたのだった。その青年はニコニコしながら、手もとに木の棒を持ち、板をたたいた。「どわぁん、どわぁん」(これは板の音だ)と鳴ったら、すぐそばの茂みからでてきた鳥がいた。ロードハウクイナがご登場なされた訳だ。鳥は歩きまわりながら、なにかをついばんでいた。2羽で登場したのだ。探しまくっていた夫は腰がぬけていた。人間本当に腰が抜けるものだっ。
 こんなに手間暇かけ、こんなに苦悩させた鳥なのに彼らはとても地味なお姿だった。そりゃあもう、笑っちゃうほどだったのだ。茶色一色で華やぎもなく、行動もフーンと(クイナちゃん、ゴメン)言って忘れ去ってしまいそうなものであった。おまけに動きが大らかで人前でのんびりしているのでとてもめずらしい鳥とは思えない。あげくホテルの叩き板の音に誘われての登場では、希少種登場の貫録から大きくはずれたわけだ。
 めったにいない鳥たちよ、珍しい鳥よ。人間は時として残酷な生き物(そうでない人も最近増えたが)に姿を変える。どうぞ胆に、その点を重々注意して自分たちの種を守って欲しいのだ。勿論人間も静かにお手伝いさせていただくが。(塚本和江記)
2008.5.14. 50年前の千曲川の鳥
 思わぬものがふとしたことで手に入り感激を味わうことが、人生たまにはある。最近ではDVD『千曲川の鳥』がそれである。
 山階鳥類研究所で日本のモノクロ野鳥生態写真の草分け下村兼史のネガ、乾板、プリントなどの保存整理をお手伝いしていて、このDVDに遭遇した。制作者は山岸哲さん。
 「えっ、所長が8mm映画でこんなことを?!」 鳥学者が8mmをやって悪いことはなにもないのだが、とにかく意表をつかれた。さっそく1部いただいてバード・フォト・アーカイブスに登録していただいた。

 同じく野鳥少年だった私が、会ったこともない長野の山岸君と文通をはじめたころ、私は標準レンズでなんとか野鳥を撮りたいものと四苦八苦していた。山岸少年はその頃すでに脚本、演出、撮影、編集を一人でこなし映画製作していたという事実を、このDVDによって初めて知ったのだった。
 高校3年生にして“Y・S Biological”と銘打った独立プロダクションを作ったというから、そんなアイディアが浮かぶだけでも驚異なのだが、現実のものとしてしまうのであるから私とは比較にならないほど神経が図太い。
 気迫もまたスゴイ。高校の修学旅行用に貯金した金をはたいて撮影機材一式を買ってしまったのだ。ご本人に確かめてみたら、やはり修学旅行にはいかなかったという。並みの人間にできることではない。
 なんでも高校3年の冬にクランクインし、大学2年の1959年にクランクアップしたという。制作過程のすべてがオオヨシキリの囀りのごとく(ギョギョシ、仰々しい)熱気あふれる映像である。

 DVD『千曲川の鳥』には、50年前の千曲川の野鳥と河原環境とがアーカイブスされている。古色蒼然たる画像ではあるが、今では撮れない稀有な記録が再現されているのだ。
 見る人によって当然ながら見所が異なるところがまた味である。私なんかはひたすら当時の野鳥の姿に目がむく。河川管理の現場担当者は、50年前の千曲川の流量とか河原の石ころの大きさ、流量調整の杭なんかに興味を抱いたという。所長ご本人にいわせると、オールドファンには懐かしい映画『野菊の如き君なりき』(監督・木下恵介 原作・伊藤佐千夫『野菊の墓』)にでてくる橋が、なにげなくDVDに登場する。「映画化されると知ってれば、もっとしっかり撮り残しておくんだったよなぁ。」

 8mmの映写機を手にいれるのがままならない今日、せっかくの8mmフィルムが日の目を見ないで一巻の終わりになるところだが、そこをDVDに焼直し懐かしさへの満足感とともに貴重な資料としたところが山岸所長の真骨頂である。これまでバード・フォト・アーカイブスに8mmフィルムの提供もあったが、保存活用がままならないので諦めていた。山岸所長のDVD化の実践は、昔日の映像記録を動画としてプログラムに取り込んで活用できる道を拓いてくれた。覚えのある8mmフィルムをお持ちの皆さん、フィルムが劣化する前にまずDVD化してみてはいかがでしょうか。(塚本洋三記)

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2008.3.31.カミさんのティータイム: 誰もいなかった

 自然あっての旅は、そりゃあ無駄な人なんかワンサカいないにかぎる。海だ山だ人間だ、下手すればツアーのバスなど入っていたらウンザリなのだが、それはそれでおいしいものをたんと食べられるコースだったりするから、仕方ないかとも思える。ま、へれっと視線をかえれば、おばちゃんたちと蟹の脚を両手に持ち、ワイワイ騒ぐのもそれはそれなのだ。が、しかし今回のロードハウ島の旅はいささか次元が違う。静かな部分を胸いっぱいに楽しまねば自然たちに失礼にあたってしまう。

 以前にも書いたが、この島は交通手段などなく、その気になればぐるりと島一周歩いて動ける。その上人口増加を防いでいる島だ。ここで自然を楽しもうとするのはあたり前なのだが、ちょと遊ぶには静かすぎて悲しい感じになってしまったのだ。
 ホテルの方にサディスションをいただいた。先月ここで登場した海岸に行くときだった。「あそこの海岸にはバーベキュウーの設備がととのっている。準備などは当方でそろえるから、ここはひとつお楽しみにどうですか?」というようなお言葉。私どもはそりゃ魅力的お話と、ならばもう即「よろしくお願い」だったのだ。
 出がけにホテルから黒のリュックを渡された。それを背負い海岸へと向かった。一通りこの海岸で泳ぎ(寒いのにつかった)さてご飯ということになった。リュックのファスナーをあけると、おっとどっこい腰がひけた。それほどに食材の量が多かったのだ。自ら火をつけ、薪をたき、“よーし”という気分にもりあげ、肉、魚の切り身をならべたら、これはもう普通に楽しめる量の4倍ぐらいある。夫と二人、大きなため息とともに与えられた食材を生のまま、いじった。そして黙ったままあたりを見回した。このバーベキュウーセットのところにも、また海岸にも、だーれもいなかったのだ。

 誰かいないのか? ひたすら美しい海岸にわれわれだけ。夫となにを話すでもなく、アホ面をして口に運んでいた。耳にするのは波の音だけ。なんというか、これはけっこう寂しい。静かで良いなんて言葉は、時と場合を綿密にチェックすべきものだ。もし仮にこのような場所で食事を楽しむとしたなら、雑いサンドイッチのようなものを食らいつくぐらいでいいのではないか。サービスを提供する側はいままでの方法論で私たちをもてなしてくれようとしたのだが、ひたひたと悲しい結末になってしまった。

 とぼとぼとホテルに、まぁ、思い出つくりのランチをすませ、帰る。途中、空をみあげれば白い鳥が飛んでいる。5,6羽ほどのシロアジサシ。彼らは木の枝に“直接”卵を産むのだそうな。夫は説明しながらひどく嬉しそう。ふーんと聞きながら、“なぜこの鳥たちは海鳥なのに、こんな木の上に卵をうまにゃならんのだ、と漠然と考えたりしていた。だいたい巣もないのにどうやって産むの? ころりんと枝から落ちないように、卵の殻に糊のようなものでもつけているのか。あるいは両面テープでも・・・。まっ、彼らには彼らなりの習慣があるのだろう。レベルの低い疑問がわいてきたが、勉強が苦手なのでこのまま一生この疑問はしょっていくのだろう。
 もういちどシロアジサシを見た。きっと彼らとの出会いもこれが最初で最後になるのだろうなぁ、と妙に哲学的な思いをはせてみたわけだ。すると益々かれらとの出会いは重大な事件になっていったのだ。

 我に返りぐるり首を360度まわしてみた。ここにもやっぱり、誰もいなかった。しかしそれはとっても嬉しいことだったのだ。(塚本和江記)

2008.3.1. 人生初の出来ごと
 世に言う高年齢者層に属する私の齢になっても、生涯で初めて体験することが次々に起こるものである。この日栃木県奥日光への遠出は、初モノの「揃い踏み」であったのだ。

実はその日に写真を撮ったビデオカメラ一式が、まず人生初モノ。もしやお目当ての鳥がみられるかもしれない、あわよくば影でも写真に記録したいとのスケベ根性で、俄かアイディアを実行に移した。出掛ける前に急ごしらえしたのは、コンパクトデジカメ用に買い求めて放っておいたテレコンバータをビデオレンズに押し付け、数日前に食べたかまぼこの残りの板などで台にとりつけただけの一品モノである。手製の楽しみというものだ。成果は以下の通り。アナログ育ちとしては、ピントなどは気にしない、気にしない。

 雪は70cmほどもあるから、しっかりした靴と、それに防寒対策をバッチリするように。足が濡れたら地獄ですよ、との事前のメール。地獄はイヤだ。25年前に南硫黄島の鳥類調査ではいた登山靴を引っぱりだして油をくれる。こんな重い靴をはいていたのかが、年とった今の実感。それで9階の拙宅まで階段を上る俄か自主トレを、3回決行。
 「極寒対応ジャンバー」と尊称しているめったに使わないカミさんのお古を探し出す。ちと重くて窮屈だが、言っちゃいられない、ムートン製。
 お陰でマイナス10℃にときどき小雪まじりの風にも、まったくの寒さ知らず。戦場ヶ原を過ぎた湯滝で、初体験のスノーシューをはき、おぼつかない足取りで先輩の後に続く。湯川沿い、雪の森の静寂と美しさ。身も心も洗われるようだ。まったくの別世界だ。前日までの忙しさは何だったのだろう。

 冬でも凍らない湯川に、繁殖の早いカワガラスが囀り、2羽で川を上下して飛び回り浮かれたご様子。なにもこんな寒いところにいなくったって、と言いたいマガモの雌雄とコガモの雌が泳いでなにやら食べている。
 そして、なんとなんと、我がバードウォッチャー歴お初のアオシギが見つかった(写真中央やや左、対岸近くの茶色の点)。このアオシギ、昔は野外で見つけられるとは思ってもいなかったほど稀な鳥だった。ジシギの仲間ではちょっと赤茶っぽくて山間の渓流に棲むと書かれた図鑑で眺めていただけ、私の憧れの鳥。近年あちこちで見つかり、「塚本さん、まだ見たことないんですか」状態。さてはどこやらの公園でバードウォッチャーが鈴なりになって1羽のアオシギを見ていると聞いていた。私は私なりのアオシギを見るイメージで、この日この環境を待っていたのだった。そのアオシギが、目の前だ。

 手製の悲しさ、それにも可笑しさが伴う。
 カメラ一式を三脚にとりつけアオシギへ二、三歩のとたん、雪に足をとられて横転し、もがくことしばし。この時ばかりは、スノーシューが私の意思に反し勝手な動きをしてイラつく。
 気を取り直せば、おりゃ? 三脚の上のカメラ一式が、ない?!直前の私と同じ状態で雪の中にスッポリ埋まっているのを見つけ出すのに時間はいらなかった。さもあらん、前夜の強力接着剤が効いていなかったせいで無断で転がり落ちたのだった。撮影に必要な部分の雪を払いのけ、ピントもなんもない曇ったファインダーに茶色の鳥をいれ、とにかく手持ちで撮った。
 生涯初対面のアオシギを撮らずに帰られよか。ま、見つからなくったってアオシギの棲む同じ環境に我が身をおければ満足だ、などと出発前の控え目な思いはどこへやら、であった。

 昼食は、予想だにしなかった雪中大宴会。雪を踏み固め、手際よく準備された掘りごたつ風の一辺ずつに陣取る4人。おでんがグッツグツ、焼き魚、焼きハンペン、菜の花とからし菜のおひたし、焼きおにぎり、焼き笹巻き寿司などなど・・・。酒はやっぱヤカンじゃなくてお燗にしよう・・・。頭上の梢のウソたちにも、背後の湯川のカワガラスにも、わけてあげたいよな、忙しい人生の流れがとまったような至福の一時。1升びんが空になったあたりでお開きとなった。
 小雪舞う森でのケタ外れな3時間におよぶ豪華酒席、人生最初にして最後にはしたくないものだ。

 帰路、何十年振りかの華厳の瀧を見に車をまわしていただく。冬の瀧は、これも初モノだったので、一見したかった。私が東京にいて東京タワーに上ったことがないのと同じで、華厳の瀧を見たのはいつのことだったかなぁ、あら冬は初めてかしら、とは地元の弁。完全凍結にはならないまでも、流れ落ちる部分の瀧がよけいに寒そうに思えた。吹き上げる風の冷たさはハンパでない。早々にいろは坂を下った。

 そうです、人生この年に至ってこんな思いもよらない日が味わえるなんて。同行してくださったバードウォッチャー仲間のお三方に感謝、感謝です。(塚本洋三記)

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2008.2.26.カミさんのティータイム海も魚も美しい

 はるか彼方まで遠浅の海岸線がつづき・・・なんて文字にすると、どうにもありきたりの、そこらの旅行会社がそこらの人を誘うひどくつまらない広告のていをなしてくる。これで海のつまらない写真でものせれば、完璧に日曜版の広告になりはてるな。そういう事を考えてしまうほど旅行の海の写真はピンからキリまでだ。シドニーの沖に位地するここロードハウ島をかこむ海は、一体どのようにお知らせしたらよいのだろう。やっぱり、言葉で言いつくせない美しさ、だったのだ。

 “フィシュフィーディング”観光絵地図に書いてある。無論海岸のところだ。魚に餌をまく? あるいはその海岸のあたりをフェシュフィーディングと呼ぶのであろうか。ホテルの人に聞いてみた。昔の出来ごとのせいか、オーストラリア英語のせいか細かい話はわすれたが、ともかく行ってみることにした。ちょうど海岸でのバーベキューをリクエストしていたので、リュックにいっぱいの食べ物を渡され、そこらで魚の餌まきをするように、などと教えられたのだ。
 バーベキュー海岸に着いた。人っ子一人いない。フィッシュフィーディングの看板もなにもない。
 海に入っていった。あっというまに莫大な魚たちに取り囲まれた。餌をくれ?サメとかじゃないんだから視線が合うなんていうのはちょっと変だとは思うけど、それほどに沢山の魚(種類はわからないが、熱帯魚風なそんな普通の魚たち)は、ちっぽけな私の2本の脚の間をくぐったり、はね回ったりして、こちらはバランスをくずさずにいられない。彼らは脚をつつく。軽い衝撃。おっとと。この魚たちは私のすね毛をつついている。
 そうだ、この感覚、今思い起こせばあったのだ。皆さんは毛脛の処理をなさったことがあるだろうか? 大きな声で言いたくないが、私はある。少々毛深めだった私は、エステの永久脱毛の広告に誘われ、決心し行ったのである。その時の毛穴をいじる感じを思い出した。永久脱毛のほうが痛みがあったが、こう、肌が感じる基本的理念というか、なにかがそっくりなのだ。魚たちにツンツンされた方が昔のできごとだったので、エステサロンで転がりながら思いついたのだが、これはもう感覚的には“そっくり”。(毛脛処理ももう何年も前のことではあるが)毛脛のぷちぷちが動きだし、2本の脚が大量の魚たちの餌食となっていってしまう・・・かも、なのだ。
 私はあわてた。

 海岸にあがり水着に着替えた。この水着はオーストラリアに入ってから買ったものだ。前みごろの布と後ろみごろの布が、脇に3本の紐でくくりつけられている。要するにボディの両サイドは紐が渡してあるだけのものだ。ぱっと見には少々Hな水着。しかし店で私のボディに丁度いい大きさのものを選んでもらおうとリクエストしたら、この水着をだしてくれた。ジュニア用なんだそうな。ずいぶん過激な感じなんて思ってみたが、ジュニアがそんなにH系水着を着るわけもなかろうに、と思って購入した。曰く因縁つきの水着なのだ。
 このジュニア用H水着、お魚たちには嫌われた。私が餌をまかないせいか、あるいは水着姿がお気にめさなかったせいか、お魚たちは、みな逃げた。
 海中はひゃっこい。日本と季節は逆になっている訳だから、行った季節は4月下旬で、海につかりながら考えた。うーん、日本なら10月下旬になる訳で、これは寒い。“おっと、まずった”と叫びながら海から上がった。

 後年「あの水着は?」夫に聞かれ、お魚たちよりずーっと心優しき態度だとは思うが、かくかく云々で、と話ずらいのは、どこにしまったか思い出せないせいかなぁ。困った水着だ。

 あまりに海が綺麗だったから、すべて良し。こまかい事はすべからくどうでも良し。(塚本和江)

2008.2.16.オオヒシクイを見た日に

 茨城県霞ヶ浦にほど近い稲敷市、稲波(イナミ)干拓をわたる風は、すこぶる冷たい。抜けるような青空。広々した冬枯れ色の田んぼに、同じように目立たない褐色の一群。フィールドスコープを覗くまでもない。ここは関東唯一のオオヒシクイの越冬地。なぜか最近3羽増えて66羽いるという。寒い寒いとついぜいたくを言いながら、雁を脅かすこともなくゆっくりと見せてもらった。もう少し近くから見られると言うことは無いのだが、これでも近い方だそうな。人間、欲をこいてはいけない。

 オオヒシクイがオオヒシクイなら、人も人、久々のフィールドでの一日に――
 地元「江戸崎雁の郷友の会」の茂木光雄会長はじめ事務局の方々が、私がまだ寝ていた早朝から観察舎に詰めておられたという。初対面のご挨拶をかわす。昨年、秋篠宮殿下が見学にこられたこともあって、一般の興味関心も高まったようだ。なるほど見物客が後を絶たない。
 近くの永国の名刹大聖寺さんから、熱心な鳥見人、小林隆成ご住職が待ち受けてくださる。エルザ自然保護の会会長の藤原英司先生のお元気なお姿が加わった。ややあってロシアっぽい人がいると思ったら、なんと雁の研究で著名なお名前は先刻承知のゲラシモフ博士父子であった。とは、仙台の「雁の里親友の会」の池内俊雄さんが紹介してくださってそれと分かったのであった。
 期せずして鳥仲間とのフィールドでの出会い。これもバードウォッチングの楽しみというもの。

 とりわけての収穫は、池内さんから教えていただいた「菱喰い」の事実。ヒシクイが菱の実を喰うのでヒシクイと呼ばれるのは、私がバードウォッチングを始めた50年ほど昔に教わっていた。どうしてあの針のように尖ったトゲを持つ菱の実を食べることができるのか、が謎であった。実を手に取ってみると、トゲの先が目に見えないほど小さな鋭いカギになっている。菱だって食べられたくはない、自衛策だ。これを本当にヒシクイは食べるのか?
 答えは拍子抜けするほど簡単であった。そのまま食べるのである。菱の実を口にくわえたままコロコロまわしている内にトゲがとれ、硬い実を丸呑みにするのだと。信じられないとの私を察知したか、池内さんが見せてくれたのは、開けた嘴に菱の実がみえる写真。百聞は一見! 年来の疑問に即納得の解答であった。

 バードウォッチング一転して、大聖寺の本堂大聖殿を拝観する機会にめぐまれた。華麗にして荘厳なる本堂内陣の佇まい。見上げる欄間に、弘法大師の一代記が木彫で語られる。目を奪われた。間口11間に、774年の大師ご誕生から835年の入定を果たされるまでの生涯を、総楠造りの八場面の展開。富山県井波(イナミ)町の南部白雲師の力作。前面、天地、左右に張り出した一代記の浮彫りは、欄間彫刻の概念を覆すという。制作指導された一徹な小林ご住職直々のご説明であるのが、さらに迫力であった。

 仏心はどこへやら、カメラマンの目線で私の関心を引いたのは、八場面の中でも障子越しの光に浮かぶ大師誕生の図。思わずシャッターを切った。考えるまでもなく無断撮影(後日ご了解をいただいて、バチの当たるのを免れた)。とくとご覧あれ。

 稲敷市浮島湿原付近へ取って返してバードウォッチングの続き。水面が淡く夕日の映える蓮田に、長い嘴を垂直に水中につっこんで餌をとるオオハシシギが6羽。日中の強風もやみ、夕暮れる音が聞こえてきそうな静けさが漂う。
 どんどん暮れゆく霞ヶ浦。葦原に塒をとるチュウヒを待つ。コチョウゲンボウが3羽、同時にスコープの視野にはいる。これは、稀な眺め。ほとんど暮れるころ、待ってました、ハイイロチュウヒの雄の登場でその日を締めくくった。
 まだあった。帰路、どっぷり暮れた稲波干拓でオリオンの三ツ星。ゴマ粒をまいたような鴨の大群が蒼黒の空にシルエットで流れる。幻想の世界だ。
 満足、大満足。

 それやこれやの命の洗濯のような一日であった。(塚本洋三記)

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2008.1.31.カミさんのティータイム空から鳥が降ってきた

 総合NHKではなく、通ごのみの、教育テレビ3チャンネルのTV欄でやっと紹介されるほどの小さな島がある。シドニーから小型飛行機で2時間弱の道のり。ここはロードハウアイランド。
 世界地図を広げれば大きな太平洋のオーストラリアの脇に、鉛筆で鼻くそを書いたくらいの大きさだ。しかしこの島は偉大なのだ。私がおとずれた時、今から20年以上も前になるが、人口は200人ほど(だったと思う)。それを上限として人は移住できない。たとえば5人おさらばすれば、申込順に新たに5人住める。減った分だけ人を増やす。そのようにして人口爆発を防いでいる。また、宿泊施設があるがその数以上の観光客は受け入れないので、人口に関してびっちりとした管理がなされている。(私が行ったときは確かホテルが1件とか2件のころ。)そんなやこんなで、ひときわジミーな島を想像なされるかもしれない。地味な島は観光地的に地味なわけであって、自然が守られているという点からこの島をみれば、それは目をむくほどに派手で美しい島なのである。
 この島ははやばやと1982年に世界遺産に登録された。電車がない。路線バスもない。生活様式の便利なものがなにもない。しかしこの島で生きてみようとしている人は、本土オーストラリアのお金持ちが“お金は出す、だから人生最後の時はゆっくりさせてほしい”と言う方々ばかりなのだ。島内で出会ったお年寄りはみんな、俗に言う“いい方”ばかりで自然派的世捨て人であった。
 どこかに行こうと思ったら、ホテルの人に声をかけてみるのがよろしい。あっというまにホテルの車で送ってくれる。しかし一つ注意を。その時点で帰りの迎えの約束をしなければひどい目にあう。二こぶ駱駝のような山のほかは、頑張ればどこにでも歩いて行ける島の中だが、いったらそれまでよ、てな訳である。携帯電話なんかない時代。アウトドアのおいしいとこ取りだけの私には、けっこうしんどい部分もあったりしたわけだ。遠いと思えるところはやっぱり遠かった・・・のだ。

 時刻は夕方。島のあちこちから“おーい、おいら野生の魂は生きているぞ”の熱きお誘いがわきいずってくる。だいたいの鳥は、夕方ねぐらに戻ってくる。そこを狙って私ら人間はこそっと見物にでかけるのだ。
 その日の夕方はジャングルに行った。そこはミズナギドリが巣をつくっているところなんだそうな。無論探検ツアーなどない。相棒の夫と抜き足差し足、ジリジリと入っていく。
 巣穴がぼこぼこある地面にしゃがみ込み、暗がりをうかがう。すると大きめの、カラスをひとまわり小さくしたようなサイズの鳥が空からふってきた。バサバサ音を立てながら、不器用に落ちてきたのだ。彼らにとっては落ちたつもりではなく、それは日々普通に行われる着地だったのだろう。目の前のこまった鳥は(別にちっとも恥ずかしくないのかもしれないが)なんとも情けなそうにして、そこらをのそのそ這うように歩く。着地が上手くない鳥はそりゃあいるが、とりあえず鳥だ。地面に鳥として着陸する絵しか頭になかった私には、その悲しくも、せつなくも、はてまた、いたましくもあるミズナギドリたちに、そこはかとない愛を感じてしまったほどだ。木の間から覗き見していた私は、結局しゃしゃり出て鳥のそばでしゃがみ込んでいた。

――このジャングルで巡り合った鳥は“アカアシミズナギドリ”。かれらはこのロードハウアイランドでも繁殖のためにだけ島にいて、繁殖期が過ぎると洋上生活者だ。赤道をこえて北上していく。日本近海でも見られ、太平洋を北へぐるっとまわってまた南半球の繁殖地にもどっていくという。ミズナギドリたちはなんて長い距離を飛ばなくてはならないのだろう。いろいろな行動パターンの鳥を思い描くに、結局いつもの疑問というか、感想で今日の日が終わった。はてしない長旅だね。――(塚本和江記)

2008.1.31. 哲学するスズメ

 秋口に佐渡の鳥友からどかっと届けられた一箱の柿が熟し、寒い日ベランダにくるスズメたちにもご馳走となっている。
 我がアパートは隅田川っぷちの9階、眺めが良い。大川の川面と川幅いっぱいの空間を我が物にする。ユリカモメやセグロカモメが飛び交って、いながらにしてバードウォッチング気分。時折り上り下りする船をぼんやり見やる。対岸の両国国技館からは、相撲がかかるとやぐら太鼓がナマで響いてくる。都会に住む私たちにとって、そんなひとときは心に積む宝のようだ。
 冬のいまごろは部屋の中から眺める。狭いベランダをさらに狭くしている10数鉢の鉢植えが、まず目の前だ。鉢の間に柿かミカンかリンゴ。お客はもっぱらスズメかヒヨドリ。それもいつもくるとは限らないので、姿を見せるとつい仕事の手を休める。スズメたちがmax.5−6羽もくると、鳴かなくても賑やかだ。動作がなんとも可愛い。

 正月に、そんなお客を相手にグラスを傾けていたら、1羽のスズメちゃんの動作が怪しい。寝る前に出した石油ストーブの上にチョコンと座している。それまでそこに止まったことなどなかったのだ。火がついていたら即焼き鳥だろうに。心なしかふくらんでいる。ま、外は寒いからなぁ。さらにおやっと気づいたのは、そのままじっとして動かないこと。ストーブに止まってもよいが、たいがいはすぐ鉢に移ったりして一ヶ所にじっとしていることはなかろうに。大きく見える頭だけ思い出したようにちょっとかしげる。そのしぐさがまた可愛い。眠たそうでも目を閉じもせず、どうも空を凝視している。
 「哲学している」風であった。我が家では、鳥がフト活動をやめ考えこんでしまっている状態を「哲学してる」といって、邪魔してはいけない、そっと見守るのである。ヒヨドリはいつだったか哲学していたが、スズメは初めてである。
 デジカメを取り出してコンバーターをつける間も、じっとしている。デジカメは好きになれないが、はい、実は私もコンパクトデジカメだが持っているのです(とっても便利ですね)。それで、スイッチONしてファインダーを覗き、シャッターを押す瞬間に飛んでいってしまうのがままある図式だが、どうしたことかじっとしている。数枚撮って遊んでもらった。新年は3日の初撮りであった。あいにくお酒のせいか、暮れの窓ガラス拭きをサボったせいか、はたまたピントはカメラにお任せと安心してるせいか、いささかピントがきていない。それも、ま、いいっか。
 こうして数分はじっとしていたスズメちゃんは、なんのきっかけもなしにふいと飛び降りた。なにごともなかったように柿を食べ、仲間といつものように活発に過ごしだした。これって、どうなってるんだろう。やはり「哲学していた」ととるほかあるまい。(塚本洋三記)

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